各町の歴史と見所

 今回追加した68の町について、歴史・市壁・塔・見所・略図を説明します。

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今回追加分68の町の総合ランキング順の総括表

  前回2019.12に、それまでに調査した市壁のある町757を集計しましたが、その後に
 Thomas Biller著「中世の都市防御」Die Mittelalterlichen Stadtbefestingungenを
 ドイツの娘から送られるなど、まだドイツには市壁のある町がある事が分かり、当面
 68の町を追加して2020.12に整理し直し、既存の案内書とは異なり市壁に重点を置いた
 「貴重な町」を選定しました。ぜひ訪れて頂き町の雰囲気を満喫頂きたいと存じます。

  追加分は、拾い残しですから全般的にやや小ぶりですが、思わぬ大物も在りました。
 総合得点順に総括表を示します。

  総合得点は、市壁延長・市壁残存率・門塔の数・見所の4要素から算出しました。
 総合得点の変換集計の詳細は、[こちら]を参照願います。

 下記総括表の中の数字は、総合得点です。
 下記総括表の「町の名前」をクリックすると、その町の歴史・市壁・門や塔・見所・写真・
 略図についての説明が見られます。

 

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1414Fuerstenwerder(BR)    
1313Dausenau(RP)    
1212StadtBlankenberg(NW)   
1111Freyburg(SA)    
1010Hoechst(HE) 
 99Stade(NS) 9Goetzenheim(HE) 9Braubach(RP) 9Holb(BW) 
 99Siegen(BW) 9Wertheim(BW) 
 88Stassfurt(SA) 8Saarlouis(SL) 8Wiesloh(BW)
 77Uelzen(NS) 7Bedburg(NW) 7Bergheim(NW) 7Hattingen(NW)
 77Lechenich(NW) 7BadKreuznach(RP) 7Backnang(BW) 7Hilsbach(BW)
 66Senftenberg(BR) 6Neustadt R(NS) 6Stadthagen(NS) 6BurgSteinfurt(NW) 
 66Werl(NW) 6Alken(RP) 6Engers(RP) 6Germersheim(RP) 
 66Eberbach(BW) 6Nagold(BW) 6Waldkirch(BW) 6Hof(BY) 
 55Fuerstenwalde(BR) 5Rathenow(BR) 5Buxtehude(NS) 5Fuerstenau(NS) 
 55Leer(NS) 5Nienburg(NS) 5Attendorn(NW) 5Dinslaken(NW) 
 55Dillenburg(HE) 5Floerheim(HE) 5Ruesselsheim(HE) 5Geislingen(BW) 
 55Groetzingen(BW) 5Winnenden(BW) 5Trauenstein(BY)  
 44Glsusheim(S) 4Werdau(S) 4Remda(TH) 4Rudeolstadt(TH) 
 44Oldenburg(NS) 4Emmerich(NW) 4Kamen(NW) 4Luedenschrid(NW) 
 44Mettmann(NW) 4Werne(NW) 4Wippererfuerth(NW) 4Langen(HE) 
 44IderOberstein(RP) 4Kaiserslauten(RP) 4St.Wendel(SL) 4Heidenheim(BW) 
 33Allendorf(NW) 3Warstein(NW) 3Bueraberg(HE)  
 

上記表中の「町名」をクリックすると、その町の歴史・市壁・門や塔・見所・略図
  の説明内容が閲覧できます。

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1.フュルステンヴァルデ Fuerstenwalde

ブランデンブルク州 <BR> 人口30千人

1.歴史

 1225 東方拡張の一環として、スプレー川舟運の終点に積替と倉庫の町を設立、
 1348 ルードヴィッヒ・フュルステンヴァルデは町を征服して、古い特権を確認した、
 1385 皇帝の承認を得て、ブランデンブルク大聖堂都市となり司教が200年間支配、
 1446 フス派の放火の後 市庁舎・大聖堂の再建、 1557 宗教改革の導入、
 1613.1625.1656 ペストで大学転入、1624 市庁舎の監視塔追加と要塞の更新、
 1668 運河の開通で積替は不要に、1837 シュプレーミューレンの建設で荷動が増えた、
 19c 産業の立地で工業都市となった、1945 2次大戦で市街地は大被害。

2.市壁  120m 0.09

  15cの市壁は、1624に更新され荒石積の市壁は高さ4mとなった。市壁が残っ
 ているのは西と南西である。

3.塔  0門1塔

  市門は19cまでに取り壊された。北西部に防衛塔が唯一残る。
 青塔 Brau turm(15c)3階建レンガ造の円塔で、頭頂部には胸壁と円錐
    尖塔がある。

4.見所  C

  旧市街地には17-18cの織工が住んだバロックの狭い木骨造の家が残る。
 旧市庁舎 Altes Rathaus(1500) 2階建レンガ造ゴシックの市庁舎に、
    1624に高い各塔が追加された。1945に破壊されたが再建され、今は
    醸造博物館を収容している。
 聖マーチン大聖堂 Ev.Dom St.Martin (1446-75) レプス旧教区の主教会と
    して大聖堂は建てられ、1945崩壊し1995に新しく後期ゴシックのレンガ造
    の聖堂が建てられ、後にバロックの塔が加えられた。
    内部には、1517の高さ12.5mの後期ゴシックの聖秘跡が収められている。
 福音ルーテル教会 Ev.Lutherische Kirche (1883) 塔のないネオゴシックの
    レンガ造の建物で、牧師館と一体で建てられた。二次大戦を生き延びた
    唯一の教会である。
 司教宮殿 Bischofs Schloss (14c) 司教の宮殿としてレプス司教が
    が建て、16cの火事の後に城のような部分のみ残され、司教城とも呼ば
    れた。
 狩猟宮殿 Jagdschloss (1700) フリードリッヒ3世は簡素なバロックの宮殿を
    建てた。1750フリードリッヒ2世は、軍用穀倉に改造し、1993からは城の倉庫
    となった。
 旧醸造所 Ehem.Brauerei (1777) ルードヴィッヒモート家が2階建の醸造所と
    して建て、木造の中庭は注目に値する。子孫が博物館とビアガーデンレストラン
    を経営している。1891.1905の補修・改造で今の姿になった。
 市博物館 Stadt Museum 古代からの寝具の歴史と欧州最大の寝具コレクション。
    ドーム広場と町の歴史の展示。

5.町の略図

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2.フュルステンヴェルダー Fuerstenwerder

ブランデンブルク州 Nordwestuckermark <BR> 人口0.8千人

1.歴史

 1244 水車の再建、  13c 町の憲章を受け周壁と丘の上の教会を建設、
 1319 ブランデンブルク国境の町として発展、 1817 長期の経済停滞と人口減、
 1847 プロセンのブランデンブルク州の駅ポスト、 1952-93 プレンツラウ市区の一部、
 1993 ブランデンブルク州のアーカーマルク地区へ、 2001 Nordwestuckermarkへ統合。

2.市壁  980m 0.84

  13cの市壁は、野石で築かれ延長約1.2kmであった。市壁の改修は1996-
  2000に行われ、殆どの部分が残されている。

3.塔  2門17塔

  市門は中世の3門の内2門が、古い時代の門であるから壁に穴が開けられ
  た状態の門で残され、防衛塔は殆どが角塔で17基が切株を含め残っている。
 Woldegker Tor 北西(13c)Prenzlauer Tor 東 1879解体。
 Berliner Tor 南(13c)1996-99通路からの石積が積み直された。

4.見所  D

  14c以降は衰退したため目立様な建物は建てられていない。
 フュルステンウェーダー教会 Kirche Fuestenwerder (13c中) 野石造の横長
    長方形の塔を備えた単通路の建物で、1740に焼失し塔は1877にスレートランタン
    で再建され、農民により身廊も1792-93に修復された。説教壇は1752、
    オルガンは1877に備えられた。1982-83に建物全体の修復が行われた。
 フュルステンウェーダーの4風車 4 Windmuhlen (16c) 1930までに三つは解体
    され、最後の風車も切株となりアパートとして使われている。
 ドッホヴェダー水車 Dochwer Muehle (1244) 東4kmに地形を利用して
    水車が稼働された。古い木組の建物は1984所有者によって改修され、
    古い農業機械を展示している。1895からは水蒸気タービン、次にディーゼル
    エンジンと動力は進化した。

5.町の略図

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3.ラッセノウ Rathenow 

ブランデンブルク州 <BR> 人口24千人

1.歴史

 12c スラブ砦の城壁と厩舎があった、 1157 古い市壁の言及、
 1216 ブランデンブルク司教はこの村を所有、 1220 ロマネスクの教会が建てられた、
 1295 オットー4世は都市権を付与した、 1648 30年戦争終了時に住民は40人、
 1674 スエーデンの侵攻、1675 ブランデンブルク軍の勝利、1801 眼鏡レンズ工場、
 19c後半-1920 レンガ工場開設、1816 プロイセンに属した、1828 地区事務所、
 1845 ソ連軍との戦いで町は75%破壊した。

2.市壁  260m 0.14

  13cの市壁は、レンガ造で島にある旧市街地を取り巻いていたが、戦乱と
  ソ連軍の攻撃で8割が壊された。残るのは、東Am Schleusen Kaualに160m
  と南西Vor denMuehlenTorに100mである。

3.塔  0門0塔

  見当たらない。

4.見所  D

  旧市街地の南側KirchPlatzには、二次大戦を生き延びて、2010年代に
  修復された木骨造の家が残る。二次大戦で大多数の家屋が破壊され、その
  後の建物が旧市街を支配している。
 福音聖マリエン教会 Ev.St.Marien Andoreas Kirche (13c) 後期ロマネスク
    で建てられ、15cと16cにレンガ造3廊式のホ-ル教会に改築された。1945に
    大被害を受けたが、何とか補修された。13cからの翼祭壇がある。

5.町の略図

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4.ゼンフテンベルク Senftenberg 

ブランデンブルク州 <BR> 人口24千人

1.歴史

 11c ドイツ東方拡張の一環として騎士の城と共に集落を開設、
 1279 シュベリンのオットーは村を買収してドリブルク修道院に売却、
 1304 ブランデンブルクが所有、1368 ボヘミヤが所有、1448 ヴュテンブルクへ売却、
 1509 教会を残し全焼、1512.1525.1530.1641.1670.1717 大火事が発生、
 1539 宗教改革の導入、1567.1630 疫病で人口半減、 1874 腸チフス流行、
 17c 30年戦争・北方戦争・7年戦争で町は衰退、1815 ウイーン会議でプロイセンへ、
 1860-1920 褐炭採掘で町は活況。

2.市壁  20m 0.01

  中世ルネッサンスの円形市壁は、1448に近代的な要塞に改築された。要塞に
  は市壁・城・武器庫・砲台・火薬庫を備えた。1642ザクセン選帝侯の命令で市門
  と市壁の一部は取り壊された。市壁らしき物が残るのは北西に20mのみ。

3.塔  0門1塔

  市門は、東西に2門KreuzTorとSchlossTorと呼ばれたが1848と1642に取
  壊された。市壁の南に2西に1の半円塔があった。火薬塔が城跡にある。
 火薬塔 PulverTurm in Burg Senftenberg (13c) 城の中にある2階
    建円錐屋根の円塔。

4.見所  C

 市庁舎 Rathaus (1512) 初めの市庁舎は、1641と1670の火事で壊れ、
     1717に新しく建てられたがこれも壊されて小さな飾り気のない建物
     となった。1929の市庁舎は屋根が急傾斜72.9度であった。1998大き
     な市庁舎を南の緑地に建て、ブランデンブルク建築賞が与えられた。
 聖ピーター・ポール教会 St.Peter-Paul-Kirche (13c) マルクトの北東側に
     建てられ、15cに北東部に正方形の聖域が追加され、16cに現在の姿
     が完成した。1509.1641.1717の火災で主塔も身廊も被災し、毎回選
     帝侯の免税と市民の寄付で再建された。17c・18cにも改修され、1892
     には塔の低いサドル屋根の上に時計の付いた尖塔を付けて、高さは60m
     となった。1945の戦闘で塔のフードや身廊の屋根も破損し、塔はフード
     のみで1951-58に再建された。教会長44m幅18m身廊高14m塔高28m。
 聖ピーターとポール教会 St.Peter und Paul Kirche (1924) 褐炭採掘に
     伴いキリスト教労働者が増加し、1893暫定教会、1898教会建設となった
     がたちまち狭くなり、1924には横通路を含んで拡張された。1945に
     被災し1954-57に再建された。
 ヴェンディッシュ教会 Wendische Kirche (1540) 宗教改革の後にソルブ語
     の説教を行うために建てられた。火事で何回も損傷し改修され、今
     建物は1749に建築、1834老朽化で使用を停止し1881に修復した。
     1993老朽化からの取り壊しを免れ、修復して2003社会文化センター、
     2010ソルブ語説教の復活。
 アドラー薬局 Adler Apothke (1902) マルクトの北側に立つ圧倒的な建物
     で、地階3アーチ上階7窓列の4階建ての大きな建物で、前面には蛇や鷲
     などの豊かな装飾で飾られている。アドラー薬局は1680からこの町に
     存在している。
 ノイマルクト Neu Markt (2004) 旧市街地の外側に設けられた大きな駐車
    場で、人工河川・遊技場・彫刻のある噴水などが整備されている。

5.町の略図

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5.フレイベルク Freyburg 

ザクセンアンハルト州 Unstrut<SA> 人口5千人

1.歴史

 1090 ヌシャーテルはロマネスクの集落を構築、1203 フライブルクがチューリンゲンの町を設置、
 1261 都市権の授与、1485 ライプティッヒ分割によりザクセンのアルバーティン公爵へ、
 1447 ザクセン選帝侯が所有、    1515.1551.1608.1678 大火災の発生、
17c 30年戦争などで町はほぼ壊滅、 1806 チューリンゲンとしてザクセン王国へ、
 1816 ウイーン会議でプロイセン王国に属した、    1856スパーリングワインを生産、
 1539 宗教改革の導入、1567.1630 疫病で人口半減、 1874 腸チフス流行、
 17c 30年戦争・北方戦争・7年戦争で町は衰退、1815 ウイーン会議でプロイセンへ、
 1945 地方の中心であった、2005 合併でUnstrutに含まれた。

2.市壁  640m 0.53

  13cの市街地は、一辺300mの正方形・計1.2kmの市壁と3門12防衛円塔で
  守られた。各門の前には新しい集落が発生した。

3.塔  1門7塔

   市門は、西南の塔門EckstaedterTor(1385)角塔のみが残る。
  円形・半円形の防衛塔が切株を含め7基ある。

4.見所  C

   南東6kmの山頂にヌシャーテルのイエンブルク宮殿が見える。
 市庁舎 Rathaus (1425) マルクト広場の東南の角の東に高基礎で屋外階
     段と鐘楼のある2階建の建物で、1478に暖房が会議室に付けられた。
      1551の火事で被災し、1561に再建された。1654落雷があり、1685-
     88に隣に別の建物で再建された。当初から残ったのはロマネスクの地下室
     のみである。1833改修、1992-95東へ拡張。
 聖マリエン教会 St.Marien Kirche (13c) 石灰岩で建てられ、西側に
     ナウムベルク大聖堂に倣ってロマネスクの四角台の上の八角形の双塔があり、
     東側にクロッシング塔のヘルメットがある。15cの初めにロマネスクの後陣は今のゴ
     シックになった。15cの終わりには、ホール型ゴシックの身廊に置換られた。
 ヌシャーテルのノイエンブルク宮殿 Schloss Neuenburg (1090) 東南6kmの山頂に
     石灰岩の高さ8mの環状壁を築き、王宮・居住棟・中庭・台所を囲んだ。
     東には堀と円塔で守った。12cには東内壁の南北に八角形の塔を追加
     して強大な城となった。1440ザクセン公は居住機能を高めた。1485ライプ
     ティヒの分裂でウィッテン家が住んだ。16cザクセンは狩猟宮殿に用途を変え、
     1815プロイセンの所有となった。1934学校の開設、1935博物館の設置、
     1997からは州宮殿・城財団が管理している。
 フリードリッヒ・ルードヴィッヒヤーン博物館 Friedrich・Ludwich・Jahn Museum (1838)
     初めは、住宅として建てられ、1924ユースホステルとなり、1936博物館とな
     り、市民体育の発展に寄与したヤーンの生涯と業績を、4展示コーナーで表
     現している。
 ロットカプチェン・スパークワイン醸造所 Rotkappchen-Saktkellerei (19c)
     古くからのスパーリングワインの歴史的な生産所。
     存在している。

5.町の略図

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6.ストラスフート Stafurt 

ザクセンアンハルト州 <SA> 人口25千人

1.歴史

  806 シャールマーニュ皇帝が軍文書で初言及、1180 市壁内の集落に都市権、
 1277まで アンファルト伯が町を所有、 1277 ブランデンブルク大司教区に落ちた、
 1427-63 二重壁・防衛塔付の市壁を構築、   17c 戦乱でまちは荒廃、
1680 マグデブルクのブランデンブルク・プロイセン公国直属、1815-1947 ザクセン州へ、
 1852 塩鉱山を開設、    1882 ソーダ化学工場の開設。

2.市壁  460m 0.27

  12cの市壁は、1180都市権を授与され、1427-67拡張され二重壁・防衛塔
  ・ロンデルで強化された。1450市壁内にスパイ塔とフクロウ塔が建てられた。
  戦乱で壊されては補修された。市壁が残るのは東と南であり、内壁も南に
  100m残っている。

3.塔  0門4塔

   市門は見当たらない。市壁の西南の隅に直径10mの大きなロンデルが角塔と
  共に残る。その他半円塔が3基市壁と共に残る。西南にフクロウ塔(15c)4階建
  四角錐屋根の角塔がったが、1971に解体された。

4.見所  C

元市庁舎 Ehem.Rathaus (1554) 石造3階建ルネッサンスの市庁舎は1824に
     破壊され、代わりの建物を購入して拡張して移転した。
      古い建物は、1966-67に解体された。
 聖ヨハネ教会 St.Johannes Kirche (1876) 南側の市壁の外800mにあり
     ロマネスクのプロテスタント教会が、塔高40.5mで建てられた、
 暫定教会 Interims Kirche (1906-96) 南側の市壁の外にあり、聖ヨハネス
     教会が解体された間に暫定的に使われた。
 郵便局 Postamt (1899) 新たに建設され帝国郵便局として開局した。
 高齢者ケアセンター St.Johanis Kapalle (15c) 後期ゴシックの祭壇は、礼拝堂
     に奉られている。今は高齢者ケアセンターである。
 中央通路の家 MittelgangHaus (17c) 古典主義の荒石石膏造の2階建の
     大きな建物は、使用人のための宿泊設備であった。
 鷲薬局 Adler Apotheke (1550) 地階石積上階木組の建物で、1991まで
     薬局として使われた。前面の大切妻には108のトラスがある。
 市と鉱業の博物館 Stadt und Bergbau Museum (1630) ザルツ伯爵の邸宅に開
     設され、丸天井の地下室もある。中左側には記念物のギャラリィがあり、
     大きな機械や列車の屋外展示を含め、町と鉱業の歴史を展示している。

5.町の略図

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7.グラウシャウ Glauchau 

ザクセン州 <S> 人口22千人

1.歴史

 1170 ミュニンブルク家城を建てて守った、13c アッパータウンの誕生、
 1479 市長の選出・グラッシャウ家が支配、1542 宗教改革導入、手工業の発展、
 1546 -1663 魔女裁判に3人がかけられた、 1712 大火災で多くが焼失、
1680 マグデブルクのブランデンブルク・プロイセン公国直属、1815-1947 ザクセン州へ、
 19c 産業革命で繊維産業が興った、1945 城は砲撃で損傷。

2.市壁  75m 0.06

  中世の市壁の位置は判然としないが、文化財リストには、マルクト11裏側5mと
  ニコライ通2に70mが示されている。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

市庁舎 Rathaus (1819) 以前の建物が1813に焼失して、1819に再建さ
     れた。マンサード屋根に厚い塔のバロックの建物である。鍾楼には13のマイセン
     磁器のカリオンがある。1922-23東隣の家を取込んで拡張再設計された。
 福音市教会聖ゲオルゲン Ev.Stadtkirche St.Georgen (1726-27) 1712の
     火災の後に、ゴシックの前身を含めて長方形の漆喰の建物と角型の強力
     な西塔で再建された。内装はバロックで飾られ、1510の祭壇画・1728砂
     岩の祭壇・1729バロック聖杯型洗礼盤・バロック説教壇がある。2005改修。
 福音地方監督所 Ev.Superintendentur (1721) 2階建マンサード屋根の簡
     素なバロックの建物。
 後グラッシャル城 Burg Hinter Glauchau (1170-80) ムルデ渓谷の右端の岩
     棚の上にシェーンブルン家の城を築いた。1470-85に後期ゴシックの城に改築
     し、1527-34にルネッサンス様式の住宅宮殿となった。
 ホルト・グラッシャル宮殿 Schloss ForderGlauchau (1527-34) 後グラッシャル城の
     堀を挟んだ東前にルネッサンスの宮殿を築いて、ダブルロックシステムとした。堀の
     橋を渡って宮殿の中庭に出る。更に堀の橋を渡って城に入る。今は、
     地元の歴史博物館に加えて、美術コレクション・図書館・ギャラリィなどもある。
 ビスマルク塔 MittelgangHaus (1908) 東南800mの山中に、GDR時代に一次
     大戦の記念もかね見晴塔兼給水塔を建てた。今は石の落下で閉鎖中。
 住宅 Wohnhaus (18c) シンプルなバロックの3階建の建物で地下室もある。

5.町の略図

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8.ヴェルダウ Werdau 

ザクセン州 <S> 人口21千人

1.歴史

 13c スラブ人の森にドイツ入植者が侵入、1306-98 ロシアの支配下に置かれた、
 1398 ザクセン選帝侯が支配し布教の中心に、 14c 周壁建設の権利を得た、
 14c 帆布の生産、ビールの醸造、 1557-60 魔女裁判が行われた、
 1756 魔女裁判に3人がかけられた、 1756 大火災で多くが焼失、
18c 商業と貿易で発展、 1911 新市庁舎が完成して町の黄金期、
 1945 4月空爆、5月砲撃、7月赤軍進駐。

2.市壁  60m 0.07

  市街中心部には、市庁舎・ウエーバー通・ブルク通のあるマルクト広場と狭い脇道しかな
  かった。町の東側に新しい広幅の道:国道175号線が設けられた。中世の市壁
  が残っているのは、北西部と東南部に僅かである。

3.塔  0門0塔

   北門・南門は1835に取り除かれ、昔の4門8塔は今は見当たらない。

4.見所  C

  18cの大火事の後、18c後半に建てられた建物が保全されている。
 町役場 Rathaus (1908-11) ネオルネサンスの風格のある3階建の建物で部分的に
    アールヌーボの細部がある。正面の切妻と高い鐘楼に特徴がある。
 市教会聖マリエン Stadtkirche St.Marien (1760-64) バロックのホール教会が建
    て説教壇がある。られ、19cにネオルネッサンスの塔が付けられた。15cの聖体拝領
    の盃や18c祭壇や説教壇がある。
 聖ボニファチウス教会 Kath.St.Bonifatius(1927-29) 牧師館に併設されたカトリック
    の伝統主義的な建物。
 気象公告時計 Annonsen Uhr (1891) アウグストバベル通の歩道上に、四角い時
    計が置かれている。
 市エンジン博物館 Stadtund Demfmmaschinen Musem () 2階建の建物に、市と
    地域の産業と歴史と共に、Fraurenther磁器・1891蒸気機関・庭園鉄道がある。

5.町の略図

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9.レムダ Remda 

チューリンゲン州 <TH> 人口0.9千人

1.歴史

 8c 古いゲルマンスラブの集落がフルダとヘルフヘルト修道の財産登記簿から判明、
 12-13c シュバルツブルク伯は3つのレムダの町の中央に城と市壁で守られた町を開設、
 1286 住民のための学校を開設、 1319城と1367要塞が言及された、
 1362 二つの見本市、1398毎週の市場開催権獲得、1433 城・町はグレイチェン伯が所有、
 1625 シュバルツブルク伯は市壁と塔で町を囲んだ、1633-1848 イエーナ大学の農園を開設、
1741 ザクセン・ヴァイマール・アイゼナッハ公国となった、1744 町は大火事で大被害、
 1945 米軍の大砲と戦車で市庁舎と19戸が破壊された。

2.市壁  80m 0.07

  14cの市壁は300m×300mの旧市街地を高さ4m厚さ1.38mの市壁で囲んだ。市壁の前
   には堀と柵を備えた。その一部は残り、修復もされた。

3.塔  0門1塔

  市壁の四隅には防衛円塔が置かれ、南・北と西の3門町は守られた。ErfurterTorと
   TeichTorの前には堀の橋があり、SundremdaerTorを含め3門には、雇兵の住んだ
   小屋があった。唯一残る北西隅の防衛円塔は高さ8mで、1976に新しい円錐屋根が
付けられた。

4.見所  D

  二次大戦終戦前の米軍の大砲と戦車の攻撃で、旧市街は市庁舎と共に破壊された。
 市教会レムダ Stadtkirche Remda (12c) 1744の大火事で教会は全焼し、
    現在の姿で再建された。1858身廊の部屋に3連のキリスト祭壇画おかれた。1846-67
    にオルガンが構築されたが、一次大戦で壊れたが2009-13に修復された。2011から
    記念物保護財団により保全されている。

5.町の略図

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10.ルードルシュタット Rudolstadt 

チューリンゲン州 <TH> 人口22千人

1.歴史

 776 ハースフェルト修道に寄付の文書、 13c オアルミューデ伯爵が所有、
 1264-1330 下の城と上のハイデックス城の建設、1300-34 シュバルツブルク公国の郡に
 14c 町は拡大して市庁舎・門・教会塔・マルクトの建設、1326 市憲章の制定、
 1345 チューリンゲン戦争で被害を受けた、1423 都市は拡大し市壁を拡張した、
17c 30年戦争後にさらに新市街地を建設、18c 文化的に開花ゲーテ・シラー・フィフテ、
 1918 チューリンゲン州へ、磁器・合成繊維の工場完成、1945 空爆による被害。

2.市壁  10m 0.01

  建物の西と南の外壁が、中世の市壁であるとして石膏被覆を除いて確認。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

  広い町ではあるが、町のにぎやかさが少ない。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1524) 後期ゴシックの建物で、塔は1603に補修。建物
    は18cに数回補修。  新市庁舎 Neues Rathaus (1912) マルクトの北側の飾り気のない19cの事務所ビル
    に印象的なルネッサンスの出窓や塔が付けられた。1992に補修された。
 市教会聖アンドリュー Stadtkirche St.Andreau (12c) 1463-75に後期ゴシックのホール
    教会に建て直された。1634-36に初期バロックに内装が替えられて、今の姿になっ
    た。鐘楼の上部に1499の鐘がある。
 ハイデックスブルク宮殿 Schloss Heidecksburg (1330) 丘の上の城は、1439-48に3翼
    に拡張され築かれ、1573にルネッサンスの城が築かれた。今の大規模な3翼のバロクの城
    は1735に建てられた。この城は1918までシュバルツブルク・ルードシュタットの居城であり、
    庭園も造られた。今は博物館として、宮殿の内装・磁器。絵画・武器庫を展示し、
    町の歴史や自然史を説明している。
 市図書館 Stadt Bibliothek (1609) 元の学校に1896から図書が格納され、神
    学的な作品等を寄付金で集めた。1920州立図書館に在庫が移管され、1996歴史
    的な建物は市図書館として包括的に改修された。
 手工業館 Handwerker Hof (1513) 元の建物は、高貴な女性が入居する女性修道
    院であった。1991に火事で焼け商工会の支援で拡大再建され、クラフトセンターも追加さ
    れ工房・手工芸品販売・食堂・展示会場として使われた。
 チューリンゲン農民の家 Thueringer BrauernHaeuser (1667) ドイツ最古の野外博物館。
    Hofに幾つかの1700の木組の平屋を周辺から移築して展示している。農民の用具・
    機材・工芸品・村の薬局などが置かれている。
 シラーの家 Schilar Haus (18c) 1787にシラーが会ったシャーロットとキャロラインの家族の家で、
    二次大戦で壊れ。2005-09に18cの姿に復元された。
 磁器制作所 Porzellan Manjfakturen (1900) Alteste Volksfedter(1762)が近く
    の村から移って来た。20cからは特別なモデルを開発し生産している。チューリンゲン
    磁器の道の会員が他に2社ある。

5.町の略図

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11.ブクステフーデ Buxtefude 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口40千人

1.歴史

 959 王オットー1世はモーリシャス修道院に集落を贈与、1197 入植地は拡張された、
 1280-85 ブレーメン大司教はこの集落の北1kmに堀で囲んだ都市要塞を新設、
 1285 町となった、1328 町は都市権を授与した、1363 町はハンザ同盟に加入、
 1532-1644 魔女裁判が行われた、1541 宗教改革の導入、1627 帝国軍、
 1632 スエーデン、1676 ブレーメン・フェルデン公国軍、1678-1712 スエーデンが占領、
1808-14 仏軍が占領、1814 ハノーハー公国に属し市として独立、1866 プロイセンに併合、
 1946 新設のニーダーザクセン州に属した。

2.市壁  80m 0.06

  13cの新市街地は、周囲を広い堀に囲まれ、4隅には円塔が立っていたが。その後
   周囲の堀は埋め立てられた。市壁は、北の堀沿いと南東の水路沿いに僅か残る。

3.塔  1門0塔

   北西のMarche Tor Zwingerに唯一円塔と市壁がある。今は歴史博物館と催物会場
    となっている。

4.見所  C

  1970年代から中心部は住宅と商業施設の開発のため、徹底的に建て替えが行われ、
  保全木組家を除き古い木組みの家は姿を消した。19cまでに建てられた木組の家も漆喰
  塗りで、一見石造に見える。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1912) 1418の建物は1911の火事で近隣の建物と共に
    焼失した。今の建物は多角形のコーナータワーを備えたレンガ造の2から3階建の建物で、
    古い家具を使っている。
 教区教会聖ペトリ Ev.Pfarr kirche St.Petri (13c) レンガ造三廊アーチ形の大聖
    堂13c後半に西塔が付けられた。1853落雷で塔は壊れ修復された。
 古い市場ホール Alte Markt Halle (1912-13) 教区教会と同じく焼失し、ネオロマネスク
    の牛市場ホ-ルとして木骨造で再建された。この醸造所で2種類のビール(ピルスナーと
    デュンケル)が生産された。醸造所は2011に閉鎖され、Rathaus Guartierのショッピン
    グセンターになった。
 フレス製粉所 Fleth Muehle (19c) 6階建の製粉所は1979に住居・店舗に改築された。
 ブクステ博物館 Buxtehude Museum (1913) 1880設立の博物館協会の展示場として、
    石鹸工場が1913に前面は切妻を含め美しい木組細工模様の2階建木骨造の建物を建
    てた。町の歴史・お伽話・教会芸術などが展示されている。2015前面は美しく改装。
 石造の古い家屋 Alte Steinhaus (17c) 町に唯一残る石造の民間建物である。
 木骨造の家 Fachwerk Hauser (16c)
    (16c中)Lange Str.37、Lange Str.25の裏の家(1548)、Abt Str.3、Westfleth.23、
         St.Petri Platz.13。
    (17c) Kirch St.5、Fischer St.3 と Brecte St.17 は豊かな彫刻の家(1600)、
         Abt St.6 15cからの大司教の町屋で1628に再建。

5.町の略図

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12.フュルステナウ Fuestenau 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口9千人

1.歴史

 14c オスナブリュックの司教ゴットフリートは今の城の位置に砦を築いた、
 15c 何世紀にもわたって城は拡張され周囲に都市農民が定住した、
 1642 都市権が授与された、1647 30年戦争で10日間包囲された、
1814 ハノーハー公国に属した、1866 プロイセンに併合、
 1946 新設のニーダーザクセン州に属した。

2.市壁  10m 0.01

  市壁と堀が東の旧市街地をHohesTorの位置で囲んでいた。
   痕跡らしき物が僅かに残る。

3.門塔  1門1塔

 高門 Hohes Tor (1556) 東門で、装飾的なアーチ門と鐘楼付き2階建の門は1774
    に再建され刑務所を収容した。門塔の脇は市壁で守られ、前の堀は跳ね橋で渡っ
    ていた。橋の前にはツインガー壁のある前門が置かれていたが、30年戦争後に取り払
    われた。
 東北砦 Nordost-Bastion (1527) 城島から堀に張り出した砲塔で、直径25m壁厚
    は6mで、元の高さは水面上8mあった。今は70人収容の宴会場として使わている。

4.見所  C

  堀に囲まれた城が町の中心にあり、東に旧市庁舎・司教のある旧市街地が位置する。
   Grosse Str.とSt.Georg St.には、美しく修復された切妻付木骨造の建物がある。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1814) 2階建5窓列屋外階段付きの建物で、1945終戦
    後に古い様式で再建された。1976まで市庁舎として使われ、1991改修されて上
    階は展覧会の場として提供された。
 市教会聖ゲオルグ Ev.Stadt kirche St.Georg (14c) 市場教会として今の1/3の規
    模で設立され、1606の火災後に再建された。1899に今の塔が付けられ、それに伴
    って内部は改装された。内部には1695の祭壇と説教壇がある。塔の隣に古い日時
    計が置かれている。
 聖カタリナ Kath.St.Katharina kirche (1817) 城の南棟のかっての集会場と礼拝堂
    にカトリックの教会が設立された。1988に改修されている。
 城複合体 Schloss Anlange (1344-45) 王子司教ゴットフリートが居住棟のある城を建
    てた。当初は要塞塔と別館のみだったが、1600迄には残りの建物が増築された。
    次に南翼の今はカトリック教会、その次に北翼、最後に中間翼が建てられ、1974西翼
    が加えられた。城は王子司教の行政と司法の場であった。
 年金受給公職者の家 Rentmeister Haus (1541) この建物は全ての都市火災を生
    き伸びた。16-17cには、Gasthaus Zum Schwanとして、1649にはスエーデン和平交渉
    の場となった。30年戦争後この建物は横2階建ポーチのある切妻に家となった。
    1728には最初の郵便局となった。
 市長の家 BuergerMeister Haus (19c) 裕福な一族が所有し、16cと17cに市長を
    努めた。19cの終わりからはハーバーカンプの本拠地となった。
 商人の家 Kramer Haus (16c) 旧市庁舎の向かいにギルド所有のブロイハウスが19cま
    であり、ワインとビールが提供された。1929に2階建のホテルに再建された。

5.町の略図

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13.レアー Leer 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口34千人

1.歴史

 971 最初の木造の礼拝堂設立、修道院は所有権取得、1063-66硬貨の鋳造、
 13c ミュンスター教区に含まれた、1435 レラート要塞で城を固めた、1500 市場町として発展、
 1508 エドガート王は市場権与えた、1533 ゲルデルン軍は略奪や放火、
 1566 オランダ難民流入で経済発展、1623-31 30年戦争で略奪・荒廃、
 1637-56 ヘッセン軍の占領下で景気回復、1676-78 ミュンスター軍・帝国軍が占領、
 1744-1806 プロイセンの支配・工業発展、1806-13 ナポレオンの支配、1815 ハノーハー公国へ、
1866 プロイセンに併合、1871-1918 ドイツ帝国、1919 ワイマール共和国、1945 市街地損傷。

2.リロート要塞 Festung Leerort(1435) 170m 0.05

  ハンザ同盟のハンブルク商人が、レアー南西3kmのエムス川とレーダー川の合流点にレンガ造の要塞を
   築いた。1514ヴォルフェンビュッテルのハインリッヒ1世は、2万の軍で包囲したが撃退した。
   1528-31に城・堀・跳橋などを2倍に増強。1594城の拡張、オランダは守備隊を置いて
   1744まで居座った。1744最後の拡張、その後プロイセンの会社が所有したが撤退し、
   解体して売却された。古い要塞の内壁と新しい堀の堤防が残されている。

3.門塔  0門0塔

  見当たらない。

4.見所  B

  この町は歴史的市街地の保全で知られ、遺跡の個別モニュメント365、アンサンブル35がある。
 市庁舎 Rathaus (1894) 象徴的なオランダ・バロックの建物で、近隣の歴史主義の市
    庁舎塔は時計付き6階建の角塔の上に3階建八角形塔が乗っている。
     多数の住宅や商業店舗は、歴史主義や古典主義の建物が多い。
    展覧会の場として提供された。
 ルター教会 Luther kirche (1675) 古い墓石と高い樹木に囲まれた夏には、金の
    白鳥鐘楼のみが見分けられる。内には、南のクリスティーネ・シャーロットが見え、1675教会
    の建設が認められ修道院の石材が使われた。1910外装はバロックに塗られた。
 大改革派教会 Gross Reformiten kirche (1785-87) 後期オランダ風の模範である。
    ギリシャ十字の形に建てられた。様式通りに再建された典型的大説教教会である。
 カトッリック聖ミカエル教会 Kath.St.Michael kirche (1728) カトリックの礼拝堂として建て
    られたが、わずか70年後にカトリックの聖ミカエル教会が設立された。名前は教区名か
    ら取り、大天使ミカエルの彫像が祭壇室の右にある。
 メンノー派教会 Kath.St.Katharina kirche (1825) 1540からメンノー派はこの町に存
    続し、古典的な様式で建られた。
 地方裁判所 Amtsgericht (1711) 貴族レーラン家が居所としてバロック2階建で建てた。
    旧司法官の居所となった。計量所と同じ形態である。
 計量所 Waage (1714) オランダ風バロックの2階建で建てられ、屋根には時計付き鐘
    楼が置かれた。この地方で最も美しいバロックの建物と言われている。この計量所
    は1946まで使われ、今は郷土協会を収容している。
 エイフェン宮殿 Ezen Burg (1650) 1861-62に新ゴシックで改築され、二次大戦で損傷し
    応急修理が行われた。198-75郡が取得して修復した。2004-06元の形態に戻す大
    修復が行われた。
 ハネ城 Hane Burg (1570) 建らえた後、1621.1671.1935に拡張された。西の姿と北
    西の入口は後期ルネッサンスの建築築形状である。
 ハーダーウイッケン城 Hederwyken Burg (1480) この地方で最古の城で、未だに個人が
    所有して機能している。
 フィリップス城 Philipps Burg (1730) ヴュティンの男爵フイリップは、城を建て私有の状況
    にある。中には入れない。
 ザムゾンの家 Haus Samson (1646) ヴォルフ家が建て、18-19c住宅文化を表している。
    18cのバロック飾りの優雅な天窓と戸口が見所。
 港博物館 Museums Hafen () 計量所の隣にあり、まだ航行できる多くの歴史的船
    舶を錨でつなぎ、過ぎ去った船舶の時代を思い起こさせる。
 郷土博物館 Heimat Museum () Neuen Strasseの2つの古い商家に収容され、東
    フリージッシの住宅文化と歴史的衣服に重点を置いて、この地方の舟運・産業・文化・歴
    史を展示している。  茶博物館 Tee Museum () 伝統あるこの町の茶会館であり、茶の大学のある博物
    館である。

5.町の略図

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14.ノイシュタット Neustadt am Ruebenberge 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口40千人

1.歴史

 1200 ヴェルベ伯爵が町を新設。1215 Neustadt と呼ばれた。13cヴェルベ郡に属した、
 13c ベルンハレト伯は世俗的中心とシトー派修道院を新設、1302 グエルス公爵に郡を売却、
 1493 中世の城が町の隣に建てられた、1505 カレンベルク公爵エーリッヒ1世が支配した、
 1572 城をヴェーザールネッサで拡張強化、城と町は鋭角の市壁で囲まれた、1543宗教改革、
 1626 帝国軍の包囲に降伏し城は兵舎に、1727 都市火災で100/108戸焼失、
 1719 2年間で今のレイアウトで町を再建、1855 地方裁判所開設・ガラス工場開設、
1913-91 高さ260mアンテナで海外電報発信、1945 英軍が占領。

2.市壁  370m 0.21

  1563の要塞は、高さ9m幅2.3m長さ1.8km市壁と堀・土堤で10haの市街地を囲んだ。
   この要塞は、イタリア技術者が建設しドイツ北西部で最強の要塞に一つであった。
    市壁は1948まではほぼ完全に保持されたが、過密解消のために取除かれた。
   市壁跡は、地表以下に残され、南の塔最先端・100mの砲台・北端の運河に、わ
   ずかに残る。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1728-29) 高い砂岩の台座の上に平屋で建てられ
    寄棟屋根の木骨造の建物は、火事の後に再建された。1830古典主義で再設計さ
    れ漆喰の前部に二重の外階段が置かれた。今は、Pfannen Schmausin Ratkekker
の名前のレストランである。
 聖母教会 Liebfrauen kirche (13c中) 今の建物は、ロマネスク石造の教区教会とし
    て建てられた。1280-95にはアウグスティーノ大聖堂教会であった。南ポータル横の碑文に
    よれば、エッリッヒ1世は1500-02に広範囲にゴシックレンガ造で拡張再建した。1727の大火
    災の後、ジョージ2世の資金で修復された。1787から何度も修復を繰り返し、屋根
    はより平らになりバロックの内装が行われた。1979-82外壁が補修され、2004-06に
    大規模改装された3身廊5内陣と、13c中からの砂岩の強い正方形の西塔がある。
 守衛室 Wache Haus (19c) 旧市庁舎の前の建物は、夜警の居所として建てられ
    た。今はBrotmanufaktur Stadtlaenderのベーカリーとなっている。
 ランデストロスト城 Schloss Landesstrost (1493) 最初の1221の砦の基礎の上に城が
    建てられた。1563の火災の後、1573-84にヴェーザールネッサンス2翼の石とレンガの2階建
    となった。1626-35帝国軍が占領し、その後1636まではリューネブルク公の住居であっ
    た。1985-91大改造が行われ新しい天井が設置された。今は、城の複合体を文化
    地域財団が所有し、1888からスパーリングワインを生産し、市立図書館と地方裁判所を
    収容している。
 地方裁判所 Amtsgericht (1903) 1850に城に収容されたが手狭になり、1903に
    近くのシュロス通に2階建円形階段塔付の建物が新設された。本館の近くの古い建物
    も刑務所や別館として使用されている。
 木組の家 Fachwerk Hauser (17-18c) 元々は切妻のある木骨造の建物で形成さ
    れていたが、火災や戦後の建て替えで、わずかしか残らなくなった。
    ・Mittel Str.29(18c初)入口門は数年前に改修されたが、印象的な木骨造の家。
    ・Windmuehlen Str.19.20 (1672) 1727の火災を生き残った木骨造の家。

5.町の略図

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15.ニーンブルク Nienburg 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口32千人

1.歴史

 1025 新しい城が建てられ城が地名になった、1215 ホヤ伯爵が町を支配した、
 1225 都市権を授与された。1345 ホヤの郡が分割されたがホヤ家は1582迄居住、
 1580 ブラウンシュバイク・リューネブルク侯爵が城と要塞の強化、1625 テリーの帝国軍を撃退、
 1627 帝国軍の占領で疫病流行、1635 ゲオルグ公が再所有、1648-50 スエーデン軍占領、
 1700 要塞・門塔・町屋の再建、1723 ヴェ-ザー川の初石橋架橋、1736星型要塞設置、
 1757 7年戦争で仏軍が占領、1758フェルディナン公爵が奪還、1803 ナポレオン戦争で仏占領、
1813 ハノーファー公国へ帰属、1866 プロイセン王国へ併合、1945 英軍が占領。

2.市壁  60m 0.04

  1627には、城を含めた旧市街地が、堀と市壁で囲まれ他要塞となり、ヴェーザー川の
   対岸への木橋と橋頭保がきずかれた。30年戦争後の1700に要塞・城門が築かれ1736
   には周囲の星型要塞が完成した。1803仏軍の占領で市壁が壊され、1813の仏軍の
   撤退時に多くの施設が爆破された。市壁はヴェーザー川沿いにわずかに痕跡が残る。

3.門塔 0門1塔

ストック塔 Stock Turm (16c初) ホヤ侯爵の城の一部であり、ルネッサンスのレンガ造4階建
    の角塔で、用途は見張と居住であった。出窓は東南西に在り4階部分は木造とな
    っておりピラミット型の屋根が付いている。1580にホヤ家が断絶し、ブラウンシュバイク・リュー
    ネブルク公爵が所有したが、30年戦争で城と別館は壊された。17-18cはこの塔のみ
    が残され、兵舎の一部となった。19-20cは地方裁判所・刑務所専門学校として使
    われ、21cには電気店となった。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (15c) 後期ゴシック修道院形式で大きなレンガ造の建物
    であった。1582ヴェーザールネッサンスに改造され、砂岩造の西の切妻と門が付けられた。
    1533-85にモルタルで゙塗られた。バロック時代に市場側に木骨造で拡張された。1778には
鐘と時計を備えた鐘楼が付けられた。この鐘楼は2011にレプリカと取り換えられた。
 聖マーチン教区教会 St.Martin Pfarrkirche (13c) 1441にはレンガと部分的に砂岩
    造の西塔のある3廊の教会が奉献された。1896に塔の上部はレンガ造となり、八角
    形銅で覆われた。祭壇には1515の小さな砂岩の12使徒像がある。これは盗難に
    会い1987美術商から買い戻された。
 クアエットファズレムの家 Quaet Faslem Haus (1821) 2階建古典主義の2階建邸宅と
    して建てられ、今は町の古いコレクションを収容する博物館である。
 ニーンブルク博物館 Nienburg Museum Presen Hof (16c) 16cの廷氏の住宅が修復され
    市博物館となり、地域の考古学と町の歴史を展示している。2014に近代化された。
 アスパラガス博物館 Niedersacksisches Spargel Museum () ニーダーザクセン州アスパラガス
    栽培の歴史と現状を展示している。庭には地域の砂岩のコレクションが並べてある。
 州警察博物館 Niedersacksisches Porizei Museum () 州警察学校の一部に警察関
    係の展示がある。

5.町の略図

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16.オルデンブルク Oldenburg 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口168千人

1.歴史

 1108 環状壁が築かれ初言及された、12c オルデンブルク伯は堀のある城を築いた、
 1348 伯爵コンラッド1世から都市権を授与され、5市門と広い堀の市壁を築いた、
1448 オルデンブルク伯はデンマーク王に、1450ノールウエー王にも、1457スエーデン王にもなった、
 1518 5門を双円塔の門と跳ね橋を備えた二重門構造とし堀を強化した。
 1603 アントンギュンター伯の治世となりバロックの城を建設。1640 30年戦争の影響はなかった、
 1667 ギュンター伯の断絶で町はデンマーク王に授与、1774 オルテンブルク公国は神聖ローマ帝国へ、
 1811-13 ナポレオンの支配で伯爵は亡命、1829 ポール・フリードリッヒ・アウグスト大公が支配、
1918 ヤイマール共和国へ、連邦の首都、1943-45 空爆で130戸破壊、1945 英軍が占領。

2.市壁  20m 0.01

  14cの市壁は、1529には大きなツインガー小屋が建設された。1625の要塞拡張時に円錐屋
   根の塔が建てられた。19c仏軍による破壊。市壁はヴェーザー川沿いに痕跡が残る。

3.門塔 0門1塔

火薬塔 Pulver Turm (1625) エバーステン門として司教の家・橋・塔が上にある門
    が構成された。1730-65デンマーク要塞時代には火薬塔として使われ、1965に修復
    された。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1888) 3階建のネオゴシックとネオルネッサンスの建物。
 聖ランボルト教会 St.Ramborti kirche (12c) 最初の教会は単身廊ロマネスクの教会で、
    オルテンブルク家が建てた。1265後期ロマネスクの聖杯が現存する。14c4祭壇が設けられ、
    1345都市権の授与で市教会となり、9祭壇に増えた。1400ゴシックのホール教会に拡張
    改築された。1436後陣は拡張されステンドグラスの窓が設けられた。1795外壁を取壊
    してドームのある古典主義の円形教会になった。1813鐘楼は取り外され1873西に
    塔が建てられた。1885-87に4角塔が加えられ、ゴシックの赤煉瓦が覆われた。
    2007-09老朽化で改修された。
 ガートルード礼拝堂 Gertruden Kapelle (1250) 当初の礼拝堂は西塔のある単身廊の
    教会で、旧診療所に属していた。1680塗直されたが、1908部分的に露出された。
    1950青銅の鐘が塔に付けられた。1964修復が行われた。
 オルデンブルク城 Schloss Oldenburg (1100) オルテンブルク家がのよって建てられ、15cに
    城はは円形堀で囲まれ農場経営も行われた。17cアントンギュッター伯は宮殿を立て1607-
    67に住んだ。死後100年以上はデンマーク王室所有した。1773-1860ホルシュタイン・ゴーフルト家
    が住居とした。1817古典主義で図書館棟を追加した。1852-94フレドリッヒ・アウグススト大
    住み、1918の退任後はオルテンブルク自由州博物館を1923に開館した。州立博物館には
    オウガストウム宮殿も合わせ、大公のコレクションを元に中世からの美術工芸品や写本などを
    展示し、美術館ニハ16-19cの絵画が納められている。
 市博物館 Stadt Museum (1915) 商人テオドール・フランクセンの収集物を基に、町の歴史と
    17-20cの美術工芸品を展示している。
 デゴーデの家 Degode Haus (1502) 切妻横梁に1502の日付がある2階建木骨造の貴
    族の建物は、1676の火事を免れた。1617に今の姿になり1790漆喰がぬられた。
    1680商人が家を引き継いで維持している。
 スマートハウス Smart Haus (1562) 当宮殿広場にあり、町で最古の町屋である。2010-
    12に修復し一部拡張した。地階には観光案内所がある。この家には2展示室と
    2イベントルームがある。

5.町の略図

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17.スターデ Stade 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口48千人

1.歴史

  880 出荷拠点として要塞化された集落が出現、 12c 集落はバイキングが襲撃、
 1038 皇帝コンラ-ト2世は税関・鋳造・市場の特権授与、14c ハインリッヒは堀・市壁で守備強化、
 1209 皇帝オットー4世は大司教の都市権を確認、1361 ハンザ同盟加入で全盛期へ、
 1348 伯爵コンラッド1世から都市権を授与され、5市門と広い堀の市壁を築いた、
1625 デンマーク軍占領、1628 帝国軍占領、1636スエーデン軍占領、1648 和平でスエーデン領、
 1659 大火災でまちの2/3を焼失、1668 市庁舎の再建、1675-79 連合国が占領、
 1679 和平でスエーデン領に戻った、1712 デンマーク軍が攻撃し町の1/4を破壊、
 1715 ハノハー選帝侯が所有、1803-06 仏軍が占領、1810ヴェストファーレン王国に属した、
 1866 プロイセ王国へ、1946 ニーダーザクセン州へ。

2.グラウロート要塞 Festung Grauerort  280m 0.4

  プロイセンは、敵船を攻撃するため、町の北゙8kmのエルベ左岸に、堀に背面を囲まれた
   グラウロート要塞を1869-79に構築した。1870-71の普仏戦争時には運用されていたが、
   戦闘は行われなかった。要塞は高さ10mの土堤の菱形六角形で形成され、防御壁は
   エルベ川に向かって二つの68mの側面を有し、それぞれに口径28cmの大砲5門が設置さ
   れた。武器の発達で1895に大砲は撤去された。2次大戦中は高射砲が配備された。
   戦後は荒廃したが、1997協会が復元して博物館とホテルを開設した。

3.門塔 0門0塔

  17cの都市防御施設は強固であったが、堀の擁壁など地表面以下しか残っていない。

4.見所  A

   堀で囲まれた旧市街には、17cの木組の家並みと1959の大火を生き延びた古い木骨
   造の建物も残されている。また、17cの星型要塞の形が良く残っている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1305) 旧市庁舎は1667に場所を移して2階建レンガ造で
    再建された。ラッツケラーは、14cから元の場所でワインセラーと居酒屋を営業している。
 聖コスメット・ダニアーニ教会 St.Cosmeat Damiani kirche (13c) レンガ造ゴシックで建設され
    17cに拡張と変換を行って、高さ62mのバロックドームのある八角形の塔を設けた。
    ガートルート礼拝堂の中世の翼のある祭壇や17cの大オルガンは有名である。
 聖ウイルハデ教会 St.Wilhadi Kirche (11c) 今の3廊ゴシックのホール教会は、14cの物で
    あり、西塔は13cに建てられた。1639の都市火災や1724の落雷でオルガンが焼け、
    1736バロックのオルガンが付けられた。2017教会内部の改修が行われた。
 スエーデン貯蔵博物館 Schweden Speicher Museum (1705) バロック2階建レンガ造の倉庫は
    スエーデン軍が穀物倉庫として1712迄使用した。1715ハノーハー軍に移管され、1909市の所
    有となり、改修して1976に市歴史博物館を開館した。
 市長ヒンツエ邸 BuergerMeister Hintze Haus (1621) 典型的な中世後期商人の家で切
    妻には7タレットがある。前面は石造であるがレンガ漆喰塗りの部分もある。1930老朽化
    して解体され、1932に古い素材の前面の後ろに新しい建物がある。今は住宅と店舗
    として使われている。
 木製ペタル機械式クレーン Holztret Kren (1977) リューネブルク式旧クレーンに基いて、1661に
    前の場所に建てられたが、老朽化して1898に解体された。場所をこの地に移して
    1927に復元された。
 町の計量所 Stadt Waage (1757) 税関として2階建レンガ造の建物が建てられ、市計
    量所として19c迄使われた。1970老朽化で改修された。
 馬市場の武器庫 Zeughaus am Pferden Markt (1697-99) 2階建てレンガ造の建物は
    スエーデン軍の武器庫として建てられ、1980までは映画館・演奏会場として使われた。
 クネヒトハウゼン Knecht Hausen (15c) 2階建の醸造ギルドハウスとして建てられ、今は
    レストランとして使われている。

5.町の略図

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18.スタットハーゲン Stadthagen 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口22千人

1.歴史

 1222 伯爵アドルフ3世はヅタットハ-ゲンの町を設立、1261 町の評議員・市長が存在、
 1209 皇帝オットー4世は大司教の都市権を確認、1361 ハンザ同盟加入で全盛期へ、
 1322 市場の開設、1344 アドルフ7世による都市権の確認、1400 市壁と門の建設、
1510-20 石灰の採掘開始、1534-44 オットー4世は宮殿を建設、1565 ラテン語学校の建設、
 1610 フランシスコ会修道院高校の開設、 1619-20 大学が置かれてが1621リンデルへ移転、
 1899 市壁が壊され公園に、1973 周辺を統合して人口23千人に。

2.市壁  40m 0.03

 15cの市壁は19cに壊され残っていない。北と東南に僅かにある。

3.門塔 0門2塔

 牛市場塔 Altes Festungs Turm am Viehmarkt (1423) 北西に石造5階建の六
    角錐屋根のある市壁の防御円塔である。
 半円塔 Halbrund Turm15c (15c) 南東に半円塔が屋根付きで残されている。

4.見所  B

   この町はヴェーザールネッサンスの町と言われ、ヴェーザー砂岩が華やかな装飾のある前面にあ
   る15-16cの建物が多く残っている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1595-1602) 14cのニーデルン通1の古い市庁舎が要件を満た
    さなくなり、1529に武器庫アム・マルクト1が修復され、1595-1602に市庁舎としてヴェーザー
    ルネッサンスに改装・拡張された。屋根の切妻と王冠はヴェーザールネッサンスの特徴であり出窓部
    分は美しき飾られ、堂々とした砂岩と木組の建物である。1982に北の旧市醸造所の
    跡地に今の市庁舎が新設されて移転した。ラッツケラーは旧市庁舎の一部で営業している。
    ラッツケラーには、70席のモダンなレストランと20席の落ち着いたRoensStubeがあり、屋外テラス席
    も春から秋までは開かれる。
 聖マティーニ教会 St.Matini kirche (1230) 教区教会として建てられ、1318に厚い壁で
    高さ42.3mの塔は残して3廊ゴシックのホール教会となった。1430南側に納骨堂・1544北側へ
    三位一体礼拝堂・1541北東に聖域が拡張された。1460フランドルの祭壇・16cの説教壇・1578
    ブロンズの洗礼フォントはは有名である。
 聖ヨハネ礼拝堂 St.Johannis Kapelle (1312) 東北の市壁の外にある。ゴシック石造の塔の
    ない簡素な教会である。北側の窓スリットは外から病人が礼拝できるように設けられた。
    礼拝堂の隣には、1394ハンセン病の収容所がある。
 事務所小門 Amts Pforte (1553) 市の行政・裁判所・刑務所として300年間使われた。
    建物は豪華な2階建木組の建物で、彫刻のあるアーチの上の銘には1553の年号がある。
    1963からは博物館となり、1987-92大規模な改修が行われた。市の歴史と経済、健康
    農業・貿易の発展を展示し、農家・ヴァイオリン工房・金細工店もある。
 シュタットハーゲン城 Schloss Stadthagen (1200) 交易の要衝に堀のある城が建てられ、周
    集落が形成された。1534-44にルネッサンス初期の壮大な宮殿には半円形の切妻で飾られた。
    入口の石積は昔の城の名残である。1607迄伯爵の居所であり、1880切妻と外壁の装飾
    が行われた。1919に州の所有となり、現在は税務署である。
 ランツベルガーホフ Landsberger Hof (1532) 主権者に奉仕する大臣が、市壁の側に建てる
    事ができるフリヘーフェである。シンンプルな均整の取れた建物でヴェーザールネッサンスで建てられた。
    1731ランツベルクは改装した。現在は市立図書館として使われている。1600に建てられた納
    屋は市の公文書館である。
 エルンスト王子の霊廟 Mausoleum der Grafen (1596) ルネッサンスの建物と絵画の芸術品であ
    る。エルンスト・シュールバーク王子の霊廟で、7面の豪華な内装の部屋の中には、中央に立つ
    1617-22の大理石と青銅の「キリストの復活」がある。
   古いラテン語学校 Alte Latein Schule (1565) 後期ゴシックの建物にフランシスコ会修道院の4
   学部の学校が置かれたが、1621大学部はリンテルンに移り、ラテン語学校が残された。今は店舗。
 騎士の館 Rittergut Romering Hausen (16c) 東6kmに、建物を巡らせたヴェーザー
   ルネッサンスの館があり、22代にわたって家族が住んでいる。1,500m2屋根付き会場・食堂・ホテル
   ・中庭・6haの庭園・ガーデンホテルもあり、各種イベントも行われている。
 木組の家 Fachwerk Hausen (1573) ヴェーザールネッサンスの木骨造の建物は、前面に様々な
    彫刻や碑文で飾られている。碑文はラテン語や低地ドイツ語の方言で、宗教的な詩や建
    物の由来などが書かれている。

5町の略図

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19. ウルツェン Uelzen 

ニーダーザクセン州 <NS> 人口34千人

1.歴史

  973 オルデンシュタット修道院の設立、1250 住民は西に定住、リューネブルク伯爵の都市権授与、
 1290 フェルデンの司教は聖マリエン教会を教区教会へ、1350 害虫被害で住人560人が死亡、
 1374 ハンザ同盟に加入、1527ラーンスト侯爵の宗教改革、1591 ペストで住民の1/3が死亡、
 1646 大火事で建物の2/3焼失、木組で再建、1807ナポレオンの支配下でヴェストファリア王国へ、
 1813 ウイーン会議でプロイセンに属した、1826 大火事で中心部は焼失、1884 砂糖工場設立、
 1935 独立した都市の地位を失う、1945 イギリス軍の攻撃で被害。

2.市壁  270m 0.20

 14cの市壁は、MuehleStr. RosenMauer FurnSt. に少し残されている。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  B

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1347) 当初の市庁舎は1347に焼失し新築された。
    以降何回も改修・再建が繰り返された。19c迄は地階に地方裁判所があり、軽犯罪を
    取り扱った。上階には市長や評議員が居て、1547までは処刑を決めていた。秤や薬
    局も一時収容した。1997に新市庁舎に移転した。2015修復が行われ地区カレッジとカフェ
    になっている。
 聖マリエン教会 Ev.St.Marien kirche (1292) 旧市街の中心にある強大なゴシックの教会
    で、高さ86mの塔と1350創設の使徒礼拝堂である。13-14cに3段階にで建てられ1292
    に聖別された。3廊ゴシックのホール教会から中央身廊の高い天井には琥珀の肋骨がある。
    平らな天井は1300からの物であった。塔は、高内陣の完成後に正方形の小さな塔が
    あったが、大火の後に1671-80にバロックの外観たなった。1945塔の上部が焼失し1945
    に新しく付けられた。1357使徒の礼拝堂が寄贈された。1506に彫られたアンナ祭壇が
    ある。2001に53レジスターのこの地方最大のオルガンがしゅうふくされた。
 ゲルトルード礼拝堂 Gertrudau Kpelle (16c) 市壁の前に建てられ、旅行者の宿を提
    供した。レンガ造で急勾配の切妻屋根がある。1950祭壇画と窓は更新された。
 聖霊礼拝堂 HeiligenGeist Kapelle (1322) 病院の礼拝堂で、15cに内陣は拡張さ
    れた。16c初めの祭壇がある。
 聖ヴィティ礼拝堂 St.Viti Kapelle (15c) リューネブルガー通北の門の先にあるハンセン病院と
    使われた。今は行政登録所で、ここで結婚出来る。
 ホルデンシュテド城 Schloss Holdenstedt (13c) 何世紀にもわたって増改築され、城の
    特徴を残した簡素な前面となっている。1903市が取得し、修復作業の後に1985郷土
    博物館が転入した。都市の歴史・豊かな市民の都市生活が展示されている。
 市ワイン取引所 Rats Weinhandling (1500) 市庁舎の前にNigehausは建てられ、市議
    会のワインとビールの醸造所の役割を担い、結婚式場や舞踏会場として使われた。1646の
    火事で全焼し翌年に再建された。高級ワイン並べられ毎年ワイン市が開催される。
 黄金の船 Goldene Schiff (15c) ハンザ同盟のシンボルとして、黄金の船は聖マリエン教会
    の塔の隙間にある。金メッキされた銅板で造られた黄金の船は、17cはじめから教会の
    所有である。17cには内陣に、そのご使徒の礼拝堂に移された。今はエントランスのニッチで
    見られ市庁舎にもレプリカがある。
 シュネレン市場 Schnellen Markt (15c) 北東の三角形の広場で、2011復元された建物で
    囲まれ、伝統的な職人地区は再整備され、広場には噴水・憩いの場・駐車場・植木鉢・
    街路灯が一新された。シュネレンとは飲用器を含む陶器であり、ハンザ同盟時代にはここで
    取引された。今はフリーマーケットや屋外イベントの会場となっている。
   古い町屋 Alt Stadthaus () 古く美しい建物が多く修復されている。例えば、リュ-ネ
   ブルガー通りは開拓地の最新の通りであり、保存状態の良い木骨造の建物が並んでいる。
   木組の家の梁には、不死化のための諺と絵が刻まれている。古い町屋としては、都市建
   築事務所・古い郵便局・ハンザの典型的な切妻のあるギルドハウスなどがある。

5.町の略図

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20. アレンドルフ Allendorf Sundern市内 

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口1.6千人

1.歴史

  10c ケルン大司教管区によって教会組織を設立、1165 アンズルーク伯爵の財産となった、
 14c ケルンのヴェストファーレン公国に属した、1407 アレンドルフは都市権を授与され要塞化した、
 1424 ケルン大司教は自治権を付与した、1629 魔女裁判の判決が出された、
 1747 大火事で町の半分が焼失、町に布職人ギルド、1802 ヘッセン・ダルクシュタットへ属した、
 1816 ウイーン会議でプロイセンに属した、1858 農村地区に分類されて都市でなくなった、
 1961 1006人の住民が居た。

2.市壁  80m 0.04

 15cの市壁は、都市権授与の後に860mの市壁が建設された。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  D

 聖アントニウス教会 St.Antonius kirche (1725) バロックの教会で、塔の基礎には
    後期ゴシックの秘跡の家があり、1750緑の大理石の高祭壇がある。

5.町の略図

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21. アッテンドルン Attendorn 

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口24千人

1.歴史

  1072 ケルン大司教はグラウシャフト修道院を守護、1222 ケルン大司教から都市権を授与、
 1255 町は繁盛、大きな町としてハンザ同盟に間接加入、1206 ケルン大司教の城と硬貨、
 14c 市壁の前に教会と墓地のある病院建設、 1444-45 城と町はビルシュタインが占領、
 1464.1597.1598.1613 ペストの来襲、1613.1623.1656.1710.1730.1742.1783火事発生、
 1280.1444.1593.1618-48の戦争で町は衰退、19c中 から回復した、
 1945 ひどく破壊された。

2.市壁  30m 0.01

  13cの市壁は、1812の火事に後に取り壊され、中心部再建のための建築資材として
   使われた。北部ビーケ塔の西と、火薬塔の南にわずか残る。

3.門塔 0門2塔

 ビーケ塔 Bieke Turm (13c) 3階建の円塔で円錐屋根が付いている。17cには
    刑務所として使われ、後には氷の貯蔵庫となった。1999カトリック青年の家、2004兵
    器とライフル博物館となった。
 火薬塔 Pulver Turm (13c) 2階建小口径の円錐屋根の火薬塔であった。今は
    Rulver Braeu Brauenの醸造所内に立っている。

4.見所  C

 聖アントニウス教会 St.Antonius kirche (1725) バロックの教会で、塔の基礎には
    後期ゴシックの秘跡の家があり、1750緑の大理石の高祭壇がある。
 聖ヨハネ・パプティスト教区教会 Stadtkirche St.Johannes Baptist (1200) 初めのロマ
    ネスクの塔と1396kerunn大司教寄贈の身廊があり、1634から塔にバロックのドームが付け
    られた。1783の火事で部分的に壊れ、補修と共に内装のバロック化が行われた。
 聖救世主教会 Ev.Erloeser kirche (1913) アールヌーボーの十字型教会で、4階建の
    大きな正方形の側塔がある。
 病院教会 Hospital kirche St.Barbare (14c) 南門の外に墓地と教会のある病
    院が建てられた。
 シュネンベルク城 Burg Schnellennerg (1222) 東2kmの川の対岸の丘に、ケルン大司教が
    街道確保のため、城を建てた。1291ヴェストファーレン公国は城を強化した。1441-83城は
    売買が繰り返された。1512ケルン大司教はシェネンブルクに城を与えた。1594フルステンベルク家
    は城を取得して強化した。1835フュルステンブルク家が城を去り、その後醸造所・居酒屋・
    ビヤガーデンなどとなった。1911ドイツ初のユースホステル、1958ブルグホテル、1960動物園。
    今はホテルレストランである。聖ゲオルグ礼拝堂(1600)は、城補修の一環として補修され
    維持されている。
 アレンズの家 Haus Arens (1783) 都心に立つ上階木組の2階建の建物、
 ホルテの家 Haus Holte (1787) 市壁沿いに立つ元都市農民の家で、地階と側面石
    積でその上が木組の切妻のある2階建の建物。

5.町の略図

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22. ベードブルク Bedburg 

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口24千人

1.歴史

  893 集落の初言及、1175 ザッヘンベルク伯家の断絶でサイン伯領へ、1295 町と呼ばれた、
 13c ケルン大司教とユリッヒ伯との武力闘争、13c末 アウグスチヌス修道院を設立、1684 ケルン大司教
  が1794迄支配、1581 ケルン大司教と選帝侯の宗教戦争、1584-85 カトリック軍が町を支配、
 1839 ライニッシュの騎士貴族がベ-トブルク城を買収、1842 校舎を建てて騎士アカデェミーを開講、
 1929 実業ギムナジュウムに改業、1975 ケルン法により新しい都市へ合併。

2.市壁  20m 0.03

  13cから修道院はレンガの壁で守られていた。その後、修道院の東南側に集落が形成され
   その集落を守るための市壁が築かれたものと思われる。文化財リストには、北東部の民
   家のレンガ積基礎が市壁とされている。昔の修道院壁は、東に20m西に80m残っている。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  C

  この町の市内には、北西3kmにAlte Kaster があり、市壁と門塔で守られた歴史的な町
    の昔のたたずまいが、そのまま残っている。
 市庁舎 Rathaus () 高基礎の2階建ドーマー屋根の9窓列の大きな建物で、入口には両
    階段が配置されている。
 聖ランペトウス教区教会 Pfarrkirche St.Lanbertus (1289) 最初の教会はエルフトの東の
    墓地にあり、13c末にアウグスチヌス修道院が設立された後、1388-1414に修道院が拡張さ
    れ、1414以降に別の教区教会が建てられ聖ランバートに捧げらえた。1802修道院は世俗
    化され、修道院教会は老朽化して1892に解体られた。1891-94にネオゴシックのホール教会が
    1539の壁を残してレンガ造で再建された。
 ベードブルク城 Burg Bedburg (12c) 最初は貴族が掘と城壁と木柵で守った城を築き
    交易路を守った。1287ケルン大司教が破壊し、後にゴシック・レンガ造の水城を再建した。
     その後中庭の周囲に3翼の建物と2長方形塔2円塔を建てて補強した。1584戦争で
    破壊され、その後ルネッサンスの階段と中庭の建てられ、城から宮殿へ変貌が始まった。
     1839 Reinische Ritterschsftが買収して、1842-53 Ritter Akademieに改築され
    4階建の校舎を増築した。1922アカデミーが終了して労働組合のとなり、修復や拡張が
    行われた。1970市と城協会が修復して、一時利用を図った。
 シュビンゲスの家 Haus Schwiges () レンガ造2階建8窓列の大きな建物で、建物と中庭
    の二つのアーチ入口がある。
゙  住家 Wohn Haus () レンガ造の5階建2窓列と3階建4窓列が一体となった珍しい建物。

5.町の略図

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23. ベルグハイム Bergheim 

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口62千人

1.歴史

1028 パラティーノ伯爵の荘園であり財産、13c ユーリッヒ公爵は城を築いた、
 1300 町は都市権を受けた、13c ユーリッヒ公爵は市場の町に造幣所を置いた、
 1494 ベルク公爵はこの町を、1542 皇帝カール5世との戦争で町の大部分が壊された、
 1816 町はプロイセンに属した、1890 工業化が始まり亜炭や亜鉛が取引された、
 1945 爆撃と攻撃で町の1/6が破壊され1/2.5が損傷した。

2.市壁  250m 0.25

  中世には二つの市門のある市壁で守られていた。アーヘン門の付近の市壁は残る。
   残された市壁の大部分は、1980年代に連邦道路55号の北側への移設に関連して、市壁
   の改修が行われた。

3.門塔 1門0塔

 アーヘン門 Aachener Tor (14c) アーチ通路のある2階建・2連円塔型の門で、右側面の
    歩道は後から付けられた。門は16-17cに何回も壊され、1559に中央の寄棟屋根は更
    新された。1800町は刑務所に改造し、1911.1925.1956に修復されている。外側には
    ライオンの紋章が有り、1947からボーイスカウトが使用している。2014-17にも大規模改修。
 ケルン門 Kelner Tor (14c) 円錐屋根3階建正方形の門塔で、19cには市庁舎の分室と
    して使われた。1879荷車で壊され、1880交通の円滑化のために撤去された。ケルン門
    の位置は、案内板と舗装の色合いで示されている。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1909-11) 14cに都市権は授与されたが、独立の市庁
    舎は20cになって初めて2階建で建てられた。アールヌーボーと新古典主義の様式を備えた
    きれいな建物で、上階の4つの高窓は評議会室を示し、時計はマンサード屋根にある。
     一次大戦後イギリス軍の司令部として使われ、1937ベツレヘマー通に沿って2階建の別館が
    建てられた。1996には改築され近代的な棟が接続された。
 ゲルグ礼拝堂 Georugs Kapelle (14c) 町の中心にユーリッヒ公爵が建てたが、1542戦争
    で壊され1550再建された。レンガ造2身廊の各船に3面の内陣と切妻屋根がある。
 聖レミギウス教区教会 Kath.Pfarrkirche St.Remigius (1175) ハインスベルク大司教が石造
    ロマネスクの教会を奉献した。建物お最古の部分はロマネスクの東翼廊・円形聖歌隊・二つの塔
    である。15cにはゴシックの身廊に置換えられた。1803世俗され、1480のピエタの絵が
    ベツレヘム修道院から移されて、巡礼教会となった。
 歴史博物館 Histoeisches Museum (2012) 町の創設700周年を記念して、市立の歴
    史博物館が開設された。
 亜炭情報博物館 Museum (1958) Burg Paffendorfを企業が取得し、亜炭採掘と緑
    化についての展示を行っている。パッフェンドルフ城は1531-46に建てられたルネッサンスの水
    城で1861-80にネオゴシックで再建された。
 歴史的な建物 Histoeisches Wohnhaus
    Haus Bittner (16c) Haupt Str.106 現存する最古の家、2階建の漆喰レンガ造ゴシックの
     建物で三つのパネルに分かれている。
    Rotes Haus (17c) Haupt Str.99 4軸の堂々としたレンガ造の建物で、赤く塗られてい
     る。地階はワインバーとして使われている。アーチ門は中庭への入り口である。
    LandRats und Buergermeister Haus (1769) フレッツ家が建てた6軸マンサード屋根の2階建
     漆喰塗りの建物で正面階段は王冠と紋章のある華やかなドアに通じている。
    Haus der Porblutionaere (17c) HauptStr.71 革命家の家でレンガ造2階建の家で
       この古い建物を合わせて19cに再建され、正面に玄関階段と薬局看板がある。
    Zum Herzog von Weilingtom (1400) ウエリントン公の物有で、地下に階には1400からの
    金庫がある。18cにはダブリーフ装飾が正面にある。

5.町の略図

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24. ブルグスタインフュート Burgsteinfurt Steinfurts市内

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口15千人

1.歴史

890 ヴェルデン修道院の所有物として初言及、11c 貴族が堀のある居住城を築いた、
 1164 城は破壊後に再構築された、13c 城の北の集落に商人・職人・農家が住んだ、
 1338 貴族ルドルフは自治権を与えて村を独立させた、1347 都市権を授与された、
 1558 アノールド伯が荒廃した城を再建、17c 占領とペストと飢餓で住民はオランダへ流出、
 1806 仏軍の占領、1813 町はプロイセンに属した、1853文法学校・1926農業学校の設立、
 1936 州立工学部の設置、1975 シュタインフュートに併合された。

2.市壁  30m 0.01

   An der Stadtmauerの地名が残り。市壁は存在したと思われる。わずかに、Tuerke
   43とKircheStr.21に残されている。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  A

   宮殿の北側に、直径400mの楕円形の旧市街地が有り、古い木組の家が残っている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1561) 正面3列アーチに独自の切妻のある2階建の市庁舎
    は2階建の上の三角形の切妻は縦方向と横方向の梁を投影することにより調和を
    とっている。屋根のカイザースチールと呼ばれ、六角形の塔に見晴らし台が張出している。
     1922地階の鉄の柵が取り除かれ、窓のあるレンガ壁で囲まれた。二次大戦は無傷で
    生き延び、1965記念物として修復された。
 聖ヨハネスネポムク教会 Kath.Pfarrkirche St.Johannes Nepomuk (1716) 宗教改革後、
    1564プロテスタント教会となった。1660ミュンスター司教が町を占領して共同使用とした。この
    教会はシンプルで厳格な様式であり、1885に南に拡張して、新しい祭壇室を建てた。
    1968-71に内装は再設計された。
 大教会 Grosse Kirche (1370) 200m南の農民のための旧教会跡地に、ロマネスクの教
    会を建てた。1426-30に切妻のある塔が建てられた。1564以降プロテスタントの教会とな
    り内装は簡素となった。1658のルネッサンスのオルガンがある。1964-65修復とオルガンの更新
    が行われ、26レジスターの大オルガンとなった。
 小教会 Kleine Kirche (1471-77) 旧市街地にあるプロテスタント教会で、都市市民のた
    めの教会である。1807迄市長と評議会員の選挙はこの教会で行われた。シンプルナ後期
    ゴシックの単身廊のホール教会で、砂岩の小さな八角の塔がある。1985前面は改修時に漆
    喰が塗られた。二次大戦で爆撃されたが1950年代に修復された。
 スタインフュート城 Schloss SteinfurtRathaus (11c) 貴族はこの城を建て、世俗的な住
    居とした。1164城は戦争で破壊されたが、今のレイアウトで再建された。城には
    シュタインフュルデン伯爵の子孫が今でも住んでいる。最古の宮殿礼拝堂・騎士の広間など
    が保存されている。
 市博物館 Stadt Museum (1987) 十字軍の活動・宗教改革の導入・昔の生活など市の
    歴史と生活が展示されている。
 高校 Hohe Schule (1591) 伯爵アーノルド4世は、ラテン語学校をこの町に移した。大学に
    昇格させて・神学・哲学・法律・物理学・天文学・物理学の講義が行われた。正面は3部構
    成の十字窓と3段の切妻のある3階建の銅製フード付きの双塔で強調されている。1807
    ナポレオンが占拠し、1811-13は仏帝国法廷であった。そのご小学校で1851まで使われ、
    1867プロイセンは改修して地方裁判所とした。2次大戦で爆撃され改修後市庁舎として使
    われ、今は音楽学校と成人教育センターである。
 フック・バイファングの家 Huck-Beifang Haus (1607) 新しい幅の狭い2階建の建物にはヴェー
    ザールネッサンスの切妻がある。1940博物館に改装されて生き伸び1978市立図書館となった
 コーン・シュライバーの家 Korn Schreiber Haus (17初) 尖った高い切妻のある狭い2階建
    の木骨造の建物で、町で最古の住宅の一つである。片持ち構造のため張出した梁に
    上階の力が掛かるため変形している。1617-57には穀物書記の家族が80年間住んだ。
    20cに復元された。
 市ワインハウス Stadt Wainhaus(1445) ペントハイム・シュタインフュート伯が建てゲストが宿泊した。
    初めは2階建半木造切妻付半切屋根の建物だった。1490天井トラスに支持が加えられた。
    最古の木骨造の建物で、間仕切りはレンガで埋められていた。ワインはここで販売され、
    復された。1912現在の漆喰の仕上がりとなり、高級住宅・商業ビルとして使われた。
     1983市が所有し、1988補修して、1990巣立図書館となった。
 ホーリッヒ水車 Hollicher Windmuehle (1858) 町の北800mにあり、ホーリッヒ農業共同体が
    200年前の風車を稼働させている。研削を行う強力な機械であるが、採算は取れない
    が、丁寧に修理している。
 水車 Nieder Muehle (1352) 町でも最古の建物で、重要な粉引所であった。1819に
    2つ水車と2つの製粉機の記録が城にある。1864三つ目の製粉機が追加され、ライ麦・大
    麦・ソバなどを製粉した。1909洪水でダムと水車は流され、鉄の箱を付けた水車に置換
    られた。1957操業を終え、1995地元クラブが水車工場を借用して復旧し見学できる。

5.町の略図

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25. ディンスラーケン Dinslaken

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口66千人

1.歴史

10c 今の城のある丘に堀・壁のある集落があった、12c修道院と砦が建てられた、
 1273 ディートリッヒ伯が都市権を授与した、1420 城に拡大し、布とリネンを生産・販売、
 1540 ハンザ同盟に加入、1627 オランダ軍が城を焼いたが、後に再建された、
 1712 定期郵便バスの運行デュセルドルフ-バーゼル、1753 クレーヴェ公国の大学と裁判所設置、
 1816 プロイセンに属した、1850 接着剤.点火プラグ・鉄鋳物の工場の開設、
 1806 仏軍の占領、1813 町はプロイセンに属した、1853文法学校・1926農業学校の設立、
 1853 城はデブリース家が買収して蒸留所を設置、1909 石炭採掘の開始、1923仏占領。

2.市壁  40m 0.01

   中世市壁の内、北の騎士門とロートバッハ沿いと、東南のVoswinckels Hofは市壁を壊し
   1527に市壁の上から外に建物を建てたため建物の下部に、市壁が残っている。

3.門塔 1門0塔

 騎士門 Ritter Tor (14c) この町最古の門衛詰め所の奥に、アーチ屋根付きの小
     門があり、旧市街地と城を分けていた。この町の5市門の内唯一残っている。
     門衛詰め所は観光案内所になっている。

4.見所  C

   城には大きな地下駐車場を備えた新市庁舎があり、文化センターが併設された。
    城跡には屋外ステージの城劇場がある。
 市庁舎 Rathaus (1163) 城は何回も焼かれた後に、17-18c三翼に拡張・再建され
    た。16cに円塔は一時刑務所として使われた。20c初めに市に買収され、1984主塔・
    東塔・城壁を残して近代的に市庁舎として再建された。
 聖ビンセント教会 St.Vincentius Kirche (1273) 初め礼拝堂として建てられ、1436教
    区教会に昇格した。教会は初期ゴシックのレンガ造で、西塔は何回かフードの更新が行われ
    た。1945塔は大破し教会は下敷きとなった。1951再建され北西に新鐘楼が付けられた。
 ヴォスウィンゲルス ホフ博物館 VoswinckelsHof Museum (1527) 所有者は貴族で市壁の一
    部を壊して市壁外に新しい建物を建て、18cに今の建物に建て替えた。一次大戦後に
    子供の憩いの場となり、1955から博物館となり、1999大改修して充実した展示とした。
 ヒースフェルドの風車と水車 Hiesfeldische Windmuehle und Wassermuehle
   風車 (1822)かって穀物工場にあった風車は1922に操業を停止し、1976から製粉教会
     によって博物館として公開されている。
   水車 ()Rotbachの西岸にあり、水車と木造とレンガ造の建物は1991から工場博物館と
     して展示されている。

5.町の略図

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26. エメリッヒ Emmerich am Rhein

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口31千人

1.歴史

700 ユトレヒト主教区にエメリッヒ教区を設立しマルチン教会を奉献、 1040 大学教会を設立、
 1233 オットー・ズトフェン伯は町に昇格し都市権を授与した、1355 町はクレーフェ公国に属した、
 1307-1570 ハンザ同盟と関係して貿易で繁栄、14c 市壁と堀に囲まれ門で守られた、
 15c ラテン語学校を高校とし大学は1811まで存在、16c末まで栄え壮大な教会を建てた、
 1614 クレベ公国となりブランデンブルクと同盟した、1672 仏軍の占領で町は衰退へ、
 17-19c スペイン承継戦争・七年戦争・仏革命軍・ナポレオン軍で苦難、1815 プロイセン王国へ、
 1832 人文科高校の再開、1918-21 ベルギー軍が占領、1944 英空爆で大被害。

2.市壁 20m 0.01

   1238の市壁は、19cに門塔を含めて除去された。ライン川沿いの家屋の前面に、窓付の
   レンガ壁が再建されている。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   旧市街は、15-19c切妻レンガ造の建物で満たされていたが、1944の空襲で91%が壊さ
    れた。
 市庁舎 Rathaus (1938-39)戦災で壊された古いゴシックの様式で再建された。評議
    会室のタペストリーは、下ラインの植物から造られ、制作に10年を要した大作である。
 クリストス教会 Christus Kirche (1690-1715) ガイスト広場の中央にある説教教会で、
    オランダ様式で建てられた。2次大戦後の再建の際に仮天井が設置され、礼拝堂が
    上階にある珍しい様式の教会であり、集会室は地階にある。
 聖マティーニ教会 St.Martini Kirche (11c) ロマネスクの内陣・地下室・豊かな装飾で有名
    である。古い教会はレンガと凝灰岩で建られ、ゴシックの不規則な2身廊で、正面の3
    階建の角塔と地下室の上にロマネスクの内陣が位置している。
 聖アルデェガンディス教会 St.Aldegansis Kirche (1474) 1483西部と塔が追加された。
    1854と1909に教会は改修され、2次他戦後の再建中に、1871付けらていた尖塔ヘルメット
    は付けられず、その前の平らな塔が復元された。2000に43ベルのカリヨンが付けられた。
 ライン橋 Rhein Bruecke (1965)1.2km西に、1228mの吊橋が架けられた。ドイツで最
    長の吊橋で中央径間は500mである。一日に300隻の船が航行し、夜にはイルミネーションが
    点灯される。
 ラインプロメナード Rhein Promenade ()長さ1kmを超えるプロメナードは、遊歩道に多くの
    レストラン・カフェなどが並び、河畔の楽しい雰囲気を満喫できる。東端にはレベルの家があ
    り、大きな時計はライン川の船上から見える。
 ボルキー城 Schloss Borghees (17c)北3kmのボルギーザース森にある宮殿で、18cの中に
    今の姿に拡張された。2階建レンガ造の建物には、ドーマー窓のある寄棟屋根があり、
    東側には正方形の階段塔がある。今は文化の中心として使われている。
 シュタイン通り Stein Strasse (15-17c)二次大戦を生き延びた歴史的な2階建切妻付
    の建物が、この通りの西に保存されている。
    <15番地>「Dewette Telder」(15-19c)切石造で19cに全面を改修した。
    <19番地>「Zum Golden Pfau」(1700-19c)ベル破風を備え、19cのショーウインドウ。
 古い市場 Alter Markt ()赤煉瓦の舗装で、赤の広場とも呼ばれる。噴水があり
    彫刻で飾られている。高い階段切妻のある建物は、貴族が15cに建てたオランダ商館
    であり、19c初めには市庁舎として使われ、今はホテルである。
 ライン博物館 Rhein Museum Emmerich () 150を超える船の模型・レーダー・ライン川の地理
    ・町の歴史などを展示している。
 コーヒー技術情報館 東1.5kmに、焙煎機製作所のPrabatが工場施設内の博物館で、
    コーヒー技術の発展経過を紹介している。

5.町の略図

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27. ハッティンゲン Hattingen

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口54千人

1.歴史

8c サクソン人が定住しフランケン朝が征服、帝国裁判所の設置、 1005 皇帝ハインリッヒ2世は
    ベネディクト会ドヴェーツ修道院へこの集落を寄付、1250 ブランデンブルク公が町を焼いた、
 1250 市場と自由の権利を与えられた、1396 要塞化の契約を結んだ、1486 市場・道路・
   物品の税・免税・自治・の特権を得た、1412 ギルドの設立、 1554 ハンザ同盟に加入、
 1576 旧市庁舎や木組の家が豪華に装飾され全盛期に、1580 宗教改革の導入、
 17-18c 戦争やペストで衰退しブランデンブルク選帝侯に属した、1853ハインリッヒ伯が製鉄所を開設、
 1869 鉄道開通、町は市壁を越えて拡張、1815 プロイセン王国へ、1923-25 仏・ベルギー軍が
   占領して一次大戦の賠償金を徴収した。

2.市壁 240m 0.30

  1586-90の市壁は、200m×200mの旧市街地をグラ-ベン通り沿いに堀と共にルール砂岩で囲ん
  だが、1820に大部分は取り壊され、1960-70になると修復されることになる。現況は高
  さ7mで。北西に50mと南東に190mである。

3.門塔 2門1塔

 南東鉄門 (2003) 現代の芸術家が、南東のシュタインバーケンプタックの入口市壁に鉄製
    の梁を渡して新しい門を置いた。
 南ラポルタ・アペルタ (2010) 旧ブレーク門の外側に上半分をゼブラ塗装した方角門が文化都
    市を祝って建てられた。
 旧防衛塔 (16c) 7塔と5門が造られたが、今は南に砂岩造防衛円塔が1基のみ残っ
    ている。直径9m高さ15mの円塔で屋根は無い。

4.見所  C

   小さな旧市街には、珍しくマルクト広場が見当たらないが、狭い路地に古い様々な木組
    の家が残されている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1420) 町の中心に初め地階部分が市場の食堂として砂
    岩で造られ、肉販売も行われた。1576木骨造の上2階部分が乗せられ、1910まで市
    庁舎としてされ何回か立て直された。18cには大きな窓と漆喰塗りが施工され、尖
    った切妻屋根はマンサード屋根に置換えられた。1910新市庁舎へ移転後には、1932市
    博物館、1993復元工事後は芸術協会のギャラリーとなった。
 新市庁舎 Neues Rathaus (1909-10) 北の市庁舎広場に、石造と部分的に漆喰の2
    翼コーナー塔の建物が建てられた。ネオルネッサンスのアンレヒター石をベースに黄色のパラサイト砂岩を組
    み合わせたコンコースがある。
 聖ゲオルグ教会 St.Georg Kirche (820) 1200頃ロマネスクでルール砂岩を使って再建された。
    1424.29に戦争で破壊され、1450に3身廊で再建された時のゴッシクのアーチ状の柱とレンガ
    アーチ窓が残っている。1807-10の再建でバロックの装飾は取り除かれ、レンガ部分が増え
    塗装で塗りつぶされた。教会の塔は1976に風見鳥までの高さが57mと高くなった。
 市博物館 Stadt Museum (1611) 古い城の2階本館と3階別館の複合施設に、最初の
    コイン・最古のメッセンジャーボックス・地域の文化・芸術・写真などを展示。図書館には歴史書。
 古い税関 Alte Zollhaeuschen (1820) この町で最小の木骨造の家で、市壁と堀に
    沿って平屋で建っている。呼称と異なり税関ではない。
 鉄の家 Eisen Haus (1611) 2階建の木骨造の家で地階が狭く上階と切妻が張り出
    している。今は地位の博物館で珍しい展示物がある。
 木骨造の家 Fachwerk Haus
    (1553)Em Str.12 72の鉛窓を備えた2階建の木骨造の家で1982に移転された。
    (1587-88)Graben St.77 上階持ち出しの2階建の木骨造の家。
    (1550-70)Horst 3. 噴水のある木骨造の家で、1980に改築され今はレストラン「マインホルン」
    (1600) Johannis St.13 3階建の木骨造の家で、住家と店舗。
     して展示されている。

5.町の略図

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28. カーメン Kamen

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口43千人

1.歴史

1050 ヴェルデン修道院の資産台帳に初言及、12c アルテナ伯は堀と城壁で囲んだ城を建設、
 13c ケルン大司教は国境要塞として支配、13c中 都市権の授与、1396 都市権の再確認、
 1432 町は6門の市壁で要塞化された、16c 人口15百人の旧市街29haと広大、ハンザ都市へ
 15-18c 都市火災・戦争・疫病で町は衰退、1609 プロイセン王国に併合、
 1732 市の自治権の一部を失う、1906 ナポレオン軍の占領、1813、ギルド廃止、
 1813 再びプロイセンに属した、1873 石炭の採掘開始設。、

2.市壁 10m 0.01

  都市の防御機能は失ったが、市税と物品税の徴税権が残ったため、市壁の効用がま
  だあった。18c終わりに徴税権を失って市壁は崩壊し、石材はルター教会に使われた。東
  壁のブルク通りの交点に小さな痕跡がある。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  C

   旧市街地は広いが空地が結構ある。古い木骨造の家は少ない。
 旧市庁舎 Altes Rathaus () 3階建漆喰の四角い建物で、地階は開かれた店舗で
    あった。1976新市庁舎に移り、今は市図書館である。
 聖パウル教会 St.Pauls Kirche (12c) 最初のロマネスクの教会は、12cに砂岩で建替え
    られ14cに建て直された。教会の塔は1800の嵐で倒壊し、意図的に風上に倒して再
    建された。身廊は1744-49にロマネスクで建てられた。
 市庁舎薬局 Rathaus Apotheke () 2階建の木組の家で、珍しく柱廊の切妻である。
 木骨造の家 Fachwerk Haus マルクト広場の旧市庁舎の向かいには、美しい木組の家
    がよく保存されている。

5.町の略図

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29. レッヘニッヒ Lechenich Erftstadt市内

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口12千人

1.歴史

5c フランク時代に集落が築かれた、650 最初のケルン大司教はこの農場で収益を得た、
 1059 ケルン修道院がこの村を取得、1279 ケルン大司教が都市権を授与、市場・要塞都市建設、
 1301 旧城破壊、1306 ケルン大司教は新城・市壁拡張、1642 包囲で町は破壊・城は守った、
 1689 仏軍が城を破壊、その後再建なし、1756 地震で市壁の崩壊が進んだ、
 1794 仏革命軍の占領、1800-14 ナポレオン時代には州の要衝となった、
 1816-27 プロイセンに属し郡庁が置かれた、1857 市壁貫通の道路建設、
 1895 城の所有者は北側市壁を撤去した。

2.市壁 120m 0.10

  1250-1350に375m×450m<17ha>の四角い旧市街地を堀と市壁で囲み、破壊と破壊と再
   構築を繰り返した。最も古い石壁の遺跡は、エーベルスミューレの向かいの堀にあり、14cの
   市壁の遺跡は、ツエントバール・クロスターシュトラッセ・メルヒオーシュトラッセ・シュロスバール・シュタインシュトラッセに残って
   いる。1960壁の家の取り壊し後に、ワウンチバールで復元が行われた。古い市壁は荒石で
   造られ、14cにはレンガで復旧が行われた。北と西の角には要塞があり、南側には5つ
   の木製監視塔が置かれた。17cにはWallHaeuserとして、市壁を裏壁とした小さな家
   を建てて、販売又はリ-スしたため、家の裏に市壁のある事が多い。

3.門塔 2門0塔

  西門HerringerTorと東門BonnerTorは、幹線マルクト通りで一直線に繋がっている。後に北
   門としてPreierPforteが設けられた。税関が門の近くに置かれ、人と荷物に通行税が
   課された。  西門 (13と14c) 市門は跳ね橋を釣り上げていたが、1735に石橋たなった。内門に
    は木製扉を落とすための溝が残されている。14cの建設時にはレンガが使用された。
    1684の破壊は修復され、1709門は鉄桁で強化された。1769ゴシックの西側階段納屋が
    レンガで再建された。1965隣接家屋の解体により門は道路の中央に残された。
 東門 (13と14c) 土台は凝灰岩・石灰岩で造られ、後にレンガで補強された。1642の
    破壊後に1726再建され、1853にネオゴシックの2階建レンガ造の角塔アーチ門となり、刑務所
    の独房も造られた。1901道路の拡幅に伴い門は南に残された。

4.見所  B

   旧市街地は堀と市壁と2門に囲まれ、マルクトを中心とした小さな町である。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1862) ネオゴシック十字フロアーレンガ造・2階建ドーマー屋根の建物
    には、砂岩の窓が各階にあり、北側入口の上には町の紋章がある。階段の壁にに積
    み上げられた石は1752の建物の物である。
 聖キリアン教区教会 Pfarrkirche St.Kilian (1712) 単身廊バロックの建物で、教会の
    前には4階建の西塔がある。1717にはバロック玉ねぎドームのある塔が付けられた。
    1887-89再ゴシック化と聖歌隊を追加して今の姿になった。
 旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (1655) 2階建2棟のレンガ造の建物
    で片屋根が付いている。1722に改修され、1902ガストホフ「フランツィカーナ」が建てられ、
    修道院の一部が保存されている。
 旧牧師館 Ehem.Vikalte (1857) 傾斜屋根に3ドーマー室のある2階建レンガ造の建物は、
    初め牧師館として建てられたが、1970地階部が改造されて商店となった。
 クレッツの家 Haus Kretz (1862) 2階建レンガ造ネオゴシック石造の家で、前面に大きな
    ロゼットがある。
 エーベル・ミューレ Oebel Muehle (19c) 石積台座の2階建の建物で、中庭を囲んで建物が
    あり、住宅団地に改造された。
 旧納屋 Ehem.Lana Wirthaflich Scheuer (1765) 元納屋に属するレンガ造の建物は
    元憲兵隊の厩舎であった。
 石造の家 Bach Steinhaus (1817) 3階建クラシックの大きな4軸漆喰の建物で、片流れ
    屋根にドーマー窓がある。
 元公証人事務所 Ehem.Notariat (1900) 切妻がスレート屋根を越えて聳える2階建漆喰
    の建物である。入口は広い西側にあり、正面に階別のコーニスがある。
 旧薬局の建物 Ehem.Apotheken Gebaeude (1899) 薬剤師によって建てられた店舗
    と住宅で、2階には階段切妻がある。赤煉瓦の前面の窓や戸の周りに漆喰を塗った。
 旧地方裁判所 Ehem.Amtsgericht (1836) 2階建レンガ造の建物には前面に階段切妻
    がある。地階には大きな窓の会議室がある。
  Landesburg Lechenich (14c) 堀に囲まれた旧州議会議事堂の遺跡は、仏軍が
    撤退時に破壊し、その後放置され18cには廃墟となった。19cには壁と塔だけ残る。
 住居と商店 Wohnhaus und Geschaefthaus (18c) 傾斜した屋根と切妻のある2階
    建建物で1905改修。上階には窓の上に豪華な軒先ゾーンが走っている。中庭の入口
    扉は全面ガラス張りである。
 木骨造の家 Fachwerk Haus
    ○Zubentwall.31(17c)ヘッセン戦争後の町の廃墟に、市壁を後壁として建てられ、市
      から払い下げられた家である。2階建木骨造の建物で軒先に漆喰が塗られ、
      19cに改造された。
    ○Zehnt Strasse.6(17c)町に現存する最古の家の一つで、上階持ち出しに2階建木
      骨造漆喰塗りの建物。

5.町の略図

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30. リューデンシャイド Luedenscheid

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口73千人

1.歴史

9c ケルン大司教の税関が置かれ最初の救世主教会を建てた、1072 ケルン修道院に税を納入、
 1114 皇帝ハインリッヒ5世は城を建設、1268 市壁と堀が築かれ町となった、
 1288 アルテナ伯爵の領土へ、1425 市場権が付与された、1533 毎年4つの見本市を開催、
 1548 ハンザ同盟に加入、1530.1575.1589.1656.1681.1721.1723 大火事で木組の家は焼失、
 1756-63 7年戦争で仏軍が占領、1806-13 ナポレオンの支配、1813 プロイセンに属した、
 1945 英軍の占領下に。

2.市壁 40m 0.01

  リングマウアー通りとコルネリュス通りの間の中世の市壁の残り部分は、1980に保存でなく補強され
   た。石膏で埋められた半円の出っ張り20mと建物壁や地下室残っている。ツイーゼ通27の外
   壁と地下室と切妻、ルイーゼ通3-5の外壁、ツイーゼ通13の地下室と噴水に市壁が残る。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   旧市街地は直径240mの円形で狭いが、工業化に伴い周囲に拡大した。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1872-73) 3階建の旧市庁舎は人口増で狭くなり、1973に
    市庁舎は西北の文化市庁舎に移転し、旧市庁舎は市政人教育センターとなった。1984には
    市文化財となった。
 救いの主教会 Erloeser Kirche (1072) 最初のロマネスクの教会は、12cにはゴシックの聖堂
    と後陣になった。1822に老朽化して取り壊されたが、最初のロマネスクの塔は残された。
    1826古典主義の身廊が新設された。
 旧郵便局 Alte Post (1891-93) 町の北西に2階建の旧郵便局が建てられ、1985前面
    は改装された。1993の新郵便局開業の際には、郵便史50年の冊子が発行された。
 ノエンホフ宮殿 Schloss Neuenhof (14c) 南1.2kmにあり、1326に要塞化された城として
    言及された。1643風見鳥付き急傾斜屋根の2階建の宮殿が建てられた。1643戦争で破
    壊され、直ちに修復された。1693城は再炎上し1694拡張して再建された。1746東側
    に拡張してコの字型のバロック宮殿となった。18c周囲に堀を巡らせ石橋で渡った。

5.町の略図

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31. メットマン Mettmann

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口39千人

1.歴史

1072 ヘンリー4世は農場集落をカオザースヴェルト修道院に与えた、12c バーデンベルクの裁判所設置
 1363 この地方の行政の事務所を設置、13-14c 独自の市壁を持っていた、
 1424 公爵アドルフ7世は都市権を与えた、1624 裕福で827タラーの税収があった、
 1806 ベルク大公国をナポレオンが占領、1815 ウイーン会議でプロイセン王国に属し地区の中心に、
 1856 プロセン王から都市権が授与された、1945 2次大戦の被害は少なかった、
 1975 市となった。

2.市壁 50m 0.05

  13-14cに市壁は築かれ、市壁の一部がOberSt.9とAm Koenighof43の裏に残っている。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

  旧市街地では1960年代から大幅に新しい建物に置換られたが、アッパータウンの聖ランベルティウス
  教会周辺の中世の家並みは保存されている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1879) 12の大きな部屋がある旧市庁舎が建てられ、市長
    達が住み貯蓄銀行が同居していた。1904ミレニアムのお祝いで、市庁舎の前部に塔構造の
    前面装飾が付けられた。1945新市庁舎として南100mの古いレンガの建物を改造して移
    転した。1964旧市庁舎は解体され跡地に福音病院が建てられた。2004新市庁舎拡張
部分のエントラスに1904庁舎の塔時計が付けられた。
 旧市長室 Ehem.Burgermeisterei (1584) 400年以上前の2階建マンサード屋根の建物は、
   1624には市長の住居となった。1811登記所と公会堂になり、1980市の歴史館として祝会
   ・展示会・結婚式場などにも使われた。
 聖ランベリチウス教会 St.Lambertus Kirche (12c) 大きなロマネスクの教会で、塔と洗礼盤は
   今も残されている。1484ロマネスクの内陣はゴシックに置換えられた。1703横通路1705主通路が
   崩落して補修された。1881-83解体されてネオゴシックの教会となった。2次大戦後に補修さ
   れ1978にも修復が行われた。
          福音教区教会 Ev.Pfarrkirche Freiheits (1774-80)福音教会は聖ランベリチウス教会を
   共用していたが、1780に福音教会が奉献された。マンサード屋根の身廊と梨形帽子のあるバ
   ロックの西塔がある。内部には説教壇のみが当初から残り、その他は1965の改修時に置換
   えられた。オルガンは1974に追加された。
 ゴールドバーガー製粉所 Goldbager Muehle (1450) 製粉所として建てられ、1555から
   は裁判所として使われた。1715新しく水車が建設され、1771マンサード寄棟屋根の建物と
   なった。1944-46工場は稼働した。1954市が工場を文化財として買取り、文化的催物
   に使っている。

5.町の略図

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32. スタットブランケンベルク Stadt Blankenberg Hennef市内

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口6千人

1.歴史

1171 ケルン大司教はケルンのマリア修道院へ集落を通知、1150-80 ブランデンベルク城を建設
 1245 ハインリイヒ3世から都市権を授与され市壁建設、13c ハインリヒ・ハインスベルクは城を取得、
 1363 城と町はベルク公爵へ所有権が移った。15c ベルク公国で最大の事務所となった、
 1450 ベルク公爵は町を大司教区へ売却、1469 町を売却を取消す契約に合意、
 1583 アドルフ・ノイエナール伯爵軍が町を征服、17c スエーデン軍が数年間占領し破壊した、
 1805 独立都市からベルク大公国へ属した、1812 ウイーン会議でプロイセン王国に属した、
 1829 ワイナリーのため廃城と周辺を買収、 1913 葡萄園は個人に売却された、
 1934 町はHennefに統合された、 1953 BlankenbergはStadtBlankenbergに改名。

2.市壁 990m 1.00

  13cの市壁は旧市街地の周囲に残り、南側は2重の市壁がある。

3.門塔 0門2塔

 キャサニエン塔 Kathninen Turm (13c) 東門で、5階建の角塔の間にアーチ門山形ヘルメット
    がある。門の内側に木製門扉のスリットが見られる。塔は郷土博物館を収容している。
 堀塔 Graben Turm (13c) 北の入り口に市壁に接続して長方形塔で東門と同様な
    山形ヘルメットが付いている。

4.見所  C

  城址と市壁に囲まれた旧市街地は、1987記念物地区として保護下に置れ、木組の街並
  は歴史的文化景観として修復されている。14-15cの中心部広場には、家屋が並んでいた。
  最古の木組の家は1679であるが、多くの木組の家は18cに建てれた。
 ブランケンブルク城 Burg Blankenberg (1150-80) ザイン伯の兄弟は、城を強奪して居住
    した。1363城と町はベルク伯の所有となった。30年戦争では数年間もスエーデンが占領を
    続けその後は廃墟となった。1829ワイナリーのために城址と町の一部は買収された。
    1913ワイナリーはグリュンベルクのリチャードに売却された。1934上の城と中の城には4塔と市壁が
    残され、町が買収した。1985記念物に指定され、2006までに復元が行われた。協会
    は城跡を公園とハープガーデンとして管理している。
 聖カタリナ教会 St.Katharina Kirche (1245) 女修道院の教会として建てられ、シトー
    派の女性が使用した。1248教区教会として独立し、30年戦争で破壊され17cに再建
    された。2次大戦の終わりに火事となり、1950屋根と窓を修復した。1983火事で塔
    は屋根に焼け落ちたが、1987に再建された。1746のオルガンも焼け1987に新設された。
       ハンビッツアーの家 Haus Hambitzer (1679)町で最古の木組の家であり、2階建上階持
    ち出しの木組の家である。

5.町の略図

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33. バールスタイン Warstein

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口25千人

1.歴史

1072 グラーフシャフト修道院の設立文書に初言及、12c 新しい町が設立され製鉄が行われた、
 1296 隣町ベレッケと共に都市権を授与された、1307 丘に要塞が築かれ、町はハンザ同盟に加入、
 1630 地図では町は市壁で町は守られている、1739 製鉄所設立、1789 仏革命関連で内乱、
 1802 大火災で町の大部分は焼失し、町はVesuta側沿いに移動した、
 1802 ヘッセン・ダルムシュタットはヴェストファリア公国を設立、1816 ウイーン会議でプロイセンに属した。

2.市壁 10m 0.01

  1307のバールシュタインの丘には最高地点の教会があり、市壁と門塔で町は守られていたが、
    1802の大火事で焼失し、その後市教会や市庁舎は南に移転して、丘には防備施設は、
    殆ど残っていない。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  D

   南の新市街地の中心部には。多くの木組の建物が建ち並んでいる。
 古い聖パンフラティウス教会 AlteKirche St.Pankratius (1237) 13cに大きな正方形の西塔
    が建てられ、身廊は短い矩形で17cにバロックに替えられた。1858町教会の名前を奪われ
    た。内には、1650の高祭壇、1985の祭壇側面の受胎告示の絵画がある。
 聖パンフラティウス市教会 St.Pankratius StadtKirche (1853-57) 大火災で町は南に移さ
    れ、それに伴って新しくレンガ造の大きなネオゴシックのホール教会が、高さ86mの細長い西塔
    と共に建てられ、1957の大改修で今の姿になった。64レジスタ-のオルガンがある。
       クッパーハーマーの家 Haus Kupferhammmer ()城のような2階建3翼の建物は、実業家の住
    居であったが、今は市博物館となり、美術品や銅狩用品の収集物がある。

 十分の一税館 Zehnt Hof ()丘の上にあるグラーフシャフト修道院の十分の一税の徴収保管
    のための建物群である。

5.町の略図

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34.ヴェアール Werl

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口31千人

1.歴史

900 ヴェストファーレン伯はヴェール城を建てた、1085 ハインリッヒ・ヴェール伯がバーダーホルンの司教になった、
 1100 ルーポルド伯はこの町をケルン教会に寄付、1197 アルンズバーク伯はヴェーディングハウゼン修道に寄贈、
 1272 町は都市法を取得、1389 ケルン大司教とマルコ伯爵の争いで町は破壊された、
 1486 大火事で市壁の半分が壊された、1528 ペスト流行、1548 大火事で半分焼失、
 1580-81 疾病で2200人死亡、1582 宗教改革、1622 ブランデンブルク軍、1633 ヘッセン軍、1636帝国軍、
 1636 大火事125戸、1738 大火事45戸、1744 放火で44戸、1761 7年戦争で大被害、
 1803 世俗化のヴェストファリア公国はヘッセンダルムシュタットへ、1816 ウイーン会議でプロイセンに属した。

 

2.市壁 400m 0.21

  13cの市壁は、幾度も壊されそして再建された。1428の大洪水と1486大火災で市壁は部分的
   に壊された。市壁は、南・東・南西に残っている。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1327) 石造中世風の大きな建物は、20cまで使われ、広
    範に改修された後に、公立音楽学校となっている。
 市歴史博物館 Staedtsches Museum am Rykenberg Wendelin Leidinger Haus (14c) 古
    い城の邸宅に、歴史的な都市モデル・塩抽出の歴史・ウエルルへの巡礼などを展示している。
 フランシスコ会民俗学博物館 Museum Forum der Yoelker (1962) 世界の芸術や日常の文化に
    関する、フランシスコ会が世界で集めた1万点を超える文物を展示する、ウエストファリア最大の民族
    博物館である。
 古い巡礼教会 Alte Wwalltahrts Kirche (15c) 巡礼が始まると、それまでの教会は狭
    くなり、1786バロックのヘレンキルヘが新しく建てられた。1906には新しい巡礼大聖堂が建られ
    て移された。
 巡礼大聖堂 Wallfahrts Basilika (11904-06) 新しいロマネスクのハレンキルヘは銅尖塔のある双
    角塔を有する西正面は強力である。教会には「被災者の慰め手」と呼ばれる聖母マリア像
    があり1170から「リングポスト椅子のマドンナ」があるため、毎年25万人以上の巡礼者が訪れ
    ている。1953から前庭には全ての教皇の紋章がある。
 聖バルウルガ教会 ProsteiKirche St.Walurga (14c) ゴシックの大ハーレンキルヘ、高さ62mのロマネスク
    の塔にバロックのフードが付いている。
 城の廃墟 Schloss Ruine (1519-22) 旧市街の南西に、緑砂岩の4塔で構成された選帝
    侯の城があった。1756-63七年戦争で大きく損傷した、1820に塔を除いて撤去され、石
    材は売られた。今跡地には病院が建っている。
      パッペンの家 Haus Papen (1720)ケーニング家の旧タウンハウスで、都市火災の後に中世の地下室
    の上に建てられた。18cの精巧な漆喰の天井がある。
 マリエン薬局 Marien Apotheke (1800)昔は、商店や宿屋としてこの建物は使われた。
 木組の家 Fachwerk Haus ()キルヘ広場の西クレーマーガッセには、美しく揃った1426からの木
    組の家並みが続いている。多くの家は漆喰が塗られ外からでは判然としない。

5.町の略図

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35. ヴァーネ Werne

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口30千人

1.歴史

800 ミュンスター司教は礼拝堂を建設した、1139 新設のカベンベルク修院に属した、
 1182-95 ミュンスター司教の税関が置かれた、1253 ミュンスター・ドルトムント・ピップシュタットの都市同盟成立、
 1302 最初の要塞建設、墓地も囲まれた、1362 ミュンスター司教が都市権を確認した、
 1400 デルマルク伯アドルフ4世は町を焼き払った、1415 市壁・門・塔で守りを強化、1470 ハンザ同盟、
 1585 市壁をさらに強化、1586 都市火災で43戸焼失、1671-73 カプチン派修道院設立、
 1803 ナポレオンのベルク大公国へ、1814 ウイーン会議でプロイセンに属した、1876 温泉開設。

 

2.市壁 40m 0.01

  1302最初の市壁、1383木柵・堀で囲む、1415拡張し市壁・門・塔で守った、1585市壁を拡張さ
   らに強化、17c三十年戦争で市壁は破壊、1777市の資金難から市壁の石材売却、1821市門
   の取壊し、1843最後の市門撤去。市壁は、西壁通と教会中庭西にわずか残っている。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1512-14) マルクトに面する側に3連アーチが開いた3階建切妻の
    市庁舎が建てられた。1561三角形の切妻には市の紋章が付けられた。1974東北部に新、
    市庁舎を建てて移転し、今は図書館となっている。
 カプチン会修道院 Kapuziner Kloster (11671-80) 墓地に修道院と修道院教会が建てられ
    た。17-19c隔離病院として修道士が看病した。1903仏軍が占領して国の所有とした。
    1843世俗化で学校に転用された。1869修道院は独自の建物を建てて存続させた。1887
    修道院は再開された。修道院は地階石積上階木組漆器塗りの建物で4翼ある。
 聖クリストフォヌス教会 St.Christophorus Kirche (11c) カトリックの教区教会で、1139-1803は、
    近くのカプチン会修道院に属していた。15c教会塔が火災で崩壊後、1450に修復された。
    1840に聖人クリストフォヌスのリンデンの木の彫像が奉じられた。1995-98教会内部が復元され、
    後期ゴシックの八角形洗礼フォント、15cのマドンナ像、聖歌隊の窓は有名である。1918に3ペタル
    55レジスターのオルガンが付けられた。
 古い石造の家 Alte Steinhaus (13c) 城の役人が建てた最古の切妻付の石造の家であ
    る。1400からはレンブルクの騎士が所有し、1560-1806は貴族が住んだ。1983市立図書館へ。
 カールポレンダー市立博物館 KarlPollender StadtMuseum (14c) 古い事務所建物に1977から
    市歴史博物館が開館した。1691建物は市長が住居と事務所として拡張し、1800には漆喰
    に覆われて古典主義となった。19cには個人が購入し、1962中学校の教師が小さな博物
    館を設置した。2003に、14c最古の2階建木組の家にも展示が加えられた。
 木組の家 Fachwerk Haus (18c)二つの切妻木組の家で構成された店舗兼住居で、1850
    に左側の店の前面が建てられ、右側は1700の幅の狭い木組2階建の建物であった。
    右側は2009に解体され、古い木材を再利用して堅固な前面を構成した。

5.町の略図

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36. ヴィッパーヒュルス Wipperfuerth

ノストラインヴェストファーレン州 <NW> 人口21千人

1.歴史

1131 ジーブルクの書に町として初言及、1217-22 ケルン大司教エンゲルベルト1世が免許特権を授与、
 1182-95 ミュンスター司教の税関が置かれた、1253 ミュンスター・ドルトムント・ピップシュタットの都市同盟成立、
 1225 ベルク伯ハインリッヒ・リンブルクは都市権を授与、1283 独自の裁判所があり1770まで支所が管理、
 1275 ハプスブルク王ルドルフは鋳造所を町に移した、1328 バイエルン王ルードビッヒの特権で独初の造幣、
 14c ハンザ同盟の会員であった、1404 ケルンに包囲され占領された、
 1333.1352.1368.1404.1412.1465.1511.1585.1795 町は大火事に見舞われた、
 1806 バイエルン王マクシミリアンからベルク大公国に譲り渡された、1815 ウイーン会議でプロイセンに属した、
 1823 仏軍が占領、1945 3月空爆、5月米軍が占領。

 

2.市壁 40m 0.01

  13cの市壁は、意外と狭く直径300mの円から教会広場がはみ出した形に4門を置いた。
   1795に大火事があり、その後市壁は19c初めに解体された。わずかに残るのは、クロシターベルク
   ・ヴィンターレ通りとホー通りの交点付近である。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  C

 旧市民会館 Altes Stadthaus (1786) 古い建物館は、1795の火事に生き残り市民が
    住居として使ったが老朽化し、1975市が取得・改修して、 Altes Stadthaus と名付け、
    1895市民会館とした。
 教区教会聖ニコラウス Pfarrkirche St.Nikolaus (1189) ケルンの聖アポステル教会の支部として
    ロマネスクの教会が建てられ、この町の教区教会として、幾多の災害を受けたが修復され、
    1868-76には、構造も変えられタカサ57mの高塔が建てられた。
 プロテスタント教会 Ev.Kirche (1807) ネオゴッシク大きな大きな単一身廊の教会で、マルクトから
    の壮大な眺めを呈している。
 フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (1657-1747) クロスターベルクに修道院を建て
    1662東棟、1674修道院教会を建て完成した。1747高校を併設するため西塔を市壁迄延長
    する市議会の承認を得た。1795の大火事で燃えたが、直ちに再建した。1803世俗化によ
    解散となり、1815プロイセンが所有して裁判所・刑務所・中学校・高校として便われた。
 古いセミナー Altes Seminar (1910) 教師のセミナーとしてプロイセンが設立した。1974市の所有
    となり修復して、市議会ホール・市政・市図書館・体育館として使用している。
 カール・ヨウゼフの家 Karl Josef Haus (18c) 大きな屋外階段が特徴的な建物で、商人が
    所有していた。1985までは老人ホームで使われ、1911レストランになり、2018にHaus am Markt。
 旅館ペンネ Gasthaus Penne (15c) 1795の火事にマルクトで生き残った最古の建物で、ナーゲル
    男爵が所有したが移住して旅館となった。
 オールの館 Villa Ohe (18c)町の7km西に、この地域経済の重要産業であった火薬工場経
    営者の邸宅があり、歴史教会がベルギシュ・メルキッシュ火薬博物館を運営している。

5.町の略図

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37. ヴューラベルク Bueraberg Fritzlar市内

ヘッセン州 <HE> 人口0.6千人

1.歴史

680 フランコニア帝国の要塞城が築かれた、約8haの要塞を厚さ1.5mのモルタル壁・3門・塔で守った、
 700 要塞は新しい厚さ1.8mの壁で補強され門は減った、聖ブリシダ教会は中央台地上に建てた、
 742 最初に司教にはヴィッタがなり、760に死ぬまで住んだ、750 市壁はサクソン人の侵略に備えて
    厚さ2.7mに再度強化された。774サクソン人が侵攻したが住民は要塞に逃げ込んで抵抗した。
 804 サクソン人の降伏後は、軍事的重要性を失って中心はフリッツッラーに移った、
 13c 衰退して居住者は居なくなった。

2.市壁 30m 0.01

  市壁の跡の石積は2重に30mは残っている。東南部の門の領域には、要塞の壁に沿って砲台
   の跡がある。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  D

  フリッツッラーの西南3kmの山の斜面にある。13cから無人であるため、その後建てられたブリギダ
    礼拝堂と墓地があるだけの草原である。
 ブリギダ礼拝堂 St.Brigida Kapelle auf dem Bueraberg (8c) 要塞の中心部に、砂岩
    石灰モルタルの周壁に木造の礼拝堂が建てられた。

5.町の略図

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38. ディレンブルク Dillenburg

ヘッセン州 <HE> 人口23千人

1.歴史

1130 ディレンブルクの建設、1344 バイエルン皇帝ルードビッヒは都市権を付与、
 13-14c ナッソウ家が山頂にディレンブルクを建てた、16c ナッソー家ディレンブルク伯が居城を城跡に建てた、
 1536 近代的な要塞に拡張、1538 ラテン語学校設立、1567-72 ヴィルヘルム・オラニエンは城に亡命して、
    オランダ自由闘争を継続、1634 スエーデン軍による略奪、1723 大火災で町の半分200戸焼失、
 1760 七年戦争で仏軍が城を破壊、1768 街の再建のため200年間の免税、、
 1806 ナポレオンはベルク大公国の君主となった、1813-15 ナッソーオレンジ公国へ、1816ナッソー公国へ、
 1867 プロイセン王国へ属した。

2.市壁 40m 0.01

  市壁は、1588-1620に建設られ、わずか残るのは東側の上門から南にみられる。
   1795に大火事があり、その後市壁は19c初めに解体された。わずかに残るのは、クロシターベルク
   ・ヴィンターレ通りとホー通りの交点付近である。

3.門塔 0門1塔

 ティル塔 Til Turm (1597) 北の川岸に2階建円錐屋根の円塔が大きな木の下に、市壁
    の一部として残っている。
 下門 Unter Tor (1531-33) 1594と1737に改修されたが、19cに撤去された。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1724) 火事の翌年に新しく建てられ1930まで市庁舎と
    して使われた。2階まで石積の上に3階の木組の上階が乗っている。マンサード屋根の上に
    鐘楼があり、今は観光案内所と、催物会場となっている。1909には市長を含め11人で
    市政をを行い、別に警察2名と夜警2名が居た。
 市庁舎広間 Rathaus Saal(18c) 大広間には1556のオランダ・フランドル画家が描いたウイリアム・
    オレンジ伯の集合絵画の複製と、大きなシャンデェリアが置かれている。
 地方農場 Lahdgestuet (16c) 500m南にあり、オレンジ・ナッソー家のための農場として設け
    られた。今は馬の飼育と乗馬調練が行われ、1719建設のオランジェリーに馬車博物館がある。
 教区市教会 Ev.StadtPfarrkirche (1490-91)墓地にあった1454の聖マリア礼拝堂の所に
    教会が建てられ、1530の宗教改革でプロテスタント教会となり、1594-97に身廊と西塔を説教
    教会に改築した。1739まで、ナッソー・ディレンブルク家の墓所として地下墓所が造られた。
    1760の火災後に1771-72再建された教会は教区に戻された。1988-90内装が改装され、2014
    -16屋根の改修が行われた。今の教会は後期ゴシックの石造漆喰塗りのホール教会で、1902聖歌
    隊階段塔に八面の尖ったヘルメットが付けられた。
 ディレンブルク城 Burg Dillenburg (12c)ナッソー伯によって、石基礎の上に木組の城が山頂
    に建てられ、1325には破壊られた。15c中には拡張再建され、15c後半にはナッソー家の居所
    となり、住居と防備の近代化が行われた。1522-36放火に耐える20mの高さの裏内壁が
    300mにわたって築かれ、地下に大規模ケースメイトが備えられた。30年戦争には耐えたが、
    7年戦争の1759に仏軍が占領したが取り戻した。1760の仏軍砲撃で大破され、1768地上
    施設とケースメイトが爆破され、城は終わりを迎えた。
 ハルティグの家 Hartig Haus (1723) 大火災の直後に2階建の木組の建物が建てられた。
    ハルティグはドイツ林業学校を設立経営した。1979には多大の費用で家を復元した。
 古い牧師館 Altes Pfarrhaus (1531-33) 領主伯爵が市教会の隣に建てた、2階建木骨
    造の建物。
 古い事務所 Altes Amthaus (1499) 最古の木組の家で、家の中心部分は1528に追加さ
    れた南東部で、1595には完成した。この建物は伯爵家従業員の宿舎であった。石基礎上
    の2階建木組み部分と3階建定海持ち出しの木組の部分は判別できる。1989に復元された。
 ウイルヘルム塔 Wilhelms Turm (1872-75) 高さ270mの城山の上に、オレンジ家ウエルヘルム1世を記念
    して建てられた。正方形の博物館の上に石造3階建角塔が立てられ、屋根の尖塔は周囲の
    の4円塔で飾れている。円形の螺旋階段で登る事ができる。博物館には、町の歴史と城の
    経緯が展示され、地下防衛システム(ケースメイト)の見学もできる。

5.町の略図

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39. フレールハイム Floerheim am Main

ヘッセン州 <HE> 人口22千人

1.歴史

828 フランク族の集落から村が生まれ初言及、922 ケルン大司教ヘルマン1世は所有権を確認、
1270 マインツ大聖堂の支部に売却された、13c マイン川の水運管理のため強い要塞を築いた、
 1595-1636 魔女裁判が行われた、1631-36 30年戦争でスエーデン軍が占領し支配した、
 1765-1914 ファイエンス磁器工場開業、1803 ナポレオンはナッソー・ヴァイルブルク公国で支配、
 1806 ナッサウ公国に戻った。1867 プロイセン王国へ属した、1918-20 一次大戦後仏が支配、
 1942-45 二次大戦で大被害を受けた、1945 ヘッセン州へ。

2.市壁 30m 0.03

  13cから鉄道線路から南の旧市街は、市壁で囲まれていた。
    今は、マイン塔の東にわずか残るだけである。

3.門塔 0門5塔

 マイン塔 Main Turm (16c) 全存する最古の建物、市壁の一部として舟運を制御するた
    めに設置された。2階建の荒石造円塔の上に八角形見張階と八角錐屋根が乗っている。
   <以下、郊外にある4基の地方塔が再建されている。>
 Floersheimer Warte (15c) 西北2.2kmのウイーカー地区に、マインツ大司教はライン右岸の北部国
    境に見張り円塔を建てた。1803の世俗化後役目を失って荒廃したが、1996再耕作会社が
    残っていた基礎の上に以前の形状に基き、高さ30mの石積4階尖塔付きの円塔を復元して
    レストランとして使っている。
 Erbenheimer Warte (1497) 西北6kmのマインツ・カステル国境に、Mainz Land wehrの一環とし
    て尖った石の屋根を備えた4階建の見張塔を建てた。今はカステル地方歴史教会が管理し、
    白く塗られている。
 Bachgauer Land Wehr (15c) マインツ大司教が、堀と二重壁で囲んで4階建高さ28mの円錐
    屋根付きの円塔を建てた。フランクフルト見本市の開催時には税関収入を可能とした。
 Radheimer Warte (1492) 町の北の丘の上に、高さ22mの円錐屋根付き円塔を建てて、
    マインツ選帝侯領内の交易路を確保した。1972塔は復元され登れるようになった。

4.見所  D

 聖ガルス教会 St.Gallus Kirche () 単塔3廊のホール教会。

5.町の略図

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40. ゲッツェンハイム Goetzenhein Dreieich市内

ヘッセン州 <HE> 人口5千人

1.歴史

11c 農民の集落から村に発展した、1200 計画的な市街地が造られ市壁・堀・塔で囲んだ、
1215 イーゼンブルク伯は南1kmに宮殿と教会を建設、1418 町はイーゼンブルク伯の所有となった、
 1541 宗教改革を導入したが教会は閉鎖された、17c 戦乱と疫病で人口は1/3になった、
 1754 ルーテル教会教区となり1776ルーテル教会が建てられた、1816 ウイーン会議でヘッセン大公国へ、
 1824 合併してドライアイッヒに含まれた、1977 周辺の町を統合して市となった。

2.市壁 880m 0.77

  1200からの市壁は、旧市街地を卵形に囲んでおり、南側に市壁が相当残っている。

3.門塔 0門0塔

  見当たらない。

4.見所  D

   北2.5kmにはホフグート・ノイホフがあり、大小の木骨造の建物と農場・庭園・遊具が有り、観光
   客を集めている。
 市庁舎 Rathaus () 旧校舎で2階建の四角に建物。
 ルーテル教会 Ev.Kirche (1776) 100年間カトリック領主との争いでこの町になかったルーテル教会
    が、やっとバロックで建てられ、1730ガラス画家によって硝子窓が付けられた。
 フイリップスアイッヒ宮殿 Schloss Philippseich (1675) 南1kmにイーゼンブルク伯は2階建木造の
    狩猟小屋を所有し、1715に宮殿や教会を建て、郡の中心の居住地となった。1794-10に
    新しい宮殿が建てられ、1885内部には肖像画や風景画・英国彫刻や象牙細工などが飾ら
    れた。1920イーゼンブルク伯爵家が段絶して、イーゼンブルク・ビアスタイン家に移った。1941に私有
    となり、改革は免れたが、私有で立ち入れない。
 木組の家 Fachwerk Haus (18c) Wall Strasse.3.5にあり、街でも古い木組の建物。

5.町の略図

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41. ヘーヒスト Hoechst im Frankfurt

ヘッセン州 <HE> 人口16千人

1.歴史

260 ローマはライン川の右岸を放棄した、830 ドイツ最古のユスティヌス教会の建立、その西に集落、
10c マインツ大司教の領地になった、13c マインツ関税徴収のためのZollburgを建てた、
 1355 チャ-ルズ4世は町の権利を付与した、1356 チャ-ルズ4世は町に市場権を与えた、
 1396 フランクフルトと共に町は破壊後すぐ再建、15c 町は2回拡張した、1586 町の半分焼失、
   1622 帝国軍占領、1632スエーデン軍占領、1746-96 磁器工場の設立、
 1771 伊貿易商ボロンガは事務所と宮殿を建設、1803 ナポレオンのナッソー公国に属した、
 1866 プロセンに属し郡庁に、1919-30 一次大戦後仏軍が占領、1928 フランクフルトに統合、
 1945 二次大戦の被害は小さかった、1945-63 二次大戦後米軍が占領。

2.市壁 470m 0.45

  1396-1432町で最初に拡張された市壁は、その後の町の拡張で陸側の市壁と2つの門は取壊
   されたが、洪水防御効果のある川側の高い市壁は残された。港の岸壁建設で市壁は2m埋
   められた。残った市壁は1976に補修された。

3.門塔 1門2塔

 マイン門 Main Tor (14c) 税関門の外側にマイン門があり、アーチが残されている。
 牡牛門 Ochsen Turm (13c) 3階建石造屋根付きの円塔は、元独立望楼であったが、
    市壁の南東の隅塔として残された。
 関税塔 Zoll Turm (1360) 関税門のある角塔は、14cに設置され30年戦争時に強化さ
    れた。1664に損傷したがすぐ再建された。3階建の門塔はマインツ選帝侯によって使用され
    1802からは関税検査官の事務所と住居になった。1866プロイセンによりフランクフルトに併合され
    関税は解除された。1870内部は改造され、現在の屋根となり学校として使われた。
1898小学校の移転後は歴史教会の資料館となり、1899地元の博物館に昇格した。
    塔は1955と1979に改修された。

4.見所  B

   1928迄は独立した町であった旧市街地は、1396にマインツ選帝侯とフランクフルトとの戦いで、教
   会を除いて破壊された。再建に際し拡張され、1475までに旧市街地は左右に2倍に拡張さ
   れた。1586と1778の大火災と30年戦争で損傷したが、多くの古い建物が残されている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1594-95) 1586に火事で焼失した跡地にルネッサンスの市庁舎
   が建てられ,1844迄市庁舎として使われた後は老朽化で売却された。1874-75に2階建レンガ
   造の建物が再建され、1876に「Zur Stadt]としてレストランを開業したが、1880に倒産して
   売却された。次の所有者は建物を再設計してレストラン「Zum Alten Rathaus」を開業した。
    1925に改装され、1929に連邦教育図書館となった。今は住宅である。
 ヘーヒスト宮殿 Schloss Hoechst (13c) 前身の関税城は周壁掘削と館建設で始まり、1533
    の都市権授与でルネッサンスの宮殿は成長した。16-18c元の建物は1586の都市火災と30年戦争
    で破壊された。17c終りに新しい城が再建された。城跡の石材はボロンガ宮殿の建設に使
    用され、丸天井の地下室が残された。1803城はナッソー公国の所有となり、1866プロイセンに移
    った。1908アドルフ・ブルーニングス家が購入して改築して城跡を公開した。1945米軍が接収し
    てAFNの送信所とした。1961ヘキスト社は城を購入して歴史博物館として公開した。
     堀の橋を渡るとルネッサンス2階建の門衛の建物があり、城の本館は長方形で北西の角にドー
    ム付きの円塔があり、本館南西にはバロックドームのゴシック6階建の塔がある。
 新宮殿 Neues Schloss (16c) マインツ選帝侯のゲストハウスとして機能し、1803世俗化後ナッソー
    公国、1860プロイセンが所有した。1908ブルー-ニング家が購入してゲストハウスとアパートとし、1918-
    30仏軍、1945-66米軍が接収、1962ヘキスト社が取得しゲストハウスとして使い、2002ドイツ記念碑
    保護財団に売却して今は高級料理店と催物会場である。
 ユースティヌス教会 Justinus Kirche (830-50)マインツ大司教はこの町に最古の教会を建てた。
    マインツ大司教はイタリアから聖ユースティヌスの骨を持ち帰り、850に奉献した。1090教会はベネディクト
    会に寄付された。1296世マルガレートに奉献され、1419拡張してゴシックの内陣のある3通路の
    ある大聖堂となった。1442北ポータルは豊かな装飾が追加された。15c南東に大内陣が付加
    され多くの祭壇が加わった。1930-32構造が復元され、1980家具が復元され、2009屋根が
    修復された。
 聖アントニター修道院 Antoniter Kloster (1441-43) 1802世俗化で廃止されたが、2階建の
    一部が残ている。
 ダルバーガーの家 Dalberger Haus (1582) ルネッサンス3階建の建物を1582にマインツ選帝侯が買取
    った。1889ゼラチン工場となり、1926市へ売却られ、1968老朽化での解体を反対され、磁器
    製作所が負担して1977に改修した。今はアパートと宗教施設が使用している。
 グライヘン・クローシュの家 Greiffen Clansches Haus (1590-1600) ルネッサンス切妻3階建の家は、
    1936内外を大改修して、新しい屋根と石膏を付けられた。
 鯉の家 Zum Karpfen (1520) ゴシックの木組の建物で、30年戦争で壊わされ、1633に新築
    されて食堂とした。1973漆喰が除かれ昔の姿で復元された。
 クロンバーガーの家 Kronberger Haus (1577-80) 1326に貴族が取得し、16cにルネッサンスで建替
    えた。1862市が取得し、1870-75クラシックな市庁舎に改築され1875-1909市庁舎として使わ
    れ、後に市庁舎はボロンガロ宮殿に移った。市庁舎の移転後は、学校や図書館として使わ
    れ、1994からは磁器博物館が置かれた。
 錨の家 Haus Zum Anker (1483) ゴシックの木造3階建の建物は、旅館として建てられ、
    1586の大火事を生き延び1973に火事まで使われ、1975に復元された。
 新町 Neu Markt (1768) バロックのボロンガ宮殿が特徴的で、1908から市庁舎が入っている。

5.町の略図

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42. ランゲン Langen

ヘッセン州 <HE> 人口38千人

1.歴史

874 王ルードビッヒからロルッシュ修道院の贈物に記載、13c 交易路の交点の集落、
1338 町の要塞の建設、1532 宗教改革導入、1550 ファールガッセを舗装した、
 1600 ヘッセン・ダルムシュッタトへ墓所として売却、1721 ボルクスガルテン宮殿を建て夏の別荘に、
 1813 ヘッセン・ダルムシュッタトから市場権を、1883 都市権を授与された、1818 郵便局開設、
   1848 鉄道開通、1918 一時仏軍が占領その後ワイマール共和国へ、1845 米軍無血占領。

2.市壁 70m 0.02

  14cの市壁は、Stumfer Turmの南側にわずか残されている。

3.門塔 0門2塔

 切株塔 Stumpfer Turm (14c) 塔は、14c初めに建てられた帽子のない円塔で、
    養魚池小門としてアーチ型の市壁開口部が500年遅れて設けられた。
 トンガリ塔 Sptzer Turm (14c) 昔の防衛塔の直径6m高さ20m壁厚1mの円塔で、八角形の
    赤い帽子が付いている。一時刑務所として使われ、頂上の輪はコウノトリの巣台では。

4.見所  D

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1826) 古典的な四角い2階建の建物に建替えられた。
   1974新市庁舎に移った後は市立博物館となり、後期印象派画家の豊富なコレクションがある。
 市教会 Stadt Kirche (1883) ネオゴシックの教会は、ヨハン・ホルストによって建てられた。
    1959内部は当時の様式に改装された。1997身廊はネオゴシックになった。

5.町の略図

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43. リュッセルスハイム Ruesselsheim am Main

ヘッセン州 <HE> 人口65千人

1.歴史

6c フランコニア人の入植地、840 ロルシュ帝国の資産、1275 ミュンゼンベルクのヴェルナーが支配、
1323 クロンベルクの騎士ハルトルートへ資産売却、1355 カッツネルボーゲン伯は収入の一部を遺贈、
 1399 要塞の建設開始、1500 カッツネルボーゲン伯は町の全権を取得し公邸を置く、
 1437 皇帝シギスムントから都市権を授与された、1474 伯爵家が断絶しヘッセンが引き継いだ、
   1574 皇帝カール5世はシュマルカルデン戦後要塞撤去、1560 要塞の再建し30年戦争中維持した、
 1635 ペスト流行、1686 ヘッセン伯は都市権を再更新、1688 仏軍が占領して要塞を爆破、
 1862 オペル工場を開設、1945 空爆の被害はあったが戦後急速ぬ再建。

2.リュッセルスハイム要塞(Festung)80m 0.08

  1339にカッツネルボーゲン伯は要塞を開始し、城壁・堀・5防御堤で旧城の周囲に4翼の要塞を
    1546までに完成した。17cの30年戦争中も維持され、1689プファルツ戦争で仏軍が占領
    破壊した。1976町は東ロンデルを発掘・整備して産業博物館を設置した。

3.門塔 0門1塔

  ベルナ公園の北西の隅には、胸壁のある2階建の円塔がある。

4.見所  D

 オペル美術館 Opel Villa (20c) 要塞の西南にオペルの別荘が20cに建てられ、
    今は芸術・文化のコレクションが展示されている。
 ベルナ公園 Verna Park () 公園には、AlteMuehleや円塔などがある。
オペル大工場 Opel Fabrik (1862) 大規模なオペル自動車工場がある。

5.町の略図

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44. アルケン Alken  UnterMosel

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口0.7千人

1.歴史

1200 ハイデルベルクのプファルツ伯がトラウント城を建設し、トリアーとケルンと紛争となった、
1248 和平条約で城と町はトリアーとケルン両選帝侯の所有となった、13c 町の市壁完了、
 13c トリアー大司教と選帝侯共同の町の特権が授与された、
 1332 バイエルン王ルードビッヒはフランクフルトと同様の権利と自由を授与した、
 1346 皇帝チャールズ4世はこれらの権利と自由を確認した、
   1689 城はプファルツ承継戦争で仏軍に破壊され廃墟となった。

2.市壁 50m 0.08

  13cモーゼル川沿いに150m×100mの狭い市壁が築かれた。市壁の跡らしい痕跡が
    Faller Portに北側に僅か見える。

3.門塔 2門1塔

 正門 Faller Port (1256) 3階建で2-3階部分の内側は木造の元市壁の正
    門で、かっては落下扉と跳ね橋が付いていた。
市壁にはこの門から登る
    事ができる。
    アーチ門 Bogen Tor (14c) 市壁のアーチ門が道路脇に独立して残ってる。
 防御塔 Erhaltener Wehrturm (1256) 旧市壁の生き残りの3階建円錐屋根の
   円塔で、かっては信号塔として船の運航を管理していた。プファルツはこの時代に
   は、ここで船員は関税を払った。今はTurm Gasthausに組込まれている。

4.見所  C

 マルテザー邸宅 Malteser Haus (1093) 町で最古の2階建木組の漆喰塗りの建
    物で、かってはAlkenに本拠を置く裁判官一家の邸宅であった。その後マルタ騎士
    使用され、後に市庁舎として使われ、今は個人所有である。1922までは通りの
    側は全面壁であった。中庭には石造りの螺旋階段がある。
 ギャラリー・プリーベ Galerie Priebe (18c) 昔は警備員の詰所であったが、1861
    -84に町役場として使われた。今は美術館である。
ラーチャー・ホフ Laucher Hof (1093) ラーチ修道院の邸宅として建てられ、町で最古の
    建物で、1248ケルン大司教の行政管理所Zehnthofであった。今はワイナリーである。
 聖ミカエルス教会 Altes St.Michaels kirche (1015) モーゼルでも最古の部類の教会
    でで、1350内陣のフレスコ画・14cゴシックのマドンナ・1500身廊のフレスコ画があり、1849迄
    教区教会であった。
聖ミカエルス教区教会 StadtPfarrkirche St.Michels (1849) 旧市街地の西の外れ
    に、広々としたネオゴシックのホール教会が新設された。1883旧ミカエルの高祭壇が移設さ
    1991バロックの高祭壇が建てられ、1952オルガンが寄贈された。1984-87改修された。
 ウイルトベルク 宮殿 Schloss Wiltberg (1350)トリアー大司教の宮殿でウイルトベルク家に
    引き渡され、拡張して住んだ。1700の地下室は通りの下まであり、ワインセラーとし
    て使われている。1857個人所有となり、1889の大火事で焼失した。
歴史的な木組の家 Fachwerk Hauser
    Oben Strasse7.(1764)石積の上が古い木組の家。
    Oben Strasse9.(17c)上階木組のアーチ門付きの漆喰の家。
Von Wiltberg12. 最古の木組の家。
 トウラント城 Burg Trurant (1200) プファルツ伯が建て、1246ケルン・トリアーに攻撃され、
    1248ケルン・トリアーの共有となり、二つの城が築かれた。1543ウイルトベルク家は城を採石
    場として麓に自分の宮殿を建てた。1689プファルツ承継戦争で仏軍に破壊されて廃
    墟となった。1911ロバート・アリューズが購入して1915-16門を含み一部再建した。

5.町の略図

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45. バード・クロイツナッハ Bad Kreuznach

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口51千人

1.歴史

前200 ケルト人の村、1-4c、ローマ帝国の砦や別荘、6-8c ローマの砦はフランクの王宮へ、
12c 町の中心は旧市街と新市街にあった、13-15c スポンハイム伯が支配、
 1206 新市街にカウゼンブルクを建設、1250 カルネル会修道院のニコラス教会建設、
 1311-32 ナーエ橋の中島にパウルス教会設立、15c スポンハイム家の断絶でパラティーノ・バーデン
    フェルデン伯が共有、17c スペイン軍・スエーデン軍が占領、1689 仏軍が占領し破壊、
 18c パラティーノ伯夫人が単独支配、1723 塩水を炊いて塩を生産、1798-1814仏領、
   1815-1945 プロイセン王国に属した、1817 温泉治療のスパ開設、1920-30・1945-50 
   仏軍が占領、1950-2000 7千人の米軍の駐留地。

2.市壁 80m 0.04

  (旧市街)1247にほぼ正方形を市壁で囲んだ、1945の爆撃で大破した。西南部
    の高等学校の西に50mの市壁が残っている。
  (新市街)1206のカウゼンブルク建設後にナーエ川の西に市街地が形成された。南側エラー川
    沿いに30mの市壁が残っている。

3.門塔 門1塔

  (旧市街)北市門は1877、南東市門は1860に解体された。
  (新市街)北西市門は1837に取り壊された。
   アーチ橋Wilhelms Brueckの北端にFischerTurm:3階建外径5mとBrueckenTurm:1階建
   外径2mがある。

4.見所  A

 旧ナーエ橋 Alte Nahe Bruecke (1480) 1300に架けられた3径間のアーチ橋の橋
    脚の上に、柱で支持して大きく張り出して3階建木組の建物が建てられ、夜に
    は照明で照らして幻想的である。町が市壁を越えて拡張する中で、橋の上にも
    1480-1600に徐々に建てられた。橋要塞の火薬庫は橋上橋の地下室に、砲塔は
    橋上家の正面にある。
 カウゼンブルク Kauzenburg (1206) スポンハイム家が新市街の南に城を建て、新しい
    町がその周辺にできた。1689ルイ14世の軍に城は破壊されたが、その後再建拡張
    を経て1972に今の外観となった。今は景観のよいホテルとレストランになっている。
    歴史的なアーチ天井の地下室では、騎士の食事が演劇を伴って体験できる。
聖ニコラス教会 St.Nicholaus Kirche (1266) 町で現存する最古の建物で、1266
    にスポンハイム伯が礼拝堂を建て、その後数十年で教会に教会に拡張され、漁師・商
    人・肉屋の守護聖人である聖ニコラスに捧げられた。教会はカルメル会修道院のクロイツナッハ
    修道院に属した。16c中に宗教改革で修道院が解散され、教会は教区教会とし
    て役割を果たした。15cの墓標・1501の十字架の聖遺物箱が有名である。
 パウルス教会 Ev.Paulus kirche (1311) ヨハン・スポンハイム伯が教区教会として3階建
    ゴシックの教会を建て、1332に聖母マリアと聖キリアンに捧げられた。1558改革でプロテス
    タント教会となり、1689ルイ14世軍に破壊され、1780に高さ61mバロックの塔が建てら
    れ1781の再建で今に姿になった。19c東内陣が、英国スパ客の礼拝堂となった。
宮殿公園博物館 Schloss Park Museum (19c) 騎士グートバンガードの邸宅に、
    都市と芸術の歴史的な収集物が収められている。建物には騎士の時代から中流
    階級への変化が刻まれている。地元のカウアーの彫刻・町と地域の風景を描いた
    ドローイング・水彩画・絵画は一見の価値がある。
 塩市場 Salz Markt ()新市街地の中心に塩市場があり、19cまでは塩取引が
    行られた。市は再開発の過程で、老朽化住宅を壊して歴史的モデルに沿って再建
    した。ここは市で最古の宿屋であるクローネを含み美食の中心である。
 穀物市場 Korn Markt
(18c) 200年以上になる穀物市場には、1975の噴水
    があり火曜日と金曜日には穀物の市が立つ。生鮮食品と最大60の屋台が並ぶ
郷土料理の伝統的な市である。
 クアパーク Kurpark (19c)
スパハウス Baederhaus (1912) プラインバスと吸引室を備えた外来治療のための
    新しい治療センターとして、吹き抜けが正面にある国際的な建物が建てられた。
クアハウス KurHaus (1904) ラドン治療が発見された後に、国際的なスパ施設と
    して1913に4棟のホテル複合体がバロック風に建てられた。スパガーデンからの印象的な
    景観を与え、125の客室を備えた市で最大のホテル複合体である。1958ドゴール・
    アデナワー会談、1984ミッテラン・コール会談が行われた。

5.町の略図

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46. ブラウバッハ Braubach

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口0.3千人

1.歴史

600 ライン川右岸ブドウ栽培の古い記録、1231 マアルクスブルク建設と城下の集落形成、
1276 ハプスブルク国王は領主エップシュタインへ都市権授与、1283 カッツェルボーゲン伯が統治、
 1479 ヘッセンのヘンリー3世の墓所に 1527 宗教改革導入、1569遺産分割でヘッセンラインフェルスへ
 1567-70 フイリップ2世は南にフイリップスブルク建設、1802 カッセル・マールブルク・ダルムシュタットで
   1/3づつ共同所有、1651 ヘッセン・ダルムシュタットが単独支配、1816 ナッソー公国に所属、
 1866 プロイセンがナッソー公国を併合、1918-29 一次大戦後仏軍が占領、
   1945 二次大戦後仏軍が占領、ラインラントプファルツ州へ。

2.市壁 90m 0.01

  13c後半の市壁は、Hahn weg.2とKarl Str.1の背後に20m、Burg Str.1-9に70mの
    市壁が残っている。

3.門塔 0門6塔

  13c後半の塔で残るのは、1.市壁に直接建てられた聖バーバラ教会の塔に、市壁の
   北西の塔が使われた。2.上門塔とアーチ門は、正方形の基礎の上に八角形の塔と
   ウンターアレー通りのアーチ門が残されている。3.山側北角塔の切株はボルグ通り13に。
   4.山側ハーン通り2の裏側に殻塔がある。5.フリードリッヒ通28にある3階建の円塔Park
   gartenTurm。6.カール通1に多角形塔の切株SchalerTurmがある。

4.見所  B

   山頂にマークス城が、南端にはフイリップス城があり、山裾の北西から南東に16-18cの
    多くの木組の家のある旧市街地が張り付いている。
 市庁舎 Rathaus (1898-90) 旧市街地の西の外れに立つ、ネオルネッサンスのクリンカー造の建物。
 バーバラ教会 Babara Kirche (1276) 市壁に直接して旧教区教会として建てられた。
    市壁の北西塔は後に教会塔に組込まれた。1688印象的な屋根と塔ドームが付けらえた。
    宗教改革により1562に教区教会となり、1901迄使用された。今はプロテスタント会館として
    塔と内陣は保存されている。
プロテスタント・マルクス教会 Ev.Markus Kirche (1898-1901) ゴシック石造の2通路広間教会であ
    る。1870-80にレンガ造の牧師会館が付近に建てられた。
 聖マーチンズ・セメタリー礼拝堂 FriedhofsKapelle St.Martin (1242) 町で最古の教区教会で
    ロマネスクの身廊と後期ゴシックの内陣がある。
マルクスブルグ城 Marksburg (1231) 中部ラインを守る城として山頂に建てられ、中流部で
    唯一破壊されていない城で、城礼拝堂の守護聖人ダルマルクスに因んで城も呼ばれている。
    1900以降ドイツブルゲンヴェルエニンク協会が所有している。゙
 フイリップスブルク Phippusburg (1568-71)フイリップ2世は、旧市街の南東の端に城を建て町
    を支配した。今は、ヨーロッパ城研究所が城歴史図書館開設している。細長い3翼の建物で
    1861に改築されている。木組の門やかっての厩舎もある。
 旅館ヴァイセン・シュバーベン Gasthof Zum Weissen Schwanen(1265-30) 風格のある高基礎の
    木組の建物でスレート屋根に小さな切妻がある。
郷土料理の伝統的な市である。
 木組の家 Fachwerkhaus (16-17c)
Wohnhaus (1614) 石造2階建の高基礎の上に美しい装飾用骨組みの木組の家。
Wohnhaus (1608) マルクト広場1の風格ある細かな骨組みの2階建の家。
Wohnhaus (1610) マルクト広場3の風格ある細かな骨組みの2階建の家。
Wohnhaus (17c) マルクト広場5の風格ある細かな骨組みの2階建の家。
Wohnhaus (1597) オーパーマルクト11の幅の狭い2階建木組の美しい住宅。
Wohnhaus (17c) Phein Str.10の市壁の上部に木組のトラスが乗っている、
      市壁をくりぬいて硝子窓を付けている。
Wohnhaus (1588) SchlossStr6に2階建の一部破風のある多くの木組で構成さ
      れた古い家。

5.町の略図

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47. ダウゼナウ Dausenau Bad Ems-Nassau市内

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口1.0千人

1.歴史

 1179 村の教会の設立、1400 エムス教区へ独立、1234 ナッソー家の所有として初言及、
1348 都市権を得たが後に失う、1324 要塞の言及、1490 市立病院の設立、
1541 宗教改革の導入、1651 ラーン川フェリー開設、1776 北西部焼失後4門6塔の市壁強化、
 1708 銅精錬所の建設、1806 新設のナッソー公国へ属した、1902 対岸架橋で左岸へ拡張。

2.市壁 900m 0.90

   1348ナッソー家の伯爵は都市権を得て、14c後半に市壁を築き、1776に4要塞門6塔に強化
   した。建物の上の斜面に一部低い部分もあるが、ほぼ残っている。市壁が防衛機能を失
   った後は、石材が他の建物に転用される事もあったが、20cには改修が行われた。

3.門塔 1門6塔

   1門と6塔は切株も含め残されている。
 西門 Wesdlicher Torturm (14c) 元の高さ18.3mを維持している唯一の門塔であり、
    スレート砕石と1384の木材が使われていた。1929の屋根は維持するために、その上に設置
    された。アーチ門の上に4階建の角塔があり、最上階には四方に見張り室がある。
    南側に2階建の木造の建物があり、ラーン川に張り出している。
 レーニング塔 Leaning Turm (1359) 東端に立つ高さ25mの八角形の塔であったが、19cに
    川側に傾斜し始め、1928に屋根を付けたが傾斜が加速し、1850屋根を除去し塔は17.5m
    に切り下げられた。その後は傾斜の進行は無いが、斜度5.2度で先端が2.46m傾いており
    ピサの斜塔の斜度3.97よりも大きいが、廃塔であるとしてギネスには登録されていない。
 アッカー塔と小門 Ackers Turm und Ackers Pforte(14c) 西側の小門塔で、ラーン川沿いの
    の道路が開通するまでは、洪水に阻害されない唯一の入口であった。塔の一部が残って
    いるが、簡素な壁門で市壁から突出した塔が守ていた。塔の地下にある丸天井の部屋は、
    麻の乾燥に使われた。北側市壁と共に復元されている。
 ドレッハイス塔 Dreher Turm (14c) 4階建の角塔で近くの住民の名前が付けられた。この塔
    の市壁は、1990-91に改修された。
 クリスチャン塔 Christians Turm (14c) 東中間の町側に開いた馬蹄形の塔で木構造で塞がれ
    ていた。玄関や梁天井のレンガ支承部が残っている。
 猫塔 Katzen Turm (14c) 当初3/4の円形塔で木材で閉いでいたが、後に円形の塔となっ
    た。2013に改修されたが、屋根は付いていない。
 フアース塔 Fuhrs Turm (14c) 1988に改修されて、ツタが取り除かれた。
    ている。

4.見所  C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1432-34) 石造の地階の上に簡単な木組の上階と大きな屋
    根がある。ドイツで2番目に古い後期ゴシックの木組の市庁舎である。一時的に刑務所として使
    われ、1980新市庁舎となり、1981-85に復元された。今は地下に公文書館があり、会議室や
    大ホールなどが利用できる。
 市庁舎 Rathaus (1830) 学校として建てられた風格のある四角い古典主義の2階建であり、
    1980には改造されて市庁舎となった」。
 聖カスター教会 St.Kaster Kirche (12c) 最古の部分は、1139の後期ロマネスクの塔で、1312-19
    に短い3通路のホール教会が建られた。1470後期ガシックの翼のある祭壇とマリアの生涯のパネル絵画、
    14cからの後陣の絵画は19-20cに改修されている。1841オルガン設置。
 木組の家 Fachwerkhaus (16-17c)
KirchGasse5 (1554) 地階石積上階と切妻は単純な木組の家。
LangGasse12 (1600) 高基礎の上に2階建の切妻のある木組の家。
LangGasse16 (1625) 地階石積上階木組の小さな家。
LahnStr.8/10 (16c) 地階石積上階美しい切妻のホールハウス。
LahnStr.9  (17c) 西門塔の北側に立つ上階と切妻木組の美しい建物。

5.町の略図

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48. エンゲルス Engers Neuwied市内

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口千人

1.歴史

 BC55 ローマの架橋が行われた、4cローマの砦が建てられライン右岸の古いローマ居住地となった、
 773 ロルシュ修道院のコーデックスに記載、1357 皇帝チャールズ4世は都市権を授与した、
1372 ファンケルシュタイン大司教は関税駅とした、1378 グレータワーから半円形の市壁を建設、
1632 スエーデン軍が占領、1636 帝国軍が占領、1662 ペスト流行を5家族が生き延びた、
 1794 仏革命軍が占領、1806 新設のナッソー公国へ属した、1815 プロイセン王国に属した、
 1863 エンガース城に戦術学校が置かれた、1926 仏軍の占領、1945 空襲で被害、
 1970 ノイヴィート市に編入された。

2.市壁 60m 0.07

   1371からの市壁は、17cには無傷で存在し、ライン川から半円形で旧市街を囲んだ。
   残っているのは北側に僅かである。

3.門塔 0門3塔

 灰色塔 Grau Turm (1370)
    ライン川沿い東の胸壁付き3階建の円塔と切石造の砦跡がある。14cにはラインの関税門とし
    て機能した。
 ダックシェ塔 Duckesje Turm (1370) ライン川沿いの西に要塞の一部が今は円錐形の屋根
    のある2階建の円塔がある
 防衛塔 Wehr Turm (1370) 台形平面の切石造3階建の防衛塔で、変形の屋根が付い
    ている。

4.見所  C

   230m×130mの狭い旧市街地には、多くの古い建物のが残っている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1642) 切妻付2階建の、部分的木組のハーフヒップ屋根構造。
 聖マーチン教会 Kath.PfarrKirche St.Martin (1897-98) レンガと凝灰岩造のロマネスクの
    バシリカ。
 福音教会 Ev.Kirche (1900-02) 後期ゴシックの西塔が目立つ教会。
 エンガース宮殿 Schloss EngersRathaus (1759-64) ヴァルタードルフ大司教とトーリア選帝侯ワ-ム
    は、ライン川のほとりに狩猟と夏の3階建の宮殿を建てた。
 城居酒屋 Schloss Schenke (1621) 旧市街の中心に今もホテルとして残る、石造2翼の
    の建物でである。
 木組の家 Heinrich haus (1617)
この町で最古の木組の建物で、2つの構造物で構成されている住宅であろ。地下室と
    1370の市壁と壁塔の地下に遺跡がある。17cに木組部分の一部は更新されている。

5.町の略図

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49. ゲルマースハイム Germersdeim

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口21千人

1.歴史

 1090 皇帝コンラート2世はライン川畔高所に城を建設。1376ハプスブルク王ルドルフは都市権授与、
 1325 ルードヴィッヒ4世はパラダイン伯に質入れ、1329 パラダイン伯ルドルフ2世は領土とした、
14c 高官が執行する町となった、1556 宗教改革が導入され修道院は閉鎖されてた、
17c 疫病と戦乱で人口は大幅減、1674 仏蘭戦争で町は火災で壊滅、
 1697 選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムは再カトリック化した、1793 仏革命軍は占領後要塞建設、
 1797-1814 仏に属しモントネール県の一部であった、1816 バイエルンに属し強力要塞建設、
 1834-55 要塞外建設禁止で要塞内は過密、1921 ベルサイユ条約で要塞撤去・仏軍の占領、
 1945 米軍が駐留して基地の町になった。

2.要塞  90m 0.02

   この地は1792に仏領となり仏軍は新しい要塞を建設した。1814バイエルンの占領後に
   対仏の防衛を固めるため、バイエルン王室が1834-55に要塞を構築し、トンネル部分は1861
   まで要した。ベルサイユ条約で1920-22に防衛部分は取り壊された。多角形の要塞は市
   壁に加え6の前面に別れ、10の防御部はラインの対岸に向かって配置された。元の兵舎
   は4、幹部兵舎は3で防御機能を備えていた。その後に非防衛兵舎が3建てられた。
    防御機能のある兵舎は長さ220mで、中央で225度に曲がり発砲線を変えていた。
   この要塞の現存部分は記念碑として保存されている。

3.門塔 3門0塔

 ヴァイゼンブルガー門 Weissenburger Tor (1838) 東南門で市壁の位置に堀に掛
    かる橋の奥にアーチ門と頑丈な角塔で構成されたレンガ造の門がある。
 ルードヴィッヒス門 Ludwigs Tor (1838) 北西門門の外側には、バイエルン王ルードヴィッヒ1
    世と建設者のフリードリッヒ・シュマウスの立像が門壁に付けられている。
 フロントベッカーズ門 Fronte Beeckers Tor (1834) 西にある今日の音楽学校の入口
    の2階建門で長方形のレンガ構造である。

4.見所  B

   要塞の堀が以外と残されている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus () マルクト通りの西にある小さな建物。
 聖ヤコブ教会 Pfarrkirche St.Jakobs (1325-30) 1280城の礼拝堂が言及され、
    1286-91にセルフィデン修道院が設立され、1325-30にゴシック3廊の大聖堂が建てられた。
    1525世俗化で放棄され、1563まではルター派が管理し、1680カトリックが共有した。
    1793仏革命軍によりフランシスコ会修道院が再設立された。今の教区教会は15cに大幅
    に拡張され1480塔も追加されたが、1674プファルツ承継戦争で破壊され、1682-97に
    仏の累4世によって再建された。教会は1976-77に完全に修復された。
 和解教会 Versoehnungs Kirche (1772-84) 1818にルター派と改革派教区が統合し
    て、2009に和解教会という名前を受け入れた。和解教会は独立した建物ではな
    く通りの街並みに組込まれている。主入口と塔のある北面はマルクト通りに、聖域
    はミッテル通りにある。
 聖務署Steueramt (18c) 細長いレンガの建物で、元の地区事務所である。
 町屋 Stadt Haus (1672) 町で最古の建物で、1672に破壊されたOberamtの管理
    棟として1740に再建られ1792には役割を終えた。1815からは駐屯地の司令部であ
    った。1892市庁舎として使われたが、マルクト通りの旧市庁舎と区分するため、Stadt
    Hausと呼ばれた。
 木組の家 Wohn haus (1692) 石積みの堅固な建物で、部分的に木材が使われて
    いる。年号1692が刻まれている。
 町と要塞博物館 Stadt und Festung Museum 町の要塞・駐屯地などの歴史と地元
    産業の発展について展示している。
 ドイツ街道博物館 Deutsches Strassen Museum (1989) 道路建設業者が設立し、
    道路・橋梁の建設技術・古機材(馬車ローラー)等について展示している。
<現存する要塞の部分>
 ダムマイストレイ Eher.Schlossiges Wachhaus 要塞北東の川辺にある平屋の番屋。
 セイセル防衛兵舎 Seyssel Difensions Kaserne 西側の長さ282mの2階建レンガ造の建
    物で、今は大学が使っている。
 幹の防衛兵舎 Stengel Defiensione Kaserne 西北の長さ220mの2階建レンガ造の
    建物。
 フロントベッカー Fronte Beckers 南西の市壁の中央部には門塔・武器庫・矢型の防衛
    施設・堀がある。
 堀バリアー Graben Sperrwerk 東北の大きな堀に三角の突起がある。
 ルードヴィッヒ門 Ludwigs Tor 北の門で2階建の大きなレンガ造の建物。
 プロビアント・オフイス Proviabt Amt 東の大きな折れ曲がった2階建の建物。
 病院・市内兵舎 Lazarett Stadt Kaserne Front Diez東側の軍事病院と兵舎。
 堀の遮断壁 Graben Sperr Mauer 東の堀の向こう側の遮断壁。
 ヴァイセンブルク門 Weissenburger Tor 東南の堀を渡った2階建の門。
 フロントラモット Fronte Lamotte 東南の先にトガルタ平屋の武器庫。
 拘留施設 Arrest Gebaeude ブロック状の寄棟屋根3階建の建物。今クラブ。
 カルノー壁 Carnotsche Mauer (1642) 武器庫と2つの建物をつなぐ190mの市壁。
 武器庫 Zeughaus 大きな武器庫は、ドイツ街道博物館となっている。

5.町の略図

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50. イーダーオーパーシュタイン Ider-oberstein

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口28千人

1.歴史

 1075 シュタインで最初の騎士が言及された、1197 シュタイン家はポッセルシュタイン城を建設、
 13c ダウン・オーパーシュタイン家の誕生、1320 ダウン・オーパーシュタイン家がオーパーシュタイン城を建設、
1375 メノウなど宝石の採掘、1482-84 ヴィリッヒ4世はフェルゼン教会を開設、
 1497 オーパーシュタイン領主は原石の輸出禁止し宝石産業を興す、1520 メノウ加工所の開設、
1745 金細工職人のギルド結成、1766 ライニンゲンハイデスハイム家の断絶で分裂、
 1791-93 仏革命軍は占領、1815 ナポレオンの敗北後、プロイセンに属した、
 1817 ウイーン会議でオルテンブルク公国へ、1865 オーパーシュタインとイ-ダーは市の権利を取得、
 1813 要塞外建設禁止で要塞内は過密、1921 ベルサイユ条約で要塞撤去・仏軍の占領、
 1933 自治体統合でイーダーオーパーシュタインとなった、1938 駐屯地となった。

2.市壁  30m 0.01

   1400を中心に構築された市壁の残りは今でも見る事ができる。建物の階段には
   旧市壁の名残がある。ハウプト通り 432.468.470.の建物は15cに旧市壁の上または
   正面に配置された。468と470は建設時にナーエ上流部で最古の木骨造のであった。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   オーパーシュタインノのマルクト広場近くには、古い建物が残っている。1809市壁が取り除か
    れた後の1854-55に、12棟が取り払われてマルクト広場が拡張された。
 市庁舎 Rathaus (1908-11) シラー学校の跡地に、壮大なバロック4階建の市庁舎が
    建てられ、後方に中庭が設けられた。
 福音教区教会 Ev.Pfarrkirche (1751) 元は聖ピーター・パウル教会として十字型
    のホール教会であった。1894-95身廊は延長され、1955-56に改宗された。ロマネスクの
    塔は1114に付けられ、1712にバロックのドームが付けられた。
 フェルゼル教会 Felsen Kirche (1482-84) 岩の洞窟の中に組込まれた後期ゴシック
    の教会で、1742に後期ゴシックの丸天井が改修された。1858大改修が行われた。
 商店 Geschaefts Haus (1888) 3階建の店舗と住居であり、1922に前面は漆喰
    で塗装された。
 オーパーシュタイン城 Schloss Oberstein (1330) ナーエの岩盤上に領主は城を建てた。
    15cに栄江1855に全焼した。1980城協会によって部分的に再建された。屋根付き
    のテラスのあるテラスからの眺望は素晴らしい。
 ポッセルシュタイン城 Burg Bosselstein (1150) 1600まではシュタイン領主が住んでいたが
    その後廃座して、今は一つの塔の切株と幾つかの壁が残っている。オーパーシュタイン城
    から徒歩5分である。
 ドイツ宝石博物館 Deutsches Edelstein Museum (1804) 代表的なネオルネッサンスの2-3
    階建の別荘に、宝石類が展示されている。
 ドイツ鉱物博物館 Deutsches Mineralien Museum ウイリヘルム様式の建物に、宝石と
    鉱物のコレクションを4床24室に展示している。世界最小のカメオ・歴史的なダイヤモンドレプリカ
    ・ジュエリー製品・デポン期の三葉虫などの展示がある。
 ハーシュタイン博物館 Herrstein Museum 地質学の初期からの地域的な特徴の歴史的
    な展示がある。宝石産業・市の権利・伯爵の副業・1868の自転車・精錬所等の経緯。
 住宅 Wohnhaus (16c)3階建の柱のない木骨造の建物が、市壁の上に建てら
    れた。

5.町の略図

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51. カイザースラウテルン Kaiserslautern

ラインラントプファルツ州 <RP> 人口100千人

1.歴史

 1186 皇帝フレデェリック1世が町に滞在、1322 バイエルン王ルードッヴィッヒはボヘミア王に就任、
 1357 王は選帝候ルプレヒト2世に町を譲渡、1571 ヨハンカシュミールは城を建てた、、
 17c 30年戦争・1688承継戦争・1707スペイン承継戦争で占領された、
1801 ナポレオン占領後仏の準州の所在地に、1816 ウイーン会議でバイエルン州に属した、
 1930まで 仏の占領下にあった、1945 空爆で町の大部分が破壊、米軍が占領。

2.市壁  110m 0.05

   1295-1330の市壁は各所に少しづつ残され、砂岩切石で造られ、文化財として守
   られている。  AlleeStr、MatzenStr、SchmiedsTurm.7.9、FackelStr.30、
   GauStr.30、Gruener、Garten24、KlosterStr.6.8、LudwigStr.34.36、
   SteinStr.55、Willy-Brandt-Platz4。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

 聖マーチン教会 Kath.PfarrKirche St.Martin (1300) ゴシック2通路の砂岩切石
    造ホール教会、1629バロックの屋根と階段塔。
 聖マリエン教会 Kath.PfarrKirche St.Marien (1887-92) ネオゴシック砂岩方石積3身
    廊の教会で、ステンドグラスの窓がある。かっての修道院から樽型の地下室を引き
    継いでいる。18c西正面の砂岩の彫刻が行われた。
 福音教区教会 Ev.Kirche (1250) 元は聖ピーター・パウル教会として十字型初期
    ゴシックの内陣のホール教会であった。1894-95身廊は延長され、1955-56に改宗さ
    れた。ロマネスクの塔は1114に付けられ、1712にバロックのドームが付けられた。
 旧王立税関庁 Ehem.Koeniglischs Hauput Zollamt (1897) 大きな砂岩切石
    造の3階建の建物であり、今は財務局として使われている。
 王立第23歩兵連隊兵舎 Kaserne des Koeniglisch Bayerischen23 (1913-14)
     洗練された兵舎で、1937に拡張された。本館は高い時計塔のあるドーム屋根の
    城の様な3階建の建物である。
 旧ヴォルスト毛紡績工場 Ehem.Kamngarnspinnerei (1860) ネオルネッサンスの入発電所
    で、レンガ造のボイラーハウス、L型の管理棟もある。今は市の文化センタートと大学の一
    部として使われている。
 果物広間 Frucht Hall (1843-46) フレンツェの貴族の宮殿で、ロマネスク3階建大きな
    建物で、紋章や彫刻が付いている。
 プファルツ美術館 Museum Pfalzgalerie (1875-80) ルネッサンスの大理石の建物で、
    旧プファルツ商業博物館である。1915に3階建で拡張が行われた。
 ガストハウス「紡ぎ車」 Gasthaus Zur Spinnraedl (18c初) 部分的に木組の2-3
    階建の建物。
 ヴァガッサーホフ Wagasser Hof (13c) ヴァガッサー僧院の中庭で、13c二つの樽型の
    地下室がある。15cの壁画・16c木組の増築・1733と19cに拡張が行われた。

5.町の略図

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52. ザールロイス Saarlouis

ザールラント州 <SL> 人口35千人

1.歴史

 1458 ヴァードガッセン僧院が所有した、1679 ナイメイヘーメンの和平で仏領となった、
 1680 仏王ルイ14世は要塞と要塞都市を築いた、1683 ザール県の首都になった、
 1687-88 要塞都市へ住民を強制移住、1815 ウイーン会議でプロイセン王国へ属した、
1816 プロイセンは要塞を拡大し、大ケースメイトを配置、1848-49 革命軍による襲撃、
 1889 要塞の取り壊し、1918 一次大戦後仏が占領、1935 国民投票でドイツ帝国へ、
 1938 西壁の一部が建設された、1940 独仏戦争で領地拡張、
 1945 空爆で町の中心部は破壊、7月 仏軍が占領。1960 ドイツに復帰。

2.要塞壁  280m 0.16

   六角形の町の中心部は周辺を星形砦で囲まれ、6基の砲台が配置され、その外
   側には浸水要塞があった。要塞は1889解体された。中心部の北側には市壁や堀
   ・ヴォーバン島・デミルーン・ケースメート・兵舎が残された。1968に要塞の修復が行われた。

3.門塔 1門0塔

 ドイツ門 Deutsches Tor (17c) 町の北西にあるこの門はドイツ帝国に向いて
     いたため名付けられた。1886交通障害で解体された。1970通りの拡張時に
     ケースメイトの頭が復元され、歩行者通路が左右に設けられた。ドイツ門前の大砲
     も1970年代初めに置かれた。

4.見所  B

   旧市街は多くが歩行者ゾーンとなり、多くの店舗が並んでいる。要塞時代の2階建
   の職人の家が残り、狭い家・木製シャッター・マンサード屋根が特徴である。
 市庁舎 Rathaus (1951-54) 第二次大戦で破壊され、柱列を巡らせた古典的窓
    軸システムで
再建された。近代的な高さ27mの塔は6階建で、1日4回鳴るカリオンを
    備えている。
 タペストリー広間 Gobelin Saal (1954) 歴史的なタペストリーを収容するために、新市
    庁舎の中に展示広間が設けられた。貴重なタペストリーは、ルイ14世が1687に王宮工房
    から取り出して大統領裁判所に飾った物であり、加えてルイ14世のバロックの椅子12
    脚も置かれている。市庁舎開業中は訪れる事ができる。
 大市場 Grosser Markt (17c) 要塞の中心には、樹木に囲まれたパレード広場が
    造られ、対角線は南北と東西方向を示している。城門から城門が450mの中で、
    10,000m2の広大な面積を有した。広場の4隅の噴水はプロイセン時代の物である。
    1832迄市民の飲料水を供給していた。
 司令部 Kommandantur (1680-83) 仏バロク様式で建てられ、総督が政庁として使
    った。プロイセン時代には、指揮所や陸軍行政本部であった。1960に修復不能とな
    って解体され、バロックでスタイリッシュに再建された。
 ルードヴィッヒ教会 Ludwigs Kirche (1685) 当初のバロックの教会は身廊がネオゴシックに
    1864に置換えられ、塔も1864に火事に会いネオゴシックに統一された。1965地下水位
    の低下により身廊は解体され、1970身廊はコンクリートの一体構造となった。二つの
    角の家は元のバロック教会からの遺産である。
 プロテスタント教会 Ev.Kirche (1906) バスティオン5世はドイツルネッサンスの教会を建てた。
 北部緑地 Saar Altarm und Stadt Garten (20c) 市公園は1928に現在の形で整
    備された。1889要塞が壊された後に残ったいくつかの要塞を含む地域が、小道
    のネットワークで結ばれている。ザール・アルタームは1972の洪水対策として整備された。
 兵舎Ⅰ KaserneⅠ(1683) 創設時から唯一の歩兵兵舎として建てられ、プロイセン
    時代には第八野戦砲兵隊を1897迄収容した。1984-85に修復され、3階建の地階
    は店舗・上階は住宅となった。
 兵舎Ⅳ Kaserne Ⅳ (1866-69) 元の仏兵舎に代わってプロイセンが185mの古典主義
    の兵舎を建てた。1918迄第30歩兵連隊が収容された。1970に修復されて、警察署
    ・市博物館・ルードヴィッヒギャラリーとして使われている。
 ケイスメイト Kasematten (1824-29) プロイセンは要塞強化の一環として主壁の位置に砲
    弾を防ぐ防御施設を構築した。土で覆われた保管庫は、防衛時の兵士と馬の避難
    場所と指揮所として機能し、平時には武器や食料が備蓄された。1970にドイツ通り
    の東側を私的に修復して店舗とし、後に市も修復して上品な店舗群が出現した。
 バスティオンⅣ Bastion Ⅳ (17c) ヴォーバン島から今も保存状態のよい石積のバスティオン
    Ⅳが眺められる。
 地方裁判所 Amtgericht (1907) 旧ラヴェリン2の跡地に、地方裁判所がネオゴシックで建
    てられた。広い階段と広々とした木張りの廊下の待合室を備えている。
 実験室 Laboratorium (1821) プロイセンは要塞の北西部に火薬と手榴弾を収納する
    建物を建てた。一時私有となり、1987市が市が買い戻して復元し、今はザールラント
    現代美術研究所が置かれている。
 コッホの家 Haus koch (1737) 古いバロックの建物は住宅として建てられ、1877-94
    地区事務所、1894-1904貯蓄銀行、1904-45モ-ビルハウス・コッホであった。1949歴史的
    建造物として修復された。
 ルードヴィッヒ美術館 Ludwig Galrie (1989) 2017兵舎Ⅳに移り、コレクター・ルードビッヒ
    の収集物を基に、古典芸術と現代作品を融合的に展示している。

5.町の略図

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53.セント・ヴェンデル St.Wendel

ザールラント州 <SL> 人口26千人

1.歴史

 7c ベルダン司教ポールゲが購入何世紀か支配、 9-10c 巡礼教会に聖遺物を保管、
 11-12c 聖ヴェンデリンの巡礼、 1326 トリア選帝侯とルクセンブルク大司教が町を買収した、
 1328 執行官ヤーコブは当たらす後ろを建設、1388 ヴェルナー大司教は650mの市壁建設、
 1440 トリアー大司教は教区を与え市場を認めた、1514.87 大火事で町は相当焼けた、
 17c 30年戦争と疫病で町は壊滅、  1677 仏軍は町を焼き払い市壁を壊した、
 1701-14.1733-36.1741-45.1756-63.1762 戦争で町は衰退、1819 リヒテンベルク公国へ、
 1834 リヒテンベルク侯爵は国をプロイセンへ売却、1859 周辺の町を併合した、
1868 地区の司令部が置かれた、1945 4月米軍が占領、7月仏に移管。

2.市壁  20m 0.01

   14cの市壁は戦争で壊され補修されて来たが、18cの終わりに向かって姿を消し
    た。わずかに、Hospital Str.81.83.85の建物の北裏側に残されている。

2.西の壁  18km

   ヒットラーは1938-40にオランダからスイスにかけての西国境に630の分散防衛施設として
   塹壕・堀・トンネル・戦車障壁等を建設した。当然、仏側にも防衛線が敷かれた。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所 C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1802-03) 2階建バロック漆喰塗の正方形の建物。
    正面には5窓軸があり、中央軸に上階入口がある。
 ヴォンデェリナス大聖堂 Wondelinus Basirika (14c) 後期ゴシックのホール教会として建
    てられ、1370の聖ヴォンデェリナスのトウンバは内陣の中央にある。守護神ニコラウスの紋章
    で飾られた石の説教壇が有名。聖ヴォンデェリナスの遺骨のある高い墓は祭壇エリアに
    あり、巡礼者はその下を歩いている。ギルドの聖徒達を描いた絵画が横通路の
    壁に飾られている。
 ミア・ミュンスターの家 Mia Muenster Haus () 地階に、市と地区の図書館があり、上
    階に市博物館がある。常設展としてこの家に住んだミアミュスターの作品があり、絵画
    ・写真・芸術品を展示している。
 ミッションハウス Missions Haus (1898) 宣教民俗学博物館であり、主として宣教師
    が外国から持ち込んだ外国の文物が、1.7km東に展示されている。
 彫刻通り Bildhauerkunst Strasse () この町からポスタル湖に至る17kmに現代的
    な彫刻が設置されている。1971に14の作品で始まり継続されている。
 ゾーモルの家 Sohmollscher Haus (1875) ネオルネッサンスの素朴な2階建の建物で、7軸
    の中央にはバルコニー付きの入口がある。
 学校 Schule (1876-77) 2階建の風格のある建物で、階段切妻のある広い中央
    リサライトが通り側にある。当初クロンプリンツ・ギムナジュームだったが、1908にはヴォル・ギムナ
    ジュウムとなった。その後州立研究センター、女子高校となった。1937要塞建設者
    が使用し、1966学習障害者の学校となった。
 聖ヴェンデラー病院 St.Wendoler Hospital (1455) 貧しい高齢者の宿泊と介護のた
    めに2階建5窓列の建物が建てられ、孤児にまで広げられた。1800に世俗化された
    が、財団が19cに再び幼児と青少年のケアを行った。

5.町の略図

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54.バックナング Backnang 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口37千人

1.歴史

 600 ザルツバッハーブリュッケ城を築いて交易路保護、890 城にロマネスクの教会を建設、
 1067 貴族ヘッソン家が町を所有、1111 婚礼でバーデン家に、1116 修道院の建設、
 1230 市憲章の文書化、1235 ドイツ王間の紛争で町や市壁を壊され再建、
 1245 2教会。3製粉所、裁判所、病院が存在、1300 結婚持参金でヴュルテンベルクへ、
 1500 町はシュバーベン帝国へ、1525 農民戦争で略奪、1693 仏軍は町を焼払った、
 1758 ヴュルテンベルクの事務所が置かれ1813まで拡大、1820 市壁・門が取払われた、
 1945 何度かの空爆で相当の被害、1952 バーデンヴュルテンベルク州へ組み込まれた。

2.市壁  170m 0.18

   13cの市壁は、1820に取払われたが、西グラーベン通りの店の中と、東北の川沿
    にわずかに残されている。

3.門塔 0門1塔

   13cの市門は、1820に取払われたが、塔が1基再建されている。
 市塔 Stadt Turm (13c中) 旧ミカエル教会のゴシックの内陣の上に多角形の塔があ
    り、丸天井の上に木組の部分があった。1519木製の部分が崩落し、1614再構
    築された。1693大火事で塔の一部を残して焼失した。1699高さ45mのランドマーク
    として再建された。

4.見所 B

   旧市街地にはかなりの古い切妻のある木骨造の家が残っている。
 歴史的市庁舎 Historisches Rathaus (1599-01) 2階建バロック漆喰塗の正方形
    の建物。正面には5窓軸があり、中央軸に上階入口がある。
 市議会堂 Stadthaus (18c) ヴュルテンブルク州の代表議員席。1877-1921に郵便局。
    その後市政庁舎として使われ、2006以降は私有となった。
 旧学校 Ehem.Schulhaus () 最初ラテン語学校、教区教師用アパート、1946-81Volks
     Hoch Schule。
 塔校舎 Turm Schulhaus (1122) 聖ミカエル教区教会として奉献され、1693火事で
    身廊が焼け、1696-1712その焼け跡に塔校舎が建てられ1992まで使われた。今は
    市のギャラリーである。2001に改修され、新しい外階段塔が付けられた。
 バンドハウス Bandhaus () 旧アウグスチヌス教会、ラテン語学校、高校、中等学校の地下室
    のある穀物庫であった。今は市政の場と音楽・美術学校など文化的に使用している。
 聖パンクラティウス教会 Stiftskirche St.Pancratius (12c) 教会はバーデンのレルマンカが
    寄贈し1240バーデン家の墓所とされた。1116アウグスチヌス修道院が設立され、1477世俗
    的な財団の大学となった。1500星型内陣が追加された。1693焼失し1697に単純な
    身廊で再建された。宗教改革以降のプロテスタント教区の主な教会であった。
    1929に墓所は復元され地下に残る。
 聖ヨハネ教会 Kath.Kirche St.Johanes (1893-94) ローマカトリックの教会としてネオゴシック
    で建てらえた。1946インテリアの改修。1988新しいオルガンの奉献。
 墓地 Freihof (1116) 古くからの教区の墓地であり、1116以降アウグスチヌス正教会
    の墓地であった。修道院地区全体は聖域として非課税であった。
 福音派監督の家 Ev.Dekanat (1697) アウグスチヌス修道院のかっての食堂の跡に建て
    られた監督職の家。回廊で、教会と繋がっている。
 旧公爵城 Ehem.Herzogliches Schloss (1608-28) この一棟のみが建てられ、
    1693の大火事で大きく損傷して穀物蔵として使われた。1875郡の法律事務所となり
    、1877移転後地方裁判所となった。
 旧公爵台所 Ehem.Herzogliches Kueche (16c) 侯爵の台所として建てられ、19c
    以降は地方裁判所刑務所となり、1982改築されて、今は市政庁舎である。
 旧修道院ワイナリー Ehem.Stiftsverwoltung () 1693に全焼して1697再建。1806修道
    院行政廃止後にカメラ事務所、後に税務署で使われ、今は市行政庁舎。
 ヘルファー館 Helferhaus () 助教の元アパート、今は都市のグラフィック・キャビネット。

5.町の略図

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55.エバーバッハ Eberbach 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口14千人

1.歴史

 1196 貴族の一家が所有した。12c ヴォルムス司教がエーベルバッハ城を東丘上に建設、
 1227 ヘンリー7世は城と町を所有整備、1235城は帝国に直結、1330 プファルツ伯が支配、
 1360 硬貨を鋳造した、1402 城はヒルッシュホルンに破壊された、16c 帝国都市に移行、
 1528-55 ハイデルベルク大学は疾病で数回移転して来た、17c 30年戦争の損傷は微小、
 1803 町はラニンゲン公国へ、1806 バーデンに属した、1945 空襲で7%の建物が被害、
 1977 旧市街地の再開発。

2.市壁  30m 0.04

   13cの市壁の南西隅の火薬塔の東と、西北部の家屋の境界に、わずかに残る。

3.門塔 0門5塔

 火薬塔 Pulver Turm (13c) 西南角の防衛塔の上に、1766時計職人が時計
    塔として、5階建の塔を建てた。夏季には最上階に登って展望を楽しめる。
 青い帽子 Blauer Turm (14c) 東南角の3階建最新のの角塔で、青黒のタマネギ
    ドームをかぶっているため名付けられた。
下の階は刑務所として使われた。
 バラ塔 Rosen Turm (13c) 東北の角の唯一の円塔で、直径6.5m壁厚2mの4階建
    で、屋根は無く大きな窓がある。昔近くに在った馬の水飲み場にちなんで、
    ロッセンブルンタームとも呼ばれた。今ブリキ人形博物館がある。
 リール塔 Hespel Turm (14c) 西北角のリンデン広場に立つ、2階建の角塔に六角の
    尖塔が付いている。地下室には監獄があり、囚人はリールで降ろされた。
 オースベルク塔 Ohrsberg Turm (13c) 旧市街地の北1.2kmにある標高228m山に、
    町を守るため高さ18mの角塔が建てられた。

4.見所 C

 旧市庁舎 Altes Rathaus (13c) 旧マルクトの南に建てられた最初の市庁舎は
    1480に取壊され、2番目の建物となり1614まで使われた。3番目の市庁舎が今の
    旧市庁舎で1823に2階建のワインブレンナー様式で建てられ、地階はオープン市場、上階
    は会議室、屋根の上には四角い鐘楼がある。今は市博物館として、ネッカー川の
    舟運と木造船・森林の歴史と活用・地質と岩石の活用等の展示がある。
    の建物。正面には5窓軸があり、中央軸に上階入口がある。
 タルハイム邸 Thalheimsche Haus (1421) 3階建石造の建物は、かっては選帝侯の
    居所であったが、フェルスリッチライネンゲンの狩猟宮殿となった。そのごエバーバッハの市庁
    舎としても使われた。今はネッカータール・ボーデェンヴァルト自然公園の広報センターとなり、
    自然・文化・景観の歴史や動植物について説明している。
  Hof (1470) 最古の3階建木骨造の建物で、美しく保全されている。
 古い湯屋 Alte Badhaus (15c) 2階建石造の建物に木造の切妻が乗っている。
    湯屋として砂岩の上に3室のゴシックの部屋が乗って浴槽と湯気が支配している。
    今はホテルとレストランとして使われている。
 ミカエル教会 Michaels Kirche (1863) プロテスタントの教会は15cマリエン礼拝堂の近くに
    単塔ホール教会が建てられ、祭壇の上にある色彩豊かな硝子窓が特徴である。
 聖ヨハネスネポクム教会 St.Johnes Nepomuk Kirche (1884-87) イタリアルネッサンス様式の、
    高い西双塔に特徴がある3廊の大きな教会である。原型の洗礼室と華やかな幕屋
    がある。
 エーベルバッハ城跡 BurgRuine Eberbach (11c) 東北1.2kmの丘の上に、前・中・後の
    3複合体の城がヴォルムスが支配した初期に建てられた。1196に前の部分が建てられ
    中の部分は1200に始まり1227ヘンリー7世に売却された後に拡張された。後ろの部分
    は1227-1240に建てられた。1330城はプファルツ選帝侯の所有となり、1402パラティーノ
    のルプレヒト3世が増築した。その後ヒルッシュホルン領主の意向で壊された。1927-28に発
    掘され幾つかの部分が再建された。
 スグラフィット絵画 Sgrafitto-Malerein () 色とりどりの石膏ヒッカキ技法の建物前面
    絵画が、旧市街地の幾つかの建物に描かれている。旧マルクトの3階建HotelKarpfen
    には、1934にエバーバッハの歴史を描いた14枚の絵が飾られている。

5.町の略図

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56.ガイスリンゲン Geislingen an der Seige 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口28千人

1.歴史

 1100 町の上にヘルフシュタイン城が築かれた、1108 ヘルフシュタイン伯が町を設立、
 1396 町はウルム自由帝国に1802まで属した、1500 一時シュバーベン帝国に属した、
 1531 ウルムの宗教改革に従った、1803 バイエルン帝国に割り当てられた、
 1810 交換でヴュルテンベルクに属した。

2.市壁  20m 0.01

   中世の都市複合体の市壁には、4市門、1西小門、2内市門、14防衛塔があったが
   今では、門塔は無く、僅かな市壁は、東側コーン家の裏側と南側ウルマ―門側の2階建民
   家には市壁が裏面に組込み込まれている。

3.門塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所 B

古くからの建物が多く残されている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1422) 地階は石積上階はアラマン風木組の建物がウルムの
    時代に建てられた。地階には肉屋の屋台があり、向かい側の旧税関と共に旧市
    街地の路上市場の中心であった。今の前面は1882-84にルネッサンスに改修され角にあ
    る塔のカリヨンは毎週違ったメロディを聴かせる。上階の広間は評議会と法廷として使
    われ、中央パーラーは市の要人の飲食が行われた。今は、登記所と南モラビア集会所。
 市庁舎 Rathaus (1913-16) ウルムの建築家の設計で、ベーカリーの跡地にアールヌーボーの
    大きな市庁舎が建てられた。前面には両側翼が3っつの円アーチで支えられ、凹んだ
    領域にささやかな装飾を置いている。北部内側市門Koeffitturmはシュタウヘン時代の
    町の終点としてここに立っていた。
 プロテスタント市教会 Ev.StadtKirche (1424-28) 3廊ゴシックの大聖堂は、高さ63mの塔
    と聳え立つ身廊で強い印象を与える。かっては聖マリアに奉献され、1529の聖マリア祭
    壇は、中央に守護聖人聖マリア両脇に聖モーリシャスと聖マグダネラの像が並び立つ。1621の
    説教壇は、後期ルネッサンスの豊な装飾が見える。
 プロテスタント牧師館 Ev.Pfarr Haus (1355) 旧市壁の南西隅の位置に、アラマン風2階建
    の木造建物は元フランシスコ会の女性の聖域であった。その後校舎となり今はプロテスタント
    の牧師館である。
 コーンの家 Kohn'sches Haus (1530) アラマン風4階建の木造の建物で、狭い切妻が通り
    の面し直角な2翼で構成され、錠前屋コーンが住んでいた。
 市民の家 Buergerhaus (1453-47) 地階石造上階木組の4階建の裕福な市民の家で
    地下室の上に建てられた。1983-85に改修されたが歴史的な前面は保存された。
    今はホテルとレストランとして使われている。
 旧ホテル・ポスト Ehem.Hotel Zur Post (1457) 市民の家の向かい側にあり、19cまで
    郵便馬車が週に2回到着した。18cに古典的な前面で再建され、14室のこのホテルは町
    で最大であった。旗竿とオークのドアのポストホーンは18c前半の物で、18-19cは帝国郵便
    であった。
 古い税関 Alter Zoll (1495) 恐らくフェルフェンシュタイン伯が建てた。ウルムによって以前
    の関税の場所に建て直された。地階石造上階木組の華やかな切妻前面建物で、地
    階は税関で上階に職員の家族が住み、その上は穀物倉と物置に使われた。
 旧宿屋・クローネ Ehem.Gasthaus Krone (1552) ブランデー蒸留所で製パンの権利を持っ
    ていた。その後ガストハウスとして宿泊と酒場であった。1962-63改修されて住宅と店
    舗となっている。
 シュパートの家 Schbaet haus (15c) 地階石造上階木組の切妻のある建物で、1776-77
    に改修された。
 旧ナメシ工場 Ehem.Gerberhaus (15c) 木組2階建の建物で、製革人・布製造者・ロープ製
    造者が住んだ。
 古い建物 Alterbau (1445) ウルムによって建てられた7階建の穀物倉でドイツ最大級の
    木造建築物である。ゴシックの木造構造で、枠組・持出がある。16cに北西の軒側は再
    建された。1923市が所有し、市博物館と1985改修時に追加された市立ギャラリーがある。
 病院 Spital (1351) 聖霊病院はザイツ・ネリンゲンが設立した。8棟有ったが3棟し
    か残っていない。かっての管理棟は大改修され今は音楽学校として使われている。
 旧ガストハウス・車輪 Ehem.Gasthaus Zum Rad (1766) 寄棟屋根の地階石積上階木組の
    四角い建物は、1766閉鎖され前の広場は車輪広場と名付けられた。
 住家 Wohnhaus (17c) 上階木組の2階建の建物で、修復されて美しい木組を露出さ
    せた。正面左側に旧市壁の断面が現れている。家に背面にも旧市壁が見える。

5.町の略図

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57.グレッティンゲン Groetzingen Aichtal 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口4.千人

1.歴史

 1075 ヘンリー4世文書でブドウ畑集落はヒルサウ修道院に属した、13c初 貴族が城を建設、
 1275 ハプスブルク王ルドルフの下で騎士ディーボルトは防衛施設のある町を設立した、
 1304 文書で町と表示、1337 ディーボルトの息子は町をヴュルテンベルクのルドルフ伯へ売却、
 1375 町の教区が設立された、14-16c 町は周辺の拠点となり事務所が置かれた、
   1534-35 宗教改革の導入、1634-35 町は破壊されペストの流行で人口は1/3に減、
 18c中 困窮し北米移住が行われた、1845 大火災で中心部の13戸が焼失、
 1975 周辺を統合して市となったが1978に市名はAichtalとなった。

2.市壁  50m 0.06

   騎士ディーボルトはヴュルテンベルク伯に対抗して1275堀のある市壁を築いた。市壁は厚さ
   は2mの直立壁で、多数の抜穴のある屋根付き壁上通路・2市門・12防衛塔があった。
    19c初に市壁は取り壊され、東側の火薬塔と一部の市壁が残るのみ。

3.門塔 0門1塔

 火薬塔 Pulver Turm (1275) 石造長方形(5×8m)の塔で、四方流れの屋根
    が付いている。

4.見所 D

町は大きな破壊を免れて来たので、15-16cの古い木組の建物が多く残されている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus () 町の中心の広場の中に、2階建で凸凹のある外形
    の建物である。
 プロテスタント教会 Ev.Tomplom (9c) 13cの身廊の下には9cの教会の基礎がある。
    1460に塔は解体され、その場所に塔のある内陣が追加された。その後身廊もゴシック
    で再建されたため、14cのフレスコ画は大部分が壊された。
 プロテスタント地区会館 Ev.Pfarramt (1558) 宗教改革後に建てられ、1738-1830には
    学校として使われ、今は地区の会館である。切妻付の木組の美しい3階建の建物で
    よく保存されている。古い建物は左側に傾いている。
 プロテスタント公会堂 Ev.Gemeindehaus (1556) クリフトフ侯爵が小学校を建てたが狭くな
    り1558に近くの建物を買収して学校として使った。古く捩れた2階建木造の建物。
 市幼稚園 Staedtsche Kindergarten Hemenheim () 市庁舎の隣にある高基礎の2
    階建の石造の建物で、入口部のみ3階部分がある。窓には両開きの雨戸がある。
    地下室の上に建てられた。1983-85に改修されたが歴史的な前面は保存された。

5.町の略図

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58.ハイデンハイム Heidenheim an der Brenz 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口50千人

1.歴史

 85 ローマの砦に4千人の兵士が駐留した、260 ローマは砦を放棄した、
 1130-45 ヘレンシュタイン城の建設と周辺集落の形成、1190.1420 城下の市街地に市壁建設、
 1356 皇帝チャールズ4世が都市権を授与、1448 ヘルフェンシュタイン伯の統治下でヴュルテンベルクへ、
 1462-1504 一時バイエルンに属した、1504 ヴュルテンベルク公国の領土となり事務所を設置、
 1806 新設ライン同盟に加入、1938 ハイデンハイム地区の上級事務所となった。

2.市壁  70m 0.08

   14cの市壁は、山裾と狭い街中を囲み、延長820mであった。山腹に僅か残る。

3.門塔 0門2塔

 市民塔 Buerger Turm (14c) 中世市壁の4市門6監視塔の唯一の生き残りで
    ある。13cの市壁の東部に1400頃この塔は挿入された。レンガ造の塔は18c迄半円
    錐屋根であったが、その後現存の木製の塔が付けられた。塔の部屋は市文化協
    会の展示室である。
 旧恥の塔 Ehem.Schand Turm(1417) 市壁の西側の監視塔として建てられ、晩年
    は刑務所として使われ、18cに解体された。残りの基礎は今住宅の塔の基礎とな
    っている。この辺りはかっての城集落の最古の地区であった。
 旧中門 Ehem.Mitters Tor (13c) プファルガッセの明るい石灰岩の舗装は旧中門の
    位置を示している。この門塔は町の東側の入口で、市壁と共に建てられ1780に
    老朽化で解体された。1781に町の紋章を内側に国の紋章を外側に鋳鉄に金メッキの
    マークが設置されたが、1828に撤去された。
 旧下門 Ehem.Unters Tor (1333) ハウプト通りの南端にある明るいブロックの舗装は
    下門あった位置を示している。1333に初言及されると、下門は1519-1609にレンガ
    造となり、1773-74に改装され時計が付けられた。1838に解体され販売された。
    東5mにある噴水は、かっての南部市壁内の井戸に場所である。

4.見所 B

町の西の上にヘレンハイム城がそびえ、東に細長い旧市街地が市壁に囲まれてあった。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1846) 古くからの市庁舎の場所に、地元採石場の
    ジュラ期の石灰岩を使って、上階に美しいバルコニーがあり、かって鐘楼として使わ
    れたタレットが屋根にあるシンプルな外観の2階建の建物で、東の切妻壁には紋章の下
    に建設年号がある。1972に新市庁舎へ移転後は、文化センタートとなり観光案内所が
    ある。
 新市庁舎 Neues Rathaus (1972) デザインは8人のコンペによるシュツットガルトの建築グ
    ループが行った。大きな建物には市の全部門が集められた。市庁舎正面の角には
    直径2.4mのピアスが2001の彫刻シンポジュームに際して付けられた。
 ヘレンシュタイン城 Schloss Hellenstein (1130) 町のランドマークとして標高560mの岩の上
    に元のストーファー城が1130-45に建てられたが、1530の火災でほぼ全焼し騎士の館の
    外壁跡が残るだけである。1600にヴュルテンベルク伯フリードリッヒ1世は東に2-3階建ルネッサンス
    の宮殿を建、今は博物館になっている。
 ヘレンシュタイン宮殿博物館 Museum Schloss Hellenstein (1210-20) 入口の武器庫には
    町の歴史の展示。西の城教会はゴシックの前面の中は古いプロテスタントのホール教会で、教
    会の部屋による教会の絵画・彫刻の芸術が展示されている。
 馬車博物館 Museum Kustschen Chsisen Karren () 南西の倉庫には馬車・長椅子・
    カートが納められ、約80台の車両を使用した陸上交通の歴史を展示している。
     1898のドイツ最古のタクシー(モーターコーチ)もある。
 ミカエル教会 Michaels Kirche (1210-20) 初めのロマネスク後期のニコラウス礼拝堂は、何回
    も再建され、1621-22北に拡張され、1668塔はカラフルなセラミックプレートを備えたドームとな
    った。1965-67改修中にバロックのパネル絵画が35点発見され、教会ギャラリーに飾られて
    いる。入口上の日時計は、旧上門にあった物である。
 プロテスタント・パウルス教会 Ev.Paulus Kirche (1898) 新市庁舎の東の森のような公
    園の中に、歴史主義赤煉瓦の大教会が有り、高さ75mの塔もある。
 宮殿薬局 Schloss Apotheke (18c) 横型の屋根の建物に通りに面した印象的な
    出窓がある。1900今の外観に改修された。1680に建てられた隣の建物は、1982に
    改修されて上階の木組が露出された。
 旧上部事務局 Ehem.Oberamtei (15c) 市壁の北西部に町で最古の石造の上部事
    務所がった。1448までは厩舎として、その後に穀物倉庫・財務事務所・下級廷氏の
    宿舎として使われ、今はギャラリー「Littla Bug」として展示が行われている。
    よく保存されている。古い建物は左側に傾いている。
 旧旅館クローネ・旧郵便局 Ev.Gasthof Krone und Ehem.Poststation (15c) 地階と
    上階にバロックの窓が並ぶ長さ30mの建物がある。元々は15cと16cの二つの木骨造の
    建物で、ガストハウス王冠と郵便局だった。1749郵便馬車トルンタクシスの駅が設定された。
 旧度量衡検定所 Altes Eichamt (1688) 特徴的な旧度量衡検定所は、1821町の
    書記室、1839高等裁判所が置かれ、1874から100年間は度量衡検定所であった。
    1978-80に建物は完全に改修され、市民の集会の場となった。印象的な東門・露出
    した壮大な木組の壁・突出した床など町でも美しい木組の建物である。
     このヒンターガッセには小さな店・食堂・住家など歴史的な景観がある。

5.町の略図

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59.ヒルスバッハ Hilsbach  Sinsheim市内 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口0.3千人

1.歴史

 798 ロルッシュ修道院の寄付文書に初言及、908 ヘッセンのコンラートが城と城壁を築いた、
 1310 町は山に移され250×200mを市壁で囲んだ、1319 バイエルン王国に属した、
 1361 プファルツの廷氏が移住した、1367 ルプレヒト伯は町をドイツ騎士団に寄付した、
 1521 プファルツは町にワイナリーを建設、1525 農民戦争で教会とワイナリーを破壊、
 17c 30年戦争で略奪と破壊、1641 大火災、17c後半 仏とスイスからの入植者で回復、
 1744 ドイツ騎士団は牧師館を建設、18c後半 町を再構築の計画は実現しなかった、
 1803 バーデン公国へ属した、1806 市壁の2市門・5塔が存在、1813 ライニンゲン事務所設置、
 1841 ジンスハイムの地区事務所の管轄下に、1854 貧困で数百人が米国に移住、
 1936 第三帝国となり都市権を一時失う。

2.市壁  140m 0.17

   1310に250×200mの旧市街地は、市壁で囲まれた。19cに壊された。
    主として西側に残されている。

3.門塔 0門1塔

   1806に2市門・5塔が存在したが、1822には上門が取り払われた。町の東南隅のZent
    塔は住居として残されている。

4.見所 C

ワイン街道の丘の上の小さな町であるが、1998旧事務所の町として1200年を祝った。
 市庁舎 Rathaus (1893) 古いレンガ造の庁舎を今の姿に置換えた。1957鐘楼に
    鐘が付けられた。1982新教教区会館を収容。
 ミカエル教会 Michaels Kirche (1300-67) ボルムスの司教に属し、ゴシックの教会が建て
    られ、1509西入口を新設し、1667-85内陣を除いて再建され、墓地は市壁の東側
    に移転した。1696ロフトが作成され、1705同時教会となり、内陣はカトリック・身廊は新
    教が使用した。1951カトリックの新マリエン教会が建設され、新教専用となった。
 マリエン教会 Marien Kirche (1951) 新しいカトリックの教会は、角型の南塔を持つ大き
    な建物でマルクト通りに建てられた。
 ワイン醸造事務所 Amts Kellerei (1732-33) バロックの新事務所が建てられた。1808
    ライニンゲン会計局の所有となり、1840町に売却後校舎となった。
 プファルツ選帝侯ワイン醸造所 Kur Pfaelz Kellerei (1732-33) プファルツ選帝侯は1516か
    ら集落にワイナリーを持っていたが、1521新しいワイナリーを建てた。周辺地域からのブドウ
    を集めて醸造した。建物には地下室や階段塔あり、後に十分の一税倉庫となった。
 守衛室 Wacht haus (1808) 丸太小屋と呼ばれ、1823に柱列のある今の建物とな
    った。旧上門に接して夜警が使い、後に道路通行税・税金の徴収を行った。地元銀
    行・警察署なども使用した。
 改革派教区校舎 Referniertes Schulhaus (16c)岩の上に建てられた4階建の建物
    は、改革派の校舎として使われ、1708カトリック司教の住居となり、1843マルクト通りに
    カトリック司教館が建てられてそちらに移った。
 プロテスタント牧師館 Ev.Pfarrhaus (1744) 十分の一税の収入権を持っていたドイツ騎士
    団によって建てられ、1821新教の牧師が住んだ。1906-07マルクト通りに新しい牧師館
    が建てられた。

5.町の略図

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60.ホルプ  Holb am Necker 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口25千人

1.歴史

 1090 コーデックス・ヒアザウギーニスに初言及、12後半 チュービンゲンのパラティーヌ伯が入植地を所有、
 1228 パラティーヌ伯は町の権利を授与、1277 市場を開設、1305までパラティーヌ伯が所有、
 1381 オーストリアのハプスブルク家の支配下に、15c 町は織物・手工業・ワインの交易で栄えた、
 1498 マクシミリアン皇帝のホーバー条約で政治の中心へ、1556 大火事・30年戦争・1725大火事、
 1806 ナポレオンによりヴュルテンベルク王国に属し近代化、1818-24黒い森サークルに割当られ拡張。

2.市壁  60m 0.06

   1273に長方形の一次市壁は山の尾根に築かれた。15c谷の円形の市壁が、西門・4円
    塔・4半円塔で郊外の市壁の一部を構成し。18-19c市壁の強化が行われた。
     西門の北と南に市壁の残りが見られる。

3.門塔 3門5塔

 ルチファー門 Luzifer Tor (1273) 一次市壁の西からの門で3階建の四角錐屋根の
    角塔である。門塔の2階上部の左側の小窓の後に木製の部屋があり、魔女の拘置所
    に使われた。1980門塔にレストランが開業された。
 西門南斜面切株 Graben Bach Tor (1394) アルトハイマ―門のグラーベンバッハ市壁が残り、
    その南側斜面の上に、円形の切株が残ている。
 水門 Wasser Tor (1347) 3水門の内ミュール運河の繋がる唯一の門で、石造3階建角
    塔の上に木造の上階がある。かっての市壁で囲まれた水の出口が門塔で守られた。
 外側周壁の塔 Ausserer Ringmauer Turm (15c) 西門の西側山腹斜面にある外
    側壁のニ階建円錐屋根の防御円塔がある。重いフックライフルでこの市壁を守った。下の
    西門に向かって市壁が現存する。
 内側周壁の塔 Innerer Rngmauer Turm (1480) 内側周壁の北側斜面に、中央防御
    塔が4階建の円塔で建てられた。右側に向いた乗馬の絵は1968に更新された。今は、
    軍事歴史博物館となっている。
 悪者塔 Schurken Turm (18-19c) ハプテスト後期の市塔で中世の刑務所。7階建高さ26
    mの強力な角塔は西側を見張り守った。18cから刑務所として使われ、泥棒又は悪者
    の名前が付いた。1822に四つの永久刑務所と警手アパートを設置し、木組の屋根はテント
    屋根に張替えた。今と塔室には、シュバ-ベンアルプ協会のハイキンクホームである。
 シュッテ塔 Schuette Turm (1422) 西の山に監視塔として建てられ、1900に三つの
    ホルぱ-クラブによって見張り塔として再建された。
 ゾマーハウゼン塔 Sommerhalden-turm (18c) 3階建塔の切株は要塞の古い部分で、
    堅固な壁と共に大きな構造物である。

4.見所 A

谷から尾根にかけて、木組の家を含め多くの古い建物が残されている。
 市庁舎 Rathaus (1420) 地階にはオープン8アーチと切妻のある3階建石造の建物で、
    1725の火事の後1733-65に最小限で再建された。1860に近隣建物を買収し拘置所
    と守衛所とした。1925-27前面に絵画が描かれた。1998・2000に文化博物館協会
    によって絵は復元された。
 ヨハネス教会 Johanes Kirche (1896) オーストリアからヴュルテンベルク王国に支配権が移り、
    プロテスタントが増加し、プロテスタントのネオゴシック東に塔のある教会が建てられた。教会の外
    壁には石のヨハネ像がある。
 黒い森大聖堂 Kathedoral des Schwarzwald (13c) 町の南200mにキリスト降誕教会は
    21c初めに大改修が行われた。大きな教会であるため、黒い森の大聖堂と呼ばれる。
 聖母礼拝堂 Lieb Frauen Kapelle (1280) 南の市壁の外にベネディクト会修道院が礼
    拝堂を建設した。1363市民は、礼拝堂に身廊と塔を加えて教会とした。17c中に身
    廊と塔を柱で補強。30年戦争後、フランシスコ会は修道院教会として140年間使用した。
 オッチリエン礼拝堂 Ottilien Kapelle (1431) 眼で苦しむ人のための巡礼地であり、礼
    拝堂は聖オッティリーを讃えて建てられた。1788に閉鎖され1851に改修された。
 聖十字架教会 Stiftskirche Heilige Kreuz (13c) 旧市街地の最高地点にある最
    古の教区支部の教会であった。1389教区教会となり、14-15cゴシックの教会に拡大さ
    れたが、1725の大火事で焼失した。1728-55バロックで身廊と塔が再建された。1906
    ヴュルテンベルク王は宝物を教会に贈った。
 レオンハルト教会 Leonhards Kirche (1471) 渓谷に聖レオンハルトに礼拝堂が捧げられた。
    ヴュルテンベルク王国への移管後、レオンハルト礼拝堂は1806閉鎖され、住宅に改造された。
 ドミニカ修道院 Dominikanerinnen Kloster (1261-1806) 修道院の建物は1725の大火
    事で焼け、1726-27に塔を含め8棟の複合建物が再建された。地下室のある礼拝堂は
    東翼にある。1430ピエタの恵みの像は聖母礼拝堂に飾られている。現在この建物には
    税務署と市資料館を収容している。
 フランシスコ会内修道院 Franziskanerinnen Kloster (1408) 1293から町にあったフランシスコ
    会のコレクションは商人の家に置かれた。1780帝国によって閉鎖された後、醸造レストラン「
    リッター」が南翼に開業した。1909全焼後は、リンデンと栗の木が並ぶ教会広場の空きスペ
    ースになった。
、  フランシスコ会修道院 Franziskaner Kloster (1656) フランシスコ会修道院内に病院が置かれ
    1787ホーリー病院が買収し数十年にわたって近代的病院であったが、2013に閉館した。
    今は、医療センターと高齢者リハビリセンターがここにある。
 首席司祭 Propstel (1387) 1387設立のカノン修道院の教区は、1688に再建され1725
    の火災で焼失後再建して、カノン教区は大学を主宰し居住義務があった。世俗化の過
    程でヴュルテンベルク王国の所有となり、1936教区は建物を取得して牧師館と幼稚園とし
    て使っている。
 地方裁判所 Amtsgericht (1845) 1822に塔に設置した4刑務所が、1830法務省の規
    定を満たさなくなり、新しく裁判所・刑務所を建設し8独房・警備員宿舎を収容した。
 ホーエンディーセン城址 BurgRuin Hohendiessen (12c) 西8kmにある、かっての荘園の城で
    城壁と城の外壁が残っている。16cの農民戦争で壊され1965からは村が所有した。
    城跡では催物が行われている。
 旧旅館「白鳥」 Ehem.Gasthaus Schwanen (1861) 1854まではレンガ工のギルドホテルで
    あった。醸造所が追加され、1年後に旅館「白鳥」と呼ばれた。1944醸造所が閉鎖さ
    れ、その後道が崩れ、2013閉館した。
 穀物倉 Frucht Kasten (1819) オーストリア皇帝からヴュルテンベルクに王国に支配が移った後
    ラインハウゼン修道院の跡地に建てられた。その後地区事務所として使われ、1980大改修さ
    れて警察署となった。
 谷の飼料倉 FutterHaus im Tal (15c) 堂々とした地階石積上階木組のアレマン風の建
    物があり、1550病院に売却された。1980解体を検討されたが個人が取得し改修して
    住宅とした。
 ゲスラー武器庫 Gesslersche Zeughaus (1561) 布地商のゲスラーは3階建の大きな木組の
    建物を建てた。入り口のアーチの上に紋章がある。17-19cに布の製造と販売で栄えた。
 ブスの家 Haus am Buss (1439) 高基礎上階木造の木の梁と板壁の建物は、ブスガッセ
    にあり周囲の家の屋根のはるか上に聳えている。
 高切妻の家 Hocher Giebel (17c) ガルフ家の商社「Hocher Giebel」の建物は、地階
    の石積は高く上階は豪華な木組で上の切妻迄伸びている。紋章は1622の建物の入口扉
    の上25mに飾られている。2次大戦がに市が購入し、1954-55に修復して青少年音楽学
    校として使われている。
 穀物倉庫 Kornhaus (1418) オーストリア公爵は、1415百貨店の建設を許可し、穀物倉庫が
    完成して取引が行われた。大火事で焼失後、1725学校と評議会場が再建された。
 保存の家 Naturschutz Haus (1837) ピルテンシンガー門の石材で窓の少ない平屋と地下室
    が建てられた。1997ドイツ自然保護協会が自然保護の家として使っている。
 石の家 Steinhaus (1507) 病院の倉庫として階段切妻の2階建の建物が、丸天井の地
    下室の上にオーク材で構築された。カトリック教区は1972-74に石の家を再建して、車庫と集会
    所として使った。
 門番の家 Tor Waerterhaeuschen (1662) 西門の門番の家は、1836まで使われた。
    高さ23mの門塔の前にあり、切妻のある小さな家は門塔の前にあるツインガーを形成した。
    1662門番の家の基礎の上に木組の家が建てられ1836迄使われ、1836迄使われ、市門と
    共に撤去された。

5.町の略図

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61.ナゴルド Nagold 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口22千人

1.歴史

 786 聖ガレン修道院の文書に初言及、1078 公爵ヒューゴ3世はナゴルドから本拠地を移動、
 11c ナゴルドの城で町を支配、1170 ホーエンベルク家のナゴルドは町を市壁で囲んだ、
 1300 オットー1世が町を取得した、1363 オットー2世は郡をヴュルテンベルク伯へ売却、
 17c 30年等の戦争・ペストで町は荒廃、1759 郡事務所の所在地となった、
 1800 ヴュルテンベルク王国に属し政治的に安定、1945 仏軍の占領地区となった、
 1947 新設のヴュルテンベルク・ホーエンツオ-レルン州に属した、1952バーデンヴュルテンベルク連邦国へ。

2.市壁  20m 0.01

   12cの市壁は、西北の旧下粉引所の東側に、僅か復元されている。

3.門塔 0門1塔

 古い塔 Alter Turm (1360) 聖マリア専用の礼拝堂として建てられた古い教会の
     塔として建てられ、1401に内陣と塔が拡張された。1877には塔のみが残された。
     古い教会の平面は、古い塔の下の歩道の舗装から分かる。

4.見所 B

マルクト広場を中心に旧市街地には、多くの古い建物が保全されたている。
 市庁舎 Rathaus (1500) この建物のアーケードは昔のマルクトに向かっていた。1756-58
    に2階建の建物は1階嵩上げされ、ロココに改装された。1990市庁舎は改造されて三
    津に建物に広がった。
 レミギウス教会 Lemigius Kirche (773) 南西600mの墓地にあり、最古の教会として
    ローマ遺跡の上に680には存在した。773今の教会が建てられ、ゴシックへの変更と拡張
    の後にロマネスクになった。教会の建設に使用されたローマの柱は、内陣のアーチに残って
    いる。内部には1320-25のイエス生誕のフレスコ画がある。1555プロテスタントの教会となり、
    1965大改修の後に再び教区教会になった。
 新教町教会 Ev.Stadt Kirche (1360) 市壁内に聖母マリア礼拝堂が建てられ、1401
    拡張され塔と内陣を備えたヨハネ教会に昇格したが、19cに老朽化と狭隘のため解体
    された。新市教会は、1870-74北東に広く60mの高塔のあるネオゴシックの教会が新築さ
    れ、1968-70と2006に内装改修が行われた。
 ホーエン・ナゴルド城跡 Burg Ruine Hoen Nagold (1100) 標高530mの山頂に、ナゴルド伯
    は城を建て、1153-62に城複合施設は大幅に拡充された。13c中にホーエンベルク伯に城
    を譲り、1363城はヴュルテンブルク伯に売却され、15cツインガーが強化された。1645-46に
    30年戦争で破壊され、今は建物基礎・外側ツインガー・タカサ25mの防衛塔が残っている。
 古い学校 AlteSchule (1706) 地階石造3アーチ上階木組の切妻付の建物。1826まで
    国民学校とラテン語学校として使われ、1826には個人所有となった。
 石の家 Stein haus (1258) 最古の石造2階建の建物で、騎士が住んだ。19-19cは
    倉庫と住宅で使われ、1989市立文書館と市立博物館となった。
 町の湯屋 Badhaus (15c) 町の湯屋として建てられ、社交の場と衛生・医術の中心
    となった。1841住宅として使われ、1905市会計局となった。
 ツェラー薬局 Zeller'sche Apothke (18c) Drハインリッヒ・ツェラーの生家であり薬局である。
    地階石造上階木組の美しい切妻付の建物で、ツェラーは薬局主・自然研究者・著述家・慈
    善家であった。
 古い代官屋敷 Alte Vogtei (1425) 十分の一税の収入権を持っていたドイツ騎士
 新教執事の家 Ev.Diakonat haus (1716) 町と事務所の書記モイヤーが装飾の多い
    この家を建てた。1738-1961プロテスタントの牧師が住み、その後は個人所有となった。
 旧郡庁事務務所 Altes Oberamt (1523) ヴュルテンベルク伯が十分の一税倉庫として
    たてた。1645城破壊の後に郡庁が置かれ、1806-37郡行政事務所となった。1953
    警察の勤務場所であった。広場の上に復元された市壁が見える。
 ホテル:ポスト Hotel Post (1679) マンサード屋根上階木造の建物で、1807郵便駅として
    使われた。1906ユーゲントスチュールに改築され、ヴュルテンベルク王もここに泊まった。
 ザウターの家 Haus Sauter (1777) 角にある上階木組3階建の大きな建物。
 ザウアーの家 Haus Saur (1080) 地階の石積の上に、前面の異なる二つの細長い建
    物を切妻を含め4階分が合わせられた珍しい建物である。1981に二つの建物の木組
    が露出させられた。

5.町の略図

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62.ジーゲン Siegen Hohentweil 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口48千人

1.歴史

 987 聖ガレン修道院の文書に初言及、1170-80 領主がホーエンフリーディゲン城を築いた、
 1466 フーラッハ、1518 フリンゲンベルクが町を支配、1530-71 領主ボドマンが一時オーストリアに売却、
 1300 オットー1世が町を取得した、1363 オットー2世は郡をヴュルテンベルク伯へ売却、
 1607 リスコネが領主に、1632 オアーストリアが支配、1655 ジンゲン・ミュールハウゼンが支配した、
 1805 ヴュルテンベルク王国に 1810 バーデン大公国へ、1810 ジンゲンはコンスタンツ地方事務所、
 1944-45 町の中心部は爆撃で大被害。

2.要塞(Festung Hohenweil) 600m 0.19

    ジンゲンの西2kmの標高260mの山に、970修道院の設立、1005修道院の移転、
    914シュバーベン公が城を建設、12-13c騎士の一族が住む、1521ヴュルテンベルクに属す、
    1553ウルリッヒは城を含む要塞を築いた、16c州の要塞へ、1627-34ヴュルテンベルク要塞強
    化、1653.1700.1735に拡張・強化、18c州の刑務所、1800-01仏軍破壊、1821以降
    何回か再建が検討された、1849縮小案で再建、1945仏軍戦車の砲撃、1735時点
    最大の要塞は9.92ha、内上部要塞2.18ha下部要塞は2.12haであった。
     1974-2009に476万ユーロが投入され、年万10万人の観光客が来ている。

3.門塔 0門1塔

   見当たらない。

4.見所 C

町の西2kmにある標高260mの山頂に、大きな中世からの要塞の遺跡がある。
 市庁舎 Rathaus (1960) 新しい古典的なアルミ窓の近代的な建物。会議室には大
    きなフレスコ画「戦争と平和」がある。
 上城 Ober Schloss (1869-1910) マンサード屋根正方形の建物で、エンツベルクによっ
    て建てられた。今は考古学博物館「ヘガウ博物館」となり、地下室には化石・鉱
    物・蝶のコレクションがある。
 聖ピータートパウル教会 St.Peter und Paul Kirche (1778-81) 古い部分が組み込ま
    れたカトリックの教会。
 聖トーマス教会 Alte Kath.St.Thomas Kirche (1863) 古いプロテスタント教会で、今は
    古カトリックの教会。
 ヘーガー塔 Hegau Tower (2008) 再開発された鉄とコンクリートとガラスの近代的な巨大
    な構造物。高さ67.5m:18階建で、床面積は高層639m2低層779m2もある。

5.町の略図

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63.ヴァルトキルヘ Waldkirch 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口22千人

1.歴史

 918 聖マルガレーテ修道院の創立、城が集落を守った、1250 町の設立、
 1300 シュバルツエンベルクの憲章が認められ、町は市壁で守られた、
 1567 オーストリアのフェルナンド大公がシュバルツエンベルクの地所を購入した、
 1805 バーデン大公国に属した、1945 二次大戦は無傷で生き延びた。

2.市壁  10m 0.01

   1250に設立された町の北部に、1300市壁と運河が造られた。1450には2番目の外壁
   が10-20m外側に造られ強化された。1705スペイン承継戦争で仏軍は市壁を破壊した。
   19c堀は埋められ壁は壊された。DamenStr.2には1705に壊された市壁10mが埋まって
   いる。近年市壁復元の話がある。

3.門塔 0門1塔

   上門と下門は1796に解体された。運河の北側には昔の円塔の基礎が埋まっている。
    唯一Elz Str.9aには、2次市壁の塔の切株が見られる。

4.見所 B

マルクト広場を中心に旧市街地には、多くの古い建物が保全されたている。
 市庁舎 Rathaus (1567) 14cの市場のアーチと裁判所を含む市庁舎は、1567後期ルネッサ
    ンスの市庁舎に建替えられたが、1638に火事で焼け、1654に再建された。1753外壁
    のアーケードは塞がれ玄関が設置された。1891に今のルネッサンスの姿で再建されている。
    1988にか拡張され大規模修繕が行われた。2014-16にも改修された。
 フェルブブルクFelburg (1771) 1300シュバルゼンベルク家の城として建てられ、1490に修道
    院が購入して管理者の住居として使用した。1771地下室のある現在の建物に建て替
    えられた。
 修道院納屋 Stifts Scheune (1732-33) 聖マルガレータ修道院の納屋は、地下室に樽型
    の部屋がある。1950-52集会場に改造された。今は聖マルガレータ教会の集会所として
    使われている。
 聖マルガレータ教会 St.Margarethe Kirche (918) 王オットー3世の修道院が設立され、994
    には帝国修道院に昇格し、1431正教会の修道院に改造された。現在の教会は1732-34
    にバラックで建設されたもので、今はカトリックの市教会である。
 聖マルガレータ修道院 Propsteides St.Margarrethe (1753-55) 内装は漆喰で、上部に
    は聖マルガレータの砂岩像がある。用途は軍病院・綿織物工場・ホテル・学校に使われ、1983か
    らは博物館である。
 ガストハウス「王冠」 Gasthaus Zum Krone (1453) 1320には Zur Lachumと呼ばれる旅
    館であった。1553大ギルドのホステルとなり、1796切妻前面に仏軍の砲弾がある。1820
    に宿の前にはニーター門が存在した。2002-14にニーター門は再建され合わせてガストハウスも合
    わせて改造された。
 浴場 Bad Stube (1287) 市壁の外に2階建の浴場が建てられ、1523に市が所有して
    理髪師と外科医が浴場で仕事をした。1750入浴は終わり、革ナメシ工場となった。
 旧上級城代 Ehem.Ober Vogtei (1673-64) 高基礎の2階建の建物は旧地区事務所と
    して建てられ、一部は旧市街の堀に建っている。1807-1936地区事務所として使わ
    れ、今は警察が使っている。
 町薬局 Stadt Apothke (1650) かっての3階建の床屋の家を、裕福なブルジョアが改装
    して使用した。1971この建物に市薬局が開業し、その後所有者が変わっても薬局と
    して継続されている。
 宿屋「天使」 Gasthaus Zum Engel (1698) この建物はパン屋・靴屋・大工のギルドホステル
    であった。1913漆喰が剥がされ美しい木組が現れた。1965宿屋は終わった。
 カステル城 Kastelburg (1250-1260) シュバルツエンベルクの領主は、聖マルガレータ修道院を守るた
    め、山上に城を築いた。城はオーストリア支配時の刑務所として使われた。1634帝国軍は3回
    の包囲の後に城を破壊して、廃墟となっている。
 町礼拝堂 Stsdt Kapelle (1332) 聖母市礼拝堂は町で最古の建物で、教区教会が市
    壁外にあったため、1929シンプルな礼拝堂と内陣を建てた。1931に撤去され、2000に復元
    された。
 牧師の家 Kaplanei haus (1779) 2階建9窓列の大きな建物は、1779に聖マルガレータ教会
    に設立された大学に務める牧師・教師・従事者の住家であった。今でもカトリック教会の職員
    が使っている。

5.町の略図

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64.ヴェアートハイム Wertheim 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口23千人

1.歴史

 779 最初の文書言及、1009 ヘンリー2世による市場権のに授与、1103 ヴェルトハイム郡へ、
 12c 城の建設開始、1306 都市権が付与された、1367-1806 硬貨の鋳造、
 16c ブドウ栽培が主要産業に、1556 最後のウェルトハイム伯の死後シュトルベルク伯が所有、
 1598 レーベンシュタイン・ベルトハイム伯が所有、1634 城は破壊され以後は廃墟となった、
 1806 バーデン大公国に属した、1913 工業地域との統合。

2.市壁  240m 0.38

   13-15cに市壁は築かれた。タウバー川沿いには所々に市壁の残骸がある。一方マイン川
   沿いには門塔は残るが建物が建てられて市壁の跡は見つからない。城の周辺には
   城壁が幾重にも取り巻いている。

3.門塔 3門3塔

   かっては14門塔があった。
 正門 Stadt Tor (1200-1400) 赤砂岩の4階建正方形の北市門で、1991に外装を
    改修した。
 マイン門 Main Tor (1200-1400) 赤砂岩の4階建正方形の北西市門で、塔頂部には
    胸壁が有り、南正面と通路側は漆喰が塗られている。1991外装の改修が行われた。
 税関門 Zoll Tor (1200-1400) 赤砂岩の3階建正方形の北西市門で、上階に窓
    がある。19cと20cに上階は変更された。マイン河畔と旧市街を結ぶ幹線にあった。
 尖塔 SpitzerTurm (1180-1400) 川が合流する先端にあり、丸い下部は1180に
    建てられたが、上部は傾きを調整して、1450に建てられた。塔には「酔払い」
    と「喧嘩好き女」の留置場があった。
砂岩のコーナーブロックの上に突出した部
    屋が置かれ、八角錐の尖塔を乗せている。塔高は36.5mある。高さ10mの入口へ
    は梯子で登った。
 高塔 Hoher Turm (1180-1450) かっては白い塔と呼ばれ、丸くて頑丈な5階建の
    漆喰の円塔に低い円錐形の屋根が付いている。12cの市壁の南西の角に位置し、
    小さな門を入った奥に建っている。2階建の周囲の建物は1838に建てられた。
 腐塔 Faul Turm (1500-1620) 4階建の漆喰の円塔で低い円錐屋根が付いている。
    同名の門が接続し、上に市壁が残っている。1964隣接の住宅と改修された。

4.見所 B

12-13cから城下町として定住地が形成され、15-19cにかけて旧市街地が広がった。
   16-19cの保全された木組やレンガ造の建物が歴史的な景観を醸している。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1540) 東の商人の家と南の教区会館は、2-3階建の漆
    喰の建物で1540に建てられ、中間に円形の階段塔が付けれれ、1562/65-1988に市
    庁舎として使われた。2000改造されて伯爵領博物館となった。
 伯爵領博物館 Grafschaft Museum (2000) 伯爵領時代の歴史と文化を展示。
 ヴェルトハイム城址BurgRuine Wertheim (12c) 山頂の赤い砂岩三つのテラスに建てられ、
    13cには多数の塔と塹壕のある城に、宮殿や教会も備え、
    16cには拡張されたが、直ぐに壊された。17cに城壁・門・塔が強化され、設備も整備さ
    れたが、16194火薬庫爆発・1634三十年戦争で壊れ、1962廃城として保全されている。
 プロテスタント聖マリエン教会 Ev.Stiftkirche St.Marien (1384) 伯爵ヨハン1世は、以前の二
    つのロマネスク教区教会に基礎の上に教会を建て、1481に大学教会に昇格し、ヴェルトハイム家
    の墓所となった。15c南通路にある日時計と高さ51mの塔が付けられた。
 カトリック聖ベンナントウム教会 Kath.St.Wenantium (1841) バーデン大公国のカトリック教徒からの
    寄付と太公国の支援で、1840基石が置かれ1842に奉献された。赤砂岩のシンプルナ構造で
    中央に塔が置かれた。1900-14内部の改装、1950-60補修が行われた。
 青い家 Blaue Haus (1593) 地階石積上階木組の切妻付の3階建の建物で、上階から
    切妻にかけての木組にはスコルトブルーに1593と1597に塗られて、向かいの側の市庁舎に
    対抗した。
 住宅 Wohnhaus (1550) 地階と1階は石積みで3階と切妻は装飾のある木組の建物で
    1900に木組の部分は改修されている。
 旧ガストハウス「王冠」 Gasthaus Zum Krone (16c) 3階建の漆喰塗り切妻屋根の堅固な
    建物で、16cの中頃には改修された。今は住宅と店舗となっている。
 住宅と店舗 Wohnhaus und Geeschaftshaus (16c) 地階石造上階木組の2階建の漆喰
    が塗られよく保存されている。
 住宅と店舗 Wohnhaus und Geeschaftshaus (1500) 地階と上階は石造で、3階部分は
    装飾的な木組トラスで飾られている。1951-2003に前面の改修が行われ、腐敗した木材は
    取り換えられた。

5.町の略図

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65.ヴィースロッホ Wiesloch 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口27千人

1.歴史

 801 ロシュ修道院の贈物調書に記載、9c後半 大きな陶器を広く販売、
 10c 鉛・銀を表面から採取、956 オットー大帝は市場権を授与、1030 市教会を建設、
 13c ハイデルブルクのプファルツ伯に属した、1276.88 ハイデルベルクの火事でパラティーヌ伯が居住、
 1288 パラティーヌ伯ルードヴィッヒは町に昇格・市壁を建設、1301 町を砲撃、1313 城は再建、
 15-16c 町は相当繁栄した、17c 30年戦争で人口は半減したが建物被害は軽微、
 1689 7年戦争で仏軍は町を破壊、18c 町は人口急増で市壁を壊して拡張、
 1806 バーデン大公国マンハイム地区に属した、1945 空爆と砲撃を受けたが被害は限定的。

2.市壁  120m 0.10

   14cの市壁は、17cに壊されはじめ、19cには崩壊した。南側に残る部分がある。

3.門塔 0門3塔

 下門 Oberes Tor (15c) 下市門は1831までは立っていた。今はレーベン薬局の
    プラーグが記念している。
 上門 Unteres Tor (15c) 上市門の場所は舗装の色で表示されている。東の門で
    17-18cには刑務所として使われ、1842に解体された。
 ドルンデル Doerndel (14c) 市壁の3階建の防衛角塔で、1557に刑務所として使わ
    れた。その後塔上部は取り払わられ、四角錐屋根が付けられた。塔には3拘置室
    が有り、19cには警官が住んだ。1978までは地元の歴史館があり、1985市博物館
    が開館した。
 ザウアーミルク塔 Sauer Millich Faffe (14c中) 市壁と共に残っている。包囲中に塔
    は冷蔵庫の役割をしていた。屋根はない。
 円形塔 Rund Turm (14c中) 円塔がレストランTurmstubenの建物に取込まれている。

4.見所 C

旧市庁舎 Altes Rathaus (1479) 最初の市庁舎は仏軍によって1538に破壊さ
    れ、新しい建物となったが、1689再び仏軍によって7年戦争の犠牲となった。
    1713今の市庁舎が階段は木の板で再建された。1821.1885の再建案は周囲の壁の一
    部と玄関の古典的な柱だけが残されて、新築された。カレルフロンの噴水は新旧市庁舎
    の角に、市の700年の記念に1988に造られた。
 プロテスタント市教会 Ev.Stadt Kirche (1061) 新市教会は聖ラウレンティウスに奉献され、
    1877にハインリッヒ皇帝はラインフェルデンのルドルフ王が戦い教会に100人以上を閉じ込めて焼き
    払った。塔はほぼ11cの物で、教会も規模はほぼ今と同等だった。15cには南側の
    玄関、14-16c様ざまな墓石がある。1707教区教会は改革派に与えられた。1773西
    に拡張して今の大きさになった。
 聖ラウレンティウス教会St.Laurentius Kirche (1738) 選帝侯カール・フイリップはアウグスチヌス会へ
    修道院・教会・ホスピス建設の許可を与え、1745-50に修道院と教会は建てられた。1803
    修道院は世俗化され、カトリックは教会を取得して聖ラウレンティウスに捧げた。内装は後期バロ
    ックの豪華なものであろ。
 ヴィースロッホ城 Burg Alte Wiesloch (14c) 古い城の遺跡は、4階建の高塔と地下ワイン
    倉のある使用人の宿舎の遺跡が残されており、今は警察が使用している。
     城は正方形の平面に壁とツインガーが有り、西と北には深い堀がある。1689仏軍に破
    壊され、19cに塹壕は埋められ壁は取り除かれた。
 郵便局 Post Haltei (1746) スタージス広場には、1741双頭の鷲のキーストーンのアーチ道が
    あり、中庭に通じている、トウルンタクシス王子郵便局の馬車郵便局への入口であった。
 フライホフ Frei Hof (14c) この町で最古の現存住宅で、印象的な切妻のある建物は
    14cに要塞化された貴族の館であった。今はレストランで上下二つの地下室がある。

5.町の略図

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66.ヴィネンデン Winnenden 

バーデンヴュルテンベルク州 <BW> 人口28千人

1.歴史

 850 王ルードヴィッヒはヴェンデン部族を定住化、1181 シャウエンブルクの貴族が城を建てた、
 1412 城の周辺に集落形成、1325 城下町をヴュルツブルクに売却、事務所を置いて統治、
 1519 農民戦争でシュバーベン同盟は降参、1638.1643 30年戦争で占領・略奪、
 1625 町にドイツ騎士団が来た、1673 仏軍の砲撃で町は全壊、
 1808 ヴュルテンベルク王国のヴァイブリンゲン郡に属す、1945 町は人口急増で市壁を壊して拡張、
 1806 バーデン大公国マンハイム地区に属した、1945 米軍占領、バーデンヴュルテンベルク州へ。

2.市壁  190m 0.26

   市壁で囲まれた旧市街は意外と狭く、市門から南へ泥棒塔にかけて市壁が残り、
   北側ブルネン通りには屋根付きの市壁がある。

3.門塔 1門1塔

 シュヴァイクハイム門 Schweikheimer Tor (14c) 西側の主要な入口で、石積4階建の
    角門塔に尖塔が付いた門は市壁と共に、現存する最古の建物である。1693の火事
    で木製の床が焼け15年後に復旧された。塔は刑務所として使われ、今は市博物館
    である。最上階にはゲートパーラーがあり、市民は借用できる。
 泥棒塔 Diebs Turm (14c) 旧市街地の南西の隅の3階建の防衛塔で、円錐屋根が
    付いている。死刑に直面した罪人の拘置所として使われた。1904火災時に市壁が
    一部壊されて内外の通行が可能となった。

4.見所 C

    バロックや木骨造の街並みが残っている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (17c) 1693の火事の後に再建された。錬鉄製の支柱で
    支えられたバルコニーは1827に追加された。市議会場と会議室に加えて、地階には屋
    台があり毎週全国の穀物が取引された。1988修復に合わせ成人教育・都市アーカイブ
    が収容された。
 プロテスタント市教会 Ev.Stadt Kirche () 初期ゴシックの礼拝堂として建てられ、宗教
    改革後に建替えられた。1693.1945にも建て直されている。
     聖ベルナール教会の塔は、中世領主の避難所であったが、1693に教会の塔となった。
 宮殿ヴィンネンタール Schloss Winnental (1423) ドイツ騎士団の指揮官が使用した。
    1665ヴュルテンベルクへ売却され、16803階建の兵舎が建てられた。その後精神病院の療
    養所が開設され、近代化されて州立精神病院となっている。
 宮殿教会 Schloss Kirche (14c) 城の近くに在りドイル騎士団が使用した。その
    場所にあった幾つかの古い教会の後に、ゴシックの教区教会が建てられた。
     内陣には1520のジェイコブスの高祭壇がある。
    壊され、19cに塹壕は埋められ壁は取り除かれた。
 コウノトリの家 Storchen Haus (1730) 3階建バロックの高い切妻のある建物でマルクト通り
    に、市長の同僚のヨハン・ハウバーの家として建てられた。古い正面玄関の紋章はハウバー
    家の物である。
 ザーターの家 Sator Haus (1748) マルクト通りにある3階建バロックの建物で、2階中央の
    窓の下に紋章がある。

5.町の略図

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67. ホフ  Hof Saale 

バイエルン州 <BW> 人口46千人

1.歴史

 1180 集落の出現、1214 聖ローレンツ教区へ、1230 要塞化した新市街地を北側に創設、
 1292 フランシスコ会修道院の設立、1299 旧・新市街地は全焼、1319 都市権の証券化、
 1348 クラリセン修道院の設立、1430 フス派による焼払い、1529 宗教改革の導入、
 1553 辺境伯戦争で7週間の包囲、1625 大火災、1632-43 30年戦争の略奪と破壊、
 1792 プロイセン王国に属した、1806仏領、1810 バイエルン王国に割当、
 1823 大火事で建物の9割が焼失、1853 機械式綿布工場開設、1945 駅地区へ空爆。

2.市壁  110m 0.08

   13cの市壁は16cに強化され、主として北側に残る。

3.門塔 0門1塔

    ルードヴィヒ通りの両端にあった門は、19c終わりに取り除かれた。
 市庁舎塔 Rathaus Turm () 八角形6階建の塔は、頂上に張り出した展望室に
    3-8月には登れる。152段を上ると素晴らしい景色が見られる。

4.見所 B

    旧市街と北のカロニネン通りは歩行者専用となっており、町の中心である。
市庁舎 Hofer Rathaus (13c) 1553の包囲で市庁舎は破壊され1560に大きさと
    時計だけが異なるルネッサンスの市庁舎が、フリードリッヒ伯によって建てられた。地階に
    はパン屋の屋台・職人の取引所・評議会・裁判所・拘置所があり、上階には社交空
    間がある。
 聖ローレンツ教会 St.Lorenz Kirche (1080) 市壁外に無防備に立つ最古の教会で、
    度々被害を受けた。今の建物は19c初めの再建で、1822には大規模に古典主義へ
    改築された。1553の戦争で焼失・略奪されたため、1557ミカエル教会の祭壇が移され
    た。この教会は、公園に立つ開かれた教会であり、信徒が案内やカフェの経営をし
    ている。
 聖マリエン教会 St.Marien Kirche (1214) 大司教区の教会であり、1529宗教改革で
    で終わるが、この地区のカトリックは250年間続いた。1810バイエルンに属しカトリック教徒が
    増え、1864ねおごしっくの教会が建てられた。1885シュタインマイヤーのオルガンが置かれ
    今も保全されている。
 聖ミカエル教会 St.Michael Kirche (1230) 大天使ミカエル・聖十字架・マリアマグダレナに捧げ
    られた礼拝堂として新市街地の建設時に建立された。1536宗教改革により、主要
    のプロテスタント教会となり、1553の包囲攻撃で壊され修復された。中は広々とした内
    装で、1823の大火事の後に円天井は木製で置換えられた。1782バイエルンでも美しい
    形態のハイデライヒのオルガン演奏が聴ける時期がある。
 病院教会と元病院 Hospital Kirche und Ehem.Hospital (1268) 聖ロレンツ教会の次
    に古い教会で、老人と貧困者のためのホスピスが北門の外に建てられた。1511後期ゴ
    シックの翼のある中央祭壇にはクリスマス物語の祭壇がある。1688-86旧約聖書と新約聖書
    の90の木製格間天井絵画が描かれた。病院は今老人ホームになっている。
 フランシスコ会修道院 Franziskaner Kloster (13c) 新都市の西北の隅に市壁に接して
    フランシスコ修道院があったが、1529の宗教改革で解散した。修道院・修道院教会・醸造
    所・修道士の夏の家のある広い荘園を構成し、その後学校として使われた。
 クラリス修道院 Krarissinnen Kloster (1287) クラリス騎士団は1212に設立され、フランシスコ
    修道院の近くに修道院を設立した。1348貴族の娘のための婦人財団となった。1430
    スフ派が略奪し破壊した。宗教改革で解散し穀倉・塩貯蔵所・刑務所として使われた。
    今は老人ホーム・画廊・カフェ・ホステルとして使われている。
 バイエルンフォグトラント博物館 Museum Bayrriches Vogland (18c) 二次大戦後、東ヨーロッパ
    からの大勢の引揚者の寄港地となった事から、19cに建てられた旧病院に、
    フォークトランドの自然史・文化経済の歴史・市博物館の収蔵物も含めて展示てといる。

5.町の略図

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68. トラウンスタイン Traunstein 

バイエルン州 <BW> 人口21千人

1.歴史

 790 ザルツブルク教会の所有物件調書に初言及 10c 城と厩舎が建てられた。
 1120-42 トウルナの貴族が支配、1245 トラウエンスタインの名前が初言及、
 1275 ザルツブルクからバイエルンへ移行、14c ヴィッテルスバッハ家の都市へ昇格、
 1359 塩の取引特権を付与、1375 火事の発生、1493 通りと路地の舗装実施、
 1568 上門の前に大塩工場の建設、1617-19 塩水パイプラインの建設、
 1635 ペスト流行で人口1/10の117人が死亡、1704 スペイン承継戦争で焼払い、
 1800 仏軍が町を破壊、1851 大火災でほぼ全焼、1854 コレラで41人死亡、
 1899 大洪水で広範囲に浸水、1945 米軍無血占領、米軍占領地区。

2.市壁  40m 0.01

   広いシュタットプラッツを囲む市壁は、150×250mの長方形であった。東北の端に僅かに
    残っている。

3.門塔 2門0塔

  上門 Ober Tor (1541) 中世の市壁と共に4階建の上門として建てられ、
    ブロトハウス塔とも呼ばれ、塔地下室でパンが焼かれていた。1851の火事で損傷。
 下門 Unter Tor (16c) 1851の火事でひどく損傷して解体された。1999に
    Stadt Platzの隙間にJackl Turmを4階建鐘楼と時計付きの各塔で再建されて
    昔の家並みが完成された。

4.見所 C

    旧市街と北のカロニネン通りは歩行者専用となっており、町の中心である。
市庁舎 Rathaus (19c中) 三行政棟が町広場の西南側に建てられ、市庁舎・地
    方裁判所を収容した。バロックの塩管理事務所は1716に塩倉庫と共に建てられた。
 市郷土博物館 Heimarthaus (1890) 上門と東北のジーザーラインとおもちゃ博物
    館と共に形成している。ジーグラーインは1851のインザルツアッハ建築の4階建の建物で、
    市の文化・芸術・製塩の歴史、1870-1960のおもちゃ、1890の古い町並みを展
    示している。
 市教区教会聖オズヴァルト StadtPfarrKirche St.Oswald (1675-90) 西塔のある
    ホ-ル教会で1704・1851二度の火災に被災したが、本質的には建設当時の構造を保
    っている。内装の多くは20cの物であるが、高祭壇・ラパート・バロックマリア像は古くか
    で終わるが、この地区のカトリックは250年間続いた。1810バイエルンに属しカトリック教徒が
    ら存在する。
 聖ゲオルグ・カサリナ教会 St.Georg Katharina Kirche (1639-1405) この教会は、
    町の広場から墓地に移された。墓地の市公園にあり、教会は戦争記念館に改築
    された。今建物には、市図書館・成人教育センター・催物広間を収容している。
 ルルド礼拝堂 Lourdes Kapelle (1939) 1850存在した牧師館は、1886から修道
    院にあったルルド礼拝堂は牧師館の隣に再建された。
 文化フォーラム-修道院教会 Kultur Foram-Kloster Kirche (1690) 三位一体の修
    道院教会は、世俗化で廃止され、穀倉として使われ、老朽化して一部取壊され
    た。1857学校教会としてルネッサンスに改築され、1886新しい鐘楼が付けられた。
    1978教会は閉鎖され、1986市が取得して改修し、1994文化支援協会は文化会館
    として展覧会・朗読会・演奏会などに使った。
 アールヌーボーの邸宅 Jugendstil Haus (1858) 1851の火事の焼け跡に建られた、
    金色の壁面に花が飾られた美しいアールヌーボーの邸宅である。
 醸造博物館 Brauerei Museum () 蒸気機関のある歴史的なモルトの床・光沢の
    ある鍋窯のある醸造所・貯蔵庫・ボルトのバレル充填・等の歴史的風景が体験でき、
    ビールの試飲とプレッツが味わえる。
サリネン公園と薬局庭園 Salinen Park () 南の公園には動力水車が立ち、修道院
    庭園と同様に140種の薬用植物が植えられ、薬剤師の庭となっている。
    からの大勢の引揚者の寄港地となった事から、19cに建てられた旧病院に、
塩水パイプライン (1619)
1613     フォークトランドの自然史・文化経済の歴史・市博物館の収蔵物も含めて展示てといる。

5.町の略図

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