ノイブランデンブクルク (MV)

 
トレップトヴェア後門 Wiekhaus・北壁

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各町の歴史と見所

 表中の各町について、 その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。

① 特別市 

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ハムブルク Hamburg G1

1.歴史

  825 ルードヴィッヒ1世は城塞を築き文書言及、  831 伝道の拠点となる司教座を設置、
  845 バイキング来襲で司教座はブレーメンに後退、  11-12c 城郭と教会の周辺に居住地、
 1188 ホルシュタイン伯ルドルフ3世は港に新市街建設、  1189 貿易・税免除を含む都市権授与、
 12-13c 新旧両市街の統合1220共通都市法、      13c ハンザ同盟加入で町は繁栄、
 1528 宗教改革の導入、           1618 デンマークを排除して自由帝国都市、
 1618-48 30年戦争でも取引は継続した、       1712 仏との通商条約が成立、
 1806-14 ナポレオン軍占領後英国貿易禁止で被害、 1867 プロイセンとの連邦国家となった、
 1871 ドイツ帝国へ、1842大火災の被害、  1945 第2次大戦で8割破壊、英軍占領。

2.市壁  0.0km 0.00

   11cに市壁と12防衛塔で町を防備された。13cに一部煉瓦市壁が追加された。
 1475-16cに市壁は拡大され町全体は新しい壁が築かれたが、すでに時代遅れだった。
 1614-25からオランダ式星形要塞で拡大しアルスター湖の中にも要塞は築かれた。円型砲台は
 前面に広い堀のある稜堡に変換された。要塞は殆ど5角形で市壁から22か所も突出し
 300の大砲が装備された。10年間の要塞建設に売上げの1/4を費やした。30年戦争中
 は無傷で経過し、人口が流入した。1697郊外の聖ゲオルク教会を囲む新市壁が築かれた。
 1804人口増と交通量増で要塞の公園化が決定し1820-37に実施された。1945戦後に
 堀は瓦礫で埋められ、1963と73の国際園芸展のために堀の西部は公園化が進められた。

3.塔  0門0塔

   昔5市門4追加門があったが、今は見当たらない。

4.見所 B

   ドイツ第2の大都市で,北の港として13-15cハンザ同盟に加わって栄えた。
  その後も自由帝国都市として、中立を守り町を拡大して来たが、2次大戦で8割を破
  壊され、中世の雰囲気を求めるには難しいが、主要な建物は復元されている。
 市庁舎 Rathaus (1877) 1842の火災の後に4千本の杭の上にネオルネッサンスの112mの
   鐘楼付の大きな建物を建て、内部には重厚な内装の64室がある。
 聖ミカエル教会 St.Michael Kirche (1762) バロック煉瓦造の大教会で。1786に132mも塔
   が付けられ、エレベーターで展望台に昇れる。
 聖ヤコブ教会 St.Jakobi (14c) ゴシックのホール式教会で、多くの宝物を保有。14-15c祭壇
   画・主祭壇の製樽ギルド3折祭壇画、1610大理石説教壇、1693オルガン。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1882) 1842の大火で焼け落ち、再建された。しか
   し2次大戦で壊され高さ145mのゴシックの塔のみ残された。
 外アルター湖 Ausser Alster 船による周遊で、100mを超える旧市街の高塔・周辺の町並・緑
   の林等が楽しめる。
 旧市街 Altes Stadt(17-18c)タイヒ通りは古い商人の家が並び、今は居酒屋が多い。対
   岸には修復された赤レンガ倉庫が見渡せる。
 美術館 Kunst Halle イタリアルネッサンスの建物に、中世から現代までの絵画・彫刻・版画・コイン・
   スケッチ塔が展示されている。1997隣に現代美術館が増築された。
 ハンブルク歴史博物館 Museum fuer Hamburgische Geschichte ハンブルク市街模型、100以
   上の船の模型、鉄道模型などがある。
 美術工芸博物館 Museum fuerKunst und Gewerbe 中世の彫像・ルネッサンスの家具・北独の
   時計・磁器・世界の骨董の展示がある。
 郵便博物館 Post Museum 16cからの郵便物と輸送手段の進化を展示。
 港周遊 Hafen Rundfahrt 行き交う多くの船と造船所・埠頭・倉庫などが眺められる。

 

5.写真

市庁舎 ブラームス記念館
聖ミカエル教会 証券取引所

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ブレーメン Bremen 2

1.歴史

  787 司教区創設の文書に言及、 845 大司教アンガルは布教の拠点を町に移した、
  965 町は都市権を授与された、      11c 大司教アダルベルトは市街を整備した、
 1358 ハンザ同盟に参加して市民の地位向上、1405 鋸壁や防衛回廊の付いた市壁建設、
 1404 市庁舎前に10mの石のローラント像設置、 1541 鋳造権の獲得、
 1648 帝国自由都市に指定され繁栄、    17c ヴェーザールネッサンスが隆盛を極めた、
 1783 直接米国と貿易を始めた、      1811-13 仏軍の占領、
 1871 ドイツ帝国の設立で市となった、  1945 空爆で大被害、英軍進駐、米軍管理。

2.市壁 0.02km 0.01

   ①782木柵で囲った、②11c大司教は拡張のため解体、③1229玉石基礎の煉瓦積壁に
  置き換え1312に完成、1250に6門、と1305に幅1.2m高さ5.0mの木製通路付固定リングに
  22の壁塔、④1594ヴェーザアー川左岸に新町が造られた、⑤1623オランダ式星形要塞は左岸
  の新市街と1660-64右岸の旧市街に実施された、⑥1802から旧市街の市壁は軍事的な
  価値を失い、取り壊された。⑦1802-11星形要塞の跡は水車公園となった。
   小ヴェザー川南岸にまだ小防備施設が残る。旧市街の東側Martewbergに2半塔が残る。

3.塔数 0

   見当たらない。
   1229から市壁と一体化した6市門・3小門・2木製扉・14小木橋も造られ、1750に7門が追
  加され、19壁塔と共に1802-04取り壊された。

4.見所  C

   独の古い港町で、広大なマルクト広場は荘重な大きな建物や記念碑が集まり、中世の
  自由帝国都市の繁栄を偲ばせる。広い旧市街地にも、見所が多い。
 市庁舎 Rathaus (1405) 初めは市民の砦であった。17c初めにヴェーザールネッサンス
   の切妻が付けられ、南の防御回廊は1608-12にイタリア風アーケードに改造された。前面には
   1404に高さ10mの石のローラント像、西側にブレーメンの音楽隊の彫像がある。2階大会議室に
   1620の木製の螺旋階段がある。地下のラッツケラーには300種のワイン・リストがある。
 聖ペトリ大聖堂 Dom St.Petori (845) 11cには現在の規模であり、16cto19cに
   外装が改修が行われた。中には、16cマドンナ・17c青銅の洗礼盤がある。聖堂美術館に
   は、13cの法衣や枕を展示。塔上からは大きな鐘と市街が見渡せる。
 聖母教区教会 PfarrKIrche Unserer Lieben Frauen (12c) 簡素な内装の教
   会には環状の格子天井があり、宗教的なステンドグラスが20cに付けられた。
 市貨物計量所 Stadt Waage (16c) 煉瓦と粗面組み角石を組合せた美しい建物。
 シュッティング Schuetting (1536-38) かっての商人のギルド館で、前面はフランドル建
   築の美しい建物である。
 ロセリウス館 Roselius Haus (1588) 古い商人の家で、12-19cの家具・美術品・工芸
   品を展示している。
 パウラ・モーダーゾーン・ボッカー博物館 Paula・Modersohn-Backer MUseum ベルンハルト・
   ベドガーの建築物で、地階では女流画家の絵画・素描・版画があり、2-3階にはベトガー
   の彫刻が展示されている。
 美術館 Kunst Halle 19-20cの独・仏の絵画を中心に銅版画・素描で23万点もあ
   る。隣接して、GerhardMaarcks Haus 彫刻家美術館、DesignZentrum デザイン展示。
 ベトヒャー通り Boettcher Strasse マルクトとヴェーザー川を結ぶ細い通りで、1923-33
   にベルンハルト・ベトガーがユーゲント・シュティールで再開発したアートの町。
 シュノアー地区 Schneor Viertel かって漁師が住んだ最古の住宅街で、空爆を免れ
   その後修復されて、レストラン・酒場・工芸品の店が並んでいる。

5.写真

市庁舎 聖ペトリ大聖堂
ローラント像 ブレーメンの音楽隊

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各町の歴史と見所

 表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。

② シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州 SH

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オイティン Eutin SH1

1.歴史

 7c スラブ族の集落があった。    12c ハインリッヒ獅子王はアドルフ2世に封土として授与、
 1156-57 領主の条件として市壁の建設、   1257 司教ヨハンはリューベック都市権を付与、
 1260 リュベック司教は評議会との争いに敗れ、オイテンに亡命し、大学を開設した、
 1586 聖堂参事会は侯爵ヨハン・アドルフを領主司教とした。  1689 火災後城は拡充・新築、
 1770 オイテンの最盛期で多くの有名人が町を訪問、 侯爵司教領リューベックは周辺含め公国に、
 1800 町は侯爵家の夏の離宮となった、     1803 オルテンブルク大公国に含められた、
 1945 第2次大戦の空襲からは免れた。

2.市壁  0.0km 0.00

   13cに市壁建設の記録があるが、今は見当たらない。

3.塔  0門1塔

 給水塔 Wasser Turm (1909) ネオゴシック煉瓦造の上部水槽部分が円塔から張出し銅葺
   き円錐屋根の給水塔である。高さ38m容量250m3の大きさで、3階に今はギャラリィが
   あり、現代美術の展覧会が開催される。

4.見所 C

   マルクトを中心とした旧市街地があり、木組みの家と新古典の建築物が並んでいる。
 市庁舎 Rathaus (1789-91) 3階建て町で最初の漆喰仕上げの建物で、新古典主義の前
   面を有し、多くの木組みの家の模範となった。次の時代の町には、前面漆喰仕上げの
   建物が通りに並ぶことになった。
 宮殿 Schloss (1160) リューベック侯爵司教は中世の市壁外に居住宮殿を建てた。1260-
   75に今の東棟を石造りで拡張した。1293最初の礼拝堂が建てられた。1277から宮
   殿には砦が築かれ、1350には強化拡大された。1439-86多くに建物が追加されルネッサ
   ンスの姿になった。1689の火災と1705デンマークによる破壊があり、バロックで再建された。
   18cが最盛期で70m×80m4翼の建物になり、バロック庭園が造られた。1918侯爵の退
   位後、宮殿は博物館となった。
 侯爵未亡人の館 Herzoglisches Witwen Palais (1786-87) ヘッセン・カッセル侯爵
   未亡人のために新古典主義の建物を建てたが、未亡人は死亡して入居できなかっ
   た。2000-03民間によって改修された。
 聖ミカエル教会 St。Michaelis Kirche (1155-63) 初め木製の教会が建てられ、1309石造の
   聖堂の長さは40mとなり、内陣と後陣は現存している。1594高さ67mの塔が付けら
   れ、1309大学が創立された。中には、13c木製十字架・1444銅の燭台・1511青銅の
   フォント・16c墓碑銘燭台がある。
 東ホルスタイン博物館 Ostholstain Museum (1869) 元の王宮厩舎に博物館が造られ、1934東
   ホルスタイン州立博物館となった。リューベック公国の歴史・町を訪れた人物の生涯と作品・
   オイティンの生活と仕事等を展示。1948旧聖ジョージ病院に新館開館。
 州立図書館 Landes Bibrliothek (1736-38) 中世以来の旧侯爵裁判所書庫に19c初め
   に6千冊の図書があった。1837市民の蔵書1万冊を含め大公公共図書館が設立され、
   1918君主制の崩壊後州立図書館となった。1994宮殿広場に改装され設立され、移転
   した。

5.写真

市庁舎 広場
ライオン像・聖ミシャエル教会 水城

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フレンスブルク Flensburg SH2

1.歴史

 12c デンマークの小さな町に騎士フレノは城を構築、 1232 町はハンザ同盟の影響下に、
 1243 最初の文書言及、      1284 侯爵バルデモア3世は町に都市権を授与した、
 1345 町の周囲に門塔のある市壁を築いた、1412 紛争後シュレスヴィッヒ公国はデンマーク領、
 1435 ホルスタイン侯爵アドルフ8世は 世襲領土としてシュレスヴィッヒ公国を授与された、
 1460 リューベックの繁栄と共に 町はデンマークで最重要な商業都市となった、
 1618-48 30年戦争 と1713-21 北方戦争で15回も占領・略奪された、
 1796 町の拡大による新市街と新北門の建設、 1848-51 独・デンマーク戦争で独領に、
 1863 デンマーク王国へ、1864 プロイセンの進駐でプロイセン支配下に、1871 ドイツ帝国に、
 1920 この町は国民投票で独に帰属、1945 最後の独帝国政府だったが被害は免れた。

2.市壁 0.36km 0.10

   城を守る都市要塞と市壁に囲まれた中心街区と、柵に囲まれたラムスハルド・聖教会が
   あったが、19cに取り壊された。城の東側に300mとニコライ教会西側に60mが残っている。

3.塔数 2門0塔

   外への道には全て門があり、大門の隣には野原や港湾へも小門も付けられ、城を
  守る都市要塞も築かれた。主門は南の幹線道路へのRote門、東への大通にマリジア門、
   東の町の境界にヨハネ門があった。1872Rote門が壊され、多くの門も消え、北門とその
   外側の組合門のみ残された。
 北門 Norder Tor (1345) 古い門から北へ100m移して1595-96に赤レンガの今
   の門が階段切妻に紋章を飾って建てられた。ここが町の建物の北限であったが、1796
   からは北へ建物が建てらる様になった。
 組合門 Kompagenie Tor (1602) 船乗りの会議室として2階建てで建てられた
   古い建物。中には、オランダタイルで飾られタイル樽広間があり見事である。中央入口上の切妻
   には町の紋章と碑文がある。今は欧州少数民族問題センタとなっている。

4.見所  A

   細長いフィヨルドの奥にある港町で、港の遊歩道や町中のホルム通りは多くの人がいる。
 旧市庁舎 AltesRathaus (15c) 旧市庁舎は今の町劇場の隣にあったが、1883
   に取り壊された。後に昔の議会棟が市庁舎として使われ、1850-64にはシュレスヴィッヒ公国
   の政治の中心であったが、1964この建物は壊され大きな百貨店が建っている。
 市庁舎 Rathaus (1964) 南に立方体16階建ての市庁舎がたてられ、1997に全
   面改修された。
 デュー城 Duburg (1411) デンマーク女王マーガレット1世が建て、その後拡充され城壁と
   堀で囲まれ守りも強化された。15cに何回か包囲され1431には降伏した。1645-48は王
   宮として住居となり、1655スエーデン王グスタフに占領された。1723-25城は放棄され、孤児
   院の建築資材として崩された。
 聖ニコライ教会 St.NIkolei Kirche (1332) ゴシックの堅固煉瓦造りの教会で、中には
   17cルネッサンスのオルガンがある。長さ52m幅21mの大建築物で高さ90mの単塔がある。1878の
   落雷を受け塔頂はナオゴシックで修復された。1871に3鐘付替え、190917鐘カリオン追加。
 マリエン教会 Marien Kirche (12c) 初めのロマネスク教会の基礎の上に1284ゴシックのホール
   教会が建てられ、ナザレのマリアに奉献された。繰返し変換され1788身廊は大入母屋屋根と
   なり、1878-80ネオゴシックの塔はバロックの帽子にされた。
 聖ヨハネ教会 St.Johanis Kirche (1128) 教区には漁民や職人が多く郊外に位置し
   石造教会が建てられた。中心はロマネスクであるが、内陣はゴシック煉瓦造で拡張され、フレスコ画
   は19cに再発見された。木製の塔はバロックになった。中には1587説教壇がる。
 旧フランシスコ会修道院 Ehem.Fransiskaner Kloster (1232) フランシスコ托鉢修道院の廃
   墟の上に、1263シトー派修道院と精霊病院が建てられた。
 精霊教会 Heiliggeist kirche (16c) 旧メアリ教区にデンマークの枝教会として建てられ
   1588から教会となった。中世のフレスコ画・バロックの祭壇・幾つかの奉納船がある。
 ドイツの家 Deusches Haus (1920) 帰属の国民投票を記念して文化的催場として2-3
   階建て煉瓦造で建てた。音楽祭・短編映画祭が行われ、2007にはメディアセンターも収容した。
 海洋博物館 schiffahrt Museum 旧関税を拡大・再設計して、西インドの旅・造船所・
   蒸気機関・船乗り・マストの森などがある。
 市立博物館 Staedtisches Museum デンマーク領を含むシュレスヴィッヒ・ホルスタイン地方の芸術・
   文化史上の価値の高い歴史的家具や調度品を展示。
 商人屋敷と貿易倉庫 KaufmannsHoefe und SpeicherHaeuser 海上貿易による町の
   繁栄の様子が伺える。商人の館HandelsHoefe 芸術家の家KunstHaus 西インド倉庫など。
 フレンスブルクの家 FrensburgHaus Museum (1725) 町の孤児院が建てられ建材はDubrug
   から来た。後年兵舎となり、今はシュレスヴィッヒ文化を展示している。

5.写真

市庁舎 ノルダー通
聖ニコライ教会 ノルダーマルクト
グロス通

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ラウエンブルク Lauenburg SH3

1.歴史

 11181-82 バーナードが獅子飼育場開設、         1209商業の町として言及、
  13c初 ザクセン・ラウエンブルク侯爵家が1689まで支配 1209-46 マグダラのマリア教会の創設、
 1350-1725 ペストの流行、          1398 リューベックの塩とライム船舶の寄港、
 1417 侯爵エーリッヒ5世は船事務所権限を付与、  1618-88 数々の戦争で町は衰退、
 1658 6時間の砲撃で城は破壊占領された、 1813 町で仏軍とコサック・チロル軍の戦闘、
 1817 デンマーク王フレデリックは新橋に着手、       1850 工業化による産業開発、
 1900 エルベ・リューベック運河の開通で町は寂れた、1945 最後の戦場となり砲撃された。

2.市壁  0.km 

    市壁は見当らない。

3.塔  1門0塔

 城塔 Schloss Turm (1477) 塔頂に見張り小塔のある3階建の大円塔で、塔外に木製
    の階段があり上階へ登れる。今は時計塔である。

4.見所 D

    木枠の中に煉瓦を詰めた壁のある1513からの古い木組みの家並みが見られる。
  Schloss (1182) ザクセン・ラウエンブルク侯爵の大きな城で、1616の火災と1656の砲撃で残
   されたのは塔と2階建ての一翼のみで、今は市政を収容している。
 侯爵庭園 Fuersten Garten und Grotte (1590) 銀杏の木のある植物園から1656に侯爵
   ユリアス・ハインリッヒによるボヘミアンバロック庭園の改装された。近年オリジナルに復元された。園内に
   は洞窟もある。
 古い家 Sltes Haus (1577) 町で最も古い家で、戸口の上の梁には1513の年号が誤って
   表示されている。
 古い商人の家 AlteKaufmanns Haus (1652) アリジナルに復元された家具調度の整った町屋
   である。初めルネッサンスで建てられ、1769に織物商人はバロックに改造した。
 エルベ通り Elbe Strasse 旧市街の中心にエルベ川の北岸沿う最古の通りである。16cから
   の美しい木組みの2-3階建ての古い家並みが両側に残っている。
 マクダレンマリア教会 Maria Magdalenen Kirche(1227)初めに礼拝堂として建てら数回拡張
   再建され煉瓦造の教会である。1902尖ったゴシックの塔が付けられた。2次大戦の損傷は
   1993に復元された。中には15-17cの芸術品が納められている。
 エルベ舟運博物館 Elbschffahrt Museum エルベ川舟運の歴史と技術について、船の模型・ナビ
   ゲーション・蒸気エンジンなどを展示。
 外輪船 Raddampfer KaiserWikhelm 外輪船「ヴィルヘルム皇帝」歴史的な最後の石炭火
   力外輪船で、よく保存され係留展示されている。
 芸術の家 Kunst Haus 旧市街の中心にある木組みの家で、国際的なシュレスヴィッヒホルスタイン州の
   芸術と文学の奨学生の場所である。

5.写真

木組煉瓦積家 木組家
エルベ川航行博物館 マグダナのマリア教会

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リューベック Luebeck SH4

1.歴史

 1143 侯爵アドルフ・シャウエンブルクはキリスト教商人の新集落を設けた、旧集落は数km先、
 1157 火災の後に侯爵ヘンリーは今日の町と水路を建設、1160 侯爵はリュウベック法を授与、
 1181 皇帝フリードリッヒは町を攻め取り特権を与えた、 1201 デンマーク王が25年間支配、
 1226 フレデリック2世は帝国自由都市へ昇格、  1282 ハンザ同盟は軍船を持ち強力化、
 1370 デンマークに勝ちバルト海の覇権を固めた、 1531 町は新教となり修道院は閉鎖、
 1613 要塞で守り30年戦争は遠ざけた、   1669 インド航路でハンザ同盟最後の会議、
 1806 中立を目指したが仏軍に占領された、 1815 ウイーン会議で再び独立国となった、
 1871 リュベックの北ドイツ連邦はドイツ帝国へ、  1942 英空軍の爆撃で町の1/3が被害、
 1945 2次大戦は英軍の無血進駐で終わった。

2.市壁  0.34km 0.08

  13cの市壁は、16-17cには星形要塞西側の港の対岸から南西にかけて設けられ、
   前面には堀が置かれた。東側には昔は幅の広い川があったが、今は運河である。
   市壁らしきものが残っているのは、北西城門に140m、ヴァケニッツ壁に110+20m、An
   der Mauerに70mである。

3.塔  2門0塔

   4市門うち2門が残っている。
 城門 Burg Tor (1227) 北門、昔は前面に市庁舎と同じ切妻のある2連外城
   門、中城門は角塔で木製の落とし柵が付いていた。6階建ての後期ゴシックの角塔には
   各階に多くな窓が付いている。1806仏軍占領の記録が東通路にある。1850西側通路
   が付けられた。塔には青少年センターや住居として使われた。
 ホルステン門 Holsten Tor (1469-1478) 市壁から西に突出した所に、大きな2円
   塔に切妻付の堂々たる門がある。3層のアーケードと陶器製のフリーズが飾られた町側の装
   飾が外側よりも美しい。この塔の中には市歴史博物館がある。
 水車門 Muehren Tor (1242) 現存しないが、南門として4連続の門に守衛詰
   所があった。1399にゴシックの大角塔と切妻付2門塔となり、16c要塞の拡大に伴いルネ
   ッサンスのホルステン門風の外観となった。1798市壁の取除き、1809中塔1861内塔が取壊。
 フュクスター門 Huexer Tor (13c) 現存しないが、東門はフュクスター土手に市壁と共
   に正方形の門塔であった。1531の暴動で壊されたが再建され、1822に取壊された。

4.見所 A

   水に囲まれた島に、鐘楼が際立つ古いハンザ同盟の盟主の大きな町で、多くの記念
   建造物が残っている。
 市庁舎 Rathaus (1250) 市庁舎と通風孔のある高い盾形の壁は上質の黒煉瓦
   で建てられ、重厚な圧迫感がある。北翼の前には砂岩造りのルネッサンスの突出し棟が付加
   された。東翼の端には1440新居間の小窓が飾られている。全体として見事。
 聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1240) 古いロマネスク3身廊の教会は、14cにゴシックに
   改装され、15cに南側に4つ目の側廊、16cに北側に5つ目の側廊が加えられた。
   塔上にはリフトで登られ眺望はよい。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1250-1350) ゴシック煉瓦造教会のドイツの典型で美
   しい。飛び控え壁のある高さ38.5mの中央身廊の大教会に1350に高さ125mの塔が付け
   られた。1942の爆撃で落ちた2つの鐘は床にめり込んだままに残されている。
 聖ヤコブ教会 St.Jacob kirche 船員のためのゴシックホール式教会で、16cと17cの
   二つのオルガンがある。南祭壇には細かい浅い浮彫がある。
 聖カタリーナ教会 St.Katharinen Kirche(14c)入口上部の外壁にはバーラッハの彫刻
   のある美しい教会で、中には宗教美術博物館がある。
 大聖堂 Dom (1230) 古いロマネスクの教会は、13cに十字交差北側に美しいポーチが付
    けられ、中には1477十字架上のキリスト像 1432商人たちの祭壇画がある。
 聖霊病院 Heiligen Geist Hospital(13c)小塔付3切妻の建物で、礼拝堂には
   13-14cの絵画が飾られ、施貧院の大広間に通じている。
 聖アンナ博物館 St.Anna Museum 昔の修道院に博物館が開設され、町の古文化を
   収集・展示している。宗教彫刻が多い。
 ブッテン・ブロークの家 Budden Brook Haus (1758) バロックの前面の美しい家は1841
   ブッテン・ブローク家が購入し1914まで所有し、トーマスマンの小説の舞台になった。今はハインリッヒ
   とトーマスマンのセンターが置かれ、作家の生涯と作品を展示している。
 海員ギルド館 Haus der SifferGesellschaft ルネッサンス階段切妻付の建物で、船乗
   居酒屋の室内装飾をそのまま残して、今はレストランたなっている。
 ベーン家とドレッガー家 BehnHaus und Draeger (1780-1810) 擬古主義の前面と美
   しい内装のベーン家には、ロマン派から現代までの絵画・彫刻・美術工芸品を展示。
   商人ドレッガーの家には、歴史的な家具や調度のある広間や居間があり、リューベックの画家
   の絵が展示されている。

5.写真

市庁舎 マルクト広場
ホルステン門 聖ペテロ教会
ブルク塔 精霊病院

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メルン Moelln SH5

1.歴史

 1188 皇帝フリードリッヒ・バルバロッサはリューベックの文書でこの町の権利を確保、
 13c 教会の丘の入植地に都市権授与、1359 ラウレンブルク侯爵は町を帝国都市リューベックへ入質、
 1391.1409 第火災で町は壊滅、   1600 リューベックは塩の道を守るため門塔・市壁を建設、
 1700 ラウエンブルク公国へ、       1714 ハノーハー選帝侯の領地となり1803まで続いた、
 1810-13 仏帝国の支配下に、           1813 仏からの解放戦争が行われた、
 1816 デンマーク支配下のラウレンブルク公国へ、     1864 プロイセンはデンマクとの戦争に勝つ、
 1865 プロイセンのシュレスヴィッヒ・ホルスタイン州へ、           1945 町は破壊を免れた。

2.市壁  0.00km 

    17cに市壁は築かれ、19cに取り壊された。今も僅か残っているらしい。

3.塔  0門1塔

 配水塔 Wasser Turm (1911) 高さ30mの円塔の上に水槽の乗った機能的な配水塔とし
   て建てられた技術遺産で、今は見張塔と自然博物館的な展示がある。

4.見所  D

    町の名前は、スラブ語で「濁った水」から来ている。塩の道に位置して栄え、AmMarkt
   には木組みの建物が取り巻いている。旧市街の北側は湖を見下ろす眺めが良い。
 市庁舎 HistorischenRathaus (1373) ゴシック煉瓦造の珍しい新時代様式の建物で、ゴシッ
   ク階段切妻が南北にあり、北側が豪華で黒柚煉瓦が使われた。1896にネオゴシックリバイバルに
   改装された。1993から町の郷土博物館となり、歴史的な収集物を展示し、ケラーは食堂に
   なっている。
 聖ニコライ教会 St.Nicokai Kirche (1250) 町教会は商人と船乗りの守護聖人聖ニコライに捧げら
   れた。15c拡張され礼拝堂には壮観な宝物・天井画・勝利の十字架がある。
 町の隊長の館 Stadt Hauptmanns Hof (1359) ルネッサンス・レンガ造2階建ての建物で町の隊長
   とその家族が住んだ。入口の上には2紋章と銘板が付けられている。20cにはペスタロッチ学
   校として使われ、今は建築記念物として観光と自然の案内所となった。
 町製粉所 StadtMuehle (1278) 3階建ての建物は、製粉工場で町の有力な財源であった。
   1864今の3階建ての建物が新築され、1957に製粉所は廃業となった。
 古い薬局 Alte Apotheke (18c) 切妻のある木組みの家にある薬局で、有名なメルンの薬が調
   合された。1800この家にサミエル・ハーネマンの家族が住んだ。
 オイレンシュピーゲル博物館 Eulenspiegel Museum (1889) 市庁舎の向かいの1582建の市民の木
   組の家に、民間のクラブが博物館を設立した。1996に市の博物館として小さな土産物屋の
   歴史とオイレンシュピーゲルの生涯や出版物の資料が展示されている。1350にこの町でオイレンシュピ
   ーゲルが亡くなったと言われている。
 オイレンシュピーゲルの泉 Eulenspiegel Burunen 足組をした道化師の像が泉に立つ。

5.写真

市庁舎 マルクト広場
木組家 オイレンシュピーゲル像

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プレン Ploen SH6

1.歴史

 1075 最初の文書言及、     1139 ホルスタイン伯爵アドルス2世はスラブ砦を破壊して支配、
 1160 アドルス2世は城を中島から移した、     1236 町はリューベック法の都市権を授与、
 15c 町はデンマーク王家に支配された、  1561-1761 町はゾンダーブルク・プレン王国の王宮へ、
 1622 相続でデンマーク王国の中の公国に、 1633-36 新宮殿の建設で小独立公国の首都に、
 1685 侯爵は町の北西の新市街地に手工業を集め公国の経済力を高めた、  西門の設置、
 1761 公国はデンマーク王家に戻り夏の離宮に、 1864 ドイツ・デンマーク戦争で町はドイツに帰った、
 1867 町はプロイセンの郡庁となった、        1945 5月英国軍に新帝国政府は逃亡。

2.市壁 0

   見当たらない。

3.塔数 0門2塔

 パルナス見張り塔 Parnass Aussichts Turm (1888) 高さ20m鋼製格子状の塔で町の美化協会
   が建てた見張塔で、1985改装して展望台として開放された。
 給水塔 Wasser Turm (1913) schsrwegの山の上に、42.5mのアールヌーボー煉瓦造の給水塔を
   建てた。水槽は150m3スレート屋根で、今は家具付き休日の家となっている。

4.見所  C

   大きな湖のほとりの小さな町で、城のテラスから周辺の湖を一望に収める眺めはよい。
   旧市街地には、木組の家が残る。
 市庁舎 Rathaus (13c) 初めの市庁舎の上に1746再建された。今の建物は1816-18に有名建
   築家ハンセンの設計で建てられた。1979-81に拡張・近代化された。前には石灰 岩のガチョウ姫
   の泉がある。
 宮殿 Schloss (1683-36) プレン公爵は古代の城の上に後期ルネッサンス煉瓦造3翼の宮殿を建てた。
   地階には管理・料理・居間があり、2階には侯爵・夫人・王子・王女の翼があり、3階には公
   務員を住まわせた。白色の塗装は、デンマーク王の下で18cに行われた。19cプロイセン軍将校団
   の陸軍士官学校となり、その後国家政治教育研究支所となった。1975占領英軍の撤退後
   2001まで学校が収容された。2002大改修され独眼科光学教育機関が入居した。再構築さ
   れた礼拝堂は大ホールとなった。
 皇太子の館 Prinzen Haus (1744-51) 侯爵カール・フリードリッヒは、ロココの館を南に建て、美しい
   楕円形の広間は見事に装飾された。今は講演会・会議・結婚式場等に使用。
 守衛詰所 Pfoerter Haus (1894-95) 城の経路を守るため陸軍士官学校の使用人住居として建
   てられた。2階は士官候補生の禁固室であった。今はFielmannAkademie。
 水泳場 KulturForum Schwimmhalle (1751-53) アールヌーボーの皇太子のための建物に、水泳場
   が建てられ、学生の水泳授業が行われた。今は改修後催物場と食堂・プール。
 ヨハネ教会 Johannis kirche (1685) 工芸職人のための新市街に侯爵がネオゴシックの木制の教会を建
   てた。19cにバロックのシンプルな教会となった
 ニコライ教会 Nikolei Kirche (1866-68) 。雷で焼失後60mの高塔のある巨大な煉瓦造の教会に
   置き換えられた。音楽祭では演奏会場となる。
 聖アントニウス教会 St.Antonius Kirche (1904) 侯爵は1903の競馬で自分の馬が勝てば礼拝堂を
   建てると誓い、勝ってポーランド農業労働者にカトリック木製礼拝堂を贈った。1966に煉瓦造の
   外壁と塔を拡大して再構築した。
 プレーン郡博物館 Museum des Kreises Ploen (1981-55) 旧薬局に設立され、北ドイツ最大の
   ガラスコレクション・町の工芸品・宮廷薬局の錫と銀の機器・先史時代や初期の歴史にも焦点を当
   てている。

5.写真

市庁舎 湖の小道
宮殿

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ラッツェブルク Ratzeburg SH7

1.歴史

 11c スラブ族が城を建て周壁で囲った、   1062 ハインリッヒ4世は侯爵オルヅルフに城を与えた、
 1154 ハインリッヒ・ライオンはキリスト教集落・都市の創立・教区の設置の3つを行った。
 1648 ベストファーレン和平の後にラッツブルク公国とした、1692 侯爵ヴィルヘルムによる要塞の強化は、
 1693 デンマーク王の不興を買い 町は完全に壊されたが、バロック様式で再建がなされた、
 1816 最後の要塞はデンマークに排除された。

2.市壁  0km 

    11cにはスラブ族の円型防護壁が在った。1692侯爵ジョージ・ヴィルヘルムの要塞強化は、1693
  にはデンマーィ王が破壊し、また再建され1816デンマークによって最終的に削除された。

3.塔  0門0塔

  見当たらない。

4.見所 C

    ラウエンブルク湖自然公園の中の小島にAm Marktを中心とした小さな町で、ドームは北の丘
  にある。かっての塩の道沿いの町で栄えたが、今は静かな湖岸の保養地となっている。
 旧市庁舎 Ehem.Rathaus 2階建て一部3階建ての石造建物、今は銀行。
 大聖堂 Ratzeburger Dom (11c) ラウエンブルク公国で最古の教会はゲオルクの丘に建てられた。
   1066の反乱で壊され、大きな長方形の内陣で再建された。12c石造の教会は13cに野石基
   礎の上に煉瓦造で更新された。後期バロックの祭壇はリューベックのマリエン教会に似ている。1170
   ロマネスクの大聖堂は聖遺物を収容して完成した。ハインリッヒ・ライオンによってドームは贈呈された。
   教会は回廊と墓地を持っている。
 古い守衛所 AlteWache () 旧中央守衛所。
 町教会聖ペトリ Stadtkirche St.Petri(1789-91)古典主義の純粋な伝道教会として建てられた。
   珍しい十字型翼廊教会堂の広間教会の例である。祭壇の机・説教壇・オルガン全景で床から
   天井を構成するルイ16世様4世のための後期ゴシック。
 領主の館 Herren Haus(1660)初めクリスチャン・ルードビッヒの夏の離宮であったが、取壊して侯爵
   アドルフ・フリードリッヒ。領主の館は、中庭のある2階建て煉瓦造で建てられ1815ま使われた。今
   はラウエンブルク公国の県博物館を収容している。ロココ広間では演奏会。
 火薬地下室 Pulver Keller(1691)防火・防弾の爆薬工場で、地下には爆発材料が保存されて
   いた。地下にはヴュルフ家の武器・導火線・軍需品が置かれていた。今アーチ天井の地下室には
   レストランがある。
 県博物館 Kreis Museum (1973) 侯爵領主の館に、ラウエンブルク公国や町の歴史と文化・バロックの
   インテリアを展示している。
 ポールウエーバー博物館 A.Paul Weber MUseum (1973) リトグラフ・製図・風刺画家のポールウエーバーの作
   品とその生涯が展示されている。
 エルンスト・バルラッハ博物館 Ernst Barlach Museum (1956) 幼児期を過ごした家を購入して、バルラ
   ッハの生涯・陶器・リトグラフ・木版画・ブロンズ彫像の作品を展示している。

5.写真

市庁舎 大聖堂
駅前

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レンツブルク Rendsburg SH8

1.歴史

 1199 リューベックのアーノルド文書に記載、   13c 町はホルスタイン領として都市権を授与された、
 1339 ゲルハルト3世は町の権利を確認、      1460 デンマーク王クリスチャン1世の支配下に、
 1536-40 クリスチャン3世は周構を建設、   1627-29 30年戦争中に独帝国の支配下に、
 1644-45 スエーデン軍が占領、       1665 町は恒久的な軍事駐屯都市となった、
 1669-73 デンマーク軍による1次要塞建設、    1690 デンマーク軍による2次要塞の建設、
 1777-84 シュレスヴィッヒ・ホルスタイン運河構築、 1813-14 町はナポレオン戦争でスエーデン・ロシアが包囲、
 1848 町はデンマークに蜂起しプロイセンが進攻、 1852 町は再度デンマーク領となり要塞は破壊、
 1864-67 墺プロイセン戦争でホルスタイン公国はプロイセンへ、 1895 皇帝ヴィルヘルム運河は開通した、
 1913 2.5kmの高い鉄道高架を建設、   1939-45 戦災は軽微、1955まで英軍が占領。

2.市壁  0.0km 

   1852-1922に要塞は取壊され、石材は売られ土砂は埋め立てに使われた。
  要塞跡地は道路や荷揚場になった。

3.塔  0門0塔

  市門は要塞の出入り口に設けられ、可動橋が夜間は引き揚げられた。1853北西門・
   1855北門・1856東門・1881南西門はそれぞれ取払われれた。東門の遺構は見える。

4.見所 C

   旧市街地は中州に市庁舎と聖マリア教会を中心に木組みの家が残り、南の新市街は
  放射状の整然とした区画に公共建物や要塞の残りが残っている。
 市庁舎 Alten Rathaus (1566) 正門上に1609市章を飾り、市長室はパネルと絵で飾られ
    公開されている。10グロッケンシュピールは2時間毎に鳴らされる。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 1286の火事の後、1278ゴシックで再建。1454ゴシック
   の西塔を付けた。中には、1621説教壇、1648美しい祭壇・17c碑銘板や絵画美術品が
   ある。
 キリスト教会 Christ Kirche (1694) 駐屯部隊教会で赤レンガ壁に木材の天井で建てられ、中に
   は、デンマーク国王礼拝椅子・説教壇があり、西塔は低い。
 船橋広場 Schiffsbruecken platz 200年前からの港。
 宮殿広場 Schloss platz 1199 Reinoldes Burg, 1718 宮殿は現在病院。
 行進広場 Parade Platz (1690) 新市街要塞拡張の中心で要塞の建物が残る。
 文化センター Kultur Zentrum 南火薬庫と兵器庫跡に歴史博物館・印刷博物案・図書館がある。
 ベルガー家 Dr.Bammberuger Haus 南1844シマゴーク跡に建てられたユダヤ博物館。
 キール運河 (1913) 運河を跨ぐ高さ42mの大鉄道橋(長さ2.5km)が完成した。キールトンネルの車用
   は長さ640m、歩行者用は1278mのエスガレータがある。

5.写真

市庁舎

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シュレスヴィッヒ Schleswig SH9

1.歴史

  804 小さな入植として言及、      808 市場は拡大したがスラブ人が破壊、
  900 バイキングが征服し防護施設を築く、 947 皇帝オットー1世はシュレスヴィッヒ教区を設立、
 1000 新しい入植地を設立、            1134 シュレスヴィッヒ大聖堂の建設、
 1161 司教の城は島へ移された。    1544 侯爵の住居はゴットルフ宮殿であった、
 1711 町には最初の市長を選出、    1700-21ノーマン戦争でデンマークが勝ち王宮消失、
 1834 政府は裁判所を町に再設置、           1851 デンマーク王国の勝利、
 1864 独デンマーク戦争でデンマークが破れ町はプロイセンに併合、 1866 連帯本部の駐屯地、
 1879-1945 町は州都だった、    1945 2次大戦の戦災は免れたが金属は供出。

2.市壁  0.0km 

   見当たらない。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  D

   入り江の奥の寂しい港町に宮殿と大聖堂がある。長さ23mの4c木造船を展示。
 ゴッドルフ宮殿 Schloss Gottorp (1161) 司教により水城が築かれ、砦も兼ねた。1459遺
   産として、デンマーク王の所有となり、1492に改修された。1530フレデリック1世は近代化を
   図り北欧ルネッサンスの西翼を増築した。1564火災を受け4翼の建物になった。シュレスビッヒ侯
   爵の政府の場となり、裁判所・芸術室・図書館・科学実験室を設け400人が住んだ。17-
   18cにも改造と拡張が行われたが、北方戦争で破壊され、バロックの邸宅への変換が計
   画された。1848デンマーク王は兵舎や軍病院を加えて要塞としたが、1867シュレスヴィッヒ戦
   争で敗れプロイセンとなった。今は国立美術歴史博物館として、絵画・彫刻・工芸品を展
   示している。
 聖ペトロ大聖堂 St.Petri Dom (850) 初めミッション教会があったが、947シュレスヴィッヒ教区に石と
   レンガ造のロマネスク3廊の大聖堂が建てられた。1275-1300ハイゴシックのホール教会となる、更に
   皇に拡張され16cには完成した。1894煉瓦造ゴシック大聖堂は今の姿になった。皇帝ヴィ
   ル2世は州都となったため長さ120m幅45mのゴシックドーム・25mの内陣・高さ112mの西塔
   を造った。中には1300三王の祭壇・1480銅洗礼盤がある。
 聖ヨハネ修道院 St.Johanis Kloster (1251) 旧市街地の東の漁村に修道院が在った。14cに
   はベネディクト会修道院となり、1299と1487の火災に遭ったが再興された。1536-42
   は貴族の未婚の娘のための女子修道院となった。17-18cにも建物が補充され、州で
   最も保存状態の良い中世修道院複合体で、内部は見学できる。
 ニーダム船 Nydam Boot 宮殿の西の州立考古学博物館に泥炭層から1863発掘の14cオーク材
   の古船:長さ23m幅3mの木造船が同時代の品物と共に見学できる。
 バイキング砦 Wikinger Haithabu (10c) スエーデンからのバイキングが旧市街東に周囲に堀と土堤
   で守って住んだ。今でも半月形の堀が残っている。海賊には絶えず襲わ11cより守り
   易い西へ移った。考古学博物館の別館としてバイキング博物館がある。
 ホルム Holm 旧市街地のすぐ東に墓地広場を中心に家々が取り巻き、漁師と船乗りの住む古
   い地区である。

5.写真

市庁舎 ゴットロフ城
聖ペテロ大聖堂

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各町の歴史と見所

 表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。

③ メクレンブルク・フォアポンメルン州 MV

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アンクラム Anklam MV1

 

1.歴史

 12c フラマン人とドイツ人が市場町に定住、 1243 初め集落、1264マグデブルク法の町を言及、
 1283 町はハンザ同盟加入、1292リュベック法、1338 漁夫はデンマークの漁業権を保有、
 1370-1461 町はシュパンテッコウ城と紛争、  1412 町を守る高い石壁を言及、
 1427 ハンザ同盟としてデンマークと戦った、 1535 町は宗教改革導入、1565ペストで人口減、
 1627-27 帝国軍やスエーデン軍の占領・略奪、1648 町はウエストファリア条約でスエーデン国境の駐屯地、
 1657 北方戦争でポーランドが町を放棄、  dokuno1711 大北方戦争でスエーデン軍は撤退した、
 1720 和平後にプロイセンとプロイセンで分割、 1806 仏軍が侵攻し1809まで占領、
 1815 町全体がプロイセン領となった、   1943-45 米空爆と赤軍占領後の独爆撃で8割破壊。

2.市壁  0.62km 0.28

 1191要塞の基礎段階。1400最初の高さ5mの石壁を6門と多くのWiekHausと共に2.5km建設。
 1517市壁は高さ8mに強化され拡張された。7年戦争後1756-63に一部市壁は壊された。
  市壁が残るのは、西から南にかけて30+350+110+90=500m、東に15+25=40mである。

3.塔  1門1塔

 6門の内残るは1門。
 石門 Stein Tor (1250) ゴシック煉瓦造の角塔で、元は半分の高さであったが1450に
   は32mの高さになり、内外側に切妻が付けられた。火器の出現により前門が1570の議会承
   認で付けられた。1759七年戦争の間に多くの要塞は取り壊された。残ったこの門は刑務
   所として1900まで使われた。隣接する庭に博物館が建てられ、守衛所は拡張され博物館
   となり,塔の5階にも1949から先史時代からの町や地方の歴史や文化を展示している。
 火薬塔 (1450) この円塔の塔頂には先端が円錐状に突出し胸壁が在ったが、今は失
   われている。1462刑務所として16cまで使われた。その後火薬庫として使われ 1866-1874
   には天文台となった。

4.見所 C

  独の北西の端にあるハンザ同盟都市で、繁栄した後期ゴシックの北欧風破風付の家屋が残り、
   大きな建物がオムスビ型の旧市街地に多い。
 市庁舎 Rathaus (13c) 1535火災に遭い、1549再建された。1842ゴシック市
   庁舎は焼失1950-52に新築。3階建ての簡素な旧市庁舎は、今は市図書館である。
    北にRathausⅡ(Betrtes Wohnen),西にRqthausⅢ(Got.Glebslhaus)がある。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai (1280) 船員・漁師・商人の守護聖人を祀ったゴシック
   は1320-40巨大塔・1336祭壇の寄贈・1498説教壇設置された。17-18cは裕福な商人の
   墓所となった。1851オルガン内陣の付加・1907-09オルガン・ステンドグラス塔の大規模改修。
   1945爆撃を受け1997内装・床舗装の補修、2000壁画の復元・2004塔や身廊の補修。
 聖マリエン教会 St.Marien Kirche (13c) ゴシック煉瓦造の美しい教会で、13cの
   四角の二重塔と長方形の内陣が残っている。15cに3身廊に延伸され南廊に聖具保
   管室と礼拝所の増設が行われた。1676-77ブランデンブルクの攻撃を受けて破壊され、
   1778と1849で金は撤去され、1806仏軍の干草と麦藁の倉庫となった。1814再び鐘
   が奉納され、1816焼けた尖塔は更新された。1887塔は100mになり、1936内装は
   ゴシックのフレスコ画が柱の上に置かれた。1945爆撃に遭い1947に塔を再建し聖ニコラス教会
   から祭壇を受け取り、1962主祭壇・マリア像・オルガンを設置した。
 カソリック教会 Katholische Kirche (1901) 市内で塔のない唯一の教会で、オーク材
   の柱の上に構築された。1964-67補修が行われシナの木のマドンナを受け取った。
 聖霊病院 Heilige Geist Hospital (1272) 精霊の家として貧しい人や病人
   を収容した。1238僧侶は病院を建てた。1376・1659焼失下が再建され、1781救貧院
   になった。1958-93は老人ホームで使われ、今は市庁舎Ⅱとして使われている。
 切妻の家 Giebel Haus (1406) 馬市場に面してゴシック煉瓦造の風格のある切
   妻の3階建てのの建物は、町で最古の公共の建物である。元は貯倉庫として建てら
   れ、18cは科学者が使用し、1997に修復を終えて登記所・ハンザ同盟会議役員室・市立
   会社の会議室として使われた。
 高い石 Hofer Stein (1458) 中世の楼閣として町の2.5km南に尖塔付円塔
   が建てられた。土堤と堀で守られ、尖塔上の鉄鍋は敵の接近を狼煙で知らせた。
 旧郵便局 Alte Post(1878)帝国郵便局は郵便局に電信局を開設するため
   に煉瓦造2階建ての建物を造った。1894に最初の町の電気通信機材が設置され、業
   務量の増加で1905と1925-26に機材は増強された。1997まで郵便局は使われた。
 ヴェッセル風車 Wesselsch Muhle (1728) オランダ風車が建てられ、1872に工場
   はヴェセル家の所有となった。スエーデンの支配下で1806まで地方下級裁判所になり、18
   15-74共同体アッテンダム理事会の所在地だった。1920まで風車は操作された。風車は
   1958に桟板と帽子が除かれ、今は風車塔と工場が残されている。

5.写真

石門 火薬塔
南西壁 東壁
西北壁
西南壁 教会

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バース Barth MV2

1.歴史

 1255 リューゲン帝国ヤロマー2世の文書に初言及、   1313 城建設、継承戦争でポマメラニアに、
 1324 要塞建設、1570 ポメラニア侯爵はルネッサンス宮殿再建、1590 楕円形の城と堀を建設、
 1603 公爵は住居を移転し最盛期終了、    1648 30年戦争後スエーデン領ポメラニアに、
 17c 略奪・疫病・火災・高潮で被害、      1710-11 ポーランド王が一時城に居住、
 1727 外航船を初建造、1783には40隻所有、    1815 プロイセンがフォアポルメンを併合、
 1875 5造船所と18海運会社が存在、              1945 赤軍が進駐。

2.市壁 0.10km 0.08

   旧市街は主として洪水に対する市壁と堀に囲まれ、1786には土堤に植樹が行われ
  遊歩道となった。今は僅かの市壁しか見当たらない。

3.塔数 0門1塔

   今は西のダム門と南東の監獄塔が残る。
 ダム門塔 DammTor (1375)石造高さ35mの三角屋根角塔で、幅4mの通路がある。二重門とし
   て元保護ダムの上に立ち、前門と本門は二つの木製扉で守られていた。
 監獄塔 FangTurm (16c初)レンガ造高さ12m直径7.7mの円筒形の建物で、二つの床のある巻
   階段で上のプラットフォーム登れる。17c迄魔女が投獄され、19cドーム屋根となり、
   1968天文台が屋根に設置され物理教師により維持された。1991迄学校観測所であっ
   た。1997・2007に改修された。

4.見所  C

   中世からの要塞都市の区画を今に残し、復元された多くの歴史的公共建築と家屋
  が保全されている。
 旧市庁舎 AltesRathaus (1926) バースは1925北方の町の地位を確保し、ベルリンの建築家に
   よって地区庁舎として建てられた。北ドイツ風レンガ造3階建の建物は中央にゲーブル
   が飾られ、サイドウイングに地区管理者アパ-トが収容された。1946から市庁舎として使わ
   れ、2005から公邸も含まれた。
 低ドイツ聖書センター・聖ユルゲン NiederDeutsches Beibelszentrum St.Juergen(14C)この
   教会は戦争と病気の守護聖人聖ヨハネに捧げられた。16cに病院と貧困居住として再建
   され、ハンセン病患者と貧しい巡礼者を収容した。1980老朽化したがGDRに財政手段が
   なく、2001に修復後、低ドイツ聖書センターとしてルター低ドイツ語訳ポメラニア印刷聖書の写し
   など、1548冊の聖書を展示している。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 煉瓦造の教会建設は1300には始まり1325には発言及
   された。教会は5段階で建設され、最古部分の東聖歌隊は初期ゴシックで始っり、四角
   塔が最後に追加された。1856ネオゴシックの内装に変更された。教会には42レジスターのオル
   ガンがあり、演奏会が開催されている。
 貴族女性修道院 AndlegesFrauleinstift (1733) ボジスロウ13世が1573に建てた城の跡に、
   スエーデンのフレデリック1世は貴族女子修道院をバロック中央部2階建てマンサード屋根で建てた。
   修道院は未婚女性や未亡人のための広いアパートを提供した。入口にレンガ造平屋スエーデン
   建築がある。長方形の敷地は1741修道院壁が囲んでいる。
 旧商人の家 Ehem.Kauhmannhaus (18c) 元商人の家で1970-1946には市庁舎として使
   われた。ここにヴィネータ博物館が1997に開設された。2階には神話Vinetaの展示、3階に
   は都市の歴史と特別展の会場がある。

5.写真

旧市庁舎 マルクト広場

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デミン Demmin MV3

1.歴史

 8c スラブの集落が存在、10c 国境要塞の建設、1075 町として城と市場があった、
 1140 ポメラニアの城と教区があった、   1147 独・デンマーク・ポーランドの十字軍が包囲、
 1156 ボギズラウ1世は支配し住居の一つとした、1211 デンマークが支配した、
 1227 ブランデンブルクの領地となった、     1236 格子状街路を周壁5門で囲む、
 1236-49 リューネブルクの憲章を与えられた、   1283 ハンザ同盟に加入、
 1327 メクレンブルク軍が町をが包囲        1495 大火災で町の半分が焼失、
 1534 ポメラニアに改革導入、1546-47 追加の壁、1627-39 帝国軍とスエーデン軍が取合い、
 1648 和平でスエーデン領となり要塞強化、    1659 北方戦争でブランデンブルク軍が占領、
 1712-13 ロシア軍占領、1715 プロイセン軍占領、  1756 スエーデン軍の奪回作戦継続、
 1807 仏軍占領、1812 ナポレオン軍の北上、  1815 全フォアポメルンはプロイセン領に、
 1945 空爆の被害は甚大で、赤軍に降伏。

2.市壁 0.95km 0.72

  1236-1340に市壁と堀が造られ、1641-59にスエーデンは近代的な要塞を構築。1659に損
   傷した要塞はスエーデンが再構築。1720にプロイセンは要塞と市壁を拡張整備した。

3.塔数 1門1塔

   攻撃にさらされた東側に多くの壁塔があり、円形10基・長方形17期の塔があった。
門は、4主要門の他に4小門があった。
 牡牛門 Kuh Tor ()西門として唯一残された。ゴシック5階建レンガ造の市門
    である。塔頂にはレンガ階段切妻がある。1763-1895市の刑務所として使われ、1952
    -2002はホステルであった。その他Frauentorは1848、SchlossTorは19c、FischeTorは
    1659、KahldenTorは1824、HolstenTorは1862、MentzerPforteは16c、ChristinTor
    は19cに壊された。
 火薬塔 PulverTurm(1546)レンガ造4階建の円錐屋根の円塔。中世壁塔の内
     唯一残されたもの。

4.見所  C

    市壁は良く残されているが、1945の空爆で損傷した建物が多かった。
 市庁舎 Rathaus (1950) 2次大戦の終わりに破壊され、取り除いた跡地に歴史
   主義の市庁舎が建てられ、合わせてマルクト広場もハンザの泉を含め整備された。
 聖バートロミュー教会 St.Bartolomaei kirche (1269)3身廊ホール教会は破壊され、
   14Cに周囲に壁のあるゴシックレンガ造の教会が建てられた。1641.1637.1639に破壊され
   1676に再建されたがまた壊された。1684-1706復元を行い、1734に新しいヴォールトを
   備えた。1857-67祭壇と内陣を変換し、ネオゴシックの高さ92.5mレンガ造の祭壇がある。
 バラ花冠女王教会 St.Marien Rosenkranz Koenigin kirche (1915) ネオゴシック
   45mの単塔のある教会。
 ハンザ地区 HanseViertel 港の漁師の島に、大人と子供の冒険活動と鴎外博物館
   がある。  住宅と商店 Gesellius haus (1935) バロック3階建のゲゼリウスの家は、プリンタ家によ
   って建てられ、クラフト文字の出窓のある記念建造物。
 フリックロイター学校 Schule 3階建てレンガ造中央突出の窓の大きな建物。

5.写真

市庁舎 聖バートロミュー教会/td>

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ドミッツ Domitz MV4

1.歴史

 13c エルベ川氾濫と軟弱地盤のため立地遅れ、    1235 中州に集落と城建設、
 1237 ダネンベルク伯爵がエルベ関税所設置、   1259 ダネンベルク伯爵は都市権を付与、
 1291 町の支配者は変遷したがメクレンブルクへ、  1554-65 アルブレヒト1世は要塞を拡張、
 1620 30年戦争で略奪・疫病・火災で被害、 1809 要塞の重要性低下、多国が占領、
 1888 エルベ洪水の被害、1894要塞の廃止、     1953 要塞は博物館となった、
 1975 要塞は国定公園となった。

2.市壁 0.10km 0.01

   1559-65の要塞の防壁は80m残されているが、市壁はTorStrasseの北端の川沿い
  の旧門衛所に8mしか見当たらない。

3.塔数 1門1塔

 市庁舎塔 RathausTurm (1820)市庁舎の背後に立つ4階建の角塔で、切妻屋根の上に鐘
   楼がある。
 閘門 Schlause (1572)北側の川向うにレンガと砂岩の門が建てられた。1722今の閘門と
   なり、1821-22改修され今の大閘門となった。1956ポンプ場が付けられ、2001に改修
   された。

4.見所  C

   エルベ川上流の小さな町で、18-19cの木組の街並みが魅力的である。
   川の西側には、16cルネッサンスの保存された要塞が、1953から歴史博物館となっておる。
 市庁舎 Rathaus (1820) 2階建9アーチ・マンサード屋根の大きな木組の建物である。2012に
   修復された。後に市庁舎塔が立ち、消防署を収容した。
 聖ヨハネ教会 St.Johanne Kirche (1875) ネオゴシックのホール教会で十字型テント屋根レンガ造の教会
   で、高さ50m八角形尖塔付きの西塔と四隅塔があり、1664の鐘を納めた。
 百貨店 Kaufhaus (1926) 寄棟屋根クリンカータイル3階建の建物。デパートは2014閉鎖。
 要塞デミッツ Festungensanlage (1559-65) 五角形の堀の囲まれたオランダ様式の要塞でレン
   ブルク侯爵の時に建設された。良く保存された北ドイツ唯一のルネッサンス要塞である。15c
   3階建指揮官の家・東レンガ塔、1790内部門、1750精神病院と監獄を建設。1861-65に
   健全化され、1953要塞博物館となった。博物館には町の発展の歴史とエルベ港運・港
   湾施設、民族史、要塞の歴史と防衛システムなどを展示している。
 木組の家 Fachwerkhaus (19c)
     RathausuPlatz2: 2階建寄棟の美しい建物。
     AmWall9: 1870漆喰木組の2階建の船員の家。
     GoethStrasse8:両切妻2階建の建物。

5.写真

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グライフスバルト Greifswald MV5

1.歴史

 1172 デンマークのシトー派修道士が修道院設立、 1248 小さな町として初言及、
 1264 旧と新の市街を合わせて防衛整備、  1299 ハンザ同盟の創設の町、
 1456 市長は北独で2番目の大学を設立、   1534 宗教改革の導入、
 1631 スエーデン軍が町を占領、        1648 ウエストファリア条約でスエーデン領へ、
 1678 ブランデンブルク軍が砲撃して占領、   1713・1736 大火災で町は焼失、
 1815 町はスエーデンからプロイセンへ、      1856 港湾の整備で北市壁と塔は破壊、
 1945 空爆の被害は些少で赤軍に降伏。

2.市壁 0.90km 0.29

  1250に高さ7-9mの市壁と堀と土堤で守られた。1627の30年戦争に町は守れられなか
   ので、18cには市壁の取り壊しが本格化し、跡地は庭園や散歩道となった。
    残っているのは、西260+310m、西南330m合わせて900m。

3.塔数 0門1塔

    Faugen Turm (1329) 町の防衛施設として3階建て胸壁付円塔が造
   られ、1774-1726天文台として使われた。1994から古い港の博物館事務所となった。

4.見所  B

   昔からの大学の町で人口6万の2割が若者で3割の人が大学や研究施設で勤める。
    繁栄したハンザ同盟都市で郡庁としても栄え、マルクトの大建築物と3ゴシック教会がある。
 市庁舎 Rathaus (13c) 中世に建てられ、市長と参事会が置かれた。1369に初
   言及された。会議室は18c壁面装飾をされ、入口には1965のブロンズ像が立つ。
 マルクト広場 Markt Platz 美しい広場で中世からの4泉があり、1998-99改修され
   た。周囲には、15cゴッシク切妻の煉瓦造の建物が多く町の富と繁栄が偲ばれる。西側
   市庁舎裏の小さな魚市場には漁夫の噴水がある。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) ゴシック煉瓦造の3廊教会にはキリストの壁画・オルガンが
   ある。高さ21mの内部には様々な墓石がある。1780長さ67mの屋根が付けられた。
   1985以来、戦争記念館となった。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (13c) 大聖堂は高さ100mの塔を持つゴシック3身廊の
   教会で、内部にはフレスコ画が残り砂岩色合いの装飾がある。床は14cからの墓石
   が並んでいる。
 聖ヤコブ教会 St.Jacobi Kirche (1280) 元は2廊の教区教会であったが、1400に
   3廊バジリカに建替えられた。中には8柱・祭壇・13c花崗岩の洗礼盤がある。
 エルディナ旧修道院 KlosterRuine Eldena (1199) シトー派修道士が建てた修道院の
   遺跡で、30年戦争でスエーデンの被害を受け衰退し、1960-70遺跡保存の公園整備。
 聖生命 St.Spiritus (1262) 中世の老人や病人のための病院で、18cに建替え
   られ、今は大学とハンザ都市グライフスバルトの社会文化本部となっている。
 大学本館 Hauptgebaeude der Universitaet (1745-50) 市長が建てたバロクの建物で、
   その後改修・再構築されて400席の広さになった。1885-1914学生監獄だった。
 旧大学図書館 Alte Universitsets Bibliothek (1882) マーチン・グロピウスが建て、
   ポマラニアの古文書がある。
 ポメル州立博物館 Pommersches Landes Museum ポメラニアの1400年間の自然と歴史・
   ハンザ都市の豊かな文化・スーデン時代の遺跡・1554大きな4*7mタペストリーカーペット・ゴッホの絵。
 カスパー・ダヴィット・フリードリッヒ・センター CasparDavid Friedrich Zentrum フリードリッヒ家の複
   合ビルにあり、地階で石鹸とローソクの製造工程が、上階には画家の人生と作品に関する情
   報が展示されている。
 造船所博物館 Museums Werft 歴史的な古い木造ボート製作所で、古い帆船を展示。

5.写真

市庁舎 マルクト広場
捕獲塔 南東壁
南西壁 南西壁
西壁 聖ヤコビ教会

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ギュストロウ Guestrow MV6

1.歴史

 1226 ハインリッヒ・ボーウイン2世は大聖堂を寄付、  1228 ボーウイン2世は都市法を授与し町を建設、
 1229-1436 宮殿は一家の絶滅で放棄された、   1441 町に特権のある防衛団体を設立、
 1505.08.12.56 町は火災に焼かれた、             1524 宗教改革の導入、
 1556-1695 町はメクレンブルク侯爵の居住地に、  1628-29 バレンシュタインはデンマーク軍を破った戦争
  費用の担保として邸宅に住んだ、    1712 町で大北方戦争の休戦交渉が行われた,
 1806-12 ナポレオン軍に占領された、         1945 5月に非戦闘降伏、赤軍が占領。

2.市壁  0.18km 0.10

   旧市街の南西に煉瓦積の市壁が、補修されて残っている。

3.塔  門1塔

  1889に水道の開設を記念して、この町の創設記念碑の噴水が馬市場に設けられた。砂岩
  六角形の柱状の構造物で、1999には修復されたが、2004再度損傷して市民からの寄付で修復。

4.見所 C

   風光明媚な川に囲まれメクレンブルクの中心部の町で、大聖堂・教会やルネッサンスの城が特徴の
  ゴシックの古典主義煉瓦建築が中世の都市構成を今に残している。
 市庁舎 Rathaus (13c) 1798に4つの既存の切妻付2階建ての家を古典主義で一つに構成し、
   壁柱や花輪も古典主義となった。2001-02に復元された。
 ギュストロウ宮殿 Schloss guestrow (16c) メクレンブルク侯爵の宮殿として、イタリア建築家による隅塔付
   4階建てルネッサンス構造で建てられ、南に大きな庭園がある。中には中世の芸術品・工芸品・
   侯爵の狩猟や儀式用具・武器・古代からのガラス・絵画・陶器等を展示している。独立した部
   屋でヴァレンシュタイン・ギュストロウの短い治世を知らせている。
 大聖堂 Dom Guestrow (1226-1335) ハインリッヒ・ボーウインが寄贈した。13cにロマネスクからゴシックへ移行
   された。大規模十字型レイアウトに高さ44mの西塔が付き、1565に侯爵の宮廷教会となった。
   1995に大改修された。
 聖マリア教区教会 Pfarr Kirche St.Marien(1308)市民のために建てられ、1503落雷火災で基礎
   壁を残して焼失し、1508北ドイツ煉瓦ゴシックの新教会となった。塔は町で最も高い。19cの
   大改修で3身廊ホール教会に変えられた。
 北ドイツキリスト降誕博物館 Norddeutsches Krippen Museum (14c)改装された精霊教会に、2007
   博物館が開設された。精霊病院は貧しい人や病人のための病院に1313に建設が始り、ゴシック
   煉瓦2階建であった。1524に教会としてその建物が使われた。博物館は、世界から350の伝
   統的なキリスト降誕の場面のコレクションである。
 町博物館 Stadt Museum (2003)町の様々な歴史を語る大規模なコレクションを新しく建築した建物
   に展示している。1.2万枚の包括チラシと地方画家の芸術的遺産がある。
 町美術館 Staedtische Galerie Wollhalle (19c) 侯爵の厩舎として建てられ、19cには毛織物取
   引所となり、20c劇場の工作所となり、2000に現代美術のアートギャラリィとなった。
 エルンスト・バーラッハ博物館 Erust Barlach Museum (1953) 1938にこの町で死んだ エルンスト・バーラッハの、
   芸術家の生涯と文学作品と彫刻を展示している。
 エルンスト・バーラッハ劇場 Erust Barlach Theater (1828) 古典的様式の劇場で、有名な彫刻 家で作家の
   名前を冠し365人を収容する。
 郵便局 Post 旧市街地の角地に立ち、正面に角塔と小切妻のある2階建ての建物で、前の広場に
   は町の創始者Borwinの噴水がある。
 裁判所 Gericht 3階建ての大きな建物である。

5.写真

市庁舎 ボルヴィン泉
聖マリア教会 宮殿
南壁

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ノイブランデンブルク Neubrandenburg MV7

1.歴史

 1240 プレモントレ修道会が修道院建設、1248 ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世は入植者の町を構築、
 1250 フランシスコ会修道院建設開始、   1292 町は、結婚によってメクレンブルクの領地となった。
 1300 石造防御施設建設、市壁・門塔、 14-15c メクレンブルク・スタルガルト侯爵の居住地として繁栄、
 1627 30年戦争で帝国軍の略奪と虐殺、1671 町は戦災と過重債務で破産した、
 1676 大火災で殆ど焼失、       18c 町にメクレンブルク・ストレリッツ侯爵の夏の宮殿、
 1775 マルクトに侯爵の都市宮殿を建設、 1850 市壁を越えて都市拡大が始まる、
 1863 門と関税障壁は廃止された、  1945 2次大戦の空爆は町の8割を破壊した、
 1952 旧市街地の再建が始まった。

2.市壁  2.33km 0.98

   14cの市壁は殆ど残れれている。1248町が構築され、その後防御のための木柵・フェンスが建
  てれれ、1300町の経済力向上で石の堀・高さ7.5m長さ2.3kmの市壁・門塔・壁間小屋が築かれた。
  19c末まで市壁は完全に閉じ4門以外からは入れなかった。1864鉄道開通時にも壁は破れなか
  った。土堤と堀は、市壁の外20-30mに在ったが埋め立てれれ今は緑地になっている。

3.塔  4門2塔

  14c初めにまず木製の戸で遮られ、4ギルドにより4門が煉瓦造の門に置き換えられた。18c
  メクレンブルク・ストレーリッツ公国は徴税と衛兵所を合わせた木組みの建物を門に建てた。ゴシックの4門は
  戦災を免れ、前門のある堂々たる切妻付市門として貴重な存在である。
   Wiekhaeuser(壁間小屋)は、北独にしかない珍しい存在であり、ぜひ見てみたい。
  Wiekhaeuserは、14c初め30m間隔で57のWiekhaeuserが町側から 市壁の上に木造で付加され、
  眼前の敵を攻撃した。30年戦争後にその有効性を失い、防御を諦め宿泊所等で使われた。
  1965まで小屋の幾つかは残っていた。市は23のWiekhaeuserと2塔を復元し、今はクラブ・
  バー・レストラン・店舗・集会所等で使われている。
 フリートレンガー門 Friedlsender Tor (1300) 最大で複雑な古い門で前門との間は88mも
   ある。内側の高さ20mの切妻付のある門で1300に建てられ、高さ8mの市壁につながる。14c
   前半に前門が造られた。両門はツインガーを形成する壁によって連結された。今は造形センター
   となり、町の文化・芸術の中心である。1970に元関税の家が復元され、今はカフェである。
 新門 Neue Tor (1450) 4番目の門として交通緩和のため設けられた。1852には前門
   は老朽化して取り払われた。内側の8切妻のニッチはテラコッタの装飾がある。今はフリツロイター学会教
   会が入って、文学の催物が行われる。
 スダガルト門 Stargarder Tor (1310) 2番目に造られた門で、町の南入口である。高
   さ24mの町側の門と高さ18mの前門が建てられ、長さ40mのツインガー壁で両門は繋がれ、税関
   の建物がある。前門はゴシック煉瓦造の華麗な2階建てで、西側にLohMuehleナメシ革工場があり
   保護壁で守れられている。内側の門には、漆喰・煉瓦・石積・9つのステラコッタがある。
 トレップトウ門 Treptower Tor (1400) 町側の高さ32mの切妻のある門から半分の高さの
   前門が見渡せる。1873門塔は州で最古の市立博物館となり、今も町の先史時代と初期の歴
   史の展示がある。ツインガーは34mで18c南部壁に守衛の木組みの家と関税が置かれ、1856には
   第1通信事務所が建てられた。
 見張り塔 Ausichts Turm (1905) 高さ34mの角塔で階段を111段上るとTollenseSee
   を見渡せる。2次大戦後は軍用地で立ち入りできなかったが、1995改装され登れる。
 捕獲塔 Fangel Turm 北側の壁中に立つ3階建ての円塔。

4.見所 B

   旧市街地は、ほぼ完全に残る丸い市壁と緑地に囲まれ、縦横に街路が区画されている。
  4門は前門が残る規模の大きい物もあり、破風が建てられて見事である。また市壁の上の木製
  Wiekhaeuserも珍しく、再建されている。また市庁舎は西側の市壁外に在り、マルクトには文化教
  育センターがある。
  聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 町で最大のゴシック煉瓦造の教会で東切妻は見事で
   ある。1298ハーベルベルク司教によって祭壇が奉献された。何度も火災に遭い、1832-41に復元が
   なされた。2次大戦では廃墟となり1980に再構築され、コンサートホールになった。鐘楼の鐘は2007
   に奉献され、塔には教会の歴史が常設展示されている。
    フランシスコ会修道院 Franziskaner Kloster (1250-60) 町の北部に広大な建築複合体を
   形成し、16cの宗教改革時に修道院は廃止され、元修道院教の聖ヨハネ・西翼・北翼・東翼が残さ
   れた。教会と西翼は聖ヨハネ教会と地区行政機関によって使われ、北翼の石造食堂とレンガ造広
   間は2013改修後に町と教会の歴史を展示し、東翼は17cの火災後再建されなかった。
 聖ヨハネ教会 St.Johannis(1250)修道院内の石造の教会で14cに今の本堂が建てられた。
   16cに修道院は解散され、町は教会を引き継いだ。中には、1598精巧な石灰岩の説教壇・1730
   豪華なバロックの祭壇・1700錫や真鍮のシャンデリアなどがある。戦争や火災で幾度か修復された。
    定期的に聖歌隊やオルガンの演奏が行われている。
 聖ゲオルグ礼拝堂 Kapelle St.Georg (1308) 中世には町外れの街道に3礼拝堂があり、
   市門の閉鎖後に旅行者や巡礼者に食事や宿泊所を提供していた。1631ブランデンブルク軍の包囲
   時に、他は破壊されたが、聖ゲオルグは十字軍守護聖人に因んで名付られて生き残った。
   トレップトウ門の外に初期ゴシックの四角い中央塔の煉瓦造の建物は病院の礼拝堂でもあった。
   1994改修後に使用可能となり、音楽・講演会・結婚式場・展示会等に使われている。
 四輪水車 Vierrade Muehle(1271)トレップトウ門の前に煉瓦造4階建ての建物と古い3階建
   木組みの工場がある。四輪水車の粉挽場は、860mの水路を介して動作した。1925から電気動
   力となり、今は施設内見学と文化機関・サービス・教育の分野が入っている。
 地域博物館 Landes Museum
   Treptwer Tor(1873) 塔の5階に地域の先史時代と初期の歴史を展示。
   Vierrad Muehle(2004) 古い水車・昔の町の歴史・市民生活の工芸品・農業・ピアノの展示。
   Franziskaner Kloster 歴史的な都市の断面と修道院の歴史を展示。
 芝居家 Schauspiel Haus (1775)侯爵アドルフ・フリードリッヒ4世は夏の館を建て、1780に
   劇場を構築した。1792侯爵の死後、経済状況から劇場は解散された。1825改修され公園が
   再開された。1848病院となり、1894医師が買って運動治療機関とした。2次大戦では病院と
   なり、奇跡的に戦禍を免れ1945から放置され、1994に180人の劇場として復活した。

5.写真

トレップトヴェア前門 トレップトヴェア後門
トレップトヴェア後門内側 新門
ムクドリ衛兵門 自由州門
Wiekhaus・東壁 Wiekhaus・北壁
聖マリア教会
 

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ノイストレリッツ Neustrelitz MV8

1.歴史

 1278 村として言及された。  、          1382 ブランデンブルク辺境伯は城を建設、
 1349 フェルステンブルク伯爵は町に昇格し都市権を付与、 1575.1619.1633大火災で町は破壊された、
 1621 町のために新市民法を作成、         1695 グストロー侯爵家が断絶して継承紛争、
 1701 侯爵フリードリッヒ2世はメルレスブルク・ストレリック公国を受け取り、町を首都とし城は王宮に拡大、
 1712 城は火災を受け、家族は一時他の町に住んだ、    1736 新ストレリッツに町は移転した、
 1775 マルクトの民家を購入し市庁舎と裁判所とした    1815 両メクレンブルクは大公国となった、
 1918 ドイツ帝国の終焉、 1934 町は郡庁となった、1945 赤軍が侵攻し戦闘で町の8割を破壊。

2.市壁  0.01km 0.01

   町の東南の市壁と門の代わりに象徴的に存続する。

3.塔  0門0塔

   塔は見当たらない。動物園の入口には1824-26建のHirschTorがある。

4.見所  C

   湖の東に位置し、町の中心の丘の上にある広いマルクト広場から、8本の街路が各方面い伸
  珍しい都市計画となっている。町の南側には城のアンサンブルと広い城庭園がある。
 市庁舎 Rathaus (1841-43) 3階建ての擬古典主義の市庁舎は、アーケードと柱石玄関ホールを持つ。町
   の存続100年と18cからの変化を伝える市庁舎は、大公の贈り物であった。市教会とは向かい
   合わせで建築的に相応していた。1891大火災で損傷を受けたが直ぐ再建された。
 市教会 Stadt Kirche (1877) ヴィルハイム・ビュッテルは1831に高さ45mの塔をトスカーナ様式で建てた。塔の見
   晴らし台からは市内の眺望が素晴らしい。
 カソリック教会 Katholische Kirche (1875) 前面に使徒ペテロと聖ポニファシウスの像があり、1944に処刑され
   た国際社会主義者の記念碑あり、正面にバラ窓があり、レンガ造身廊の建物である。
 マルクト広場 Markt platz (1733) 四角の広場から8本の街路が放射状に伸びている。
 城山 Schloss Berg (1727-31) 偽古典主義の貴族の家は2次大戦の終期に壊された城のアンサンブルが見
   られる。別の対方向の場所には基礎が残っている。城跡のオルオランジェリィの反対側に劇場がある。
   青春の女神の神殿には重要なバロクの中心軸がある。19cに庭園の一部は英国式風景公園に改
   造された。見所は、1870王宮厩舎・1891ルイゼ王女の記念館である。
 城教会 Schloss Kirche (1855-59) 十字型の単廊バジリカで建てられヴュテルの作品である。明るい煉瓦
   で造られ多くのゴッシク装飾がある。中央正門には4人の福音史家の層がある。
 最古の家 Altesten Haeyser (1732) ここに最初の市長が住んだ。1820ガストハウスとなり、ここ100年
   はカフェとして有名である。
 穀物倉 Kornspeicher (11852-53) 港の拡充と運河開通の後にヴュテルは港近くに穀物倉庫を建てた。
   建物の明るい黄色の煉瓦は既存の倉庫と区別している。

5.写真

市庁舎 市教会
市壁

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パーヒム Parchim MV9

1.歴史

 1170 皇帝フリーヂリッヒ1世の文書に初言及    1225 ハインリッヒ・ヴェルピン2世は都市権を授与、
 1226 市場を開設した、             1238-48パーヒム公国の居城であった、
 1240 侯爵プリビスロウ1世は町に新市街を設置、     1282 新旧両市街は統合された、
 1286-1310 長さ2.7km高さ5.5m厚さ0.9mの市壁を構築、 1377 町は侯爵の城を買収、
 1384 町は貨幣鋳造都市となった、     1586 大火災で町の半分が焼失、
 1604.1626 ペスト流行、1612 大火災発生  1636-39 30年戦争で人口は1/4に、
 1667-88 町はプロイセンに担保占領された、  1806 ネポレオン軍占領で町は最後の大挫折、
 1818-40 町は立ち直り上級裁判所開設、  1832 町は民主的な憲章を授与された、
 1863 市壁の外に工場建設が始まる、    1867 竜騎兵連隊の駐屯、
 1945 町は殆ど生き残った。

2.市壁 0.09km 0.03

   1296-1310に新旧市街を含めて2.7kmの市壁が構築されたが、殆ど残っていない。市壁外の
  Maltke広場に1863WallHotelが建てられ、今はSporkasseになっている。市壁が残っているの
  は、新市街の西に40m、旧市街の東に25m、旧市街の南に25m、合わせて90m。北の城壁は
  スラブ砦の名残である。

3.塔数 0

   見当たらない。中世の3市門は1797西のNeuTor、1833.38kreuzTor、1847-48WockerTorそ
  れぞれ取り壊されて残っていない。

4.見所  C

   新旧二つの市街を市壁で囲む町で、それぞれにマルクト広場に教会・市庁舎が立っている。東
  にある旧市街の方に雰囲気のある街並みが多い。
 市庁舎 Rathaus (1226) 市場を設けると同時に取引の場所を兼ねて煉瓦造2階建ての市庁舎を建て
   た。1282新旧市街の統合の後に、旧市街の市庁舎で議会が開かれた。市庁舎広間では、理事
   会・市民の会議・高等裁判所の審議・祝賀会・結婚式などが行われ、地下にはワインセラーを持ってい
   た。1667地方裁判所と土地高等裁判所が収容され、1669理事会の建物が新築された。1818上
   級控訴裁判所が設置されて市庁舎が改築されたが、1840ロストックに移管され市庁舎に戻った。
   1993-98に完全に改築された。
 聖ゲオルク教会 St.Georgen Kirche (1289) 後期ロマネスクの塔とバジリカがあった旧市街の場所にゴシック
   煉瓦造の単塔の教区教会が建てられた。内部には、中世の壁画・1421祭壇・1580説教壇・15c木
   彫・19cネオゴシック祭壇画がある。48mの塔には登れる。
 聖マリア教会 St.Mrien Kirche (1278) 新市街の中心に立つ、煉瓦造教区ハレン教会である。1310の西塔
   はリューベックの聖マリア教会がモデルである。中には1365ブロンズの洗礼盤・1500聖マリア祭壇・15142つ
   の鐘と説教壇・1601オルガン・1908後陣の絵画がある。塔には登れる。
 モルトケ記念館 Moltke Gedaechtnisstaetz (19c) 元帥モルトケは1800この町で生まれ、1891ベルリンで死
   亡した。2階建ての建物にモルトケの故郷と科学的・軍事的な成果を展示する。
 錫の家 Zinn Haus (1612) ランゲ通にある古い世俗的な建物で、一時市内巡査の家として使われた。
   今は町の芸術と文化の中心として改修された。
 靴市場 Schuh markt (1833) 旧帝国郵便局の煉瓦造2階建の建物は1900靴市場になった。
 木組みの家 中心部には木組みの家が多く残されている。
   1618AlterMarkt2、1612LangeStr.24、1585LindenStr.3、1604LindenStr.6、
   1691MuehleStr.38、1588MittelStr.12、1612SchuhMarkt7、1703ApothekenStr.1
 町博物館 Stadt Museum (1448) 2階建ての建物に、町の歴史と文化を、雑多な視点か
   ら表現している。

5.写真

市庁舎 東壁
南壁 聖マリア教会

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パーゼヴァルク Pasewalk MV10

1.歴史

1240 ポメラニア侯爵とブrンデンブルク辺境伯との領土紛争、1250ランディン条約でブランデンブルク統治下へ
 1354 町はポメラニアが取り戻した、           14c 町は防衛施設を整備した、
 14c ウッカーマルクで唯一の町として一時ハンザ同盟に加入、 1535 宗教改革の導入、
 1630 帝国軍の占領で略奪され破壊された、     1648 ヴェストファリア条約でスエーデン領へ、
 1720 北方戦争の後にプロイセン領ポメルン州となった、   1720 仏ユグノー移民がタバコ産業を興した、
 1721 連隊の駐屯地となった、           1945 赤軍の攻撃で町の中心は破壊。

2.市壁  0.99km 0.40

  14cの市壁は2.488kmあったが、1945の戦災で壊され4割しか残っていない。
  主として北西・南・東に点々と野石の市壁が見られる。

3.塔  4門1塔

 プレンツラーファー門 Prenzlaver Tor (15c) 南、ゴシック煉瓦造3階建てアーチ通路のある門で、
   野石の土台の上に建てられた。正方形の塔で高さ25.6m内外側の正面に 縦長のパネルがある。
   19cの初めに昔の破風を壊し勾配屋根に置き換えた。門と付属建物は階段で接続される。
   1996からは、市立博物館になっている。
 粉挽門 Muehlen Tor (15c) 西、ゴシック2階建て煉瓦造の門は野石の土台の上に立つ。
   9m*8.5mの土台の上に高さ25.1mの塔が立つ。方形の2階の上に8角形レンガの塔と尖塔がある。
 アンクラム門 Anklamer Tor (15c) 北、門跡が残っている。
 火薬門 Pulver Tor (15c) 円形煉瓦造の塔で1.8mの胸壁や8角尖塔に多くの抜け穴が
   装備されている。高さ27.4mで直径8.0m壁厚さ1085-4.0mあり、火薬庫として使われた。
 見張塔 Kiek in de Mark (1445c) 南、下部は石造の四角、上部は煉瓦造円型の塔で
   頂上には煉瓦の胸壁と八角形の尖塔がある。下部は4.0mの正方形、全高は20.2mである
 壁間小屋 Wiekhaeuser (15c) 最後の Wiekhaeuserは1898に取り壊され復元されてない。

4.見所 C

   楕円形の街路が旧市街地を囲む2.488km市壁の位置を示し、点々と市壁も残されれている。
   町の750年歴史は、大きな建物や門・塔に残されている。
 市庁舎 Rathaus (21c) 市壁外に近代的な市庁舎がある。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1176) 町で最古の十字形の教会は、破壊後に花崗岩
   の基礎の上にゴシック煉瓦造の破風付翼廊を加えて修復された。1945戦災で塔頂部が壊され
   シンプルな勾配屋根が置き替えられた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 3身廊の美しいハレン教会で、1984に部分的な破壊が
   あり、簡素化された尖塔でコンクリートを使って1989-94に再建された。
 聖オットー教会 St.Otto Kirche(1885)カトリックの塔のないネオゴシックの教会。
 聖スピルタス病院 Hospital St,Spirtus(1300)古くに設立され、16cに建物は再建された。
   今は、老人ホームとなっている。
 貧困の家 Elonden Haus(14c)病院としては1563に廃止され、無一文の見知らぬ人へ
   の短期滞在や食事を提供していた。
 町図書館 Stadt Bibliothek 2階建木組の建物に町と地域の文学と住民にメデイアを収容。
 歴史U Historisches U (18c) 文化フォーラムは、元の胸甲騎兵隊の厩舎に収容された。
 町博物館 Stadt Museum(15c)元プレツラーウアー塔とその付属建物に、1996に町と地域の
   文化と歴史・駐屯地の250年・プロイセン竜騎兵等が展示されている。
 地方裁判所 Amts Gericht(19c)正面と側面に破風のある2階建て煉瓦造の建物で、
   1905から地方裁判所として使われた。

 

5.写真

粉挽門 プリンツラウアー門
火薬塔 Kiek in de Mark
南壁 西壁
西壁 聖マーチン教会

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ペンツリン Penzlin MV11

1.歴史

 10c 町はスラブ入植地から生じた、  10-13c スラブの要塞が市湖に見える、
 1170 ブローダ修道院の文書に初言及、 1263 最終的に町は今の名前となった、
 1263 侯爵ニコライ1世は町の特権を承認、 1274 町には領主の代官が居た、
 1291 侯爵ニコライ2世は町に定住した、  1316 ヴァーレ・ギュストローの領土となった、
 1414 領主は町をマルツアーン領主に質入、 1414 500年間マルツアンの家系が城に居住、
 1560 城に魔女の地下室を設け魔女狩、1558.1725 大火災が発生した、
 1826 古い市壁・藪土堤・荒廃した城の記述、1833 大火災で町は焼失、
 1945 2次大戦で赤軍が戦わず占領。

2.市壁  0.67km 0.64

  中世の市壁は、南側の斜面に400mと北側の旧城北に270mが残っている。

3.塔  0門0塔

  見当たらない。

4.見所 D

   市湖の北西に位置し、丘に古い木組の建物が立つ小さな町で、北に城があり南に
   市壁が残っている。
 旧市庁舎 Alte Rathaus 2階建ての旧市庁舎は今は町文化センターになっている。
 旧城 Alte Burg (13c) ヴァーレ家の城であったが、1414からはマルツアーンの家族が住
   んだ。1560魔女の牢獄を地下に設け、魔女狩りが行われた。18cには荒廃して
   住めなくなった。1941には町の所有となり、今は博物館となった。
 新城 Neue Schloss (1793) 旧城のすぐ北側に、マルツアーン家が建てた。
 聖マリア教区教会 PfarrKirche St.Marien(1273) ゴシックの南礼拝堂から始まり、
   3身廊煉瓦造ノホール教会でポーチ・4礼拝室・角石塔がある。1725大火災で被害を受け、塔
   は高さを身廊の高さに下げられた。1731再建され、1877-78に修復された。
 町博物館 Stadt Museum (13c)旧城の中に、町の歴史・魔女の歴史・中世の城祭
   ・ヴァルブルギスの夜等の展示や催物がある。
 スラブ要塞 Slawen Feste(10-12c)スラブ人は、大きな城塞で集落を守った。
   市湖近くに楕円形70mの痕跡と北に160mの円型石壁が今も残る。

5.写真

旧城 聖マリア教会
南壁 北東壁
北西壁

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ロストック Rostock MV12

 

1.歴史

 12c ワルノー川右岸の低地入植地に、スラブ領主の城が建てられた。
 1160 サクソン侯爵ハインリッヒは侯爵ニクロードに勝つ、 1167 ハインリッヒは西メクレンブルクを支配、
 1218 ハインリッヒ・ボアピン1世は都市権を確認、  1254 西に4番目の独立入植地を建設、
 1262-65 町は要塞で統一され庁舎・議場建設、1283 ハンザ同盟の設立、
 1325 町はハインリッヒ2世の貨幣鋳造権を授与、  1358 全管轄権を獲得して自由都市へ
 15-16c 町議会への反乱が繰り返された、  16c 切妻の家800と醸造所300で繁栄、
 1618-48 30年戦争の被害は少なかった、   1688 大火災で町の1/3は焼失、
 1700-21 北方戦争でデンマーク・スエーデンが略奪、 1758-62 7年戦争でブランデンブルクが占領
 1806-13 ナポレオン軍が占領、         1813 メクレンブルク公国に戻った、
 1866 メクレンブルク公国は北独関税同盟に参加、 1940+42 空爆で町の48%破壊。

2.市壁  1.450km 0.39

  町は、13cに高さ7m面積1km2厚さ1mの市壁を築き、必要に応じ幅3mの木製歩道が
  付けられ、22門の内半分ドックに繋がった。1830中世の市壁の外へ初めて市街を拡張
  し、町の防衛施設は大部分取り払われた。堀は17cに埋め立てられ土手道が残った。
   市壁にはWiekhaeuserがはめ込まれ、一部には木製の壁上通路がある。1218都市
  権確認の銘板が市壁に埋め込まれている。17cにも補強が行われた市壁は、主とし
  て爆撃で破壊された。1930石門と雄牛門の間の市壁は、復元された。

3.塔  4門1塔

 クレッペリン門 Kroepeliner Tor (1265) 西、レンガ造の角塔で、内には市立
   歴史博物館であったが、考古クラブが入っている。
 石門 Stein Tor (1456) 南、今は道路の中央に立ち、町側には紋章と銘板
   があり、3階建ての角塔に大きな尖塔が付いている。前門は1949に除却された。
 僧門 Moenchen Tor (1316) 北、ゴシックの沿岸門は16cにルネッサンスで再建され
   1806に古典的様式2階建て各塔に置き換えられた。上階は住居で使われ、1990-92
   に改修された。
 雄牛門 Kuh Tor (1262) 南東、ゴシックの4階建て幅8.9m厚2mの角塔で、16c
   一次破壊されたが、石門で再建され、1621に住居となり1942爆撃で破壊され、
   1984にレンガで復元された。1985からクラブが収容された。
 ラーゲブッシュ塔 Lagebusch Turm (1456) 市壁で唯一残った6角塔である。
      ランゲン塔とも言われ、今の塔は1577オランダ・ルネッサンスの防御塔で、19c迄刑務所とし
   て使われた。

4.見所  B

   恵まれた地形に早くから港が置かれ、13cハンザ同盟加入しメクレンブルクの領主から
   の独立を試みた。その繁栄の地位から、30年戦争や北方戦争では北欧に、その後
   ナポレオンにも占領された。町には有名な市庁舎・教会・博物館・切妻の家並みが美し
   いクレーペリン通等がある。
 市庁舎 Rathaus (1270-90) アーチ天井の2階建ての建物で、地階は商取引に使
   われ、2階は宴会場・議会場があった。1484に7つの小塔を屋根に付けた3階建の建
   物が新築された。1727バロックのアーケードや前面や祝祭会場が付けられた。2002改修。
 聖マリア教会 St.Mrien Kirche (13c) 最初の完成直前の建物は1398に倒壊し
   15cに西側に壁塔のある十字型バジリカが建てられた。中には、1290青銅の洗礼盤・
   1472天文時計・1720高い祭壇・1577説教壇・1791オルガンがあり、1992-2008大改修。
 聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1252) 3廊石造の建物に塔は二重であった
   が、14cには煉瓦造3廊バジリカとなり、1500に123mの高塔を付けたが1543落雷で
   破損し高さ117mで再建され船の目標となった。1942の空襲で大損害を受け、暫定
   改修で礼拝は行われた。1991塔が再建され45mまで登れる。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1257-1312) 初め野石基礎上にレンガで3身
   廊の教会が建てられたが、15c大きな正方形の塔と石の身廊を伸ばした。1945の
   空襲で塔と身廊が破壊され、1948仮に後陣が献堂された。1996に再建が始まり、
   1971にオルガンが置かれた。今は宗教や文化の集会や演奏会に使われている。
 聖十字架修道院 Kloster Heiliges Kreuz (1270) デンマークのシトー会によって
   設立された修道院で、宗教改革を1584まで生き延びたが、その後女性修道院に変
   換した。今は文化史博物館となり、教会は大学に属し演奏会に使われている。
 カソリック修道会 Kathorien Stift (1223) フランシスコ会修道士はここに落着いた。
   教育と工業学校として、後に孤児院として使われ、1807-08は仏軍病院となり、
   1920からキャサリン修道会や介護ホームとなった。2001再開され地方音楽と演劇大学に。
 州会館 Staende Haus (1893) メクレンブルク公国の州事務所として建てた。
   歴史主義の赤レンガの3階建ての建物で、中庭・階段・会議室など一見の価値はある。
   今は、州の上訴裁判所の本部である。
 樹木の家 Haus Baumhaus 残り少ない後期ゴシックの樹木状の家で、1階は柱間
   隔の広い樹木状の木組構造で、この通りは特に美しい切妻建築が並んでいる。
 大学広場 Universitaets Plstz (1419) 3角形の広場には1419から大学が
   置かれ、1870には大学本館が建てられた。この広場には1742にこの町で生まれた
   ナポレオン戦争の英雄ゲブハルト・レバーエヒラトの記念碑がある。バロックの旧大公宮殿1750は
   ハンザ都市へのメクレンブルク侯爵の滞在を思い起こさせる。反対側の5切妻の建物1986
   は調和をとって建てられた。
 文化歴史博物館 Kultur Histrische Museum (1270) 聖十字架修道院の歴史
   的な建物に、1859に収容された。オランダ絵画・セラミック・工芸品・貨幣・玩具・軍用品等
   文化と芸術の収集物と伝統的なハンザ同盟都市の歴史と文化の展示がある。
 BSTU記念所 Gedenk Staette des BSTU (1960) オフィスビルに囲まれた家の中
   庭にスタージの刑務所1958があり、110人が投獄された。1998州の犠牲者のための
   資料センターとなった。
 海事博物館 Societaet Rostock Maritin e.V. (1857) ハンザ同盟時代の港
   湾施設・多種船模型・造船を展示し、屋上には再軍の潜水艦・魚雷・掃海艇を展示、
   地下にはヘルメット・ダイバーがある。

5.写真

市庁舎・新マルクト 裁判所
石門 療養門
南壁
東南壁 ニコライ教会

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ステルンベルク Sternberg MV13

1.歴史

 1248 スラブ王フェルストプリビスロー3世が街を設立、 1261 メクレンブルク公国へ組込まれた、
 1308.1309 大火災で町は大被害、      1310 ヘンリー2世ライオン・メクレンブルクの居住地、
 1450 ペスト流行、1471 町はシュベリーンへ、   1549 メクレンブルクはプレタシュタット公国へ、
 1621-1815 メクレンブルク・シュベリーンに属した、   1645.1741 町は大火災で壊滅、
 17c 北方戦争でスエーデンとロシアが占領、     1733 帝国軍が町を占領、
 1839 現在形で城壁の整備、        1945 赤軍が占領。

2.市壁  410km 0.40

  14cの市壁は、丘の斜面に立ち、1839に部分的に復元された。北部と東北部に市
  壁は残されている。

3.塔  2門0塔

 粉引門 Muehlen Tor (14c) 東の坂の上にあり、30年戦争の1629に壊さ
   れ、1839に再建された。市門のアーチは1988に改築された。
 パスチナー門 Pastiner Tor (1444) 部分的に市壁が保存されていた。

4.見所  B

   復元された市壁と格子状の道路網と建物は、1741の大火災の後に美しい色合
   の木組の家が建てられ修復されている。市場は2009に改修され周囲は中世の街並
   みが囲んでいる。
 市庁舎 Rathaus (13c) 古い市庁舎は、1659と1803に改修された。漆喰塗の3階建
   チューダー様式で1845に新築され1993に改修された。1575-1913の会議場もまた
   1628からは住宅になった。
 市教会 Stadt Kirche (1309-22)ゴシックの以前の教会はレンガ造3廊のホール教会で、
   14cに北の聖具室を更新した。1746マンサード屋根、1896内部改造、1322の西塔
   は1750塔上部のバロックランタン、1810-95落雷でヘルメット更新。
 牧師館 Pfarrhaus (18c) 2階建の木組の家で前面の木組装飾は復元された。
 住居 Wohnhaus (18c) 石基礎上の2階建の木組の家で、道路側の装飾
   的な前面は復元された。
 郷土博物館 Heimart Museum () 町で最古の切妻のある平屋の木組の家が、
   改修されて博物館となった。14の展示室があり、先史時代と町の初期の歴史
   を展示している。地質学のスターンベルクケーキ・過去の生活と台所・元理髪店・古い衣装。
 古い時代の博物館 Oldteimar Museum GrossRaden (1999) 450m2の展示場
   に自動車やバイクを展示している。地階には自動車や固定式エンジン、2階には
   オートバイ生産・原付自動車・スクーターを展示。
 考古学屋外博物館 Museum (1893) スラブ遺跡の出土品からスラブの生産や生
   活を説明している。衣装・手工芸・宝飾品・宗教・貿易について説明し、ガイドツアーで
   も知識が深められる。

5.写真

 
市庁舎 粉引門

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ストラルズント Stralsund MV14

1.歴史

 1234 独の北方拡大の入植地、 1234 侯爵ヴィツラウ1世の都市権を得て市壁を築く、
 1325 リューゲン公国の消滅後にローメルン・ヴォルガストに属す、14c ハンザ同盟の重要な港、
 1370 デンマークとの紛争は頂点に、 15c ハンザの衰退後も貿易と造船で生き伸びた、
 1525 宗教改革の導入、     1618-48 30年戦争で町はスエーデンの助けで対抗、
 17c 200年間スエーデン王国に属す、 1815 プロイセンに属し県庁所在地となった、
 1945 空爆を受け赤軍に占領された。

2.市壁  1.09km 0.38

   1256に3.1kmの土堤の上に柵を設けた。1320WiekhaeserとFaehrwallのある石
   造市壁が完成した。1648スエーデンが市壁の強化を図った。1808-1809ナポレオン軍は市
   壁を破壊した。1815プロイセンは市壁や要塞を強化した。1873都市の拡大と交通量の
   増で、要塞の解体が始まり1887には殆ど解体が終わった。今でも市壁の一部が住
   宅や修道院の外壁を構成し残っている。1980-90市壁の一部を復元した。

3.塔  0門塔

   13cに10門あったが、今は2門が残っている。
 クニーパー Knieper Tor (1304) 最北の門で、南側に道路などが設けれれた。
   15c尖頭アーチ門の上に窓のある2階建ての低塔で構成された長方形の建物
   であり、内部扉を持っている。名前は13cの住民から来ている。
 キューター門 Kueter Tor (1446) 西側の門で、両側は建物で塞がれている。
   小さな開口部に2階建ての塔が乗っている。ランタンと急なヘルメットが付いている。

4.見所  A

   海峡と湖に取り囲まれた良港の交易で繁栄した。ゴシックの煉瓦建築はリューベック
   に習った。今は造船と漁業を営む北の寂しい港であるが、ハンザの遺産は多い。
 市庁舎 Rathaus (1784) ゴシックの大きく美しい煉瓦造の建物で、地階に
   商業活動の場所があり、上階には評議会場がある。6身廊の地下広間は町市場
   として使われ、屋台も置かれた。何世紀にわたって複数回の変更が行われ、
   1579の火災の後は管理事務所となり、1680瓦屋根に置き替えられた。市庁舎
   の中にはライオンホールと客室は一見の価値がある。
 カサリン修道院 Katharinen Kloster (13c) ドミニコ会のゴシックの修道院で、ほぼ昔のまま
   残された。1317に教会は長さ70m3身廊のホール教会で、14cに拡張再構築され、
   15cには天井画が描かれた。1525宗教改革で解散され、建物は町が所有し
   て学校・孤児院となり、1924から美術館・博物館になった。今は、文化
   歴史博物館と海洋水産博物館となっている。
 ヨハネ修道院 St.Johannis Kloster (1254) フラシスコ会の大修道院で、1525襲撃され宗教
   改革で町の所有となり救貧院となった。1624火事に遭い1651聖ヨハネ教会
   が献堂された。1625東棟は視聴障害者の施設に、1827西棟は貧民の子供の
   施設に、身廊は埋葬地になった。1944の爆撃で破壊された。
 精霊修道院 Heilgaist Kloster (15c) 東の市壁外に在る1256精霊修道院
   の隣りに、ゴシックの教会が建てられた。
 聖ヤコブ文化教会 Kultur Kirche St.Jakobi (1303) 初めの教会に1380礼拝堂の
   身廊を付け、14c控え壁、1680塔、塔と屋根を補修した。1856-68内外壁の
   補修、レンガや石の交換が行われた。1944爆撃で塔と屋根が破壊され1949-89
   に全体的に復元され、文化行事に使われる。
 聖マリア教区教会 Ev.PfarrKirche St.Marien (13c) 今の教会は1384の尖塔の崩壊
   から始まり、1418-73身廊に今の塔が建てられ、その後身廊・翼廊・内陣を改修
   し、1478塔は150mになった。この間94年を要して今の姿になった。1651落
   雷で塔と屋根が消失し補修したが、1805.1810仏軍占領で内部は荒廃した。
   1840-56初期のゴシックリバイバルで再建された。
 聖ニコライ教会 St.Nikolei Stralsund (1240) 今の後陣の建設は1330-37の年号が
   礼拝堂にある。1447南内陣礼拝堂を追加、1314-18西翼の建設、1366片塔は
   完成、1607火災で中世の尖塔は破壊後補修された。1891-1910内装改修。
 シーレの家 Scheel Haus (1350) 化学者と薬剤師から名付けられた。切妻付
   煉瓦造の2階建ての建物で、酸素の発見者は1742にこの家で生まれた。
 司令フスの家 Comandanter Hus (1749) 1815まで町を支配したスエーデン王国の本部
   としてバロック3階建で建てられた。所有者が変って今はカフェ・ギャレリィ・レストランである。
 ヴェルフラムの家 Wulflam Haus (1350) 中世の大切妻のある煉瓦造の建物で、市会
   議員ヴェルフラムが建てた。広間・倉庫・廊下があり、中庭には古くからビール醸造
   所があった。1991に復元が行われ、食堂・小劇場・貿易事務所を収容している。
 広間家 Dielem Haus (15c) 商人の荷物取扱いのゴシック切妻付2階建て広間で、
   1977-79に再建され、今は市民の結構式場である。
 船乗会社 Schiffer Compagnie (1488) 町の船乗り50人によって寄贈された切妻
   のある建物で、今は博物館として船乗りの写真・船の模型・お土産がある。
 独海洋博物館 Deutsche Meeres Museum (1951) 海洋博物館・海洋水産博物館・
   水族館から成る自然史博物館は1972カサリン修道院に開設され、海水30万リッター魅
   力ある博物館である。
 独海洋博物館 Deutsches Meeres Museum Ozeaneum (2008) 港に独最大の展示場
   を建てた。バルト海はロックと40の水槽で、水中の旅を表現し、水族館は北海と北
   極海の生息物を示し、大プールで熱帯や寒帯を表現し、世界の海・生命に多様性・
   海の開発を展示し、レプリカでは26mのシロナガスクジラやマッコウクジラが見られる。
 文化歴史博物館 Kultur Historisches Museum (1858) 美術協会が開設し、スエーデン
   総督アクレル・ルバン侯爵の寄贈品が基礎となり、1924に旧ドミニコ修道院に収容さ
   れ拡張された。
 記憶博物館 Museum Speicher (19c) 文化史博物館の分館で6階建ての建物に収容
   されている。地域民族の伝統的実用的な家具・家庭用品・おもちゃを展示。

5.写真

市庁舎 ヴルフラムハウス
クニーパー門 北西壁
北西壁 西壁

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ウゼドム Usedom MV15

 

1.歴史

 10C 今の城山にスラブの城集落があった、  1115-19 デンマーク王ニールスは城を破壊、
 1128 ヴェンド族の侯爵は武力で城を取った、  1140 ポメルン司教文書に城を言及、
 1159 城の再構築と町の市場都市計画、   1177.78 デンマーク王パルデマーが侵略、
 13c ポメルン侯爵は町に住居を持つ、     13c 独の東方拡大で植民地化された
 1240 村として、1267町として言及、 1298 侯爵ボギュラヴ4世はリューベック法を授与、
 1475.1688 町は大火で焼払れわれた     1648 条約でスエーデン・ポメルンに所属、
 1720 北方戦争で町はプロイセンに落ちた。

2.市壁  0.085km 0.01

   15Cの市壁は、町の北東に80mと西のアンクラム塔の南に5mが見られる。

3.塔  1門0塔

 アンクラム門 Anklamer Tor (1450) 西門、4階建てレンガ造の角塔でアーチ門があり、寄棟
   屋根が付いている。正面は石膏パネルで飾られ、外側には落し格子の溝がある。
   塔には、初期の生活展示・地元画家と写真家の展示がある。

4.見所  D

   北西のポーランド国境の島にある小さな町で、13cのアンカム門・旧市庁舎・マリア
  教会が残るしい町である。
 町庁舎 Rathaus マルクトに簡素な2階建ての建物がある。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1337) 第3の教会として建てられ、唯一現存する教会
   である。1475大火災で破壊され、15cの本堂北壁・塔の基部・身廊の窓は残されて
   いる。3廊煉瓦造ホール教会で、塔と東側に階段切妻付けられ、身廊は水平木製天
   井である。塔は八角形のピラミットヘルメットは1673に付けられ、1699煉瓦の横アーチが崩
   壊した。大規模改修は1726-43に行われ、1891-93に今の形への修復が行われた。
   4つの鐘は1639に、オルガンは1904に付けられた。
 元司教館 Ehme.Pfarr Haus 木組みの家で、教会西入口の向かいに立つ。

5.写真

市庁舎 アンクラム門
東壁 北東壁

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ヴァーレン Waren(Mueritz) MV16

1.歴史

 1260 入植者の村を今のAltenMarktに設立、  1273 ゲオルグ教会と旧市庁舎の言及、
 1292 町は都市権を授与され1331小都市に   1325 新マルクトで町は拡大し市壁建設、
 1366 町はミューリッツの漁業権を獲得、      1347-1425ヴァール家の傍系の宮殿建設、
 1568.1637.1671.1673.1699 町の火災と30年戦争で、町は大打撃を受けた、
 1791-97 新マルクトの市庁舎は今の姿になる、     1806 仏軍との戦いに負けた。
 1798-1803.1831-37 エルデ運河開設、    1831-37 ボルダー運河開設で町は栄えた、

2.市壁  0.175km  0.12

   14cの市壁は、北GrosseMauer Str.に105mと南Kl.Mauer Str.に70mが、一部更新
  れて見られる。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   湖の北岸丘の上に旧市街がひろがる中都市である。坂の道に古い建物が並び
  マルクトは賑やかである。復元された木組の家もあり北側の公園には市壁も残る。
 旧市庁舎 ALtes Rathaus (13c) 旧マルクトの北東の角にあり、14cの2階建て煉瓦造の璧
   厚1.0mの建物が今に残る。
 新市庁舎 Neues Rathaus (1797) 今はチューダーゴシックの3階建ての建物で、市立博物館
   として使われている。1988に改築されて石膏ランプが提供された。建物の南側
   には1920一揆の銃弾穴が残る。今は登記所・市立博物館・展示会場・美術協会画
   廊がある。市博物館の上階には、町と市民の歴史と生活の常設展示がある。
   2012の初夏には姉妹都市「佐賀」の習字・版画・絵画が展示された。
 客の家 Haus des Gastes (18c) 古い木組みの大きな建物で、著名な市民が住ん
   でいた。1866-99市長・薬剤師が住み、今は市の観光案内所を収容し宿泊施設も
   持っている。
 聖ゲオルグ教会 St.Georgen Kirche (13c) 商人や職人のための古い煉瓦造バジリカの教
   会で、何度も改造され19cネオゴシックの内装となった。1699の火災で大被害となり、
   身廊は再建され窓は興味深い。1857オルガン設置。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (14c) 野石造りの身廊と後陣で構成され、野石の後陣
   にはロマネスクの窓スリットが1225の礼拝堂の跡を示している。ゴシック3身廊煉瓦造の身
   廊は長方形である。塔は高さ54mで176段の階段で登れる。1790-92火災後再建
   された。中には、1530キリスト十字架絵画・1820オルガンがある。
 ミュリツオイム Mueritzeun ユニークな外観と形状の水族館で、独最大の淡水魚を収容する。
   HerrenSeeのほとりに古代の現代の自然史を展示し、魚のコレクションは美しさと自
   然の驚異を示す。
 海軍軍事史博物館 Militaerhistorisches Mrine Museum 古い制服・メタル・文書・海軍
   の名誉等1千点の展示があり、1860-1945の様々な物件もある。

5.写真

新市庁舎 来客の宿
南壁 北壁
北壁 聖ゲオルク教会

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ヴィスマール Wismar MV17

1.歴史

 1229 初文書言及、         1257 メクレンブルク侯爵ヨハンは住居移転、
 1259 貿易ルート確保のためハンザ同盟加入、1276 5門・36ヴィークハウスの市壁を建設、
 1358 ヴィスマールは宮廷都市となった、  1380 海賊クラウスの裁判記録、
 1524-25 宗教改革の導入        1553-55 ルネッサンスの王子裁判所を建設、
 1632 スエーデン軍の侵攻、        1648 オスナブリュック和平でスエーデン領へ、
 1653 スエーデンは王立最高裁判所を設立  1672-00 ヨーロッパ最大の要塞へ拡張、
 1700 火薬塔の爆発後に武器庫を建設、 1717 デンマークは要塞・砦を全壊した、
 1757 プロイセン軍が町を征服、      1803 メクレンブルク大公国へ、
 1903 スエーデン王国は100年質権を返還し退出、1945 二次大戦の空爆で被害。

2.市壁  0.23km 0.06

  1276の市壁は、5門・36Wiekhaeuserを装備した。ヴィークハウスとは、市壁の内側
  から壁上に木製の構築物を乗せて、居住させながら見張り・防備を行わせた。
  今残されているのは、WasserTor付近に僅か0.23kmである。1869市壁の撤去。

3.塔  1門1塔

   市壁の外側には堀を巡らせていたので、市壁門から堀を渡る橋の外側に
   前門が置かれ、側面も壁で守られていた。
 水門 WasserTor (1450) 5市門の内、港の門として唯一残った。アーチ門
   上に屋根付の正方形の塔が乗っている。1600に改造された3つの床には、狭
   い明り取りの開口部がある。前面には階段切妻に白い6本の帯が見られる。
 古水塔 AlterWasserTurm (1685) 防衛塔を改造して給水塔に転用し、
   馬力駆動のプラントとして圧送した。1715に包囲され、木管を結び付けて送水
   した。1897からネオゴシック四角塔になった。

4.見所  A

   ハンザ同盟都市として繁栄したが、30年戦争で衰退し、1648-1803和平後
   スエーデンの支配下に置かれた。19c末にようやく貿易や工業化が進められ、
   復興期迎えた。旧市街の至る所に修復されて人目を引く建物があるが、修
   復を待つ建物もある。2002ユネスコの世界遺産に登録された。
 市庁舎 Rathaus (1817日-19) 古いゴシックの建物の左翼が崩壊し、新古典
   様式で長い2階建の白い庁舎が建設された。
 市庁舎地下 RathausKeller (19c) 市庁舎の地下に、市の歴史の常設展示
   がある。
 マルクト広場 Markt Platz () 北ドイツ最大規模100×180mの大広場で、オランダ
   ルネッサンス1602の噴水が見られる。広場を取り巻く切妻の家々の建築年次
   ・様式は様々である。
 カールシュタット本部 Karstadt (1811) 市庁舎の裏にデパート・カールシュタットの本部が設立
   され、今の建物は1908に建てられ、1931に再建られた。歴史的階段と
   小博物館は一見の価値がある。
 老スエーデン Alter Schwere (1890) 最も古い市民の家で、ゴシック赤レンガ
   の建物で、今はレストラン。
 聖母マリア教会の塔 Marien Kirche Turm (19c) 巨大な3身廊の教会は、二次
   大戦で損傷し、本堂は1960に爆破され、高さ80mの西塔1450のみ残され
   た。仕掛け時計は、12.15.18.時に鳴らされる。
 聖ゲオルク教会 St.Georgen Kirche (1290-15c) 旧市街地の南西部に後期ゴシック
   のドイツ北部レンガ造の巨大な身廊と翼廊の教区教会であった。二次大戦の
   空爆で大破し、再建は東西ドイツ統一後になり2010に予備的完成した。
   西塔の展望所には、リフトで登れる。
 聖ニコラウス教会 St.Nikolai Kirche (1381-1487) 船員と漁師のバジカとして人工
   水路に3連の大聖堂を建てた。レンガゴシックの中央身廊は37mと高い。
   破壊された2つの教会から調度が集められ、バロックの内装に13c洗礼室、
   16c祭壇がある。今はプロテスタントの教区が使用している。
 聖霊教会 Heilige Geist Kirche (14c) ゴシックの長方形ホール教会。古い部分
   も含め15cに今の姿になった。天井は木製で1687バロックの天井画が旧約
   聖書から描かれた。病院と老人ホームを併設した。
 助祭の家 Archidiaknat (1450) レンガゴシックの建物は、二次大戦で壊され北
   側切妻と豊かな構造で再構築された。
 領主の居城 Fuerstenhof (16c) メクレンブルク侯爵家の居城で、二つの直交した翼
   で構成されている。古い西翼は1512-13にゴシックで建てられ、1553-55に
   新翼はイタリアルネッサンスで豊かな石灰彫刻やテラコッタで飾られた。1648スエーデン領と
   なり、裁判所が置かれた。1653-1802はスエーデン北ドイツ最高裁判所であり、
   今は地方裁判所になっている。
 武器庫 Zeughaus (1700) 古い武器庫が落雷で爆発した後に、スエーデンは新しい
   武器庫をバロックで建てた。二重支持材構造で60×15mの床は支持された。
 ワイン園 Zum Weinberg (1575) ワイン商人が1648以降使用した、塗装天井の梁に
   1648の年号がある。ブドウ園ホールは面白い。

5.写真

市庁舎 マルクト広場

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ヴィッテンブルク Wittenburg MV18

1.歴史

 1150 ザクセン貴族は城を築いて入植者を守った、1201 ヴィッテンブルクが戦勝した、
 1226 皇帝フリードリッヒ2世は取引を自由化、 1230都市権を与えられた、
 1282 ヴィッテンブルク郡庁となり、侯爵の下に70年間貿易の全盛期となり要塞も構築、
 1319 自治体憲章を制定。       1358 メクレンブルク侯爵に町は買収された、
 16c 鉄の精錬と加工の産業を興した、 1629-30 疾病の蔓延と30年戦争の略奪、
 1642 クロアチア人が来襲し定住した、   1657.1679.1726 町を大火災が襲った、
 1735 町はブラウンシュバイク公国リューネブルクと誓約し、リューネブルク占領軍は33年間留った、
 1768 こ町の部分は百万ターラで買い戻された、1806ナポレオンの占領で苦しんだ、
 19c 町は技術の進歩で産業を振興、、 1945 米英軍に降伏後 赤軍が占領。

2.市壁  0.26km 0.13

  13-14cの市壁と城壁は一部に残り、土堤はしっかり残っている。
  北側に40+20m、南東に110m、役所山の下に70m、合計260mが残る。

3.塔  0門4塔

 門塔跡 TorTurm Ruine (14c) Amtsbergの四角い門塔は、1998に野石
   の上にレンガ造で復元された。見張り階の上には平屋根がある。
 空腹塔 Hunger Turm (13c) 西南、煉瓦造の円塔で監獄として使われた。
  Turm 南 4階建て煉瓦造角塔。
  Turm 北東隅、3階建て煉瓦造角塔。

4.見所  D

   広大な緑の中の旧農業の小さな町で、マルクトは異なる世紀の建物で囲まれ
   チューダーゴシックの市庁舎がある。南にはオランダ風車が復元木骨納屋(レストラン)
   と共にある。
 市庁舎 Rathaus (1852-53) 両側に角塔のある3階建ての表階段のある建
   物で、1996に改修された。
 聖バーシロミュー教会 Kirche St.Baetholomuehle (1240) 初期ゴシックの煉瓦造
   3廊ホール教会で、後陣は一つである。1909に67mの塔が西正面に置かれた。
   中には、1342青銅の洗礼盤・1666木製説教壇と墓銘板がある。
 オランダ風水車 Erdhollander Windmuekle (1890) 焼けた工場の基礎の上に
   再建された水車である。隣に復元された木骨納屋はレストランになっている。
 役所山博物館 Museum auf den Amtsberg (1848) ヴィッテンブルク役所の位置
   に、新古典の建物に小麦粉の袋博物館がある。110か国1600年からの
   小麦粉の袋が提供され、1990から展示されている。隣にはヴィッテンブルク
   博物館があり、町の歴史・古い習慣や伝統を展示している。

5.写真

市庁舎 門塔
空腹塔
西壁 西壁
北東壁 聖バートロメ教会

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ヴォルデク Woldegk MV19

1.歴史

 1236-50 入植地の基盤が置かれた、1271 町の紋章にブランデンブルクが付く、
 1292 結婚でメクレンブルク領になった、  1298 町は市民権を与えられた、
 14c 楕円形の町は3二重門・壁塔・Wiekhaeuseren・土堤・堀のある市壁を野石で築く、
 1587 風車を製粉のため設置、1635に4基、1745に追加して7基、1859-93置換か除去、
 1701 町はメクレンブルク・シュトレリッツ公国に帰属、 1763 正方形中央に市庁舎は在った、
 1945 2次大戦で町の70%が破壊された。

2.市壁  1.25km 0.82

   1260-70 市壁は、1305石壁に置換えた、1761七年戦争で一部破損、
   1830-50市壁の再建、1990-95市壁の体系的補修、約700mは改修されて1.25kmが
   残っている。

3.塔  0門0塔

  見当たらない。

4.見所  D

  市内に6風車があり、内3基はカフェや博物館となって見学できる。市壁は復元さ
  れて歴史的な町を取り巻いている。
 聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1250) 北独風の野面石のゴシック教会であり、
   本堂北の塔基礎・聖歌隊・花崗岩の入口は石造で現存する。1442には煉瓦造3身廊
   ホール教会で再建された。1901-02徹底的に改修だれた。1945戦災で破壊され、1954
   簡素化された天井と塔で礼拝に使われた。2006-07に床・天井・塔が改修され、塔
   頂は銅版で覆われた。
 元税関 Zollhaus Goehron (1866) ブランデンブルクとメクレンブルクの国境に税関と
   して構築された。1945住宅・事務所・郵便局として使われ、1980保育所になった。
   2006町が購入し改装して、展示場と記念館となった。

5.写真

聖ペトリ教会 北西壁
北壁 東南壁
南壁

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各町の歴史と見所

 表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。

④ ブランデンブルク州 BR

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アルトランツベルク Altlantsberg BR1

 

1.歴史

 13c ヴィッテンの辺境伯に属し城建設、 1239-45 テルトヴ戦争で町はブランデェンブルクへ、
 14c 市壁で町は守られた、      1335 ヴィッテルスバッハ家の方伯は修道院を寄付、
 1400 市場町に、1409 騎士団が所在、 1421 ブランデンブルク選帝侯は市場権を授与、
 1432 フス派の攻撃で町は焼失、     1537 町は大火事で市庁舎の書類は焼失、
 1550.1566.1598 町に疫病が蔓延、   1632 30年戦争で町は焼失し荒廃、
 1654 シュベリーン大統領が城と町を取得、 1684 大火事で町の90%が破壊された、
 17c 衣服・靴・パン・肉・車輪のギルド結成 1708 フレデリック1世は町を買い宮殿建設、
 1737 大火事で大被害、        1945 第2次大戦で赤軍が無血占領。

 

2.市壁  1.25km 0.84

 14cの市壁は、長さ1.3km高さ5mで円塔があり、何世紀にわたって補修更新された。
  17cからは北側が部分的に市壁は公園へ変化した。

3.門塔  2門0塔

 ベルリン門 Berliner Tor (13c) 高さ18m石造正方形の角塔でピラミット屋根。
 シュトラウスベルク門 Strausberg Tor (13c) 高さ22m正方形の塔、1825刑務所と
    して使われ、1897から塔頂でコウノトリが営巣している。1947市紋章が付いた。

4.見所 C

  18-19cは農耕地であったため、多くの旧農家のある建物が支配している。1992以
  降広範囲に再開発されている。
 市庁舎 Rathaus (1910-12) 初めのルネッサンス3階建の建物は、刑務所のある地方
   裁判所として建てられ、1956から市庁舎として使われた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 3連石造の教会は要塞化された教会とし
   て建設された。16c初に、鐘楼・聖具庫・屋根がゴシックで再構築された。1720次に時計
   塔が付けられ、1772ピラミット屋根となった。
 新教宮殿教会 Ev.Schloss Kirche (1765-68) 1757に焼失し、バロックの南西部
   の基礎の上に宮殿教会が再建され、1971まで新教の教区が使用した。1802南塔が
   付けられ、2013-14バロックで修復された建物は、文化的な行事に使われている。
 宮殿 Schloss Gelande (1882) 宮殿広場の隣の邸宅は、元王室ハインリッヒ・シラダー
   の居所として建てられた。1945以降は幼稚園や文化の家であった。1962-90はLPG
   管理所となり、2005徹底的な改修の後、城の地下遺跡と共に文化の中心となった。
   1629からのビール醸造した醸造所と1772からのシナップス焼成所は、2016に復元された。
 納屋地区 Scheuen Virtel (17c) 1684の火災後に、市街地から全ての納屋を
   追放して、東側にまとめて納屋地区を設けた。19cの更なる火災の後は構造を強化
   して、レンガ造のタイル屋根となった。
 旧貧困者寮 Armenhaus(1830)シュトラウスベルク門の近くに貧困者寮は、今は歴史
   的な雰囲気のレストランになっている。

5.写真

マルクト シュトラウsyベルク門
ベルリン門 東壁

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アンガーミュンデ Angermuende BR2

1.歴史

 1210 最初の石のSt.Marien教会建設、1230 ブランデンブルクは四角い町に市壁構築、
 1245-50 フランシスコ会修道院の建設、   1254 辺境伯オットー3世は町の憲章を授与、
 1263 町はステーテンの文書に初言及、   1333 辺境伯バルデマーは領海の使用権を授与、
 1420 ブランデンブルクはポメラニアに勝つ、  1817 町は郡庁所在地になった、、
 1945 第2次大戦で赤軍が無血占領。

2.市壁  0.66km 0.25

14cの市壁は最大4mの高さで野石の上に煉瓦積を基本として、2.7kmを構築した。
  19cの防衛機能を失い、町の拡張に伴って撤去され、4か所に残るのみとなった。外側
  の土堤と水の障害はない。

3.塔  0門1塔

  13cの市壁には、4門・34Wiekhaeuser・火薬塔で守られていた。4門は全て撤去され
  火薬塔のみ残された。
 火薬塔 Pulver turm (13c) 南壁中の円塔で見張り塔として使われ、18c監獄
   となり、19c商人倉庫・火薬貯蔵庫としても使われた。高さ21mの5階建で
   1850からコウノトリの巣が掛けられ雛が育っている。
 Berlinger門 (13c) 南の二重門として在ったが、1840に交通障害で取り
    壊された。1857-79旧市門の基礎には、鷲の目印が置かれた。
 Preuzlauer門 (13c) 北の三重門は1828に取壊された。1897門の目印も失う
 Schwadter門 (13c) 東の二重門は1845に取壊された。1916目印も失う。
 See門 (13c) 北の小さな門だったが、1827に取壊され鹿の頭と銘板を置く。

4.見所 B

  自然と風景の旧農村の町の魅力を保持している。歴史的な中心部には、バロックの
  市庁舎・中世の教会や多くの古い木組みの家があり、南に市壁も残る。
 市庁舎 Rathaus (1292) 初めに町評議会があり、1562市庁舎が言及された。2階
   建ての建物は1711-12に拡張が行われ、1828重々しい木組の家が建てられた。
   1923-24両側翼を増築して今の姿になった。1992-99に外観を保ち改修を行った。
 聖マーチン教会 St.Martins Kirche (1854) マーチン広場に皇帝フリードリイヒ・ヴィルヘルム
   3世は1822ルター派定義書を定め、1854町の教区はマーチン教会を塔なしで建てた。
 マリア昇天教区教会 Kirche Maria Himmelfahrt (1894) その時代の普通の歴史的様式
   で建てられた。その時点で町には既に50以上の独立教区があり、礼拝は私的
   な部屋で行われなければならなかったため、新教会が求められた。
修道院教会 Kloster Kirche (13c) 最初の簡素な野石の広間教会は、1450煉瓦造
   ハレン教会に拡張・改造され、1802円天井に崩壊の危機で外された。托鉢会修道院
   はゴシックの教会以外は残っていない。1837建物を廃墟として守ることを決めた。
   今は、壁画が残され、文化的な出会いの場である。
 聖マリア教会 St.Marien Kiche (13c) 初めの花崗岩の切石はあちこちに残され今日
   の教会には後期ゴシックの多角形の後陣と1470北玄関ホールが加えられた。塔は53m
   の正方形であったが今はない。1977-79と2003-6に改修されている。
 精霊礼拝堂 Heilig Geist Kapelle(1363)昔病院が隣にあったが30年戦争で壊さ
   れ、1698王フリードリッヒ1世は残った教会を補修して移住したユグノー教徒に渡した。
 城跡・宮殿壁 BurgRuine SchlossWall (13c) 1230城は町を防御、1420ポメルンとの
   軍事紛争は続く、1481選帝侯ヨハンは城のそばに鋳造所を建て、1550城は衰退し、
   1775見捨てられ、石材は建築に使った。1899-1900麦芽製造工場が建てられた。
 木組み民家 FachwerkHaus
   Markt21 (1764) 市庁舎の向かいの角にあり、1705.1731の火災の跡1764に建てられた
    美しい木組みの民家である。入口の扉・木製梁天井・垂木屋根に特徴がある。
    1995-97改修され、今は住宅として使われる。
   Markt23 (1712) 30年戦争でヴァーレンスタイン将軍が滞在したが、その家は残っていない。
    今の2階建の家は、元の住宅に似せて建てられた町で最古の建物である。手工業者
    と商人が入居した。1724靴屋の親方・1845garasu屋親方・1858商人・1909錠前屋の親
    方など。1995-96新所有者が建物を更新した。今は商店として使われている。
   HohersteinWeg16 (1695) 切妻のある中世の木組みの家で、町で唯一残された板張り
    の家。
   RosenStr.2 (1705) 美しい多層の木組みの家で、1705の火事の後に建てられ、後で。
    車庫と2床の貯蔵庫が増築された。

5.写真

市庁舎 火薬塔
南西壁 南壁
東北壁 西北壁
マリア教会 精霊礼拝堂

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ベースコウ Beeskow BR3

1.歴史

 13c ストレーレの騎士は最初の領主であった、 1316 城・都市計画・市壁を作成、
 14-15c 下ラウジックの中心で関税で栄えた、町は後期中世に複数の所有者に渡った、
 14c末 再度ポメラニア侯爵の領土となった、 1518 町はレブス司教の所有となった、
 1556 王はブランデンブルク辺境伯に授けた、 1600 町の全体がブランデンブルク領となった
 16-17c 2つの大火災で町は壊滅したが 再建後に全盛期となった、
 19c 織物・麻布・ビールの交易で発展、   1945 赤軍の爆撃と砲撃に遭った。

2.市壁  0.87km 0.46

  1450の市壁は、北・西・南に残っている。防衛施設として水を引いた堀があり、
  土堤は西と南に識別できる。2011全面的な修復を終えた。

3.塔  0門6塔

  跳ね橋や関税事務所のある中世の3市門は、すべて失われた。
 火薬塔 Pulver Turm (15c) 東南、名前は火薬庫や町の武器庫で使われた
   ため名付けられた。
 乾燥塔 Darr Turm (15c) 南東の角の守りを固め、壁厚は1.25mと強固である。
   名前は、塔が麦芽乾燥室として使われたためで、昔ビール醸造所は多かった。
 ルッカウ塔 Luckauer Turm (15c) 南、デブ塔とも呼ばれ、町の防御で最大の
   24mもある。塔通路は1906に初めて取り付けられた。塔は市民の物置や守備隊
   に使用された。
 鋳造塔/em> Muenz Turm (15c) 西、名前は町の鋳造権時代から来ていて、原料
   や道具が中世から保管されている。1910まで監獄としても使われた。
 コウノトリ塔 Storchen Turm (15c) 北西角、コウノトリは1970には戻って来なかった。
 ネズミ塔 Mause Tur (15c) 北、他の円塔と違って八角塔で、穀物倉庫と
   して使われた。弓矢のための垂直の隙間とクロスボウのための水平の隙間がある。

4.見所 C

   町の東の城が交易路を守るために置かれ、小さな市街地は西に市壁に囲まれ
   四角形に造られ、中心のマルクトには簡素な市庁舎と木組みの家が残っている。
 市庁舎 Rathaus (17c) 正面に小切妻のある2階建建物で、マルクトの西に立つ。
 ベースコウ城 Burg Beeskow (1272) ストレーレ領主シュトルコウは小さな城を造った。1377
   -82ビーバー・スタインの貴族に移り、1518レイブス司教が城を取得し大規模な補修・増築
   を行った。1575ブランデンブルク選帝侯が引き継ぎ、城は管理棟となった。1915市が
   取得し行政に使用した。1945戦災で焼かれたが、城を保持し避難所などに使った。
   1991城は文化の中心として、城や木造農場への展示・催物や博物館の設置。
 聖マリア教会 St.Marien kirche(1370-80)ブランデンブルク最大の煉瓦造のゴ゙シック
   教会である。初めは4身廊のホール教会で1511の塔で完成した。1933に改修が行われ
   たが、1945砲撃で塔と屋根崩壊し、一時的に1965南廊を奉献し1997に完成した。
 最も古い家 Altestes Haus Beeskow (1487) 東部ブランデンブルクで最古の2階建
   木組みの家である。この店舗は1512.1513火災の後に住居に改造された。地階に丸
   太の部屋と暗い台所、上階に寝室がある。1983には住人がいた。今の家の寸法は
   長さ10.2m幅5.3nに伸びて1995から公開されている。
 古い学校 Alte Schhle(1714)王フリードリッヒ・ウイリアム1世による新建築として建
   てられ、1862まで学校として使われた。その後住居となり、5家族が住んだ。
   2011修繕して、若者のための出会の場となった。
 僧宿 MoenchsHerberge 南の市壁に直結した大きな建物は。中世から祭りの
   家であった。口伝では僧宿と言われる。。
 銅鍛冶屋 Kupfer Schmiede 元の銅鍛冶屋の建物に町の図書館と公文書館が
   設立された。2000に近代的な図書館が歴史的な前面の後ろに建った。

5.写真

市庁舎 ルッカウアー塔
乾燥塔 火薬塔
ネズミ塔 南東壁
北東壁 北西壁
東壁

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ベルナウ Bernau bei Belin BR4

1.歴史

 1140 アルブレヒト・ベアが狩りで発見の伝説、   1232 町の創設の伝え、
 1292 最初の文書言及、学長が王子の婚礼の立会人、14c 防備権を得て3門・市壁・堀、
 14-15c 選帝侯フリードリッヒ1世は町に醸造権を与え、町には146のビール醸造所があった。
 1406 火事で藁屋根と木造家屋は全焼、    1483.1486 にも火災で町は大被害、
 1432 フス軍は町を包囲した、1539 住民は殆どルター派となった、1597-1638ペスト流行、
 1617-21 魔女狩りで16人を処刑、       1651 地方裁判所の開設、
 1627-1632 30年戦争で略奪と破壊、人口は1/4、1698鷲薬局にフリードリッヒ1世が特権付与
 1699 ブランデンブルク勅令でユグノー教徒が仏から移住、 1713 帝国郵便局を開設、
 1879 皇室の地方裁判所が置かれ1902まであった。

2.市壁  1.45km 0.91

  13-14cの市壁は、長さ450m高さ2.5m厚さ1.5mで、3門・2円塔・42WieckHaeuser・
   堀・土堤が置かれ、1402ポメラニア・1432フス軍の包囲に対抗した。17cには軍事的意義を
   失い堀や壁は貸与され、19cには緑地にされた。
    Wiekhaeuser(Lughaeuser)は半円型4・四角型38木製の防御家を外壁に建て、
   射撃の銃眼を有し、石や煮え湯を投下して戦った。

3.塔  1門1塔

 石門 Stein Tor (13-14c) 東、3門の内唯一残った門、元は3塔の複合施設
    で2防御塔と接続し、その高さ28mの監獄塔には深さ8mの監獄があった。1751塔は
    バロック屋根を持った。1882郷土博物館が収容し、刑務所跡・武器・職人生活を展示。
  ベルリン門 Berliner Tor (1223) 西、ベルリーナ通の舗装に門の位置が印が表示
     されている。前門の木材の日付で建設年が判明。18c末に荒廃し撤去された。
 火薬塔 Pulver Trum (13c) 高さ28cの見張り円塔で入口は階段の上にあり、
    17c土堤が崩されて雄牛が放牧され、雄牛塔と呼ばれ後に火薬が置かれた。

4.見所 B

   町はベルリンの北東10kmにある丘の上の半円形の小さな町で、30年戦争で壊され
   たがユグノー教徒を受け入れて産業を興し郡庁となって栄えた。木組みの家は1980年
   代に多くが建て替えられた。
 市庁舎 Rathaus (1805) 5番目の市庁舎として簡素な2階建古典的様式で建て
   られた。地方政府や裁判所としても使われた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1519) 初めのロマネスクに教会は野石造ゴシックに変
   えられ、4身廊の煉瓦造ハレン教会になった。今の建物は54.5×30mの大教会で、双塔
   は1846に高さ57.4mに置き換えられた。中には14cノマリア祭壇画が有名である。
 聖心教会 Herz Jesu Kirche (1907-08) ゴシック煉瓦造カトリック教会で、中には珍
   しい絵画がある。
 旧帝国郵便局 Altes Keiserliches Postamt(1904-06)電報・電話のある1等
   郵便局として建てられた。2階建ての角塔のあるコンクリート造の建物で、1993-94に改造
   されたが、数年後には使われなくなった。
 裁判所 Amtsgericht(1903)1809-1903hは裁判所は市庁舎にあり常に狭くて
   問題となり、ネオゴシック煉瓦造破風付2階建ての建物で、王室地区裁判所と相対した。
   それで市政と地方裁判所との長年の紛争は解決した。2003裁判所を拡張した。
 旧学校 Alte Schule (1879)新しい学校建築による3階建ての建物で、小学校
   となり、1945-46ソ連軍の病院、1946高校と小学校、1980特殊学校となった。
 鷲薬局 Adler Apotheke (1755) 1698がら特権を持つ薬局を1722に買収して、
   薬局と材料貿易を行う建物を建てた。この家族は6代に亘って薬局を経営し、1900
   古くなった建物を新築し、1995には。包括的に復元した。
 歴史的ビール醸造所 Brau Keller (13c) 貯蓄銀行の建設時に、13cの民家の地
   下醸造所が発見され、新しい建物の中に埋め込まれた。13cには360の民家の内146
   の民家でビールが醸造されていた。そのビールは暗褐色の辛口で強く有名となった。
 市民の家 Buerger Haus (18c) 職人の家で1930にはチョコレート工場とコーヒー会社が
   あった。前面はアールヌーボーで中庭側は古い木組となっている。1997に復元され今は
   ギャラリィ・ベルナウと町の観光案内所になっている。
 木組みの家 Fachwerk Haus (16-18c) 20cの初めには、多くの木組の家もあり
   ブランデンブルクのローテンブルクと言われ、今も多くの木組の家が残る。
   in Brauer Str. (17c) ビール醸造や貴重な大麦汁の貯蔵に使われた、美しい木組
      のアーチ天井のワインセラーである。
   in der Breiten Str.(18c) 通り抜けの家で、中には厩屋や作業所があり、表の建
      物は木組みの複合住宅と商店である。
   in der Kirche Gasse (18c) 元は純粋な木製トラス構造の家で、1781オルガニストの職務
      室と助祭の住居であり、1883に拡大し説教師の職務室ともなった。1999個人
      の所有となり愛情を持って復元された。
   Henker haus (1650) 市壁を壁として2つの木組みの家が建てられ、19cまで死刑
      執行人が居住した。19cに拡張して長屋となり、1976解体の危機に在ったが
      郷土博物館の一部となって残り、1992-97に抜本的に再建された。
   kantor haus (1582-83) 現存最古の木組みの住宅棟は2つの小屋から成り何世紀
      も聖歌隊指揮者やオルガン奏者が住み、1981-83家は高価に復元された。
   Katzenellen Bogen (17-18c) 殆ど市壁につながるように木組みの家がある。古
      典的なヴィルムヘルム方式とアールヌーボの前面が特徴である。
 聖ゲオルグ病院 St.Georgen Hospital (1328) 町の綿布屋のギルトが建て、1432
   フス軍に壊された後15cに礼拝堂が再建され、1738病院が建てられ、1809大規模な切
   妻壁が付けられた。2002-05に包括的に改修された。
 ラテン語学校 Latein schule Haus (16c) 市内最古の校舎であり、0.65-0.90の
   壁のある大きな建物で、1990-96改修された。
 郷土博物館 heimat Museum
   Henker haus 1976から博物館の一部の展示。
   Stein tor 上段通路、武器庫、職人の生活と生産、監獄を展示。
   StadtArchiv 市立図書館と博物館の管理。
 ウルフ・カーレン美術館 Wolf Kahlen Museum インター・メディアアート美術館。芸術の遺跡。

5.写真

聖マリア教会 火薬塔
石門 南東壁
南東壁 北壁
東壁

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ブランデンブルク Brandenburg BR5

 

1.歴史

948 オットー1世による教区の初言及、  983 スラブ族は侵入して170年間支配、
 1150 城の近くにプレモントレ修道会が定住、1157 アルバート・ベアはブランデンブルク辺境伯へ、
 1165 プレモントレ修道会後に大聖堂を建設、1170 西旧市街地 1196東新市街地の言及、
 1314 ハンザ同盟に加入、        1474 町の権利と自由のシンボルのロウラント像立、
 1521 選帝侯ヨアヒム1世は州と首都を確認、1565 司教座聖堂参事会は世俗の財団へ、
 1618-48 30年戦争で人口は1/3に、   1715 王ウイリアム1世は二つの町を合併した、
 1806-08 仏軍の占領、     1816 特別地方都市の地位を失い西ハベルラント州へ、
 1945 3月の空襲と4月の戦闘で 産業の7割 家と橋の15%を失った。

2.市壁  1.66km 0.42

  14-15cの石造りの市壁は、堀と共に新旧二つの町をそれぞれ守った。30年戦争で
  市壁は壊されたが、税の導入で市壁の必要性を取戻した。19c初めに、交通量の増加
  で門や市壁は一部壊された。残るのは旧市街560m0.29と新市街1.100m0.56である。

3.塔  4門0塔

 石門 Stein Tor (1380) 新市街最大の南門で高さ28.5m璧厚2.3-3.5m径11m
   の円塔で塔頂には円錐帽子と胸壁がある。塔は見張りと監獄として使われた。1886
   .1925.1951.1965.1995と改修は繰返し行われた。1886歴史協会が塔内に展示する
   権利を1923まで使用し、今は博物館の分館として水路の水運と船舶の展示がある。
 風車門 Muehlen Tor (1411) 新市街の北門で、高さ24mの4階建で、煉瓦造の
   八角塔で、塔は監獄に使われ、入口は最上階の胸壁にあった。
 火薬門 Pulver Tor (15c) 旧市街の南門で高さ17mの丸い切株であった。
   1928-29塔には 今の姿の胸壁と小尖塔の外観となった。
 ローテノヴアー門 Rothenower Tor (14c) 旧市街の北東の門で、高さ28mの四角塔は
   2000屋根が付けられ改造された。塔の入口は壁上の防衛通路からであったが1910
   に付けられた。

4.見所  A

   旧市街・新市街・大聖堂の3つの島に、それぞれ歴史的な北独煉瓦ゴシックの建造物
  が建っている。1千年前からの教会・聖堂・市壁・門塔・ローラント像などが在る大きな町。
 旧市庁舎 Altestsedtische Rathaus (15c) ゴシックの煉瓦造の建物で、最初に
   参事会場と書記室が造られ、1470-80には塔のある主建物が建てられた。新旧市街
   合併の1715までは旧市街の中心であった。その後建物はコール天布工場・商品倉庫・市
   場・穀物倉庫を収容し、1819に拡大されて裁判所となった。1863売却され、衣服庫
   拘置室として使われた。1904荒廃して放棄されたが、1912今の姿で復元された。
   2006-07再改修され、市庁舎になった。
 ローラント像 Roland (1474) ブランデンブルクのローラントは中世特権の象徴として立つ。
   若々しい姿で高さ5.35mの砂岩造りの綺麗な人物像である。1716フリードリッヒ・ヴィルヘルム
   1世は新市庁舎の前に建てた。1945新市庁舎は戦災に遭ったが像は生き残り、旧市
   庁舎前に移された。
 聖ペーター・パウロ大聖堂 St.Peter und Paul Dom (13c) 初めはロマネスク2塔の十字
   ホール教会であり、15cに拡張・ゴシック化され、17c木造塔は石の塔に置換えられた。
   1705貴族学校を併設し、1871西翼に学校が建てられた。1836大規模な修復が行わ
   れ、1960多くの基礎杭が打たれて強化された。大聖堂博物館や修道院図書館には
   貴重な宝物や資料がある。
 聖カトリーナ教会 St.Katharinen Kirche (14c) 新市街の煉瓦造教区教会で、聖
   カタリーナと聖アマリベルガに捧げられた。1395野石の教会を壊して、1401塔高さ72.5m屋
   根高さ38mの大きな建物を建てカトリーナ教会とした。豊かな装飾が特徴で、南にシェッペ
   の礼拝堂がある。1582西塔が崩れ10年後に8角ドームで再建された。中には、1474祭
   壇画、1440八角形青銅洗礼盤。
 聖ゴットハルト教会 St.Gotthardt Kirche (1140) 旧市街の石造教区教会で、入
   植地のプレモンス僧のために建てられた。初めに司教座聖堂付参事会が使い、1165に
   ドーム島に移転された。15cに野石の建物は取り壊され、今の後期ゴシック3廊ハレン教会
   となった。1623織屋ギルドは砂岩の説教壇を寄贈し、1767塔頂はバロックの帽子にな
   った。1904包括的な改修で、煉瓦西入口・アーチの窓と壁を露出させた。
 聖パウリ教会 St.Pauri Kirche (14c) 戦災で破損した旧ドミニコ会修道院の聖
   パウリ教会が、2007に復元された。ゴシック3身廊石造教会で屋根の高さ17mで800m2の
   大空間で様々な用途に使われた。2008から考古学博物館として、ブランデンブルクの
   文化史を教会の歴史と共に展示されている。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1173) 初め煉瓦造3身廊バジリカで、商業団
   地の教会であった。旧市街と商業団地が合併して荒廃した。1467更新の後に宗教
   改革まで維持した。1712病院や捕虜収容所となり、1945戦災で塔や屋根が壊され
   修復されたが、1975には放棄された。1992三位一体カソリック教会の礼拝に使った。
 トリグラフ聖域と聖マリア教会 Triglaf-Heiligtum und St.Marien Kirche (13c)
   丘の上に聖域が在ったが、1136礼拝堂は撤退した。新たに聖マリア教会が建てられ
   1435-1557プレストレ修道院の礼拝堂も隣に建立。建物の遺跡は1722-24に撤去。
 聖ペトリ礼拝堂 St.Petri Kapelle (1849-51) 聖三位一体教会は、カトリックの教
   区教会・司祭館・教区ホール・幼稚園等の中心である。1945戦災で破壊され、1947-49
   簡素化して再建した。1972-73教会内部を改装した。
 聖ヤコブ礼拝堂 St.Jacobs Kapelle (1320) 後期ゴシックの煉瓦造礼拝堂で、聖
   ヤコブ病院の正面に位置していたが、道路の拡張で礼拝堂は西に11m移された。
 市立博物館 Stadt Museum  地域と都市の文化と歴史を展示。
 産業博物館 Indastrie Museum  1914-2000に使われた平炉をメンティナンスし・ケア
   し・プレゼンテェションしている。
 州立考古学博物館 Archaeologisches Landes Museum パウリ修道院の54年の長
   い文化の歴史とブランデンスルクの文化史を展示。
 フレイハウス美術館 Museum in Freyhaus (1723) バロック・マンサード屋根の木組と石造の
   建物で囲まれた石畳の中庭ある建物群は、ヴィルヘルム1世によって建てられ、歩兵連隊
   司令官が住んだ。た。1912にフレイハウスは玩具メーカーが買い取り歴史協会を収容し、1939
   には市立博物館になった。
 スラブ村 Slawen Dorf 568-1150のスラブ民族の歴史と文化を展示。11cの住居跡
   やスラブ板船の復元。
 東文物博物館 Ostalgie Museum 米国大使が集めた東ドイツ時代の文物を展示。
 トラム博物館 Strassen Bahn Museum 路面電車の歴史を展示。

5.写真

旧市庁舎 聖礼拝堂
石門・車博物館 火薬門
ローテノヴアー門 粉挽塔
南市壁・新市街 西市壁
東市壁・旧市街 南市壁
船着場

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カーラウ Calau BR6

1.歴史

  963 マルグラーヘ・ゲロはこの地域を征服、        970 マイセンの主教区に属した、
 1279 ヘンリィ・イスストリュスの文書に初言及、    1319-65イレブルク1370-1635ハプスブルクが所有、
 13c 町教会の前の建物が建てられた、   15c 飲料水を町に木製パイプで給水した、
 1565.1573 二つの大火事で町は荒廃、    1576 町の再建のため城の石材を転用、
 1635.1658 30年戦争で町は全焼した、            1815 プロイセンが占領、
 1892 産業革命で靴工場の稼働、          1945 赤軍が占領し略奪や放火。

2.市壁 0.02 (0.15)

   市壁は、リングの位置に高さ1.8m厚さ0.8mで囲んだ。1794周堀は埋められ公園に。

3.塔数 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   16-17cに大火事があり、その後の建物が殆どである。マルクトは3階建の石造の建物
  で囲まれ、東に幅広く緑の多いコトブッサー通りに特徴がある。
 旧市庁舎 AktesRathaus (1681)旧市庁舎は、30年戦争の火災後にバロックの簡素な建物と
   して建てられた。1879まで市庁舎として使われた。
 市庁舎 Rathaus (1879-1880)ネオルネッサンスの市庁舎は、石造2階建寄棟屋根でマルクトに建てら
   れ、二次大戦中に焼失し単純化された形で1946-48に再建された。正面右の
   階段で高い地階に上る。
 市教会 Stadt Kirche (13c) ゴシックレンガ造の教会で13cに始まり1400に完成した。1480に
   70mの高い単棟が置かれ、1480バロックのドームを追加した。1560北に延伸された。二
   次大戦で損傷し、戦後に再建され、1950に奉献された。4-10月には高さ37mの展望
   台に登れる。
 古い鍛冶屋 Alte Schmiiede (1840) レンガ造の鍛冶工場で、1939からは住宅となった。
   2003に競売に付されて、全般的に改修された。
 皇帝郵便局 Inperial Post (1896) コトブス門の外に、2階建レンガ造のポストが建てられた。
   1998郵便局は解散し、電気通信会社が使っている。
 校舎と町会館 Schlehaus und Stadthalle (1908) リンデン通りのプロテスタントの3階建の学校に
   は、古代からの神々の彫刻とアールヌーボーのレタリングがあり、1908に開校し2003に改修され
   た。1939に2階建の市公会堂が建てられ、2003には抜本的に改修され、文化的な行事
   が行われている。
 城の家 Burglehn haus (1316) 市長が1716この家を購入して大改修し。ドアアーチには1316の
   年号がある。古い四角い大きな2階建の建物には5つの面白い形の窓がある。
 ポスト距離標 Post Mairensaenle (1738) おそらくは距離標に似せた模造品で、交差点にあ
   ったものを、1977に道路工事で隣の郡の公園に移設された。
 浄水箱 Poehr Kosten () ヘレンハイトから町へ15cに8本のオーク材の水道管が敷設され、水が汲み上
   げられた。1884花崗岩の管に、1888鉄管に布設替えされた。浄水箱は不要となったが、
   市場と教会の2つの箱が貯水池として残された。

5.写真

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コトブス Cottbus BR7

1.歴史

 10c スラブの砦の跡にドイツの城があった、  1029-32 辺境伯コンラッド2世が町を占領、
 1156 町の文書言及、ヴィッテン伯の家臣が管理、1192-1445 フランク族の貴族が支配、
 12c 町に市庁舎・教会・市場を建設、   1216-25 都市権を授与され市壁の構築、
 1380-82 ペスト、1385布に加えビール出荷、   1405-06ギルド特権授与:縫製・肉・靴・パン、
 1455 ブランデンブルク選帝侯の支配下へ、1484.1499.1514.1521.1542.1544.1612.1637ペスト
 1501 ビール輸出・ウール市場開催権の確認、   1544 侯爵は居住要塞新築し重砲で守る、
 1600.1615.1671 大火災で壊滅し 5年間の税免除で 町と市壁を復興、
 1618-48 30年戦争の略奪で町は衰退、    1650 農民戦争で占拠され大損害、
 1701 ユグノー教徒の移住で養蚕・煙草・靴下起業、1724 町の経済拡大し1726市壁外へ拡張、
 1756 7年戦争の軍進駐で税を取られた、   1806 ナポレオン軍の占領 1813プロイセンに帰属、
 1825 城の再建、             1945 爆撃の被害を受けた。

2.市壁 0.54 0.31

   1718市壁は軍事的機能は失ったが、養蚕に使われた。1754市壁・土堤・堀・塔は
   まだ存在し、関税徴収のために1875までは残された。今は北と南に3割程度残る。

3.塔数 2門2塔

   リンデン門とWiekhaeuserは旧市街の位置を示し、鋳貨塔とスプレンベガー塔の間は、市
   壁の長辺1.2kmを示す。
 ザンドバー門 Sandower Tor (13c) 1754中世の塔は解体され、簡素化された。
 リンデン小門 Rinden Pforte (13c) 旧市街から新市街の市場に早く行けるように
   古い市壁塔に穴を開けた。
 鋳貨塔 Muenz Turm (13c) まず石の株構造があり、その上に木組の上部工が付け
    られ現存している。13cにはDuernの貴族が所有し、16cには市民の手に移った。
    1981には町が取得して復元された。
 スプレンベガー塔 Spremberger Turm (13c) 二つの塔のある3身廊のホール教会。

4.見所  C

  シュプレー川の左岸にあり、12cにフランドルの入植者、18cに仏ユグノー教徒の移住で町の産業
  が興った。旧市街地は、長方形の南西に三角形を付けた形で、マルクトを中心にゴシック煉瓦
  造の教会・市庁舎・民家等の建物が見られる。
 新市庁舎 Neues Rathaus (1934-36) 柱廊の上に古代の職人芸のレリーフがある。
   市庁舎の前にはオリンピックのメタル記念碑がある。
 城山 Schkoss Berg (10c) シュプレー川の西岸にあるスラブ要塞のあった城山に、城が建て
   られた。1301新しい城が古い城の領域外に建てられた。1877中世の城には高さ
   46mの塔が付けられた。今は裁判所として使われている。
 聖ニコライ上教会 OberKIrche St.Nikolai (15c) 後期ゴシック煉瓦造ホール教会の大教会で、
   中には、1644壮大な祭壇と説教壇・16-17c身廊と礼拝堂と墓碑銘があり、塔から
   の眺めは良い。音楽や演劇の催物が行われる。
 宮殿教会 Schloss Kirch (1705-14) 仏ユゴノー教徒が1701に定住し、仏改革派の教会を
   荒廃した聖キャサリンの敷地に、選帝侯ヴィルヘルム3世は建設権を与えた。1870ネオゴシックの
   塔がつけられ、1972今の内装になった。1974から待ち合わせの場所になっている。
 修道院教会 Kloster Kirche (14c) 町で最古の教会で、16cにゴシック煉瓦造の建物
   になった。ヴェンド語教会の証言との言われる。1998新教の教区教会になった。
 市博物館 Stadt Museum 今は市庁舎に市の博物館はある。
 市美術館と州図書館 StadtArtothek und LandBibliothek 現代美術の33の作品
   を州と市の図書館で提供している。
 ヴェンド語博物館 wendische Museum 1994古典的な装飾が復元された邸宅に開設
   され、ヴェンドの文化と歴史について16部屋に文学・芸術・音楽・衣装・生活習慣を展示。
 ブランデンブルク薬局博物館 Brandenburgisches Apotheken Museum 旧マルクトに400年
   あるライオン薬局に、1830の機器・薬剤・薬剤印刷・ガラス・帳簿・書類などが展示されている。
 ディーゼル発電所美術館 ElektrizitaetsWerk Museum 2008に煉瓦造の旧ディーゼル
   発電所に収容された。美術館には近代美術の23千点以上があり、ポスター芸術は有名。

5.写真

マルクト・上教会 鋳貨塔
サンドヴェア門 北東壁
北西壁 南壁
西壁

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ダーメ Dahme /Mark BR8

1.歴史

 1186 城区の中心地として初言及、マグデブルク大司教ビッヒマンは町を取得した、
 1150-1300 ベルリンの南にフラマン族が移住して、村や町を設立した、
 1265 町としての証書に鉄の壁と言及、 1638 プラハ和平で町はザクセン選帝侯に帰属、
 1456 王室所有地となり帝国裁判所設置、1486 フリードリッヒは辺境伯となった、
 1815 ウイーン会議でプロイセンの支配下になり、ブランデンブルク州に含まれた。

2.市壁  3.31km 0.73

  1265旧市街は湿原鉄と野石で築かれた市壁で囲まれ、それは鉄壁といわれた。
   北垣根の市壁は、2004-05に建て直された。

3.塔  0門1塔

 鳥門 Vogel Turm (13c) 西側の2塔の内で北の塔が残され、1563の大火災で
   大きく破損し、1892再建された。瀕死の石工を鳥が門塔の石を集めて助けたとの故
   事からこの名前が付けられた。

4.見所 C

  湿原鉄の鉄市壁も含め市壁は良く残っている。おとぎの城のような高塔のある煉
  瓦造の市庁舎は美しく、木組みの家屋も多く残り、KornSpeicherは大きな4階建ての
  倉庫で、昔のままに残っている。
 市庁舎 Rathaus (1893) ネオルネッサンスの装飾過多の切妻のある煉瓦造2階建ての建
   物で、高さ47mで119段の階段・時計・鐘楼のある円塔に特徴がある。
 宮殿跡 Schloss Ruine (12c) 水城の跡で、領主の中世の城を、1711-14中央
   に突起のあるバロックの宮殿に変換され、その後2つの翼が付けられた。1957廃墟とな
   って放棄され、1994-2008ドイツ記念物保護連合を通して補修され、今は結構式や催
   物に使われている。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 1666に何回かの火事で焼け、1670から
   バロックで再建された。1678オルガンを付けた。
 修道院教会 Kloster Kirche (1300) カルメル会の旧修道院は1732に老人ホームとな
   った。1923火災の後に教会となった。1999-2000外装は修復され、2011から展覧会
   や催物会場である。
 ヴィクトリア教団 Viktoria Stift (1894-1909)ヴィクトリア会は未亡人と孤児のため
   の2つの破風付2階建ての建物を建てた。
 侯爵穀物倉 Herzogliches Kornhaus (1724)木骨造3階建て巨大な建物で、
   農民の税の穀物を収容した。1813仏軍は捕虜3千人をここに収容した。
 町郷土博物館 Dahme Heimat Museum (1760) 木造の建物に1905に開設され、
   1978市博物館として、町の歴史を展示している。18c田舎の生活を習慣を含めて衣
   装・家具・工芸品を含めて展示している。
 マリア邸宅 Villa Maria (1900) 町で唯一のユーゲンスティールの建物。

5.写真

市庁舎 宮殿跡
侯爵穀物倉 鳥塔
北西壁 北壁
東壁 南壁

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フランクフルト オーダー Frankfurt a.d.Oder BR9

1.歴史

 1200 オーダー川の狭い所の中島に商人集落、  1225シレジア公爵は市場と町特権授与、
 1253 公爵ヨハン1世は都市法を町に授与、          1430 ハンザ同盟に参加、
 1432 フス派は修道院を焼いたが町は守られた、   1506 大学の開所式が行われた、
 1535 ハンザ同盟を脱退、           1626 30年戦争で人口1/6減と荒廃、
 1759 7年戦争でロシア・オーストリア軍は町を占領、        1759 プロイセン軍の敗退、
 1811 大学はベルリンへ去った           1816 行政区と控訴裁判所を設置、
 1944-45 空爆と赤軍の砲撃で町の93%を破壊。

2.市壁  0

   13cの市壁は川側とRennenParkに堀とともに設けられたが、今は見当たらない。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所 C

   オーデル川西南の1253からの旧ハンザ都市であり、復元された北ドイツ・レンガゴシックの復
  現された建物が町の歴史を示しているが、旧市街地は二次大戦終戦時の砲撃で全
  滅していた。
 市庁舎 Rathaus (1253) 北ドイツ・ゴシックで建設され、その後14cに2階建のデパートと裁判所
   を含めて南に建てられた。中世ニシン貿易の象徴として、1454から魚でゲ-ブルを飾った。
   1607-09イタリアの建築家によるルネッサンスの再建が行われた。1945の砲撃で大破し、われた。
   1949からの募金と1950の宝くじで資金を調達して、市庁舎の再建が行
   今は市政の他、若者芸術展示館を収容している。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche(1253)初めの教会は拡張され改良された。双塔は1450
   に4階以上に嵩上げされた。この教会は北ドイツ・ゴシック・レンガ造で最大の大きさ長さ
   77m幅45mである。1360-70キリストの生涯を表すステンドグラスが付けられた。戦時中はステ
   ンドグラスをポツダムのサンスーシー宮殿で保管し、戦後ベルリン→ザンクトペテルブルク→一部返還
   →モスクワ→残り返還され、2008に聖マリア教会に取り付けられた。1979から復元が行
   われ、1998身廊の修復が終わった。
 オーデルツルム Oder turm (1968-76) ブランデェンブルク州で最高の88.95mの建物で、鉄骨とコンクリ
   ート造の24階建のオフィスビルは、当初ホテル・テストラン・書店などが収容された。1992-94に完
   全に改装・再建され、4.5万m2のショッピングアーケードを含め、1300以上の職場がある町
   のランドマークとなった。
 オーデル川の橋 Odeer Bruecke (1253) 最初の橋は、ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世が木橋を
   かけた。1892巨大なアーチ橋が架けられ、木橋は1896に解体された。2次大戦後に鉄
   道橋と共に爆破され、木橋で応急復旧された。1951-72に友好の橋として開通し、
   新橋は21世紀の初めに完成した。
 聖ゲルトロウ教会 St.Ggertrau Kirche(15c)元ギルドのネオゴシック・レンガ造の教会は、19cに
   荒廃して取除けられ1877新築された。1879ザウアーオルガンが付けられた。
 フランシスコ会修道院教会 Franziskner Kloster Kirche(1270)フランシスコ会修道院の教会で、
   1516-25に3身廊ホール教会に拡張され大きな教会になった。
 平和教会 Freidens Kirche(1230)旧ニコレス教会とも呼ばれ、町で最古のホール教会で14c
   に廊下合唱団が付けられた。中世には本殿の丸天井と、南塔を建てた。
 聖十字架教会 HeiligKrenz Kirche(1897-99)カトリックの教会は1897に基石がが置かれ、
   1899奉献された。ネオゴシックの塔がある3身廊教会で4つの鐘が付けられ、1967再設計
   された。
 クライスト技術館 Kleist Museum(1969)旧守備隊の建物に、地元生まれの詩人ハイリッヒ・コライスト
   の生涯と作品が展示されている。2013クライストのための新しい家が発足し、その後
   現代美術館が置かれた。

5.写真

市庁舎 聖マリア教会
門塔・新宮殿 西壁
東壁

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フラウエンスタイン Freyenstein Wittstock BR10

1.歴史

1263 文書初言及       1287 メルレンブルク侯爵は旧市街を放棄して新市街を構築、
 1287 町は都市権・理事会・裁判権を同時に得た、 1309 辺境伯はヨハネ騎士団に授与、
 1332 最初の水城を言及、             1494 Rohr家は町を引受けた、
 1620 多額の負債を負ってRohr家は町を売却、   1652 大火とペストで人口は28人、
 1675.1701 スエーデン軍は町を占領、          1798 市民宣誓の完了で紛争、
 1866 プロイセン墺戦争、          1870-71 独仏戦争とドイツ帝国の創設、
 1907 市場通りの最初の舗装、          1939-45 2次大戦で被害。

2.市壁  0.32km 0.31

   市壁は消えそうで、崩れた野石がやっと残っている。

3.塔  1門0塔

 南門 Suedes Tor (13c) 4階建ての門塔が野石とレンガの入り混じった姿で新城と一
    体となって見られる。門塔のアーチは歩道となり、車は市壁を取り除いた西側を通
    っている。

4.見所 D

   小さな古い町の南入口の門塔と新宮殿の高い建物は圧迫感が強い。殆どの家の裏
  には農業の付属建物・厩屋・納屋・農家の庭があった。納屋は火災の危険性から郊外に
  移され、その他の多くは東ドイツ時代に壊され、たまにしか見られない。
 市庁舎 Rathaus (18c) マルクトに面して小切妻付小さな長さ10mぐらいの煉瓦造の建物で、
   見逃しそう。
 旧宮殿 Alte schloss (13c) 初めての水城は1332に言及があった。1556今の宮殿はRohr
   家により4階建て3翼宮殿を主として野石で造られた。1620にRohr家の負債のため
   WinterFeld家に売却した。1677には廃棄したが、流用され醸造所とブランディ酒場
   として使われ、1908と1914に階段塔と西翼が改修された。今は講義や朗読の場や、
   町の文化史・古い道具や衣類の展示場となっている。
 新宮殿 Neu Schloss (1287) 1287の破壊の後に再び旧市街のそばに建てられ1350にRohr
   家の所有となった。15cに既存の城に西に防衛てきな宮殿を建てた。1620にWint
   erfeld家の支部とされ、1659には宮殿を手放し1701に買い戻し、18c内装と前面
   の改修を始めた。1936-45Winterfeld家の最後の領主が2階に住んだ。大1次大戦
   後に避難民を収容し、第2次大戦では大きく破壊された。1976学校・1990靴下工
   場となった、今は図書館やクラブの部屋が収容されている。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche(1287-1326)何回も火災に遭い改修された後に、初期ゴ
   シック3廊の教会となった。内部には、1733.1773.1809のWinterfeld家の記念碑があ
   る。1812火災で鐘が溶解し修復したが、2次大戦に供出された。
 旧学校 Ehem.Schule 旧学校の中に、考古学公園の説明・学校の歴史・老人クラブ・医師
   の事務所がある。
 考古学公園 Archaeologisch Garten(1263)町の南西の丘に古い町が有ったが1287軍事
   紛争で破壊され放置された。発掘作業が行われて見取り図は得られ、更に詳細な
   調査が進められている。

5.写真

市庁舎 聖マリア教会
門塔・新宮殿 西壁
東壁

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グランゼー Gransee BR11

 

1.歴史

 1300 町は交易路の要点で整備、   1262 町は都市権と免税権を得た、
 14c 町に最初の市壁が築かれた、   1316 農民と職人が定住しメクレンブルクと争った、
 1319 評議会や憲法が証明された、   1541 フランシクコ修道院は改革で解散した、
 1604.1621 町は大火災と占領で被害、 1711 大火災後に新計画で再構築、
 18-19c 火災は有ったが中世の町は維持され、工業化も進んだ。

2.市壁  1.20km 0.81

  14cの市壁は北西部を除いて、殆ど残っている。

3.塔  1門1塔

 ルッピン門 Ruppin Tor (15c) 中世の正門とツインガーが残っている。町側前面
   切妻には後期ゴシック煉瓦造の豊かなパネルや網目の模様でか飾られている。
 火薬塔 Pulver turm (15c) 3階建て円塔で塔頂の尖塔は聖マリア教会に似ている。
   塔は近くの博物館の開館中は登れて、美し景色が見られる。

4.見所  C

   湖のそばの卵形の旧市街には、Kiekhauaerの跡のある市壁が多く残り、北ルッピンの
   堅固な町と言われる。ルッピン門は良く保存され、中心の聖メアリ教会は建築学上も注目
   される町最大の建物である。小さいがまとまった中世の町である。
 旧市庁舎 AltesRathaus (13c) 教会の反対側にあった旧市庁舎は1606と1621に
   焼け、1711に煉瓦造で再建された。
 新市庁舎 NeuesRathaus (1914-15) 道路の角に新しい市庁舎が2階建で建て
   られ、建築材料は旧市庁舎とフランシクコ会修道院の煉瓦が当てられた。行政需要の増大
   で、1914に隣接土地を購入して1924-25に拡張した。1999-2001大規模改装。
 聖マリア教会 St.Marie Kirche (1220) 初め双塔の大教会は、14c2番目の初期
   ゴシックの3廊煉瓦造の建物が野石の基礎の上に建てられた。西面は壮大な双塔の外観
   で、東面は3後陣である。南通路の東に二つにアーチ型の部屋は旧聖具室である。
 旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (1280) 教会を含む修道院の
   建物群は、宗教改革で解散となり、1561町は学校として1963まで使った。
   中庭には居酒屋もあり、ガイドツアーで内部を見学できる。
 病院礼拝堂 Hospital mit Kapelle St.Spiritus (1715) 煉瓦造の小さな病院
   礼拝堂で、火災を生き延びたが、1711の火災で内装と屋根が焼けて、1715に新し建
   物で再建された。1990老人ホームとなり、1993観光情報のある博物館の一部である。
 王妃ルイーゼ記念碑 Koenigin Luise Denkmal (1811) シンケル広場の中央に立つ、
   高い台座の上に飾りの多い石棺が置かれた、1810の葬列がここで止まったのを記念
   して翌年に設置された。
 領主の館 Herren Haus (17c) 郊外のDannenWaldeに昔の廃墟の上に、Weldow家
   が中庭のあるロココの大邸宅を建てた。2次大戦後に高校が収容され、1990からサイクリストの
   宿泊施設となり、2000に屋根が改修された。

5.写真

ルッピン門内側 ルッピン門外側
火薬塔 東南壁
東北壁

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ユーターボク Jueterbog BR12

1.歴史

 1007 メルセブルク司教の文書に初言及、   1174 マグデブルク法の憲章を授与、
 1200-1300 聖母教会と3門の市壁建設、 14cブランデンブルク州で2番目の都市権授与、
 1478 大火災後マグデブルク大司教が再建、 1540 宗教改革の導入、
 1626 バーレンスタイン将軍が町に滞在、    1635 ザクセンに属した、
 1756 プロイセン皇帝フリードリッヒ2世の7年戦争、 1815 プロイセンに帰属、
 1832 駐屯都市となった。        1945 空爆で被災、赤軍の占領。

2.市壁  0.45m 0.22

  1300頃から造られ1335には言及された。市壁は高さ6mで3門と2つのツインガーを
  持った。1478大火災で損傷し1487に修復完了。30年戦争で跳ね橋が落ち、1678
  火事で市壁の一部が壊れたが、物品税のために再建された。1813ロシアの攻撃を防
  衛した。1819物品税が廃止されて堀や市壁は平らにされ初め、1826騒動で一部
  は壊された。1839から1906に大部分が除かれた。
   残っているのは、北西50m、北50m+190m、南西160m、合計450m。

3.塔  3門6塔

 チィナー門 Zinnaer Tor (1300) 北、内側門は正方形塔と円型塔の両方が残っ
   ている。円塔は下部を石で1480-90にレンガで上部が建てられた。四角塔は
   後期ゴシックでアーチは交通障害で1886に取り壊され1889に高くして再建された。
   門衛の家は1928に取り壊された。前門とツインガーは現存しない
 新市場門 Neu Markt Tor (1300) 東、円型塔のみが残っている。1300に北門と
   共に造られ、1480-90に拡大され1901に再建された。正方形の塔は交通障
   害でアーチが1839に取り壊され、1909に撤去された。15cの前門はまだ残り、
   1984から交通はこの門を迂回している。門衛室やツインガーは残っていない。
 堤防門 Damm Tor (1300) 古くはFrauenTorと呼ばれた。他の門と同様に外門
   ・ツインガー・内門を備えていたが、その断片しか残っていない。内側門の円塔
   は高さ32.3m直径7.35mで、基礎石の上にレンガ積となっており、塔は刑務所と
   武器弾薬庫で使われた。内アーチは1851に撤去された。
 6壁塔  Hinter der Mauer1 南西角塔、赤い四角錐屋根の角塔に小屋が付いている。
    Pulver Turm 南、大きなアーチ門にもう1階乗っている角塔。
    Pulver Turm 南、4階建ての角塔。
    EierTurm 南東、復元された防衛塔の一つ、卵型平面の塔。
    Schliefen Turm 西、円塔で入口は元に市壁の高さにある。
    Wurst Hof 北、1480建、市壁の上に家の屋根が付いている。

4.見所  C

   千年の歴史のある古い町で、数多くの塔・3市門・教会が立ち並ぶ。フランシスコ会・
  シトー会・シトー修道女の3修道院には、壁画・祭壇などの見所がある。
 市庁舎 Rathaus(1480)マルクトの南中に立ち、屋根に塔が付けれれ1480-90にその
   塔に鐘が付けられた。1510まで拡張と改造が繰り返された。1801尖塔が壊れ
   除去された。1813傷病軍人の病院となり、1816に市庁舎と裁判所が収容され
   た。1849-50大改造で、上階は事務室としてバロックの階段は除去された。1945か
   ら改修が行われ、1992東切妻・1993西切妻が復元された。39×16.5m煉瓦造切妻。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1221) 71×23m ゴシック3身廊の教会で、西面に
   大きな塔頂の異なる5階建ての双塔複合体がある。14c身廊は1径間拡張、15c
   南側を建増し、1617北塔の帽子完成。改修は1834-77、1934-36、1974屋根、
   1986内装、に行われた。
 聖母教会 LiebFrauen Kirche (1161) マグデブルク大司教が3身廊煉瓦造バジリカ
   を設立した。1179損傷し1183には献堂され1225女子修道院の2祭壇の後陣を
   増築した。1282シトー派女子修道院「聖十字架」を聖母教会の中に包含した。
   1557修道院の解散後、新教の教会になった。鐘楼は1537木造で更新された。
   1890-91に大規模でステンドグラス窓が付けられた。1936-38復旧と木製天井の絵画
   2000-05外装の改修。1710バロック祭壇に、1418のオルガンは1737バロックオルガン置換た。
 僧侶教会 Moenchen Kirche (15c) ブランデンブルク大司教の許しでフランシスコ会は煉瓦
   造3身廊の修道院を建てた。まず後陣が建てられ,1484祭壇の寄付,1490-1500
   本堂の完成。1534新教の教会となる。修道院は1560に解散された。1711バロック
   の祭壇が置かれ、1812-13軍の倉庫となり内部は損傷したが、1822には
   回復した。1914市の所有となり、1920まで礼拝が行われた。1970建物が危険
   となり倉庫とされた。1980から建物は復元され、図書館・劇場・演奏会に使用。
 ヘドヴィック教会 Hedwigs Kirche (1893) ヘドヴィックが守護聖人シレジアを祀った
   カトリック教会を設立し、1863から礼拝堂は在ったが教会を建てた。1955礼拝堂
   と教会が構造的に一体化され、1980改装されて今の姿になった。
 修道院長館 Abts Hof (1480) 後期ゴシックの煉瓦層の建物は、その後町の邸宅
   として使われ、僧院博物館が開設されるまでは。地域博物館として、町
   や地域の歴Sの展示が収容されていた。
 僧院博物館 Museum in Moenchen Kloster (1500-30) 旧サンフランシコ会修道院の
   東翼に修道院と町の歴史と文化を展示し、修道院の保存エリアを見られる。

5.写真

市庁舎 ダム門
ダム前門 見張塔・西壁
火薬塔 卵塔
新市場塔 チィナー門

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ケッチィン Ketzin /Havel BR13

1.歴史

 1197 最初の文書言及、            1307 町として文書に記載、
 1375 皇帝カレル4世の文書にフェリー所有記載、   1424 服屋と靴屋の市を開催、
 1574 町も紋章に示すように農漁村だった、   1738 30人の漁業ギルド設立、
 1860 カトリック牧師はレンガ用の粘土を発見、 1882 14のレンガ工場と21レンガ炉設置、
 1635 レンガ焼成が盛況で13カ所の粘土採掘場があり  年間1億箇のレンガを生産。

2.市壁  0.0km 0

   北西のBurgWall(120×160m)は粘土の採掘で残っていない。要塞の塔の
  一部らしき物が残る。

3.塔  0門0塔

   見当たらなかった。

4.見所  D

   小さな自然豊かな町で、レンガが焼かれている。
 市庁舎 Rathaus (1887) 農場の管理ととして建てられ、197迄は帝国郵便局であっ
   た。1911横翼と塔が追加されて市庁舎となった。2階建鐘楼付き中央突出の建
   物。
 聖ペーター教会 St.Peter Kirche (1758-63) プロテスタント・バロック単塔ホ-ル教会。のレンガ造の
 ロザリオ王女教会 Rosenkranz Koenigin Kirche (1910-11) カトリック・ネオゴシック教会で、高
   さ40mの塔がある。
 王の水上スポーツの家 Koenigs Wassersports Heim (17c) 町で最古の半木造の2階建
   の建物。
 旧砂糖工場 Ehem.Zucker Fabrik (11892-1967) 4階建レンガ造の大きな建物で、乾
   燥工場と精糖工場があった。
 市の家 Stadt Haus (18c) 2階建の市の家は、旅館:ショムブルクであった。旅館廃業後に
   にレストラン:漁師クラウスとなった。2006-08広範な複合施設としての改修が行われ、今は
   町の複合施設として使われている。
 博物館・観光案内所 Museum (1854) 2階建の学校として建てられた建物に、まず観
   光案内所が置かれ、1911には町の歴史を常設展示する町博物館が併設された。

5.写真

市庁舎 聖ペーター教会

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キュリッツ Kyritz BR14

1.歴史

 1232 最初の文書言及、     1237 都市の法的地位と所有権を取得、
 1287 アズカンラウスは町の免税特権を与えた。 13c 市壁や教会の建設を開始、
 1358 ハンザ同盟に参加、    1415 ブランデンブルク選帝侯は領地として支配
1381 メクレンブルク騎士団攻撃を撃退、    16-17c 町は交易で栄えた、
 1635 ザクセンとスエーデンの戦闘で被害、    1718 騎兵の駐屯地を100年間、
 1756-63 7年戦争の戦争負担と疫病で人口減、 1806 ナポレオン軍が占領、
 1824-25 大都市火災で公共施設も破損、  1845 戦わず赤軍が占領。

2.市壁  0.59km 0.43

   13-14cの市壁は野石とレンガで建てられ、1739-40に一部取り払われた。
   昔のヴィークハウスの幾つかを南側に再現している。市壁の東部分に石の十字架
   がある。北西・東・南に市壁が残る。

3.塔  0門0塔

   昔の3市門は、残っていない。東に現存する非常門は、1824に市壁を壊
   して設置された。

4.見所  C

   14cにハンザ同盟に加入して栄え、中心には切妻のある聖マリア教会、その南
   にチューダー調の綺麗な市庁舎があり、17-18cの木組みの家が中心部を支配。
 市庁舎 Rathaus (1825) ゴシックの市庁舎は、何度も火事で損壊し変更され
   て再建された。18c中には取り壊され、西側に18×20mに縮小して新築
   された。この建物も1825に焼失し、現在の場所に移転して後期古典主
   義の新市庁舎となった。建物は拡張され1897チューダー調の美しいレンガ造
   の今の姿になった。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) ロマネスクと初期ゴシックの部分的に
   側廊のあるホール教会で、船乗と商人専用の守護聖人ニコラウスを奉った。
   新設の教区教会となり、18c初めに今の教会が野石とレンガ造の3身廊で建
   てられた。1850西側の切妻は双塔と共に建てられた。1873オルガン設置。
 旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (1303) 中世にはこの修
   道院はブランデンブルクに属し重要な立場にあったが、1442には衰退した。
   現存するのは、ゴシックの修道院教会の野石とレンガの北側壁と、修
   道院の東翼の切妻である。跡地には住宅が建ち、広場は催物会場。
 地方監督 Superintendentur (1663) 初期バロックの木組の家。梁の碑文に
   年号がある。1824の火事を受け、オーク材の骨組み構造は維持されたが
   切妻・屋根・壁は置き換えられた。
 市民の家 Buergerhaus (1663) 僅か残された市民の建てた切妻木組の家
   で、梁に年号がある。早期バロックの垂木の頭に豊かな装飾がある。
   多くの改造がなされ、長期間パン屋が入り、2001-02に基礎は健全化。
 市民の家 Buergerhaus (1680) 市民の建てた木組の家。
 旧病院聖 Ehem.Hospital St.Spiritus (1322) 今の建物は1628に建てら
   れ、2階建漆喰塗の欄干のある建物に、正面中央に木製の屋上小塔がある。

5.写真

市庁舎 南壁
南壁 東壁
西壁塔

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レンツエン Lenzen Elbe BR15

1.歴史

  929 ザイセン軍はレンツエン城を征服した、     983 スラブの反乱で城を支配、
 12c 石造の城はレンツエンの中心、 1219ブランデンブルク牧師が所有しシュベリンへ貸与、
 1227 デンマーク王ヴァルデマー2世を城に投獄    1237 オットー3世は都市権を授与、
 1319 城と土地はハーベルベルク司教へ、      1400 石の市壁が建てられた、
 1558.1703 大火事とペストで町は崩壊、     1648 プロイセンのレンツエン事務所、
 1769 プロイセン王国の城公邸が移された、    1989 メクレンブルク・フォアポンメルンへ、
 1991 投票でブランデンブルク州に戻った。

2.市壁  0.10km 0.08

   14c市壁は北と北東に痕跡がある。

3.塔  0門1塔

 鈍塔 StumpferTurm(14c)市門の一つで山門とも呼ばれ、前には堀の跳
   ね橋があった。1700から市壁は崩れ、1758には刑務s所として使われた
   門の屋根か落ちた後はDull塔と呼ばれた。八角形の床に丸い塔が建てら
   れた。

4.見所  C

   旧市街地には古い木組の家並みも残り、歴史的な建造物もある自然豊
  かな町。
 市庁舎のある中央守衛所 Hauptwache mit Rathaus (13c) 最初の市庁舎は、
   1228-39に地方裁判所として使われ、1558の火事で書類と共に焼失した。
   次の市庁舎も1652と1703の火事で損傷し、一時的に中央守衛所が市庁舎
   となった。1713現在の市庁舎が丁寧に建てられた。1756時計塔は片手腕
   時計として整備された。1994包括的な改修が行われた。
 レンツエン城・城博物館 Burg Lenzen und Burg Mseum (10c) 元スラブの要塞で、
   1200の高天守閣は初期ドイツの城の部分がある。バロックの城に拡張され、
   1223デンマークの王子がこの城に拘留された。1484-1767城は宮廷であった。
   GDRの時代には、退役軍人の家であった。今の城は、BUNDに寄付され、
   博物館・ホテル・会議室・自然ビジターセンターある。城の塔には、博物館として市歴
   史博物館・展覧会場があり、高さ24mの展望台からの眺望は素晴らしい。
 聖カタリナ教会 St.Katharinen Kirche (14c) 14cのクロス状の柱・東西身廊・北側壁の
   細い窓が残され、その後内陣と入口の上に十字架の教会が追加された。1646
   .1703の火事で損傷し1735にはドームと屋根が壊れた。1760今の塔が建てられ、
   1986屋根も更新された。1997-98レンガ部・ステンドグラスの復元が行われた。
 プロイセン郵便距離標 Preussischer Postmeilen Stein (1803-04) マルクト広場に郵便
   距離標が設置され、ベルリン・マグデブルク・ハンブルク間の主要郵便が運用された。
 古い教会書記の家 Alter Kirhedienerhaus (17c) 古い木組の3階建の家で、家
   の半分は18cに建てられ、教会書記が住んでいた。

5.写真

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リューベン Luebben BR16

1.歴史

 1150 ニーンブルクの所有目録に城を記載、    1210-20 マグデブルク法の導入、
 1300 ドベルク修道院の所有に、     1329 ザクセン公ルドルフは城と町を購入、
 1422-62 下ラウジッツは代官と地方抵当主が統治、1448ブランベンブルク辺境伯が占領、
 1462-1526 下ラウジッツはボヘミア・ハンガリー王が所有、1526-1623 ハプスブルクの所有へ、
 1620-21 30年戦争で略奪、          1623-1815 ヴェッティン家が所有、
 1761 王フリードリッヒ1世がザクセンの町を略奪、     1812-13 ナポレオン軍が占領、
 1815 ウイーン会議でプロイセン王国に帰属、     1883ブランデンブルク歩兵大隊兵舎、
 1945 赤軍の砲撃で町の75%を破壊。

2.市壁  0.29km 0.15

   14c市壁は町を囲んだ。高さ1.5mの野石又は芝鉄石の腰石の上に、高
  さ4-5mの煉瓦積壁が乗る。30年戦争で大部分が壊され住民が柵で防いだ。
  その後市壁が再建されたかは不明。大砲の発明で市壁の重要性は失われ、
  1753王の承認で教会の再建に市壁の石材が使われた。全長173mの市壁は
  資金援助で復元された。

3.塔  0門2塔

 反抗者 Trutzer 橋広場の角型Wiekhauserで、夜警が置かれた。
   脂肪塔 Unter Tor 橋広場の角のある円塔で復元されている。
    昔は魔女塔とも呼ばれた。

4.見所  D

   森の囲まれたシュプレー川沿いの市場町で、戦乱や火災で何度も壊滅し再
  建された。美しい町とするため歴史的な建造物の改修が行われてきた。
  TrutzenとSeckTurumのある町の東の川沿いの景観は美しい。
 市庁舎 Rathaus (2000) 旧市庁舎はマルクトに面して別の位置に在ったが、第2
   次大戦で破壊された。1998旧郵便局の建物を市庁舎に変換工事が始まり、
   前面を変更して2000に今の市庁舎となった。
 リューベン宮殿 Schloss Luebben (1368) 初め水城として建てられ、1397から
   Berckoが占有して住んだ。1561-62旧城を取り壊して、今の宮殿の前駆
   となる2階建ての建物を建てた。30年戦争で壊れ、ザクセン公クリスチャン1世は
   下ラウジッツを取り、1679-82に後期ゴシク2破風のある3階建ての宮殿に更新
   した。その後住宅・学校・事務所などに使われ、改修が繰り返された。
   1915王室厩舎が市立図書館となり、天守閣も復元され2001町の地域の博
   物館が収容された。
 パウリ・ゲルハルト教会 Paul Gerhardt Kirche (15c) ゴシックの煉瓦造3身廊ハレン教会で
   後陣がある。1494-1550前の建物の一部を取り込んで再構築された。17
   82の塔は、1945に天井と共に破壊され1988には回復された。中には1609
   石灰岩のキリストの生涯の祭壇画・1609説教壇・1610洗礼盤。
 聖トリニタス教会 Katholische Kirche St.Trinitas (1863) 北にカソリックの聖三位一体
   教会が発足し、1906拡張されネオゴシックの教会となり、1945砲撃で教会と
   司教館も被害を受けたが、1950には復旧した。1995-96屋根と内装の更
   新と司教館の近代化。
 身分別荘 Staedische Landhaus (1717-22) コの字型の2階建て簡素な建物で、
   3つの入口の上には下ラウジッツの紋章がある。1761の7年戦争で他の建物
   は焼失したが、この建物は残った。今は地方行政事務所。
 町と地域の博物館 Stadt und Regional Museum 2次大戦の最後の日に博物館
   は破壊された。2001宮殿の中に下ラウジッツと町の歴史と文化を展示してい
   る。武器の歴史・中世の風呂・紋章・絵画がある。
 伝統家屋 Traditionshaus der Luebheuer Feuerwehe (1863) 古い民家に19
   97から消防協会が発足した。古い消防車と消防機器の展示。

5.写真

市庁舎 宮殿

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ルッカウ Luckau BR17

1.歴史

 1276 町は初文書言及。、      1351 ブランデンブルクのルイ5世の統治、
 1492 低ラウジッツの主要な町として繁栄、 1635 プラハの和平でザクセン選帝侯へ、
 1648 30年戦争で破壊、スエーデンの拠点、 1813 ナポレオンが敗戦後 商家に駐留、
 1815 ウイーン会議でプロイセンのbrンデンブルク州、1816-1952 郡庁所在地であった。

2.市壁  0.95km 0.59

  13-14cの旧市街地を囲む高さ9mの玉石とレンガの市壁は、多くの部分で公
  園に残された。

3.塔  0門3塔

 赤塔 Roter Turm (13c) 高さ13m赤い円塔は石積1.1-2.5mの璧厚
   があり、1813の戦争で損傷を受け、1822玉ねぎ屋根が復元された。
   1853-71に修復、1992にも再改装が行われた。塔の隣には、跳ね橋付の門
   があった。
 守衛塔 Hausmanns Turm (13c) 初め低い塔い塔であったが、17cに高
   さ47mの八角塔となった。1697から塔と礼拝堂は中央防備で、塔の上には
   見張りを置き火事も見張った。この見張り人は塔に時計が付いて居なくな
   った。1969に塔は再建された。
 僧館 Mench Hof 通りの両側に大小の角塔がある。

4.見所  D

   12-13c低ラウジッツの首都で、豊かな商人の町であり、旧市街は堀と緑地
   と多くの市壁に囲まれ、中心ノマルクトには市庁舎・ニコライ教会・旧ドミニコ修道院・
   バロックの長屋がある。
 市庁舎 Radthaus (13c) 1644.1675町の大火災に遭い、1675市庁舎は
   中世のままに再構築された。今のクラシックな姿には1850-51に変更された。
   1996全面的な改装が行われた。中に古代トウモロコシの尺度が収納されている。
 城山 Schloss Berg (12c) 遅くとも12cに城山に城が築かれた。1301
   低ラウジッツ公国の中心として浮上した。1576辺境伯と従者が城に留まった。
   1386イタリア貴族が住み、1497には城は市評議会へ売却した。1540の絵画には
   城の天守閣の旗が見られる。1637スエーデン軍の砲撃を受けた。1644ザクセン選
   帝侯の命令で、城の石材は町の復興に無料で与えられた。1729以前住んだ
   イタリア貴族の子供が帰ってきて、1745に領主から城山を獲得した。1770-
   1803はブドウ園として使われ、1755建の別荘は1869に焼けた。1813仏軍
   は丘に大砲を据え、周囲に大きな堀と土堤を築き柵で囲って要塞化した。
   1824城山に地下室のある食堂が建てられ、1845には麓に醸造所と居酒屋が
   建てられ、1876頂上に広間が造られた。1992には40席の食堂と200席の広
   間のあるビアガーデンが開業した。山にはブドウ園とバラ園がある。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (13c) 大規模のゴシックの構造は13-
   15cの異なる建設段階から来ている。町の火災を生き残り17c中からの室
   内は、優れたバロックのオルガン・二重螺旋階段のある装飾木製聖歌隊席・砂岩
   の説教壇がある。南側の入口に皇帝カール4世の小さな像がある。
 ゲオルク礼拝堂 Georgen Kapelle (1200) ロマネスク煉瓦造教区教会として
   マルクトに建てられた。遅くとも1886から礼拝堂としてのみ使われた。16cか
   ら礼拝堂でなくなり、1935まで消防署てして使われた。1963から町の小
   ホールとなり、結婚式場や講演会場となり1991に大修繕行われた。
 ナポレオン小家 Napoleon Hauschen (18C) 1813ナポレオンは町で裕福な商人
   の北の市壁にある夏の家に宿舎を置いた。ナポレオンは寒さで寝つけず、今博
   物館に残っている銅製の湯たんぽを使用した。
 文化教会 Kultur Kirche Luckau (1291) 旧ドミニコ会修道院の教会で
   2006改修が行われ文化教会となった。
 ロッジの家 Logen Haus (1309) ロッジ・ヒヨウはリューベンに置かれたが、1860
   に野の町に移った。東ドイツ時代は工科教育センターとして使われたが、崩壊
   の危機で閉鎖された。1955-98再建され、今は音楽学校である。
 切妻の家 Giebel Haus (1700) マルクトにバロックの切妻の2階建町家があり
   イタリア建築家による美しいスコッタ仕上げの前面を持つ。1990に復元され紅地に
   白の装飾は見事である。
 低ラウジッツ博物館 Nieder Lausitz Museum (1291) 旧ドミニコ会修道院
   1291-1546の建物は1749-2005は刑務所として使われ、2008から改修されて
   博物館になった。下ラウジッツの人間・文化・自然と歴史、地階は刑務所生活、
   2階は書籍・文学、3階は小演奏会場。
 収集博物館 Sammlung Museum fuer Humor ユーモアと風刺のコレクション。

5.写真

市庁舎 赤門
守衛塔 文化教会
東壁 南壁

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 メイエンブルク Meyenburg BR18

1.歴史

 1285 国境の農業の町に水城が初言及、       1332 町として初言及、
 14c メクレンブルクの国境の重要な町のためブランデンブルク侯爵は切望して入手した、
 1364 町は辺境伯の封土としてバイエル家発祥のLohr家に渡った。
 1648 30年戦争の終結時に、町はほぼ全滅して無人であった。
 1795 回復した町に大火災が襲った、それで近代的な都市計画が可能となる。
 18c 手工業が興り、64靴屋など160人の職人が働いた。

2.市壁  0.23km 0.10

   中世の市壁は、城の付近80m・東の公園沿い120m・西南3か所に30mが残る。

3.塔  0門1塔

 飢餓塔 Hunger Turm (1200) 城の南端に半壊状態で補修され立っている。
   一時は監獄として使われた。博物館の一部として登れる。

4.見所  D

   中央に幅広いマルクト通りはあるが、市庁舎は見当たらない珍しい町である。
 メイエンブルク宮殿 Schloss Meyenburg (1200) 1214にブランデンブルク辺境伯の城となる。
   1364にRohr家に渡り19cまで続いた。14cには城は今の位置にあり、最も古い
   部分は今も残っている。城は煉瓦造となり、1865別棟を建てた、複合化され
   宮殿となり、1900公園を設けた。1928町の所有となり、1934-36学校となり、
   1945東独難民を収容、その後住居・幼稚園・保育所に使われ、1992-2006に
   改修され美術館・博物館を開館した。
 文化センター Kulturelles Zentrum 宮殿はファッション美術館・博物館・図書館が置かれ、
   催物・結婚式・朗読・演奏・演劇の会場となっている。
    Mode Museum (2006) 歴史的なファッションも展示、1900-1980のノーブル夫人の
     3千点の衣装やブローチ・手袋・杖・傘・下着・靴・ハンドバック塔のコレクション。
    Schloss Museum (2003) 2006改装され町の歴史と文化、Lohr家の経緯。
 町教会 Ev.Kirche Stadt Meyenburg (15c) 祭壇付近は最古の部分で1749と1893
   に建て替えを行った。1848-50の塔はネオゴシック煉瓦造で独立している。2005
   -06本堂の外郭の改修、2008塔外壁・屋根・時計のダイヤルの補修。
 公会議建物 Katholische KircheGemeinde 2階建て煉瓦造の建物が郊外にあり、
   今は地方青年の家「聖ポニファティウス」たなっている。

5.写真

西壁 東壁
北壁 メイエン城・北壁

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 ミッテンバルデ Mittenwalde BR19

1.歴史

 1307 辺境伯ヘルマンはトイピッツ領の森林伐採権を町に与えた、辺境伯は国境の重要
  性から楕円形3街路方式の町を建て、野石の市壁と二重土堤と堀で守った、
 1315 辺境伯ボルディマーは伐採権を拡大、  1369 町は鋳造権を得て刻印した、
 1356 辺境伯ルードヴィッヒはユダヤ人を受入れ、 1375 町は市庁舎と裁判所を得た、
 1393 強盗・騒乱者に対し中マークの町が同盟、 1430 辺境伯ヨハンは伐採権を調停、
 1441 選帝侯フリードリッヒ2世は町特権を更新、 1473 司教は町の大火災を報告、
 1549 選帝侯ヨアヒム2世は豊かな町から400グルテンを6%の利子で借金した。
 1562 町は400グルテンを6%の利子で二重都市ベルリン・コルンに貸した。
 1577.1598 ペスト来襲で大勢が死んだ、 1587.1617 不作と高騰で大飢饉発生、
 1618 30年戦争の略奪と破壊で町は壊滅、  1645 住民の家は245戸が45戸へ。

2.市壁  0.13km 0.09

   14c初の市壁は通りの名前で市は明らかであるが、保存と復元がなされてい
  ないので確認は難しい。北側に20+40m、南西側に40mが残ると思われる。

3.塔  1門1塔

 ベルリン門 Berliner Tor (14c) 北、前門のみ残り内門とツインガーは無い。
 火薬塔 Pulver Turm (14c) 北、高さ25m直径8.45mの石造円塔でベルリン門の内側に建つ。

4.見所  D

    ドイツ東方拡大時に、シュプレーの森の中心に、3街路の楕円形の町を設けた。
  その南北口のベルリン門と火薬塔・中の聖モーリッツ教会が聳えている。
 聖モリッツ教区教会 Pfarr kirche St.Moritz Kirche (13c) 初めは野石造であったが14c煉瓦
   造星形円蓋のある3身廊ゴシックのハレン教会となった。1514アントワープ飾りの彫刻祭壇
   がある。1860-61に新ゴシックに改装された。
 郷土博物館 HeimatMuseum Mittenwalde (19c) 町の歴史と文化を展示する郷土博物館で、
   昔の黒い台所・人形部屋を見られる。

5.写真

聖モリッツ教会 火薬塔
ベルリン門 北東壁
北西壁

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ミュンヒベルク Muecheberg  BR20

1.歴史

 1225 ヴィロッツワクのシトー派修道士は修道院を設立、1272 王ヘンリーの文書に初言及、
 1233 教王の寄付文書で言及、       1245 ポルスラフ侯爵の市場権を授与、
 1319 2門と高さ7mの市壁を建設開始、    14-15c 重要な市場町の地を確立、
 1348-62 二つの税関が設けられた、     1432 フス派は門・教会などを破壊、
 1472-1639 貴族プフェエルは町を所有、     17c30年戦争・疫病・火災で人工1/3、
 17c アルンスタインの絶滅後ブランデンブルク選帝侯が所有、1688 ブランデンブルク軍の駐屯地に、
 17c後半 町は回復し郵便の主要駅へ、    1699 仏移住者が40世帯転入、
 1787 火事で町の2/3焼失後、フリードリッヒ・ウイリアム2世が1803に単一の都市計画で再構築、
 1945 2次大戦で旧市街地は殆ど破壊。

2.市壁  1.48km 0.84

   14cの市壁は、まだ高さ7mのままで、南東部を除いて約8割が残っている。

3.塔  2門0塔

   各門は、跳ね橋と前門を備え、市壁と堀を巡らせたシステムで町を守った。
 ベルリン門 Berliner Tor (1319) 初期に火薬庫と刑務所として使われたため
   火薬塔とも呼ばれた。地下室の壁厚は1.8mある。20cには車道と歩道の
   アーチ門が付けられた。
 クストリアー門 Kustrier Tor (14c) 塔頂にコウノトリの巣があり、コウノトリ門とも呼ば
   れた。円塔型で石の基礎に上にレンガの円塔が立ち、円錐屋根を付けている。
   防御塔と刑務所として使われた。

4.見所  D

   町は市壁で囲まれているが、二次大戦の戦災で見るべき建物は少ない。
 市庁舎 Rathaus (1692) 1641の火災後に1692市庁舎は再建された。二次大
   戦の後に、2階建L字型の建物が建てられた。
 聖マリア市教区教会 StadtPfarrKirche St.Marien (13c) 中世からのゴシックの
   建物で、二次大戦で塔も壊され、1992ささやかな回復を行い、1997再建
   された。50mの西塔の展望台からの眺めは素晴らしい。
 ジャンスフェルド宮殿 Schloss Jahnsfelde (15c) 貴族プスエルは1449-1945にここ
   に住んだ。建物は2階建木組石膏塗りで、部分的には1680丸天井の部屋
   もある。1831新古典の砂岩の学校は、入り口部分がやや中央突出ている。
 ジャンスフェルド宮殿教会 Schlosskirche Jahnsfelde (13c) 中世の中核となる
   建物で、西塔のある長方形の石造建築である。1999-92総合的な修復、
   窓の改造西側門の設置が行われた。

5.写真

市教会 聖マリア教会

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ナウエン Nauen BR21

1.歴史

 1186 ブランデンブルク司教の文書で初言及、    1292 町は都市憲章を授与された、
 1317 市場権を授与された、         1414 盗賊男爵の復讐で町は大火災、
 17c 30年戦争でスエーデン・ブランデンブルク軍占領、  1767 今の地区事務所の場所に兵舎、
 1800 プロイセンに属した、      1815-60のドイツ連邦で、1826から郡庁になった。

2.市壁  0km 

   道の名前として、MauerStrasse、WallGasseがあるが、市壁は見当たらない。

3.塔  0門1塔

 給水塔 Wasser Turm (1898) 旧市街の北西の市壁外に立つ塔で、1980年代に給水
   は停止され、2002民間に払い下げられ、今は記念構造物に指定され、2005には
   居住目的に改造された。

4.見所  B

   旧市街地には、大通りに面して独特な様式の大レンガ構造物が立ち、小規模の
  住宅や商店の木組や漆喰塗の建物とのコンストラストが面白い。旧市街地に普通あるマルクト
  広場はなく、幅広いマルクト通で代替えしている。
 市庁舎 Rathaus (1988-91) 北ドイツ・レンガ造のゴシックの建物で、中の市長のアパートの189
   1の家賃は給与の1割であった。1911強風で尖塔が落ち屋根が壊れた。1992前面を
   改修し、2008窓と中庭側の壁面を更新し、元の色彩に改修された。
 市情報と市民庁舎 Buergerbuero und Stadtinfomation (1822)木組の建物は1985-89
   に改修され市博物館になり、昔の手工業と農業用具を2001まで展示した。2005再
   建され市情報とコミュニティ館となった。市庁舎との間には旧消防署があったが、今は
   文化事務所である。
 市庁舎広場 Rathaus Platz (1891) この広場は、今の市庁舎の建設に併せ市壁の南西
   の外側に建設された。1892-1946ウイリアム1世記念碑は広場に存在した。広場の南に
   シナルシュ家の住宅兼店舗がある。
 郵便局 PostGebaeude (1893) 北ドイツレンガ造2階建の個人郵便局を1920帝国郵便局が引
   き継いだ。1924長距離通話施設が導入された。建物の背後にある近代的の建物は
   1980の通信局であった。1990郵便局は閉鎖された。
 旧図書館 Ehem.Bibriothek (1648-49) 北ドイツ・レンカ造の教会のホールとして建てられたが
   ペーター・パウロ教会の建設後はカトリックの女学校になった。図書館として使われた後、
   21c初に建物は売却され、改修されて住宅となった。
 カトリック教会 Kath.Kirche (1906) 当時カトリック教徒の多くは軍人であった。1894には教区
   教会になり、21cになると礼拝堂が狭くなり、1906ネオロマネスクの新しいレンガ・バジ
   リカの教会がピーターとパウロの捧げられた。
 聖ヤコビ教会 St.Jakobi kirche (13c) ゴシックの教会で長方形の塔の基礎は12cに遡り、
   かっては防御塔であったものが教会となった。1695火災後に後期ゴシックで再建
   され、高さ55mの塔は1707-08に教会となった。1991-94塔は大規模な改修が行
   われた。
 ケーテ・コルビッツ小学校 Koethekollmith Gurundschule (16c) 1541に学校の記録があり、
   1695の火災の後に再建され、200年使われて取り壊され、その跡地に1869三階建
   レンガ造の小学校が建てられた。2004女子学校として改修された。
 地区事務所 Landratsamt (1) 市役所広場の北側に1826-1993ナウエン郡の庁舎があった。
   1889地区事務所は西に拡張された。最初の建物は20cに解体され新し古典的な建
   物になった。1925には3-4階建の大きな建物に拡張された。
 ゲーテギムナジュウム Goeth Gymnasium (1916) ゲーテ体育館は、戦時中は軍事病院として使
   われ、1948学生が使用し1979焼失した。4階建で再建に拡張された。

5.写真

市庁舎 聖ヤコビ教会

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ノイルッピン Neuruppin BR22

1.歴史

 1215 アルバート・ベアはアルトルッピンに城を構築、 1238 アルトルッピンとして文書初言及、
 1246 アルンスタインはドミニコ会修道院を設立、  1256 アルンスタインはシュタンデール都市法を授与、
 13c 町の防御は柵と外堀によって行われた、14c 市壁・24Wiekhauser・2高塔で強化、
 1524 アルンスタインの絶滅後ブランデンブルク選帝侯が所有、1688 ブランデンブルク軍の駐屯地に、
 1787 火事で町の2/3焼失後、フリードリッヒ・ウイリアム2世が1803に単一の都市計画で再構築、
 1945 2次大戦は殆ど無傷で赤軍が10年間駐留した。

2.市壁  2.12km 0.62

   12c木柵、13c防備された市壁、15c中世市壁の完成。中世の町は約2.0×0.7km
   の長方形で、東南にルッピン湖に接している。

3.塔  0門0塔

   北・東・南に3門あったが、今は残っていない。

4.見所  C

   小説家テオドール・ホンターネの出生地で生家がある。1787の大火の後に煉瓦造の建物が
  計画的に建てられた。2次大戦を生き延び1990から歴史的建物の改修を行っている。
 教区教会 Pfarr Kirche (1801-06) 以前の教会は1787の火災で焼け、取り壊して
   新築され1806に奉献された。建物の構造問題で1991-2002に大改修が行われ、
   今は文化センターとして、1787の火災の説明・会議場・祝祭場・演奏会等に使用。
 聖三位一体修道院教会 KlosterKirche St.Trinitaetis (1246) ドミニコ会修道院
   ルッピンの教会であり、他の部分は存在しない。19cに教会の再建が行われ、
   塔も1900-07に建てられ、登ると湖が見渡せる。教会は礼拝が行われている。
 古い学校 Altes Gimnssium (1790) 旧市街の中心的な建物で、古いグラマースクール
   はバロックの宮殿の複合体の間取りを持ち、ネオゴシックの外観を持つ。古い体育
   館は地域の知識センターとして使用されている。
 フォンターネの生家 Fontane Haus (18c) 科学者テオドール・フォターネは、1819にここで生まれ
   た。両親はベルリンから来て薬局を購入し2階に住んだ。1826父が賭けで負け
   薬局は売却され、家族は近くのアパートに移った。今も生家は3階建ての薬局。
 説教者未亡人の家 Prediger Witwen Haus (1735) この町で死亡した聖職者の
   夫人や子供の家で、家族の生計のために設けられた。復元された3階建て
   の木組みの家である。
 市博物館 Museum Neuruppin (1790) 市長の邸宅として建てられ、新古典主義
   2階建ての建物に市博物館が置かれ、先史と初期の歴史・町の歴史・フレデリック
   2世・シンケル・フォンターネ・漫画新聞・19cの芸術家・アートとクラシック等を展示。

5.写真

フォンタネハウス 教区教会
北壁 北東壁
南西壁 南東壁

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オルトラント Ortrand BR23

1.歴史

 1238 マイセン辺境伯の文書で初言及、   1292 ナウムブルク司教の郊外の領地、
 1319 マイセン辺境伯の領地へ、         1329 製靴ギルド権を確認、
 1407 町は市場権を得た、       1429-31 町は戦争で荒廃し全焼、
 1539 町は宗教改革を導入、           1546 2番目の大火事、
 1554 高度な都市自立を達成、      1565 醸造所の建設、織物製造、
 1586 ブナの木管による水道の導入、   1612 3番目の大火事で半分焼失、
 1631 ザクセン軍の占領で疫病、      1707 スエーデン北方戦争で大火災、
 1815 ウイーン会議でプロイセンへ属した、      1720 駐屯地の町となった。

2.市壁  0km 

   旧市街地の市壁は、2門と二重壁と堀の防備システムであった。その位置に遊
  歩道があるが、市壁は見当たらない。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  D

   ブランデンブルクとザクセンの国境にある小さな町で、中心部は歴史的に改修さ
  れている。
 市庁舎 Rathaus (1525) 前市庁舎は1838の火事で壊され、マルクト広場の北側の17-
   73番の住宅跡地を買収し、1840に2階建鐘楼付古典主義の新市庁舎が建てら
   れた。1927-29近隣建物を取得して庁舎を拡張した。
 市教会聖バーバラ教会 StadtKirche St.Barbara (1346) 初め礼拝堂であった。15
   63-65に、ゴシック3廊の北塔付きの教会が建てられた。1612の火災で全壊し16
   27に再建された。1707の火事で1728-32に改造再建された。その後1772.1821
   .1872.1895.1928に改修が行われた。1983-84塔と外装を修復。
 レンスミュール宮殿 Lensmuehl Schloss (1480) 農場区レンスミュールとして1904まで独立して
   いた。ゴシックの2階建漆喰塗の建物で1600拡張、1750.1912改修。1912火災が
   あった。その後住宅や機械加工工場として使われた。
 染物屋 Faeberei (16c) 2階建上階木組の建物。1671説教師と歯科医が所有、1827
   裁判官未亡人が使用、1872肉屋、1875-1953染色屋とクリーニングが営業された。
   建物に煙突にはコウノトリが営巣し、巣箱は1992に更新された。

5.写真

市庁舎 宮殿
聖バーバラ教会

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パイツ Peitz BR24

1.歴史

 1336 文書で初言及、都市権保有か、   1431 ボヘミア紛争でブランデンブルクへ、
 1535 ブランデンブルク選帝侯の死後領土分割、 1537 辺境伯ヨハンは要塞建設開始、
 1559-62 古い城を利用して要塞建設、       1595 町の周壁が完成、
 1610 大火事で町は壊滅・周壁は残った、 1618-48短期間ブランデンブルクの首都、
 1663 要塞に州の刑務所設置、      1701 創設のプロイセン王国に属した、
 1744 プロイセン王国の要塞強化、      1756-63 7年戦争で要塞不要論、
 1767 フレデッリック大王は要塞解体を命令、  1758 都市火災復興に市壁材使用、
 1806-13 短期間ザクセンの支配下に、     1809 製鉄所に新高炉と加工機、
 19c 市庁舎・教会等公共施設の建設、   1945 二次大戦の戦災はなかった。

2.市壁  0km 

   要塞の周壁には砦や防衛島が含まれたが、今では見当たらない。

3.塔  0門1塔

 要塞塔 Festungsturm (1300) 印象的なレンガ造の塔は、この町で最も古く、要
   塞の証人である。1300からの元城の痕跡があり、16cにイタリア建築家による要
   塞主塔として建てられた。今日は博物館が置かれ、屋根裏部屋では要塞の
   重要性の説明、要塞の歴史的形状の推移、上階にはブランデンブルク・ノイマークの
   選帝侯ヨハンが建設者として説明されている。高さ35mの展望台からの眺めは
   良い。

4.見所  C

   シュプレー・マルクの低地の小さな町で、南西にある褐炭を使う発電所があった。
  ドイツでも古い要塞は16cに造られ、高価な施設であったため、ブランデンブルクに
  3か所しか作られなかった。町の印象は要塞が支配していたが、今残るのは大
  要塞塔のみである。17-19cに主要建設物が建設され残されている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1804) 2階建の大きな建物が建てられ、1850東部切妻と
   入口をチューダーゴシックに再構築された。
 教区教会 Pfarr Kirche (1656) 旧教会の老朽化により、1854-60新ロマネスク建て直
   された。円形アーチ3連壁のホール構造で、異なる石の色で細分化され35.8mの塔
   があった。1970に老朽化で閉鎖され、1975-79修復されて、コミュニテイセンターとな
   り、イベンントも開かれている。
 旧刑務所 Ehem.Gefaengnis (1764) レンガ造の建物は、1765から住宅として使われ
   ている。
 レーン邸 Villa der Familie Rehn (18c) 多角形2階建の邸宅で、壁で囲まれている。
 製鉄所とハンマーミル (16c) 町の南東部の側に、製鉄所は建設され、建物と設備は繰り
   返し改造された。1807-10今の建物が建てられ、珍しい曲がったトラス屋根の
   下には旧設備があった。1973ピューリッヒ美術館が閉鎖した。2001旧機械工房のあ
   る右翼が再建され博物館に追加された。2006漁業博物館に内陸水産場の展示
   が開始された。

5.写真

旧市庁舎 教区教会

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ペルレベルク Perleberg BR25

1.歴史

 12c 街道沿いに楕円形の集落存在、 1239 ブランデンブルクの都市権授与、
 13c ヨハネス・ガンスの死後町はブランデンブルクへ、3門の市壁を建設、
 1303 ハンガリ連盟加入造船しハンザに輸送、1358 ハンザ同盟に加入、
 15c 町は裕福な全盛期を迎えた、   1448木製ローラント像、1546砂岩造に、
 1539 改革の導入、17c ペスト初流行、 17c 戦争で人口1/10、回復200年後、
 1724 プロイセン騎兵隊が駐屯、      1612 3番目の大火事で半分焼失、
 1631 ザクセン軍の占領で疫病、     1806-07 仏軍略奪と金要求、火災、
 1817 地区の町に属した、       1821 大洪水で町は浸水、
 1860 プロイセンの駐屯地となった、    1993 大洪水。

2.市壁  0.32km 0.15 

   3-14cの市壁は、旧市街地を取り巻く堀の内側に高さ6mで建てられたが、
   僅かしか市壁は見当たらない。

3.塔  0門1塔

市壁には3門と32壁塔があったが、1830に門は壊され、今は西北端のAm
   Wallに四角塔が唯一残されている。  壁塔 MauerTurm (14c) 3階建レンガ造四角錐屋根の四角塔がある。

4.見所  B

   旧市街地には、北ドイツ・レンガ造の公共建築物があり、広大なマルクトには自
  由の象徴としてローラント像が立ち、大きな建物が囲んでいる。動物公園や4つの
  美術館がもある。
 市庁舎 Rathaus (1347) 今の市庁舎は19c後半の後期と新ゴシックの二つ
   の要素があり、西部はゴシックレンガ造・外側には7階建ゲーグルの7つのバットレスが
   ある。2階は裁判所があり、その後郡図書館を収容したが、今は結婚式場で
ある。3階には評議会と貯蔵庫があった。地下室は保管庫で、昔はラッツケラー
   であった。1836に東部は取り壊され、レンガで3階建に置き換えた。
 ローラント像 Perleberger Roland (1408) 旧市場の正面にある大市場の北
   東に位置し、最初木造で、1546に砂岩で建てられた。高さ4.26mの像は地元
   の石工が刻んだ。
 聖ヤコビ教区教会 Pfarrkirche St.Jakobi (1294) 三身廊ゴシックのハレン教
   会で、3段階で建てられた。最も古いのは塔の基部であり、1361高い内陣が
   建て始められ、1430-50身廊は第3段階として建てられた。1851-54内部が調
   査され改造が行われた。1913-14と1997-99に聖堂を包括的に改修した。
 壁の建物 Wall Gebaeude (1310) 12cに既にスラブの城壁があった。人工
   的な水路が周囲を取り囲んでいた。1317の文書では、ガルデマール辺境伯は2階
   建上階木組の市評議会の建物を寄付した。14cにはその建物は住宅に転用さ
   れ1852までに周囲の水路は埋められた。その後武器庫や学校として使われ
   た。今は、図書館・レストラン・案内所・地区女子高校・博物館である。
 馬の水飲場 PferDestiwemme 川底が浅い所が馬の水飲場であった。
   1871-90この町に駐屯した槍騎兵連隊のために水飲み場は配転され、2016に
   整備された。
 旧郵便局と通信局 Ehem.Post(1894-96) und Telegrafenamt(1945)
   帝国郵便局は2階建で、2階には郵便局長の住居があったが1899長距離通信
   接続所が置かれた。電信局は1925カールマルクス通りに移った。
 画家の仕事場 Malerwinkel() 木組の家は古い町の重要なアンサンブル。
 町と地域の博物館 Stadt und Rogional Museum (19c) 2階建木組の建
   物で、1803-1907市立高等女子学校を収容した。そのご農業冬期学校となり
   1931には、この記念物の建物に190設立の博物館が移設された。
    映画館 Kino (1912) 劇場連盟が1912映画館を開業した。1930からトー
   キーになり、1936映画館は移転して家具屋の倉庫となった。1966市が建物を
   引継ぎ改修して、再び映画館となった。
 ローラント学校 Polant Schule (1912) 1949まで男子校であった。その後
   女子を含め共学となり学校給食をおこなった。
 旧市粉引場 Ehem.StadtMuehle (14c) 市内の3つの水車の内最古の物
   である。1998まで稼働し、3階建の建物は健全化された。
 ホテル・ドイツ皇帝 Hotel Deutscher Kaizer (1847) 南東の旧市門のすぐ
   外の3階建建物で、美しい内装と歴史的な大広間は今でも美しい。
 ロッテ・レーマン学士院 Rotte・Lehman Akademie () 3階建の角の建物で、こ
   こで未来のオペラ歌手が世界的に活躍できるように準備した。

5.写真

市庁舎 聖ヤコビ教会

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ポツダム Potsdam BR26

1.歴史

 993 皇帝オットー3世のクベトリンブルク修道院への贈与証書に初言及 
 1157 町を征服しブランデンブルク辺境伯領とした、  1317 町の城を言及、
 1345 都市権を授与された、      1416 ホーエンツオーレルン家が1918まで所有、
 17c 30年戦争と2つの大火災で町は荒廃、1660選帝侯ウイルヘルムは宮殿・都市を拡大、
 1655 2万人のユグノー難民が移住技術伝承、1745フレデリック大王はバロック街・新宮殿を、
 1806 ナポレオン軍が占領、       1918 プロイセン最後の皇帝はオランダに亡命、
 1945 第2次大戦の空爆で大被害、4月赤軍の占領。

2.市壁  0.01km 0.01

  駐屯都市として市壁を備えた、それは防備のためではなく、兵士の脱走や物資
  の密輸を防ぐために使われた。 1718にヴィルヘルム1世が初めて境界壁を建てた。
  今も市壁は僅か残されている。

3.塔  3門0塔

 ブランデンブルク門 Brandenburger Tor (1770) 7年戦争の終了後、勝利の記念
   碑的な建物に置換えられた。1900市壁が取除かれて門塔は自立した。
 イエーガー門 Jaeger Tor (1733) 最古の門で北側の出入り口に立つ。田舎風の橋
   脚は漆喰レンガで、王冠は砂岩で造られた。1869市壁が取り払われて自
   立し、直線梁・王冠彫刻群・柱で構成されている。
 ナウエン門 Nauener Tor (1722) 都市の拡張時に建てられ、1733第2の門は20m前に
   2次バロック拡張時に建てられ、1755第3の門はネオゴシックの双門7アーチの大き
   な門であった。今の形は1862-69に再建された。
 残っていない門 Teltower tor:長い橋の南端にあった。
    Berliner Tor:1945に側璧のみ残して全壊した。
    Neu Staedter Tor:個別のオベリスクのみ残された。

4.見所  A

   バロックの建物が多い旧市街地と、その西の広大な公園の中に、サンスーシー宮殿・
  オランジェリィ・新宮殿・シャルロッテンホーフ宮殿等の見所が点在している。
 サンスーシー宮殿 Schloss Sanssouci (1745-47) 階段テラスの上に、フリードリッヒ大王
   はロココの夏の離宮を優雅に建てた。控えの間・図書館・寝室・執務室・音楽室
   ・謁見の間・大理石の間・客間・新広間に見事な装飾がある。
 新宮殿 Neues Palais (1763-69) フリードリッヒ大王は7年戦争後に、バロックの壮麗な
   建物を短期間で建てた。幅213m、部屋数400、過剰な装飾で大理石の間
   ・楕円形の間・上階大広間・劇場などの部屋がある。
 シャルロッテンホフ宮殿 Schloss Charlottenhof (1826-29)イタリア古典主義の建物。
 オランジェリィ Orangerie (1851-60) イタリア・ルネッサンスの300mの宮殿で、今は国立古文書
   館である。
 市会館 Stadt Haus (1902-07) 130*105mの平面で、478の部屋がある。
   1945までは政府の出先であったが1947地区協議会の都市評議会を収容し、
   1955市庁舎となり、ゴシックの図書館・大会議室・商工会議所も収容している。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1858) 新設の古典主義の教会で、
   ギリシャ十字の平面に半円形の後陣がある。
 聖ペーターとパウロ教区教会 PfarrKirche St.Peter und Paul (1867-70)
   カトリックの教区教会で、イタリア風60m鐘楼のある煉瓦造の建物。
 フランス教会 Franzoesische Kirche (1752-53) フランス改革派の教会で、ローマ
   パンテノン風の前面柱列の建物で、2次大戦を生き抜いた。
 旧兵士孤児の家 Ehem.Grosse MilitaerWsisen Haus (1724) ウイリアム1世は兵士の
   孤児の教育研修所として寄贈した。今の建物は1771-78後期バロックの5階
   建ての大規模になった。1999-2003改装された。
 旧衛兵詰所 Alte Wache (1795-97) ヴィルヘルム2世は元連隊の詰所を贈った。第2
   都市拡大後の中央詰所となった。その後古典的な柱列の建物に変換された。
   今は銀行として使われている。
 地方裁判所 Land Gericht (1880-83) 独生活・年金・互恵年金保険会社の設立
   20年後に新総局ビルとして建てられた。1918生命保険や火災保険会社が使い
   1945没収されて市議会・国家財政局が使い、1952地方裁判所・検察官・地区国家
   公証人の建物となった。19504階部分が削除され、1992-95改修され地方裁判所。
 簡易裁判所 Amt Gericht (1880-83) 王室地方裁判所の前面にはフリードリッヒ2世
   とヴィルヘルム1世の彫像が立っている。民事と刑事の裁判のための3主広間と45
   室が設けられ、1952-90には国家保安局が使った。1993簡易裁判所が移設され、
   前面・主階段・大広間が復元された。
 司令官の家 Kommandanten Haus (1733-37) 高天井5.02mの煉瓦造の家でポツダム
   連隊の司令官が住んだ。1809市議会、1818-20市裁判所と拘置所、1907
   -09再建され、1935遺伝健康裁判所、1945ソ連秘密警察、1953東独国家保安室
 自然史博物館 Naturkunde Museum (1770) エステートの家は、1945戦災で被害を受け
   何度か修復され、ブランデンブルクの野生動稙物を展示している。野生動植
   物の過去と現在・庭の動物・水族館等が在る。
 フィルム博物館 Film Museum 旧王室厩舎にポツダム映画博物館がある。
 ブランデンブルク・プロイセン歴史館 Haus der Brabdenburgisch-Preussische
   Geschichte 元王室馬車庫に、プロイセン900年の歴史を展示。
 ポツダム博物館 Potsdam Museum-Form fuer Kunst und Gerichite 旧市庁
   舎に2012市の美術と歴史を展示。

5.写真

聖ペーター・パウル教会 新人門
ブランデンブルク門

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プレンツラウ Prenzlau BR27/h3>

1.歴史

 1187 最初の文書言及、        1234 ポメラニア侯爵は都市権を授与、
 1250 ブランデンブルク選帝侯はライデン条約で全ウッカーマルクを与えられ、壁・柵・堀を建設、
 1287 町は防護権を得て、高さ8-9mの石造市壁を2.6km築いた、
 1426 最終的にヴィッテンブルク領へ、     1465 町はウッカーマルクの首都になった、
 1495-96 ローラント像がマルクトに建てられた、  1539 宗教改革の導入、
 1618-48 30年戦争の略奪・破壊で人口14%に,1867 駐屯地の町となった、
 1687 仏ユグノー教徒が移住、        1724 新庁舎一年遅れ警察署建設、
 1806 ナポレオン軍にプロイセン兵は降伏、    1945 第2次大戦で町の85%破壊。

2.市壁  1.77km 0.58

  13cの市壁は広範囲に野石の上にレンガで改装されている、

3.塔  4門3塔

 石門 Stein Tor 南、SchwedterTorとも展望台ともよばれる。
 黒鷲 Blindower Tor 北東、 
 中門 Mittel Tor 西、 
 水小門 Wasser Pforte 西南、 
 魔女塔 Hexen Turm 東北、 
 火薬塔 Pulver Turm 東、 
 壁間小屋 WiekHaeuser 。

4.見所  C

   下ウッカー湖の北に、縦長の市壁で囲まれた町が有り、2次大戦では大部分が
  破壊されて、主要な建物は復元されている。
 聖ザビーネ教会 St.Sabinen Kiche (1250) 町で最古の教会で1291から
   ベネディクト会修道院が含まれた。1543教会は改修され、修道院は世俗化され
   1861町の財産となり修道院は完全に消えた。
 旧聖ニコライ教会 Ehem.St.Nikolai Kirche (13c) 町で最古の教区教会で
   入植地の教会であった。30人戦争の宗教的理由で1626に放置された、後に
   砂漠の教会と言われ、西翼の門塔のみが残る。
 聖ヤコブ教会 St.Jakobi Kirche (13c) 農業入植地に2番目に古い教会
   として建てられた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1235) 広い西塔を持つ3身廊のホール教会
   として始まり、1289-1340ゴシック煉瓦造の中央教会を建て教会本部となった。
   14-15c礼拝堂が拡張され、16cから北塔68m、18cから南塔64mが付けられた。
   1945-70に改修された。
 旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franzikaner Kloster (13c) 修道院は1240-50
   と1536-50に世俗化され、1735に取り壊された。教会は13cに建設を開始し、
   14cに円天井が付けられた。1774荒廃のために販売された。
 旧ドミイニコ会修道院 Ehem.Dominikaner Kloster (1275) 初めに教会の建
   設が始まり、1343に献堂された。1544世俗化後に、貧しい人のための病院と
   して町に引き渡された。1577ニコライ教会が教区教会となり、旧修道院は大部分が
   保存されて、2000文化センター・文化史博物館・図書館・公文書館・美術館になった。
 聖マリアマグダレナ教会 St.MariaMagdarena Kirche (1892) ナオゴシックのカトリック教
   会で、1945に戦災で破壊され1954に再建された。
 聖霊礼拝堂 Heiligegeist Kapelle (1320) 門の前にある病院の礼拝堂と
   して建てられ、17cに住居用に改造された2階建ての建物で、その後礼拝には使
   用されていない。
 旧ニコライ教会 Ehem.NIkolei Kirche 旧兵舎と住宅に囲まれて、中庭の中央
   に旧ニコライ教会が再建された。

5.写真

市庁舎・石門 ブリンドウア門
門塔・聖マグダナのマリア教会 北壁東
北壁西 南壁
聖マリア教会

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プリッツヴァルク Pritzwalk BR28

1.歴史

 1200 貴族領主ガウスは荘園を置いた、1256 町を創設し町・市場の権利を与えた、
 1339 ハンザ同盟に加入、       14c 直轄都市となり、野石の市壁を築く、
 1364 辺境伯は関税特権を授与、   1414-38 ブランデンブルクとメクレンブルクの紛争、
 1539-1638 ハンザ衰退、9疫病、戦災、 1618-48 30年戦争とペストで人口減、
 1686 駐屯地となり、        1733-1806 プロイセン騎兵連隊駐留、
 1779 布やビール生産、        1821 大火災で焼失し再建された、
 1806-08 ナポレオン軍の占領、      1945 2次大戦で空爆被害、赤軍進駐。

2.市壁  0.15km 0.08

   14Cの市壁は町の北東部に150m残っている。市壁と見張・防御円塔は層状の野
  石で築かれ、18cまで土堤・水掘・市壁で構成する印象的な防御施設を持っていた。
  1738土堤が取り払われて平らにされ、1821の大火災後の10年間に塔と壁は取り壊
  され、資材は他の建設に充てられた。旧市街を取り巻く市壁の位置は、緑地で残
  されている。北外側に20mと15mの石積で囲まれた稜堡ある。

3.塔  0門1塔

   古くは3門(Kemnitzer-、Perleberger-Buchholzer-Tor)あったが壊された。
  壁中塔は北東に円錐屋根の半円塔が一つ見られる。

4.見所  C

   旧市街には、煉瓦造と木組みの家があり、ニコラス教会の高塔が目印となる。
 市庁舎 Rathaus (16c) 初期の建物は1821の大火で破損し、1829ルネッサンスの市庁舎が建
   てられた。古典的な漆喰の建物で、3軸上切妻の9窓である。その後一時的に地
   方裁判所・貯蓄銀行を収容した。1996-98改修され今は市庁舎・議場。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1230) 古い教区教会は火災で破損し、再建や拡張が
   繰り返され唯一塔が残った。1539に宗教改革で新教となった。1821火災で破損
   し、1828に3身廊こうきゴシックのホール教会で再建されたが塔は低かった。1882ネオゴ
   シック煉瓦造の高塔が付けられた。戦時中に供出した鐘は1954に奉献され、1250
   のオルガンは1976再建された。
 カソリック教会 Katholische Kirche St.Anna (1905-06) 初めの礼拝堂は、1945空爆で駅
   に止まっていたV2が爆発し被害を受けた。1963身廊の改修が行われ、1970
   には祭壇が奉献された。
 市と醸造博物館 Stadt und Museum (1954) 旧醸造所の空間に、町と地域の歴史と醸
   造技術の展示がある。
 印刷所博物館 Museum Druckerei Streckenthin (1906) 古い納屋を改装して、古い印
   刷技術で仕事のできる工房を設けた。100年前の歴史的活版印刷を今でも作
   業できる。

5.写真

市庁舎 聖ニコライ教会
北周壁 北東壁
北東壁

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シュヴェート Schwedt/oder BR29

1.歴史

 1230 ブランデンブルク辺境伯は城と村を所有、  1265 商人・職人・農民が入植、初言及、
 1284 ブランデンブルクとポメラニアの和平締結、   1323-34 町はポメラニアの所有となった、
 1334-54 ブランデンブルク辺境伯が所有、     1354-68 ポメラニア侯爵が町を取返した、
 1468 最終的にブランデンブルク領となった、   1480-1609 ホーエン家の侯爵が町を購入、
 1609-60 ブランデンブルク選帝侯に、      1618-48 32回略奪・疫病1500→280人、
 1670-89 選帝侯は都市計画で城や町を構築、 1681 大火災、1685 ユグノー移民定住、
 1700 駐屯地の町となった、        1719-71 選帝侯はバロックの街を計画、
 1768 ブランデンブルク第2連隊の駐屯地に、   1788 最後の侯爵の死後プロイセンへ、
 1807 ナポレオン軍は町を占領した、       1855 大洪水で町は浸水、
 1860 町に13の煙草工場があった。      1945 2次大戦の砲撃で町の80%破壊。

2.市壁  0.26km 0.17

   14c土塁、16c門と塔のある野石の市壁があったが、30年戦争で破壊された。
  1736辺境伯フリードリッヒ・ヴィルヘルムは新たな5mを超える市壁を築き始めた。その市壁は
  オーデル川前面を除いて450m+600m+450mの範囲を囲んだ。この壁は防衛のためば
  かりでなく、駐屯兵士の脱走防止と通関税の確保も目的とし、1736の銅版画に描か
  れている。壁の5か所に砲台が築かれ、6大砲が装備されたが、使われず1790には外
  された。1758辺境伯は7年戦争後に市壁建設を促進した。19cにすでに、町は壁の撤
  去や切取を決める権利を取得した。1874宴会と戦争の税が廃止され、壁や門は不要
  となり破壊が進んだ。20c初めには市街地が北方に広範な拡大が起こり壁は破壊さ
  れた。残っている市壁は、殆ど煉瓦造であるが野石の部分もある。

3.塔  0門0塔

   18cの4市門は簡単な壁支柱で、昔からの場所に1875には立っていたが、現存し
  ない。壁塔も見当たらない。Louis Harian通りの市壁には、2か所の開口部があり
  門として扉が付いているが、2011以降に作られた物である。

4.見所  C

   川から矩形の市壁建設は、1758と遅くバロック化と同時に行われた。終戦の直前
  に町の8割が砲撃で破壊された。
 地方裁判所 AmtGericht (1898-98) 階段切妻のあるネオゴシックの煉瓦造2階建ての建物で
   付属の刑務所の翼は監視するためよく見えるように建てられた。以前地方裁
   判所は城に置かれたが、1788ホーエンツオーレルンの後に下級裁判所を含めてこちらに引
   継いだ。1871王室の市裁判所となり、1879地方裁判所と呼ばれた。1953地方裁
   判所の上階には、6室の博物館が置かれた。
 新教市教会 Ev.StadtKirche St.Katharnen (13c) 平らな屋根の十字型バジリカで細
   長い後陣と翼廊があった。1539新教の教会となり、ルター派牧師が就任した。内部
   はホーエンシュタイン侯爵マーチンが修復し、1671-1705木塔を石塔に取換えた。1887の大火
   で屋根を破損し1887-89に再建されボールトはネオゴシックとなり、角塔は高さ72mに嵩
   上げされた。2次大戦で損傷し簡素化されて復旧し、塔の高さは32mとなった。
 カトリック教会 St.Maria Himmelfaht (1898-98) 聖マリア昇天教会は1850駐屯軍に新教徒が
   多く、ダンスホールを購入して礼拝堂とした。多角形スレート寄せ屋根レンガ造の教会で、
   中には高さ11mの大空間があり、直径7mの大バラ窓の後陣がある。1945左身廊
   に爆弾を受けた。
 ベアリスキィ・パビリオン Berlischky Pavilion (1776-77) 辺境伯フリードリッヒ・ハインリッヒはベアリスキィ
   の墓を含んだレンガ教会を建てた。1908まで仏改革派教会の礼拝堂と辺境伯家族の
   礼拝所であり、戦争で破損し修復された。今は演奏会・催し会場。
 市工場と石鹸工場 StadtMuehle und Thodor Haus SeifenFabric (1857)スレート屋根の
   フランコニア木骨造りの上階と装飾的なレンガ造の支持構造とが一体となった美しい建
   築物である。石鹸工場として建てられ、1912製粉工場、1959貯蓄銀行、1984百
   貨店・家具店、1981改修後、今では住宅や商業ビルである。
 エアメレア貯蔵庫 Ermeler Speicher (19c) 旧エアメレア煙草卸売会社の乾燥貯蔵所である。千鳥
   屋根煉瓦造の2階建の建物で、大規模煙草店は、煙草葉の保存乾燥の機能を有
   し、装飾性の優れた外観である。19c家具倉庫、1988復元され町のギャラリィとな
   り書店や観光協会を収容した。2005の改修後、市図書館になった。
 市博物館 Stadt Museum 2階建ての建物に、石器時代からバロックの街並みまでの歴史
   と産業の発展について展示している。

5.写真

聖マリア昇天教会 市庁舎
西南壁 西壁
西壁 ベアリスキィ・パビリオン

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スパンダウ Spandau Berlin BR30

1.歴史

 980 城と木製教会があった、      1157 アルバート・ベアが城壁と門を築いた、
 1197 辺境伯オットー2世の文書で城を言及、     1232 オットー3世は都市権を授与、
 1560-94 選帝侯ヨアヒム2世はシタデル建設、   1626 30年戦争中に守り強化と駐屯兵、
 1686 Lynar城に刑務所の設置、       1722 王ウィルヘルム1世は武器工場を建設、
 1813 プロイセンは町とシタデルを破壊、       1873 町は帝国要塞法で守られた、
 1877-79 拘置所をNeuehdorfStr.に建設、     1861 城跡に近衛連隊の兵舎、
 19c 防衛産業はマシンガンを生産、            1920 ベルリンへ併合された。

2.市壁  0.05km 0.04

   旧市街は堀で囲まれ、1728の計画図では北側に半円形の突出砦が市壁の前に
  4か所あり、その前面に堀・対岸にも防壁が設けられていた。北側のBehnitz地区
  には14cの古い市壁の一部が、長さ53m高さ6mの元の姿で残っている。その東部
  には、14cからの乱れのない石積があり、古い防衛塔の一部も背中にある。
  1920に修復が終わり、市壁の表示板が見られる。

3.シタデル・シュパンダウ (1559-94)

   北東の池の中に、ルネッサンスの星形要塞砦がイタリア人の指導で築かれた。200m正
  方形の4つの角に三角形の突起を付け、島の外側に防壁のある島で囲った。
  その後1950建設専門学校として使われ、1992歴史博物館が武器庫に開設された。
 門衛詰所門 Torhaus (16c) 入口には跳ね橋で守られた門があった、16cの門は1813
   の砲撃で壊され、1839に3階建で再建された。
 宮殿 Palais (1529) 島に入ってすぐ西にゴシック2階建のホールは、支配者の宮殿が築か
   れた。1936古い建物を壊してカジノが建てられた。1977建物はゴシックリバイバルで
   建て直された。
 ユリウス塔 Julius Turm (16c) 宮殿に沿って高さ30m壁厚2.3-3.6mの塔があり1813に壊
   され1836に胸壁を含め再建した。145段のラセン階段は1964に再建。

3.塔  0門2塔

 市庁舎塔 Rathaus Turm (1911-13) 市庁舎の中央に立つ高さ80mの四角塔で、四
   角塔で、4つの時計と鐘楼がある。
 ユリウス塔 Julius Turn (16c) 高さ30mの塔が、シタデルにある。

4.見所  B

   Zitadelle+Altestadt。理想的なルネッサンスのシタデルが良い状況で堀を巡らせて
  残され、博物館もあり一見の価値がある。旧市街地も1978-89に歩行者道路が整
  備され、ゴシックの街並み・アートギャラリィ・2つのレンガ教会等がある。
 市庁舎 Rathaus (1910-13) マルクト広場にあった古い市庁舎が狭くなり、南駐車場に新
   市庁舎が建てられた。大きな長方形の建物は、3つも中庭があり、高いマンサード
   屋根が4階建の上にある。116mの前面には7窓列があり、中央には4つの時計
   のある80mの高塔がある。
 コルク・ベーニック地区 Kolk Behnitz (14c) 旧市街地の北側で最も古い町である。コルク地区
   には12cスラブの城砦がありその後も砦が築かれ、1240町に統合された。コルク地区
   では歴史的建造物・古い木組の家など、典型的な旧市街の町並を伝えている。
   14cの古い市壁ノイチブ53mが元の6mのまま残され、1986再建された。
 ゴシックの家 Gotisch Haus (15c) ゴッシク石造2階建の家が建てられた。リブ付きの金庫
   や尖ったアーk-ドなど古い部分も残されている。18cの火事の後、古典主義の前面
   で再建された。1987修復作業が行われた。
 聖ニコライ教会 Pfarrkirche St.Nikolei (1239) 船乗りの守護聖人として建てられ14c
   には狭くなり、1370-94いまのレンガ造ゴシック3廊ホール教会を建て、1467-68後期ゴシック
   の西塔が建てられた。1539宗教改革導入。1969塔はバロックで再構築1979-96内装
   と外壁の修復が行われた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1723) 城砦地区に最初のカトリック教会が、聖ピーターとパウロ
   に小さな礼拝堂で献堂された。1742大王フレデリックが解体して1767に新教会を建
   設し1803に大修理された。カトリック教徒の軍人や労働者が増え、1848旧校舎に奉
   献した。1910メアリの新教会が奉献され、駐屯地k教会として1945まで使われた。
   2次大戦で壊れ2002-03に修復された。
 閘門スパンダウ Lock Spandau (1572) 旧市街とシタデルシタデルは3mの水位差がありロックを
   設けて解消した。1723.1816.1911.1995.2002に更新されている。
 空軍博物館 LufftWasffenMuseum(1934)町の南1.5kmに、元ガトウ空港に博物館を設
   け、軍事航空の歴史・軍用機・軍用ヘリコプター・軍事制服などの展示。

5.写真

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スプレムベルク Spremberg BR31

1.歴史

 13c シュプレー川の唯一の橋があり交易発展、  13c 瓦礫の市壁が市街地を囲んだ、
 1301 チューリンゲン辺境伯とマグデブルク大司教が 町と城の購入契約を結んだ、
 1349 シュバルツバッハの貴族が所有者となった、    1360 皇帝カール4世が城を購入、
 1497 町を買いマイセン辺境伯が支配、  1556.1604.1646.1671大火事で町は焼失、
 1680 町と城はザクセン・メルセブルク公が所有、 16c 陶器・織物・布地の発展で町の拡張、
 1738 ザクセン選帝候領へ、         1765 毎年2回の羊毛市場特権を得た、
 1815 ブランデンブルクのプロイセン州へ、        1856 蒸気動力駆動機械の導入、
 1880 プロイセン機械工業技術学校設置。

2.市壁  0km 

    最初の防壁は土堤であったが、都市の拡張や市壁の設置で壊された。ヨハニス・ガ
  ッセの合流点で柵のある壁の跡が見られる。次の14cの市壁はスプレー島全体を囲み、
  瓦礫造であったが後にレンガ造となった。良く持ちこたえた市壁は1980年代の建
  物によって姿を消してしまった。

3.塔  0門0塔

    西側のHoyerswerderTorとスプレー川のForsterTorの跡には門衛所の痕跡がある。

4.見所  C

   旧市街は、火災や戦災で歴史的建造物が減少したため、1990から町の景観保全
  に努め、かってのルザテノアの真珠と言われた街並みを取り戻そうとしている。
 市庁舎 Rathaus (15c) 度重なる火災で何度も壊され建て直された。1705の火事の後
   1706バロックで建て直され、1790古典様式で再建され、1899ルネッサンスで建られたが
   バロックの塔は残された。1933-34今の規模になり、近隣の建物を組み込んだ。屋
   内は5つの床の高さがあり、建物集合の証拠である。1993-99に2階建完全に統合
   られ改装された。
 十字架教会 Kreuz Kirche (1509) ゴシック3階建のレンガ造で、最も古いのは13-14cの部
   分がある。1705火災でバロックの塔が壊され、1732今の姿で建て直された。1731-
   34教会の内外で修復さてた。1897外装の漆喰は取り除かれレンガとなった。1997
   -2001一般的な保全が行われた。
 ヴェンディシュ教会 Wendish Kirche (1676) 教会広場の北にウルツラ・キットツンクが自費で建てた
   が1705の火災で全焼した。1710-35に再建されたが、1834老朽化で古典主義で
   建て直された。1992-4前面を保持しながら大改修され、今はクロイッツ教会の教区
   事務所である。
 日曜日の家 Sontagsches haus(1580)町で最古の家。居住者の名前が付けられた。2
   階建上階木組の単純な建物で、1705に火災を生き延びた。その後大きな改造が行
   われず、1970に19cの石膏を除去して木組を露出させ、一部木材を取換えた。
 市民の家 Buerger Haus (20c)簡易な建物を近代的な2階建に建て替えて、今は観光案
   内所・パン屋・事務所が入っている。
 カファリアハウス Kavalier Haus (1706) ザクセン・メレセブルク公が来客のために建てた。2階建のバロッ
   クの家で、1777レストラン、1855-83郵便局、今は貯蓄銀行。1994改修。
 城付属領地の家 Burglehehaus その住民は1826まで税金義務を免除され、市民権も主
   張できた。1860から商人が所有し、繰り返し改造され、今は住宅と商店である。
 郵便局 Post (1882-83) 帝国郵便局として建てられ、1890電信塔の稼働、2017崩壊の
   危機で閉鎖。郵便局の向こう側は旧市壁のヨハネス・ガッセに遺跡がある。
  Castle Spermberg (1100)ロマネスクの塔のある城から、ザクセン・メルセブルク公はバロック4棟
   の複合施設となった。最も古いのは壁厚4mの主塔の下部である。本館の地階には
   3部屋に天井がある。1680-1738メルセブルク侯爵時代に拡張され、1738ザクセンの所有と
   なり1997まで補修が行われた。城内にはニーダーラウジッター・ハイデ博物館がある。
   

5.写真

市庁舎

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ストラウスベルク Steausberg BR32

1.歴史

 1225 ストラウゼ城が築かれ市が立った、 1240 町を設立、1254町は周壁で守られた。
 1250 聖マリエン教会、1252 ドミニコ会修道院設立、1329 市庁舎建設、1348 黒死病流行、
 1432 フス派の侵攻で一部損傷、     1541 宗教改革の導入で修道院廃止、
 1631-33 スエーデンの占領で1638人口22人、 1714 歩兵連隊が駐留、
 1806 ナポレオン軍の侵攻、        1863- 鉄道・裁判所・郵便局・フェリーの開設、
 1643 30年戦争で413家族→30家族に、  1735 最後の大火災、1817 郡庁所在地、
 1945 赤軍の占領。

2.市壁  1.07km 0.57

   14cの市壁は、高さ6mまでで24のWiekhaeuser(壁上家屋)があった。
   今でも約6割の市壁が残っている。

3.塔  2門0塔

 ランツベルガー門 Landsberger Tor 南にあり1950に取り払われた火薬塔の西壁
   の近くにこの門がある。この塔は隣のツインガーに属し、18cに駐屯地の火薬庫
   として使われた。この門の断片は新しく建設された市壁になった。。
 カイツアー小門 Kitzer Pforte 西の魚地区へのあり、今は痕跡を止めるのみ。
   Kietzは13cシュトルベルク城に勤務する人々の集落であった。
 ヴィリーツナー門 Wriezener Tor 北のあった門塔で1828までは存在した。
 門衛所 Torwarterhaus 東の旧門衛所は修復された。旧ミュンヘンベルガー門の
   記念碑である。

4.見所  C

  800年の町の歴史を示す野石の聖堂であるマリエン教会など古い建物や市壁のある
  文化公園都市といわれる。
 旧市庁舎 AltesRathaus (1339) 1805に破壊されマルクトの西に古典主義2階建の
   市庁舎を1819-25に建てられた。2010に再設計され今は図書館と戸籍局。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1250) 教区教会として建てられ、1341-42に丸天井
   に改築された。1432火事になり内部は崩壊した。1448教会は再建し丸天井の
   内陣・塔の鐘楼を組入れた。1747高さ50mのバロック木製のランタンを付けた。
   1815古典的な入口で装飾、1922木製塔の崩壊、1534小さなオルガンは1594
   本格的となったが30年戦争で損傷し、1707修復、1773新オルガンの設置。
 聖ヨセフ教会 St.Josef Kirche (1923-28) 南西にカトリック教徒が増え、ローマカトリック
   歴史主義のレンガ漆喰塗の教会が建てられた。西塔は南北につながり長方
   形で特徴のある三角屋根がある。オルガンは1962に付けられた。
 簡易裁判所 AmtsGeriht(19c)この場所は城や修道院は既になかった。
   全レンガ造3階建の面白い建物が建てられた。
 都市農民の家 Ackerbauern Haus () 典型的な木組2階建の中世都市農民
   中庭のある住宅。
 旧醸造所 AlteBreuhof()この建物は町でも稀な野石造の建物で、最後
   の中世的な醸造所であり、レストランとして使われている。
 旧郵便局 Alte Post ネオルネッサンスのレンガ造2階建の建物で、今は貯蓄銀行。

5.写真

旧市庁舎 聖マリア教会

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テムプリン Templin BR33

1.歴史

 1270 ブランデンブルク司教・アスカニアン侯爵の文書に初言及、1287 オットー4世村から文書、
 1314 初めて町と呼ばれた、      1317 テンプリン条約でブランデンブルクは失権、
 1397 広域強盗に対抗し都市連合に加入、1479 プランサラウの和平で町はブランデンブルクへ、
 1539 宗教改革の導入、        1574 町で深さ2mの洪水被害、
 1618 大火災で町は殆ど焼失、     1626 ペスト流行、1627 30年戦争の略奪、
 1643 30年戦争で413家族→30家族に、  1735 最後の大火災、1817 郡庁所在地、
 1944 空爆で町の66%が破壊。

2.市壁  1.64km 0.94

   古い木柵から1300の市壁は高さ7m延長1.7kmの石積とし、死角を無くすために
   楕円形とし、20-30m間隔に54のWiekhaeuserを築いた。市壁は氷河の石を集めて
   構築材料とした。 1990から市壁は修復されている。

3.塔  3門2塔

   1300の市壁には3門があり、その他の門は後の時代に設けられた。15c前門側
   にツインガー壁が延ばされた。1866夜間閉門が無くなり、1960交通障害で市壁が開け
   られた。2010の改修後に、門と前門との間はそれぞれ市博物館が収容された。
 ベルリン門 Berliner Tor (1300) ゴシック煉瓦造4階建ての門塔で一部石積も見
   られる。4階には自然博物館が入り、遺跡・自然保護区・生物保護区・湖の美しい
   環境や貴重な生息地が展示されている。
 プレンズラウアーベルク門 Prenzlauerberg Tor (1300) ゴシック煉瓦造切妻付大アーチ
   で前面の模様は美しい。前門とツインガーと塔の両側には歩道が在る。1953から
   ウオッカーメルク民俗博物館が設立され、農業の発展についての展示がある。
 粉挽門 Muehlen Tor (1300) ゴシック煉瓦造3階建て帯状の棕櫚の葉の飾りを
   付けた切妻に小塔が8本立った塔で、北側の市壁は道路で切れている。
 火薬塔 Pulver Turm (15c) 火薬の貯蔵のためにWiekhaeusは拡張強化され
   て円錐屋根の円塔である。
 梟塔 Eeulen Turm (1300) 野石で造られた円塔で監獄として使われ、民間
   ではHunngerTurumとも呼ばれた。高さ6mに戸があり、絵画が飾られている。

4.見所  C

  楕円形の小さな町で、高さ7mで3門と多くのWiekhausのある市壁が保存されて
  いる。3門が前門とツインガーを含め良く保存され、それぞれ博物館になっている。
 市庁舎 Rathaus (14c) 古いワインセラーから古い市庁舎が在った事が分かる。
   1735の火事でか焼かれ、1746-48にバロックで再建され、精巧な漆喰の前面の3階
   建ての大規模な建物になった。1855巡回裁判所で時々使われ、1944空爆で左
   半分が破壊され、1963-66<元の姿に復元された。1998近代化と修復、2007内装
   改修され、今は登記所・高齢者センター・地下に観光案内所を収容。
 マグダナのマリア教会 MariaMagdalenen Kirche (14c) この場所に在った最古
   の教会は1492の火事で焼かれ、その後再建された。現在の建物は中世の古い基
   盤の上に建てられ、1735火事で塔上部と聖具保管室が焼失し、1749までかかっ
   て元のゴシック身廊を残して再び聖別された。1994のオルガンで定期演奏会を開催。
 聖ゲオルグ礼拝堂 St.Georgen Kapelle (14c) ベルリン門の近くの最古の基礎
   上にゴシック煉瓦造の小礼拝堂で、竜との戦いを描いた大きな木彫がある。15c建
   てられた病院の建物はまだ残っている。1735の大火も奇跡的に免れた。
 マールトロック Mahltrog 後期青銅時代BC2000-800年の歴史的な石であり。
   その石は穀物の手加工に使われた。
 関税の家 Akzise Haus (1768) 旧塔書記の小屋で、19cに通行税が廃止さ
   れた後に、住宅として1990まで使われ、1994観光案内所となり、今は工芸品
   として提供。
 町歴史博物館 Museum fuer Stadt Geschichte Templin 町の歴史的と
   文化的な展示。
 梟塔画廊 Galerie am EulenTurm 梟塔に絵画芸術の展示。
 ベルリン門生活部屋 LebensRaeume in BerlinerTor 生活の部屋の展示。
 多文化会館 MultiKulturelles Centrum プレンツラウアー門の前に展示。

5.写真

市庁舎 ベルリン門
マールトロク アクティーゼ・ハウス
火薬塔 プレンズラウ門
南壁 東壁
東壁

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トロイエンブリーツェン Treuenbrietzen BR34

1.歴史

 1208 オットー4世の帝国文書に初言及、   1217教区教会・メアリ教会・ニコラス教会建設、
 1290町となり1296-1306市壁・市門建設、 1346 バイエルン軍の助けで敵を退けた、
 1346 バイエルンは町の忠誠で関税を免除、   1565 町は帝国直轄都市となった、
 1636 町はスエーデン軍の攻撃を防いだ、     1641 スエーデン軍は町を略奪した、
 1648 30年戦争後はペストもあり50人残る、      1716 大火災で町は被害、
 1742 町は駐屯地となった、         1806 ナポレオン軍は略奪して通過、
 1864 陸軍病院の建設、          1879-1952 地方裁判所が置かれた、
 1945 第2次大戦で被災。

2.市壁  0.09km 0.04

   1296-1306に築かれた市壁は、高さ8-10m厚さ1.0mの楕円形で旧市街を囲んで
  いた。今残っているのは、西北のHinter der Mauer の外側に90mである。

3.塔  0門3塔

 市塔 Stadt Turm (1352) 精霊礼拝堂として、西の市壁の内側に建てられ、貧しい
   職人や旅人のために使われた。30年戦争で荒廃し廃墟で長年残された。1872
   記念物となり、1936修複され、教師オスカー・ブラハビークは歴史的な郷土のコレクション
   を展示して博物館とした。
 火薬塔 Pulver Turm (13c) 北の市壁に火薬塔のみが残されている。塔は駐屯軍の
   火薬と弾薬の倉庫として1877まで使われた。今はコウノトリの営巣のためのみに
   使われている。
 給水塔 Wasser Turm (1910) 北東の市街地に、高さ42mの給水塔が建てられた。
   水タンクは、直径5m高さ5.75m容量10万リッター。1993改装され記念物。

4.見所  B

   旧市街地には、見るべき古い木組の建物もある、牧歌的な町。
 市庁舎 Rathaus (1250) 初めは商館や倉庫として使われ、その中で職人が造った製
   品を販売した。1370理事会と参審員の管理棟として使われ、塔は1606に時計
   を付けて再建された。1783バロック漆喰の2階建てに改修した。1837北側に屋外
   階段付けられ、地下に食堂、上階に大会議室があった。1862円形屋内室が付
   けられ守衛室となった。1991前面塗装と屋根を新しくした。
 聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (1220-60) 南西に、初期ゴシックの十字バジリカがあ
   り、1519南に円天井の聖具室、1756西に新横断塔をつけた。1969東の復旧工
   事でボールトの絵画と後陣の15cの絵画が現れた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1157) 東の端に初め石造で、1234-40煉瓦造で初期
   ゴシックの十字型バジリカが建てられた。1370ラテン語学校が併設され、1500四つの
   破風のある角塔が付けられ、1806捕虜収容所や倉庫として使われ1811改修後
   再び礼拝が行われた。1959-65大規模改修で元の雰囲気が戻った。
 吊るし屋台 Hanken Buden (16c) 市庁舎の後ろに、かっての通商と倉庫であった木
   組みの建物が在り、この中で職人が製品を製造し販売した。
 ギルドハウス GildenHaus (1540) Hanken Budenの中に、古いギルド・ハウスがある。
   地階は石積で上階は木組みの建物であり、地階には靴職人の作業場、上階はギルド
   ホールがある。
 小劇場 Kammer Spiele (1938) 500席の映画館として建てられた。1989以来信託会
   社が管理した。

5.写真

市庁舎 市塔
火薬塔 給水塔
西壁 北西壁

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ヴィッテンベルゲ Wittenberge BR35

1.歴史

  983 スラブの反乱が起こり城は破壊、 1147 ガンス族は侯爵としてこの地を支配、
 1170 城と入植地を造り柵・水堀で囲む、  1214 シュベリン侯爵は城と領地を占領、
 1239 町の初文書言及、          13C オットー1世は石門を木造で造った、
 1312 町の特権はオットー1世が確認・更新、  1321 メクレンブルクの所有で騎士を領主、
 1337 辺境伯は町を騎士に売却、        1345 辺境伯は町を取り戻した、
 1370-77 辺境伯は直属の町とした、          1539 宗教改革の導入、
 1624 凶作で飢饉となりチフス・ペスト流行、   1627-38 30年戦争で苦難の時代、
 1650.55.58.61エルベ堤防破壊、        1686.1709.57.61大火災の発生、
 1706 ガンス家が関税を上げプロイセン王は戻した、 1724 城主と議会の争い和解、
 1781 ガンス家支配は終わり城・荘園売却、   1791プロイセンは排水事業費を支出、
 1806-12 仏軍占領し占領負担金を徴収、1945 2次大戦の爆撃で被災。米軍進駐。

2.市壁  0.05km 0.07

   川沿いの卵型の旧市街地の北東部に50mの市壁が残っている。

3.塔  1門0塔

 石門 Stein Tor (13c) 当初は門の上部は木造であったが、1410の火災の後の再
   建で石造となった。警察・裁判所・刑務所として使われた。1926に市博物館
   となり、火災・泥棒・町の外観について説明がある。

4.見所  D

   町は広いが、旧市街は川沿いで小さく、昔の物は殆ど残っていない。
 市庁舎 Rathaus (1914-25) 旧庁舎の跡地拡大して歴史主義で建てた。市議会の
   大会議室は、町の寓話の絵で飾られ、客室には木の彫刻と貴重なステンドグラスの
   窓があり、紋章は46の窓を飾っている。塔の高さは51m、高さ37.5mにある
   展望台には登れる。
 新教教会 Evangelische Kirche WIttenberge (1870-72) ゴシックリバイバルで建てられ
   た身廊は53m*17m・翼廊は20m*10.5mで、2000に大改造。塔の高さは53m
   で、1920に3つの鐘を購入、1935のオルガンを設置。2012改修した。
 四季の家 Haus der 4Jahreszeiten (1906) アアールヌーヴォーの美しい建物で、住宅や商
   館としてつかわれ、白と青のセラミックタイルが使われ、明るい色調で四季を表し
   ている。
 市博物館 旧城 StadtMuseum AlteBurg (1669) 30年戦争で壊された後貴族領主
   ガンスは城を建てた。町の郊外にあるシンプルな荘園は、19cまで存在し1971から
   労働者と産業の博物館置かれ、大改装の後に市博物館「旧城」となった。
   1928-1991の家庭ミシン工場の経緯と職場での人々の生活を説明している。

5.写真

市庁舎 石門
東壁 ヴィッテンベルゲ教会

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ヴィットストック Wittstock BR36

1.歴史

946 スラブの入植地として成立し、教区ハーベルベルクの教区証書に初言及、
 1248 司教ハインリッヒ1世はステンダラー都市権授与、1271-1548 スラブ砦の上に城を建立、
 1410 地震、1495大火災、町の大部分を破壊、1523 最初の町の規則を公布、、
 1548 最後の城の司教の死亡、 1550 宗教改革後もハーベルベルク司教の支配継続、
 1636 30年戦争の戦場となった、     1638 ペストの流行で人口半減、
 1716 大火災で町の1/3を再度失う、    1812 ナポレオン戦争中に星形要塞設置、
 1945 2次大戦での空爆被害は少ない。

2.市壁  2.435km 0.97 

  1244煉瓦の市壁が修道院の形式で造られた。長さは、北側の小さな台座を除
  いて、市街1999m+建物の壁264m+城172m=2435m、高さ9-11mであった。市壁には
  約50m間隔で矩形または半円形のwiekhausが、ほぼ40あった。国の刑務所の診療
  所を造るため1/3が壊されたが、1990-96に市壁は高さ4-8mで、4か所の切れ目を
  除いて全て復元された。

3.塔 1門2塔

 グレーバー門 Groeper Tor (14c) 旧3門の内唯一残された煉瓦積5階建
   の角塔の市門で東側に道路が付けられた。1503四角錐屋根を上げ、1867まで
   門扉は夜間閉鎖された。
 ダーバー塔 Daber Turm (14c) 煉瓦積4階建ての円塔で円錐屋根がある。
   Daber Bachの庭園内にあり、塔内にはパン焼き窯が展示され、パンが焼ける。
 役所塔 Amts Turm (13c) 昔の司教城のの一部で1271-1548に司教が住
   居として使った。元は5階建ての角塔だったが、後で2階分と屋根が付け足さ
   れ、32mの高さとなった。今は30年戦争の博物館である。

4.見所  B

   復元された新しい煉瓦の市壁で囲まれた町で、煉瓦造の40ものWiekhaus
   が見られる珍しい町である。北門から縦に旧司教城の見所と木組家がある。
 市庁舎 Rathaus (1274) 建物は多くの改造や再建が行われたが、1905-06
   ゴシックリバイバルで再建された。裁判玄関・地下アーチ・北破風は以前の物が使われ、
   それで15cからの痕跡が遡れる。1997-97修復で古い美しさとなり、本会議場
   の絵画を復元・古い太陽時計・玄関のスコッタが見られる。
 旧司教の城 Alte Bischofsburg (1271) 司教がこの町に住居を移し、城
   を拡大した。1995-98に全体を復元再構築された。1957地区博物館が城の塔に
   移され、逐次拡充されて、町と地域の歴史・文化・産業の展示に加え、30年戦
   争博物館として「平和のための7戒」がある。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) ゴシック3身廊煉瓦造ホール教会で、塔と
   身廊は13cの物で、1704に高さ68mの高塔にバロックの天蓋が付けられた。中には
   1558祭壇・バロックの木製洗礼盤・マドンナ彫像がある。
 聖霊教会 Heilig-Geist Kirche (1300) 2身廊煉瓦造の建物で、中世の
   商人や旅行者の礼拝のために使われた。1549旧フランシスコ会修道士が初めて新旧
   両方の礼拝を可能とした。1716火災で損傷し1730の復元され、塔は今の姿に
   なった。1996大改修の後に精霊教会になった。
 新教教区会館 Ev.Gemeinde Haus (1581) 1711にそれまでの建物が老朽
   化し、1720新しい教区事務所を建てた。1785には農場の作業や商業のために
   1839監督者事務所に、1996に集会所としても使われた。
 繊維工場 Tuch Fabrik (1324) 何世紀にもわたって町の呉服屋であり、
   ウールが提供された。1845には服地の会社がここに設立され、1749第2織物工場が
   近くのRosenwinkl通りに建てた。1870-1905工場は市外に移転された。
 ローターの家 Rothersches Haus (1726) 大火災の後に再建され、1848所有者
   ハーマン・ローターは拡張して2階建て石造のファッション・ビルを建てた。
 最後の切妻家 Letztes Giebel Haus (17c) 古い切妻のある木組みの家は
   300年間の町の火災を生き延びた。
 テルショウの家 Telschowsches Haus (1566) 代表的な木柱式の古い事務所で、
   1681最初の郵便局になった。
 鷲薬局 Adjer Apotheke (16c) 町で最初の薬局で、1570からは今の場所に
   在り1598薬局特権が確認された。1716火災で破損後に買収された。
 スエーデン岩 Schweden Stein (1636) 30年戦争のウイットストックの戦いの勝者であ
   るヨハン・バーナーを記念して、大きな石の前で感謝の行事が行われている。

5.写真

市庁舎 グレッパー門
役所塔 市民通小門
東北壁 東南壁
西壁 南壁

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(h1) 歴史と見所

 表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。

⑤ ザアクセン・アンハルト州 SA

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アケン Aken SA1

1.歴史

 12c 城が初言及されたが1121焼失、1270 直角に区画された方形の町とした、
 1300 30haの方形の町を 4市門・14塔のある市壁で囲んだ、
 1355 ザクセン公爵ルドルフは ドイツ騎士団長の館を設立し1717まで存在した、
 1541 宗教改革の導入、       1680 ブランデンブルク公国の帝国直属都市に、
 1701 プロイセン公国に属した、     1790 プロイセン軍の駐屯地になった、
 1806 ナポレオン軍に敗れ、1807エルベ以西はヴェストファーレン王国としてナポレオンの弟が支配、
 1815 ウイーン会議でプロイセンに帰属、   1881 舟運で栄えた、1889-91港湾整備、
 1945 第2次大戦の空襲からは免れた。

2.市壁  2.04km 0.69

  珍しく四角な町を、それまで守って来た木柵に換えて、1300-12に市壁が築かれ
  堀と土堤で守った。19c初めに撤去されたが、約7割の市壁は残された。

3.塔  3門0塔

  14cの4門は夏10時冬9時にオーク材の扉が閉じられた。その後通用扉を開けるために
  は、15ペニーを払わなければならなかった。
 デッサウ門 Dessauer Tor (1608) 東、8m角・壁厚1.65m・4階建ての門塔。塔頂に
   コウノトリの営巣が見らえる。
 ケーテン門 Koethener Tor (1288) 南、1551から今の姿になった。1960塔の両側
   に時計が付けられた。下の部分は中世からの部分で、その後上の部分がルネッサンスで
   継ぎ足された。
 城門 Burg Tor (1288) 現在の4階建て角塔の姿は1500からの物で、3塔と
   も1994-96に大規模修復が行われた。

4.見所 C

  エルベ川の南岸に、まだ多くの市壁に囲まれた町が有り、木組みの家が残っている。
  対岸からは林立する門・市庁舎・教会の塔が見られる。
 市庁舎 Rathaus (13c) 古い市庁舎は大火災はで1485に破壊された。1490に
   実用的で頑丈な2階建ての建物を新築した。1609更新、1907拡張され、直交する
   2面に切妻のある屋根。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1265) 当初通商路の礼拝堂として設立され
   1270参事会教会となった。1316エルベ川の洪水被害後、1317-35拡張修復した。その
   後ゴシックの聖歌隊・3階建て双塔が付けられ、3廊の天井はゴシックとなった。
   1884-92ネオゴシックに改装、1945から構造劣化で1983閉鎖された。その後新教教会とし
   て修復された。
 聖マリア教会 St.Mrien Kirche (1188) 1484大火で焼失し豪華な内装で再建され
   た。市民・商人・職人の教会で、1540改革後プロテスタント教会となった。1975に使用を断
   念され、1992から改修された。
 古い木組みの家
   Nieman Haus (1584) Koethen str.41 大邸宅で入口に年号と所有者の碑文がある
    美術館で入口扉飾りと真鍮製のノッカーが見られる。
   Haus (16c) Koethen str.30 木製の切妻は草の模様で埋められ、リビングには16c
    の漆喰がある。門扉はバロック。
 遺産博物館 Museum 舟運と港湾の歴史・町と地域の先史時代からの歴史、屋外
   段塔が付けられ、18c後半には拡張が行われた。今は地方裁判所として使用。

5.写真

市庁舎 デッサウ塔
ケーテン門 西壁
西壁 ニコライ教会
フェリー

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アルシュテット Allstedt SA2

1.歴史

 780 ヴィークベルティ教会のAlstedi村を初言及、890 修道院と城が記述された、
 935-1200 ハインリッヒ1世が憲章に署名し帝国の王宮へ、12-14c 貴族アルステートは本部を、
 1323-48 マンスエルト伯爵は近接の市場町設立、1425 都市権を授与された、
 1496 貴族ケアフルト家断絶後 都市とした、 1515 フェアの特権を付与され取引の中心、
 1568 新学校開設、1570ブドウ栽培の振興、17c 30年戦争で課金された、 
 1652.1657 火災でほぼ焼失、1681 ペストで人口半減、18c 都市の権利を失い村へ、
 1776-82 ゲーテは事業のため訪問、    1834 法的に都市となり市壁は取崩した、
 1851 砂糖工場、1885麦芽工場、1980金属加工工場、 1918までチューリンゲン、
 1920まで ザクセン公国とワイマール自由都市、1945 空襲後占領、ザクセン州へ、
 1990 ザクセンアンファルト州へ。

2.市壁  0.56km 0.62

  14cの市壁は、1834の都市化に伴い取崩され、町の西半分に残った。
  堀と土堤で守った。19c初めに撤去されたが、約7割の市壁は残された。

3.塔  0門0塔

  見当たらない。

4.見所 C

  大きな宮殿が残されている。
 市庁舎 Rathaus () 前面ゴシクの階段塔の上に鐘楼が乗っている2階建の建物には、
   古い帝国の鷲の紋章とザクセン選帝侯の赤い剣があり、ドアの上には町の紋章
   も掲げている。会議室には見事な木彫がある。
 ヴィークベルティ教会 Wigberti Kirche (8c) 神聖なヴィークベルティに捧げられ、古くからの
   木造の教会は1200弓のような窓の付いた頑丈な石造の建物で再建された。
   教会の塔は修復され登る事が出来る。月の第1日曜日には聖堂の展覧会がある。
 聖ユハネ教会 St.Johannis paptistKirche (17c) バロック石造の身廊に低い大きな塔が
   あり、ランタン鐘楼が乘っている。広い内陣の後ろに網目模様に豊富な花や果物
   の模様で飾った説教壇がある。教会評議会員と監督の絵が広間を飾っている。
 町粉引所 Stadt Muehle (19c) 1997にミル技術の復元を始め、1998水力発電所の再開、
   1999水利権を得て、水車の運転を始め、歴史的ミルの稼働を行った。
 宮殿 Schloss Allstedt (10c) 町の北東1kmに、オットー2世の下で多くの皇室と帝国
    会議がここで行われた。何世紀に渡って改修され、1188フレデリック1世はドイツ
    最後の帝国会議を開催した。1776-82ゲーテも何回かこの城に滞在した。1989
    中心のブルグは博物館と文化の中心となった。
 アルステッド宮殿 の入口は、四角塔が立ち、周囲は城壁と城の建物で囲まれている。
    入り口を入って左にVorburgがあり、右側には2階建の各種建物群が長方形に
    大きく建てられている。入口から北に正方形に囲まれたブルグがある。
     宮殿博物館とブツグ・ケラーで使われている。

5.写真

市庁舎 聖ユハネ教会
南西壁 西壁
北西壁 北東壁

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アッシャースレーべン Aschersleben SA3

1.歴史

753 フルダ修道院の贈り物の文書に初言及、 11c アルブレヒトは町を行政・司法の中心に、
 1266 ヘンリー2世は都市の憲章を授与、    1322 オットー2世は市壁の建設許可、
 14c 町は市壁と堀と門塔で守られた、   1326 商業的利益からクエトリンブルクと同盟、
 1446-70 現存の市壁が築かれ、16cに補強、1426 ハンザ同盟に加入、1518まで、
 1525 農民戦争が始まる、        1528.1566.1625 ペスト流行、
 1618-48 30年戦争でスエーデン軍の略奪、   1760 仏軍の占領と略奪、1792プロイセンへ、
 1807 ナポレオン軍が占領、         1813 プロイセンのザクセン州となった、
 1940-45 航空機工場と町が空爆大被害、  1945 4月米軍のち英軍、7月赤軍へ。

2.市壁 0.52km 0.25 

   14-15cの市壁は、全周2.1kmあり、リングに沿って緑地がある。市壁は高さ8m・厚さ
   1m、堀幅は22-26mで4-6mの水深がある。壁には2.5m間隔で様々な形の銃眼がある。
   木製の壁上通路は僅かしか見られない。戦時には市民は防御に動員され、加えて武
   装した雇い兵を町の隊長の下へ提供しなければならない。火器の発達により、市壁
   の防御機能は失われ、交通障害の増大もあり、18-19cに部分的に取り壊された。

3.塔数 18

   初めは51塔あったが、まだ15塔が様々な形で残され、5門のうちヨハネ門の内門のみと
   その他2が残っている。
 ヨハネ門 Johannis Tor (1380) 北、高さ42m側門付きの角塔で、屋根には4小塔が
   立つ。前門は1571に建てられ1861に取除かれた。堀橋の外側にあった区分門も
   1850に壊された。
 ハインロッヒ細塔 Turm Schmaler Heinrich (1442) 北、ヨハネ門の近くの高さ32mの角塔。
 ヨハネ遊歩道塔 Turm in der Johannis Promnenade (1442) 北西、昔32mの高さは
   今11mの角塔で、屋根には4小塔が付いている。
 カラス塔 Raben Turm (1442) 北西、高さ31mの角塔で、登頂には胸壁と帽子が付い
   ている。保存状態は良く、名前は絞首台の近いために付けられた。
 大円型塔 Rondel (1507-83) 南、高さ23m直径17m厚さ3.5-4mの大砲が装備され
   た円塔で、木材の床はギルドによって1846に作られた。
 愛妄想塔 Lieben Wshnscher Turm (1442) 東、高さ27.5mの角塔、高さ13mの門
   は1437に造られ1811にこわされ、高さ23mの前門は1767に壊された。
 ロンデルの西の塔 Turm Westlich des Rondels (1443) 高さ30mの角塔。
 エリザベート・ツインガー側の殻 Schale am Elisabeth Zwinger (1441) 高さ7mの半円形、
   エリザベス歩道に沿った殻。
 火星原前塔 Turm vor dem Marsfeld (1443) 北東、高さ26.5mの角塔。
 麦芽工場防備 Befestigte Malzmuehle (1419) 西南、高さ8mの町の防備のため
   の施設でもあり、水を引いて2階建ての粉挽水車と麦芽工場があった。
 高い靴下塔 Hoher Stumpfer Turm (1440) 西南、高さ23mの角塔で地下に牢獄。
 麦芽工場東殻 Schale Oestrich der Malzmuehle (1440) 西南、高さ11.5mの円塔
 麦芽工場西四角殻 VierEckige Schale Westlich Malzmuekle (1440) 昔は32m、
   今は高さ11mの角塔。
 麦芽工場西四角殻 Rund Schale Westlich Malzmuekle (1366) 西南、高さ10m。
 裁判所側の先端要塞 Spitze Bastion beim Gericht (1436) 西、高さ10mの
   ツインガー前面要塞の小門。
 裁判所側の大殻 Grosse Schale beim Gericht (1436) 西、高さ12mのツインガー前
   面の4/5円塔殻。
 ルイゼン遊歩道ツインガー Zwinger in der Luisen Promenade (1461) 西、高さ10mの
   円型の張出し。
 ルイセン遊歩道の四角殻 VierEckige Schale in der Luisen (1461)西、かって32m
   の角塔。

4.見所  A

   観光歩行者誘導の3ルート(建築物・町の防衛・公園)が石碑・パネルで表示されている。
  15cのゴシックの建物がおおく、1市門15塔2稜堡と市壁、19cに堀を埋めた公園もある。
 市庁舎 Rathaus (13c) 古い市庁舎は教会広場にあり1511に爆発、1798に取り
   壊された。1715-18新しい市庁舎が建てられ、その後に主塔が付けられた。1730に
   黄色に塗られた新しい窓が付けられた。1885周辺の土地を町が購入し2階建て別館を
   増設し、1935市場側に拡張した。南側の階段塔は4つの床に伸び、西に時計塔がある。
 灰色の館 Grauer Hof (1309) 最も古い世俗的な建物で、中庭には灰色の服を着
   た僧侶が常駐していた。修道院の農園として管理され、主な建物は石造であるが、西
   側に市壁のある不規則な木造の上部工の2階建ての建物もある。外側の門は2アーチで内側
   の尖頭アーチにつながる。今は町の文化施設として使用されている。
 クルマンの家 Krukmannsches Haus (1572) 商人の家で、ルネッサンス上層木製の3階建て
   主門のアーチをを通って中庭に入る。角は円形の出窓で飾られ、中庭からのみ見える16c
   初の塔には階段がある。
 ビアハウスレデラー Bier Haus (1512) 古いルネッサンスの宿の建物で、1774-1802
   に詩人が住んだ。
 聖ステファン教会 St.Stephani Kirche (15c) ゴシックのホール教会。1406-1469高さ82mの
   塔、1480-1507身廊。当初は2つの塔が在ったが、砂基礎のため北塔は中断され、南塔
   は定期的に傾きを確認している。
 聖マルガレーテ教会 St.Margarethen Kirche (1250) 30年戦争で教会が破壊された
   後で、1715に再建された。
 フランシスコ会修道院教会 Franziskaner Kloster Kirche (1280) マルクトのフランシスコ会修道
   院の教会を、新教の聖十字架教会として使われている。
 水車 Wasser Muehle (1357) ロンデアルのある堀の南のWasserVorstadtにあり、橋桁
   の壁で守られ、今は1992-93に改装され、若者のクラブとして使われている。
 肉屋台 Schafl (17c) 聖ステファン教会につながる小さな路地に、2つの古典的な柱廊
   があり、ここで1724肉の屋台が置かれ、19c肉屋が自社製品を展示販売した。名前は、
   中高独語で肉屋屋台の意味である。
 市博物館 Stadt Museum 町の歴史(創設・要塞・中世の遺物・農民戦争・手工業・
   工業化)、先史(新石器時代・青銅器・鉄器時代)、古生物(化石・4mの竜魚)。
 犯罪ロウ人形館 Kriminal Panoptikum (1896) 1982まで旧市街の刑務所で使われ、
   その後20年間空いていたが、2003に再構築して、市内の犯罪ロウ人形館と共に、犯罪
   博物館となった。凶器・拷問道具・歴史的刑務所施設・調査道具・ヘルメット等多くの珍しい
   物が見られる。

5.写真

市庁舎 鳥の井戸市場
円型塔 カラス塔
聖ヨハネス塔

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バ-ド・シュミーデベルク Bad Schmiedeberg SA4

1.歴史

 1150 フラマン帝国の植民地として教会のある村、        1206 初文書言及、
 1350 町は都市権を授与された、         1454 レンガ造の新教会の建設、
 1490 市民権が与えられ新市庁舎建設、 17c 30年戦争で市庁舎破壊、30年後再建、
 1700 ザクセン選帝侯は駐屯地に、       1815 ヴィッテンブルク王国に属した、
 1878 駐屯地の廃止          、1878泥浴槽を設けスパ予定都市になった、
 19c  カイザー・バスの創設、        1908 アールヌーボーのスパビルの建設、
 1925 市名にBadの呼称が許された、    1945 戦災は受けず ザクセンアンファルト州へ。

2.市壁  0.06km 0.05

   14cの市壁は今は殆ど残っていない。西側の公園通の南端と北部に痕跡がある。

3.塔  1門1塔

 水郷門 Au Turm (1490) 北門は2階建でアーチ門の上に塔と見張り所がある。門は東に伸
   びる大きな建物につながり、その地階に歩行者の通路がある。
 カイザー・ヴィルフェルム塔 KaiserWilhelm Turm (1910) 南西の標高208mの山中に立つ4階建の観
   測角塔である。

4.見所 C

 市庁舎 Rathaus (1570) ルネッサンス2階建の基礎壁が高く正面に屋外階段がある。
 聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (14c) 以前の教会が1429に壊れ、1453-54にレンガ造後期
   ゴシックで再建された。1640天井が崩壊し、1666-81に復旧された。修復は1905.1991
   .1997-98に行われた。後期ゴシックの塔は1806と1904に更新された。1813-16ヴィッテン
   ベルク大学の大学教会であった。1731後期バロックで改装された。
 住居 Wohnhaus (1619) 前面ルネッサンスの建物。
 住居と商店 Wohn und Geschaeft Haus (16c)中庭に2階建てのアーケードを持つバロックの建
    物。
 牧師館 Pfarrhaus (1563) ルネッサンスの建物。
 サナトリューム Sanatorium AltesKaiserBad (1896)公園にあるルネッサンスと後期古典主義の複合
   入浴施設。
 都市農民の家 Ackerbuergerhaus (16c) ルネッサンスとバロックの建物。
 住家 Wohnhas (16c) ルネッサンスの建物。

5.写真

市庁舎 水郷門

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バレンステット Ballenstedt SA5

1.歴史

 1030 町の伯爵Esicoの文書に初言及、  1043 Esico伯爵は城山に修道院を建立、
 1170 ブランデンブルク辺境伯は修道院教会に埋葬、1512 アンハルトの侯爵は醸造権を付与、
 1525 農民戦争で修道院は破壊された、  1543 都市権を授与された、
 1623 30年戦争で帝国軍は町を占領、   1665 30年戦争がバーレンシュタイン軍が略奪、
 17-18c 城山の修道院は改築された、  1765 アンハルト・ベルンベルク侯爵は宮殿を置く、
 1863 侯爵家の絶滅後デッサウ家に移った、 1900 アンハルト公の狩りの副宮殿、1918まで、
 1946 アンハルト公家族の住居、       1945 2次大戦後に産業団地で経済発展。

2.市壁  0.135km 0.14

   市壁は町の南側に点々と残っている。町中にも古い境界壁が多く見られる。

3.塔  0門1塔

 マルクト塔 Markt Turm (15c) 5階建て石積四角塔で時計付四角錘屋根。

4.見所 C

   17-18cの木組みの家のある旧市街地から、大通りを0.7km西に行ったの丘に、
  大庭園と宮殿棟が築かれ、各種文化施設となっている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1683) 木骨造の建物で、伯爵パウリ図書館を収容し1万2千点
   の王宮資料と18千点の町の資料が集められている。
 市庁舎 Rathaus (1906) 3階建て白色の正面破風の建物で屋根の頂上に時計塔がある。
 聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (1326) 単塔石積の後期ゴシックの教会で、1498に焼失し、
   1501に再建された。
 バレンステット宮殿 Schloss Ballenstedt (18c) 旧市街地の西0.7kmの山上に、修道院の残り
   と、宮殿群がある。
 宮殿 Castle Bellenstedt (18c)バロック3翼の宮殿でアルハルト・ベルンブルク侯爵の王子の住居と
   なった。11cからの旧修道院の一部を反映し、南翼と西翼を公開している。
    映画博物館 Film Museum 北翼に映画館と映画史を収容している。
城劇場 Schloss Theater (1788)ザクセン州最古の劇場で、1992-2005に大改修された。
 宮殿庭園 schloss Parks (1858.1962) 29haの広大な公園には、噴水・樹木・パビリオン・
   工場が整備されている。
 厩舎 Marstall (1810) かっての厩舎を改修して食堂としている。
 宮殿教会 Schloss Kirche (11c) 旧ロマネスクの教会の塔が現存している。
 市博物館 Stadt Musium  ヴィルヘルム王博物館、住居として伯爵王子の部屋、ヴィルヘルム王
   の部屋、入植地と文化史、鉱業と治金、健康と生活等の展示。

5.写真

市庁舎 市場塔
上中庭 南壁
西壁

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バービィ Barby Elbe SA6

1.歴史

 961 皇帝オットー1世の文書に初言及、 古高独語で名は木のある川の曲る村の意味、
 13c 町は5市門の市壁で囲まれた、 1497 帝国の郡となりバービィ伯爵に属した、
 1540 ルターの改革を導入した、    1659 最後のバービィ伯爵死亡バイセンフェルス公へ、
 1637-1715 息子ヘンリィは城を建設、  1660 魔女裁判が行われた、
 1747 新教説教神学校を開設、    1806 仏軍はバービィでエルベ川を渡った。

2.市壁  1.57km 0.65

  市壁の2003に改修されたエルベ川側の部分は洪水対策として役立っている。
  南や西側にも市壁は点在している。

3.塔  1門2塔

 広い門 Breite Tor (13c) 南東門の跡に、石積みの壁が復元され、門の
   絵を描いた説明板がある。
 小公子塔 Prinzesschen Turm (1570) 木製の塔を備えた北端の要塞塔であ
   った。バロックのドームとランタンがある八角形の茶室のがあり、ロココの色彩豊かな壁画
   と天井画がある。
 丸塔 Rund Turm (15c) 町の南西端の川沿いに6角錐屋根の円塔がある。

4.見所 C

 市庁舎 Rathaus (12c) 何回も改修や拡張が行われ、今は高基礎の2階
   建の建物で、地階に屋外両階段があり、正面にベランダがある。町の紋章付きの
   三角屋根の上にはコウノトリの巣台がある。
 聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1264) フランシクコ会修道院教会として、長さ
   40m幅10m石造ゴシックの町で最古の教会である。北側に回廊があったため東端に一
   つの窓しかない。南側の前面には地上3mの12のアーチ窓がある。14cに火事で損傷し
   たが領主グンター2世によって修復された。改革導入で修道院が解散され、1659教会
   に転換された。1886と1937に修復された。1994屋根を改修。内部には1271からの
   墓碑・14石造のキリスト像・1570木製のマドンナ・1588-1820重要牧師絵画がある。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 初期ゴシックの細長い42.5m×9.7mの建物
   が初めに建てられた。1505正方形の西塔が付けられたが、50年後に崩壊し1565-
   71に高さ49mで再建された。1683通路と東聖具室が加えられ、1719屋根の修復、
   1990天井倒壊で閉鎖、1995大改修。
 バ-ビィ宮殿 Schloss Barby (10c) 初め国境の要塞があり、961皇帝オットー2世
   は女子修道院長の姉マチルダに与え、バービィ家に城をゆだねた。1880バービィ家の断絶
   後バイセンフェルスのハインリッヒ伯に移り、1687バロック3葉の新宮殿を建てた。1739南翼は焼失
   し再建されなかった。1746バイセンフェルスの断絶後、ボヘミアが城を取得して神学校とし
   て使った。仏ヴェストファレン王国時代に軍病院となり、1815プロイセンの穀物倉庫、1855
   教員養成大学になった。1945ソ連軍病院、1959-79外国移住者寮、1979ザクセン・アン
   ファルト州土地登記簿収蔵。2006改修改造された。
 エルベザール病院 Elbe Saale Klinik (1995) 大規模な施設を備えたリハビリテーショ
   ンクリニックが建てられた。

5.写真

市庁舎 聖ヨハネ教会
マグデブルク通 橋門
広い門 東南壁
東壁

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ベルンブルク Bernburg SA7

1.歴史

  961 オットー1世のサンモリッツ修道院証書に言及、1138 ザクセンに包囲され焼き払われた、
 1150 アルブレヒト・ベアは城を再建した  13c 山と谷に市街があり別の壁・堀で守った、
 1245 領主ベルンハルト1世が即位、    1278 領主ベルンハルト1世は2市街に都市権授与、
 1326 城の下に山の町が生まれた、  1410 2市街は合併し防御を固めた、
 1539 領主ヴォルフガングは王宮を置く、 1561 山と谷の町を結んだ。
 1597-07 ペストの流行、 、      1636 スエーデン軍 1640ザクセン軍が占領・略奪、
 1713 プロイセンと最初の契約郵便局設置、 1808.1813 仏軍の占領、
 1825 山と谷の町は合併、      1918 アルバート公の退位、1936 駐屯地に。
 1945 4月米軍占領、7月赤軍進駐。

2.市壁  0.24km 0.10

  15cの市壁は、Talstadtの新市街地の西側に240m残る。

3.塔  1門3塔

 ニーンブルク門 Nienburger Tor (13c) 谷に町の創設時から門塔が在った。この
   5階建ての角塔は、東側の古い町との境界にあり、元は出入り口のある羊番
   の塔で、家畜を牧場に出すために設けられた。15cの新築後は新塔と呼ばれた。
 オイレンシュピーゲル塔 Eulenspiegel Turm (13c) 城でも目立つ強大な切妻付の壁厚
   3mの塔は、城の最後の避難所であった。高さは44mで広い視野を見張人に提
   供した。1640警備員として勤めたといわれるオイレンシュピーゲルの名前で呼ばれた。
 ウサギ又はコウマ塔 Hasen oder Fuellen turm (13c) 町の創設時から門塔があり、
   北側の古い町の境界であった。仔馬の名前は、馬飼いによる牧場への仔馬
   の放牧から、ウサギの名前は塔の風見の形から呼ばれた。1408の大洪水の後、
   15cに今の3階建ての円塔は建てられたらしい。
 ケスラー塔 Kessler Turm (1913) 1813のライプチヒ諸国民の戦いから100年後に、この
   塔の落成式があった。この塔は工場主テオドール・ケスラーの名前を付けられ、展望
   台として建て、サーレの町に贈った。この塔はフリードリッヒ斜面の上のIlberstedter
   通に立ち、保養地域「クレムブ森」の一部である。

4.見所 C

   ザーレ川の左岸の谷の町Talstadtと 右岸城の麓に山の町があり、それぞれに
   見所がある。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1461) 侯爵ベルンハルト4世は山上の居酒屋の隣に町の議会
   の大きな家を二つの町の共通の市庁舎として贈った。すでに1443には居酒屋は
   開かれていた。市庁舎のルネッサンスの建物は、中世の基礎の上に新設され、何度か
   焼失し再建され、1570今の姿になった。1825谷の町との合併まで城町の市庁舎
   であった。1950新設の自由教会が置かれ、それ以来教区会館として使われた。
 市庁舎Ⅰ Rathaus (17c) 塔のある石積の建物と歴史的な御者の木組みの家とが
   あり、1895から市庁舎が置かれた。
    アンスバッハ産のタイルで飾られた鏡の間、陶磁器の装飾品や金塗の木工細工のある鏡の
   間、居間にあるホーエンツオーレルン家の肖像などが見られる。
 市庁舎Ⅱ Radthaus (1532) ヴィクトル・フリードリッヒの摂政政治の間に1756から城の乗馬
   学校として建てられた。1824改築・拡張され、1878アンハルト国は宮殿を買った。
   1919-21アンファルト国の郡庁Ⅱとして改築された。今は市庁舎Ⅱとして使われている。
 ベルンブルク宮殿 Schloss Bernberg (961)ルネッサンスの宮殿はザーレ川の東岸の崖の乗馬
   乗馬建てられ、アンファルト。ベルベルク侯爵の居城となった。12cに高いロマネスクの天守閣が付
   けられ、その後にオイレンシュピーゲルの塔として有名になった。16cに壮大なるルネッサンス
   の宮殿に変えられた。1567-70ルネッサンスの棟を形成し、城の前の堀にヒグマが19c中
   まで住んでいた。
     宮殿教会 Schloss Kirche St.Aegidien(12c)ロマネスクのバジリカで、様々な様式が
   並置されたいる。1762バロクで再建、1756オルガン、1625後陣に2階建ての墓礼拝堂
   が付けられ、ルネッサンスやバロックの侯爵家の棺がある。
 宮殿博物館 Schloss Museum(1893)考古学・鉱物学・自然史・貨幣学・現代美術
   ・工場文化・居住歴史等の展示がある。
 聖ニコライ教会 St.Nicolei Kirche (1240) 谷の町の新市街の教区教会であり、13c
   の聖歌隊・北通路・身廊の壁が生き延びている。15c後期ゴシックのヨハネの木版画。
   1966-68大規模な内外の改修が行われた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (965) 谷の町の古い教会で、1228ゴシックの教会
   となり、主要ポータルや後陣は1460-1500の物である。
 旧マリアしもべ修道院Ehem.Marienknechte (1308)谷の町の新旧市街の外側にゴシック
   の建物があり、聖母のしもべ会修道院は1526宗教改革で世俗化され、1535精
   霊病院になった。修道院は30年戦争で破壊され、17cに病院は聖ヨハネと改名した。
   1997から大学の応用化学科として使われた。
 最古の家 Alteste Haus(1550)谷の町の旧市街のマルクトに在り、美しい木彫飾の
   木組の家である。この建物は1979に取り壊された軒家の木製の部材を使って
   1982にこの場所に、元の姿では無く新築された。
 谷の町市場 Talstadt Markt (1278)ベルンハルト1世は、谷の町の新旧二つの市街に
   都市権を与えた。旧市街のマルクトに最初の市庁舎が1384に言及され、1746には政府
   の建物も建てられた。マルクト周囲の建物はルネッサンス・バロック・アールヌーボ・新古典主義と雑多
   な様式の前面を見せている。
 緑薬局 Gruen Apotheke (1775) 谷の町の旧市街のブライト通に、火災の後に薬剤
   師によって建てられた2階建の古典的な形の民家である。
 旧侯爵事務所 Alte Fuerstliche Kanzlei (16c) 谷の町新市街のブライト通にルネッサンス
   の屑石積の長屋で、1749バロックに改築された。この事務所は1746までアンハルト・
   ベルンブルク侯爵の地方行政の場所であった。

5.写真

市庁舎 城教会

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ブランケンブルク Blankenburg SA8

1.歴史

 1123 最初の文書言及、       1133 ブランデンブルク貴族Poppos侯爵が支配、
 1182 バルベローナ皇帝に城下町は壊された、      1305 市壁1.55kmが存在した、
 1384 ベルニゲローデの伯爵が攻撃した、      1425.1836.1847 町を大火が襲う、
 1525 農民戦争で町に侵入、         1618-48 30年戦争で6回も占領された、
 1651 ボルフェンビュッテル公国となる、     1707 郡公国になり、工業・治金で栄えた、
 1807-13 ヴェストファーレン州のバンケンブルク公国、 1814-24 仏ルイ18世の占領、
 1815ブランデンブルク州となる、       1877 プロイセンに所属アンハルト州へ、
 1945 2次大戦で大部分は破壊、4月に米軍、7月に赤軍進駐。

2.市壁  0.02km 0.02

   1305に市壁が1.55km在ったが、今は20mしかない。城の壁にも痕跡は有る。

3.塔  0門1塔

 聖カタリナ塔 St.Katharien Turm (13c) 南、4階建ての角塔で、1936から市の博物館
   となり、城や町の住人・民兵の歴史的な展開・彫刻・祈りの文書の展示。

4.見所  C

   15cからの木組の家が多く残り、18cのルネッサンスやバロックの建物が市壁内に見られ、
  市壁外にネオルネッサンスやネオバロックの建ものが在ったが、2次大戦で多くが破壊せれ戦後
  の建物になった。
 市庁舎 Rathaus (1442) 中央の切妻・隣に入口の5角塔・屋根の上には時計塔がある不思議
   な形の建物である。1584時計を付け、1738時計塔・入口・屋根を更新。1870バルコニィ
   のための保全対策が行われた。マルクト側には3紋章がある。
 大宮殿 Grosse Schloss (1122) 305mの山頂に立つ要塞が宮殿となり、ヴァンケンブルク侯爵
   が住んだ。16cに3翼のルネッサンス宮殿となり、市壁に接続し礼拝堂もあった。1546の燃
   やされた古い城の上に、1705-18バロックの外観は単純であるが内部には美しい広間や
   チャペルのある建物になり、ブランデンブルク公国の皇帝が住んだ。
 小宮殿 Kleine Schloss (1725) バロックのテラス公園と砂岩の彫像のある宮殿で、今は14の展
   示室やホールのあるはくぶつかんとなり、ブランケンブルク侯爵の宮廷生活・庭園の歴史・町
   の貿易.産業.工芸品等が展示されている。
 聖バーソロミュー教会 Burgkirche St. Bartholomaus (12c) 町の教区教会としてロマネスクで建立
   された。13cシトー派修道院による早期ゴシックの教会となった。15c農民戦争と宗教改
   革で修道院は停止され、再教区となった。1712バロックの祭壇壁を侯爵が設立した。
 職人宿博物館 Herbergs Museum (1684) 木骨造の家で1887-1916に職人宿であった。
   ドイツ唯一の歴史的な職人宿博物館で、中庭・厩・台所・食堂・泊部屋と巡礼に関する展
   示がある。
 ルーンの家宿屋 Runen Haus (1750) 2階建ての美しい木骨造の建物で、19c改修後に隔離
   病棟となり、1995幼稚園として使われている。
 木造絞り器 Baumkelter (1618) 1999にワインの絞り器を購入し屋根を付けてワイン博物館の
   庭に展示している。

5.写真

市庁舎 北壁
西壁

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ブルク Burg bei Mgdeburg SA9

1.歴史

  948 古い交易路上の市場町として言及、12c フランドル入植者は布で洪水を防ぐ、
 13c 新たな防備壁と塔で守りを強化    1359 大火災で町の3/4を焼失、
 15c マグデブルク大司教は城を拡充、 、  1644 戦争・略奪・破壊で町は崩壊、
 1689 ブランデンブルクはプロイセンへ町を売却、 17c 仏ユグノー移民で工芸品・衣服を生産。

2.市壁  0.55km 0.23

  13cの市壁は東北・北東・北西・西に見られる。東から南のプロムナーテにも痕跡は有る。

3.塔  1門3塔

 ベルリン門塔 BerlinerTor Turm (14c) 東の防衛塔で、旧30要塞塔の唯一の残り
   のレンガ造5階建の円塔で、2001改修が行られ、結婚式・読書会等に使用。
 牡牛塔 Kuh Tor Turm (15c) 1530には言及されたが、以前から塔は存在した。
   北東のレンガ造3階建切妻屋根の角塔で、外国人住居や刑務所として使われた。
   市壁内の住民は放牧地へこの門を通って家畜を放牧した。
 魔女塔 Hexen Turm (11c) 3階建円錐屋根の円塔で、今は階段が付けられた。望楼
   と防備に使われ、付近には市壁が残る。女性刑務所として使われ魔女の名前
   が付いた。
 給水塔 Wasser Turm (1902) 赤レンガ造の美しい円塔で、町の最高地点に立つ。
   400m3水槽を持ち、塔では町・農業・園芸・塔の産業史についての展示がある。

4.見所  B

 旧市庁舎 Altes Rathaus (1263) 旧市庁舎は登記所となり、儀式に使われている。
   上階は市議会の事務局であり、大評議会室では市議会の催物がある。建物は
   ①1263ロマネスク小ホール、②1550新ルネッサンス、③1702バロックの改造、④1843三階建て
   の建物。
 上部教会 Ober Kirch (1186) 聖母教会とも呼ばれる石造ロマネスクの教会で、火事の
   後にゴシックで再建された。西側の双塔は別々の帽子を被っている。
 聖ニコライ教会 St.Nicolei kirche (1161-86) 下部教会、ロマネスク花崗岩造・西双塔の
   あるT字型の大聖堂で、エルベの東で最大のロマネスク・バジリカで装飾はシンプル。17c
   の説教壇と壮大な碑文がある。
 住居 Wohnhas (16c) ベルリンフィー通に1589の言及がある。町でも古い木組2階建の建物で、
   木組の前面の装飾は特徴がある。1835から牧師と教師の住居であった。
   2007に全面的に改修され市図書館になっている。
 革ナメシ屋 Gerberei (1450) 構造的に古い木組2階建の家で、高ラック家として構成され
   基石から屋根に柱が通っている。今はなめし革の技術的なモニュメントとして、
   全ての危機が備えられ、今でも稼働できる。水曜日の10時と15時に実演がある。
 ローランド広場 Rolande Platz (15c) この町はザクセンアンファルト州の14ローラント都市の一つ
   である。1519正義と権限の象徴としての木製ローランド像が建てられ、1581石造に、
   となった。今のローラント像はギルトハウスに1581-1803固定されていた。ギルトハウスの競売時
   分解された。1840宿屋の庭で発見され、ホテル・ローラントの西ファサードに挿入された。
   1990ローラント像は再構成され、町の真ん中柱の前に立っている。高さ5.6m重さ12t。

5.写真

旧市庁舎 聖ニコライ教会

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エゲルン Egeln SA10

1.歴史

  941 オットー1世は砦を築いて道を守った 10-11c アスカン族は北西に新しい町と城を、
 1250 ハデマースレーベンの貴族が征服し、堅固な壁で守りを強化し、市場・関税・町の特権、
 1259 貴族は妻の要請でシトー派修道院設立し1809まで存続、 
 1317 町の最初の紋章は盾・ライオン・蛭で1365文書化、市場は評議員審査の後開催した、
    市民の内ライセンスを得た84人はエゲルン・ビールの醸造権を有し、ビールは良く売れた。
 1680 エゲルンはマグデブルクの直接都市としてブランデンブルク・プロシア公国に属した、
 1701 プロイセン王国に渡り1807まで生き延びた、
 1816 ザクセン州のマグデブルク行政地区のヴァンツレーベン地区に割り当てられた。

2.市壁 0.25km 0.19 別に城壁0.48km

   13cの市壁は、北と南に僅か残る。その他に水城の城壁が0.48kmある。

3.塔数 0

   見当たらない。

4.見所  C

   大きな水城と修道院の間に町がある。
 市庁舎 Rathaus (1897) マルクトの中の建物で、今は医者の共同診療所である。
 水城 Wasser burg Egeln (10-11c) 新しい城がマルクトの北西に建てられ、1250ハデマースレーベン
   の貴族が占領して領主となった。城壁で城を守り、都市権を授与し、1259修道院
   を設立した。大司教シュバルツブルクは城を拡張し納屋・厩舎を構築した。30年戦争で
   一時スエーデンに占領された。1945国に財産となり衰退した。1993修復して博物館を
   収容し、ホテル・カフェも開設された。
 保管庫 Speicher () 2階建の保管庫にシアター・セラー・劇場・結婚式場がある。
 博物館 Museum (1933) 門の建物の中にある。城と町の歴史と文化を展示。
 プロテスタント牧師館 Ev.Pfarrhaus (1581) 2階建上階木組の建物。
 修道院と修道院教会 Kloster und Marienstulkirche (1731-34) 修道院は多くの建物
   が建て直され修復され、現在の修道院教会は同じ場所での3番目の建物である。
   1696修道院修復の最初に古いゴシックの建物を解体して、約2/3の規模でバロックの教
   会を建てた。1737マリーの腰掛、メアリの祭壇に1450奇跡のマドンナがある。

5.写真

市庁舎 教区管区エゲル
水城 水城入口
北壁 南壁

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アイスレーベン Eisleben SA11

1.歴史

  994 オットー3世の文書に初言及、       10c 市場・鋳造・関税の権利を確認、
 1081-84 ルクセンブルク伯ヘンリー4世は水城に居住、     12c 約7haの1次市壁を建設、
 1200 銅鉱石の採掘が始まる、              1348 マンフェルト伯が所有、
 1480-1520 市域を拡大して2次市壁建設、  1489 大火災後、5年間の免税で足止、
 1525 農民戦争で修道院略奪・破壊、    1529ペスト流行、1550ペストで1.5万人死亡、
 1601 大火災で253戸焼失、1626ペスト、   1628 30年戦争ワレンシュタイン軍占領、1681ペスト
 1701-06 北方戦争でスエーデン軍の占領、   1756-63 7年戦争でプロイセン軍が占領、
 1806-14 ヴェストファーレン王国マンスフェルト郡に、   1815 プロイセンのマンスフェルト郡となった、
 1945 4月米軍、7月赤軍が占領。

2.市壁 0.12km 0.06

   12c中に約7haの第1次市壁を建設し、壁の維持と防衛は市民のギルドが担当し、
  門の警備は町の雇い人が務めた。1480-1520市域を周囲に拡大し第2次市壁を建設
  した。南側に120mの煉瓦造2次市壁が残っている。その銘板によれば1512.1530に
  建設され1858に取崩された。

3.塔数 0

   見当たらない。

4.見所  C

   マルチン・ルター(1483-1546)の生誕と終焉の地であり、世界遺産としてルターの生家、洗
  礼の聖ピーターとパウロ教会、最後の説教の聖アンドリュー教会、死の家などがある。12cか
  らの建物が相当残っている。
 市庁舎 Rathaus (1519-31) 後期ゴシック2階建ての建物で、両側に高い切妻やルネッサンスのポ
   ーチがある。階段下にゴシックの砂岩ポータルがあり、登記所の入口となっている。1874
   現在の外観となり、1994大規模な修復が行われた。
 聖アンドリュー教会 St.Andreas Kirche (13c) ロマネスクの3身廊の建物に後期ゴシックの塔が付い
   ている。新教の重要な教会で、マルチン・ルターが最後の説教を行った。
 聖ニコラス教会 St.Nicolei Kirche (1191) 今の後期ゴシックの広間と内陣の建設は1426から
   始まった。細い単尖塔がある。1972教会は屋根の崩壊の恐れで閉鎖。
 聖ガードルード教会 St.Gertrud Kirche (1914) カソリックのネオゴシックのホール教会は、新Helfta修
   道院が1346-1525に在った土地に、1916に奉献された。1928オルガン、1952鐘4基、
   1991に63mの塔を持つスレート屋根が付けられた。
 聖ペトリとパウリ教会 St.Petri und pauli Kirche (15c) 後期ゴシックノホール教会で後期ゴシック
   の祭壇は鉱業の守護聖人である聖アンナに捧げられた。この教会でマルチン・ルターが洗礼をう
   けた。
 旧侯爵鋳造所 Ehem.Graefliche Muenze (16c) ルネッサンスのポータルと8角形の階段塔のある
   建物は、侯爵の硬貨鋳造所であり、1540からの銀生産が硬貨となった。19c騎兵連
   隊の兵舎となり、1857-1912地方裁判所であった。
 計量所 Waag マルクトの東側に、百貨店と秤量の二つの建物を組み合わせている。地元産の銅
   と銀を計量し、商社に渡して外国に運ばれた。
 ルターの生家 Luther Geburts Haus この家でマルチン・ルターが1483生まれた。1689に改地元産の
   銅在のバロックの外観となった。今は博物館として、ルターの生涯を展示。
 ルターの死家 LUther Sterben Haus 急な切妻屋根を持つ2階建ての建物で、1546にルターが死亡
   した家と見なされていた。1862買収し1894にルター記念の部屋を設けた。
 地域と宗教博物館 Orts-und Ordens Museum Holfta この博物館は、古代の町のHolftaと
   聖マリア修道院の歴史を、絵画を交えて相対的に伝えている。

5.写真

市庁舎 一次市壁南
二次市壁南 二次市壁南

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ガーデレーゲン Gardelegen SA12

1.歴史

 1186 ガルグレーゲの侯爵ハインリッヒの本拠地としてブランデンブルク司教の文書に初言及、
 1196 ブランデンブルク財産の封土委託として、町は城と小さな町として言及された、
 1314 醸造権の授与がなされた、    1316 町長事務所を置き裁判権を得た、
 1353 アルトメルク同盟、1358ハンザ同盟に加入、1488 選帝侯とのビール戦争となった、
 1553 町の防衛施設建設で3門閉鎖、   1658.1667.1685 町は大火事で焼失、
 1715 町はブランデンブルク・プロイセンの駐屯地、1816 町は144村の郡庁所在地になった、
 1945 2次大戦爆撃被害、4月米軍、7月赤軍。

2.市壁  0.32km 0.17

  中世の市壁は堀と土堤に守られ、今でも緑地と土堤は町を取巻いている。
  野石の上に煉瓦造で修復されている。市壁は、北160m、西10m、南150mにある。

3.塔  3門1塔

 ザルツベデラー門 Salzwedeler Tor (16c) 西、前面に二つの直径9.2mの大円
   塔があり破風のある門がよく保存されている。
 ステンダラー門 Stendaler Tor (16c) 東、まだ門の名残がある。
 マグデブルク門 Magdeburger Tor (16c) 南、まだ断片が残る。
 火薬塔 Pulver Turm (16c) 南、市壁の間に再建された。

4.見所 C

   水路に囲まれた小さな旧市街は、北の木市場と中の市庁舎広場を中心に市庁舎
   の塔・教会にもハンザ都市の面影がある。堀の土堤には120本のライムの並木もある。
 市庁舎 Rathaus (1241) 百貨店と展示場として文書言及され、三角形の市庁舎広場
   に立っている。美しい後期ゴシックの煉瓦造の外観は、南に星形ノアーケード豊かな
   アーチの内側空間、二つのランタン、東と西側に紋章のある守衛塔がある。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1200) 後期ロマネスクの初期の建物である。最初の小さな
   教会が1200に建てられ、15cに5身廊のホーツ教会に建て直された。1492宗教改革
   の時にライゼンベルクが司教に任命され、教会の修繕や新しいオルガンの購入をした。
 聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (13c) 元はロマネスクのバジリカで、1300ゴシックの上部構造
   とされ、16c再度増改築された、美しくて古い北ドイツ煉瓦造の教会である。
   1945空襲で破損し、祭壇や洗礼盤等は聖マリア教会に移された。
 聖下僕病院 Hospital St.Spiritus (1300)貴族の寄付で大病院は成立した。病院は
   老人と貧しい人を収容するために設立された。19cには虚弱な市民の娘が収容
   された。今は、各種クラブと、州の教育局の本部がある。
 ローラント像 Roland von Gardelegen 職人と商人の正義と誇りと強い力のシンボルとして
   建てられた。市庁舎の火災何度も壊わされ、1727に最終的に崩壊した。
   2002に275年を記念して再設置された。

5.写真

市庁舎 ザルツ・ヴェルダー門
南壁 南壁
南東壁

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ゲルンローデ Gernrode SA13

1.歴史

  858-59 辺境伯はグリアック修道院に城を建設、 965 辺境伯を参事会教会の東に葬った、
 1037-1740 鉛・銅・錫の鉱石を採取、         1064 町に市場と市教会の建設、
 1188 皇帝バルバロッサが町教会に寄付、              1484 ペストの流行、
 1533 アンファルト州の宗教改革、      1545 町はビール醸造権を得た、1565 ペスト、
 1631-35 30年戦争の略奪に遭う、     1797 天然痘の流行、1811 コレラの流行、
 1832 侯爵は修道院を解散し売却、            1859 州が修道院を購入、
 1865 復元された修道院の教会が発足、       1945 2次大戦後 赤軍が占領。

2.市壁  0

   MauerStrasseはあるが、市壁は見当たらない。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所 C

   小さな町の狭い通りと旧市街には、異なる世代の多くの建物があり、小さな町役場・
  旧ステファン教会・古い木組みの家・マルクトが残っている。
 歴史的市庁舎 Historisches Rathaus (1665) 元は簡素なトラス構造であったが、1914-15今
   の姿になった。2階建ての上部構造は美しい木造で、前面の小さな出窓は屋根まで延
   びて小三角屋根を造る。屋根の頂上には時計塔が立つ。
 聖参事会教会 Stifts Kirche Cyriakus (10c) ローマ聖人シリアクの古い3塔のロマネスクの教会で、キリスト
   の墓の最古のレプリカを有する。円柱2本と角柱の柱列で身廊は仕切られ、側廊には平天
   井のあるオットー様式のバジリカである。12cに西の内陣が付けられ、地下聖堂が掘られた。
   地下聖堂には、修道院の創始者である辺境伯ドーロの墓板がある。
 牧場ステファン教会 Stephani Kirchen Weide (1188) 皇帝バルバロッサが鐘楼を寄付した。教会は
   1847に再建され、学校は2010まで小学校として使われた。
 ハルツ時計工場 Harzer UhrenFabrik (1948)1968に最初のハト時計を生産した時計工場である。
   高さ14.5mのカッコウ時計があり見学できる。
 ハルツ・リキュール工場 Harzer Likoer Fabrik ハルツのリキュール工場。事前予約で見学でき、リキュールとブランディ
   を試飲できる。
 旧小学校 Alte Elementar Schule(1533)女子修道院長の要請で学校が開設された。文化教会
   は旧校舎を購入し、補修して樹脂の鉱物コレクションを1400点展示している。
 ハルツ鉄道歴史博物館 Museum Geschichte Harzgeroder-Gernroeder Eisenbahn ローリングストック
   文字・切符・鉄道会社の公文書・手荷物計量機・手紙計量機等の駅備品を展示。

5.写真

旧市庁舎 ステファン教会

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グレーフェンハイニッフェン Graefenhainichen SA14

1.歴史

 1285 アンハルト侯爵アルブレヒト2世の文書に初言及、1291 城の初言及、
 1448 町の防御の再構築、市壁・堀・塔、 1454 町の権利の再確認、町書類の焼失、
 1531 宗教改革の導入、1512 最初の学校開校、1610 ペスト流行で人口減、
 1637 スエーデン軍が町を破壊、1642 再び疫病、 1775 7年戦争で包囲攻撃、
 1807 大飢饉、1815 ザクセン選帝候からプロイセンへ支配が移った、
 1822 郵便開始で駅宿設置、          1867 駐屯地の町へ、
 1890 褐炭の採掘開始、 1945 米軍占領の後赤軍が進駐。

2.市壁  0.22km 0.16

  町は土塁・堀・市壁で守られ、どっしりとした市壁は荒石や野石で造られた。
  19cに大部分の市壁が取り壊された。

3.塔  0門3塔

 上市塔 OberStadt turm (1448) 町の防衛施設として、5階建正方形の大
   きな塔が再建された。昔は監獄として使われた。
 下市塔 UnterStadt turm (14c) ヘルメット付き3階建の円塔で、町の出入りを見
   張った。
 水塔 Wasser Turm (1927) 給水塔として建てられ、今は展望台として目立
   つ構造物である。

4.見所  C

   市壁で囲まれた旧市街地も、マルクトも狭い町である。
 旧市庁舎Altes Rathaus (1637) 30年戦争中に最初の市庁舎はスエーデン軍に全壊
   された。今の市庁舎は1695-99に建てられた。上階木組2階建の鐘楼のある
   建物。
 新教聖マリア市教会 Ev.Stadtkirche St.Marien Kirche (1531) 今の教会の最古の
   部分はロマネスクであり、ゴシックの教会の建設時の正方形の内陣はそのまま保持さ
   れている。1637スエーデン軍に壊され、1658-66再び再建された。1867-68今の高
   さ57mの塔が建てられた。
 パウル・ゲルハルト礼拝堂 Paurl Gerhardt Kapelle (1844) 疑古典主義の旧墓地
   礼拝堂で、今は展示会場や演奏会場として使われている。
 パウル・ゲルハルトの家 Paurl Gerhardt Haus (1907-09) 新教教会の礼拝に一時
   使われ、その後幼稚園となり、1997記念物として再整備された。
 城跡 Schloss Ruine (12-13c) 30年戦争でスエーデン軍に破壊され、その後建
   物は建てられなかった。古い宮殿の跡。
 距離標 Post Saeule (1728) ザクセンの距離標はプロイセン選帝侯アウグスト2世に由
   来する。
 風車台 Bockwind Muehle (19c) 3基あった木製風車台の一つ。1848風力駆
   動の風車台は置き換えられた。1992技術的な構築物として再建された。
 印刷博物館 Bachdruck Museum () 古い印刷機は市立図書館の背後にある。
   町の印刷機の歴史と町の黒い芸術の伝統を経験できる。

5.写真

市庁舎 聖マリア教会

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ハルバースタット Halberstadt SA15

1.歴史

 804 司教座が1648まで置かれた、  859 最初のカロリング朝の大聖堂が奉献された、
 989 オットー3世は市場権・鋳造権を授与、 996 司教は大聖堂広場を拡張した、
 1005 聖母教会の建設開始、      1134 ドームブルクで国会の開催、
 1137 ヘンリー軍による町の破壊、     14c ハンザ同盟加入、 1433 ローラント像の建立、
 1491 第3のゴシック大聖堂の奉献、    1629 ヴァレンスタイン軍、1632スエーデン軍の占領、
 1648 ヴェストファーレン州となる、      1807 ヴュストファーレン王国の県庁所在地、
 1945 空襲で旧市街地は大被害を受けた。

2.市壁  0.575km 0.16

  市壁は、西に255m、東に320m、に見られる。

3.塔  0門2塔

 半殻塔 Halbschalen turm (15c) 西の市壁に残る2階建て半円形の殻塔。
 水塔 Wasser Turm (1444) 中世の市壁に残る3階建ての円塔。

4.見所  A

   9世紀には司教座が置かれてから、織物取引のハンザ時代にかけての町の遺産は、
   1945の爆撃で大部分が消滅した。歴史的な建物は修復が行われている。
 市庁舎とローラント像 Ratslaube mit Rpland (1433) ローラント像の立つ石造2階建て
   の小さな市庁舎。
 ドームと宝物館 Dom St.Stephanus und Sixtus UND DomSchatz (859)
   今の建物は、元のフランス式から1236-1486に壮大なゴシックの大教会となった。中世の
   ステンドグラスが聖歌隊の窓で輝き中世の彫刻が飾られている。 宝物館には大規模な
   650の宝物あり、宝石・象牙細工・水晶・石・テキスタイル・タペストリー・等の展示がある。
 聖母教会 Liebfrauen Kirche (1005) アウグスチン会修道院に設立され、1146-1200
   ローマ・バジリカで建てられた。1945爆撃でバジリカの柱・双塔が損傷し1952に修理、
   2004修復が終わった。内部には1230のフレスコ画が残っている。
 聖ヨハネ教会 St.Johannis KIrche (1646-48) ルネッサンスの独で最大の木造教会で鐘楼が
   ある。ルネッサンスからバロックの祭壇や説教壇は美しい。ヨハネス修道院は30年戦争で壊
   された。近くの東にフランシスコ会修道院教会の聖アンドレアス(1223)があり、爆撃で
   壊され1985改修し奉献された。
   マーチン教会 Martini Kirche (13c) 14cからまちの教区教会で、高さの違う2つの塔
   は歩道橋で繋がれている。青銅洗礼盤・説教壇・キリストの生涯・十字架の勝利。
 モーリッツ教会 Moritz Kirche (1231) 巨大な塔と角ばった構造のロマネスクのバジリカ
   で、再建されて天井画がある。
 教区教会 PfarrKirche St.Kstharina und St.Borbara (1360) ゴシックの教区教
   会でドミニコ会修道院の3身廊のホール教会。主祭壇・脇祭壇・説教壇は見事である。
 市博物館 Staedtische Museum (1782) かっての中将の邸宅で、1905に博物館
   になり、町の歴史を展示している。
 ドーム主席司祭館 Dom Propstei (1592-1611) 司教の建てたルネッサンスの外装が美しい
   2階建ての建物で、2004主席司教の館になった。

5.写真

市庁舎 ドーム主席司祭館
半殻塔 南塔
西壁 聖母教会
ドーム 地方裁判所

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ハルデンスレーベン Haldensleben SA16

1.歴史

 966 皇帝オットーの投資文書に初言及、 1150 市場権を城商人居住地へ付与、
 1181 マグデブルク大司教は占領後破壊、1215 マグデブルク大司教所有、
 1223 町の再建開始、        1228 アルブレヒト大司教はシトーは修道院創設、
 1526 市場権を再度授与、      1541 宗教改革の導入、
 1636 疾病の流行、1661 大火災、  1680-1807マグデブルクのプロイセン公国に直属、
 1810 ヴェストファーレン王国へ属し修道院廃止、1816 ウイーン会議でプロイセンのザクセン州へ、
 1945 4月米軍、6月英軍、7月赤軍進駐。

2.市壁  1.36m 0.96

   中世の二重の内側市壁は、ほぼ完全移保全され、高さ2.1m幅1.2mの石積。
   北から西側には外側の市壁も残っている。

3.塔  3門0塔

 ベルストリンガー門塔 Baelstringer TorTurm (1250-60) 西北の市門で、
   瓦礫積みで造られた。塔は高さ13mであり、入口は2階の壁上にあった。1858
   塔は段なしで再建され、今のヴェール時計に置き換えられた。塔は刑務所として
   後に羊のペンとして使われた。1986塔内部が改装され町の歴史の展示がある。
 ステンダー門塔 Stender TorTurm (13-14c) ステンダー方向の市門で、MuehlenTor
   とも呼ばれた。9.1×6.45mの長方形の平面で1.4m厚の壁厚がある。19cに
   は刑務所となり、20cの初めにPfannen Walmdachとなった。1998に塔と市壁が
   改修された。
 ハーゲン門 Hagen Tor (1238) 南西部の市門で、17cに門塔が短縮され、
   バロックのフードが付けられた。1862片側が崩壊し、門は放棄された。残りの
   部分は1870-80に歴史主義で再設計された。

4.見所  B

  王ヘンリー・ライオンの都市計画は、円形の1.4kmの市壁に囲まれた中心のマルクトで直交
  する街路網で実現された。1991から中心部の改装に取り組んでいる。市庁舎の前
  には、都市と市場の権利を象徴する15cからのロ-ラント騎馬像が立つ。古い門塔・そ
  れぞれの時代の歴史的な建物・16c木組の建物などが残っている。
 市庁舎 Rathaus (1579) マルクトの東の前の建物跡に、2階建3軸の中央部が
   突出した入口の上に、紋章とレリーフを取り込んだ。1701-03にバロックの建物は建設
   された。1815-23古典主義で再建され、1910東側に庁舎は延長された。2000市
   庁舎の北側の1662木組2階建の住宅を組み込んだ。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 古い教会の基礎の上に建てられた教
   会は、1181マグデブルク大司教の軍隊に破壊された。1223新しい教会が建てられ、
   1375ゴシック3廊の教会建設がが始まった。1661大火事で大部分が壊され、1675今
   の20mの塔のある教会が完成した。1808南塔に加え北の塔も壊れ、1812から新
   塔が建てられた。17cからのオルガンは1878に今のオルガンに置き換えられた。
 聖アンナ礼拝堂 St.Anna Kapelle (1112) 古い石積みの上に木製屋根の礼拝
   堂が修道女に与えられた。17cに今の半木造の建物となった。1810修道院に売却
   された。
 騎士団の家 Templar Haus (13c) 北部の旧城遺跡に、14cに壊されたテンプル
   騎士団の跡がある。また、町にも地下を含めテンプル騎士団の遺跡がある。
 ローラント Roland (1419) 市庁舎の正面に、欧州唯一の乗馬ローラント像が町の権
   利の象徴として立っている。1526市場特権と関連して取り換えられ、1927-28
  風化したため、2.4mの石灰岩造と置換えられ、オリジナルは市博物館に収容された。
 クーネの家 Kuehnsches Haus (1592) 町で最も美しい3階建の建物で二つの
張り出した床がある。30年戦争と1661に火事を免れた。宝石商が1875に購入し
   大幅に修復した。美しく装飾された三角の木材の表面に標語と彫刻のある梁は
   塗装を取り除いて明らかとなった。1923後継者が改造修復を行った。
 レプスの家 Repssches Haus (16c) 30年戦争前に建てられ市内でも古い2階
   建の木組の家で、通りに軒先のある家の骨組みは特徴的である。中庭への通路
   が建物内にある。1766レプス家が所有し、家族は市議会で1932まで働いた。20c
   初めには居酒屋となり、1936画家が改築して通り側の木組が露出された。
 市博物館 Stadt Musem (1910) 1865-66に建てられた古典主義の石膏の建
   物に収容された。ヤコブとウイルヘルム・グリムの資料が展示されている。
 フンテスブルク宮殿 Schloss Hundisburg (1196-1202) 南の丘の上に大司教ルド
   ルフが城を築き、1452アルフェンスレーベン家が所有し、16cにルネサンスに改装し、30年戦争
   で破壊された。1693バロクの壮大な宮殿と庭園に拡張した。1811起業家が購入。
   1945ソ連軍が使用したが火事で壊れた。2001-12ザクセンアンファルト州が再建した。

5.写真

市庁舎 聖マリア教会

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ハレ Halle SA17

1.歴史

 738 塩水鉱を守るため砦に教会と兵士を置いた、806 市庁舎の初言及、
  968 マグデブルク大司教が支配、    1120 塩貿易の富で町を拡張し市壁を築く、
 1263 マグデブルク大司教は自治都市建設、1281 ハンザ同盟加入1479-1506中断1518迄、
 1478 200年の自治を終え1484大司教の居城、16c 教会・聖堂のルネッサンス化で財政難、
 1625 30年戦争で帝国軍占領、     1637 モーリッツ城の焼失、1698 大学の設立、
 1701 プロイセンへ、1714までプロイセンの首都であった、 1806 ナポレオン軍の進駐、
 1807 ヴェストファーレン王国となる、     1815 プロイセンのニーダーザクセン州に入る、
 1945 2度の空爆で大被害、4月米軍、7月赤軍進駐。

2.市壁  0.08m 0.02

   中世の市壁は、1817-28の市街地拡大の際に、門と共に大規模に破壊された。
   残っているのは、南西の端にモーリッツ・ツインガーとハロリンリンクの角に80mが高さ7mである。

3.塔  1門1塔

 ライプチッヒ門塔 Leipziger TorTurm (15c) 東南、40あった塔の内で唯一残された
   門塔である。3門構成の門は交通増加のため、1819に取り壊され、高さ27m厚さ
   2.8mの望楼塔のみ残された。それまでの瓦屋根を1573にドーマー出窓のあるフード
   が付けられた。内部には16cの時計部屋がある。1996-97改築され綺麗になった。
 赤塔 Roter Turm (1418) マルクトに、装飾として鐘の付いた高さ80m
   の塔が、「神と市庁舎の栄光のために」建てられた。

4.見所  A

   738には塩水泉を守る砦が築かれ、13cハンザ同盟の加わり、14-15cには塩取引
   で栄え、音楽が奨励された。マルクトは高い建物に囲まれ、高低差のある大きな広場
   であり、市電が走りヘンデル・ローラント記念碑が立っている。
 市庁舎 Rathaus (1891-94) 旧市庁舎が狭くて自治体会議と祝祭のために、ヘンデル
   の銅像の前にルネッサンスとリバイバルルネッサンスの3階建て石造の建物を建てた。入口は
   柱で飾られたアーチ門で紋章が飾れれた。屋根は寄棟で前面に小塔が多く付いて
   いる。大広間は多くの彫刻と絵画で飾られている。2次大戦の被害は少なかった
   が、大広間のステンドグラスは更新された。
 モーリッツ城 Moritz Burg (1484-1541) マグデブルクとマインツの大司教が居城とした。
   30年戦争で破壊されたが、20cに美術館として部分的に再建された。
 ギービッヘン石 Giebichen Stein (12c) まず石造のアパー城が築かれ、1484-1503マグデブルク
   大司教の居城がとして要塞が築かれた。163630年戦争で壊され、1906市
   が購入して、1966建築博物館となり、多くの壁の遺跡が修復された。
 新宮殿 neue Residenz (1531) 大聖堂の南に修道院を解体して斜面の上を拡げて、
   建てられた。中庭のある2階建ての建物は18cに改修されて、ルネッサンスの大きな
   建物になった。
 大聖堂 Dom (1271) ドミニコ会修道院の旧修道院教会であった。1520枢機卿アルブレヒト
  はルネッサンスの3身廊ホール教会に改造した。16cの17彫像・説教壇・後陣の一部
   は現存している。1692から新教の教区教会と共用され現在も礼拝の場所である。
   1950内部の大修繕が行われた。
 聖母教会 Markt Kirche Unser Lieben Frauen (1530-54) 今の教会は古い東のロマネスク
   の塔と西のゴシックの塔との間に、新しく建てられた3廊式ホール教会である。
   側廊の壁には石造の楼台があり、主祭壇の祭壇画は1529のクラナッハの弟子の作品。
 聖モーリッツ教会 Moritz Kirche (1388-1511) 3身廊後期ゴシックのホール教会で、網目と星
   模様で飾られたボールトがある。中には1411聖モーリス、1416ピエタの彫像がある。
 ヘンデル記念館 Hoendel Haus ヘンデルの生家でその生涯と作品がたどれる。1702ハレ
   大聖堂のオルガン奏者となり、ソナタやカンタータを作曲し、英国へ渡った。た。日本語の
   イヤホーンがあり、16-17cのチェンバロ等の古楽器も展示している。
 製塩博物館 Salinen Museum (1720) 旧市街の西岸の川向こうに在る。1722生理
   食塩水博物館を設立し、製塩技術と製塩文化の展示は1720からの高い煙突の
   沸騰家と平屋切妻の家の中に博物館はある。
 モーリッツブルク国立美術館 Staatlich galerie Moritzburg 20c初に改装され国立美術館
   となった。19-20cの絵画とドイツ彫刻が展示されている。

5.写真

市庁舎 ライプティッヒ塔
地方裁判所 マルクト広場
マルクト教会 国立美術館
ヘンデル記念館

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ヘットシュテート Hettstedt SA18

1.歴史

 1046 マイセン大学教会のヘンリー3世文書で初言及、1181ブラウンシュバイクのヘンリーライオンが破壊、
 1199 鉱夫によるヴィッパン銅鉱脈の発見、  1283 銅と錫の採掘で人口が増え町に、
 1334 都市権が付与された、     1418 木造に代わり石造教会の礎石を置いた、
 1430-39 3門付延長1.1kmの市壁を築く、1434 マンスフェルト公爵フォルラートは醸造権を付与、
 1573 ザクセン・アッパーの宗主権に戻った、1618-48 30年戦争略奪・採掘中断・飢餓・ペスト、
 1780 マンスフェルト家の断絶でザクセンが領主に、 1815 プロイセンのザクセン州となった、
 19c  精錬鉱業の発展。 1945 1回の空爆、4月米軍占領、7月赤軍進駐。

2.市壁  0.12km 0.11

   中世の市壁は、1430-39に建設された。
   北西の公園内と南東のウィッパー川沿いに僅か残っている。

3.塔  3門1塔

    昔からの3門が全て残されている。

 振子門 Seiger Tor (1434) 北門、1537改修が行われ、マンスフェルト式時計の振子
   「ザイガー」から名付けられた。1651焼失後、1721-22今の姿で再建された。
   高さ33mのフードは聖ヤコブ教会の塔と似せて、景観の統一が図られた。20c末改修。
 橋門 Brueck Tor (1556) 東門、解体して簡素な水門となり、川を渡る簡素な跳ね
   橋が付けられた。1716木製の跳ね橋は石橋となった。1810仏占領下には、仏榴弾
   兵が構内に駐留して守ったためラレンチ砦と呼ばれた。
 モルメック門 Molmeck Tor (1434) 西門、村の名から名前が付けられた。一時は刑務
   所として使われた。
 円錐屋根塔 Zuckerhut Turm (1434) 東市壁の3階建円塔で、18c後半に住居や監獄
   として1930まで使われた。北側の振子門からは胸壁が繋がっていた。今は
   復元されて、展示場やワークショップとなっている。

4.見所  C

   旧市街は、古い2-3階の建物が、多くの場合復元されて地上階には店舗を持っ
   ている。町は銅・銀の採掘と治金鉱業で栄えた。
 市庁舎 Rathaus (15c) 始めの市庁舎はマルクトの中央に他の建物と共に立っていたが、
   1506に焼失に焼失し1520-26今の場所に新築された。1627再び焼失し1667新
   たに拡張して再構築された。1879.1913に拡張され、旧ネオゴシック隅小塔は切妻
   に取って代わられ、地上階にはラッツケラーが開かれた。現在の外観は1913に復元。
 ヘッテシュテート城 Burg Hettstedt (1204) 町の西のバスセンターに、城の唯一の残りである
   天守閣が残されている。天守閣の高さは17m直径8mの丸い塔でフッハバーグ鉱山を
   守るために建てられた。30年戦争でひどく壊され、1650以降城跡は醸造所として
   使われた。1967-68バスセンター建設のため解体され、塔だけが残された。
 聖ヤコブ教会 St.Jakobi Kirvhe (1223) 町で第二の教会として始め木造で建てられ
   た。1418-1517後期ゴシックのホール教会となった。1697の火災を受け1706バロック
   のドームとして再構築された。1905に改修が行われ高さ63mの今の外観となった。
 聖ガンゴルフ教会 St.Gangolf kirche (13c) 町で最古の教会で1200に銅の採掘が
   始まり13c初めに鉱山労働者のための礼拝堂が建てられた。その後修道院と
   病院が置かれ、1420ゴシックの村協会になった。1812まではまだ廃墟があった。
 古い印刷ハイゼ協会 Alte Hettstedter Druckerei Heise eV. (1889)印刷会社は
   新聞を創刊し、1941商業印刷を行った。2001博物館のためのプリントショップを
   復活した。建物も印刷機械も国の記念物である。
 自治体醸造展示場 Staendige Ausstellung Baukommune Hettstedt 町の575年の
   醸造の歴史と伝統を、城の歴史と共に展示している。醸造協会は予約制で通
   年供給を行っている。
 マンスフェルト博物館 Mansfert Museum (1721) バロクのワンポルト城は、1740にプロイセンのカール
   ・フリーッドリッヒが購入し、孫娘のキャロティンに与えた。今はマンスフェルト鉱山博物館として、
   銅鉱石の採掘・精錬・治金の発展と歴史を機器と共に展示している。
   また、ドイツ初の蒸気機関(1785)を再現している。加えて、城の所有者キャロライン・フォン
   ・フンボルトと夫のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによる城の歴史と所有者の展示がある。

5.写真

市庁舎 橋門・南東壁
砂糖帽子塔 振子塔
北西隅塔 モルメッツ門塔
城天守閣 北西壁
西南壁 西壁

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ケムベルク Kemberg SA19

1.歴史

 11c ヴェッティン・ブレーナに属し言及された、      12c フランドルの入植者が定住、
 1290 アスカニッシュ・ザクセン・ヴィッテンベルクが支配、     14c初 市壁に塔が付けられた、
 1346 町として記載された、              1482 下級裁判所を取得、
 1488 マグデブルク法が確認された、            1522 宗教改革を導入、
 16-17c ペストが7回流行した、      1638 30年戦争・洪水・疫病で人工1/10に、
 1703 上級裁判所を取得、        18c 18cまで人口減は回復しなかった、
 1815 ザクセンからプロイセンへ支配が変わった、     1908-55 褐炭の露天掘り開始。

2.市壁  0.20km 0.17

   1350の市壁は、Mauer通に、僅か残るのみである。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  D

   12cからの農業都市で、中心部の世俗建物はルネッサンス・バロック・疑古典の建物が混在する。
    旧市庁舎 AltesRathaus (15c) マルクトの東側に立つ後期ゴシク2階建・前面3破風の建物で鐘楼
   に1496の鐘がある。現市庁舎は、旧市街の外のブルク通りの東にある。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1290-1340) 1340奉献のロマネスク3廊ホール教会。1415 東南の
   ポーチが建てられ、1520拡張された。1856-59ネオゴシックの古い西塔が崩壊し、高さ86
   mの高い塔に変えた。改革時にルターはこの教会で説教した。1546ルターの死後一時棺桶
   が置かれた。
 距離標 Postmeilen Saeule (1725) プロイセンの距離標がある。
 住居 Wohnhaus (1773) 3階建の前面バロックの建物。
 市民の家 Buerger Haus (1568) 2階建石造の建物。
 薬局 Apotheke (19c) 後期古典主義のレンガ造漆喰仕上げの2階建の建物。鳥の剥製・野鳥
   の保護・押絵などがある。

5.写真

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ケナール Koennern SA20

1.歴史

  806 ソルビア人の集落が成立、                1004-07 ヘンリー2世、
 1012 メレセブルク司教の書簡に記載、      12c ヴィチマン大司教はケナールの城を所有、
 1364 ケナール記録に市庁舎と都市権の記録、 1479 事務所はマグデブルク大司教に渡る、
 17c 火災・疫病・略奪で町は衰退、         1680 町はプロイセンへ属した、
 1801-13 仏占領でヴェストファーレン王国へ、カントンの首都になった。
 1845 4月米軍、7月赤軍が占領、        1952-2007 ラウンダースに属した。

2.市壁  0.19km 0.23

   市壁は、西北と南に、飛び飛びに残る。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  D

   3角形の市壁に囲まれた小さな旧市街地。
 市庁舎 Rathaus (14c) 1364のケナールの文書に市庁舎は記載されている。1862今の市庁舎
   は前の建物の敷地に、2階建・中央入口塔の17窓列の大きく建てられた。行政に加え
   て、警察・刑務所・地方裁判所・レストランが収容された。
 聖ヴェンツル市教会 Stadtkirche St.Wenzel (1491-1510) 改革以前の教会で、狭くなり建て
   替えられた。印象的な塔のある後期ゴシックの教会は、2連の複合施設で、町のスカイライン
   となっている。
 聖アグネス教会 St.Agnus Kirche (1694-99) ルーテル教区教会を1880まで務めた。1849クラシック
   様式に大改造され、1996修復が行われた。中には、1881後期ゴシックのオルガン1887ステンド
   グラス、1565クラナッハの絵画、後期ゴシックの彫刻祭壇がある。
 ピースドルフ城 Burg Piesdorf (12c) ヴィチマン大司教はこの町に城を建てた。1479マグデブルク
   の領地となり、1754Krosigkが所有、1868ヴィルヘルム・ヴェデルトによりルネッサンスの城に
   なった。

5.写真

市庁舎 聖ヴェンツル教会
南壁 南東壁
西壁 西北壁

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ケーテン Koethen SA21

1.歴史

 1115 オットー・バレンは貴族領主の住む町を略奪し販売した、1160 市場に多くの住宅、
 1280 最初の市壁の確立、        1313 初めて町と呼ばれ議会憲法を制定、
 1316 都市裁判官、1322市議会議員が居た、1323 最初の市議会開催、
 1330 城にはアンハルトの地方領主が居た、、  1406 マグデブルク大司教による町の包囲、
 1508 侯爵ヴォルフガングが即位した、    1598.1636 ペストの流行、、
 1601 皇帝ルドルフ2世ハトルク税を公布、    1606 侯爵ルードヴィッヒの治世、軍事訓練、
 1626 30年戦争で帝国軍が包囲して4万ギルダーを課せられた、1715 皇帝レオポルド即位、
 1717 バッハが宮廷楽長に就任、   1756 7年戦争の間に軍の契約を義務とされた、
 1807 侯国から侯爵領となった、     1810 ナポレオン法典の輸入、
 1818-28 プロイセンとエルヘ川自由航行の関税戦争、1848 民主的君主憲法の制定、
 1944 2度の空爆で相当の被害被害、    1945 4月米軍、7月赤軍進駐。

2.市壁  0.06km 0.06

  13cの市壁は、南西のHallescherTorの東側に60m残るのみである。

3.塔  2門1塔

   昔3門あり、市壁を貫通して堀を越え、内門と外門があり、堀にはオーク材の跳ね
   橋が付けられ中間に守衛所があった。今は南西と北西の2門が残る。
 ハレ門 Hale Tor (13c) 今の塔は14cに5階建て32.2mの角塔として建てられ、最
   大壁厚は1.2mである。頂上には八角形上層にバ゙ロックのドームが付けれられた。
   アーチ門は荷車が通れる幅である。1592-19c刑務所として使われ、今はクラブ室。
 マグデブルク門塔 Magdeburer Torturm (13c) 今の塔は古い塔の基礎の上に建て
   られた6階建てゴシックの四角塔で、1784にイマノフードが付けられた。
 配水塔 Wasser Turm (1884-89) 直径33m高さ46mの大きな給水塔である。1983
   破損し500m3のステンレス容器が付けられ、1994に使用中止となり、遺産となった。

4.見所  B

   3塔のコの字型の大城館は、町の外れの堀に囲まれて立ち、小さな旧市街とは不釣
   り合いな規模である。旧市街には、古い木組みの家が静かに残され、バッハの博物館
   やバッハ広場のバッハ像もある。
 市庁舎 Rathaus (①12c) 現在の市庁舎は4回目の建物で、何れも現在の位地にあった。
   ②1457、③1639、④1896-00。今の建物は、大きなアールヌーボー3階建てで、高さ
   40mの展望台にエレベーターで登れる。評議会所は46室・234の窓と48mの尖塔がある。
   審議会室には豪華な木製彫刻の内装・飾りガラス窓・鍛造のシャンデリア・オーク材のテーブルと
   イスがある。14寓話の女性像は社会的な属性と美徳を体現している。また、公国と
   隣接都市の紋章が結束を示して掲げられている。
 ケーテン城館 Schloss Koethen (1115) バーレンスタインのアスカン侯爵は、ここを領地としてエルベ
   スラブの襲撃から守るため、家来としてのケーテンの貴族に城を保持させた。1156.1160
   アスカン侯爵は裁判所と封建領主の権利を取った。1547大火で北西翼のみ残された。
   1606-1853独立したケ-テン・アンファルト侯国あるいは公国があった。16cルネッサンス、17cバロック、
   1821-33古典主義に変換されている。今は西棟はイベントセンター、南棟は歴史博物館、
   バッハ博物館、北西棟は市立公文書館、北東棟はナウマン博物館がある。
 聖ヤコブ教会 St.Jakob Kirche (12c) 今の建物は14cからの古い建物で、1514
   3身廊となり。1430時計塔が付けられた。1606ルター派の教区教会となり、1895
   -97高さ75mの高い双塔を結ぶ橋に置き替えられた。
 聖アグネス教会 St.Agnus Kirche (1694-99) ルーテル教区教会を1880まで務めた。1849
   クラシック様式に大改造され、1996修復が行われた。中には、1881後期ゴシックのオルガン
   1887ステンドグラス、1565クラナッハの絵画、後期ゴシックの彫刻祭壇がある。
 聖マリア昇天教会 St.maria Himmelfahet Kirche (1827-32) 古典主義の建物で1849
   1849侯爵夫人の棺が納められ、イタリア大理石の祭壇がある。2010新しくカトリックの
   マリア昇天教会となった。
 古いドイツの館 Alt Deutscher Hof (1600) 石造の地階の上に木組みの2階建てが
   乗っている。急勾配の切妻屋根やルネッサンスの戸口や窓枠がある。古いドイツのかって
   のゲストハウス「ドイツ皇帝」の館であるが、今はレストラン「酒蔵」である。
 ライオン薬局 Loewen Apotheke (16c) ルネッサンスの急こう配の屋根のある2階建て木造建築
   である。薬局のシンボルとして、ライオンは大きなアーチの入口に置かれている。1812薬
   局となり、1835には侯爵の認可を得た。1991に改修され今でも薬局。
 アウグスト財団 Augusten Stiftung (18c) (Neues Schloss) 堂々とした2階建ての
   バロックの建物で、侯爵の寡婦の家として使われた。1848ケーテンの省事務所、1857最後
   の侯爵夫人の贈り物として貴族夫人財団が設立された。その後、教会会議所、巡回
   裁判所、住居として使われた。
 歴史博物館とナウマン博物館 Historische Museum und Naumann Museum 城館に、
   歴史博物館は先史からの町の歴史を展示し、ナウマン博物館は鳥類学の唯一の展
   示館で鳥の剥製・野鳥の保護・押絵などがある。

5.写真

市庁舎 ヤコビ教会
ハレ門塔 バッハ広場

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クロッペンステット Kroppenstedt SA22

1.歴史

  934 王ヘンリーはジークリート伯へ町を与え、文書に初言及、
 10c ジークリート伯の死後ヘクスターCorvey修道院が支配した、
 1253 都市権を授与された、      1359 町の紋章が承認された、
 1371-1727 地元の諸侯が支配、    15c 古い男子寄宿舎を開設、
 1651 マグデブルク選帝侯は砂岩の自由の十字架を設置、

2.市壁  1.27km 0.87

  13cに市壁は築かれ、30年戦争ではあまり役に立たなかったが、16cに再建された。
   相当延長が残されている。

3.塔  1門0塔

 梟門塔 Eulen Turm (1361) 13cの3市門の内、残された西門塔である。バロック
   の帽子のある四角塔で、1463に敵の攻撃で破損し、1553から再建された。塔の
   西側には1566病院が建てられ、右隣には現在の地域博物館が収容されている。

4.見所  D

   こじんまりした市壁に囲まれた古い建物のある町である。
 市庁舎 Rathaus (1598) 火事の後1719再建された2階建てで、東部分は1730に高い
   勾配屋根を被せられた。二重階段の北側に主入口がある。15cからの古い文書が
   残っており、1934に再設計された登記所には、人生の様々な段階を示す壁画がある。
 自由の十字架 Frei Kreuz (1248) 市庁舎に対面して石の基板上に自由の象徴として
   建てられた。最初は木製であり、定期的な更新が必要であったが、1651砂岩のバロック
   十字架となった。高さ4.4mでクロスバーで2つの小十字架を結び金色の紋章がある。
 聖マルチン教会 St.Martin Kirche (1207) ロマネスクの長方形の教会で、1483塔は古く身廊
   はホール式の教会となった。南翼は3廊それぞれにルネッサンスの贅沢な切妻が付けられた。
   16c日時計、1919時計塔、1403最古の鐘、1699大きな鐘、1693後陣、1684説教壇、
   1603オルガンが付けられた。
 町博物館 Stadt Museum (15c) 古い木造の建物に1992博物館が置かれた。町の
   歴史、大量のデンマークの銀杯、古い家具を展示。

5.写真

市庁舎 フクロウ塔
南壁
北東壁 南西壁

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 ラウシャ Laucha SA23

1.歴史

531 チュービンゲンの敗北でスラブが入植、 FreiHofとして言及された、
 1124 市場の出現を初文書言及、 1392 王ベンツシェルは都市権・町紋章を授与、
 1409 マイセン選帝侯フリードリッヒは市場権・下級裁判所・参事会選挙権を授与、
 16-17c ザーレ川の周航による恩恵は有ったが、戦争・略奪・火災で苦しんだ、
 1866 砂糖工場、1904 缶詰工場が繁盛。

2.市壁  1.02km 0.58

  15c市壁は、旧市街地の北側の川沿いを除いて、殆ど残っている。

3.塔  1門0塔

  昔は3門と8~10要塞があった。今も1門2要塞が残っている。
 上門 Ober Tor (15c) 良く保存された二重門は町の紋章をアーチの
   上に付け、強い壁・防御通路・狭間胸壁で、ツインガーとなっている。第2門
   の部屋には舗装料金徴収人が住んでいた。今はそこに郷土館がある。

4.見所  C

   航空スポーツと鐘の町である。中世の防御遺跡として二重門のOberTorと
   1kmの市壁がある。木組みの家も見られ、恥辱の石と鐘博物館は珍しい。
 市庁舎 Rathaus (1543-63) 中世風の石積外壁のある3階建ての建物
   で、後で大きな2連の外階段を付け、屋根の上には小鐘楼がある。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 初め礼拝堂が在った。1476-96
   石造の教会となり、1498-1514塔が付けられた。
 古い学校 Alte Schule (1615)教会の後ろに、校長のカール・トーマスの名
   前の付いた学校が建てられ、丸いアーチの中に碑文がある。
 市民の家 Buerger Haus (1613) 上中央通り38に、1630店が入り、
     1720改築された。よく保存されて美しい。
 恥辱の石 Schand steine マルクト広場に置かれた中世の見せしめの首
   を固定する石柱である。深刻でない罪の不道徳な行為の場合に、
   首と胸を金具で固定して晒し者にされた。
 ウンストルット工場 Unstrut Muehle (1841) まだ、煉瓦造の建物がある。
 鐘博物館 Glocken Museum (1732) 鐘鋳造の創始者が設立した鋳造
   所で、1911までに5千の青銅の鐘が造られた。

5.写真

市庁舎 南壁
南西壁 上門
西壁 東壁

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ローブルク Loburg in Stadt Moeckern SA24

1.歴史

  965 皇帝オットーⅠ世は町をマグデブルクのモーリッツ修道院に譲与した、
 10c オットー1世は国境の城として重視した、     983 スラブ族の反乱で破壊、
 1162-1200 城伯ルボラッハは新城を築いた、 1207 都市権を持ち3門・市壁で守る、
 15c モーリッツ修道院は貴族を繰返し替えた、 1604 贅沢な市庁舎は市民の誇り、
 1600.1660.1674.1684.1688 大火災発生、1648 戦後にブランデンブルク・プロイセンへ、
 1680 帝国直属都市となりマグデブルク侯爵領、   1716 駐屯地を町に移した、
 18c プロイセンは18c末まで税関本部を置く、1862 プロイセン行政改革で郡会事務所。

2.市壁  0.10km 0.07

   13cの市壁は、18c終わりから取り壊され、南西の教会の周辺に僅かに残る。
  その北MuelenStr.30m、その東建物壁15mに市壁らしき物があるが確証がない。

3.塔  1門0塔

 ミュンフェン門塔 Muenchen TorTurm (1291) 東南のミュンフェン門通りに角型門塔が立つ。

4.見所  D

   Moeckern市内の南に位置し、15-17cの多くの火事で中世の建物は少ない。
 市庁舎 Rathaus (1609) 後期中世風の建物で今の姿は1747に成立した。1826復元
   され今日でも使われている。1996も改修が行われマルクト中心に輝く。
 ローブルク城 Burg Loburg (965) 旧市街の西北の外れに中世の城があり、オットー1世の
   マグデブルクのモーリッツ修道院への贈与調書に言及された。この城は、オットー1世が
   レッヒの戦いで大勝利の後に、スラブ侵攻を恐れて国境に建てた。
 聖ラウレンチウス教会 St.Laurentius Kirche (10c) 村に在った教会は983にスラブの反乱
   で壊され、1212ロマネスクで再建された。尖塔の正方形の基礎は今でも残ってい
   る。その後ゴシックの3身廊となり後陣が追加された。1569オランダ風ルネッサンス装飾
   の切妻が付けられ現存している。1737身廊の窓を延長し、筒形円天井が構成
   された。2004-07に全般にわたる健全化と復元がなされた。
 聖母教会跡 Ruin Lieben Freuen Kirche (12c) 元は村のロマネスクの石造教会だった。
   1207東側の村と合併した時に市壁の外に移され、略奪に遭って1562には放棄
   された。1601建物を煉瓦で修復して礼拝した。1806-15ナポレオン戦争の火薬庫
   となり、その後捕虜収容所、遺体安置所となった後に放棄された。1900修復
   1990復元されている。

5.写真

市庁舎 ミュンフェン門
西南壁 南壁

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 レベジュン Loebejuen Wettin SA25

1.歴史

  961 皇帝オットーはベネディクト修道院へ献金、10c 旧城の言及、
 13c 町として知られ名前はソルビア語、   1460 町と聖シリアシ教会へ病院を寄贈、
 1463 ビール鋳造権を得てビール生産、    1518 採石場の開設、1529 ペスト流行、
 1583 大火災で公共施設と180戸焼失、   1680 ブランデンブルク・プロイセン公国へ属す、
 1807-17 ヴェストファーレン王国のカントンの町、   1815 ザクセンのプロイセン州に属した、
 1849 甜菜からの精糖技術開発し工業化   1852 新射撃場建設のちにVolkshaus、
 2011 合併してLoebejuen-Wittinとなった。

2.市壁  0.66km 0.41

  市壁は、主として北と西に残っている。

3.塔  1門0塔

  元は4市門であったが、唯一ハレ門が残っている。
 ハレ門 Hallesches Tor (1605) 金額323タラーで建てられ、唯一残っている。1749
   に上部が更新され、1824から町の刑務所として使われた。その後1972まで住
   居として使われ、1992修復されて博物館が開設された。地階:アーチ門、上階:
   博物館、四角錐屋根のシンプルな構造である。
 プレッアー門 Ploetzer Tor (17c) 北門であったが、門塔は残っていない。1852
   市壁の外の道路が造られ、1546-53墓地公園に面してレンガ造の壁や門がある。

4.見所  B

 旧市庁舎> Altes Rathaus (1502) 1835に旧市庁舎は荒廃し売却された。
   買取ったリーシュは、塔と出窓を取除き大幅な改修を行って、入口を中央に移した。
 新市庁舎> Neues Rathaus (1816) 町の役人の住居として建てられ、1838に町は
   行政の場に変換した。従って飾り気のない2階建の建物である。
  Burg (10c) Auf der Burgには、昔城があったが、1125に破壊され、その
   後再建されなかった。
 聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (13c) 1125に最初の教会がの記述があるが、城教会
   であるかどうかは不明である。1485ゲオルグは町教会聖ペトリを建てた。今も
   ゴシックの大きな教会である。市教会に接続してCarlLoewe博物館があり、
   ドイツ・バラ-ドの作曲家の作品と生涯が展示されている。
 病院礼拝堂 Hospital Kapeiie St.Cyriact (15c) 礼拝堂は町の最古の建物で
   テルマンが建てた旅行者宿1460に接続して建てられた。1992に改修され文化で、
   行事や演奏会に使わている。
 牧師館 Pfarrhaus () 町の教会聖ペトリの隣に立ち、美しい2階建の建物で、今は
   青少年の施設である。
 古い木組の家 Alte Fachwerkhaus (1879) 城通り16の2階建の窓の少ない木組の
   家は。碑文によれば1600の建物で、町で最古の木組の家である。
 古い消防署 Alte FeuerWehr (1131) 消防団の最初の庁舎で、1995今の場所に
   来るまでに2回移転している。今は独自の構造の見張りを兼ねたホース塔がある。
 高い見張通り HoheWart () この町の典型的な路地は、狭く・曲がり・急勾配で
   ある。古いPfarrMauerに沿って教会に向かう路地である。1998改修された。
 歴史的町の農場 Hostoriche Stadtgut (19c) かって農場として使われ、1800
   -50建物はに要塞跡地に建てられた。1995-2001市役所として拡張された。
   この歴史的不動産は、今は文化的な中心として使われている。
 井戸斜面 Born Schlippe () 上下の都市を結ぶ歴史的な階段。

5.写真

 
市庁舎 聖ペトリ教会
ハレ門 北西壁
東南壁 東北壁

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 リュッツエン Luetzen SA26

1.歴史

  13c メルセブルク本山の影響下にあり、聖公会の公式のリュッツエンの座席であった、
  16c メルセブルク主教区の世俗化のために、ザクセン選帝侯の支配下に置かれた、
 1583 疫病の流行で多数の死者、      1621、町は暫定硬貨を発行、
 1632 この町は30年戦争の主戦場の一つで、スエーデン軍が敗北した、
 1815 ウイーン会議後ザクセン王国は領土の大部分をプロイセン王国へ譲った、
 1952 町はメルセブルクからヴァイセンフェルス地区へ、 1990 ザクセンアンファルト州に属した。

2.市壁  0.36km 0.23

   プロムナーデ通りの西側に南北方向の市壁の痕跡がある。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   1632に30年戦争のリュッツエン戦いで、常勝のスエーデン王は敗北し死亡した。
  ナポレオンは、勝利したすべての戦いの場所を、パリ凱旋門の一番上の30の楯に刻ん
  み、Lutzenの名がある。
 市庁舎> Rathaus (1884-85) 新ルネッサンス3階建中世風破風付きの堂々たる市庁舎が建て
   られた。会議室・市長室・刑務所は元の部分が使われた。また、市庁舎の北側には、
   グスタフ・アドルフの像がある。
 グスタフ・アドルフ記念碑 GustavⅡAdolf Denkmal (1632) リュッツエンの戦いで倒れたスエーデン王
   に捧げられた最初の記念碑として、大きなボーダーが建てられた。1837に鉄製のキャ
   ノビーがスエーデン石の上に建てられた。1907っスエーデン領事によってヒ年礼拝堂が贈呈
   された。
 グスタフ・アドルフ記念教会モイヘン Gustav-Adolf Gedenke Kirche Meuchen (15c) 当初ロマネスク
   の教会であったが、19cにゴシックで再建された。1912に記念協会再設計され、祭壇
   の後ろの古い木製テーブルの上にグスタフ・アドルフの死体があったとされている。
 リュッツエン城 Schloss Luetzen (1252) メルセブルクの司教か建て、16cリンデナウのジギスムンドが
   ルネッサンスの宮殿とした。700年以上の歴史を持つこの高塔のある四角い建物は貴重
   な遺産である。1928都市と地域の歴史博物館を収容し、特に世界史的に有名な二
   つの戦いの大きなジオラマが戦況を示している。詩人・作家のヨハン・ゴットフリート・シーメの
   展示もある。
 聖ビティ市教会 St.Viti StadtKirche (1513) 13cからのロマネスク教会の跡地内に、1488後
   期ゴシックの教会建設を開始し、塔は1515-31に付けられた。1778の落雷後に、初
   めの77mの高さは10m短縮された。

5.写真

市庁舎 聖ビティ市教会
リュッツエン城 東壁
東北壁 北壁

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 マグデブルク Magdeburg SA27

1.歴史

  805 砦に守れれた交易拠点の初言及、 929 オットー1世は結婚でマグデブルクを取得、
  937 オットー1世はベネディクト会聖モーリス修道院設立、955 オットー1世はマグデブルク大司教に、
  965 モーリス修道院に支配権・市場権・鋳造権・関税権を授与、975オットー2世は商人を免税、
 1188 マグデブルク大司教は町の特権を強化、 1207-09 大聖堂は火災で壊れゴシックで、
 13c ハンザ同盟に加入、          1548 ペストで2.5千人死亡、宗教改革、
 1631 30年戦争帝国軍は町を破壊・虐殺、  1685 仏ユグノー教徒の移住、
 1702-40 レオポルド侯爵がプロイセンの要塞化、 1806 仏軍占領、1807ヴェストファーレン王国へ、
 1815 プロイセンのザクセン州の首都となった、  1912 町の要塞は取り外された、、
 1945 空爆で町の90%が破壊され。

2.市壁  0.30km 0.05

  10cから市壁は造られ、1430に拡張され、1600市門6を設け、1702-40レオポルド候爵
   が知事になり市壁の外側にオランダ式要塞を設置して大砲による攻撃に対応した。
   1750旧市街地・中島・対岸の3要塞はほぼ完成し、4850には鉄道が敷設されたが要塞
   はさらに強化された。1869要塞部分は取り除かれ、そこに市街が広がり中央駅が
   置かれた。

3.塔  0門2塔

  元は6市門と市壁には20近くの防御塔があった。Fuersten Wallの両側に角塔は市
  壁と同時に復元された。

4.見所  C

   1631に30年戦争デイリー将軍の帝国軍に廃墟とされ、その後商工業の発展で立ち直
   ったが、1945二次大戦の空爆でバロックの旧市街はほぼ破壊された。ゴシックの大聖堂は
   ドイツの初期ゴシック建築の大構造物であり、内部にも見るべき物が多い。
 旧市庁舎> Altes Rathaus (12c) 古い部分は地下に残っている。ホールは牛革の倉庫
   や販売に使われた。30年戦争で破壊された後に、1691-98イタリア・オrンダ風ルネッサンス
   2階建ての建物を砂岩で建てた。19c改修と拡張が行われたが1945空爆で破壊され、
   1965忠実に復元が始まった。屋上の小塔には4オクターブのカリオンがあり、庁舎前には
   マグデブルクの騎士像が立っている。
 大聖堂 Dom St.Mauritius und St.katharina (937) オットー1世は聖モーリス修道院を
   設立し、955大司教座教会に昇格させ、大聖堂の建設が開始された。イタリアから斑
   岩・大理石・花崗岩を運ばせた。西側入り口にはオットー1世とエディータ妃の坐像があり、
   北側の天国の入口には愚かな処女と賢い処女の彫像1245がある。1207火災で壊れ
   ドイツで最初のゴシックで再建され、1362西塔が101mで建てられた。内部には大空間
   と多くの芸術品が収容されている。
 聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1131) 町で最古の教区教会でロマネスク3廊の十字型
   の聖堂であった。火災や戦争で何回も再建され、1886には教会の前にルター記念
   碑が建てられた。1945爆撃を受け、1991-99再建された。
 聖母修道院 Frauen Kloster (1064) ロマネスクの建物複合体で、1220初期のゴシックボールト
   を付けた。1834世俗化されたが1698に設立された学校と教育学研究所は1928ま
   で存続した。1945一部破壊されたが1974美術館が設立され、ロマネスクの北翼と彫刻
   公園は見所である。
 文化・歴史博物館 Kultur und Geschichte Museum (1906) 1913東翼を第2期に建設
   したが、1945爆撃で美術品の殆んどは失われた。今は15cからの絵画・織物・
   タペストリー・家具等の展示がある。

5.写真

旧市庁舎
東北壁 南東壁
東壁 要塞壁

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 メルゼブルク Merseburg SA28

1.歴史

  8c カール大帝の時代にザーレ左岸集落の言及、 919 プファルツ王ヘンリー1世は王宮を置く、
  968ザクセン・プファルツ領に司教区領創立、11c プファルツ王ハインリッヒ2世の時にドイツ最大の王宮、
 1015 大聖堂の礎石が置かれ1280完成、  1188 皇帝バルバロッサは新市場ノイマルクト設立、
 1219 市場と大聖堂は市壁で守られた、  1322 大火災で町の多くは焼失、
 1428 町は司教に対抗しハンザ同盟に加入、 1525 農民戦争で司教はライプチッヒへ逃れた、
 1561 ベネディクト修道院は世俗化で荒廃、  1656-1738 ザクセン・メルゼブルク公爵の文化、
 1815 町は1945迄プロイセンの一部であった、 1832 郊外アーテンとノイマルクトは都心に合併、
 1945 数回の空爆で町の大部分は破壊。

2.市壁  0.44km 0.33

   11cに城を取巻く市壁が築かれ、今でも北・西・南に610mの0.88が残されている。
   13cに南のノイマルクトを含む市壁に拡張され、1430に第3次市壁が強化された。
   今は、西のEulenTurm付近と南東の市庁舎付近に残されている。

3.塔  1門1塔

 曲がった門 Krumme Tor (1430) 胸壁付半円塔で、城山入口の北門の位置に1430
  市壁の外門として築かれた。解体されアーチが変形した形で1822-88に再建された。
 フクロウ塔> Eulen Turm (15c) 町の西側に残された市壁にある円錐屋根の塔である。

4.見所  C

   丘の上に宮殿と大聖堂などの大きな建物が聳える大きな町。
 旧市庁舎> Altes Rathaus (12c) 2階建て切妻屋根の建物で、1478北側は古い
   形の建物で再建された。1561-68ルネッサンスの南翼を拡張、1692建物の前面にある多数
   の司教の紋章に、町の紋章を加えた。
 メルゼブルク宮殿> Schloss Merseburg (13c) 古い建物の上に1470司教ティロは新い
   城を建て、1605-08ザクセン公爵ゲオルク1世により後期ゴシックとルネッサンスに変換された。
   塔室の螺旋階段と北翼の壮大な出窓に特徴がある。今は文化史博物館・音楽学校・
   管理本部として使われている。前庭には大きな鳥小屋がある。
 メルゼブルク大聖堂 Dom Merseburg (1021) 1019司教ティートマーが礎石を置き、皇帝
   ヘンリー2世が落成させた。11cからからのロマネスクの3廊ホール教会と地下室が保全されてい
   る。1080ルドルフの古い青銅墓記念碑がある。ロマネスクのポータブル祭壇、13c象牙箱と貴
   重な写本が回廊の宝庫にある。
 聖マクスミ教会 Stadtkirche St.Maximi (10c) 1432後期ゴシックの教会は1501に再
   構築され、1867-72ネオゴシックの高さ74mの高塔を建てた。今は演奏会場でもある。
   碑が建てられた。1945爆撃を受け、1991-99再建された。
 聖トーマス教会 St.Thomasu Kirche (12c) 対岸のノイマルクトに位置し、皇帝フリードリッヒ
   ・バルバロッサの文書に、ロマネスク十字架教会として1188初言及された。
 三民会議場 Staende haus (1891-95) ザクセン・プロイセンの州議会場として建てられ、今は
   文化行事や催し物会場として使われている。

5.写真

旧市庁舎 クルメ門
フクロウ塔・東壁 南東壁
東南壁 西北壁
南壁 ドーム

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メッケレン Moeckern SA29

1.歴史

  948 オットー1世のマグデブルクのモーリッツ修道院への文書に初言及、
  955 オットー1世はハンガリーの勝利後に教会を寄付、     11c 市壁は3市門を装備、
 12c ブランデンブルクの辺境伯が支配、       1196 マグデブルク大司教に引渡した
 1373 すでに都市権は有していた、        14c クエトリンブルク修道院の所有に、
 1376 修道院は所有権を再びブランデンブルクに譲渡、 1472 選帝侯は抵当に、
 1524 アルンスタイン伯爵に行き絶滅まで所有、      1626.88.大火災で深刻な被害、
 1710 ミュンヒハウゼンのクリスチャン・ヴィルヘルムに、      1742 ハーゲン家に町は移り1945まで
 1813 ナポレオン軍の占領、              1803 プロイセン王国の郡庁を設置、

2.市壁  0.10km 0.09

   11cの市壁は、SchlossParkのEhle川沿いに何百mか残るとの事だが、Groetzer
  Str.がEhle川と交わる地点から東に、とびとびに100mしか確認出来なかった。

3.塔  1門0塔

 グレッツアー門 Groetzer TorTurm (11c) Zerbster Torとも呼ばれ、塔頂に町の紋
   章を掲げる3階建ての円塔がある。

4.見所  D

   マルクトにぽつんと市庁舎とその東に宮殿がある小さな町。市庁舎前に守護女神の
  戴冠頭像女性像が立つ。
 市庁舎 Rathaus (14c) 古い木組みの建物に代わって、1895砂岩の前面と大階段のある鐘
   楼付3階建ての市庁舎が三角形のマルクトに建てられた。
 メッケレン宮殿 Schloss Moeckern (1705-13) 最初の城は木造で、ミュンヒハウゼンのクリスチャン・ヴィルムヘ
   ルムによって建てられた。1840-63ハーゲンのアデルバート伯爵は英国ネオゴシック様式で城と天
   守閣を結び付けて城を改造した。1813郷土館がおかれ、1812のナポレオン戦争ジオラマが
   ある。1998城の基礎学校で子供達は学び、町は補修を行った。
 聖ラウレンチウス町教会 StadtKirche St.Laureentius (955) 皇帝オットー1世はハンガリーに勝利した
   後に町教会を寄付した。元のロマネスクの教会はルネッサンスやバロックに数回改装された。角塔
   は10c、身廊は15cの物である。現在の外装は主に1581-93の改修で得られたもので
   ある。中には、1585砂岩の八角洗礼盤、1678説教壇と絵画、1688火災後に内装が行
   われた。
 カールリンクのオルガン Kahring Orgel (1705) 町教会のオルガンは、アンドレアス・カールリンクにより製作・
   据付けが行われた。彼の現存する唯一の大規模オルガンである。近代的な音階への転換
   は1833-34になされた。

5.写真

市庁舎 市教会
グレッツアー門 南壁

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ミュンフェルン Muencheln  Geiseltal SA30

1.歴史

 881-89 ハースフェルト修道院の十分之一税の場所としてミュンフェルン城が初言及、
 11-15c ウーラドリゲ家が村を支配、          1350 町となった、
 14c フレデリックス・ミュンヘルンが貿易・醸造・採掘に権利を得た。
 1815 ヴェッテン家に属し、後にザクセン・フレイブルクに所属、
 1816 ウイーン会議後にプロイセンになった、1944までザクセン州メルセブルク行政区に所属。

2.市壁  0.16km 0.11

    14cの市壁は、北東のAn der Stadtmauerに140mと、西南に20m残る。
  別にAmPfarrturmに6×20mの石積が復元されている。

3.塔  0門0塔

  見当たらない。

4.見所  C

    マルクト広場が傾斜面にあり、珍しく低い方に市庁舎や観光案内所がある。旧市街
  の北東側には長年の褐炭の採掘で掘り下げられた所に水が溜まりドイツで最大の人工
  湖を生み出して、観光地になっている。旧市街地から歩道トンネルを抜けると、7分間
  で湖を見下ろす壮大な光景が見下ろせ、湖にはマリーナが整備されている。
 市庁舎 Rathaus (1571) 後期ルネッサンスの3階建の六角形の螺旋階段塔のある建物で町の
   繁栄を表す華麗な石の絵画が飾られている。1613地下室ではビール保管所や刑務所・
   拷問室があり、ツアーで見学できる。市庁舎の隣の郵便局には、博物館があり、地質
   年代の説明・褐炭の採掘・鉱夫に生活などを展示。
 市教会聖ヤコビ Stadtkirche St.Jakobi (13c) 4階建四角単塔のホール教会で、教会最古の
   部分と塔の基礎は13cに遡る。本堂・バロック説教壇・オルガンは1718の火災後に建てら
   れた。
 鉱業キャビネット Bergban Kabinett () マルクト広場の北東側に3階建の工業展示場で、正面玄
   関の東にはタマネギドームの監獄がある。
 水城ミュンヘルン Muechelner Wasser Schloss (12c) 2-3階建の中央突出の建物。
 バロック庭園聖ウルリッヒ Barockgarten St.Ulrich (1720) バロックのテラスガーデンは、聖ウルリッヒと
   その庭師の邸宅からのみ利用できた。1921-25石灰岩の壁で3つの高さにまとめ、
   芝と石壁のコンストラストが美しい。

5.写真

市庁舎 聖ヤコビ教会
西境界塔 南西壁
東南壁 東北壁

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ナウムブルク Naumburg Saale SA31

1.歴史

 1012 マイセン辺境伯が交易拠点に城を築き初文書言及、1144 町となった、
13c ザクセン・ザイツの司教が町を支配、          1432 ハンザ同盟に加入、
 1544 ザクセン選帝侯はナウムブルク事務所を設置、    1568 宗教改革を導入、
 1618-48 30年戦争で経済的に疲弊した、1718 ザクセン・ザイツの死後ドレスデン選帝侯領に、
 1815 プロイセン領となった、           1945 空爆、米軍占領、赤軍占領。

2.市壁  0.98km 0.52

    13cの終わりに、市場と大聖堂を中心とし二つの要塞が置かれた。これらは
   15cに強化新築され、町の防御は土堤に18塔のある内側市壁と16塔のある外側市壁
   で守れれた。全プロイセンに1835適用された石造都市法の導入により、市壁は大部分
   がはぎとられた。今は旧要塞に沿って二つの環状道路がある。旧市街の周囲には
   東と南に市壁が残され、大聖堂を囲む市壁は見当たらない。

3.塔  2門3塔

 マリエン門 Marien Tor (14c) 5市門の内唯一残り、中庭と2塔施設の珍しい形態で、
   夏には中庭とマリエン広場で催し物が行われている。道路上の部屋には守衛と整備員
   が住んでいた。19cには刑務所として使われ、1997-2000に改修後市博物館として
   市壁の歴史を展示している。塔からの眺めは素晴らしい。
 塩門の家 SalzTor Haeuaer (1834-35) 南の門に新しく古典主義の構築物が建てら
   れた。
 地方冠 Lands Krone (1463) 東南の隅の要塞である。
 噴水 Wasser Kunst (1488) 南の塔で噴水もあった。側に市壁の通路がある。
 ヴェンツェル塔 Groetzer Turm (17c) 高さ62mの塔で、聖ヴェンツェル教会の高さ46mの
   デッキから展望は開けている。教区教会の鐘楼に加えて主要な見張塔であった。

4.見所  B

   ナウムブルクは世界遺産の町で、古くからの大聖堂とマルクトを中心とした市民の町とし
   て後期ゴシックの網目模様のアーチ出窓と1517火災後のバロックの建物がある。
 市庁舎 Rathaus (1517-38) 3階建の大きな建物で火災から免れたルネッサンスの部分も
   残されている。切妻は特に初期ルネッサンスの形が見られる。1612ザクセン選帝侯の紋
   章が正面玄関に掲げられている。
 聖ペテロとパウロ大聖堂 Dom St.Peter und Paul (1042) 最初の大聖堂が建てられ聖体
   拝領された。1542ドイツで初めてのルター派の司教が生まれた。大聖堂はロマネスクとゴシック
   の建物で、主として初期ゴシックの記念碑的な彫刻で装飾されている。13c中頃の西の
   内陣には創設者の等身大の彫像がある。地下室は後期ロマネスクで飾られ、ステンドグラス
   は中世のもので、中世とルネッサンスの宝物が多い。
 聖ヴェンツェル教会 StadtKirche St.Wenzel (1426) 17cに新しく建直され、内部は
   バロックと化したが、中には1680祭壇・1724ルーカス・クロナッハ工房の2枚の絵画がある。
   1746のバッハオルガンが本格保存されている。
 マグダナのマリア教会 Marien Magdalenen Kirche (12c) 古い礼拝堂の上に、1712-30
   バロックのホール教会が建てられた。1869から定期的な演奏会が続けられている。
 エギヂエン礼拝堂 Agidien Kapelle () 大聖堂の北側の控訴裁判所の前に、聖ジャイルズ
   専用の礼拝堂が建つ。Agidius伝説のドイツで最も古いロマネスクの絵画がある。これは
   多くあったプライベートチャペルの一つで、今の大聖堂と同じ時期に建てられた。2007
   に高い芸術性と歴史に重要なためザクセン・アンファルト州の「ロマネスクの道」に認定した。
 ユダヤ路地 Jueden gasse (1350) マルクトの東南の路地で、1350からユダヤ人が集まり、
   1440には22人が居住した。1494にはザクセン選帝侯フリードリッヒにより追放された。
   その後19c半ばには一時的にユダヤ人が住んだ。
 高等裁判所 Ober Landes Gericht (11c) マイセン辺境伯の城がザーレ峡谷に立ち、ネオバロック
   の建物が1914-17に裁判所造で建てられ、1816以降は最高裁判所であった。
   大戦後赤軍が使用し、1995改修後州高等裁判所となった。
 市博物館 Stadt museum
  高い百合 Hohe Lilie マルクトの北西の13-15cの4民家を集めて市博物館とした。
  マクスクリンガーの家 Marklinger haus ライプティッヒの画家・彫刻家・グラフィックアーティストが
   1903-2012に住んだブドウ園の家である。
  ニーチェの家 Nietzsch haus ニーチェ(1858-97)の家で、1994から開館した。ニーチェの
   人生と仕事を展示。
  ヴァンツェル塔 Wenzels turm 塔頂の十字架の高さ72.74m、展望プラットホームの高さ
   53.68mである。1991-2001に改修され、見張の住居の見学や展望ができる。
  マイエン門 Marien tor 町の市壁の歴史の展示があり、塔からの展望も良い。

5.写真

教会
市庁舎

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ネーブラ Nebra Unstrut SA32

1.歴史

  976 フルダ帝国修道院の議定書に初言及、    1205 新城の建設で町は成長、
 13c中 都市権を授与され村を吸収    13c 4門の市壁を築き、南町に要塞も、
 1348 疫病の流行でユダヤ迫害、    1446 ザクセンの支配、1458シュワルツベルク侵攻、
 1465 ザクセンのウイリアム公は町を委託、   1540 ニスミッツは城を荘園として再整備、
 17c 30年戦争で略奪・破壊、         1655.1684 大火事で町は焼失、
 1756-63 7年戦争とナポレオン戦争で戦災、 18-19c 農業の他に麻・絹・羊毛の生産、
 1791 川運で造船も行い繁栄、      1815 サクソン・フレイブルク事務所に属した、
 1816 ウイーン会議でプロイセン王国ザクセン州に、   1888 20人の船主がギルドを組織。

2.市壁  0km 

   北東部と南東部にそれらしい擁壁があるが、繋がりが分からない。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

 市庁舎 Rathaus () 町の外れにある飾り気のない小さな建物。
 ネブラ城 Burg Nebra (1200) 初期ゴシックの始めの城の城礼拝堂の一部が、フレスコ画と
   共に残っている。1540領主は新たに堂々たる3連の宮殿を建て、今も美しい姿
   を残している。1847ネオルネッサンスの宮殿が加わった。ワインセラーは古い城の丸天井の貯
   蔵庫を市が1999に復元して古城公園内のワインセラーとして開業した。
 市教会聖ゲオルグ教会 Stadtkirche St.Georg (1416) 西角単塔の教会で塔南部の外
   壁に碑文がある。1666の火災後に内装は行われたが、1661の絵画の一部を見
   る事ができる。
 郷土館博物館 Museum Heimarthaus (1998) Hedwig-Courths-Archiv の名もあ
   る。マルクト広場の南側の2階建の建物に、1850-1950の日常生活を表現する博物館
   が開設された。また地元出身の女性作家ヘドミック・コアース・マーラーの208の小説は多数の
   言語の翻訳され合計8千万部の本が出版れた。
 トライアス展 Museum Triasausstellung マルチンルター大学ハレ地質科学研究所の展示である。
   3階建の建物の1階に、250万-2億5千万前の地球の歴史・岩石・化石を
   見る事が出来る。

5.写真

市庁舎 聖ゲオルグ教会
ネブラ城 南東壁
南西壁 西壁

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オエビスフェルデ Oebisfelde Weferlingen SA33

1.歴史

 1014-75 村として文書初言及、    1263 城と教会と町が建設された、
 1547 シュマルカルデン戦争・1630 30年戦争で数回荒廃した、
 1680 ブランエンブルク・プロシアンマグデブルク公国に直属した、
 1807 まで木のサークルに属した、     1910 北のカルテンドルフと合併、
 1942 短波放送局を開設。、       1952 GDRは国境閉鎖・制限区域設置、
 1990 国境除去後西に通勤、      2009 新しく周辺統合。

2.市壁  0.59km 0.41

  中世の市壁は、西側のAn der Stadtmauerに主として残る。

3.塔  0門1塔

 金の畑塔 Goldacker Turm (14c) 南のブラウンシュバイク門の西に、5防御塔の最
  後の一つが残されている。1901ひどく壊れた塔は、実業家 Goldackerが再構
  築して夏の別荘として使った。大半円と四角の複合形の2階建に平屋が付いて
  いる。今はヴォルフスブルク料理組合の趣味のために使われている。

4.見所  D

   アレ-川沿いの小さな町で、14-19cの木組の家が並び、大きな城には高さ27m
  の天守閣がそびえる。
 市庁舎 Rathaus (1200) 町の中央広場に、二棟の破風2階建の建物が接して立
   っている。幾度も改造が行われ1892には、建物の正面入り口が表通りに面
   して付けられた。1年後にはそこにローラント像が乗せられた。
 城と博物館 Burg und Museum (10c) 初め交易路保護のために設置され、1014-73
   町と城は寄付された。1300中世の都市要塞に取り込まれた。1547シュマルカルデン
   戦争で城と町は何度も荒廃した。1710不規則な5角形の形状で3階の建物が
   取り巻き2つの中庭が保たれている。入口に近い小さな中庭には高い四角塔が
   立っている。今この城には、博物館・図書館・文化の中心・観光案内所がある。
 聖カトリーヌ教会 St.Kathorinen kirche (13c) オペフェルドの貴族が城の直後に疎石
   で設立し寄贈した。1381に司教座の席となった。1901-02人口増で、ロモネスク
   の身廊を東に延長した。2011塔は改修されたが、西に95cm傾いている。塔の
   西壁には、十字架上のイエスの像の彫刻石板が埋め込まれた。

5.写真

市庁舎 聖カトリーヌ教会
城と博物館 東壁
東北壁 北壁

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オッシャースレーベン Oschersleben(Bode) SA34

1.歴史

  994 皇帝オットー3世の文書に北の辺境として初言及、
 1052 ハルバーシュタットの司教が城を所有、    12c 町は開発され3門のある要塞に、
 1235 市場権・都市権を保有した、           1540 宗教改革の導入、
 1542-45 城の再建、          1534 城にブランデンブルクの司教が入った、
 17c 幾つかの大火災、                1816-59 郡庁の所在地、
 1840 ビートによる砂糖工場の開設、    1945 第2次大戦の爆撃による大被害。

2.市壁  0.12km 0.12

   12cに450m×450mの市域を二重市壁と堀で囲んだ。
  壁があって距離を取っていた。

3.塔  0門0塔

   12cには、東西南北に4市門が築かれたが、見当たらない。

4.見所  D

   小さな町で、美しい木組みの家と復元された建物がある。
 市庁舎 Rathaus (13c) 1689 大火で破壊され元消防署の敷地に1631に2階部分が17
   36に3階部分が建てられた。1920ホテルとレストランの建物を買収し大会議室と管理棟
   を置いた。
 アムプファス城 Burg Ampfurth (12c) 旧市街の外北東に、領主はBurg Mannenを1381
   に建設し、1608-15に美しいルネッサンス新城を建てた。古い城の階段塔が残り、18
   38-53プロイセン電報局として使用された。1897ウーンシャフェの子孫が所有。城の西翼
   と北翼の一部はまだ使われている。ハトの塔は中庭にまだ立っている。
 聖メアリ教会 St.Maria(1868) 町にカトリックの労働者が来て、1857カトリックの学校を設立し
   1858牧師を置き、1868ネオゴシック煉瓦造の教会を建てた。1970に改修した。
 聖ニコラス教会 St.Nikolaus (806) 初めはキリスト教布教の段階でシュテファニ教会が建てられた。
   17cに火災で壊れ、1659バロックで建てられ、1885塔を除いて壊されネオゴッシクの大
   ホール教会として再建された。1944空爆で屋根が破損し応急修理されたが、1969
   の嵐で壊れ使用できなくなった。1987には修復された。
 市博物館 Stadt Museum 町の文化と歴史・クロック時計・ミニィチュアカー等の展示。
 ハントメアースレーベン郷土館 Heimatstube Handmersleben ハントメアースレーベンの旧市庁舎に、
   昔の洗濯場・居間・寝室・台所と農場の機材を展示。

5.写真

市庁舎 聖ニコライ教会

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オスターヴィーク Osterwieck SA35

1.歴史

  804 ハルバースタットの宣教師が木造教会を再建、974オットー2世は市場権・慣習法を授与、
 1073 大司教からの手紙で初言及、、     1495 大洪水で町や市壁は破壊、
 15c 裕福な職人・商人・農民は壮大な木骨造の家を再建した、
 1511 大火で町は焼失、              1844 大火災で町は損傷。

2.市壁  0km 

    通りの名前ではMauer Strasseが残っているが、市壁は見当たらない。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  B

    歴史的な木組みの町で、記念碑的な木組の家376戸の半分は1720以前に建てら
  れた物で保全も進んで、美しい景観を示している。
 木組の家 Fachwerk Haus 多くの木組の家が保存されている。旧市街の中心には、約
   100戸の木組の家が1970年代に補修され、今は町の約半分の400戸の木組の家が
   保護され、美しい中世の街並みが見られる。
    ゴシックの木組の家(-1521)、ニーダーザクセンの家(1533-84)、ルネッサンスの家(1580
   -1640)、バロックの家(1640-1780)の家並みが、空き家で寂れた感じもあるが、
   美しい彫刻や碑文に満ちている。1480最古の家はチャペル通りにある。
 聖ステファン教会 St.Stephan Kirche (12c) 最も古く大きな教会で、高さ54と53mのロマネスク
   の塔は12cに付けられ16cに添加され、屋根は新たに1983スレートで葺かれた。ロマネスク
   起源の西側前面は1512に再建された。身廊は工事や老朽化で荒廃したが1552-57
   に再建された。13c金属洗礼盤、15cゴシック祭壇がある。1990大改修。
 町博術館 Stadt Museum (1265) 1450-60に拡張され、市庁舎として1923で市長と市
   議会が入り、1933労働局が使った。戦時中は登記所として使われ、1945からは学校
   ・事業所ともなった。町博物館として、先史時代からの町の歴史・靴屋の作業場・初
   めての屋内便所・木造家具・革貨幣・武器庫等を展示。

5.写真

市庁舎 木組家
木組家 木組家

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 プッレティン Prettin in Annaburg SA36

1.歴史

  965 オットー1世の手紙に城の言及、       1012 ブランデンブルク大司教区に、
 1290 ザクセン・ビーテンベルク伯爵領へ、       1334 地方自治法の記録がある、
 1335 ルドルフ1世は水城を築いた、   1400 土堤・市壁・3門の新しい町の成立、
 1530 大火災焼失し道を拡げ再建、  1637 30年戦争の略奪・飢餓・ペストで衰退、
 16cから町の土地構成をを守り続けている、 16c終ザクセン選帝侯はリヒテンブルク城建設、
 1807 プロイセンに帰属した、            2002 大洪水で町は大被害。

2.市壁  0.28km 0.27

   14cに築かれた石積の市壁は煉瓦で再建されている。北側は明らかに市壁跡
  と分かるが、南側の煉瓦積の壁は外構壁のようで、市壁ではなさそうである。

3.塔  1門0塔

 上門塔 OberesTorTurm (15c) 北東にに、3門の内唯一残る4階建の円塔で、北側
   に2階建ての14-18c衛兵の家が付いている。

4.見所  C

   アンナブルク市内のエルベ川東岸の小さな町で、旧市街には17-19cの古い建物は一
   見の価値がある。リヒテンベルク城には城博物館があり、城の内部や歴史、その後の
   刑務所・強制収容所の経緯も分かる。国道からの経路に在るフェリーは趣のある渡し
   船で、のんびり川渡りが楽しめる。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (15c) 飾り気のない2階建ての建物は、21cに改修された。
 聖マリア市教会 StadtKirche St.Mrien (11c) 14cにゴシックの煉瓦造の建物になった。15
   30火災により鐘楼・オルガン・天井は焼失し、1582に修復された。木製の祭壇は、
   リヒテンブルク城教会に置かれ1614に設置された、説教壇・鐘は市内の新教教会から
   贈られた。1886高い尖塔を付けた。
 高齢者クラブ三つのバラ Seniorentreff Drei Rosen 高齢者が集い、様々なサービスが提
   供されている。
 聖アンソニー修道院 St.Antoni Kloster (1312) 現在の城、リヒテンベルク修道院の敷地内に仏
   の聖アンソニー修道会病院として建てられた。1533に火災に遭い、1570に世俗化さ
   れた。
 リヒテンベルク城 Burg Lichtenberg (16c) ザクセン選帝侯アウグストとその妻デンマークのアンアは、
   昔の聖アンソニー修道院の跡地に、1574-82ルネッサンス3翼の宮殿を建てた。1611-41ニーダ
   ーザクセン選帝侯クリスチャン2世の妻は、夫の死後ここに住み、城を拡張し中庭を整え
   た。1685-1717プファルツ選帝侯カールの妻は、夫の死後ここに住んだ。1811放置さ
   れ、遺跡が刑務所に、1935-39女性刑務所、1939女性強制収容所となった。
   1970町と地域の歴史博物館となり、16c宮殿の絵画も見られる。
 フェリー Faehre (1431) 両岸に渡したワイヤーと上流にアンカー・ワイヤーを使ったフェリーが今も運行
   している。フェリーは人と車を合わせて40tを運べる。フェリーの家1835は住居であっ
   たが、1995に改修され、今は食堂と宿屋となっている。

5.写真

旧市庁舎 門塔
北壁 北西壁
北西壁端

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クヴェトリンブルク Quedlinburg SA37

1.歴史

  922 ザクセン公ハインリッヒ1世に関する文書に言及、 936 宮殿でハインリッヒ1世死去、
  936 女王マチルダは貴族の娘の修業の場として女子修道院を設立、
  994 皇帝オットー3世は市場権・鋳造権・課税権を授与、1164-80 近郊で戦争勃発、
 1180 獅子王ハインリッヒが新市街を設立、       1327 新旧市街の合併、
 1426-77 ハンザ同盟に加入、 1477 市民は修道院との武力闘争で政治特権獲得、
 1539 宗教改革導入、    1802 修道会は解散し、城はプロイセンが所有、
 1862-82 修道院教会を修復し南塔を新設、  1869 破損1477のローラント像を再建、
 1936 修道院教会の拡張、         1945 米軍の砲撃で被害。

2.市壁  1.96km 0.55

  10cに市場と市場教会の周辺に定住地を形成し、12cに営農住民の多い新市街
  が聖ニコライ教会周辺に設置され、それぞれが市壁で囲まれた。1327には新旧市街
  を統合して一つの市壁を築いた。 市壁は全周に切れ切れに残っている。

3.塔  0門4塔

 新市街の市壁の東側に3つの望楼が残っている。
   羊飼いの塔は、後ろの家に組み込まれて住宅として使われている。
   ガチョウ飼育塔は、4階建て角塔で、殆ど元の状態を保っている。
   Turm OpinTittenPlanha, 1900に改修された。
 恐ろしい塔 Schreckeens Turm 市壁塔の一つで、中世には刑務所として
   使われた。開殻塔の市街側は木製トラスが付けられている。

4.見所  A

  城と修道院教会のある岩山の北側に広がるこの町は、古い木組みの家が立ち
   並び狭い街路が多く17cの町の雰囲気を忠実に伝えている。マルクトは市庁舎をは
   じめ17-18cの建物が立ち並んでいる。
[Alte Stadt]
 市庁舎 Rathaus 1310) 1616-19に紋章付ルネッサンスの建物になり、1889-01
   に南翼に拡張や補修が行われた。議会会議場の壁面内装は一見の価値がある。
    市庁舎の前のローラント像は、1477に破壊され、1869にドイツで2番目に小さな像で
   再建された。
 聖ベネディクト市教会 Markt Kirche St.benedikti (11c) 後期ゴシッくの教
   会で、前のロマネスクの西前面が残されている。雷で壊された塔の一部は残ってい
   る。内部はバロックで飾られているが、南通路にはゴシックの祭壇がある。
 エギディ教会 Agidi kirche (12c) 元は村の教区教会であった。ロマネスクの
   部も残るゴシックの教会は、白と金の美しいバロックの装飾がある。市壁に近接し
   て立つ風格のある塔には、軍事的な目的もあった。
 聖ブラジウス教会 St.Blasius Kirche (10c) 今の建物は1715に全く新しい
   ロマネスクの塔と八角形の本堂の建物を建てた。内部はバロックのホール教会で、内装は
   白と黄金色であり、唯一赤バロックの祭壇を目立たせている。
 市参事会計量所 Rats Waage (1690) 穀物市場に在る木造の建物で、
   1850には市参事会が入った。
 ザルファード家の宮殿 Palais und Wohnhaus den Familie Salderd (1737)
   穀物市場に評議会財務のRoetger・Salfeldが大きな砂岩の前面と漆喰天井の宮
   殿を建てた。1745-07にロココに改装されて、居住宮殿のほか一部は地方裁判所
   となった。財団が二つの建物を購入し改装して、催物会場として使った。
 ハーゲンの館 Hagensches Freihaus (1564) ハーゲン男爵が新旧市街の間の町
   の城を、ルネッサンスの荘厳な宮殿とした。格子天井の広間にルネッサンスの木彫りの扉
   がある。今はホテルに改装されている。
[Neu Stadt]
 聖ニコライ教会 St.nikolai Kirche (12c) 農民の教区教会であった。以前
   のロマネスクの部分を残したゴシックの教会が建てられ、内装は殆どバロックである。
   72mの高塔は、羊飼が野原で見つけた宝物による。
 柱造り博物館 Staeaender Bau Museum (14c) 1300を超える古い木骨造
   の家が存在するドイツでも大きい中世の町であった。基礎から屋根まで柱を
   通し、二つの床の梁が付けられている木造の古い形である。家は博物館とし
   1965修復された。枠組みの進展の歴史・木材の関節の方法・大工道具塔展示し
   た。1997焼失し修復して再開された。
 ステンドグラス工芸博物館 Museum fuer Glaskunst & Kunst Handwerk (17c)
   歴史的な木組みの建物は、博物館として復元された。ステンドグラスの光や色につ
   いてワークショップと意義や歴史について展示されている。
[Schlossberg]
 聖セルバチウス教会 Stift Kirche St.Servatius (1070-1139) 司教区教会。
   9c創設の教会の跡に建つ現在のバジリカ会堂はラテン十字形をしており1129献堂
   された。内陣の下に3廊の地下聖堂1320には、最初の独王ハインリッヒ1世と王妃マチ
   ルダの墓があり936に埋葬された。1936後陣の内装はロマネスクに復元され、両塔は
   19cに修復された。1945米軍の砲撃で尖塔が壊され今の平らな屋根となった。
 修道院の建物 StiftsGebaeude 女子修道院の住宅には城の博物館がる。
   何世紀にもわたってロマネスクの要素はバロック的に多数の変更や拡張がなされた。
    城博物館には、16-17cのイタリア絵画・女子修道院長応接室・女子修道院の生活
   ・王座の間を展示している。
 城館 Schloss (16-17c) 修道院として使われた不規則な建物。
[Muenzenberg]
 コイン博物館 Muenzen Museum (16c) 廃棄された聖メアリ修道院に手を入れて
   16c終わりに鋏研磨機が置かれた。その後コイン博物館を置き、コインの変遷や聖
   メアリ修道院の建築史を展示している。

5.写真

市庁舎 マルクト広場
ゲンシィルト塔 東壁
南西壁 広場
聖セルバティウス教会入口 聖セルバティウス教会
西塔

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クヴェアフート Querfurt SA38

1.歴史

  531 チューリンゲンは敗退しザクセンが城を獲得、 743 城と修道院の文書初言及、
  973-1009 貴族領主フランが支配、      1198 都心部の市壁が文書記録、
 1200 コンラッド2世は都市権を授与し町は繁栄、 1357 20の塔を持つ外壁の建設、
 1496 マグデブルク大司教の領地へ-1635、   1528 ペスト流行その後も繰返す、
 1542、宗教改革の導入、          17c 30年戦争の略奪と大火災、
 1663 ザクセン・クヴェアフート公国の首都で復興、 18c 7年戦争・ナポレオンの略奪、
 1871 プロイセン帝国へ         、  1945 空爆による被害。

2.市壁  0.66km 0.64

  都心の市壁(13c)全長1.03km、城の東側の丘の上に良く保存された中世の市
  壁がある。北と西と東で、璧厚1.6-1.8m高さ最高7mの二重壁であり、西と南は
  高さ5-6mに達する。北東と西を除いて0.64が残されている。
   外側の市壁(14c)全長3.05km、元郊外を囲んで防衛建物と構築物が造られた。

3.塔  0門0塔

  都心の市壁には3門、外側の市壁に4門と20壁塔は円塔と角塔を交互に設けたが、
  残っていない。

4.見所  B

   丘の上に旧市街があり、その西に城が城壁に守られ整備されている。特に
   東側第1次二重壁は良く保存されている。
 市庁舎 Rathaus(12c)1455の市庁舎は1655と1678の火災で破壊され、今の
   市庁舎はその後に再建された。建物は2階建で高く急勾配の屋根を持つ。
   切妻の西側には開口部のある石の塔が飾られている。南部の中央に正方
   形の4階建ての塔が在る。建物の上階には大広間、地下には広間・計量所・
   2監獄・守衛室があった。今は市長室と市議会場として使われている。
 クヴェアフート城 Burg Querfurt (880) 12c城教会の建設、13c拷問塔の建設、1350
   外輪壁の建設、1460-90要塞と西塔の構築、1528豪壮な邸宅へ変換、1535
   穀物・磁器倉庫の建設、1640-50スエーデン軍の占領、1663ザクセン公国の首都、
   1815プロイセンの城、1952城博物館の開設、1972改修を開始。
 マルクト広場 Msrkt Platz (12c) 中世の広場はバロックの装飾的な建物に囲まれて
   美しい。
 聖ランパート市教会 StadtKirche St.Lampert (14c) 後期ゴシックのホール教会であり、
   1523北側の聖具保管室は拡張され、1655大火災で焼失し1662再建したが
   1678再度焼失、1684-86再建され、1703-09バロック帽子の塔が付けられた。
   1985-92大改修が行われた。
 カルメル会修道院 Karmeliter Kloster (14c) マリエンツェル修道院の聖ベネディクト庵とし
   て設立され、遅くはカルメル会修道院に変換され、1618教会と共に焼失した。
   当時の修道院の中に建設された学校の建設に石材は使われた。
 マリア庵室修道院 Kloster Marienzell (1120) ベネディクト会修道院の芸術性の高さ
   を示している。二つのロマネスクの柱列は、市教会の中に配置された。1558に修
   道院は解散され、荒廃が放置された。1643に30年戦争で焼かれ、1654には
   16本の柱と基礎壁が残った。残った柱の内2本は市教会の中に立っている。
 霊教会 Geist Kirche (17c) 聖ゲオルク病院の元病院礼拝堂として建てられ1848
   -50に全く新築された。聖ヨハネと聖ゲオルクの両病院の統合で18cからGeist-
   Kircheと呼ばれた。

5.写真

市庁舎 東二重壁
東南二重壁 西二重壁

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ザルツヴェーデル Salzwedel SA39

1.歴史

  800 塩の道の入植地に城を築く、 1112 城に初言及、1134アルバート・ベアが取得、
 1233 アルバート家が町を築いた、      仕立屋のギルドが布貿易権を得た、
 1247 旧市街の北東に新町を建設、 1263-1518 ハンザ同盟ゴットランド島の取引権保有、
 1314 旧市街は都市権を獲得、   1315 侯爵の減税による市壁の建設、
 1470 新市街の市門が完成、    1488 反乱で諸権利を失い、ビール戦争に敗れた、
 1642 30年戦争で破壊され拠出金を取られた、1713 新旧の町は合併された、
 1816 町は郡庁所在地となった、
 1945 第2次大戦の被災はなかったが、その後多くの古民家が失われた。

2.市壁  1.63km 0.59

  14cの市壁は高さ5m長さ2.9kmで新旧市街を守った。今の市壁の高さは3.5m以下
  で、1.63kmが残っている。

3.塔  2門3塔

  このハンザ都市には、かって10市門があった。
 新パーファー門 Neuperver Tor (1460-70) 新市街の正門であり、元の内側の門が
   残っている。簡素な2階建ての切妻付の煉瓦門塔である。
 石門 Stein Tor (1530) この塔はかって刑務所として使われた。三角形の切
   妻は後期ゴシックの装飾で両側を飾れれている。
 城塔 Burg Turm (17c) 城は塩の道を守るため9cに建てられ、1112に言及さ
   れた。13cには直径220mの水城となった。1899爆破されて放棄された。
   今でも高さ27mの天守閣が残る。
 配水塔 Wasser Turm (1903) 高さ43.7mのネオゴシックの高架水槽であり、1981ま
   で使用された。この塔により木製給水から鉄管に置き換えられた。
 空腹塔 Hunger Turm (15c) 南西の公園に立つ監獄塔である。

  

4.見所  B

   旧市街の北に城がありその北に新市街がある大きな町である。市壁が多く残さ
   れ、多くの古い木組の建物もあり、両マルクトも賑やかである。
 旧新市街庁舎 Ehem.Neustaedter Rathaus (16c) ルネッサンスの八角塔で、1703
   嵐で損傷を受け新市街の市庁舎・地下レストランとして再修復された。1801上部床は
   降ろされゴシックで建てられた。1820町は市庁舎・地下レストランを売ってその場所に塔
   と黒鷲の建物が残された。
 旧旧市街庁舎 Ehem.Altstaedter Rathaus (16c) 2階建煉瓦造の建物に多く
   くの階段切妻が付いている。今は、地方裁判所に使われている。
 僧教会 Monchs Kirche (13c) フランシスコ会修道院の2廊の教会として建てられ
   た。14-15cに構造上の変更後に今の姿になった。1541宗教改革後にラテン学校にな
   り、19c高等中学、1895市庁舎、20c駐屯地教会として使われた。
 聖ロレンツ教会 St.Lorenz Kirche (13c) 初めロマネスクの大聖堂としてレンガで造ら
   れ、円型の入口の上には切妻がある。1692塩の倉庫として使われ、南側通路と塔
   が取り除かれた。1997から掘削調査が行われた。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 初め野石積の建物であったが、15cゴシック
   5身廊の翼廊と交差空間のある煉瓦積大聖堂に再構築された。高さ86mの八角形
   の塔は西翼造られ教会の中になったが、やや傾いている。中には、16cの8*6mの
   美しい彫刻・14-16c壁画・ステンドグラス・洗礼盤・説教壇がある。
 聖カサーン教会 St.Kathannen Kirche (14c) 新市街の翼廊のない二重ダイヤフラム
   切妻で飾れれた煉瓦造のバジリカである。豊かな教会には、ユニコーンの祭壇・3彫像・
   後期ゴシックの壁画・木製の説教壇・聖堂の洗礼盤・小さな絵画がある。
 ジェニー・マルクスの家 Jenny Marx Haus (1737) 市長のための住居として単純な
   後期バロックの建物が造られた。1809-16副知事が住み、カール・マルクスの妻となるジェニー
   を産んだ。1969-87マルクス家族の博物館になり、2005音楽学校として使われた。
 高い場所の家 Hoch Staeder Haus (15c) 木組みで最古の旧醸造所である。
   16c西の前面は垂直の部材が強調されている。
 旧鋳造所 Alte Muenze (15c) ここでは1314から硬貨が鋳造された。右側の
   2階建て煉瓦造の建物はリューネブルクの商人の家をモデルとし、左半分は木組の2階建て
   の建物である。今は商工会議所が使っている。
 ラテン学校 Latein Schule (16-18c) 木組みの建物の一群は、元新市街のラテン
   語学校であった。その後16c煉瓦積に漆喰塗の地階に、木組みの床と階段塔を置
   き、塔室に17c花の絵がある。
 賑やかな通り Reiche Strasse  川に沿って美しい木組みの家並みが続い
   でいる。復元された1586の商店もある。
 ダネル博物館 Dannel Museum (1578) この建物は、壮大な出窓の3階建ての木
   製の旧厩舎であった。校長で歴史学者のダネルが住んで郡博物館と名付けた。ハンザ
   都市として栄えた町と地方の文化的・歴史的展示がある。

5.写真

新旧市庁舎 簡易裁判所
石門 新ペルファー門
西壁 東壁
東南壁 教会

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ザンガーハウゼン Sanger Hausen SA40

1.歴史

  780-802 フルダ修道院の管轄、    811-899 ヘルト修道院へ1/10税納付、
  991 皇帝オットー2世からの手紙に言及、  1004-17 市場権、1194都市権の付与、
 1204 町となり柵で守られた、     1247 ヴィッテン家のマイセン辺境伯が要塞拡充、
 1263 町は西に拡張し市壁を築く、   1525 農民戦争参加の市民に罰金・処罰、
 1618-48 30年戦争で衰退、       1815 プロイセンのニーダーザクセン州になった、
 19c末 機械・家具・皮革・チーズ・砂糖製造、 1945 第2次大戦は殆ど無傷。

2.市壁  0.63km 0.29

  第1次市壁が、南側に一部二重壁で残っている。

3.塔  4塔

   南側に Kylischen turmなど4壁塔がある。

4.見所  C

   古い町で、中世からの教会や市庁舎が残り、ルネッサンスの家々が残っている。
   ヨーロッパ・バラ園には世界的なバラのコレクションが見られる。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1268) 古い木組みの市庁舎は1358の火事で焼失し、
   1431-39同じ場所に石造で建てられた。1604西側の増築が行われ、北側に
   石の頭が壁に埋め込まれている。市庁舎とマルクト4番地との間に、ラッツケラーへ市
   参事会員が濡れずに行けるように木製の屋根付通路がある。今のラッツケラーは市
   庁舎の中に在る。屋根はバロックのランタンで飾られた。
 州庁 Kreisver Waltung (1892-98) 1816ウイーン会議でプロイセンの州庁となり、隅塔付
   2階建ての州庁舎が建てられ、外観と内装は1996-98に大規模改修が行われた。
 旧城 Altes Schloss (1260) ヴィッテン家のマイセン選帝侯は国境の要塞として建て、
   魔女の塔が残されている。1269拡張して再建された。後に知事を収容し
   裁判所・兵器庫・穀物倉庫として使われた。1622新宮殿が完成して重要性は失わ
   れ、1818刑務所倉庫などになった。今は音楽学校が入っている。
 新城 Neues Schloss (1616-22) ザクセン選帝侯カスパーがマルクトの南東側に印象的な
   ルネッサンス3階建ての建物を建てた。1586西翼の建設。東の角の2階建てのペイ
   ウインドウは2010に復元された。1711-36ザアクセン・ワイセンフェルス侯爵の第2住居となり、
   1746-51ザクセン・アイゼナッハ未亡人が住んだ。今は地方裁判所が入っている。
 ウルリッヒ教会 Ulichs Kirche (1116-23) 3廊の十字型柱アーチのロマネスク・バジリカ1200
   -1539直ぐ北のシトー派修道院の教会となった。15c塔にはゴシックのランタンをで、付
   け、1892-93内装は再ロマネスク化された。北翼廊に墓石と碑文・興味深いタンパン・
   1200内陣の壁画・1369青銅洗礼盤があり、1993ウルリッヒ教会となった。
 ヤコブ教会 Jacobi Kirche (1271) 初めの教会に代わって、1457-1542に後期
   ゴシックの3廊ホール教会に建て替えられた。高さ61mの鐘楼はバロックの帽子が付
   けられ、東西の時計の文字盤の絵に黄金の月がある。内は1665の絵が印象的、
   1539修道院から3部構成の祭壇画が来ている。1726オルガン設置。
 心のイエス教会 Herz-Jesu Kirche (1897) 1539宗教改革以来カトリックの教会は無か
   ったが、19c後半の労働者の流入で、聖マリア教会の一部を借りて礼拝を行っ
   ていたが、1894北西にゴシック・リバイバルの教会が設立され、内陣のステンドグラスは
   目を見張るものがある。
 マリア教会 Marien Kirche (1350) 郊外の新しい村のゴシックの教会で、町で2番目
   に古い建物である。今は展示会・講演会・演奏会等が行われる文化施設。
 シュベングラー博物館 Spengler Museum シュペングラーの収集物を元に地質学・自然史
   ・先史時代からの町の歴史・芸術家シュレーフの作品が展示されている。
 シュペングラーの家 Spengler Haus (2001) 大工グスタフ・アドルフ・シュペングラーは、大工
   の店と伝説のプライベート美術館を持っていた。ここはシュペングラー博物館の分
   館として開設され、特異な構造の建物と大工機器を有している。

5.写真

市庁舎 南二重壁
南壁 東壁
ヤコビ教会

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シェーニンゲン Schoeningen SA41

1.歴史

  748 ブランズヴィック公国で古い所と言及、 10c 塩鉱床があり集落は遅れた、
  994 皇帝オットー3世は軍時作戦実施、    13c ドイツ騎士エルムスブルクが来た、
 1347 ヴェルフスは国境を守る城を築いた、  14c ブランズヴィック侯爵未亡人の住居、
 14c 町は都市権を授与され市庁舎を建築、16-17c ルネッサンスの大複合宮殿を建設、
 2016 褐炭の露天堀は終了。

2.市壁  0.28km 0.18

   14cの市壁の跡は、南西のWallGrabenと北東のPennyMarktにある。

3.塔 0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   マルクト広場・宮殿・修道院跡が見所である。
 市庁舎 Rathaus (14c) マルクトに立つ3階建の飾り気のない四角い9窓列の大きな建
   物。
 市教会聖ヴィンセンツ StadtKirche St.Vincenz () 身廊の屋根の延長線上に太い西塔
   がその上に立つ特徴的な教会である。
 シェーニンゲン宮殿 Schloss Schoeningen (1350) 初めヴェルフ公マグヌスが狩猟用ロッジを所
   有した。ハルバーシュタットとマグデブルクの司教達の国境の守りにも使われた。シュマル
   カンド戦争で城は損傷した。後に居住施設となり、1568-1659ブラウンシュバイク公
   爵夫人の居所となった。17c宮殿複合施設は壮大な規模となり、ヴォルフェンビュ
   ッテル侯爵グニルフの狩猟宿舎として使われた。1733にはプロイセン皇太子フリードリッヒ
   が滞在した。
 聖ローレンス修道院と教会 Kloster und Kirche St.Lorens (1119) ハルバーシュタット司教
   ラインハルトは既存のベネディクト修道院を聖ローレンス修道院へ昇格した。15cには修道院
   本体は破壊され、15cにはゴシックに変換された。1690落雷で塔が破壊された。
   1648には世俗化された。
 郷土博物館 Heimat Museum (1981) 1593ルネッサンスの古い3階建の古いラテン語学校
   の校舎に博物館が収容され、地域の歴史を展示している。
 ロープ博物館 Museum (2004) 宮殿の中にあり、歴史のあるロープ産業の経過・製品・
   製造方法などを展示している。

5.写真

市庁舎 聖ヴィンセンツ教会
マルクト広場 シェーニンゲン宮殿
西壁 南壁

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シュバネベック Schwanebeck SA42

1.歴史

  924 ヘンリ-1世はハンガリーに対抗し多くの城や砦を築いた、
 1062 アウグスブルク司教が村を引き継いだ、 1201 城が壊れた後伯爵レーゲンシュタインへ
 1270 町として初言及された、      1334 巡礼教会が設立された、
 1345 広場にペトリ教会を建設、      1400 町は3門の市壁を建設、
 1560 火災で55戸焼失、1623も63戸焼失、 1638 疫病流行で多数死亡、
 1786 7年戦争で仏軍は町を包囲・略奪、  1850 砂糖工場の稼働。

2.市壁  0.52km 0.46

  市壁は、昔 強盗と争いから町を守った。この町もまた市壁を持ち、今日ま
  でも市壁は残り町の観光資源となっている。南側の市壁は相対的に低いいが、
  そこには低湿地で自然に守られている。TurmStrasseでは市壁は明らかに高く
  厚い、そこは平らで川の守りもない。この部分はPanne塔もあり良く保存され
  ている。18cには火器の発達で市壁の効用は低下し、市壁の外に各方面に
  市街地は拡張された。市壁の跡は道路名や塔の位置で判別できる。
   恐らく、TurmStrasse・KlosterStrasse・MarktStrassa・HanlerStrasseの範囲
  10cの集落であろう。

3.塔 1門0塔

   13cの市壁には、4市門があり通行税を徴収した、他に牧草地に家畜を放
   牧する為の小さな穴があった。
 パネ塔 Panne Turm (13c) 西側のTurmStrasseに3階建の家畜の出入口
   のある角塔が残っている。非常時には火や煙で危険を知らせた。

4.見所  C

  旧市街地は丸と三角と四角の図形が散在する複雑な形状である。大きな
  マルクト広場はないが、中心点には市庁舎とペトリ教会が存在する。
 市庁舎 Rathaus (14c) マルクト通りの北側に2階建の市庁舎があり、ラッツケラー
   のガストハウスと併設。
 市教会聖ペトリ StadtKirche St.Petri (1345) 13cの古い礼拝堂は、今の
   OberPfarrに建てられていたが、1345ハルバーシュタットの司教がマルクトに新しい
   教会を建てた。1526宗教改革でプロテスタントとなり、1674の30年戦争の火災
   を通り抜けられなかった。1683にバロック塔とオルガンのある新しい花崗岩の
   教会が建てられた。
 聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1061-1135) ハインリッヒ4世の時代に建てら
   れ、13cシュバネベック城があり、その集落の後援者が教会を建てさせたと
   思われる。町が市壁を設けると外側となった。1556プロテスタントの教会と
   なり1674に焼失、その後今の教会に改修された。
 王なる神礼拝堂 HerrGotts Kapelle (14c) この礼拝堂はブルクハルディ修道院
   の管轄下にあり、1810世俗化の過程で商人に買われ、醸造所に改造され
   砂糖工場にも使用された。1860町のカトリック教徒が増え、ヨハネ教会が狭くな
   り、1892カトリック教会として買われ、再度教会に改造し1899に聖別された。
 教区司教館 PfarrHaus

5.写真

聖ペトリ教会 南東壁
南壁 西壁
北西壁 北東壁

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ゼーハウゼン アルトマーク Seehausen Altmark SA43

1.歴史

 1009 ヴィクベント司教は入植地に言及、    1151 アルバート・ベアの領地にフランドル移民、
 1196 マグデブルク司教に質入れされた、       13c中 旧市街から新市街に移転、
 1256 都市憲章を受け取る、        1260 旧市街は放棄され19cに再構築、
 1358-1488 ハンザ同盟に参加、14c最盛期、 1641-44 30年戦争でスエーデン軍が破壊、
 1732 大火災が襲った、その後駐屯地へ、    1807-15 ヴェストファーレン王国の州へ、
 1909 エルベ川の氾濫による被害、      1945 2次大戦で米軍に白旗を掲げた。

2.市壁  0.23km 0.23

    13cのタカサ4m煉瓦の市壁は、西南、南、東に点在している。

3.塔 2門0塔

 ボイスター門 Beuster Tor (15c) 15cの4市門の内、東北に唯一残る。後期ゴシックの
   3階建て煉瓦造の角塔で、南側の螺旋階段歩いて塔に登れる。1722の大火
   を逃れ、2-3階部分の前面にはこの地方独特の5つの縦長の白いスリットが見ら
   れ、塔頂には小さな鐘楼が付いている。町の歴史の展示。
 小門 Not Pforte 南の小門の一部は市壁と共に見られるが通れない。

4.見所  D

    ザクセン・アンファルト州の最北端の小さなリンデンの町であり、14cにハンザ同盟で栄えた。
  中心部の塔時計博物館・市庁舎・教会が見所で、木組の家は修復されている。
 市庁舎 Rathaus (1883) 二番目の市庁舎は1828に取り壊され、その基礎の上に裁判
   所と刑務所が建てられ、1882-83新しい市庁舎を移動して建てた。ネオゴシックの半
   地下煉瓦造2階建ての建物で、切妻と塔が付いている。
 塩教会 Salz Kirche (15c) 昔の精霊教会で、15cから旧病院の礼拝堂であった。その
   後何世紀にもわたって倉庫として使用された。
 聖ニコラス教会 StiftsKirche St.Nikolaus Beuster (1160) アウグスチノ修道参事会の元修道
   院付属聖堂でこの地方でも古い煉瓦造の教会であり、商人や船乗の守護聖人聖
   ニコラスを祀った。1541改革後修道院は解散され、荒廃した。
 聖ペトリ教会 PfarrKIrche St.Petri (12c) 新市街の教区教会として、初めロマネスクの
   バジリカ次いで3廊ハレン教会となり、15c後期ゴシック煉瓦造で高さ65mの塔を持って
   再建された。祭壇はオランダ人により彫刻や絵画で飾られている。
 修道院学校の建物 Kloster Schule Gebaede かっての修道院の円天井の大きな2階建
   ての木造建築である。
 ハンザ都市郷土クラブ Heimat Verein der HanseStadt Seehausen 塔時計博物館の隣
   に手工業・商業・農業に関する展示がある。
 塔時計博物館 TurmUhren Museum (2004) 大広間には14の塔時計が動いている。
   振子とガラスの85の展示は見るものを魅了する。

5.写真

市庁舎 ボイスター門
西南壁 南壁
聖ペトリ教会

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ゼーハウゼン ベーデ Seehausen Boerde in wanzleben SA44

1.歴史

  966 最初の文書言及、         1197 プロイセンのマグデブルク公国の町、
 1273 市壁の建設を開始、         1316 飢餓、1342.1415ペスト流行、
 1500 望楼の建設、        1695 都市の憲章授与、羊毛貿易で繁栄、
 1727 駐屯兵が仕立屋塔に衛兵所、      1806 ヴェストファーレン王国へ帰属、
 1812 ナポレオン軍の占領で疲弊、              1816 プロイセンへ、
 1838 製糖工場の建設、            1944 2次大戦の爆撃で被害。

2.市壁  0.03km 0.01

   湖側に30m見られる。

3.塔  0門2塔

 仕立屋塔 Schneider Turm
 故障塔 Panne Turm 。

4.見所  C

   バンツレーベンの市内にある、ハルツ山中の湖に囲まれた小さな町で、教会と仕立
  屋門が見所である。
 聖ラウレンチウス教会 St.Laurentius StadtKirche (1273) 市壁の建設と同時に建設され、
   15cゴシックに改築され、1511には塔が完成した。1679教会外壁の拡と改装を行っ
   た。塔は7.6mの正方形で鐘楼への螺旋階段がある。祭壇には1620ルネッサンスの絵画
   がある。
 聖パウル教会 St.Pauls Kirche (830) 丘の上にハルバーシュタットの司教が建てた。西塔に長方
   形の身廊と半円形の後陣があった。16-17c石造の教会となった。教会は西塔と
   同じ幅の唯一の身廊を持っている。2次大戦で屋根が壊され1990に再建された。

5.写真

市庁舎 南壁

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ステンデル Stendel  SA45

1.歴史

 1032 ヒルデスハイムの聖ミカエル修道院が所有、1160 辺境伯アルバート・ベアは市場権付与、
 13c 町の船員はバルト・北海貿易で活躍、  1300 町は市壁と市門を建設、
 1360 ブランデンブルク辺境伯の銀貨を鋳造、 1358-1518 ハンザ同盟に参加した、
 1488 ビール税に対して町人の反乱、    1502 選帝侯ヨアヒム1世はエリザベスと結婚、
 1682 ペストの大流行、30年戦争でも被害、 1691 仏ユグノー教徒の定住、
 1771-1830 市壁と門塔は壊された、   1945 空爆の被害、4月米軍、7月赤軍。

2.市壁  0.07km 0.02

   1300の市壁は1711から部分的に壊され、土堤は良く残っているが市壁は殆ど
   無い。Wiekhausの付いた市壁が、Nordwaldに70mある。

3.塔  2門1塔

   1771-1830に、WendenTurm、TorTurm、ArueburgTor、ViehTorは壊された。
 タンガーミュンデ門 Tangermuender Tor(1230)初め野石で造られ、1440には残った
   野石の下部構造の上にレンガにのゴシック二重門が建てられた。18cには前門
   とツイガー壁は壊され、正門のみが残された。煉瓦造の上部工の石膏パネルや
   胸壁の芸術的な装飾は、町の富を示している。
 ウエングリンガー門 Uenglinger Tor(1300)初めは野石で造られ、1450-60に残った
   野石の下部構造の上にレンガの壮大なゴシックの角塔と円塔が付けられた。
   上部工は石膏パネル・コーナー塔・銃眼の花輪で飾られて美しい。18cに前門は
   壊された。夏の間は見晴らしの良い塔に登れる。
 火薬塔 Pulver Turm (15c)煉瓦造の円塔は火薬の所蔵に使われた。
   塔には市壁の手掛かりが残され、1990-91に復元された。

4.見所  B

   緑地・土堤に囲まれ、大きな建物や木組の家も多く残る大きな町である。
   煉瓦ゴシックの市門・市庁舎・多くの教会などが、修復されて保存されている。
 市庁舎 Rathaus (15c) 一番古い裁判所アズマ屋の部分は15c初めに建てられ、
   アーチ天井の地下室には百貨店が開かれた。15c中には服地切屋ギルド背後に
   細長い呉服館の翼を建てた。ルネッサンス正面入り口の背後には昔の階段がある。
   15c終に上流の翼はルネッサンスの典型的な切妻で建てられた。19c初めにルネッサンス
   の左翼が追加された。大祝宴会場には1940ステンドグラスある広間で町の歴史
   的な重要イベントを示している。
 ローラント像 Roland (1525) 1160-65辺境伯アルバートによって創設されたマルクト広場
   の市庁舎の前に、権利と自由の印として独で3番目に大きい7.8mの砂岩の
   像が立っている。今の像は1974に嵐で壊れた後に復元された。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1447) 昔の参事会教区教会はバーソロミューにに捧
   げられた。大きな市場教会は後期ゴシックの3身廊ハレン教会で、煉瓦造の高さ
   82mの双塔はハンザ商人の誇りと富を今に示している。1470マリア祭壇の彫刻は貴
   重な作品であり、1566ルネッサンス説教壇、1474青銅の洗礼盤、16c天文時計もある。
 聖ニコラス大聖堂 Dom St.Nikolaus (1188) 辺境伯オットー2世が設立し、1420後期
   ゴシックの煉瓦造聖堂参事会が十字型の3身廊ハレン教会で建設された。ステンド
   グラス・大パイプオルガン・ベロックの祭壇がある。
 僧修道院 Moenchs Kloster (15c) フランシスコ会修道院は、煉瓦造の食堂のみ残っ
   ている。今は町の図書館が置かれている。
 聖アンナ教会 Kirche St.Anna (15c) サンフランシスコ会托鉢僧の中世の修道院が僧侶墓
   地の場所に在った。後期ゴシックの小さな煉瓦造の聖アンナ教会は、一時女子修
   道院にに属したが、今はカトリックの教会となっている。1440のマリア祭壇がある。
 聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (14c) 小さくて簡素な後期ゴシックのハレン教会で、
   野石とレンガで造られた。中には、13-15c使徒の像・内陣仕切り格子・勝利
   の聖人のある主祭壇・塗装したバロック説教壇・1490貴重な鐘がある。
 ヤコブ教会 Jacobi Kirche (14c) 大きなゴシックのハレン教会で、野石とレンガで建て
   られた。14cステンドグラスの窓・1430-40聖歌隊席・15c使徒の像のある内陣の仕
   切り柵1602主祭壇と砂岩の説教壇がある。
 アルトメルク博物館 Altmaerkische Museum 15cの旧アウグスチン修道会カサリン修道院は、
   回廊のみのこされ、1908煉瓦造の建物が建てられて新教女性修道院にな
   った。1945-52町は移住者の宿泊所として使い、1963アルトメルク博物館になった。
   博物館には、町の歴史・芸術と文化の証人としての展示がある。
 ヴィンケルマン博物館 Winkelman Museun 18cからの木組の2階建ての家は、1995
   の大改修されてヴィンケルマンの博物館になった。ヴィンケルマンの人生と作品に
   ついての情報と、美術史に付いていての特別な展示がある。

5.写真

市庁舎 マリア教会
タンガーミュンデ門 北壁

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シュトルベルク Stolberg  SA46

1.歴史

 1210 シュトルベルク伯の初言及、        1252 町の初言及、町の法律を授与、
 1300 聖マルティニ教会をロマネスク塔で建設   1392 チューリンゲン・シュトルベルク方伯の鉱山開発、
 1436 城と聖クムシス礼拝堂建設、    1452 新百貨店の建設、1709からは市庁舎、
 1618-48 30年戦争の数回略奪、      しかし木組の街並は大部分が残った、
 1723 町は舗石で舗装された、    1724 住民2583人、民家446戸、醸造所127、
 1945 空爆の被害、その後占領、          1946 雪解け洪水で町は浸水。

2.市壁  0.0km 

   谷底の街道に沿った細長い町並で、山上の城壁はあるが市壁は見当らない。

3.塔  0門1塔

 ザンガー塔 Sanger Turm(14c)旧市壁の防御塔で、6角の塔頂に天蓋のある
   円塔で街道沿いに立つ。

4.見所  B

   山深い谷合の街道沿いの小さな町で、15-19cの古い2-3階建の木骨造家屋が
  びっしりと両側に立ち並ぶ中世の景観が残されている。
 市庁舎 Rathaus (1452) 壮大な3階建ての建物で、広い外階段で上階に行ける。市
   庁舎には、年間月数の12の入口、週数の52窓、日数の352窓が設けらたが、今
   は52窓と8スライスが見られる。1724日時計が付けられた。
 マルクト Markt (15c) 街道の分岐点付近の道幅が広いマルクトに、ホテルなどの大きな2-3階の
   木組の建物が並んでいる。ザイガー塔の左に古い青の郵便局があり今はホテル・ツム・カ
   ンツラーである。ザイガー塔の右にはホテル・シュトルベルガーホフとカフェ・ホーエンツレルンがある。東北
   に1450の古い民家がありの前には木のモニュメントカが並んでいる。
 古代コイン博物館 Alte Muenze (1535) 戸口の上に目立つ梁の碑文があり、市長キリアンケス
   ラーは建てた事が分かる。1846の絵によると事務所や裁判所として使われていた。
   間口18m、奥行14m、屋根の上端28.5m、傾斜57度の急寄棟屋根。この家には
   貨幣マイスターの親子が働き、1546に最初のシュトルベルク貨幣を鋳造した。古い鋳造設備
   とヨーロッパの古い貨幣が展示されている。
 聖マーティーニ教会 St.Martini kirche (13c) 市庁舎の上の山腹に建てられ、ロマネスクの塔の下
   階部分が最も古い。1252には牧師の記録にあり、1300には人口増に伴ってゴシッ
   クで拡張され、1490にも増築された。1525にマルチン・ルッターが説教。
 シュトルベルク城 Schloss Stolberg (1157) 1201-1945にシュトルベルク伯爵が居住した。1993
   に売却され、リゾート用に改修され始めたが、1994には放置された。記念物保護の
   観点からドイツ財団が引継、改修後2008に公開されている。

5.写真

市庁舎 マルクト
ザイガー塔 古い市民の家
シュトルベルク城 南街並み

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タンガーミュンデ Tangermuende SA47

1.歴史

  800 エルベ川左岸の台地に城を建設、1009 町に市壁を築きメルセブルク司教年代記に
 1276 ホーエンベルクはカルメル会修道院に町を寄付、1280 新しい町は壁で囲まれた、
 13c 旧市場町を開発、エルベの関税地、 1373-78 皇帝チャールズ4世の第2の宮殿へ、
 1415 ホーエンツオーレルン皇帝はこの町に住んだ、15c ハンザ都市の全盛期、
 1488 反乱で町は失われ宮殿はコリンに移った、1617 大火で焼失し木組の家で再建、
 17c 30年戦争で交易の中心地から田舎町に、1807-13 和平でヴェストファーレン公国へ、
 19c 町の北に新しい住宅や工場地、  1945 砲撃は受けたが被害は少なかった。

2.市壁  1.24km 0.74

   1300の市壁は、新市街地が北側に別個に作られ、川側の市壁は堤防を兼ねて
   機能したため18-19cに大規模な改修が行われて、今も多くの部分で残っている。

3.塔  2門6塔

 新町門 Neustaedter Tor (1300) 西、有名な中世の複雑な門。長方形の
   塔は1300に、高い円塔と中央角塔は1450に建てられた。1897門入口の上の漆喰壁
   には描いた紋章が掲げられた。左から、プロイセン王家の鷲・ホーエンツオーレルン帝国の鷲・
   タンガーミュンデの鷲・神聖ローマ帝国の鷲・ブランデンブルクの鷲が並んでいる。
 巨人村門 Huenerdorfer Tor 1300) 東、元の二重門の施設は、中央門の防
   衛塔24mのみである。この塔の下部は1300に建てられた。1460-70八角形の塔が継
   ぎ足され、衛兵の部屋となった。この塔は梟塔とも呼ばれ、2重門の内側門塔で
   あり、外側門は1871に取壊された。
 プチン塔 Putinnen 30m離れて壁上に2つの塔が在る。西塔は町への階段を保
   護し東塔は監獄として使用された。1819-33最も古い度量衡検定局が置かれた。
 坂山 Steigberg この階段は上に登れば町に達する。防衛塔で守られ、川
   に下る主要な道であった。
 馬道エルベ門 Rossfurt mit ElbTor 馬道はエルベ門から町への登坂が、市壁を
   潜って高い壁で囲まれた長さ100mの切通しである。15cエルベ門は建てられ、エルベ
   川から町への唯一の馬車道であった。アーチ道の左側には何世紀かにわたる最高水
   位が記録された計測棒がある。
 監獄塔 Gefaengnis Turm (1480) 城の追加安全対策として塔は建てられた。
   18cに監獄となりこの名前が付けられた。1912円錐屋根が付けられた。
 司教座参事塔 Kapital Turm (14c) 天守閣は城の再建時に建てられ、底辺は
   9.8×6.7m高さは50mの赤レンガの塔である。16-18cはベルリン司教座聖堂付参事会の
   穀物倉庫となり、この塔の名前となった。2003大改修工事の後に展望塔となった。
 散弾塔 Schrot Turm 町の防御円塔であり、1825高さは47mに嵩上げされた。
   19c迄ここで散弾が製造された。

4.見所  B

    ザクセン・アンハルト州アルトマルクの北端のエルベ川沿いの小さな町で、千年の歴史のある
   煉瓦造の建物・市門・城があり、木組みの家も多く、中世の市壁に囲まれている。
 市庁舎 Rathaus (1300) ゴシック煉瓦造の建物で、高さ24mの飾り前面は見事で
   ある。約50年後に、裁判所ポーチは柱構造が継ぎ足された。最上階には祝祭広場があ
   り、結婚式に使われている。1階と地下は博物館として使われている。
 宮殿 Schloss (1700) 14c皇帝カレル4世は城を建てた。1640その城はスエーデン軍に
   壊され、今の宮殿はプロイセン王フリードリッヒ1世によって建てられた。
 旧事務所 Ehem.Kanzlei (14c) 唯一現存する城の建物で、一時舞踏場となり、
   17cには書記室が置かれた。
 宮殿博物館 scloss Museum (15c) このSchloss Freiheit通りは宮殿の従者の
   家があり、この5番地の建物は町で一番古い木組みの建物である。1階は1453からの
   もので、2階は17cに建てられた。1998宮殿博物館が収容された。
 聖ステファン教会 St.Stephan Kirche (15c) 煉瓦造のハレン教会で、中世に12回の
   拡張・再建があった。1617元の教会は焼失し、内装品は残らなかった。ゴシックの塔は
   市内で最高である。1624の有名なオルガンは1997の大改修時に再生された。
   火事で身廊が壊れ1655に再建され、塔は1486-91に後期ゴシックで建てられた。
 聖ニコライ教会St.Nikolei Kirche (1200) 商人や貿易来訪者の守護聖人に捧げら
   れた。ロマネスクの野石造りの建物は16cからは日常の目的のために使われた。
 エリザベス礼拝堂 Elisabeth Kappelle (1456) 礼拝堂は辺境伯ヨハン1世が設立し
   同じ名前の病院に属し、1617の火災で焼失した。17-19cに塩の貯蔵に使用され、
   塩教会とも呼ばれた。1997改修後催物会場になった。
 ドミニスコ会修道院跡 Ruine Dominikaner Kloster (1438) ドミニコ会修道院は1434
   に設立され、宗教改革の後に解散された。
 防波堤頭 Buhnen Kopf (17c) 通りに上に行くほど突出した木組みの建物が建
   てられ、その姿が防波堤頭と呼ばれた。
 旧製糖工場 Ehem.Zuckersiederei (17c) この木組みの家に1836製糖工場が設
   立された。それから発展して近代的な製糖工場とチョコレート工場となった。
   ここで有名な「Feodora」が制作された。
 木組みの家 Fahwerk Haeuser (17c) 教会通りには、主に17cの木組みの家が
   残され、それぞれ美しい木組みと豊富な彫刻を見せている。特に東側23番地の家
   は彫刻が面白い。

5.写真

市庁舎 聖ステファン教会
ノイステュダー門 散弾塔
プティネン塔 馬車道・登山
フュナードルフ門 西壁
東壁

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ヴァンツレーベン  Wanzleben Boerde SA48

1.歴史

 889 散在する村が初文書言及、   1376 マゲデブルク大司教は都市権を授与、
 14c 4都市区に4市門と市壁を置く、  1550 メクレンブルクに包囲され破壊された、
 1680 プロイセンのマグデブルク大公国に属した、1756-63 7年戦争仏は身代金を取る、
 1816 町はヴァレンツレーベン郡に、          1994 オッシャースレーベン郡と合併。

2.市壁  0.30km 0.11

   14cから市壁は町を守り、西に残る。

3.塔  0門2塔

   1438に建てられた中世の塔は、西に白塔と南西に青塔がある。

4.見所  D

   小さな町で見所の城・市庁舎・教会は北に寄っている。
 市庁舎 Rathaus (1446) 市庁舎は完成後、1550戦争で壊され、1556に再建された。16
   84火災で壊され、1705尖頭アーチに繋がる二重階段ポータルのある2階建てで再建された。
   地下には1849まで食堂があった。1993-95市庁舎は修復・復元された。
 ヴァンツレーベン宮殿 Wanzleben Schloss (896) 低地防衛のために、城壁・小川・池を備えた。
   10-11cに30m5階建ての住居塔、12c鳩の塔が建てられた。14cマグデブルク大司教が
   城を買収し、1583に住居宮殿へ変換した。30年戦争でスエーデン軍に占領された。18c
   初めプロイセンに帰属した。1778-1945に5世代の家族が住んだ。
 聖ヤコブ教会 St.Yacob Kirche (1236) ロマネスクの聖堂は1550に戦争で壊された。1551の年
   号が柱に在り、ロマネスクの洗礼盤を含めその後完成された。1712ロマネスクの内陣と塔を残
   してゴシックの3身廊ホール教会が完成した。現在の館は1782から多くの戦争で壊され、
   1983-94改装された。

5.写真

市庁舎 東壁
北西壁 北西壁

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ヴェーゲレーベン  Wegeleben SA49

1.歴史

934 ヘンリー1世はそこに城を建てた、 10c 城の東に400×260mの町を建設、
 1020 町の守りが固められた、     1288 町として指定された、
 13c 3市門の市壁が建設された、16c ハルバーシュタットの司教は最初の市壁外住居建設、
 17c 30年戦争などの略奪と放火で破壊、 18c 甜菜栽培と砂糖精製が起った。

2.市壁  0.42km 0.31

   長方形の町の東側に市壁の痕跡がある。その外側に外壁が見分けられる。

3.塔  0門1塔

  13cには北・南・東に3市門が建てられたが残っていない。
 梟塔 Eulen Turm (12c) 南側の門塔で1903に再建された。一辺6mの正方形3階
   建の四角錐屋根の石塔である。門塔に接して2階建上階木組の建物がある。

4.見所  D

   ハルバーシュタットの東にある城下町で、10cに城の東に400×260mの新市街地が建設
   されそのまま残されている。15-17cの木組の家並みがの残っている。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1592) マルクトに大きな2階建の建物があり、屋外片階段
   ・屋根の頂上にコウノトリの巣台がある。
 新教聖ペーターとポウロ教会 Ev.Kirche St.Peter und Paul () 大きな長方形の西塔
   のある石造の教会で、ゴシクの柱のある大聖堂である。中には、彫刻された
   翼のある祭壇や1698のオルガンがある。

5.写真

市庁舎 聖ペーターとポウロ教会
フクロウ塔 東壁
東南壁 南壁

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ヴァイセンフェルス  Weissenfels an der Saale SA50

1.歴史

937 チューリンゲン辺境伯オットーが支配、   1047 ザクセン伯パラティーノが所有し城言及、
 1180 ヴィッテン辺境伯オットー町を設立、        1264-1482 ヴィッテン家が支配、
 1303 聖マリエン市教会は宮廷教会でもあった、1428 市参事会は上下裁判特権を得た、
 1480-85 3門の在る町防衛施設を更新、  1546-47 城は公爵アウグストスの皇居に、
 1622-48 30年戦争の数回の略奪、    1656 ザクセン選帝候の死後に領地分割、
 1680 公爵アウグヅトの息子アドルフ1世が支配、1723ヨハン・セバスチャン・バッハが宮廷音楽監督、
、1746 ザクセン・ヴァイセンフェルス侯爵の死後ザクセン選帝侯領へ、1756-63 7年戦争の占領下、
 1806-13 仏・露・普の争で町は疲弊、     1816 ザクセンの敗北でプロイセンに併合、
 1855 石炭採掘が始まる、            1945 4月米軍、7月赤軍占領。

2.市壁  0.0km 

   市壁は見当たらない。宮殿の南西部に、城壁が隅塔と共に160m残る。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   ザクセン公爵家の居所として歴史のある町であり、1718の火事の後の多くの美しい
  バロックの建物がある。
 市庁舎 Rathaus (13c) 1718の火災の後バロックで1722に再建された。1670のマンサード寄
   棟屋根の単純な2階建も部分的に残された。新しい建物の地上階にはアーチ型のポータル
   があり、バルコニーには正義とミレルバの砂岩彫像がある。
 新宮殿アウグストウスブルク Schloss NeuAugustusburg (11c) 公爵アウグストウスは1546-47に城を
   拡張して住んだ。30年戦争で破壊された後に、1660-94のにザクセン・ヴァイセンフェルス公爵
   の居城としてドイツでも最大級の初期バロックの宮殿が建てられた。宮廷教会は初期バロック
   で、祭壇の下に38の石棺があり、侯爵家の墓所となっている。 宮殿テラスからは、町
   とザーレ川の美しい眺望が楽しめる。
 ハインリッヒ・シュッツの家 Heinrich Schuetz haus (17c) 作曲家シュッツは引退後1651に2階建の家
   を購入して1672まで住んだ。作曲家の人生と歴史的な楽器、作曲家の音符が展示さ
   れている。
 聖クラレン修道院 Kloster St.Claren (1301) 聖クララの名前で奉献され、宗教改革後1540に女
   性修道院を廃止し、1664公爵アウグストウスは大学のような高校を設立し、優れた教師を
   置いた。1837から市立図書館と博物館を収容し、その後中央警察署となった。東翼
   は1500年代の最後の修道院の食堂などが残っている。今世紀に入口門が付けられ、
   2011からはイベントに使われて居る。
 イエーガーホフ Rathaus (1500) かっての修道院の一部として構築され、1713公爵によって3
   階建の狩猟ロッジとなった。その後聾唖学校や教育者の家となった。今はゲストハウス
   として使われている。
 聖マリア教会 St.Marien Kirche (1303) 献堂後に火事により数回建て直され、後期ゴシックの
   3廊ホール教会となった。1429-64豪華に装飾された身廊が建てられ、1446南塔上の日
   時計が付けられた。1718の火災後バラックの塔が完成した。1862に2772パイプのパイプ
   オルガンが設置された。
 風格あるバロックの家 Leipziger Strasse (17c) ライプティッヒ通に風格のあるバロックの家が並ん
   でいる。
  9番地の家(1673):いわゆる「王子の家」で、地階は美しいスコッタ仕上げである。公爵裁判所の
    高官の住居であり、高い寄棟屋根の2階半の建物である。毎月最後の日曜日に大公家
    のガイドツアーがある。
  11番地の家(17c):出窓付の3階建ての建物。昔の公爵家の家は1813ナポレオンが取った。
  13番地の家(1699):かっての公爵家のポールホームであった。

5.写真

市庁舎・聖マリア教会 宮殿
マルクト広場

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ヴェルニゲローデ Wernigerode SA51

1.歴史

 1120 城の構築、1213城文書言及    1121 最初の文書言及、
 1229 町の法律の公布、        1268 ブランデンブルク辺境伯が支配、
 1279 新しい町と市壁の文書言及、   1326 大火災、1346 ペスト、1455大火災、
 1528 大火災、 1538 宗教改革導入、 1626-49 30年戦争で何回も軍が通過、
 1710 シュトルベルク・ベルニゲローデの管理町、  1806 戦いの後に仏軍が占領、
 1807-13 ベストファーレン州の郡に、     1847 大火事、
 1866-89 中世の市壁の多くを取壊し、  1945 空爆被害、4月米軍、7月赤軍占領。

2.市壁  0.63km 0.13

  中世の市壁は、南東に2つの半円殻塔と共に残る。

3.塔  1門2塔

 西門塔 Western TorTurm (1356) 西、初期ゴシックの門塔で、前後に補
   強門があったが、1850に取り外された。残された門塔の高さは38mであり、
   警備員が駐在し、短期間投獄の監獄としても使われた。
 半殻塔 HalbSchalen Turm (12c) 東、市壁に2つの半円形の塔がある。
 外堡塔 Vorwerk Turm (12c) 南、

4.見所  B

   ハルツ山地で魅力的な中都市で、昔ながらの木組みの家屋が立並ぶ美しい景観
  がある。山頂の宮殿まで小鉄道は見晴らしが良い。
 市庁舎 Rathaus (1277) 木組みの美しい建物で、ヴェルニゲローデ侯爵の財産であ
   った。1544改造され市庁舎となった。裁判所や宴会場としても使われた。
 クルメルの家 Krummelsches Haus (1679) 木組み3階建ての穀物倉庫で、様々な
   レリーフが刻まれた木材で全面は飾られている。
 ネジレ家 Schietes Haus (1356) 元は池に建てられた工場で、1680に水路の
   水車による工場も付け加えられた。東側が固い岩に乗っているため捻じれた。
   今はカフェとして使われている。
 ガーデンステートの家 Gadenstedtsches Haus (1582) ガーデンステート家のディートリッヒが
   上部教区教会の南側に3階建ての大きな木組みの家を建てた。ルネッサンスの出窓
   があり、碑文に年号が入っている。
 最古の家 Altestes Haus (1400) 石工・服屋・紙屋等が住んだ。屋根と屋
   根窓は最近の物である。
 ハルツ博物館 Harz Museum (1821) 住宅として建てられ、1963に博物館になった。
   2001大規模な改修の後に再開された。町の歴史・カセキ・鉱物・岩石標本・動植
   物・手工業製品等を展示。
 ベルニゲローデ宮殿 scloss wernigerode (12c) 中世にドイツ皇帝の狩猟の館として
   建てられ、16c中にルネッサンスの宮殿に置換えられた。30年戦争で荒廃し、1671
   ベルニゲローデ伯爵がバロックの円型住宅宮殿をたて、1862-85バロック宮殿となり、
   町を見下ろしている。1930からは美術ツアーで宮殿中の数十の部屋を廻れる。
 最少の家 Kleineste Haus () 最少の木組みの家で、この中に20cの20年間
   夫婦と7人の子供が住んでいた。その生活条件を経験できる。

5.写真

市庁舎 外堡塔
半殻塔 東南壁
南壁 マルクト広場
教会

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ヴェッティン Wettin Loebejuen SA52

1.歴史

  961 城の麓のヴェティンの集落の初言及、 11c ヴェティン伯爵は城を拡張、その後
 ヴェティン家は英・ベルギー・ブルガリア・波蘭で伯爵・選帝侯・王になる支配王朝に成長した。
 1156 コンラッドは城を息子に託すが所有者は変遷、1288 城はマグデブルク大司教所有、
 1441 下の城は売却されアメンドルフ家が購入、 1606 城にはルネッサンスの角塔が付いた、
 1660 スエーデン軍が町を略奪し焼き払った、 1680 ブランデンブルク・プロイセン大公国へ、
 1695 ヴェティンは1740までの石炭採掘権獲得、1803-06 フェルナンド王子のため城整備、
 1806 ナポレオン占領でヴェストファーレン王国へ、  1816 プロイセンのメルセブルク・ザクセン州に、
 1850-72 石炭生産2次盛期、1983閉山、   1912 城の修復開始、
 2007 ヴェティンはレーベジュンと合併。

2.市壁  0.26km 0.49 城壁1.02km 0.98 合計1.28km 0.81

  旧城から新城を囲む市壁は殆ど残されているが、マルクト広場を囲む市壁は半分。

3.塔  0門1塔

 ビスマルク塔 BismarckTurm () 西のシュバイツアーリンクに、高さ21mの四角塔が
   あり、上に円形の展望台がある。塔は1604に建てられ20cに再開発された。
   塔の上からは雄大な展望が開ける。2015からは、弓矢の博物館が併設された。

4.見所  B

   ザール川沿いの山頂にある長さ450mの壮大な城を見上げる眺めと、城から川を
  見下ろす眺めは素晴らしい。城は昔の儘に広大で、旧市街は美しい木組の家屋が
  残されている。
 市庁舎 Rathaus (1660) 大火災後に中央階段塔付きの3階建の市庁舎が建
   てられた。建物は炭鉱で町が繁栄した市民の誇りと豊かさを示している。
   市庁舎は、市議会・名誉市民・集会所・結構式場・行政の場・商人の展示場として
   使われている。市庁舎のすぐ隣には、伝統的なレストランWettinerHofがあり、地元
   のビール醸造所であった二つの薬局もある。
 市教会聖ニコライ Stadtkirche St.Nikolai (12c) 市壁の近くに市教会として
   建てられ、1290マグデブルク大司教は船員と漁師の守護神として聖ニコラスを奉っ
   た。繰り返し改修が行われ、様々な建築様式を持っている。崩壊の恐れから
   30年間放置されたが、改革後に修復工事が行われた。1990にも塔・壁・屋根が補
   修された。金属の洗礼の天使が洗礼盤の上に飾られている。
 新鉱業事務所 Neues Borgamt (1820) ハンマーとシュレゲルの付いた2階建の建物
   は、今は住居となっている。。
 テンプル礼拝堂 Templer Kapelle (1280) 十字軍時代の礼拝堂は、テンプル騎士団
   の中庭にある初期ゴシックの建物で壁画は花のモチーフ飾られている。長年にわたり
   納屋として使われ、政治的な変化の後に改修され、催物に使われている。
  Burg (8c) ゲルマン時代からの城の歴史があり、961に初文書言及された。
   11-13cに辺境伯・選帝侯・チューリンゲン侯爵・ザクセン王がこの城に居住した。1124-56
   コンラッド大王の治世に、ウェッティン家が維持した。ウェッティン公爵は、この城を上中下に
   拡大して何度も建て直させた。ザール地区はこの城の所有物であった。
 城高等学校 Burg Gymnasium () 今は城に寄宿舎のある音楽学校を収容
   している。学科として芸術のための授業を行っている。殆どが寄宿舎に住み
   780人の学生内約100人が芸術学科である。
 木組の家 Fachwerk Haus () 旧薬局と新薬局の間に、新しく復元された
   木組の家Rivis(旧都市農民の家)があり、2階建の特徴のある木組の家で、
   中庭へのアーチ門がある。

5.写真

市庁舎 聖ニコライ教会
上城 西南壁
南西壁 中壁
西北壁 中西壁

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ヴィッテンベルク Wittenberg SA53

1.歴史

 1180 ベルンハルト3世がザクセン侯爵の位を受け、息子のアルブレヒト1世が相続した、
 1227 アルブレヒト2世はこの町を王宮とした、 1273 アルブレヒト2世は都市権を授与、
 1332 町はニーダーザクセンの裁判権を得た、 1354 市場権と1380町建設権を授与、
 1422 アルブレヒト3世の死で王宮を失う、    1444 フリードリッヒ1世となり権利確認、
 1451 フリードリッヒ2世は銅貨鋳造権を授与、1486 フリードリッヒ3世は選帝侯宮殿を置く、
 1490 新宮殿を建て町の防備を拡充、       1526 再度町の防備の拡大、
 1637 スエーデン軍の攻撃を退けた、ペスト、  1759 7年戦争でプロイセンが要塞とした、
 1760 帝国軍の砲撃で焼失、        1759 ザクセンは破損した要塞を修復、
 1806 ナポレオンは戦争に勝ち要塞拡充、  1814 砲撃で町は壊滅、1815プロイセンへ、
 1820 町は歩兵連隊の駐屯地に、        1944 空爆で町は破壊された、
 1945 赤軍の占領前にエルベの橋は落とされた。

2.市壁  0.13km 0.04

   旧市街は、緑地で囲まれMauer-、Wall-通りの中に在る。南西に市壁が残る。

3.塔  0門0塔

   見当たらない。

4.見所  C

   城・市庁舎・市教会は昔の栄華が偲ばれる大きな建物であり、木組みの家も
   残るが、見所の数は多くはない。ルッターの滞在地として有名。
 旧市庁舎 Altes Rathaus (1523-41) 3階建ての両側面と正面に4破風の付いたルネッ
   サンスの建物でカーテン弓窓がある。1573豊かな装飾の玄関ポーチと鐘楼が付けられた。
   1760軍病院として使われ、1926-28内部構造を更新した。
 市公会堂 StadtHaus (13c) 旧フランシスコ会修道院の建物には、アスカニウス家の墓が入って
   いる。1536中世風の窓が追加され建物は再建された。7年戦争で壊され建物
   は低くして再建され外観は変えられた。19c階が継ぎ足され南窓は大きくさ
   れた。1992-95市公会堂のある広場は赤軍が占拠した。
 宮殿と宮殿教会 Schloss und SchlossKirche (1178) 1340アスカニウス家が宮殿を築い
   て居住した。1496宮殿の3翼として礼拝堂を建てた。1547のスマルカルデン戦争と
   1760の7年戦争時に砲撃で文化財を失った。10年後に教会が再建されたが18
   14解放戦争で壊された。宮殿は要塞化され兵舎となった。1883-82教会はネオ
   ゴシックに改築された。宮殿には町の歴史コレクション・リーマー博物館・ユースホステル。
 聖マリア市教会 StadtKirche St.Marien (1187) 初め木造教会で、1280聖域が造られ、
   1412-39身廊と高塔が建てられた。1522偶像は殆ど撤去され、1547大砲を付
   けるため塔頂が除去され、1556塔頂に八角ドームを付けた。1811教会内部は
   ゴシックリバイバルで再せっけいされ、1928.1980-83に大改修された。
 聖マリア・カソリック教会 Katholische Kirche (1872)コンラッド・マルチン司教により聖別され、
   1999-00に改修された。
 ルターの家 Luther Haus (1504) ブラック修道院の本館の黒い回廊に、1508からルターは
   僧として住んだ。宗教改革で修道院は解散され、1525-32にルターは家族と共に
   ここに住んだ。ルターの死後大学となり、1883ルターの部屋は地階の宗教改革歴史
   博物館に設けられた。1911博物館が拡大され、2001-02入口の建物改修され
   た。
 クラナッハの家 Cranach Haeuser (16c) 画家クラナッハの家族によって所有されていたクリーム
   色の4階建ての建物である。1989から絵画教室・展示会・朗読会等の活動が行わ
   れている。
 メランヒトンの家 Melanchthon Haus (1536) 美しい独特の切妻のあるルネッサンスの建物であ
   る。選帝侯ヨハン・フリードリッヒが建て、改奏者フイリップ・メランヒトンが家族と共に住んだ。18
   45プロイセンが購入し、2012会奏者の部屋・死の部屋を博物館とした。
 ブーゲンハゲンの家 BurgenHagen Haus (16c) 世界最古のルター派の2階建て牧師館で宗教
   改革の重要な記念物として世界遺産となった。改革の最初の牧師ヨハネ・ブーゲンハー
   ゲンは、亡くなる1558までここに住んだ。2004-07に改装し、教区聖職者と牧師
   の歴史と人物についての展示がある。

5.写真

旧市庁舎 宮殿
宮殿教会

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ザイツ Zeitz SA54

1.歴史

 10c 王ヘンリー1世は交易拠点に城を築く、956 皇帝オットー1世は公爵領ザイツを設置
  968 ベネディクト修道士ヒューゴが司教に、985 世襲支配者の公爵はナウムブルクに移転、
 1028 司教の座には辺境伯ヘルマンが就く、1238 フランシスコ会修道士は修道院を建てた、
 1242 火事で新上町を設立し、    1250 旧下町は再構築した、
 1285 司教はこの町に住居を移した、 1322 都市権を授与された、
 1539 市議会はミカエリス墓地に新教学校、1564 司教支配を終えザクセン選帝侯が管理、
 1644 30年戦争でスエーデンが城を破壊、1653 ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルグの息子が引継、
 1657 ザクセン・ザイツ公国をモーリッツが引継、1663 新しいバロックの宮殿を建てて住んだ、
 1816 プロイセンの領地となり郡庁へ格下、1855 製鉄所設立、1858砂糖工場開設、
 1910 ピアノ工場・ベビーカー工場の開業、  1944-45 空爆後で町は占領された、

2.市壁  1.02km 0.46

   14cの市壁は、16cに強化され、半分ほどがが残る。

3.塔  0門0塔

   市壁には6市門あったが、今は見当たらない。

4.見所  B

   ザイツ司教の600年間に大聖堂・教会・修道院などが建てられ、ザクセン・ザイツ
   公爵の60年の治世には多くの建物がルネッサンス・バロック・アールヌーボーで建直された。
   中世地下の活用も見られ、カリオンの調べが響く中都市である。
 市庁舎 Rathaus (16c) 1322司教ヘンリー1世の都市権を授与受け、旧市場の北側に
   今のゲバントハウスの前身を購入して始めの市庁舎とした。1505-09に15cの離れ
   都市計画により旧市場の南側に後期ゴシックの新市庁舎が建てられた。階段から
   た前面入口は一見単純に見えるが、壮大な切妻が強い印象を与える。
    その後4世紀の波乱の歴史を生き延びたが、産業の振興で手狭になり市議会
   は拡張を決意した。近隣の建物を取壊して1906基礎工事を始め、1909中庭の
   ある正方形の建物の建設に移ら、高さ52Mの独特な塔の付いた市庁舎になった。
   1944の空襲で南と西の拡張部分が破壊されたが修復した。
 モーリッツブルク宮殿 Schloss Moritzburg (1657-78) バロックの宮殿は、後中庭に3翼
   本館があり、ゴシックの聖ペテロとパウロ城教会・バロックの門塔と前中庭を囲む付属
   建物で構成されている。外側は城壁と堀で囲まれ、バロックのオrンジェリィもあって、
   市壁外に位置する。1653にザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の息子モリッツは管理を引継ぎ
   30年戦争で壊された城の基盤の上にモーリッツブルク・デア・エルスターと呼ばれる新宮殿を建
   てた。1718にザクセン・ザイツ公国が断絶し、ザクセン選帝侯領に併合された。その後選
   帝候領の郡庁となり、1921-28刑務所、1928-29労働事務所、1931南翼に博物館
   1932-45外国人労働者収容所、1945-47定住キャンプ、1846博物館の改修再開。
 聖ペーターとパウロ大聖堂 Dom Peter und Paul (968) 1250十字型ゴシックのホール教会と
   なり、教区ザイツの基礎司教教会として1028ロマネスク大聖堂の建設を開始した。
   14-15c3廊のバジリカが建てられた。以前の大学教会は1664なでにバロックに改造
   され、城教会となって公爵家の墓所となった。1718公爵家の断絶後は重要性
   を失った。1945市の所有となり、1982南交差脚・屋根・アーチなどが崩壊し、1990
   から修復を行い、1998祭壇を奉献して教区教会となった。
 ミカエル教会 Michaelis Kirche (10c) 968に教区ザイツとなり丘の上の石の教会として
   この教会の前身が置かれた。1154上の町のロマネスク十字聖堂教会が教区教会を
   務めた。13cにロマネスクの円形窓となり、1450後期ゴシックの正方形で再建された。
   1517北西隅に礼拝堂が取付けられた。1650火災後1670に側方小塔と中央高塔
   45mが付けられた。1844に屋根・西壁を補強した。
 古い麦芽製造所 Alte Molzerei 中世の麦芽造作所「黒熊」は、麦芽工場とビール
   醸造所で構成され、1804町が取得した。1870煉瓦造4階建の建物を建て、20c
   初めまで麦芽とビールを生産したが、崩壊して何十年も放置された後に、
   改装されて展示されている。
 ポザ修道院 Kloster Posa (10c) 旧市街から東に離れた丘の上に木造の教会を
   建て、1118には修道院が言及されている。1122修道院教会聖マリエンは完成した。
   修道院はブドウ畑を開墾しワインを製造して収入源とした。1487の落雷で多くの
   建物が燃え、17c廃墟の石材はモーリッツブルクの建設に転用された。1766ブドウ畑は
   農地に転用されたが、1998修道院の南斜面のブドウ栽培を再開し、2008町は修
   道院の残された建物を修復した。
 エルスター筏堀 Elster Floss graben (16c) 町の北側93kmの長さを有し、ザクセン選帝侯
   アウグスト1世の1580に筏の水路が掘られ、木材を下流に運び生理食塩水の蒸留や
   都市の薪の運搬に1864まで使った。水路は幅1-7m、勾配0.03%=25m/77.5km
   で多くの木や石の橋が架けられた。
 ザイツの地下 Unterirdisches Zeitz (15-16c) 町では醸造が盛んになり、町の収入
   源となった。醸造の制御のために涼しい地下が必要となり、多くの地下室
   が掘られた。1993から地下道に入るツアーがある。
 市博物館 Stadt Museum (1931) 宮殿の南翼にあり、ドイツ乳母車博物館・図書館
   ・ザイツ司教の住居・教区の美術品・バロックの家具工芸品・城の歴史が展示さ
   れている。城守衛詰所には、美術博物館教育センターとルター図書館がある。

5.写真

市庁舎 旧市庁舎
旧風呂塔 旧石門
北中壁 北西壁
西南壁 南中壁
南東壁 西壁
モーリッツブルク 新市場

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ツェルブスト Zerbst SA55

1.歴史

  948 オットー1世の司教区設立文書に初言及、1008 要塞化された入植地に言及、
 13C 最初の都市の防衛、市壁の前駆、   1209 城下町と市場町として成長、
 1253 ブランデンブルク辺境伯は支配権を獲得、1259 リチャード3世の関税自由権を得た、
 1294 町は貨幣鋳造特権を得た、      1307 伯爵アレブレヒト1世は領主となる、
 1397 壁塔Kiekinpottを建設、       1430-35 5門と4.2km市壁を建設、
 1506 大火災で町の1/3を焼失、    1603-1795 アンハァルト-ツェルブスト公国の首都、
 1795 アンハァルト-デッサウ公国の一部に、     1945 2次大戦の空爆で町の8割破壊。

2.市壁  3.96km 0.95

   15cの市壁は、主として1945の空爆による破壊は復元され、ほぼ全周で残さ
  れている。壁上通路と胸壁の木造部分は、短区間しか復元されていない。聖マリア小
  門の東側にWiekhausや胸壁と銃眼付の市壁が復元されている。

3.塔 0門1塔

   以前の市壁には、50を超える防御塔・火薬塔・小屋や壁上通路があったが、今
  は、ほんの僅かしか復元されていない。
 ハイデ門 Heide Tor (15c) 北東、大きく綺麗な外観の市門で、今は中心の角
   塔の両側に道路が設けられている。門は石積と煉瓦造で年代が判別できる。
 広い通り門 Breitestrassen Tor 西、四角塔の左右に通路があり、塔頂は
   今はイタリア風フードや木製鐘楼は外され単純な四角錘屋根になっている。
   西の市壁の上にはZuckerhutがあり、名前は高く尖った屋根から来ており、視覚
   的には非常に高い。
 見張小屋 Wachhaeuschen (Ehem.Akensches Tor) 南、橋の側のAkensches
   門のあった場所の西側に見張り小屋が残っている。その外側に砂岩の銘板があり
   市塔の場所を示している。
 女門跡 Rest des Frauen Tor 西南、多くの改造がなされ、違ったものに
   なっているが、まだ識別できる。今は歩行者道となっているアーチもある。
 でぶ塔 Dicker Turm 南西、聖バートロメ教会の近くに独立しているドッシリした
   四角い時計塔である。
 マリア小門 Marien Pforte mit Wiekhaus 南東、1912に造られた切通しで木橋
   で町の内側にすぐ到達できる。この小門を通り抜けた左に、壁上通路のある市壁
   とWiekhausの美しい眺めが見られる。

4.見所  B

   水堀の向こうに市壁に囲まれた町が聳える。2次大戦で町の80%が壊されたの
   で、元の姿に復元された建物は少ない。
 市公会堂 Barocke Zerbster Stadthalle 公園の中の旧領主のバロックの乗馬
   会館であり、戦災で大被害を受けたが復旧され、今は市公会堂として催物・
   会議・展示会・演奏会等に使われている。
 旧領主の居城 Ehem.Fuerstelichen Residenz (1681) 領主の居城として3翼
   3階建てで建てられた。西翼1703-11、東翼1744-47ニロココで建てられた。
   1945空爆で東翼が破壊された。
 偉大なカタリーナのコレクション Sammlung zu Katharina der Grossen 古い本体にバロ
   ックで改築された美しい2階建ての貴族の館であり、その後高位官僚の住家として
   使われ、1945の空爆で損傷し1958-60に復元されて、今は行政や裁判の部分と
   ドイツで唯一の偉大なロシア皇帝カテリーナのコレクションの博物館の部分がある。
 旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (1235) 町で最古の修道院
   であるが、美しい回廊や中庭を含めて保存されている。今ではドイツで3番目に
   に古い高等学校・歴史的フランシスコ図書館・町の博物館・ワインハウスがある。
 聖トリニティ教会 Kirche St.Trinitatis (1683-96) バロックのギリシャ十字の教会が
   建てられたが、1945破壊された。1953再度新築され2004-05前面が塗装された。
 聖ニコライ教会 Kirche St.Nicolai 後期ゴシックの3廊の大ホール教会として豊かな
   内装で建てられた。1945空爆後に、南北2塔と外構を除いて取り壊され、2007北
   鐘楼に重さ5tの大鐘が付けられ、2007-8に現状保存工事が行われた。
 旧アウグスティーノ修道院跡 Reste des einstigen Augustiner Kloster (15c)
   1522マルチン・ルッターがここで説教した。アンハルトで最初の改革導入した町となった。
   建物の外の砂岩の碑には、変動の時代が記述されている。歴史的な修道院の広間
   には素晴らしい絵画がある。
 聖バーソロミュー教会 Kirche St.Bartholomaei (1215) 初めのロマネスクのバジリカは
   15cに3身廊ホール教会に、16cにルネッサンスに変換された。1945破壊され、内陣と翼廊を
   再建し新教教区教会としてとして使用された。中には、領主の家族の墓碑・フレスコ
   画・ルーカス・コラナッハのキリストの洗礼の絵画額がある。
 旧シトー派修道院 Ehem.Zisterzinserinnen Klosters St.Marien (12c) 小修
   道院の中庭と建物・大修道院の中庭と建物があり、今大修道跡は学校施設群の中
   に入っている。
 ローラント像 Roland (1385) 自由都市のシンボルとして、マルクトに木製のローラント像が
   立てられた。1445に9mの砂岩の像となり、その後鉄のフェンスで守られた。1945に
   壊され1980に復元された。
 バラ路地 Rosen Winkel 聖バーソルミュー教会の南側の路地に小さな木組の家並
   とガス灯があり、かっては野生のバラの生垣が美しい路地であったため、この名
   前が付いた。今も静かな中世の雰囲気を保っている。
 美しい木組みの家並み Breite mit einer Schoenen Fachwerk Zeile ブライト
   通りの北側にギルドハウスがあり、ここからMuehlenburuecke通りへの間の家並みは
   古く美しい木組みの家並みが見られる。
 再建されなかった建物 Breite mit einer Schoenen Fachwerk Zeile 1945
   の空爆で多くの木組やルネサンスの建物が破壊され、次の建物は復元されなかった。
    15c煉瓦積のルネッサンスの市庁舎・1534-45ルネッサンスとゴシックの百貨店・木組みやバロック切
    妻の殆どの町家・1610木組みの中央薬局・宮殿の馬車庫と厩舎・1714オランジェリィ。

5.写真

聖バートロメ教会 ローラント像・聖ニコライ教会
荒野門 ワイン小屋
広い通り門 太い門
女門 北壁
北壁 南壁

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ツェルビッヒ Zoerbig SA56

1.歴史

  8c ゲルマン族の撤退後にスラブ人が占領、     9c 城の周りの町に定住、
  961 オットー1世のマグデブルク僧院贈与文書に初言及、15c 町は3門・塔・堀に守られた、
 17c 古い宮殿は、ザクセン・マグデブルク侯爵によって住宅宮殿とされた。

2.市壁  0.20km 0.14

   堀は緑地として残されたが、市壁は 東70+70m 南60mしか見当たらない。

3.塔  0門1塔

  かって在った3市門は、何れも残されていない。
 ハレ門塔 Hallescher Turm (1556) 西、5階建ての角塔で、頂部に4ルネッサンス切妻がある。
   幾つかの戦争に直面したが、要塞は1850から取り壊され、1853-97に門が削除さ
   れ、塔が残った。白い漆喰に塗られている。

4.見所  D

   小さな町で、Markt Topfmarkt Ratshofを中心に市庁舎と城が見所である。
 市庁舎 Rathaus (1846) 四角塔付煉瓦造2階建ての建物。
 ツェルビッヒ城 Burg Zoerbig (9c) 古くから南の丘の上に城があり、11cヴィッテン家の城とな
   り、1692-1715ザクセン・メレセブルクのアウグスト侯爵が継承し住居とした。1694バロックの宮
   殿となり、1789-1943地方裁判所として使われ、1951町の博物館となり図書館や催
   し会場としても使われた。
 聖アントニウス教会 Katholisch Kirche St.Antonius (1911) 宗教改革で途絶えたカトリックの教
   会は、1911礼拝堂を構築し、1953鐘塔を建て内部を拡充した。2002大規模改修が行
   われ、2004オルガンが再建された。
 聖モーリティウス新教教会 Ev.kirche St.Mouritius (1202) ローマ法王の文書に初言及された。
   1518火災で焼失し1539新教教会として後期ゴシックで建てられた。1699八角砂岩洗
   礼盤・1882バロックの祭壇になった。
 町博物館 Museum Zoerbig (1922) 初めは歴史クラブとして小さな展示が行われたが、19
   37博物館をライム通りの16室に開設し、1951には城に収容した。先史時代からの町の
   歴史と地元の有名人の展示と、2万点の収集物があり、塔に登ることができる。

   

5.写真

市庁舎 ハレ塔
東壁

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