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ドイツの市壁余話

 1.ドイツの事情。 日本との違いや 珍しい事を 取り上げます。
   2.市壁の歴史。  市壁の成立から取崩されるまでを略記します。

1.ドイツの事情

                     
1)国土面積と人口10)簡易フェリー
2)階数の数え方  11)コウノトリの巣台
3)交通違反    12)同じ地名
4)駐車場     13)白アスパラガス
5)高速道路    14)マルクト広場
6)道路工事迂回路 15)全周市壁の残る町
7)フロントガラス 16)ウイークハウス
8)市壁取壊禁止令 17)前門の残る町
9)町博物館   

1)国土面積と人口

   ドイツの国土面積は日本の0.94でほぼ同じですが、人口は日本の0.65ですから人口密度
  は日本の0.69となります。しかし、日本の可住地割合28%に対してドイツは67%で約2倍あり、
  平地人口密度は日本の0.31になってしまいます。
   従って、ドイツでは町を出るとすぐに緑となり、南に行かないと山は見えず平地や丘陵が
  続きます。

2)階数の数え方

   地下は日本と同じ地下ですが、ドイツでは日本の1階は「地階」と言い、日本の2階が
  ドイツでは1階となり、順次日本の3階はドイツの2階と数えます。

3)交通違反

   一般的に制限速度が市街部50km/h、地方部100km/hですが、市街部に入ったとたんに定
  置式スピードメーターがあり、その地点で50km/h以上であれば速度違反の罰金請求がしばら
  くして来ます。 市街部にはスピードを落として入れと言うことです。
   高速道路は原則的に制限速度はないのですが、北東部の高速道路で120km/hの制限速度の
  ある所に定置的スピードメーターがあり、罰金請求が来ました。速度制限があれば厳守。
   レンタ―会社がクレジット引き落としで支払ってくれる所もありますが、直接日本に請
  求されると銀行送金は高価になり、封筒に紙幣を入れて送ったら受取の返事が来ました。
   駐車違反も5ユーロの反則切符がワイパーに付けられ、ドイツの銀行で手数料10ユーロを払って
  支払いした事もあります。

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4)駐車場

   ドイツの立体駐車場は狭いです。走行路や駐車スペースがらの出し入れには小型車でも
  腕が必要です。地下駐車場の料金精算は出口ではなく、料金精算機であらかじめ清算した駐
  車券を出口バーに入れる方式です。駐車券紛失は3倍料金で清算可能でした。
   路面駐車場も注意が必要で、住民のみ可の場所があり、そこに止めて帰って見たら車輪に
  ワッカをハメられ、納入所を探して罰金を払い、やっと外してもらいました。
   清算できない駐車券を渡されて、日曜日に窓口不在で地下駐車場に閉め込まれたこともあ
  ります。
   休日のスーパーの露天駐車場に止めて、さて出ようとしても誰もいないで清算方法が分か
  らず、出口の通話装置で聞いて閉店中スーパーの入り口にある精算機にたどり着きました。

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5)高速道路

   ドイツは高速道路発祥の地で、無料の高速道路と無料自動車専用国道が隅々まで張り巡
  ぐらされ、各所で拡幅・改修工事が行われています。止まってしまう渋滞に会う機会はあま
  りありませんでした。外側車線は90k/hの大型貨物が列をなし、内側車線は制限速度なしの乗
  用車が、あっと言う間に後ろに付き、避けると150k/hの車をビュンと抜かして行きます。
   高速道路の休日は大型・連結の貨物車が全く居ないため走行しやすく、長距離移動日に適し
  しています。

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6)道路工事迂回路

   ドイツの道路工事の迂回路は、高速を含め実に遠大な迂回で、しかも矢印だけで一つ見
  落とすと戻れません。外国人には不親切です。ナビは交通止めの道路を示し、何回も行方不
  明となりました。迂回路は恐怖です。

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7)高速道路とフロントガラス

   ドイツの高速道路は、都市部を抜けると直ぐに田園地帯を走ります。初夏になりますと、
  多くの羽虫がフロントガラスに衝突死して、羽虫の死骸が付着して視界を妨げます。
   ワイパー以外の部分の除去手段を事前に準備して置く必要があります。

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8)バイエルン王の市壁取壊し禁止令

   ロマンティック街道のノルトリンゲンでは、1803に不要となった市壁の取壊を始めたが、
  1826バイエルン王ルードビッヒ1世は壁の解体禁止令を発して、取壊しを阻止し復元させた。
  そのため今でも14-16cの市壁がほぼ完全に保存されている。完全な円形で銃眼付きの胸壁と
  屋根付き壁上通路のある市壁2.6kmが中世の旧市街地を囲っています。
   町の中心の聖ゲオルグ教会の高さ89mの塔からは旧市街の外の市壁の全周が見渡されます。
  また、市壁上の通路上は、歩いて一周できます。

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9)町博物館

     ドイツでは、どんな小さな町に行っても、必ず町の博物館があり、先史時代からの歴史.
  産業.文化.工芸についての展示があります。また、個別に町にゆかりのある民俗・郷土史・野
  外博物館・美術館・映画,写真・宗教.教会・民族学・子供博物館,おもちゃ・音楽・醸造.ブド
  ウ栽培・文学・消防隊・楽器、演劇、その他専門分野・自然科学博物館:技術、輸送、鉱業.冶
  金・天文学・技術史・産業史・工芸品・陶器とガラス・個人史 ・軍事・宮殿と城の博物館等
  国立・州立・団体・個人など雑多な博物館が、古い建物を使うなどして数多く存在します。

10)簡易フェリー

   東のザクセン州の町ベルゲルンは、エルベ川の南岸に位置し、北側から橋を渡って町に入るた
  めには約20kmの遠回りとなるため、のどかな鋼渡し舟Gier Faehreが古くから運行しています。
   仕組は、川の中央にアンカーを打ちフロートを浮かべてワイヤーを渡し船と結び、ウィンチを動力として対
  岸と行き来します。堤防を越えて川に入り流水部のみを8.41*30.51mの鋼台船に乗るので、
  洪水時には撤収されます。片道料金:小型車と運転手で3ユーロで、のどかな風景に遭えます。
   エルベ川のフェリーは、下流のザクセンアンファルト州アケンの国道187号にもあります。

アケン 簡易フェリー ベルゲルン 簡易フェリー

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11)コウノトリの巣台

   ドイツでは各所で、市庁舎の屋根・門や塔の上の高い所にコウノトリの巣台が置かれていて、
  初夏の季節には巣の中の雛を、つがいで子育てしている様子が見られます。

12)同じ地名

   ドイツでは同じ地名が多くあり、近くの川の名前や町の名前を後ろに付けて区別してい
  ます。    同地名2はざらで、同地名3が29、同地名4が3、同地名5が5、同地名6が1で:
  Salzbach、同地名8が2で:NeuenkirchenとSteinbach、同地名17が1で:Neustadtとあ
  ります。自動車のナビの入力には注意が必要です。
   類似地名としては、Rotenburg2とRothenberg1とRothenburg3があります。Rotenburgは
  an der Fulda HE 人口15千人と(Wuemme) NS 22千人、Rothenberg はOberzent市内 HE 0.9
  千人、Rothenburgは ob der Tauber BY 11千人、/OberLausitz S 0.8千人、(Saale) SA
  0.8千人がありますので、お間違いないように願います。

13)白アスパラガス

   ドイツでは、Spargel(アスパラガス)と言えば「白アスパラガス」のことを言い、日本の
  アスパラガスは特別にGruenerSpargelと呼びます。ドイツでは長い冬が過ぎ春が実感できる特
  別な作物です。四月中旬から6月24日の聖ヨハネスの日までの短い期間に、レストランでは別冊の
  Spargel専用のカルテが出てきます。バター煮が一般的で、それだけで一食分のボリューム感
  があります。

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14)マルクト広場

   ドイツでは、昔に特権を得て青空市場が開かれたマルクト広場が、一般的に旧市街地の中心
  に残されています。そして市庁舎.商店.宿屋.食堂などの見事な建物が周囲を囲み、今では
  オープンカフェが憩いの場を提供しています。
   地域の産物を商った市場もあり、穀物市場.馬市場.家畜市場.などの広場の名前が残って
  います。

15)全周市壁の残る町

   ドイツの市壁のある町971のうち全周の市壁が残るのは、わずか12の町で1.4%しかあり
  ません。小さな町が多い中で、バイエルン州の4つの町:ローテンブルク(BY)3.2km.ネルトリンゲン(BY)2.6km.
  ディンケルスビュール(BY)2.35km.ベルヒング(BY)1.4kmが、全周1.0km以上の珍しい町です。
   市壁残存率0.99-0.95の町が27ありますが、これは、交通障害等で門塔を壊したとか、門の
  そばの市壁を切り取った結果です。
   全周市壁の残る町の入り口門は、1車線しかなく優先道路の規制が行われ、門内の旧市街の
  雰囲気は昔のままの場合が多い。
全周市壁の残る町の詳しくは: 市壁残存率ランク39

ゼスラッハ ディルスブルク

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16)ウイークハウス(Wiekhaus)

   ドイツ東北部では、14cから市壁の上に構築物を付け、平常時には住居として使い、戦
  時には兵士の守りに使われた珍しい構造物があり必見です。
   〇ノイブランデンブルク NeuBrandenburg(MV):
      56のWiekhausの内25が1970-80に木骨造で再建され使われています。
   〇テンプリン Templin(BR):
      54のWiekhausの跡の内50が半円形で突出しています。
   〇ベルナウ Brnau Berlin(BR):
      15のWiekhausの跡が見られる。
   〇ストラウスベルクStrausberg(BR) :
      24の内4跡があります。
   〇プレンツラウ Prenzlau(BR):
      14のWiekhausの跡があります。

ノイブランデンブルクWiekhaus ノイブランデンブルクWiekhaus
ノイブランデンブルクWiekhaus ベルナウWiekhaus跡

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17)前門の残る町

   大きな町の市門は、門の位置の弱点を強化するため、市壁の線から前にツインガー壁を
  突出して前門を設けました。しかし、老朽化.交通障害等で多くの前門は取壊されて、現
  存する前門は稀です。
前門の変形として、市壁に沿って前門を設けて片側のツインガー壁を省略する形態もあり
  ます。
   〇ノイブランデンブルク Neubrandenburg(MV):
      珍しく北東.西南の3か所に前門は残っています。門塔は前門が防御的で、内門の
      方は装飾的で立派です。その他、前門の無い門が3か所あります。
   〇ローテンブルク Rothenburg ob der Tauber(BY):
      前門4.前前門1が中世のまま残っている。KlingenTorは市壁に沿った変形前門です。
   〇アーベンベルク Abenberg(BY):
      下門 Unterestor(1300)3階建木造切妻屋根構造の砂岩切石門造の門塔で、
      尖塔アーチ通路のある門が道路中央に立っている。その前面に平屋山形の前門が横長の
      通路空間をもって密接している。
   〇フラインスハイム Freinsheim(RP):
      鉄門 EisenTor 1514建 東北側の巨大な前門で両側の大円塔の間にアーチ型
      の鉄扉が付いている。設立年号を示すエンブレムが付いており、ルードヴィッヒが強化した。
   〇ゾンスZons(NW) :
      ライン門 RheinTor 2階建のアーチ門が突出した北端のアイスカフェと10m後の関税塔の
      位置に二つある。
   〇オルンバウOrnbau(BY) :
      上門 Ober Tor 2階建て3角屋根の後門のみ復元されている。
      下門 Unter Tor 2階建て3角屋根の前門のある3階建て角塔であるが、
      車の対向が出来るように、隣の壁が開けられている。
   〇ユーターボク Jueterbog(BR):
      堤防門 Damm Tor (1300) 古くはFrauenTorと呼ばれた。他の門と同様に前門
          ・ツインガー・内門を備えていたが、その断片しか残っていない。内側門の2本の
          円塔は高さ32.3m直径7.35mで、基礎石の上にレンガ積となっており、塔は刑務
          所と武器弾薬庫で使われた。内アーチ門は1851に撤去された。前門長30mで両
          ツインガー壁が残り、内門の70m前にある。
      新市場門 Neu Markt Tor (1300) 東、円型塔のみが残っている。1300に北門
          と共に造られ、1480-90に拡大され1901に再建された。正方形のアーチ門は交通
          障害で1839に取り壊され、1909に撤去された。15cの前門塔は東にまだ残り、
          1984から交通はこの門を迂回している。門衛室やツインガーは残っていない。
   〇シュルッセルフェルト Schluesselfeld(BY):
      上門 Oberes Tor (1466-95) 15cの拡張時に西側に前門からツインガー壁後門に繋
          いで改修された。後門は腰折寄棟屋根を漆喰で固め2階建横長の門家の中央に
          アーチ門と15cの四角塔がある。1601と1654で前門に守衛所が付けられた。
          前門の後ろ15mに後門が直結されている。1998に改修された。
   〇ヴォルフラムス エッセンバッハ Wolframs Eschenbach(BY):
上門 Oberes Tor 市壁の線の角門塔の前5mに2階建胸壁付の前門が付いている。
          14cに建てられ1410に焼失し16cに再建された。外側の右手にドイツで最高位の騎
          士団長コンラードの紋章、左手にフランケンの騎士団長の紋章が見える。
 

18)傾いた塔

Daausenau Bad Ems Nassau

   斜塔は、ラインラントプファルツ州RPのダッセナウの町の東入口の山側に立っている。
レーニング搭 Leaning Turm (1359) 東入口の東端に立つ高さ25mの八角形の塔であったが、20c
   には川側に傾斜し、1929に屋根を付けたため傾きが増加した。1950に屋根と高さを7.5m取り除
いた。その後高さ17.5mの塔に動きはない。傾斜は先端で2.46mで5.2度傾いており、ピサの
斜塔の3.97度よりも傾きは大きいが、廃塔であるとしてギネスには登録されていない。
川側の広場には、門塔の切株が再建再建されている。これは東門Beuls Pforteの跡である。

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ノイブランデンブルクFeiedlaenderTor北東 ノイブランデンブルクTreptowerTor西
ノイブランデンブルクStargarderTor南 ノイブランデンブルクStargarderTor南
ノイブランデンブルクNeuesTor東 ノイブランデンブルクFangelTor北西
ノイブランデンブルクWiekhausTor東 ローテンブルクSpitalTor南
ローテンブルクKobolzellerTor西南 ローテンブルクRoederTor東
ローテンブルクKlingenTor北 アーベンベルクUnteresTor
フラインスハイムEisenTor フラインスハイムInneresTor
ゾンスRheinTor前門 ゾンスRheinTor後門
ユーターボクDomTor西前門 ユーターボクDammTor西
ユーターボクNeumarktTor東前門 シュルッセルフェルトOberesTor
ヴォルフラムス.エッセンバッハOberesTor ダーメ鳥搭
 

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2)市壁の歴史

 ローマ時代(1-4Jh)

   ローマ帝国はラインとドナウを結んで548kmに土塁や柵のリーメスを構築して防衛
  線とし、背後に市壁で囲んだ城塞に駐屯して守った。
   その様子はクサンテンの北の遺跡公園やザールブルクに復元され、レーゲンスブルク・トリーア・ケルン・
  フランクフルト等にリーメスの痕跡がある。

 フランク・神聖ローマ帝国時代(5-11Jh)

   城・教会・修道院の周辺に集落が発生し、または入植地を設けて次第に町に発展し市
  壁で守られた。
   はじめ木柵や土堤に堀の防御構造は、石積やレンガに移行し町の拡大に伴って外側に
  より強固な市壁が築かれた。
   神聖ローマ帝国には首都はなく、皇帝は領内の城を移動しながら統治を行い、東方
  異民族の侵入を防いで東部境界にマイセン・クエトリンブルクなどの城塞を設けた。

 中世(12-15Jh)

   12-13Jhには、ドイツでそれまでの40都市から小さな都市が多数建設され300都市に
  達した。 これらの都市は市民の自治のもとに交易や手工業の発展をもたらせ、その経
  済力がより強固な市壁を構築させた。
   また諸侯は世襲化による独立性を高め、ドイツは300を超える領邦国家が形成された。
  人口増加で東方植民が進められ東方には1、400の村と93の都市を築いた。
  中世の市壁は少数の帝国直属都市と大多数の領邦都市に都市の防御のため構築された。
  フス戦争(1419-36)で破壊が始まる。

 宗教戦争(16-17Jh)

   マルチン・ルターの宗教改革がドイツに広まり、農民戦争(1524-25)・宗教戦争(1526-55)・
  仏やスエーデンも加わった三十年戦争(1618-48)・プファルツ承継戦争(1689)で何度も略奪や
  市壁破壊がなされ、疫病の流行もあって人口は激減した。
   銃器の発明は要塞の更なる拡張を必要とし、ツインガーや半円壁塔を設け銃眼で対応した。

 領邦国家時代(17-19Jh)

   各領邦国家による破壊された町の再建が行われ、プロイセンが台頭して墺太利承継戦争
  (1740-48)・七年戦争(1756-63)・仏革命(1792-95)・ナポレオン支配(1806-13)と
  都市防御施設は仏軍に壊された。
   仏の干渉で300余りの領邦国家は35の属主国と4の自治都市に統合整理された。
  大砲の強力化に対応して新しい星形要塞と石積や土堤による補強が重要都市で行われ、
  無力化した市壁は市域の拡大や交通の円滑化のために撤去も始まった。
   19世紀には多くの市壁が撤去されて、敷地は公園や道路となり、石材や土砂は売却
  され転用された。残された道路名で市壁の位置が判別できる。
   バイエルン王ルードヴィッヒは、記念物保護に関心を持ち1826に全バイエルン王国に勅令を公布し
  て、市門・塔を有する市壁の取り壊しを禁止した。例えばディンケルスビュールはそのため現在
  の外観が守られた。

 世界大戦(20Jh)

   第1次大戦(1914-18)と特に第2次大戦(1939-48)の爆撃と砲撃で破壊された市壁も多
  かった。
<以上>

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