ファイル | 州名 | 州数 | 小計 | 市壁無 | ||
bd1 | GS | 大都市 | g1-5 | +1 | ||
BR | ブランデンブルク | b1-42 | +4 | |||
BW | バーデン・ビュルテンブルク | v1-50 | 97 | +14 | ||
bd2 | BW | バーデン・ビュルテンブルク | v51-w68 | 116 | ||
bd3 | BY | バイエルン | x1-99 | 99 | ||
bd4 | BY | バイエルン | y1-z17 | 116 | +14 | |
bd5 | HE | ヘッセン | h1-i12 | 111 | +10 | |
bd6 | MV | メルケンブルクVP | m1-32 | |||
NS | ニーダーザクセン | n1-49 | 81 | +5 | ||
bd7 | NW | ノルトライン・ヴェストファーレン | o1-101 | 101 | +25 | |
bd8 | RP | ラインラント・プファルツ | r1-76 | +3 | ||
SL | ザールラント | l1-4 | 80 | +2 | ||
bd9 | S | ザクセン | s1-54 | +9 | ||
SA | ザクセン・アンファルト | a1-62 | 116 | +2 | ||
bd10 | SH | シュレスヴィヒ・ホルシュタイン | k1-4 | +7 | ||
TH | チュービンゲン | t1-60 | 64 | +8 | ||
合計 | 981 | +104 |
表中の各町について、 その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
GrosseStadt
国会議事堂 | 大統領府 |
市庁舎 | 市壁 |
12c 当時の双子の都市であるベルリンとケルンの周辺は城壁・杭柵・堀で守る、
1250 高さ2mの野石の要塞が追加され、二つの町の間には壁はなかった、
13c 城壁はレンガで高さ5mまで補強され、射撃所・防衛塔・ウイックハウスが設けた、
15c 幅15mの二つの堀が市壁の外周に掘られ、幅10mの土堤が築かれた、
17c 市壁は時代の経過とともに壊されて、いくつかの要塞に置き換わった、
1734 残った市壁も撤去された、
Litten strassとWeisen strasseとの間の市壁は、住宅の境界壁の
位置にあったため、120mが残され、1948に記念碑として保護された。
シュプレー川のベルリン側に3門、北のSpandauTorには前面に木橋が17cにあった。
北東のOberbergerTor、南東のStralauerTor(1688-1894)
シュプレー川の西のケルン側には、南のKoepenickerTor、南西のGertraudenTor、
-1895)などがあったが、今は見当たらない。
ドイツ第1の大都市で,広大な地域に文化財や見所が豊富にある。
ガイドブックにその概要は譲る。
ブランデンブルク門 | 市壁 |
市壁 |
1734-37 ベルリンの物品税の壁はプロイセン王:フリードリッヒ・ウィルヘルム1世が、主として
木柵で、部分的にはレンガ造で築き、14門を設けた。
19c中 ベルリンの成長に伴って物品税の壁は外側へ数回移動し、税関門も併せ
て動いた。
1786-1802 壁は木製から石造に置き換えられ、拡張して4kmの延長となり、
ブランデンブルク門などは新しい構造物となった。
19c中 新たに(新門1832・アンハルター門1840・ケーペニッカー門1822・水門1848)の4門が
建設され、8市門と2つの川沿い入口があった。
19c中 新しく出現した鉄道輸送の終点駅は、市壁の外側に止められた。
また、物品税の壁の外側にも新しい市街地が出現して壁内面積の2倍
に達し、物品税は道路沿いの取引の家で行われた。
1860 法令により物品税の壁は役割を終え、1867-80に殆どの物品税の壁と
門は取壊された。
ブランデンブルク門の残骸ものこされている。20m
HannoverscheStrasse.9 レンガ造の物品税の壁を記念物として保護。50m
StresemannStrasse.65 物品税の壁の基礎が発掘され、1987一部が再建。
税関の別棟を含めて、古い形で唯一残っている。
ドイツ第1の大都市で,広大な地域に文化財や見所が豊富にある。
ガイドブックにその概要は譲る。
市庁舎 | ニコラス教会 |
シタデル | 旧市街 |
980 城と木製教会があった、 1157 アルバート・ベアが城壁と門を築いた、
1197 辺境伯オットー2世の文書で城を言及、 1232 オットー3世は都市権を授与、
1560-94 選帝侯ヨアヒム2世はシタデル建設、 1626 30年戦争中に守り強化と駐屯兵、
1686 Lynar城に刑務所の設置、 1722 王ウィルヘルム1世は武器工場を建設、
1813 プロイセンは町とシタデルを破壊、 1873 町は帝国要塞法で守られた、
1877-79 拘置所をNeuehdorfStr.に建設、 1861 城跡に近衛連隊の兵舎、
19c 防衛産業はマシンガンを生産、 1920 ベルリンへ併合された。
旧市街は堀で囲まれ、1728の計画図では北側に半円形の突出砦が市壁の前
に4か所あり、その前面に堀・対岸にも防壁が設けられていた。北側のBehnitz
地区には14cの古い市壁の一部が、長さ53m高さ6mの元の姿で残っている。
その東部には、14cからの乱れのない石積があり、古い防衛塔の一部も背中
にある。また西側にも60mの市壁が残っている。1920に修復が終わり、市壁
の表示板が見られる。
北東の池の中に、ルネッサンスの星形要塞砦がイタリア人の指導で築かれた。200m正
方形の4つの角に三角形の突起を付け、島の外側に防壁のある島で囲った。
その後1950建設専門学校として使われ、1992歴史博物館が武器庫に開設。
門衛詰所門 Torhaus (16c) 入口には跳ね橋で守られた門があった、16c
の門は1813の砲撃で壊され、1839に3階建で再建された。
宮殿 Palais (1529) 島に入ってすぐ西にゴシック2階建のホールは、支配者の
宮殿が築かれた。1936古い建物を壊してカジノが建てられた。1977建物は
ゴシックリバイバルで建て直された。
ユリウス塔 Julius Turm (16c) 宮殿に沿って高さ30m壁厚2.3-3.6mの塔があり
1813に壊され1836に胸壁を含め再建した。145段のラセン階段は1964に再建。
市庁舎塔 Rathaus Turm (1911-13) 市庁舎の中央に立つ高さ80mの四
角塔で、四角塔で、4つの時計と鐘楼がある。
ユリウス塔 Julius Turn (16c) 高さ30mの塔が、シタデルにある。
Zitadelle+Altestadt。理想的なルネッサンスのシタデルが良い状況で堀を巡らせて
残され、博物館もあり一見の価値がある。旧市街地も1978-89に歩行者道路
が整備され、ゴシックの街並み・アートギャラリィ・2つのレンガ教会等がある。
市庁舎 Rathaus (1910-13) マルクト広場にあった古い市庁舎が狭くなり、南
駐車場に新市庁舎が建てられた。大きな長方形の建物は、3つも中庭があり
高いマンサード屋根が4階建の上にある。116mの前面には7窓列があり、中央には
4つの時計のある80mの高塔がある。
コルク・ベーニック地区 Kolk Behnitz (14c) 旧市街地の北側で最も古い町である。
コルク地区には12cスラブの城砦がありその後も砦が築かれ、1240町に統合された。
コルク地区では歴史的建造物・古い木組の家など、典型的な旧市街の町並を
伝えている。14cの古い市壁ノイチブ53mが元の6mのまま残され、1986再建された。
ゴシックの家 Gotisch Haus (15c) ゴッシク石造2階建の家が建てられた。リブ付
きの金庫や尖ったアーk-ドなど古い部分も残されている。18cの火事の後、古
典主 義の前面で再建された。1987修復作業が行われた。
聖ニコライ教会 Pfarrkirche St.Nikolei (1239) 船乗りの守護聖人として建
てられ14cには狭くなり、1370-94いまのレンガ造ゴシック3廊ホール教会を建て、
1467-68後期の西塔が建てられた。1539宗教改革導入。1969塔はバロックで再構
築1979-96内装と外壁の修復が行われた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1723) 城砦地区に最初のカトリック教会が、聖
ピーターとパウロに小さな礼拝堂で献堂された。1742大王フレデリックが解体して1767
に新教会を建設し1803に大修理された。カトリック教徒の軍人や労働者が増え、
1848旧校舎に奉献した。1910メアリの新教会が奉献され、駐屯地k教会として
1945まで使われた。2次大戦で壊れ2002-03に修復された。
閘門スパンダウ Lock Spandau (1572) 旧市街とシタデルシタデルは3mの水位差があ
りロックを設けて解消した。1723.1816.1911.1995.2002に更新されている。
空軍博物館 LufftWasffenMuseum(1934)町の南1.5kmに、元ガトウ空港に博
物館を設け、軍事航空の歴史・軍用機・軍用ヘリコプター・軍事制服などの展示。
市庁舎 | 聖ペトリ大聖堂 |
ローラント像 | ブレーメンの音楽隊 |
787 司教区創設の文書に言及、 845 大司教アンガルは布教の拠点を町に移した、
965 町は都市権を授与された、 1 1c 大司教アダルベルトは市街を整備した、
1358 ハンザ同盟に参加して市民の地位向上、1405 鋸壁や防衛回廊の付いた市壁建設、
1404 市庁舎前に10mの石のローラント像設置、 1541 鋳造権の獲得、
1648 帝国自由都市に指定され繁栄、 17c ヴェーザールネッサンスが隆盛を極めた、
1783 直接米国と貿易を始めた、 1811-13 仏軍の占領、
1871 ドイツ帝国の設立で市となった、 1945 空爆で大被害、英軍進駐、米軍管理。
①782木柵で囲った、②11c大司教は拡張のため解体、③1229玉石基礎の煉瓦積
壁に置き換え1312に完成、1250に6門、と1305に幅1.2m高さ5.0mの木製通路付固定
リングに22の壁塔、④1594ヴェーザアー川左岸に新町が造られた、⑤1623オランダ式星形要
塞は左岸の新市街と1660-64右岸の旧市街に実施された、⑥1802から旧市街の市壁
は軍事的な価値を失い、取り壊された。⑦1802-11星形要塞の跡は水車公園となる。
小ヴェザー川南岸にまだ小防備施設が残る。旧市街の東側Martewbergに2半塔がある。
現存する市壁は、Alten Wall 9に半円形の残り10m、Marterburg 45に半円塔の壁
10m、Langen Strasse 72に川側市壁の石造基礎10m、シアターの地下にレンガ造の市壁
基礎20m、シアター前広場に1534に市壁が10m、それぞれ残る。
見当たらない。
1229から市壁と一体化した6市門・3小門・2木製扉・14小木橋も造られ、1750に7門が
追加され、19壁塔と共に1802-04取り壊された。
独の古い港町で、広大なマルクト広場は荘重な大きな建物や記念碑が集まり、中世
の自由帝国都市の繁栄を偲ばせる。広い旧市街地にも、見所が多い。
東ブレーメン防衛線 Oestlich bremen am Dobben() ブレーメンを守るため、ウェーザー
川からウェマンメまでの防衛線が市壁の東0.5kmに建設された。低い壁と堀からなる
防衛線と石の搭のある石門が交易路に置かれた。周辺の住宅化に伴い、この防
衛線は拡幅され舗装されて道路として残された。
市庁舎 Rathaus (1405) 初めは市民の砦であった。17c初めにヴェーザールネッサンス
の切妻が付けられ、南の防御回廊は1608-12にイタリア風アーケードに改造された。前面
には1404に高さ10mの石のローラント像、西側にブレーメンの音楽隊の彫像がある。2階大
会議室に1620の木製の螺旋階段がある。地下のラッツケラーには300種のワイン・リストがある。
聖ペトリ大聖堂 Dom St.Petori (845) 11cには現在の規模であり、16cと
19cに外装が改修が行われた。中には、16cマドンナ・17c青銅の洗礼盤がある。聖堂
美術館には、13cの法衣や枕を展示。塔上からは大きな鐘と市街が見渡せる。
聖母教区教会 PfarrKIrche Unserer Lieben Frauen (12c)簡素な内装の教会
には環状の格子天井があり、宗教的なステンドグラスが20cに付けられた。
市貨物計量所 Stadt Waage (16c) 煉瓦と粗面組み角石を組合せた美しい建物。
シュッティング Schuetting (1536-38) かっての商人のギルド館で、前面はフランドル
建築の美しい建物である。
ロセリウス館 Roselius Haus (1588) 古い商人の家で、12-19cの家具・美術品・工芸
品を展示している。
パウラ・モーダーゾーン・ボッカー博物館 Paula・Modersohn-Backer MUseum
ベルンハルト.ベドガーの建築物で、地階では女流画家の絵画・素描・版画があり、2-3階
にはベトガーの彫刻が展示されている。
美術館 Kunst Halle 19-20cの独・仏の絵画を中心に銅版画・素描で23万点も
ある。隣接して、GerhardMaarcks Haus 彫刻家美術館、DesignZentrum デザイン展
示。
ベトヒャー通り Boettcher Strasse マルクトとヴェーザー川を結ぶ細い通りで、1923-33
にベルンハルト・ベトガーがユーゲント・シュティールで再開発したアートの町。
シュノアー地区 Schneor Viertel かって漁師が住んだ最古の住宅街で、空爆を免
れその後修復されて、レストラン・酒場・工芸品の店が並んでいる。
旅館ハンブルク | 聖ペトリ・パウル教会 |
聖ミカエル教会 | ハッセの家 |
旧ノッテルン城 |
1162 ハンブルク大司教区に属し文書に初言及、交易路として集落は栄えた、
1202-1227 デンマーク王ヴァルデマ2世か支配、 1208 穀物水車を建設、
1212 堀のある水城が建てられ周囲に集落が成立、 1227 デンマークを追い払った、
1275 シャウエンブルクヨハン1世は自治権授与、1370 エリック伯はリューベックに保証金を払って支配、
1401 リュベックを追放しハンザ同盟が町を占領して、リューベックとハンブルクが交互に管理した、
1443 エルベ川水門により輸送路整備、聖ペトリは城の南に建てられた、1447ヒギルド成立、
1544 宗教改革の導入、1545 製剤所建設、 1618 テリー将軍のカトリック軍が駐屯、
1621 大火事で町の半分を焼失、 1806-14 仏軍が支配、
1867 ハンブルクがリューベックの所有権を買収、 1938 独立都市からハンブルク市へ併合。
13cに2市門とマルクト広場のある小さな農村の町は市壁と堀に守られた。
2市門があったが、見当たらない。
ハンブルクから東南18kmにある郊外の小さな町で、水城の南に旧市街がある。
市庁舎 Rathaus (1898-99) 元メストルフシュヴァイクの別荘を1925-27に改造し
て、市庁舎とした。
ベルゲドルフ城 Bergedorfer Schloss (1208) 、オルラミュンデのアルブレヒト伯が
ビル川をせき止めて製粉所を建設し、1212城の守りとして木柵で囲み、二重の堀と
跳ね橋を設け住居・厩舎・防御塔が置かれた。1370ザクセンのラウレンブルク公国の居所と
なった。1420ハンザ同盟が町を占領してハンブルクとリューベックカが交互に管理した。186
7にハンブルクがリュベックの所有権を購入して築450年の城を完成させ、その後裁判所や
警察所として使われた。1953博物館となり地域の歴史や文化を展示し地元芸術家
の作品を展示している。建物は30×30mの4翼2-3階建ての複合体で、石造・レンガ造
・木骨造の建物が並んでいる。1899-1901老朽化により一部ネオゴシックで改修された。
1820城の周囲は公園化された。
聖ペトリとパウリ教会 St.Peter und Pauri Kirch (1162) 最初の木造の
教会は荒廃して1499に取り壊され、ハンブルクの廷史により1501に一部レンガ造の木造で
建てられ、1502に奉献された。1549宗教改革で福音ルーテルの説教が行われた。1589-91
に1回目・1608-09に2回目の西への拡張が行われた。1836嵐で屋根と塔が損傷し修復
された。1831コレラで墓地は郊外に移された。オルガンは1282設置、1681・1741修復され
1911更新された。
オルガニスト ハウス (1630)教会の西側に木骨造の建物があり、1672-76にハーセ家のオルガニス
トが使用した。1836-1911に丸い塔が追加され、クレッパー家が個人所有した。1911に
教会が買い戻し1991にアーカイブが設立された。
牧師館(1914)教会の北に古いレンガ造の建物があり、木骨造の切妻のあるポーチで
教会と繋がっている。
ローゼンホフ Rosenhof (1913) 中庭のあるU字型の3棟構造で、4床・屋根裏部
屋・地下室のある40室のアパートである。ハンブルクの町となった時の住宅需要に対抗し
て民間が建設した。1945の爆撃で屋根が壊され、1949に修復された。
給水塔 Wasserturm (1903) レンガ造歴史主義の建物で、高さ31mに230m
の水槽があり、1986に文化財となった。
旅館ハンブルク Gastohof Hamburg (1713) 醸造所とブランディ醸造所のある穀
物挽水車小屋であり、18cに別棟が建てられ木骨造のアンサンブルとなった。
古い木骨造の建物 Fachberkhaus(1625-1700)切妻付き木骨造の建物。
ザンクトトアファー通 54番 (1625)、52番(1633)、50番(1700)は、18-19cに前面
は改修修されている。
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
マルクト | シュトラウスベルク門 |
ベルリン門 | 東壁 |
13c ヴィッテンの辺境伯に属し城建設、 1239-45 テルトヴ戦争で町はブランデェンブルクへ、
14c 市壁で町は守られた、 1335 ヴィッテルスバッハ家の方伯は修道院を寄付、
1400 市場町に、1409 騎士団が所在、 1421 ブランデンブルク選帝侯は市場権を授与、
1432 フス派の攻撃で町は焼失、 1537 町は大火事で市庁舎の書類は焼失、
1550.1566.1598 町に疫病が蔓延、 1632 30年戦争で町は焼失し荒廃、
1654 シュベリーン大統領が城と町を取得、 1684 大火事で町の90%が破壊された、
17c 衣服・靴・パン・肉・車輪のギルド結成 1708 フレデリック1世は町を買い宮殿建設、
1737 大火事で大被害、 1945 第2次大戦で赤軍が無血占領。
14cの市壁は、長さ1.3km高さ5mで円塔があり、何世紀にわたって補修更新された。
17cからは北側が部分的に市壁は公園へ変化した。
ベルリン門 Berliner Tor (13c) 高さ18m石造ピラミット屋根正方形の角塔。
シュトラウスベルク門 Strausberg Tor (13c) 高さ22m正方形の塔、1825刑務
所として使われ、1897から塔頂でコウノトリが営巣している。1947市紋章が付いた。
18-19cは農耕地であったため、多くの旧農家のある建物が支配している。1992以
降広範囲に再開発されている。
市庁舎 Rathaus (1910-12) 初めのルネッサンス3階建の建物は、刑務所のある地方
裁判所として建てられ、1956から市庁舎として使われた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 3連石造の教会は要塞化された教会とし
て建設された。16c初に、鐘楼・聖具庫・屋根がゴシックで再構築された。1720次に時計
塔が付けられ、1772ピラミット屋根となった。
新教宮殿教会 Ev.Schloss Kirche (1765-68) 1757に焼失し、バロックの南
西部の基礎の上に宮殿教会が再建され、1971まで新教の教区が使用した。1802南塔
が付けられ、2013-14バロックで修復された建物は、文化的な行事に使われている。
宮殿 Schloss Gelande (1882) 宮殿広場の隣の邸宅は、元王室ハインリッヒ・シラダー
の居所として建てられた。1945以降は幼稚園や文化の家であった。1962-90はLPG
管理所となり、2005徹底的な改修の後、城の地下遺跡と共に文化の中心となった。
1629からのビール醸造した醸造所と1772からのシナップス焼成所は、2016に復元された。
納屋地区 Scheuen Virtel (17c) 1684の火災後に、市街地から全ての納屋を
追放して、東側にまとめて納屋地区を設けた。19cの更なる火災の後は構造を強化
して、レンガ造のタイル屋根となった。
旧貧困者寮 Armenhaus(1830)シュトラウスベルク門の近くに貧困者寮は、今は歴史
的な雰囲気のレストランになっている。
市庁舎 | 火薬塔 |
南西壁 | 南壁 |
東北壁 | 西北壁 |
マリア教会 | 精霊礼拝堂 |
1210 最初の石のSt.Marien教会建設、1230 ブランデンブルクは四角い町に市壁構築、
1245-50 フランシスコ会修道院の建設、 1254 辺境伯オットー3世は町の憲章を授与、
1263 町はステーテンの文書に初言及、 1333 辺境伯バルデマーは領海の使用権を授与、
1420 ブランデンブルクはポメラニアに勝つ、 1817 町は郡庁所在地になった、、
1945 第2次大戦で赤軍が無血占領。
14cの市壁は最大4mの高さで野石の上に煉瓦積を基本として、2.7kmを構築した。
19cの防衛機能を失い、町の拡張に伴って撤去され、4か所に残るのみとなった。
外側の土堤と水の障害はない。
13cの市壁には、4門・34Wiekhaeuser・火薬塔で守られていた。4門は全て撤去され
火薬塔のみ残された。
火薬塔 Pulver turm (13c) 南壁中の円塔で見張り塔として使われ、18c監獄
となり、19c商人倉庫・火薬貯蔵庫としても使われた。高さ21mの5階建で
1850からコウノトリの巣が掛けられ雛が育っている。
Berlinger門 (13c) 南の二重門として在ったが、1840に交通障害で取り
壊された。1857-79旧市門の基礎には、鷲の目印が置かれた。
Preuzlauer門 (13c) 北の三重門は1828に取壊された。1897門の目印も失う
Schwadter門 (13c) 東の二重門は1845に取壊された。1916目印も失う。
See門 (13c) 北の小さな門だったが、1827に取壊され鹿の頭と銘板を置く。
自然と風景の旧農村の町の魅力を保持している。歴史的な中心部には、バロックの
市庁舎・中世の教会や多くの古い木組みの家があり、南に市壁も残る。
市庁舎 Rathaus (1292) 初めに町評議会があり、1562市庁舎が言及された。
2階建ての建物は1711-12に拡張が行われ、1828重々しい木組の家が建てられた。
1923-24両側翼を増築して今の姿になった。1992-99に外観を保ち改修を行った。
聖マーチン教会 St.Martins Kirche (1854) マーチン広場に皇帝フリードリイヒ・ヴィルヘルム
3世は1822ルター派定義書を定め、1854町の教区はマーチン教会を塔なしで建てた。
マリア昇天教区教会 Kirche Maria Himmelfahrt (1894) その時代の普通の歴史的
様式で建てられた。その時点で町には既に50以上の独立教区があり、礼拝は私的
な部屋で行われなければならなかったため、新教会が求められた。
修道院教会 Kloster Kirche (13c) 最初の簡素な野石の広間教会は、1450煉瓦
造ハレン教会に拡張・改造され、1802円天井に崩壊の危機で外された。托鉢会修道院
はゴシックの教会以外は残っていない。1837建物を廃墟として守ることを決めた。
今は、壁画が残され、文化的な出会いの場である。
聖マリア教会 St.Marien Kiche (13c) 初めの花崗岩の切石はあちこちに残され今
日の教会には後期ゴシックの多角形の後陣と1470北玄関ホールが加えられた。塔は53m
の正方形であったが今はない。1977-79と2003-6に改修されている。
精霊礼拝堂 Heilig Geist Kapelle(1363)昔病院が隣にあったが30年戦争で壊
され、1698王フリードリッヒ1世は残った教会を補修して移住したユグノー教徒に渡した。
城跡・宮殿壁 BurgRuine SchlossWall (13c) 1230城は町を防御、1420ポメルン
との軍事紛争は続く、1481選帝侯ヨハンは城のそばに鋳造所を建て、1550城は衰退し、
1775見捨てられ、石材は建築に使った。1899-1900麦芽製造工場が建てられた。
木組み民家 FachwerkHaus
Markt21 (1764) 市庁舎の向かいの角にあり、1705.1731の火災の跡1764に建てられた
美しい木組みの民家である。入口の扉・木製梁天井・垂木屋根に特徴がある。
1995-97改修され、今は住宅として使われる。
Markt23 (1712) 30年戦争でヴァーレンスタイン将軍が滞在したが、その家は残っていない。
今の2階建の家は、元の住宅に似せて建てられた町で最古の建物である。手工業者
と商人が入居した。1724靴屋の親方・1845garasu屋親方・1858商人・1909錠前屋の親
方など。1995-96新所有者が建物を更新した。今は商店として使われている。
HohersteinWeg16 (1695) 切妻のある中世の木組みの家で、町で唯一残された板張り
の家。
RosenStr.2 (1705) 美しい多層の木組みの家で、1705の火事の後に建てられ、後で。
車庫と2床の貯蔵庫が増築された。
市庁舎 | 市庁舎広場 |
マリエン教会 | アインハルト城 |
9c 西スラブ族のヘフエル人が定住し城を築いた、997 オットー3世の帝国証明書で初言及、
1251 ベルティッヒ家断絶でザクセン公国が支配、1465ザクセン選帝侯エルンストはアイゼンハルト城を建設、
1530 最初のプロテスタント教会をルター訪問、 1547 シュマルカレデン戦争でスペイン軍が町を破壊、
1636 30年戦争で町は壊滅し再建、 1702 ベルツイッヒは完全な都市権を授与された、
1556 王はブランデンブルク辺境伯に授けた、 1600 町の全体がブランデンブルク領となった、
1815 プロイセンに割り当てられた、 1993 町は州承認の気候健康リゾート称号を授与、
2010 市はBad Belzigの称号を授与された。
13cの野頭石で築かれた市壁は、マウアー通・ケンメラー通に残されている。
アイゼンハルト城の南入口は、アーチ門の両側に円錐屋根のある2階建の円塔を置いた。
ブランデンブルク州の「歴史的な市街中心部のある都市」として、1945から旧市街地
の修復と再開発が行われている。
市庁舎 Rathaus (1671) 16cに建てられた管理棟は1636に全焼し、1671にマルクト
にルネッサンスの木組の市庁舎が建てられた。1972に全焼して1988-91に、今の歴史主義
の2階建ての市庁舎が建てられた。
アイゼンハルト城 Burg Eissenhart (1201) 9-11cにはスラブ族の城があり、12cアスガー
ンニ家の所有となった。1201ベルツイッヒ伯はロマネスクの石造の城を建てた。1251伯爵家の断
絶でザクセン公国の朱裕となり、1269城下町の市場決済が言及された。1305ルドルフ1世
は要塞を拡張し、集落も市壁で囲み、1358には都市権を認められた。1423ヴィッテン
家が城を所有し、1477要塞を拡張強化した。1636スエーデン軍に損傷を受けたが、
1680に修復した。1815プロイセン王国が所有し、地区事務所・裁判所として使用した。
1936-45城は帝国工業専門学校、今は歴史博物館・登記所・歴史図書館である。
中庭には高さ28mの見張塔が立ち、16cのレンガ造の穀物蔵は塩屋にもなった。
聖マリア教会 Stadtkirche St.Marien (13c)町の北端にロマネスクのホール教会が建てら
れ、15cに身廊が拡張され、北塔のみが建てられた。1636教会は倒壊し1657-65レンガ
で身廊を、1696-97北塔を再建した。1850再度火災にあい塔はレンガで補修された。
1974-78広間を壁で囲み、木製梁による天井となった。
ライシガーの家 Reissiger Haus (1728) 学校として建てられ、昔の建物の地下室
は今の木骨造の建物の下に保存されている。1991-92修復されて、住宅や事務所と
して使われた。
城粉挽所 Schloss Muehle(1414)1639の洪水で壊れ、1661に修復された。
1873からは個人所有となり、1887には全焼したがすぐに再建され、1959まで稼働
した。
市庁舎 | ルッカウアー塔 |
乾燥塔 | 火薬塔 |
ネズミ塔 | 南東壁 |
北東壁 | 北西壁 |
13c ストレーレの騎士は最初の領主であった、 1316 城・都市計画・市壁を作成、
14-15c 下ラウジックの中心で関税で栄えた、町は後期中世に複数の所有者に渡った、
14c末 再度ポメラニア侯爵の領土となった、 1518 町はレブス司教の所有となった、
1556 王はブランデンブルク辺境伯に授けた、 1600 町の全体がブランデンブルク領となった
16-17c 2つの大火災で町は壊滅したが 再建後に全盛期となった、
19c 織物・麻布・ビールの交易で発展、 1945 赤軍の爆撃と砲撃に遭った。
1450の市壁は、北・西・南に残っている。防衛施設として水を引いた堀があり、
土堤は西と南に識別できる。2011全面的な修復を終えた。
跳ね橋や関税事務所のある中世の3市門は、すべて失われた。
火薬塔 Pulver Turm (15c) 東南、名前は火薬庫や町の武器庫で使われた
ため名付けられた。
乾燥塔 Darr Turm (15c) 南東の角の守りを固め、壁厚は1.25mと強固である。
名前は、塔が麦芽乾燥室として使われたためで、昔ビール醸造所は多かった。
ルッカウ塔 Luckauer Turm (15c) 南、デブ塔とも呼ばれ、町の防御で最大の
24mもある。塔通路は1906に初めて取り付けられた。塔は市民の物置や守備隊
に使用された。
鋳造塔/em> Muenz Turm (15c) 西、名前は町の鋳造権時代から来ていて、原料
や道具が中世から保管されている。1910まで監獄としても使われた。
コウノトリ塔 Storchen Turm (15c) 北西角、コウノトリは1970には戻って来なかった。
ネズミ塔 Mause Tur (15c) 北、他の円塔と違って八角塔で、穀物倉庫と
して使われた。弓矢のための垂直の隙間とクロスボウのための水平の隙間がある。
町の東の城が交易路を守るために置かれ、小さな市街地は西に市壁に囲まれ
四角形に造られ、中心のマルクトには簡素な市庁舎と木組みの家が残っている。
市庁舎 Rathaus (17c) 正面に小切妻のある2階建建物で、マルクトの西に立つ。
ベースコウ城 Burg Beeskow (1272) ストレーレ領主シュトルコウは小さな城を造った。1377
-82ビーバー・スタインの貴族に移り、1518レイブス司教が城を取得し大規模な補修・増築
を行った。1575ブランデンブルク選帝侯が引き継ぎ、城は管理棟となった。1915市が
取得し行政に使用した。1945戦災で焼かれたが、城を保持し避難所などに使った。
1991城は文化の中心として、城や木造農場への展示・催物や博物館の設置。
聖マリア教会 St.Marien kirche(1370-80)ブランデンブルク最大の煉瓦造のゴ゙シック
教会である。初めは4身廊のホール教会で1511の塔で完成した。1933に改修が行われ
たが、1945砲撃で塔と屋根崩壊し、一時的に1965南廊を奉献し1997に完成した。
最も古い家 Altestes Haus Beeskow (1487) 東部ブランデンブルクで最古の2階建
木組みの家である。この店舗は1512.1513火災の後に住居に改造された。地階に丸
太の部屋と暗い台所、上階に寝室がある。1983には住人がいた。今の家の寸法は
長さ10.2m幅5.3nに伸びて1995から公開されている。
古い学校 Alte Schhle(1714)王フリードリッヒ・ウイリアム1世による新建築として建
てられ、1862まで学校として使われた。その後住居となり、5家族が住んだ。
2011修繕して、若者のための出会の場となった。
僧宿 MoenchsHerberge 南の市壁に直結した大きな建物は。中世から祭りの
家であった。口伝では僧宿と言われる。。
銅鍛冶屋 Kupfer Schmiede 元の銅鍛冶屋の建物に町の図書館と公文書館が
設立された。2000に近代的な図書館が歴史的な前面の後ろに建った。
聖マリア教会 | 火薬塔 |
石門 | 南東壁 |
南東壁 | 北壁 |
1140 アルブレヒト・ベアが狩りで発見の伝説、 1232 町の創設の伝え、
1292 最初の文書言及、学長が王子の婚礼の立会人、14c 防備権を得て3門・市壁・堀、
14-15c 選帝侯フリードリッヒ1世は町に醸造権を与え、町には146のビール醸造所があった。
1406 火事で藁屋根と木造家屋は全焼、 1483.1486 にも火災で町は大被害、
1432 フス軍は町を包囲した、1539 住民は殆どルター派となった、1597-1638ペスト流行、
1617-21 魔女狩りで16人を処刑、 1651 地方裁判所の開設、
1627-1632 30年戦争で略奪と破壊、人口は1/4、1698鷲薬局にフリードリッヒ1世が特権付与
1699 ブランデンブルク勅令でユグノー教徒が仏から移住、 1713 帝国郵便局を開設、
1879 皇室の地方裁判所が置かれ1902まであった。
13-14cの市壁は、長さ450m高さ2.5m厚さ1.5mで、3門・2円塔・42WieckHaeuser・
堀・土堤が置かれ、1402ポメラニア・1432フス軍の包囲に対抗した。17cには軍事的意義を
失い堀や壁は貸与され、19cには緑地にされた。
Wiekhaeuser(Lughaeuser)は半円型4・四角型38木製の防御家を外壁に建て、
射撃の銃眼を有し、石や煮え湯を投下して戦った。
石門 Stein Tor (13-14c) 東、3門の内唯一残った門、元は3塔の複合施設
で2防御塔と接続し、その高さ28mの監獄塔には深さ8mの監獄があった。1751塔は
バロック屋根を持った。1882郷土博物館が収容し、刑務所跡・武器・職人生活を展示。
ベルリン門 Berliner Tor (1223) 西、ベルリーナ通の舗装に門の位置が印が表示
されている。前門の木材の日付で建設年が判明。18c末に荒廃し撤去された。
火薬塔 Pulver Trum (13c) 高さ28cの見張り円塔で入口は階段の上にあり、
17c土堤が崩されて雄牛が放牧され、雄牛塔と呼ばれ後に火薬が置かれた。
町はベルリンの北東10kmにある丘の上の半円形の小さな町で、30年戦争で壊され
たがユグノー教徒を受け入れて産業を興し郡庁となって栄えた。木組みの家は1980年
代に多くが建て替えられた。
市庁舎 Rathaus (1805) 5番目の市庁舎として簡素な2階建古典的様式で建て
られた。地方政府や裁判所としても使われた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1519) 初めのロマネスクに教会は野石造ゴシックに変
えられ、4身廊の煉瓦造ハレン教会になった。今の建物は54.5×30mの大教会で、双塔
は1846に高さ57.4mに置き換えられた。中には14cノマリア祭壇画が有名である。
聖心教会 Herz Jesu Kirche (1907-08) ゴシック煉瓦造カトリック教会で、中には珍
しい絵画がある。
旧帝国郵便局 Altes Keiserliches Postamt(1904-06)電報・電話のある1等
郵便局として建てられた。2階建ての角塔のあるコンクリート造の建物で、1993-94に改造
されたが、数年後には使われなくなった。
裁判所 Amtsgericht(1903)1809-1903hは裁判所は市庁舎にあり常に狭くて
問題となり、ネオゴシック煉瓦造破風付2階建ての建物で、王室地区裁判所と相対した。
それで市政と地方裁判所との長年の紛争は解決した。2003裁判所を拡張した。
旧学校 Alte Schule (1879)新しい学校建築による3階建ての建物で、小学校
となり、1945-46ソ連軍の病院、1946高校と小学校、1980特殊学校となった。
鷲薬局 Adler Apotheke (1755) 1698がら特権を持つ薬局を1722に買収して、
薬局と材料貿易を行う建物を建てた。この家族は6代に亘って薬局を経営し、1900
古くなった建物を新築し、1995には。包括的に復元した。
歴史的ビール醸造所 Brau Keller (13c) 貯蓄銀行の建設時に、13cの民家の地
下醸造所が発見され、新しい建物の中に埋め込まれた。13cには360の民家の内146
の民家でビールが醸造されていた。そのビールは暗褐色の辛口で強く有名となった。
市民の家 Buerger Haus (18c) 職人の家で1930にはチョコレート工場とコーヒー会社が
あった。前面はアールヌーボーで中庭側は古い木組となっている。1997に復元され今は
ギャラリィ・ベルナウと町の観光案内所になっている。
木組みの家 Fachwerk Haus (16-18c) 20cの初めには、多くの木組の家もあり
ブランデンブルクのローテンブルクと言われ、今も多くの木組の家が残る。
in Brauer Str. (17c) ビール醸造や貴重な大麦汁の貯蔵に使われた、美しい木組
のアーチ天井のワインセラーである。
in der Breiten Str.(18c) 通り抜けの家で、中には厩屋や作業所があり、表の建
物は木組みの複合住宅と商店である。
in der Kirche Gasse (18c) 元は純粋な木製トラス構造の家で、1781オルガニストの職務
室と助祭の住居であり、1883に拡大し説教師の職務室ともなった。1999個人
の所有となり愛情を持って復元された。
Henker haus (1650) 市壁を壁として2つの木組みの家が建てられ、19cまで死刑
執行人が居住した。19cに拡張して長屋となり、1976解体の危機に在ったが
郷土博物館の一部となって残り、1992-97に抜本的に再建された。
kantor haus (1582-83) 現存最古の木組みの住宅棟は2つの小屋から成り何世紀
も聖歌隊指揮者やオルガン奏者が住み、1981-83家は高価に復元された。
Katzenellen Bogen (17-18c) 殆ど市壁につながるように木組みの家がある。古
典的なヴィルムヘルム方式とアールヌーボの前面が特徴である。
聖ゲオルグ病院 St.Georgen Hospital (1328) 町の綿布屋のギルトが建て、1432
フス軍に壊された後15cに礼拝堂が再建され、1738病院が建てられ、1809大規模な切
妻壁が付けられた。2002-05に包括的に改修された。
ラテン語学校 Latein schule Haus (16c) 市内最古の校舎であり、0.65-0.90の
壁のある大きな建物で、1990-96改修された。
郷土博物館 heimat Museum
Henker haus 1976から博物館の一部の展示。
Stein tor 上段通路、武器庫、職人の生活と生産、監獄を展示。
StadtArchiv 市立図書館と博物館の管理。
ウルフ・カーレン美術館 Wolf Kahlen Museum インター・メディアアート美術館。芸術の遺跡。
旧市庁舎 | 聖礼拝堂 |
石門・車博物館 | 火薬門 |
ローテノヴアー門 | 粉挽塔 |
南市壁・新市街 | 西市壁 |
東市壁・旧市街 | 南市壁 |
船着場 |
948 オットー1世による教区の初言及、 983 スラブ族は侵入して170年間支配、
1150 城の近くにプレモントレ修道会が定住、1157 アルバート・ベアはブランデンブルク辺境伯へ、
1165 プレモントレ修道会後に大聖堂を建設、1170 西旧市街地 1196東新市街地の言及、
1314 ハンザ同盟に加入、 1474 町の権利と自由のシンボルのロウラント像立、
1521 選帝侯ヨアヒム1世は州と首都を確認、1565 司教座聖堂参事会は世俗の財団へ、
1618-48 30年戦争で人口は1/3に、 1715 王ウイリアム1世は二つの町を合併した、
1806-08 仏軍の占領、 1816 特別地方都市の地位を失い西ハベルラント州へ、
1945 3月の空襲と4月の戦闘で 産業の7割 家と橋の15%を失った。
14-15cの石造りの市壁は、堀と共に新旧二つの町をそれぞれ守った。30年戦争で
市壁は壊されたが、税の導入で市壁の必要性を取戻した。19c初めに、交通量の増加
で門や市壁は一部壊された。残るのは旧市街560m0.29と新市街1.100m0.56である。
石門 Stein Tor (1380) 新市街最大の南門で高さ28.5m璧厚2.3-3.5m径
11mの円塔で塔頂には円錐帽子と胸壁がある。塔は見張りと監獄として使われた。
1886.1925.1951.1965.1995と改修は繰返し行われた。1886歴史協会が塔内に展示
する権利を1923まで使用し、今は博物館の分館として水路の水運と船舶の展示が
ある。
風車門 Muehlen Tor (1411) 新市街の北門で、高さ24mの4階建で、煉瓦造の
八角塔で、塔は監獄に使われ、入口は最上階の胸壁にあった。
火薬門 Pulver Tor (15c) 旧市街の南門で高さ17mの丸い切株であった。
1928-29塔には 今の姿の胸壁と小尖塔の外観となった。
ローテノヴアー門 Rothenower Tor (14c) 旧市街の北東の門で、高さ28mの四角塔は
2000屋根が付けられ改造された。塔の入口は壁上の防衛通路からであったが1910
に付けられた。
旧市街・新市街・大聖堂の3つの島に、それぞれ歴史的な北独煉瓦ゴシックの建造物
が建っている。1千年前からの教会・聖堂・市壁・門塔・ローラント像などが在る大きな町。
旧市庁舎 Altestsedtische Rathaus (15c) ゴシックの煉瓦造の建物で、最初に
参事会場と書記室が造られ、1470-80には塔のある主建物が建てられた。新旧市街
合併の1715までは旧市街の中心であった。その後建物はコール天布工場・商品倉庫・市
場・穀物倉庫を収容し、1819に拡大されて裁判所となった。1863売却され、衣服庫
拘置室として使われた。1904荒廃して放棄されたが、1912今の姿で復元された。
2006-07再改修され、市庁舎になった。
ローラント像 Roland (1474) ブランデンブルクのローラントは中世特権の象徴として立つ。
若々しい姿で高さ5.35mの砂岩造りの綺麗な人物像である。1716フリードリッヒ・ヴィルヘルム
1世は新市庁舎の前に建てた。1945新市庁舎は戦災に遭ったが像は生き残り、旧市
庁舎前に移された。
聖ペーター・パウロ大聖堂 St.Peter und Paul Dom (13c) 初めはロマネスク2塔の十字
ホール教会であり、15cに拡張・ゴシック化され、17c木造塔は石の塔に置換えられた。
1705貴族学校を併設し、1871西翼に学校が建てられた。1836大規模な修復が行わ
れ、1960多くの基礎杭が打たれて強化された。大聖堂博物館や修道院図書館には
貴重な宝物や資料がある。
聖カトリーナ教会 St.Katharinen Kirche (14c) 新市街の煉瓦造教区教会で、聖
カタリーナと聖アマリベルガに捧げられた。1395野石の教会を壊して、1401塔高さ72.5m屋
根高さ38mの大きな建物を建てカトリーナ教会とした。豊かな装飾が特徴で、南にシェッペ
の礼拝堂がある。1582西塔が崩れ10年後に8角ドームで再建された。中には、1474祭
壇画、1440八角形青銅洗礼盤。
聖ゴットハルト教会 St.Gotthardt Kirche (1140) 旧市街の石造教区教会で、入
植地のプレモンス僧のために建てられた。初めに司教座聖堂付参事会が使い、1165に
ドーム島に移転された。15cに野石の建物は取り壊され、今の後期ゴシック3廊ハレン教会
となった。1623織屋ギルドは砂岩の説教壇を寄贈し、1767塔頂はバロックの帽子にな
った。1904包括的な改修で、煉瓦西入口・アーチの窓と壁を露出させた。
聖パウリ教会 St.Pauri Kirche (14c) 戦災で破損した旧ドミニコ会修道院の聖
パウリ教会が、2007に復元された。ゴシック3身廊石造教会で屋根の高さ17mで800m2の
大空間で様々な用途に使われた。2008から考古学博物館として、ブランデンブルクの
文化史を教会の歴史と共に展示されている。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1173) 初め煉瓦造3身廊バジリカで、商業団
地の教会であった。旧市街と商業団地が合併して荒廃した。1467更新の後に宗教
改革まで維持した。1712病院や捕虜収容所となり、1945戦災で塔や屋根が壊され
修復されたが、1975には放棄された。1992三位一体カソリック教会の礼拝に使った。
トリグラフ聖域と聖マリア教会 Triglaf-Heiligtum und St.Marien Kirche (13c)
丘の上に聖域が在ったが、1136礼拝堂は撤退した。新たに聖マリア教会が建てられ
1435-1557プレストレ修道院の礼拝堂も隣に建立。建物の遺跡は1722-24に撤去。
聖ペトリ礼拝堂 St.Petri Kapelle (1849-51) 聖三位一体教会は、カトリックの教
区教会・司祭館・教区ホール・幼稚園等の中心である。1945戦災で破壊され、1947-49
簡素化して再建した。1972-73教会内部を改装した。
聖ヤコブ礼拝堂 St.Jacobs Kapelle (1320) 後期ゴシックの煉瓦造礼拝堂で、聖
ヤコブ病院の正面に位置していたが、道路の拡張で礼拝堂は西に11m移された。
市立博物館 Stadt Museum 地域と都市の文化と歴史を展示。
産業博物館 Indastrie Museum 1914-2000に使われた平炉をメンティナンスし・ケア
し・プレゼンテェションしている。
州立考古学博物館 Archaeologisches Landes Museum パウリ修道院の54年の長
い文化の歴史とブランデンスルクの文化史を展示。
フレイハウス美術館 Museum in Freyhaus (1723) バロック・マンサード屋根の木組と石造の
建物で囲まれた石畳の中庭ある建物群は、ヴィルヘルム1世によって建てられ、歩兵連隊
司令官が住んだ。た。1912にフレイハウスは玩具メーカーが買い取り歴史協会を収容し、1939
には市立博物館になった。
スラブ村 Slawen Dorf 568-1150のスラブ民族の歴史と文化を展示。11cの住居跡
やスラブ板船の復元。
東文物博物館 Ostalgie Museum 米国大使が集めた東ドイツ時代の文物を展示。
トラム博物館 Strassen Bahn Museum 路面電車の歴史を展示。
マルクト広場 | 市教会 |
市壁 | 郷土博物館 |
1190 スラブ族の集落へドイツノ城が築いた、1259 騎士ハインリッヒ・ステゲリックが町を設立、
1449 ライデン家が町の封建領主となった、 1550-1809 町を取り消された、
18c プロイセン領となり陸軍元帥の農場が所有、1817 ブランデンブルクのプレンツラウ地区へ、
1945 町のマルクトは破壊された、 1952 東ドイツではノイブランデンブルクの属した、
1992 ブランデンブルク州に属した。
14cの市壁の遺跡は、高さ4mの野石積みが南に残っている。市壁にはWiekhausと
高さ6mの四角塔に四角錐屋根のTorwachterhausの残骸がある。
中世の3市門は、すべて失われた。
丘の上に13cの各塔の廃墟がある。また野石の円形の残骸もある。
町の東の城が交易路を守るために置かれ、小さな市街地は西に市壁に囲ま
れ四角形に造られ、中心のマルクトには簡素な市庁舎と木組みの家が残っている。
ブリュソウ事務所 Amt Bruessou () 。
司教区教会聖ゾフィア Stadtpfarrkirch St.Sophia(13c)初期ゴシックの野石の
身廊に石造の塔がある。1634に破壊され何年間も再建できなかった。1714祭壇
が置かれた。塔の尖塔は1836に付けられた。
郷土博物館 Heimart MUseum (1860) 旧ルーテル教会はネオゴシックのレンガ造の建物
で、1962に郷土博物館になった。1984ネオゴシックで切妻のある建物は復元された。
マナーハウスクロッカウ Gutshaus Klocgow(1710-20)フリードリッヒ・ラシンが、3階建て
のマンサード屋根の建物を建てた。1947学校として使われた。
旧穀物倉庫 Ehem.KornSpeicher 大きな建物で今は自動車整備工場。
市庁舎 | 市教会 |
市壁 | 風車 |
963 マルグラーヘ・ゲロはこの地域を征服、 970 マイセンの主教区に属した、
1279 ヘンリィ・イスストリュスの文書に初言及、 1319-65イレブルク1370-1635ハプスブルクが所有、
13c 町教会の前の建物が建てられた、 15c 飲料水を町に木製パイプで給水した、
1565.1573 二つの大火事で町は荒廃、 1576 町の再建のため城の石材を転用、
1635.1658 30年戦争で町は全焼した、 1815 プロイセンが占領、
1892 産業革命で靴工場の稼働、 1945 赤軍が占領し略奪や放火。
市壁は、リングの位置に高さ1.8m厚さ0.8mで囲んだ。1794周堀は埋められ公園に。
見当たらない。
16-17cに大火事があり、その後の建物が殆どである。マルクトは3階建の石造の建物
で囲まれ、東に幅広く緑の多いコトブッサー通りに特徴がある。
旧市庁舎 AktesRathaus (1681)旧市庁舎は、30年戦争の火災後にバロックの簡
素な建物として建てられた。1879まで市庁舎として使われた。
市庁舎 Rathaus (1879-1880)ネオルネッサンスの市庁舎は、石造2階建寄棟屋根でマルクト
に建てられ、二次大戦中に焼失し単純化された形で1946-48に再建された。正面右
の階段で高い地階に上る。
市教会 Stadt Kirche (13c) ゴシックレンガ造の教会で13cに始まり1400に完成した。
1480に70mの高い単棟が置かれ、1480バロックのドームを追加した。1560北に延伸された。
二次大戦で損傷し、戦後に再建され、1950に奉献された。4-10月には高さ37mの展
望台に登れる。
古い鍛冶屋 Alte Schmiiede (1840) レンガ造の鍛冶工場で、1939からは住宅と
なった。2003に競売に付されて、全般的に改修された。
皇帝郵便局 Inperial Post (1896) コトブス門の外に、2階建レンガ造のポストが建て
られた。1998郵便局は解散し、電気通信会社が使っている。
校舎と町会館 Schlehaus und Stadthalle (1908) リンデン通りのプロテスタントの3階建
の学校には、古代からの神々の彫刻とアールヌーボーのレタリングがあり、1908に開校し2003
に改修された。1939に2階建の市公会堂が建てられ、2003には抜本的に改修され、
文化的な行事が行われている。
城の家 Burglehn haus (1316) 市長が1716この家を購入して大改修し。
ドアアーチには1316の年号がある。古い四角い大きな2階建の建物には5つの面白い形の
窓がある。
ポスト距離標 Post Mairensaenle (1738) おそらくは距離標に似せた模造品で、
交差点にあ
ったものを、1977に道路工事で隣の郡の公園に移設された。
浄水箱 Poehr Kosten () ヘレンハイトから町へ15cに8本のオーク材の水道管が敷設され
水が汲み上げられた。1884花崗岩の管に、1888鉄管に布設替えされた。浄水箱は不
要となったが、市場と教会の2つの箱が貯水池として残された。
マルクト・上教会 | 鋳貨塔 |
サンドヴェア門 | 北東壁 |
北西壁 | 南壁 |
西壁 | 塔 |
10c スラブの砦の跡にドイツの城があった、 1029-32 辺境伯コンラッド2世が町を占領、
1156 町の文書言及、ヴィッテン伯の家臣が管理、 1192-1445 フランク族の貴族が支配、
12c 町に市庁舎・教会・市場を建設、 1216-25 都市権を授与され市壁の構築、
1380-82 ペスト、1385布に加えビール出荷、 1405-06ギルド特権授与:縫製・肉・靴・パン、
1455 ブランデンブルク選帝侯の支配下へ、1484.1499.1514.1521.1542.1544.1612.1637ペスト
1501 ビール輸出・ウール市場開催権の確認、 1544 侯爵は居住要塞新築し重砲で守る、
1600.1615.1671 大火災で壊滅し 5年間の税免除で 町と市壁を復興、
1618-48 30年戦争の略奪で町は衰退、 1650 農民戦争で占拠され大損害、
1701 ユグノー教徒の移住で養蚕・煙草・靴下起業、1724 町の経済拡大し1726市壁外へ拡張、
1756 7年戦争の軍進駐で税を取られた、 1806 ナポレオン軍の占領 1813プロイセンに帰属、
1825 城の再建、 1945 爆撃の被害を受けた。
1718市壁は軍事的機能は失ったが、養蚕に使われた。1754市壁・土堤・堀・塔は
まだ存在し、関税徴収のために1875までは残された。今は北と南に3割程度残る。
リンデン門とWiekhaeuserは旧市街の位置を示し、鋳貨塔とスプレンベガー塔の間は、市
壁の長辺1.2kmを示す。
ザンドバー門 Sandower Tor (13c) 1754中世の塔は解体され、簡素化された。
リンデン小門 Rinden Pforte (13c) 旧市街から新市街の市場に早く行けるように
古い市壁塔に穴を開けた。
鋳貨塔 Muenz Turm (13c) まず石の株構造があり、その上に木組の上部工が付け
られ現存している。13cにはDuernの貴族が所有し、16cには市民の手に移った。
1981には町が取得して復元された。
スプレンベガー塔 Spremberger Turm (13c) 二つの塔のある3身廊のホール教会。
シュプレー川の左岸にあり、12cにフランドルの入植者、18cに仏ユグノー教徒の移住で町の産業
が興った。旧市街地は、長方形の南西に三角形を付けた形で、マルクトを中心にゴシック煉瓦
造の教会・市庁舎・民家等の建物が見られる。
新市庁舎 Neues Rathaus (1934-36) 柱廊の上に古代の職人芸のレリーフがある。
市庁舎の前にはオリンピックのメタル記念碑がある。
城山 Schkoss Berg (10c) シュプレー川の西岸にあるスラブ要塞のあった城山に、城が建て
られた。1301新しい城が古い城の領域外に建てられた。1877中世の城には高さ
46mの塔が付けられた。今は裁判所として使われている。
聖ニコライ上教会 OberKIrche St.Nikolai (15c) 後期ゴシック煉瓦造ホール教会の大教、
会で中には、1644壮大な祭壇と説教壇・16-17c身廊と礼拝堂と墓碑銘があり、塔から
の眺めは良い。音楽や演劇の催物が行われる。
宮殿教会 Schloss Kirch (1705-14) 仏ユゴノー教徒が1701に定住し、仏改革派の教
会を荒廃した聖キャサリンの敷地に、選帝侯ヴィルヘルム3世は建設権を与えた。1870ネオゴシックの
塔がつけられ、1972今の内装になった。1974から待ち合わせの場所になっている。
修道院教会 Kloster Kirche (14c) 町で最古の教会で、16cにゴシック煉瓦造の建物
になった。ヴェンド語教会の証言との言われる。1998新教の教区教会になった。
市博物館 Stadt Museum 今は市庁舎に市の博物館はある。
市美術館と州図書館 StadtArtothek und LandBibliothek 現代美術の33の作品
を州と市の図書館で提供している。
ヴェンド語博物館 wendische Museum 1994古典的な装飾が復元された邸宅に開設
され、ヴェンドの文化と歴史について16部屋に文学・芸術・音楽・衣装・生活習慣を展示。
ブランデンブルク薬局博物館 Brandenburgisches Apotheken Museum 旧マルクトに400年
あるライオン薬局に、1830の機器・薬剤・薬剤印刷・ガラス・帳簿・書類などが展示されている。
ディーゼル発電所美術館 ElektrizitaetsWerk Museum 2008に煉瓦造の旧ディーゼル
発電所に収容された。美術館には近代美術の23千点以上があり、ポスター芸術は有名。
市庁舎 | 宮殿跡 |
鳥塔 | 市壁 |
北西壁 | 北壁 |
東壁 | 南壁 |
1186 城区の中心地として初言及、マグデブルク大司教ビッヒマンは町を取得した、
1150-1300 ベルリンの南にフラマン族が移住して、村や町を設立した、
1265 町としての証書に鉄の壁と言及、 1638 プラハ和平で町はザクセン選帝侯に帰属、
1456 王室所有地となり帝国裁判所設置、1486 フリードリッヒは辺境伯となった、
1815 ウイーン会議でプロイセンの支配下になり、ブランデンブルク州に含まれた。
1265旧市街は湿原鉄と野石で築かれた市壁で囲まれ、それは鉄壁といわれた。
北垣根の市壁は、2004-05に建て直された。
鳥門 Vogel Turm (13c) 西側の2塔の内で北の塔が残され、1563の大火災
で大きく破損し、1892再建された。瀕死の石工を鳥が門塔の石を集めて助けたと
の故事からこの名前が付けられた。
湿原鉄の鉄市壁も含め市壁は良く残っている。おとぎの城のような高塔のある煉
瓦造の市庁舎は美しく、木組みの家屋も多く残り、KornSpeicherは大きな4階建ての
倉庫で、昔のままに残っている。
市庁舎 Rathaus (1893) ネオルネッサンスの装飾過多の切妻のある煉瓦造2階建ての建
物で、高さ47mで119段の階段・時計・鐘楼のある円塔に特徴がある。
宮殿跡 Schloss Ruine (12c) 水城の跡で、領主の中世の城を、1711-14中央
に突起のあるバロックの宮殿に変換され、その後2つの翼が付けられた。1957廃墟と
なって放棄され、1994-2008ドイツ記念物保護連合を通して補修され、今は結構式や
催物に使われている。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 1666に何回かの火事で焼け、1670から
バロックで再建された。1678オルガンを付けた。
修道院教会 Kloster Kirche (1300) カルメル会の旧修道院は1732に老人ホームとな
った。1923火災の後に教会となった。1999-2000外装は修復され、2011から展覧会
や催物会場である。
ヴィクトリア教団 Viktoria Stift (1894-1909)ヴィクトリア会は未亡人と孤児のため
の2つの破風付2階建ての建物を建てた。
侯爵穀物倉 Herzogliches Kornhaus (1724)木骨造3階建て巨大な建物で、
農民の税の穀物を収容した。1813仏軍は捕虜3千人をここに収容した。
町郷土博物館 Dahme Heimat Museum (1760) 木造の建物に1905に開設され、
1978市博物館として、町の歴史を展示している。18c田舎の生活を習慣を含めて
衣装・家具・工芸品を含めて展示している。
マリア邸宅 Villa Maria (1900) 町で唯一のユーゲンスティールの建物。
市庁舎 | 聖ヨハニス教区教会 |
アドラー薬局 | 市壁 |
ビールアカデェミー |
1200 オーダー川の狭い所の中島に商人集落、 1225シレジア公爵は市場と町特権授与、
1253 公爵ヨハン1世は都市法を町に授与、 1430 ハンザ同盟に参加、
1432 フス派は修道院を焼いたが町は守られた、 1506 大学の開所式が行われた、
1535 ハンザ同盟を脱退、 1626 30年戦争で人口1/6減と荒廃、
1759 7年戦争でロシア・オーストリア軍は町を占領、 1759 プロイセン軍の敗退、
1811 大学はベルリンへ去った 1816 行政区と控訴裁判所を設置、
1944-45 空爆と赤軍の砲撃で町の93%を破壊。
13cの市壁は川側とRennenParkに堀とともに下部は野石、上部は切石で造られ
た。1防衛塔,34weikhaeuser、上流部は2重市壁と3重の堀で守られた。1821-23に
市壁は殆ど取り払われた。 残っているのは南のナーケル通にわずかの痕跡がある。
見当たらない。
オーデル川西南の1253からの旧ハンザ都市であり、復元された北ドイツ・レンガゴシックの
復現された建物が町の歴史を示しているが、旧市街地は二次大戦終戦時の砲撃で
全滅していた。
市庁舎 Rathaus (1253) 北ドイツ・ゴシックで建設され、その後14cに2階建のデパート
と裁判所を含めて南に建てられた。中世ニシン貿易の象徴として、1454から魚でゲ-ブ
ルを飾った。1607-09イタリアの建築家によるルネッサンスの再建が行われた。1945の砲撃で大
破し、われた。1949からの募金と1950の宝くじで資金を調達して、市庁舎の再建
が行今は市政の他、若者芸術展示館を収容している。
聖マリア教会 St.Marien Kirche(1253)初めの教会は拡張され改良された。双
塔は1450に4階以上に嵩上げされた。この教会は北ドイツ・ゴシック・レンガ造で最大の大
きさ長さ77m幅45mである。1360-70キリストの生涯を表すステンドグラスが付けられた。戦
時中はステンドグラスをポツダムのサンスーシー宮殿で保管し、戦後ベルリン→ザンクトペテルブルク→一
部返還→モスクワ→残り返還され、2008に聖マリア教会に取り付けられた。1979から復元
が行われ、1998身廊の修復が終わった。
オーデルツルム Oder turm (1968-76) ブランデェンブルク州で最高の88.95mの建物で、鉄
骨とコンクリート造の24階建のオフィスビルは、当初ホテル・テストラン・書店などが収容された。1992
-94に完全に改装・再建され、4.5万m2のショッピングアーケードを含め、1300以上の職場が
ある町のランドマークとなった。
オーデル川の橋 Odeer Bruecke (1253) 最初の橋は、ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世
が木橋をかけた。1892巨大なアーチ橋が架けられ、木橋は1896に解体された。2次
大戦後に鉄道橋と共に爆破され、木橋で応急復旧された。1951-72に友好の橋
として開通し、新橋は21世紀の初めに完成した。
聖ゲルトロウ教会 St.Ggertrau Kirche(15c)元ギルドのネオゴシック・レンガ造の教会
は、19cに荒廃して取除けられ1877新築された。1879ザウアーオルガンが付けられた。
フランシスコ会修道院教会 Franziskner Kloster Kirche(1270)フランシスコ会修道院
の教会で、1516-25に3身廊ホール教会に拡張され大きな教会になった。
平和教会 Freidens Kirche(1230)旧ニコレス教会とも呼ばれ、町で最古のホール
教会で14cに廊下合唱団が付けられた。中世には本殿の丸天井と南塔を建てた。
聖十字架教会 HeiligKrenz Kirche(1897-99)カトリックの教会は1897に基石が
が置かれ、1899奉献された。ネオゴシックの塔がある3身廊教会で4つの鐘が付けられ
1967再設計された。
クライスト技術館 Kleist Museum(1969)旧守備隊の建物に、地元生まれの詩人
ハイリッヒ・コライストの生涯と作品が展示されている。2013クライストのための新しい家が発足
し、その後現代美術館が置かれた。
市庁舎 | 聖マリア教会 |
巣壁 | 西壁 |
1263 文書初言及 1287 メルレンブルク侯爵は旧市街を放棄して新市街を構築、
1287 町は都市権・理事会・裁判権を同時に得た、 1309 辺境伯はヨハネ騎士団に授与、
1332 最初の水城を言及、 1494 Rohr家は町を引受けた、
1620 多額の負債を負ってRohr家は町を売却、 1652 大火とペストで人口は28人、
1675.1701 スエーデン軍は町を占領、 1798 市民宣誓の完了で紛争、
1866 プロイセン墺戦争、 1870-71 独仏戦争とドイツ帝国の創設、
1907 市場通りの最初の舗装、 1939-45 2次大戦で被害。
市壁は消えそうで、崩れた野石がやっと残っている。
南門 Suedes Tor (13c) 4階建ての門塔が野石とレンガの入り混じった姿
で新城と一体となって見られる。門塔のアーチは歩道となり、車は市壁を取り除い
た西側を通っている。
小さな古い町の南入口の門塔と新宮殿の高い建物は圧迫感が強い。殆どの家の
裏には農業の付属建物・厩屋・納屋・農家の庭があった。納屋は火災の危険性から郊
外に移され、その他の多くは東ドイツ時代に壊され、たまにしか見られない。
市庁舎 Rathaus (18c) マルクトに面して小切妻付小さな長さ10mぐらいの煉瓦造の
建物で、見逃しそう。
旧宮殿 Alte schloss (13c) 初めての水城は1332に言及があった。1556今の宮
殿はRohr家により4階建て3翼宮殿を主として野石で造られた。1620にRohr家の負債
のためWinterFeld家に売却した。1677には廃棄したが、流用され醸造所とブランディ
酒場として使われ、1908と1914に階段塔と西翼が改修された。今は講義や朗読の場
や、町の文化史・古い道具や衣類の展示場となっている。
新宮殿 Neu Schloss (1287) 1287の破壊の後に再び旧市街のそばに建てられ
1350にRohr家の所有となった。15cに既存の城に西に防衛てきな宮殿を建てた。
1620にWinterfeld家の支部とされ、1659には宮殿を手放し1701に買い戻し、18c
内装と前面の改修を始めた。1936-45Winterfeld家の最後の領主が2階に住んだ。
大1次大戦後に避難民を収容し、第2次大戦では大きく破壊された。1976学校・1990
靴下工場となった、今は図書館やクラブの部屋が収容されている。
聖マリア教会 St.Marien Kirche(1287-1326)何回も火災に遭い改修された後
に、初期ゴシック3廊の教会となった。内部には、1733.1773.1809のWinterfeld家の記
念碑がある。1812火災で鐘が溶解し修復したが、2次大戦に供出された。
旧学校 Ehem.Schule 旧学校の中に、考古学公園の説明・学校の歴史・老人
クラブ・医師の事務所がある。
考古学公園 Archaeologisch Garten(1263)町の南西の丘に古い町が有った
が1287軍事紛争で破壊され放置された。発掘作業が行われて見取り図は得られ、
更に詳細な調査が進められている。
市庁舎 | マルクト広場 |
プレーン塔と市壁 | 聖マリエン市教会 |
1200 オーダー川の狭い所の中島に商人集落、 1225シレジア公爵は市場と町特権授与、
1253 公爵ヨハン1世は都市法を町に授与、 1430 ハンザ同盟に参加、
1432 フス派は修道院を焼いたが町は守られた、 1506 大学の開所式が行われた、
1535 ハンザ同盟を脱退、 1626 30年戦争で人口1/6減と荒廃、
1759 7年戦争でロシア・オーストリア軍は町を占領、 1759 プロイセン軍の敗退、
1811 大学はベルリンへ去った 1816 行政区と控訴裁判所を設置、
1944-45 空爆と赤軍の砲撃で町の93%を破壊。
15cの市壁は1624に更新された。荒石積みの高さ4mで建設された。市壁の残っ
ているのは町の西と西南にある。
志門は19cに全て取り壊された。防衛塔は唯一青搭が北西に残っている。
青搭 Blau turm (15c) レンガ造3階建ての円塔で搭頂部に冠と円錐形の先端が
ある。
オーデル川西南の1253からの旧ハンザ都市であり、復元された北ドイツ・レンガゴシックの復
現された建物が町の歴史を示しているが、旧市街地は二次大戦終戦時の砲撃で全
滅していた。
市庁舎 Rathaus (1253) 北ドイツ・ゴシックで建設され、その後14cに2階建のデパート
と裁判所を含めて南に建てられた。中世ニシン貿易の象徴として、1454から魚でゲ-
ブルを飾った。
1607-09イタリアの建築家によるルネッサンスの再建が行われた。1945の砲撃で大破した。
今は市政の他、若者芸術展示館を収容している。
聖マリア教会 St.Marien Kirche(1253)初めの教会は拡張され改良された。双
塔は1450に4階以上に嵩上げされた。この教会は北ドイツ・ゴシック・レンガ造で最大の大
きさ長さ77m幅45mである。1360-70キリストの生涯を表すステンドグラスが付けられた。戦
時中はステンドグラスをポツダムのサンスーシー宮殿で保管し、戦後ベルリン→ザンクトペテルブルク→一
部返還→モスクワ→残り返還され、2008に聖マリア教会に取り付けられた。1979から復
元が行われ、1998身廊の修復が終わった。
オーデルツルム Oder turm (1968-76) ブランデェンブルク州で最高の88.95mの建物で、鉄
骨とコンクリート造の24階建のオフィスビルは、当初ホテル・テストラン・書店などが収容された。
1992-94に完全に改装・再建され、4.5万m2のショッピングアーケードを含め、1300以上の職
場がある町のランドマークとなった。
オーデル川の橋 Odeer Bruecke (1253) 最初の橋は、ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世が
木橋をかけた。1892巨大なアーチ橋が架けられ、木橋は1896に解体された。2次大戦
後に鉄道橋と共に爆破され、木橋で応急復旧された。1951-72に友好の橋として
開通し、新橋は21世紀の初めに完成した。
聖ゲルトロウ教会 St.Ggertrau Kirche(15c)元ギルドのネオゴシック・レンガ造の教会は、
19cに荒廃して取除けられ1877新築された。1879ザウアーオルガンが付けられた。
フランシスコ会修道院教会 Franziskner Kloster Kirche(1270)フランシスコ会修道院の
教会で、1516-25に3身廊ホール教会に拡張され大きな教会になった。
平和教会 Freidens Kirche(1230)旧ニコレス教会とも呼ばれ、町で最古のホール教
会で14cに廊下合唱団が付けられた。中世には本殿の丸天井と、南塔を建てた。
聖十字架教会 HeiligKrenz Kirche(1897-99)カトリックの教会は1897に基石がが
置かれ、1899奉献された。ネオゴシックの塔がある3身廊教会で4つの鐘が付けられ、
1967再設計された。
クライスト技術館 Kleist Museum(1969)旧守備隊の建物に、地元生まれの詩人
ハイリッヒ・コライスト
の生涯と作品が展示されている。2013クライストのための新しい家が発足し、その後
現代美術館が置かれた。
郷土博物館 | ハイランド教会 |
市壁 | ヴォルデッカ市門 |
ベルリン市門 |
1200 オーダー川の狭い所の中島に商人集落、13c町の憲章を受け市壁と教会の建設、
1244水車の建設、1319ブランデンブルク国境として発展、 162630年戦争で人口減と荒廃、
1817 プロイセンのブランデンブルク州 経済の停滞、 1847 駅馬車ポストの設置、
1952-93 プランツラウ地区の一部となる、 1993 ブランデンブルクのアルカーマルク地区になった、
2001 北西ウッカーマルク州が新設られて統合された。
旧市街地は全長1.2kmの市壁で囲まれ、市壁の修復は1990-2000に行われた。
中世の3市門の内、PernnlauerTorは1879に取り払われた。WoldegkerTorと
BerlinerTorは、市壁にアーチ門が開けられた形で残されている。また、壁塔も17基
が四角い塔で残さ
れている。
14c以降は町が衰退したため、大きな建物は建てられていない。
旧市庁舎 Altes Rathaus () 木造平屋の建物で、今はいぇんぽとして使われ
ている。現市庁舎は、旧市街地外の南側にある。
フルステンウェルダー教会 Kirche Fuerstenwerder(13c)野石の横長長方形の塔を備
えた単通路の建物で、1740に焼失して7人の農民により1792-93に身廊が修復さ
れ塔はスレートのランタンで1877に再建された。1752説教壇・1877オルガンが置かれた。
1982-83に建物全体の修復が行われた。
ドンホウェーア水車 Dochower Muehle (1244) 地形を利用して水車を稼働させた。
1895に水車からタービンに、さらにジーゼルエンジンに動力を変えて稼働された。
古い木組みの建物は、1989に所有者によって修復されたて、古い農業機械を
展示している。
フュルステンウェルダーの4風車 Windmuehle () 1930までに3つは解体され、最後の風
車は切株がアパートとして使われている。
市庁舎 | 聖ステファン市教会 |
セステェッティナー門 | 市壁 |
市壁 |
1124 ポメラニア公国の町として初言及、 1249 ポメラニア公バルム1世は都市権を授与、
1270-80 城壁と市壁は堀で守られた、13cシュチェケン門の建設、1306最初の木橋を架けた、
14-16c 度々疫病が流行、 15c 聖シュテファン教会の建設、 1638 スエーデン軍が占領、
1659 スエーデン・ポーランド戦争・1713北方戦争で占領され破壊された。 1720 プロイセンへ、
1945 二次大戦の破壊、ポーランド国境がオーデルに移され、国境の町となった、
1989 東西ドイツ統一。
1314から1.7kmの市壁建設が始まり、3つの強力なゴシックのレンガ門は町への入り
口となった。市壁は北部に大部分が残されている。市壁は、高さ7m幅2mでモルタル
接着の野頭石積で造られている。
ステェッティナー門 Stettiner Tor (13c) 北東、野石で建てられた4門の内唯一残
っ多門である。門の通路には1906の行進の写真があった。切妻は1726のフリード
リッヒ・ウイリアム1世のモノグラムを示している。3階建のレンガ造の建物は15cに追加された。
2番目のアーチ門の通路は1935に設けられた。
火薬塔 Purver Turm (13c) 西北、丸いレンガ造で市壁に接合され屋根はなく
高さ
青い帽子 Blauer Hut (13-15c) 監視塔が崩壊したレンガ造の基礎壁であり、
は23mあったが、1945に崩れて9mしか残っていない。
コウノトリ塔 Storchen Turm (13-15c) 2層の塔として15cに拡張された。外側は
石と内側はレンガで構成された、高さ24mの塔であり、コウノトリの営巣地として使わ
れ ている。
典型的な木骨造の多くの建物が、愛情をこめて修復されている。
市庁舎 Rathaus (1900-04) 北の門外にネオゴシックの地方裁判所と刑務所として、
2階建てレンガ造で建てられた。入口の砂岩の柱には、元治安判事の肖像が置か
れている。1953から改修して市庁舎として使っている。
聖ステファン市教会 Stadt kirche St.Stephan(13-14c)ゴシックのレンガ造で建てら
れ、2次大戦で破壊され、1982-87に身廊部をの除いて再建された。
精霊病院 Heilig Geist Hospital (1406) 始めは市僧院が維持していた。
1517の宗教改革後は、カトリックの礼拝堂などに使われた。1993復元されて、展示
会や演奏会場として使われている。
大砲小屋 Kanonen Schuppen(1850)軍の倉庫として木造で建てられ、30年
間使われた。1871に軍が去ると、1924まで消防署や工場として使われ、1945
捕虜収容所となり、1995大規模な修復を行って、公共文化の場となった。
古い学校 Alte Schule(1776-77)兵士のストッキング工場として建てられ、
ナポレオン戦争後1822-1934に学校として使われ、1996から近代的なアパートと
なった。
市庁舎 | ダム門 |
ダム前門 | 見張塔・西壁 |
火薬塔 | 卵塔 |
新市場塔 | チィナー門 |
1007 メルセブルク司教の文書に初言及、 1174 マグデブルク法の憲章を授与、
1200-1300 聖母教会と3門の市壁建設、14cブランデンブルク州で2番目の都市権授与、
1478 大火災後マグデブルク大司教が再建、 1540 宗教改革の導入、
1626 バーレンスタイン将軍が町に滞在、 1635 ザクセンに属した、
1756 プロイセン皇帝フリードリッヒ2世の7年戦争、 1815 プロイセンに帰属、
1832 駐屯都市となった。 1945 空爆で被災、赤軍の占領。
1300頃から造られ1335には言及された。市壁は高さ6mで3門と2つのツインガー
を持った。1478大火災で損傷し1487に修復完了。30年戦争で跳ね橋が落
ち、1678火事で市壁の一部が壊れたが、物品税のために再建された。
1813ロシアの攻撃を防衛した。1819物品税が廃止されて堀や市壁は平らにさ
れ初め、1826騒動で一部は壊された。1839から1906に大部分が除かれた。
残っているのは、北西50m、北50m+190m、南西160m、合計450m。
チィナー門 Zinnaer Tor (1300) 北、内側門は正方形塔と円型塔の両方
が残っている。円塔は下部を石で1480-90にレンガで上部が建てられた。
四角塔は後期ゴシックでアーチは交通障害で1886に取り壊され1889に高くして
再建された。門衛の家は1928に取り壊された。前門とツインガーは現存しな
い。
新市場門 Neu Markt Tor (1300) 東、円型塔のみが残っている。1300
に北門と共に造られ、1480-90に拡大され1901に再建された。正方形の
塔は交通障害でアーチが1839に取り壊され、1909に撤去された。15cの前門
はまだ残り、1984から交通はこの門を迂回している。門衛室やツインガーは
残っていない。
堤防門 Damm Tor (1300) 古くはFrauenTorと呼ばれた。他の門と同様
に外門・ツインガー・内門を備えていたが、その断片しか残っていない。内
側門の円塔は高さ32.3m直径7.35mで、基礎石の上にレンガ積となっており、
塔は刑務所と武器弾薬庫で使われた。内アーチは1851に撤去された。
6壁塔
Hinter der Mauer1 南西角塔、赤い四角錐屋根の角塔に小屋が付いている。
Pulver Turm 南、大きなアーチ門にもう1階乗っている角塔。
Pulver Turm 南、4階建ての角塔。
EierTurm 南東、復元された防衛塔の一つ、卵型平面の塔。
Schliefen Turm 西、円塔で入口は元に市壁の高さにある。
Wurst Hof 北、1480建、市壁の上に家の屋根が付いている。
千年の歴史のある古い町で、数多くの塔・3市門・教会が立ち並ぶ。
フランシスコ会・シトー会・シトー修道女の3修道院には、壁画・祭壇などの見所がある。
市庁舎 Rathaus(1480)マルクトの南中に立ち、屋根に塔が付けれれ1480
-90にその塔に鐘が付けられた。1510まで拡張と改造が繰り返された。
1801尖塔が壊れ除去された。1813傷病軍人の病院となり、1816に市庁舎
と裁判所が収容された。1849-50大改造で、上階は事務室としてバロックの
階段は除去された。1945から改修が行われ、1992東切妻・1993西切妻が
復元された。39×16.5m煉瓦造切妻。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1221) 71×23m ゴシック3身廊の教会で、
西面に大きな塔頂の異なる5階建ての双塔複合体がある。14c身廊は1径
間拡張、15c南側を建増し、1617北塔の帽子完成。改修は1834-77、1934
-36、1974屋根、1986内装、に行われた。
聖母教会 LiebFrauen Kirche (1161) マグデブルク大司教が3身廊煉瓦造
バジリカを設立した。1179損傷し1183には献堂され1225女子修道院の2祭
壇の後陣を増築した。1282シトー派女子修道院「聖十字架」を聖母教会の
中に包含した。1557修道院の解散後、新教の教会になった。鐘楼は1537
木造で更新された。1890-91に大規模でステンドグラス窓が付けられた。1936
-38復旧と木製天井の絵画、2000-05外装の改修。1710バロック祭壇に、1418
のオルガンは1737バロックオルガン置換た。
僧侶教会 Moenchen Kirche (15c) ブランデンブルク大司教の許しでフランシスコ会
は煉瓦造3身廊の修道院を建てた。まず後陣が建てられ,1484祭壇の寄付,
1490-1500本堂の完成。1534新教の教会となる。修道院は1560に解散され
た。1711バロックの祭壇が置かれ、1812-13軍の倉庫となり内部は損傷した
が、1822には回復した。1914市の所有となり、1920まで礼拝が行われた。
1970建物が危険となり倉庫とされた。1980から建物は復元され、図書館
・劇場・演奏会に使用。
ヘドヴィック教会 Hedwigs Kirche (1893) ヘドヴィックが守護聖人シレジアを祀っ
たカトリック教会を設立し、1863から礼拝堂は在ったが教会を建てた。1955礼
拝堂と教会が構造的に一体化され、1980改装されて今の姿になった。
修道院長館 Abts Hof (1480) 後期ゴシックの煉瓦層の建物は、その後町
の邸宅として使われ、僧院博物館が開設されるまでは。地域博物館とし
て、町や地域の歴Sの展示が収容されていた。
僧院博物館 Museum in Moenchen Kloster (1500-30) 旧サンフランシコ会修道
院の東翼に修道院と町の歴史と文化を展示し修道院の保存エリアを見られる。
市庁舎 | 南壁 |
南壁 | 東壁 |
西壁塔 |
1232 最初の文書言及、 1237 都市の法的地位と所有権を取得、
1287 アズカンラウスは町の免税特権を与えた。 13c 市壁や教会の建設を開始、
1358 ハンザ同盟に参加、 1415 ブランデンブルク選帝侯は領地として支配、
1381 メクレンブルク騎士団攻撃を撃退、 16-17c 町は交易で栄えた、
1635 ザクセンとスエーデンの戦闘で被害、 1718 騎兵の駐屯地を100年間、
1756-63 7年戦争の戦争負担と疫病で人口減、 1806 ナポレオン軍が占領、
1824-25 大都市火災で公共施設も破損、 1845 戦わず赤軍が占領。
13-14cの市壁は野石とレンガで建てられ、1739-40に一部取り払われた。
昔のヴィークハウスの幾つかを南側に再現している。市壁の東部分に石の十
字架がある。北西・東・南に市壁が残る。
昔の3市門は、残っていない。東に現存する非常門は、1824に市壁を
壊して設置された。
14cにハンザ同盟に加入して栄え、中心には切妻のある聖マリア教会、その
南にチューダー調の綺麗な市庁舎があり、17-18cの木組みの家が中心部を
支配。
市庁舎 Rathaus (1825) ゴシックの市庁舎は、何度も火事で損壊し変更
されて再建された。18c中には取り壊され、西側に18×20mに縮小して
新築された。この建物も1825に焼失し、現在の場所に移転して後期古
典主義の新市庁舎となった。建物は拡張され1897チューダー調の美しいレンカ
造の今の姿になった。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) ロマネスクと初期ゴシックの部分的に側
廊のあるホール教会で、船乗と商人専用の守護聖人ニコラウスを奉った。
新設の教区教会となり、18c初めに今の教会が野石とレンガ造の3身廊で
建てられた。1850西側の切妻は双塔と共に建設され、1873オルガン設置。
旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (1303) 中世にはこの
修道院はブランデンブルクに属し重要な立場にあったが1442には衰退した。
現存するのは、ゴシックの修道院教会の野石とレンガの北側壁と、修
道院の東翼の切妻である。跡地には住宅が建ち、広場は催物会場。
地方監督 Superintendentur (1663) 初期バロックの木組の家。梁の
碑文に年号がある。1824の火事を受け、オーク材の骨組み構造は維持さ
れたが切妻・屋根・壁は置き換えられた。
市民の家 Buergerhaus (1663) 僅か残された市民の建てた切妻木組
の家で、梁に年号がある。早期バロックの垂木の頭に豊かな装飾がある。
多くの改造がなされ、長期間パン屋が入り、2001-02に基礎は健全化。
市民の家 Buergerhaus (1680) 市民の建てた木組の家。
旧病院聖 Ehem.Hospital St.Spiritus (1322) 今の建物は1628に建
てられ、2階建漆喰塗の欄干のある建物に、正面中央に木製の屋上小
塔がある。
市庁舎 | 町並 |
切株搭 | 聖カタリーナ教会 |
929 ザイセン軍はレンツエン城を征服した、 983 スラブの反乱で城を支配、
12c 石造の城はレンツエンの中心、 1219ブランデンブルク牧師が所有しシュベリンへ貸与、
1227 デンマーク王ヴァルデマー2世を城に投獄 1237 オットー3世は都市権を授与、
1319 城と土地はハーベルベルク司教へ、 1400 石の市壁が建てられた、
1558.1703 大火事とペストで町は崩壊、 1648 プロイセンのレンツエン事務所、
1769 プロイセン王国の城公邸が移された、 1989 メクレンブルク・フォアポンメルンへ、
1991 投票でブランデンブルク州に戻った。
14c市壁は北と北東に痕跡がある。
鈍塔 StumpferTurm(14c)市門の一つで山門とも呼ばれ、前に
は堀の跳ね橋があった。1700から市壁は崩れ、1758には刑務s所として
使われた門の屋根か落ちた後はDull塔と呼ばれた。八角形の床に丸い
塔が建てられた。
旧市街地には古い木組の家並みも残り、歴史的な建造物もある自然豊
かな町。
市庁舎のある中央守衛所 Hauptwache mit Rathaus (13c) 最初の市庁
舎は、1228-39に地方裁判所として使われ、1558の火事で書類と共に焼
失した。次の市庁舎も1652と1703の火事で損傷し、一時的に中央守衛
所が市庁舎となった。1713現在の市庁舎が丁寧に建てられた。1756時
計塔は片手腕時計として整備された。1994包括的な改修が行われた。
レンツエン城・城博物館 Burg Lenzen und Burg Mseum (10c) 元スラブの要
塞で1200の高天守閣は初期ドイツの城の部分がある。バロックの城に拡張さ
れ、1223デンマークの王子がこの城に拘留された。1484-1767城は宮廷であ
った。GDRの時代には、退役軍人の家であった。今の城は、BUNDに
寄付され、博物館・ホテル・会議室・自然ビジターセンターある。城の塔には、博
物館として市歴史博物館・展覧会場があり、高さ24mの展望台からの眺
望は素晴らしい。
聖カタリナ教会 St.Katharinen Kirche (14c) 14cのクロス状の柱・東西身廊・
北側壁の細い窓が残され、その後内陣と入口の上に十字架の教会が追
加された。1646.1703の火事で損傷し1735にはドームと屋根が壊れた。
1760今の塔が建てられ、1986屋根も更新された。1997-98レンガ部・ステンド
グラスの復元が行われた。
プロイセン郵便距離標 Preussischer Postmeilen Stein (1803-04) マルクト広
場に郵便距離標が設置され、ベルリン・マグデブルク・ハンブルク間の主要郵便が運
用された。
古い教会書記の家 Alter Kirhedienerhaus (17c) 古い木組の3階建の
家で、家の半分は18cに建てられ、教会書記が住んでいた。
市庁舎 | 宮殿 |
1150 ニーンブルクの所有目録に城を記載、 1210-20 マグデブルク法の導入、
1300 ドベルク修道院の所有に、 1329 ザクセン公ルドルフは城と町を購入、
1422-62 下ラウジッツは代官と地方抵当主が統治、1448ブランベンブルク辺境伯が占領、
1462-1526 下ラウジッツはボヘミア・ハンガリー王が所有、1526-1623 ハプスブルクの所有へ、
1620-21 30年戦争で略奪、 1623-1815 ヴェッティン家が所有、
1761 王フリードリッヒ1世がザクセンの町を略奪、 1812-13 ナポレオン軍が占領、
1815 ウイーン会議でプロイセン王国に帰属、 1883ブランデンブルク歩兵大隊兵舎、
1945 赤軍の砲撃で町の75%を破壊。
14c市壁は町を囲んだ。高さ1.5mの野石又は芝鉄石の腰石の上に、高
さ4-5mの煉瓦積壁が乗る。30年戦争で大部分が壊され住民が柵で防いだ。
その後市壁が再建されたかは不明。大砲の発明で市壁の重要性は失われ、
1753王の承認で教会の再建に市壁の石材が使われた。全長173mの市壁は
資金援助で復元された。
反抗者 Trutzer 橋広場の角型Wiekhauserで、夜警が置かれた。
脂肪塔 Unter Tor 橋広場の角のある円塔で復元されている。
昔は魔女塔とも呼ばれた。
森の囲まれたシュプレー川沿いの市場町で、戦乱や火災で何度も壊滅し再
建された。美しい町とするため歴史的な建造物の改修が行われてきた。
TrutzenとSeckTurumのある町の東の川沿いの景観は美しい。
市庁舎 Rathaus (2000) 旧市庁舎はマルクトに面して別の位置に在ったが
第2次大戦で破壊された。1998旧郵便局の建物を市庁舎に変換工事が始
まり、前面を変更して2000に今の市庁舎となった。
リューベン宮殿 Schloss Luebben (1368) 初め水城として建てられ、
1397からBerckoが占有して住んだ。1561-62旧城を取り壊して、今の宮
殿の前駆となる2階建ての建物を建てた。30年戦争で壊れ、ザクセン公
クリスチャン1世は下ラウジッツを取り、1679-82に後期ゴシク2破風のある3階建て
の宮殿に更新した。その後住宅・学校・事務所などに使われ、改修が繰
り返された。1915王室厩舎が市立図書館となり、天守閣も復元され
2001町の地域の博物館が収容された。
パウリ・ゲルハルト教会 Paul Gerhardt Kirche (15c) ゴシックの煉瓦造3身廊
ハレン教会で後陣がある。1494-1550前の建物の一部を取り込んで再構築
された。1782の塔は、1945に天井と共に破壊され1988には回復された。
中には1609石灰岩のキリストの生涯の祭壇画・1609説教壇・1610洗礼盤。
聖トリニタス教会 Katholische Kirche St.Trinitas (1863) 北にカソリックの
聖三位一体教会が発足し、1906拡張されネオゴシックの教会となり、1945砲
撃で教会と司教館も被害を受けたが、1950には復旧した。1995-96屋根
と内装の更新と司教館の近代化。
身分別荘 Staedische Landhaus (1717-22) コの字型の2階建て簡素な
建物で、3つの入口の上には下ラウジッツの紋章がある。1761の7年戦争で他
の建物は焼失したが、この建物は残った。今は地方行政事務所。
町と地域の博物館 Stadt und Regional Museum 2次大戦の最後の日
に博物館は破壊された。2001宮殿の中に下ラウジッツと町の歴史と文化を展
示している。武器の歴史・中世の風呂・紋章・絵画がある。
伝統家屋 Traditionshaus der Luebheuer Feuerwehe (1863) 古い民家
に1997から消防協会が発足した。古い消防車と消防機器の展示。
市庁舎 | 赤門 |
守衛塔 | 文化教会 |
東壁 | 南壁 |
1276 町は初文書言及。、 1351 ブランデンブルクのルイ5世の統治、
1492 低ラウジッツの主要な町として繁栄、 1635 プラハの和平でザクセン選帝侯へ、
1648 30年戦争で破壊、スエーデンの拠点、 1813 ナポレオンが敗戦後 商家に駐留、
1815 ウイーン会議でプロイセンのbrンデンブルク州、1816-1952 郡庁所在地であった。
13-14cの旧市街地を囲む高さ9mの玉石とレンガの市壁は、多くの部分で公
園に残された。
赤塔 Roter Turm (13c) 高さ13m赤い円塔は石積1.1-2.5mの璧厚
があり、1813の戦争で損傷を受け、1822玉ねぎ屋根が復元された。
1853-71に修復、1992にも再改装が行われた。塔の隣には、跳ね橋付の門
があった。
守衛塔 Hausmanns Turm (13c) 初め低い塔い塔であったが、17cに高
さ47mの八角塔となった。1697から塔と礼拝堂は中央防備で、塔の上には
見張りを置き火事も見張った。この見張り人は塔に時計が付いて居なくな
った。1969に塔は再建された。
僧館 Mench Hof 通りの両側に大小の角塔がある。
12-13c低ラウジッツの首都で、豊かな商人の町であり、旧市街は堀と緑地
と多くの市壁に囲まれ、中心ノマルクトには市庁舎・ニコライ教会・旧ドミニコ修道院・
バロックの長屋がある。
市庁舎 Radthaus (13c) 1644.1675町の大火災に遭い、1675市庁舎は
中世のままに再構築された。今のクラシックな姿には1850-51に変更された。
1996全面的な改装が行われた。中に古代トウモロコシの尺度が収納されている。
城山 Schloss Berg (12c) 遅くとも12cに城山に城が築かれた。1301
低ラウジッツ公国の中心として浮上した。1576辺境伯と従者が城に留まった。
1386イタリア貴族が住み、1497には城は市評議会へ売却した。1540の絵画には
城の天守閣の旗が見られる。1637スエーデン軍の砲撃を受けた。1644ザクセン選
帝侯の命令で、城の石材は町の復興に無料で与えられた。1729以前住んだ
イタリア貴族の子供が帰ってきて、1745に領主から城山を獲得した。1770-
1803はブドウ園として使われ、1755建の別荘は1869に焼けた。1813仏軍
は丘に大砲を据え、周囲に大きな堀と土堤を築き柵で囲って要塞化した。
1824城山に地下室のある食堂が建てられ、1845には麓に醸造所と居酒屋が
建てられ、1876頂上に広間が造られた。1992には40席の食堂と200席の広
間のあるビアガーデンが開業した。山にはブドウ園とバラ園がある。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (13c) 大規模のゴシックの構造は13-
15cの異なる建設段階から来ている。町の火災を生き残り17c中からの室
内は、優れたバロックのオルガン・二重螺旋階段のある装飾木製聖歌隊席・砂岩
の説教壇がある。南側の入口に皇帝カール4世の小さな像がある。
ゲオルク礼拝堂 Georgen Kapelle (1200) ロマネスク煉瓦造教区教会として
マルクトに建てられた。遅くとも1886から礼拝堂としてのみ使われた。16cか
ら礼拝堂でなくなり、1935まで消防署てして使われた。1963から町の小
ホールとなり、結婚式場や講演会場となり1991に大修繕行われた。
ナポレオン小家 Napoleon Hauschen (18C) 1813ナポレオンは町で裕福な商人
の北の市壁にある夏の家に宿舎を置いた。ナポレオンは寒さで寝つけず、今博
物館に残っている銅製の湯たんぽを使用した。
文化教会 Kultur Kirche Luckau (1291) 旧ドミニコ会修道院の教会で
2006改修が行われ文化教会となった。
ロッジの家 Logen Haus (1309) ロッジ・ヒヨウはリューベンに置かれたが、1860
に野の町に移った。東ドイツ時代は工科教育センターとして使われたが、崩壊
の危機で閉鎖された。1955-98再建され、今は音楽学校である。
切妻の家 Giebel Haus (1700) マルクトにバロックの切妻の2階建町家があり
イタリア建築家による美しいスコッタ仕上げの前面を持つ。1990に復元され紅地に
白の装飾は見事である。
低ラウジッツ博物館 Nieder Lausitz Museum (1291) 旧ドミニコ会修道院
1291-1546の建物は1749-2005は刑務所として使われ、2008から改修されて
博物館になった。下ラウジッツの人間・文化・自然と歴史、地階は刑務所生活、
2階は書籍・文学、3階は小演奏会場。
収集博物館 Sammlung Museum fuer Humor ユーモアと風刺のコレクション。
市庁舎 | 聖ヨハネス教会 |
市壁 | 学校校舎 |
フルステンベルグ門 |
1248 辺境伯ヨハン1世は市壁に囲まれた町を設立、1303 メクレンブルクが占領、
1452 ブランデンブルク伯ヨハン1世が町を奪還、17c 30年戦争と1732の大火事で衰退、
1756-63 7年戦争でスエーデンが占領、1879鉄道開通、1903 療養所を設立。
1248に高さ6mの市壁と3市門を建設。1302-04 野石積みの中世の市壁は、
大部分が残る。
スターガーダー門 Stargader Tor (1248) 1976嵐で壊れ、歩道は残って
いる。
テッムプリナー門 Templiner Tor (1248) 残骸が残る。
フュルステンベルガー門 Fuerstenberger Tor (1248) 内柱と歩道アーチ門が残る。
町は7つのUckermark湖の中島にあり、幅の狭い岬で他の島と繋がっている。
市庁舎 Rathaus (1748) バロックの市庁舎が建てられたが、2次大戦で破壊
されたが再建された。1949に全焼し、1957-58に簡素化されて屋根は低く
なり塔はなしで再建された。
教区教会聖ヨハネ Pfarrkirche St.Johannes (1263) 町の高い位置にあり、
始め聖マリアに奉献された。1302教区教会となり聖ヨハネに奉献された。1350南
に外陣を追加したが、1684町の大火事で外壁を残して全焼したが、オルガン付
きで再建。
郷土館 Heimart Stube 1900まで画鋲工場があった。1945に焼け、地階だ
けが残り1968-2010新教共同体が使った。2012から博物館となり、人々の生
活・森林と農業の歴史・1902からの温泉療養所の特徴などを展示。
ラフティング博物館 Flosserei Museum ボランティア消防団の旧館にあり、
リヘン経済基盤・古い農機具・古いバイク等を展示。
西壁 | 東壁 |
北壁 | メイエン城・北壁 |
1285 国境の農業の町に水城が初言及、 1332 町として初言及、
14c メクレンブルクの国境の重要な町のためブランデンブルク侯爵は切望して入手した、
1364 町は辺境伯の封土としてバイエル家発祥のLohr家に渡った。
1648 30年戦争の終結時に、町はほぼ全滅して無人であった。
1795 回復した町に大火災が襲った、それで近代的な都市計画が可能となる。
18c 手工業が興り、64靴屋など160人の職人が働いた。
中世の市壁は、城の付近80m・東の公園沿い120m・西南3か所に30mが残る。
飢餓塔 Hunger Turm (1200) 城の南端に半壊状態で補修され立って
いる。一時は監獄として使われた。博物館の一部として登れる。
中央に幅広いマルクト通りはあるが、市庁舎は見当たらない珍しい町である。
メイエンブルク宮殿 Schloss Meyenburg (1200) 1214にブランデンブルク辺境伯の城
となる。1364にRohr家に渡り19cまで続いた。14cには城は今の位置にあり、
最も古い部分は今も残っている。城は煉瓦造となり、1865別棟を建てた、
複合化され宮殿となり、1900公園を設けた。1928町の所有となり、1934-36
学校となり、1945東独難民を収容、その後住居・幼稚園・保育所に使われ、
1992-2006に改修され美術館・博物館を開館した。
文化センター Kulturelles Zentrum 宮殿はファッション美術館・博物館・図書館が置
かれ、催物・結婚式・朗読・演奏・演劇の会場となっている。
Mode Museum (2006) 歴史的なファッションも展示、1900-1980のノーブル夫人の
3千点の衣装やブローチ・手袋・杖・傘・下着・靴・ハンドバック塔のコレクション。
Schloss Museum (2003) 2006改装され町の歴史と文化、Lohr家の経緯。
町教会 Ev.Kirche Stadt Meyenburg (15c) 祭壇付近は最古の部分で1749と
1893に建て替えを行った。1848-50の塔はネオゴシック煉瓦造で独立している。
2005-06本堂の外郭の改修、2008塔外壁・屋根・時計のダイヤルの補修。
公会議建物 Katholische KircheGemeinde 2階建て煉瓦造の建物が郊外に
あり、今は地方青年の家「聖ポニファティウス」たなっている。
聖モリッツ教会 | 火薬塔 |
ベルリン門 | 北東壁 |
北西壁 |
1307 辺境伯ヘルマンはトイピッツ領の森林伐採権を町に与えた、辺境伯は国境の重要
性から楕円形3街路方式の町を建て、野石の市壁と二重土堤と堀で守った、
1315 辺境伯ボルディマーは伐採権を拡大、 1369 町は鋳造権を得て刻印した、
1356 辺境伯ルードヴィッヒはユダヤ人を受入れ、 1375 町は市庁舎と裁判所を得た、
1393 強盗・騒乱者に対し中マークの町が同盟、 1430 辺境伯ヨハンは伐採権を調停、
1441 選帝侯フリードリッヒ2世は町特権を更新、 1473 司教は町の大火災を報告、
1549 選帝侯ヨアヒム2世は豊かな町から400グルテンを6%の利子で借金した。
1562 町は400グルテンを6%の利子で二重都市ベルリン・コルンに貸した。
1577.1598 ペスト来襲で大勢が死んだ、 1587.1617 不作と高騰で大飢饉発生、
1618 30年戦争の略奪と破壊で町は壊滅、 1645 住民の家は245戸が45戸へ。
14c初の市壁は通りの名前で市は明らかであるが、保存と復元がなされて
いないので確認は難しい。北側に20+40m、南西側に40mが残ると思われる。
ベルリン門 Berliner Tor (14c) 北、前門のみ残り内門とツインガーは無い。
火薬塔 Pulver Turm (14c) 北、高さ25m直径8.45mの石造円塔でベルリン門
の内側に建つ。
ドイツ東方拡大時に、シュプレーの森の中心に、3街路の楕円形の町を設けた。
その南北口のベルリン門と火薬塔・中の聖モーリッツ教会が聳えている。
聖モリッツ教区教会 Pfarr kirche St.Moritz Kirche (13c) 初めは野石造であ
ったが14c煉瓦造星形円蓋のある3身廊ゴシックのハレン教会となった。1514アントワープ
飾りの彫刻祭壇がある。1860-61に新ゴシックに改装された。
郷土博物館 HeimatMuseum Mittenwalde (19c) 町の歴史と文化を展示する
郷土博物館で、昔の黒い台所・人形部屋を見られる。
聖マリエン市教区教会 | ヤーンヘルド宮殿 |
ベトリン門 | キュストリナー門 |
市壁 | 市壁 |
1225 ヴィロッツワクのシトー派修道士は修道院を設立、1272 王ヘンリーの文書に初言及、
1233 教王の寄付文書で言及、 1245 ポルスラフ侯爵の市場権を授与、
1319 2門と高さ7mの市壁を建設開始、 14-15c 重要な市場町の地を確立、
1348-62 二つの税関が設けられた、 1432 フス派は門・教会などを破壊、
1472-1639 貴族プフェエルは町を所有、 17c30年戦争・疫病・火災で人工1/3、
17c アルンスタインの絶滅後ブランデンブルク選帝侯が所有、1688ブランデンブルク軍の駐屯地に、
17c後半 町は回復し郵便の主要駅へ、 1699 仏移住者が40世帯転入、
1787 火事で町の2/3焼失後、フリードリッヒ・ウイリアム2世が1803に単一の都市計画で再構築、
1945 2次大戦で旧市街地は殆ど破壊。
14cの市壁は、まだ高さ7mのままで、南東部を除いて約8割が残っている。
各門は、跳ね橋と前門を備え、市壁と堀を巡らせたシステムで町を守った。
ベルリン門 Berliner Tor (1319) 初期に火薬庫と刑務所として使われたため
火薬塔とも呼ばれた。地下室の壁厚は1.8mある。20cには車道と歩道の
アーチ門が付けられた。
クストリアー門 Kustrier Tor (14c) 塔頂にコウノトリの巣があり、コウノトリ門とも呼ば
れた。円塔型で石の基礎に上にレンガの円塔が立ち、円錐屋根を付けている。
防御塔と刑務所として使われた。
町は市壁で囲まれているが、二次大戦の戦災で見るべき建物は少ない。
市庁舎 Rathaus (1692) 1641の火災後に1692市庁舎は再建された。二次大
戦の後に、2階建L字型の建物が建てられた。
聖マリア市教区教会 StadtPfarrKirche St.Marien (13c) 中世からのゴシックの
建物で、二次大戦で塔も壊され、1992ささやかな回復を行い、1997再建
された。50mの西塔の展望台からの眺めは素晴らしい。
ジャンスフェルド宮殿 Schloss Jahnsfelde (15c) 貴族プスエルは1449-1945にここ
に住んだ。建物は2階建木組石膏塗りで、部分的には1680丸天井の部屋
もある。1831新古典の砂岩の学校は、入り口部分がやや中央突出ている。
ジャンスフェルド宮殿教会 Schlosskirche Jahnsfelde (13c) 中世の中核となる
建物で、西塔のある長方形の石造建築である。1999-92総合的な修復、
窓の改造西側門の設置が行われた。
市庁舎 | 郡庁舎 |
狭い家 | 聖ヤコビ教会 |
1186 ブランデンブルク司教の文書で初言及、 1292 町は都市憲章を授与された、
1317 市場権を授与された、 1414 盗賊男爵の復讐で町は大火災、
17c 30年戦争でスエーデン・ブランデンブルク軍占領、 1767 今の地区事務所の場所に兵舎、
1800 プロイセンに属した、 1815-60のドイツ連邦で、1826から郡庁になった。
道の名前として、MauerStrasse、WallGasseがあり、18cには旧市街地の要塞
に上に、街路や建物が建てられた。西側のMauerStrasseの一部には、市壁の
痕跡がある。
給水塔 Wasser Turm (1898) 旧市街の北西の市壁外に立つ塔で、1980年
代に給水は停止され、2002民間に払い下げられ、今は記念構造物に指定され
2005には居住目的に改造された。
旧市街地には、大通りに面して独特な様式の大レンガ構造物が立ち、小規模の
住宅や商店の木組や漆喰塗の建物とのコンストラストが面白い。旧市街地に普通ある
マルクト広場はなく、幅広いマルクト通で代替えしている。
市庁舎 Rathaus (1988-91) 北ドイツ・レンガ造のゴシックの建物で、市長のアパートの
1891の家賃は給与の1割であった。1911強風で尖塔が落ち屋根が壊れた。1992
前面を改修し、2008窓と中庭側の壁面を更新し、元の色彩に改修された。
市情報と市民庁舎 Buergerbuero und Stadtinfomation (1822)木組の建物は
1985-89に改修され市博物館になり、昔の手工業と農業用具を2001まで展示し
た。2005再建され市情報とコミュニティ館となった。市庁舎との間には旧消防署が
あったが、今は文化事務所である。
市庁舎広場 Rathaus Platz (1891) この広場は、今の市庁舎の建設に併せ
市壁の南西の外側に建設された。1892-1946ウイリアム1世記念碑は広場に存在し
た。広場の南にシナルシュ家の住宅兼店舗がある。
郵便局 PostGebaeude (1893) 北ドイツレンガ造2階建の個人郵便局を1920帝国
郵便局が引き継いだ。1924長距離通話施設が導入された。建物の背後にある
近代的の建物は1980の通信局であった。1990郵便局は閉鎖された。
旧図書館 Ehem.Bibriothek (1648-49) 北ドイツ・レンカ造の教会のホールとして建
てられたがペーター・パウロ教会の建設後はカトリックの女学校になった。図書館とし
て使われた後、21c初に建物は売却され、改修されて住宅となった。
カトリック教会 Kath.Kirche (1906) 当時カトリック教徒の多くは軍人であった。
1894には教区教会になり、21cになると礼拝堂が狭くなり、1906ネオロマネスクの新
しいレンガ・バジリカの教会がピーターとパウロの捧げられた。
聖ヤコビ教会 St.Jakobi kirche (13c) ゴシックの教会で長方形の塔の基礎は
12cに遡り、かっては防御塔であったものが教会となった。1695火災後に後
期ゴシックで再建され、高さ55mの塔は1707-08に教会となった。1991-94塔は大
規模な改修が行われた。
ケーテ・コルビッツ小学校 Koethekollmith Gurundschule (16c) 1541に学校の記録
があり、1695の火災の後に再建され、200年使われて取り壊され、その跡地
に1869三階建レンガ造の小学校が建てられた。2004女子学校として改修された。
地区事務所 Landratsamt (1) 市役所広場の北側に1826-1993ナウエン郡の庁舎
があった。1889地区事務所は西に拡張された。最初の建物は20cに解体され新
し古典的な建物になった。1925には3-4階建の大きな建物に拡張された。
ゲーテギムナジュウム Goeth Gymnasium (1916) ゲーテ体育館は、戦時中は軍事病院
として使われ、1948学生が使用し1979焼失した。4階建で再建に拡張された。
フォンタネハウス | 教区教会 |
北壁 | 北東壁 |
南西壁 | 南東壁 |
1215 アルバート・ベアはアルトルッピンに城を構築、 1238 アルトルッピンとして文書初言及、
1246 アルンスタインはドミニコ会修道院を設立、 1256 アルンスタインはシュタンデール都市法を授与、
13c 町の防御は柵と外堀によって行われた、14c市壁・24Wiekhauser・2高塔で強化、
1524 アルンスタインの絶滅後ブランデンブルク選帝侯が所有、1688ブランデンブルク軍の駐屯地に、
1787 火事で町の2/3焼失後、フリードリッヒ・ウイリアム2世が1803単一の都市計画で再構築、
1945 2次大戦は殆ど無傷で赤軍が10年間駐留した。
12c木柵、13c防備された市壁、15c中世市壁の完成。中世の町は約2.0×
0.7kmの長方形で、東南にルッピン湖に接している。
北・東・南に3門あったが、今は残っていない。
小説家テオドール・ホンターネの出生地で生家がある。1787の大火の後に煉瓦造の建
物が計画的に建てられた。2次大戦を生き延び1990から歴史的建物の改修を
行っている。
教区教会 Pfarr Kirche (1801-06) 以前の教会は1787の火災で焼け、取り
壊して新築され1806に奉献された。建物の構造問題で1991-2002に大改修が
行われ、今は文化センターとして、1787の火災の説明・会議場・祝祭場・演奏会等
に使用。
聖三位一体修道院教会 KlosterKirche St.Trinitaetis (1246) ドミニコ会修
道院ルッピンの教会であり、他の部分は存在しない。19cに教会の再建が行わ
れ、塔も1900-07に建てられ、登ると湖が見渡せる。教会は礼拝が行われて
いる。
古い学校 Altes Gimnssium (1790) 旧市街の中心的な建物で、古いグラマー
スクールはバロックの宮殿の複合体の間取りを持ち、ネオゴシックの外観を持つ。古い
体育館は地域の知識センターとして使用されている。
フォンターネの生家 Fontane Haus (18c) 科学者テオドール・フォターネは、1819にここで
生まれた。両親はベルリンから来て薬局を購入し2階に住んだ。1826父が賭け
で負け薬局は売却され、家族は近くのアパートに移った。今も生家は3階建て
の薬局。
説教者未亡人の家 Prediger Witwen Haus (1735) この町で死亡した聖職
者の夫人や子供の家で、家族の生計のために設けられた。復元された3階
建ての木組みの家である。
市博物館 Museum Neuruppin (1790) 市長の邸宅として建てられ、新古典
主義2階建ての建物に市博物館が置かれ、先史と初期の歴史・町の歴史・フレテ
゙リック2世・シンケル・フォンターネ・漫画新聞・19cの芸術家・アートとクラシック等を展示。
市庁舎 | 市博物館 |
市民の家 | 防衛塔 |
12c 街道沿いに楕円形の集落存在、 1239 ブランデンブルクの都市権授与、
13c ヨハネス・ガンスの死後町はブランデンブルクへ、3門の市壁を建設、
1303 ハンガリ連盟加入造船しハンザに輸送、1358 ハンザ同盟に加入、
15c 町は裕福な全盛期を迎えた、 1448木製ローラント像、1546砂岩造に、
1539 改革の導入、17c ペスト初流行、17c 戦争で人口1/10、回復200年後、
1724 プロイセン騎兵隊が駐屯、 1612 3番目の大火事で半分焼失、
1631 ザクセン軍の占領で疫病、 1806-07 仏軍略奪と金要求、火災、
1817 地区の町に属した、 1821 大洪水で町は浸水、
1860 プロイセンの駐屯地となった、 1993 大洪水。
3-14cの市壁は、旧市街地を取り巻く堀の内側に高さ6mで建てられた
が、僅かしか市壁は見当たらない。
市壁には3門と32壁塔があったが、1830に門は壊され、今は西北端のAm
Wallに四角塔が唯一残されている。
壁塔 MauerTurm (14c) 3階建レンガ造四角錐屋根の四角塔がある。
旧市街地には、北ドイツ・レンガ造の公共建築物があり、広大なマルクトには自
由の象徴としてローラント像が立ち、大きな建物が囲んでいる。動物公園や4つの
美術館がもある。
市庁舎 Rathaus (1347) 今の市庁舎は19c後半の後期と新ゴシックの二つ
の要素があり、西部はゴシックレンガ造・外側には7階建ゲーグルの7つのバットレスが
ある。2階は裁判所があり、その後郡図書館を収容したが、今は結婚式場で
ある。3階には評議会と貯蔵庫があった。地下室は保管庫で、昔はラッツケラー
であった。1836に東部は取り壊され、レンガで3階建に置き換えた。
ローラント像 Perleberger Roland (1408) 旧市場の正面にある大市場の北
東に位置し、最初木造で、1546に砂岩で建てられた。高さ4.26mの像は地元
の石工が刻んだ。
聖ヤコビ教区教会 Pfarrkirche St.Jakobi (1294) 三身廊ゴシックのハレン教
会で、3段階で建てられた。最も古いのは塔の基部であり、1361高い内陣が
建て始められ、1430-50身廊は第3段階として建てられた。1851-54内部が調
査され改造が行われた。1913-14と1997-99に聖堂を包括的に改修した。
壁の建物 Wall Gebaeude (1310) 12cに既にスラブの城壁があった。人工
的な水路が周囲を取り囲んでいた。1317の文書では、ガルデマール辺境伯は2階
建上階木組の市評議会の建物を寄付した。14cにはその建物は住宅に転用さ
れ1852までに周囲の水路は埋められた。その後武器庫や学校として使われ
た。今は、図書館・レストラン・案内所・地区女子高校・博物館である。
馬の水飲場 PferDestiwemme 川底が浅い所が馬の水飲場であった。
1871-90この町に駐屯した槍騎兵連隊のために水飲み場は配転され、2016に
整備された。
旧郵便局と通信局 Ehem.Post(1894-96) und Telegrafenamt(1945)
帝国郵便局は2階建で、2階には郵便局長の住居があったが1899長距離通信
接続所が置かれた。電信局は1925カールマルクス通りに移った。
画家の仕事場 Malerwinkel() 木組の家は古い町の重要なアンサンブル。
町と地域の博物館 Stadt und Rogional Museum (19c) 2階建木組の建
物で、1803-1907市立高等女子学校を収容した。そのご農業冬期学校となり
1931には、この記念物の建物に190設立の博物館が移設された。
映画館 Kino (1912) 劇場連盟が1912映画館を開業した。1930からトー
キーになり、1936映画館は移転して家具屋の倉庫となった。1966市が建物を
引継ぎ改修して、再び映画館となった。
ローラント学校 Polant Schule (1912) 1949まで男子校であった。その後
女子を含め共学となり学校給食をおこなった。
旧市粉引場 Ehem.StadtMuehle (14c) 市内の3つの水車の内最古の物
である。1998まで稼働し、3階建の建物は健全化された。
ホテル・ドイツ皇帝 Hotel Deutscher Kaizer (1847) 南東の旧市門のすぐ
外の3階建建物で、美しい内装と歴史的な大広間は今でも美しい。
ロッテ・レーマン学士院 Rotte・Lehman Akademie () 3階建の角の建物で、こ
こで未来のオペラ歌手が世界的に活躍できるように準備した。
聖ペーター・パウル教会 | 新人門 |
ブランデンブルク門 |
993 皇帝オットー3世のクベトリンブルク修道院への贈与証書に初言及
1157 町を征服しブランデンブルク辺境伯領とした、 1317 町の城を言及、
1345 都市権を授与された、 1416 ホーエンツオーレルン家が1918まで所有、
17c 30年戦争と2つの大火災で町は荒廃、1660選帝侯ウイルヘルムは宮殿・都市を拡大、
1655 2万人のユグノー難民が移住技術伝承、1745フレデリック大王はバロック街・新宮殿を、
1806 ナポレオン軍が占領、 1918 プロイセン最後の皇帝はオランダに亡命、
1945 第2次大戦の空爆で大被害、4月赤軍の占領。
駐屯都市として市壁を備えた、それは防備のためではなく、兵士の脱走や
物資の密輸を防ぐために使われた。 1718にヴィルヘルム1世が初めて境界壁を
建てた。
今も市壁は僅か残されている。
ブランデンブルク門 Brandenburger Tor (1770) 7年戦争の終了後、勝利の
記念碑的な建物に置換えられた。1900市壁が取除かれて門塔は自立した。
イエーガー門 Jaeger Tor (1733) 最古の門で北側の出入り口に立つ。田舎風
の橋脚は漆喰レンガで、王冠は砂岩で造られた。1869市壁が取り払われて自
立し、直線梁・王冠彫刻群・柱で構成されている。
ナウエン門 Nauener Tor (1722) 都市の拡張時に建てられ、1733第2の門は20
m前に2次バロック拡張時に建てられ、1755第3の門はネオゴシックの双門7アーチの大き
な門であった。今の形は1862-69に再建された。
残っていない門 Teltower tor:長い橋の南端にあった。
Berliner Tor:1945に側璧のみ残して全壊した。
Neu Staedter Tor:個別のオベリスクのみ残された。
バロックの建物が多い旧市街地と、その西の広大な公園の中に、サンスーシー宮殿・
オランジェリィ・新宮殿・シャルロッテンホーフ宮殿等の見所が点在している。
サンスーシー宮殿 Schloss Sanssouci (1745-47) 階段テラスの上に、フリードリッヒ
大王はロココの夏の離宮を優雅に建てた。控えの間・図書館・寝室・執務室・音
楽室・謁見の間・大理石の間・客間・新広間に見事な装飾がある。
新宮殿 Neues Palais (1763-69) フリードリッヒ大王は7年戦争後に、バロックの
壮麗な建物を短期間で建てた。幅213m、部屋数400、過剰な装飾で大理石
の間・楕円形の間・上階大広間・劇場などの部屋がある。
シャルロッテンホフ宮殿 Schloss Charlottenhof (1826-29)イタリア古典主義の建物。
オランジェリィ Orangerie (1851-60) イタリア・ルネッサンスの300mの宮殿で、今は国立
古文書館である。
市会館 Stadt Haus (1902-07) 130*105mの平面で、478の部屋がある。
1945までは政府の出先であったが1947地区協議会の都市評議会を収容し、
1955市庁舎となり、ゴシックの図書館・大会議室・商工会議所も収容している。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1858) 新設の古典主義の教会で、
ギリシャ十字の平面に半円形の後陣がある。
聖ペーターとパウロ教区教会 PfarrKirche St.Peter und Paul (1867-70)
カトリックの教区教会で、イタリア風60m鐘楼のある煉瓦造の建物。
フランス教会 Franzoesische Kirche (1752-53) フランス改革派の教会で、ローマ
パンテノン風の前面柱列の建物で、2次大戦を生き抜いた。
旧兵士孤児の家 Ehem.Grosse MilitaerWsisen Haus (1724) ウイリアム1世は
兵士の孤児の教育研修所として寄贈した。今の建物は1771-78後期バロック
の5階建ての大規模になった。1999-2003改装された。
旧衛兵詰所 Alte Wache (1795-97) ヴィルヘルム2世は元連隊の詰所を贈っ
た。第2都市拡大後の中央詰所となった。その後古典的な柱列の建物に
変換された。今は銀行として使われている。
地方裁判所 Land Gericht (1880-83) 独生活・年金・互恵年金保険会社
の設立20年後に新総局ビルとして建てられた。1918生命保険や火災保険
会社が使い1945没収されて市議会・国家財政局が使い、1952地方裁判所
・検察官・地区国家公証人の建物となった。19504階部分が削除され、
1992-95改修され地方裁判所。
簡易裁判所 Amt Gericht (1880-83) 王室地方裁判所の前面にはフリード
リッヒ2世とヴィルヘルム1世の彫像が立っている。民事と刑事の裁判のための3
主広間と45室が設けられ、1952-90には国家保安局が使った。1993簡易
裁判所が移設され、前面・主階段・大広間が復元された。
司令官の家 Kommandanten Haus (1733-37) 高天井5.02mの煉瓦造の家
でポツダム連隊の司令官が住んだ。1809市議会、1818-20市裁判所と拘置
所、1907-09再建され、1935遺伝健康裁判所、1945ソ連秘密警察、1953
東独国家保安室
自然史博物館 Naturkunde Museum (1770) エステートの家は、1945戦災で
被害を受け何度か修復され、ブランデンブルクの野生動稙物を展示している。
野生動植物の過去と現在・庭の動物・水族館等が在る。
フィルム博物館 Film Museum 旧王室厩舎にポツダム映画博物館がある。
ブランデンブルク・プロイセン歴史館 Haus der Brabdenburgisch-Preussische
Geschichte 元王室馬車庫に、プロイセン900年の歴史を展示。
ポツダム博物館 Potsdam Museum-Form fuer Kunst und Gerichite 旧市
庁舎に2012市の美術と歴史を展示。
市庁舎・石門 | ブリンドウア門 |
門塔・聖マグダナのマリア教会 | 北壁東 |
北壁西 | 南壁 |
聖マリア教会 |
1187 最初の文書言及、 1234 ポメラニア侯爵は都市権を授与、
1250 ブランデンブルク選帝侯はライデン条約で全ウッカーマルクを与えられ、壁・柵・堀を建設、
1287 町は防護権を得て、高さ8-9mの石造市壁を2.6km築いた、
1426 最終的にヴィッテンブルク領へ、 1465 町はウッカーマルクの首都になった、
1495-96 ローラント像がマルクトに建てられた、 1539 宗教改革の導入、
1618-48 30年戦争の略奪・破壊で人口14%に,1867 駐屯地の町となった、
1687 仏ユグノー教徒が移住、 1724 新庁舎一年遅れ警察署建設、
1806 ナポレオン軍にプロイセン兵は降伏、 1945 第2次大戦で町の85%破壊。
13cの市壁は広範囲に野石の上にレンガで改装されている、
石門 Stein Tor 南、SchwedterTorとも展望台ともよばれる。
黒鷲 Blindower Tor 北東、
中門 Mittel Tor 西、
水小門 Wasser Pforte 西南、
魔女塔 Hexen Turm 東北、
火薬塔 Pulver Turm 東、
壁間小屋 WiekHaeuser 。
下ウッカー湖の北に、縦長の市壁で囲まれた町が有り、2次大戦では大部分
が破壊されて、主要な建物は復元されている。
聖ザビーネ教会 St.Sabinen Kiche (1250) 町で最古の教会で1291から
ベネディクト会修道院が含まれた。1543教会は改修され、修道院は世俗化さ
れ1861町の財産となり修道院は完全に消えた。
旧聖ニコライ教会 Ehem.St.Nikolai Kirche (13c) 町で最古の教区教会で
入植地の教会であった。30人戦争の宗教的理由で1626に放置された、後に
砂漠の教会と言われ、西翼の門塔のみが残る。
聖ヤコブ教会 St.Jakobi Kirche (13c) 農業入植地に2番目に古い教会
として建てられた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1235) 広い西塔を持つ3身廊のホール教会
として始まり、1289-1340ゴシック煉瓦造の中央教会を建て教会本部となった。
14-15c礼拝堂が拡張され、16cから北塔68m、18cから南塔64mが付けられた。
1945-70に改修された。
旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franzikaner Kloster (13c) 修道院は1240-50
と1536-50に世俗化され、1735に取り壊された。教会は13cに建設を開始し、
14cに円天井が付けられた。1774荒廃のために販売された。
旧ドミイニコ会修道院 Ehem.Dominikaner Kloster (1275) 初めに教会の建
設が始まり、1343に献堂された。1544世俗化後に、貧しい人のための病院
として町に引き渡された。1577ニコライ教会が教区教会となり、旧修道院は大
部分が保存されて、2000文化センター・文化史博物館・図書館・公文書館・美術館
になった。
聖マリアマグダレナ教会 St.MariaMagdarena Kirche (1892) ナオゴシックのカトリック教
会で、1945に戦災で破壊され1954に再建された。
聖霊礼拝堂 Heiligegeist Kapelle (1320) 門の前にある病院の礼拝堂
として建てられ、17cに住居用に改造された2階建ての建物で、その後礼
拝には使用されていない。
旧ニコライ教会 Ehem.NIkolei Kirche 旧兵舎と住宅に囲まれて、中庭の中
央に旧ニコライ教会が再建された。
市庁舎 | 聖ニコライ教会 |
北周壁 | 北東壁 |
北東壁 |
1200 貴族領主ガウスは荘園を置いた、1256町を創設し町・市場の権利を与えた、
1339 ハンザ同盟に加入、 14c 直轄都市となり、野石の市壁を築く、
1364 辺境伯は関税特権を授与、 1414-38 ブランデンブルクとメクレンブルクの紛争、
1539-1638 ハンザ衰退、9疫病、戦災、 1618-48 30年戦争とペストで人口減、
1686 駐屯地となり、 1733-1806 プロイセン騎兵連隊駐留、
1779 布やビール生産、 1821 大火災で焼失し再建された、
1806-08 ナポレオン軍の占領、 1945 2次大戦で空爆被害、赤軍進駐。
14Cの市壁は町の北東部に150m残っている。市壁と見張・防御円塔は層状
の野石で築かれ、18cまで土堤・水掘・市壁で構成する印象的な防御施設を
持っていた。1738土堤が取り払われて平らにされ、1821の大火災後の10年
間に塔と壁は取り壊され、資材は他の建設に充てられた。旧市街を取り巻
く市壁の位置は、緑地で残されている。北外側に20mと15mの石積で囲まれ
た稜堡ある。
古くは3門(Kemnitzer-、Perleberger-Buchholzer-Tor)あったが壊された。
壁中塔は北東に円錐屋根の半円塔が一つ見られる。
旧市街には、煉瓦造と木組みの家があり、ニコラス教会の高塔が目印となる。
市庁舎 Rathaus (16c) 初期の建物は1821の大火で破損し、1829ルネッサンスの
市庁舎が建てられた。古典的な漆喰の建物で、3軸上切妻の9窓である。
その後一時的に地方裁判所・貯蓄銀行を収容した。1996-98改修され今は市庁
舎・議場。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1230) 古い教区教会は火災で破損し、再
建や拡張が繰り返され唯一塔が残った。1539に宗教改革で新教となった。
1821火災で破損し、1828に3身廊こうきゴシックのホール教会で再建されたが塔は
低かった。1882ネオゴシック煉瓦造の高塔が付けられた。戦時中に供出した鐘は
1954に奉献され、1250のオルガンは1976再建された。
カソリック教会 Katholische Kirche St.Anna (1905-06) 初めの礼拝堂は、
1945空爆で駅に止まっていたV2が爆発し被害を受けた。1963身廊の改修
が行われ、1970には祭壇が奉献された。
市と醸造博物館 Stadt und Museum (1954) 旧醸造所の空間に、町と地域
の歴史と醸造技術の展示がある。
印刷所博物館 Museum Druckerei Streckenthin (1906) 古い納屋を改装し<
て、古い印刷技術で仕事のできる工房を設けた。100年前の歴史的活版印刷
を今でも作業できる。
聖マリエン市教区教会 | 東市壁 |
簡易裁判所 |
12c スラブ砦の城壁と厩舎があった、1216 ブランデンブルク司教は村を所有した、
1220 ロマネスクの教会が建てられた、 1295 オットー4世は都市権を授与した、
1648 30年戦争終了時には住民は40人、 1674-75 スエーデン軍が町を侵攻した、
1675 ブランデンブルク軍は町を奪還、 1801 眼鏡レンズ工場設置、
1816 プロイセンに属した、1828 地区事務所を設置、 1860-20 煉瓦工場の稼働、
1945 赤軍との戦いで町の75%が破壊された。
13cの市壁は島の旧市街地を取り巻いていたが、戦乱と1945終戦時の赤軍
との戦いで、75%が破壊された。レンガの市壁で今も残るのは、東Am Schleussen
Kannalに160mと、南西Vor den Mhehlen torに100mである。
見当たらない。
旧市街の南側のKirchPlatzの周辺には、2次大戦を生き延びて2010年代修
復された木組の家が幾つかある。旧市街地には、2次大戦での破壊後に建て
られた戦後の建物が支配している。
・
聖マリエン アンドレアス教会 Pro. St.Marien Andreas Kirche (13c) 後期ロマネスク
に建てられ、15cト16cにレンガ造3廊のホール教会に改築された。1945に大被害を
受けて建て直られた。1380の翌祭壇が残されている。
新旧市庁舎 | マルクト広場 |
アドラー薬局 | 裁判所 |
11c ドイツの東方開拓で城と町を開設、 1279 町はドブリルクフ修道院に売却、
1304 ブランデンブルクが一時所有、 1368 ボヘミヤが所有した、
1423 最初の評議会で4地区統治、1448ヴュルテンブルクに売却.その後400年間ザクセン、
1509 大火事で教会以外は全焼、 1532 宗教改革を導入、
1509.1592.1425.1530.16488.1670.1717に大火事、 1567.1630.1814 疫病流行、
17-18c 30年戦争・北方戦争・7年戦争で町は荒廃、1815 ウイーン会議でプロイセンへ、
1860-1920 褐炭採掘で町は盛況。
市壁は東西ある市門を繋いで旧市街地を取り巻いていた。16cから19cに
かけて、一部にルネッサンスの要塞があり、18cに近代化された。要塞には城壁・城
・武器庫・宿舎・砲台・火薬塔などがあった。1642選帝候は市壁の一部を取崩
した。市壁らしき物が残るのは、北東部に20mのみである。
東 KreuzTorは1848に撤去され、西 SchlossTorも見当たらない。
市壁には、南に2と西に1の半円塔があった。
火薬塔 Pulverturm in Burg Senftenberg () 城の中にある2階建円錐屋
根の円塔。
市庁舎 Rathaus (1512) 1641と1670の火事で初めの市庁舎は壊れ、
1717に新たな市庁舎も壊れ、取り除かれて小さな飾り気のない建物となっ
た。1929の市庁舎は屋根が72.7度と急勾配であった。1998にマルクトの南の緑
地に大きな市庁舎を新築し、ブランデンブルク建築賞が与えられた。
聖ピーター・ポール教会 St.Peter und Paul Kirche (13c) マルクトの北東に立
つ、15c北東部に正方形の聖域が追加され、16cに今の姿が完成した。
1509.1641.1717の火災で身廊.主塔も壊れ、毎回選帝侯の免税と市民の寄付
で再建された。17cと18cに改修され、1992には塔の低いサドル屋根の上に時
計の付いた尖塔を付けて高さは60mとなった。1945の戦闘で塔は破壊され
1951-58にフードなしで塔は再建された。教会は長さ44m.幅18m.塔高28m。
聖ピーター・ポール教会 St.Peter und Paul Kirche (1924) 北1kmに、亜炭鉱
業の発展に伴い、キリスト教徒の労働者が増加し、1893暫定教会.1898教会が建
設された。教徒の急増で1924横通路を含んで拡張された。1945に損傷し
1954-57にに再建された。
聖ヴィンディッシュ教会 St.Wendische Kirche (1540) 宗教改革の後にソルブ
語の説教を行うために建てたが、何回も火事で焼けては修復された。
今の建物は1749に建てられ老朽化した1834まで使われた。1881に改修され
1993再び改修された。2003社会文化センターとして使われ、2010以降は
ソルブ語の礼拝が行われている。
アドラー薬局 Adler Apotheke (1902) マルクトの北側にある堂々たる4階建
地階3アーチ上階7列窓のの建物で、前面には動物の豊かな装飾がある。
この町最古の薬局は1680から存在した。
ノイマルクト Neumarkt (2004) 旧市街地の円の外側に、大駐車場.人工河
川.遊び場.噴水彫刻などがノイマルクトとして整備された。
聖マリア昇天教会 | 市庁舎 |
西南壁 | 西壁 |
西壁 | ベアリスキィ・パビリオン |
1230 ブランデンブルク辺境伯は城と村を所有、1265商人・職人・農民が入植、初言及、
1284 ブランデンブルクとポメラニアの和平締結、 1323-34 町はポメラニアの所有となった、
1334-54 ブランデンブルク辺境伯が所有、 1354-68 ポメラニア侯爵が町を取返した、
1468 最終的にブランデンブルク領となった、 1480-1609 ホーエン家の侯爵が町を購入、
1609-60 ブランデンブルク選帝侯に、 1618-48 32回略奪・疫病1500→280人、
1670-89 選帝侯は都市計画で城や町を構築、1681大火災、1685 ユグノー移民定住、
1700 駐屯地の町となった、 1719-71 選帝侯はバロックの街を計画、
1768 ブランデンブルク第2連隊の駐屯地に、 1788 最後の侯爵の死後プロイセンへ、
1807 ナポレオン軍は町を占領した、 1855 大洪水で町は浸水、
1860 町に13の煙草工場があった。 1945 2次大戦の砲撃で町の80%破壊。
14c土塁、16c門と塔のある野石の市壁があったが、30年戦争で破壊された。
1736辺境伯フリードリッヒ・ヴィルヘルムは新たな5mを超える市壁を築き始めた。その市壁は
オーデル川前面を除いて450m+600m+450mの範囲を囲んだ。この壁は防衛のためば
かりでなく、駐屯兵士の脱走防止と通関税の確保も目的とし、1736の銅版画に描
かれている。壁の5か所に砲台が築かれ、6大砲が装備されたが、使われず1790に
は外された。1758辺境伯は7年戦争後に市壁建設を促進した。19cにすでに、町は
壁の撤去や切取を決める権利を取得した。1874宴会と戦争の税が廃止され、壁や
門は不要となり破壊が進んだ。20c初めには市街地が北方に広範な拡大が起こり
壁は破壊された。残っている市壁は、殆ど煉瓦造であるが野石の部分もある。
18cの4市門は簡単な壁支柱で、昔からの場所に1875には立っていたが、現
存しない。壁塔も見当たらない。Louis Harian通りの市壁には、2か所の開
口部があり門として扉が付いているが、2011以降に作られた物である。
川から矩形の市壁建設は、1758と遅くバロック化と同時に行われた。終戦の
直前に町の8割が砲撃で破壊された。
地方裁判所 AmtGericht (1898-98) 階段切妻のあるネオゴシックの煉瓦造2階建
ての建物で付属の刑務所の翼は監視するためよく見えるように建てられた。
以前地方裁判所は城に置かれたが、1788ホーエンツオーレルンの後に下級裁判所を含め
てこちらに引継いだ。1871王室の市裁判所となり、1879地方裁判所と呼ばれ
た。1953地方裁判所の上階には、6室の博物館が置かれた。
新教市教会 Ev.StadtKirche St.Katharnen (13c) 平らな屋根の十字型
バジリカで細長い後陣と翼廊があった。1539新教の教会となり、ルター派牧師が
就任した。内部はホーエンシュタイン侯爵マーチンが修復し、1671-1705木塔を石塔に取換
えた。1887の大火で屋根を破損し1887-89に再建されボールトはネオゴシックとなり、
角塔は高さ72mに嵩上げされた。2次大戦で損傷し簡素化されて復旧し、塔
の高さは32mとなった。
カトリック教会 St.Maria Himmelfaht (1898-98) 聖マリア昇天教会は1850駐屯軍に
新教徒が多く、ダンスホールを購入して礼拝堂とした。多角形スレート寄せ屋根レンガ
造の教会で、中には高さ11mの大空間があり、直径7mの大バラ窓の後陣があ
る。1945左身廊に爆弾を受けた。
ベアリスキィ・パビリオン Berlischky Pavilion (1776-77) 辺境伯フリードリッヒ・ハインリッヒ
はベアリスキィの墓を含んだレンガ教会を建てた。1908まで仏改革派教会の礼拝堂
と辺境伯家族の礼拝所であり、戦争で破損し修復された。今は演奏会・催し
会場。
市工場と石鹸工場 StadtMuehle und Thodor Haus SeifenFabric (1857)
スレート屋根のフランコニア木骨造りの上階と装飾的なレンガ造の支持構造とが一体とな
った美しい建築物である。石鹸工場として建てられ、1912製粉工場、1959貯
蓄銀行、1984百貨店・家具店、1981改修後、今では住宅や商業ビルである。
エアメレア貯蔵庫 Ermeler Speicher (19c) 旧エアメレア煙草卸売会社の乾燥貯蔵所
である。千鳥屋根煉瓦造の2階建の建物で、大規模煙草店は、煙草葉の保存
乾燥の機能を有し、装飾性の優れた外観である。19c家具倉庫、1988復元さ
れ町のギャラリィとなり書店や観光協会を収容した。2005の改修後、市図書館
になった。
市博物館 Stadt Museum 2階建ての建物に、石器時代からバロックの街並み
までの歴史と産業の発展について展示している。
市庁舎 | マルクト広場 |
郵便局 | 古い民家 |
クロイッツ教会 |
13c シュプレー川の唯一の橋があり交易発展、13c 瓦礫の市壁が市街地を囲んだ、
1301 チューリンゲン辺境伯とマグデブルク大司教が 町と城の購入契約を結んだ、
1349 シュバルツバッハの貴族が所有者となった、 1360 皇帝カール4世が城を購入、
1497 町を買いマイセン辺境伯が支配、 1556.1604.1646.1671大火事で町は焼失、
1680 町と城はザクセン・メルセブルク公が所有、 16c 陶器・織物・布地の発展で町の拡張、
1738 ザクセン選帝候領へ、 1765 毎年2回の羊毛市場特権を得た、
1815 ブランデンブルクのプロイセン州へ、 1856 蒸気動力駆動機械の導入、
1880 プロイセン機械工業技術学校設置。
最初の防壁は土堤であったが、都市の拡張や市壁の設置で壊された。ヨハニス・ガ
ッセの合流点で柵のある壁の跡が10m見られる。次の14cの市壁はスプレー島全体を囲み、
瓦礫造であったが後にレンガ造となった。良く持ちこたえた市壁は1980年代の建
物によって姿を消してしまった。
西側のHoyerswerderTorとスプレー川のForsterTorの跡には門衛所の痕跡がある。
旧市街は、火災や戦災で歴史的建造物が減少したため、1990から町の景観保全
に努め、かってのルザテノアの真珠と言われた街並みを取り戻そうとしている。
市庁舎 Rathaus (15c) 度重なる火災で何度も壊され建て直された。1705の火
事の後1706バロックで建て直され、1790古典様式で再建され、1899ルネッサンスで建られ
たがバロックの塔は残された。1933-34今の規模になり、近隣の建物を組み込んだ。
屋内は5つの床の高さがあり、建物集合の証拠である。1993-99に2階建完全に統
合られ改装された。
十字架教会 Kreuz Kirche (1509) ゴシック3階建のレンガ造で、最も古いのは13-14c
の部分がある。1705火災でバロックの塔が壊され、1732今の姿で建て直された。
1731-34教会の内外で修復さてた。1897外装の漆喰は取り除かれレンガとなった。
1997-2001一般的な保全が行われた。
ヴェンディシュ教会 Wendish Kirche (1676) 教会広場の北にウルツラ・キットツンクが自費で建
てたが1705の火災で全焼した。1710-35に再建されたが、1834老朽化で古典主義
で建て直された。1992-4前面を保持しながら大改修され、今はクロイッツ教会の教区
事務所である。
日曜日の家 Sontagsches haus(1580)町で最古の家。居住者の名前が付けら
れた。2階建上階木組の単純な建物で、1705に火災を生き延びた。その後大きな
改造が行われず、1970に19cの石膏を除去して木組を露出させ、一部木材を取換
えた。
市民の家 Buerger Haus (20c)簡易な建物を近代的な2階建に建て替えて、今は
観光案内所・パン屋・事務所が入っている。
カファリアハウス Kavalier Haus (1706) ザクセン・メレセブルク公が来客のために建てた。2階建
のバロックの家で、1777レストラン、1855-83郵便局、今は貯蓄銀行。1994改修。
城付属領地の家 Burglehehaus その住民は1826まで税金義務を免除され、市民
権も主張できた。1860から商人が所有し、繰り返し改造され、今は住宅と商店で
ある。
郵便局 Post (1882-83) 帝国郵便局として建てられ、1890電信塔の稼働、2017
崩壊の危機で閉鎖。郵便局の向こう側は旧市壁のヨハネス・ガッセに遺跡がある。
城 Castle Spermberg (1100)ロマネスクの塔のある城から、ザクセン・メルセブルク公は
バロック4棟の複合施設となった。最も古いのは壁厚4mの主塔の下部である。本館の
地階には3部屋に天井がある。1680-1738メルセブルク侯爵時代に拡張され、1738ザクセン
の所有となり1997まで補修が行われた。城内にはニーダーラウジッター・ハイデ博物館がある。
旧市庁舎 | 市庁舎と教会 |
市壁 | 市壁 |
旧郵便局 |
1225 ストラウゼ城が築かれ市が立った、 1240町を設立、1254町は周壁で守られた。
1250 聖マリエン教会、1252 ドミニコ会修道院設立、1329 市庁舎建設、1348 黒死病流行、
1432 フス派の侵攻で一部損傷、 1541 宗教改革の導入で修道院廃止、
1631-33 スエーデンの占領で1638人口22人、 1714 歩兵連隊が駐留、
1806 ナポレオン軍の侵攻、 1863- 鉄道・裁判所・郵便局・フェリーの開設、
1643 30年戦争で413家族→30家族に、 1735 最後の大火災、1817 郡庁所在地、
1945 赤軍の占領。
14cの市壁は、高さ6mまでで24のWiekhaeuser(壁上家屋)があった。
今でも約6割の市壁が残っている。
ランツベルガー門 Landsberger Tor 南にあり1950に取り払われた火薬塔の西
壁の近くにこの門がある。この塔は隣のツインガーに属し、18cに駐屯地の火薬
庫として使われた。この門の断片は新しく建設された市壁になった。。
カイツアー小門 Kitzer Pforte 西の魚地区へのあり、今は痕跡を止めるのみ。
Kietzは13cシュトルベルク城に勤務する人々の集落であった。
ヴィリーツナー門 Wriezener Tor 北のあった門塔で1828までは存在した。
門衛所 Torwarterhaus 東の旧門衛所は修復された。旧ミュンヘンベルガー門の
記念碑である。
800年の町の歴史を示す野石の聖堂であるマリエン教会など古い建物や市壁のあ
る文化公園都市といわれる。
旧市庁舎 AltesRathaus (1339) 1805に破壊されマルクトの西に古典主義2階建
の市庁舎を1819-25に建てられた。2010に再設計され今は図書館と戸籍局。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1250) 教区教会として建てられ、1341-42に
丸天井に改築された。1432火事になり内部は崩壊した。1448教会は再建し丸
天井の内陣・塔の鐘楼を組入れた。1747高さ50mのバロック木製のランタンを付けた。
1815古典的な入口で装飾、1922木製塔の崩壊、1534小さなオルガンは1594本格的
となったが30年戦争で損傷し、1707修復、1773新オルガンの設置。
聖ヨセフ教会 St.Josef Kirche (1923-28) 南西にカトリック教徒が増え、ローマカトリック
歴史主義のレンガ漆喰塗の教会が建てられた。西塔は南北につながり長方
形で特徴のある三角屋根がある。オルガンは1962に付けられた。
簡易裁判所 AmtsGeriht(19c)この場所は城や修道院は既になかった。
全レンガ造3階建の面白い建物が建てられた。
都市農民の家 Ackerbauern Haus () 典型的な木組2階建の中世都市農民
中庭のある住宅。
旧醸造所 AlteBreuhof()この建物は町でも稀な野石造の建物で、最後
の中世的な醸造所であり、レストランとして使われている。
旧郵便局 Alte Post ネオルネッサンスのレンガ造2階建の建物で、今は貯蓄銀行。
市庁舎 | ベルリン門 |
マールトロク | アクティーゼ・ハウス |
火薬塔 | プレンズラウ門 |
南壁 | 東壁 |
東壁 |
1270 ブランデンブルク司教・アスカニアン侯爵の文書に初言及、1287オットー4世村から文書、
1314 初めて町と呼ばれた、 1317 テンプリン条約でブランデンブルクは失権、
1397広域強盗に対抗し都市連合に加入、1479プランサラウの和平で町はブランデンブルクへ、
1539 宗教改革の導入、 1574 町で深さ2mの洪水被害、
1618 大火災で町は殆ど焼失、 1626 ペスト流行、1627 30年戦争の略奪、
1643 30年戦争で413家族→30家族に 1735 最後の大火災、1817 郡庁所在地、
1944 空爆で町の66%が破壊。
古い木柵から1300の市壁は高さ7m延長1.7kmの石積とし、死角を無くすた
めに楕円形とし、20-30m間隔に54のWiekhaeuserを築いた。市壁は氷河の
石を集めて構築材料とした。 1990から市壁は修復されている。
1300の市壁には3門があり、その他の門は後の時代に設けられた。15c前
門側にツインガー壁が延ばされた。1866夜間閉門が無くなり、1960交通障害で
市壁が開けられた。2010の改修後に、門と前門との間はそれぞれ市博物
館が収容された。
ベルリン門 Berliner Tor (1300) ゴシック煉瓦造4階建ての門塔で一部石積も
見られる。4階には自然博物館が入り、遺跡・自然保護区・生物保護区・湖
の美しい環境や貴重な生息地が展示されている。
プレンズラウアーベルク門 Prenzlauerberg Tor (1300) ゴシック煉瓦造切妻付大アーチ
で前面の模様は美しい。前門とツインガーと塔の両側には歩道が在る。1953か
らウオッカーメルク民俗博物館が設立され、農業の発展についての展示がある。
粉挽門 Muehlen Tor (1300) ゴシック煉瓦造3階建て帯状の棕櫚の葉の飾り
を付けた切妻に小塔が8本立った塔で、北側の市壁は道路で切れている。
火薬塔 Pulver Turm (15c) 火薬の貯蔵のためにWiekhaeusは拡張強化さ
れて円錐屋根の円塔である。
梟塔 Eeulen Turm (1300) 野石で造られた円塔で監獄として使われ、民
間ではHunngerTurumとも呼ばれた。高さ6mに戸があり絵画が飾られている。
楕円形の小さな町で、高さ7mで3門と多くのWiekhausのある市壁が保存され
ている。3門が前門とツインガーを含め良く保存され、それぞれ博物館になっ
ている。
市庁舎 Rathaus (14c) 古いワインセラーから古い市庁舎が在った事が分かる。
1735の火事でか焼かれ、1746-48にバロックで再建され、精巧な漆喰の前面の
3階建ての大規模な建物になった。1855巡回裁判所で時々使われ、1944空
爆で左半分が破壊され、1963-66<元の姿に復元された。1998近代化と修復
2007内装改修され、今は登記所・高齢者センター・地下に観光案内所を収容。
マグダナのマリア教会 MariaMagdalenen Kirche (14c) この場所に在った最
古の教会は1492の火事で焼かれ、その後再建された。現在の建物は中世
の古い基盤の上に建てられ、1735火事で塔上部と聖具保管室が焼失し、
1749までかかって元のゴシック身廊を残して再び聖別された。1994のオルガン
で定期演奏会を開催。
聖ゲオルグ礼拝堂 St.Georgen Kapelle (14c) ベルリン門の近くの最古の基
礎上にゴシック煉瓦造の小礼拝堂で、竜との戦いを描いた大きな木彫があ
る。15c建てられた病院の建物はまだ残っている。1735の大火も奇跡的
に免れた。
マールトロック Mahltrog 後期青銅時代BC2000-800年の歴史的な石であり。
その石は穀物の手加工に使われた。
関税の家 Akzise Haus (1768) 旧塔書記の小屋で、19cに通行税が廃止
された後に、住宅として1990まで使われ、1994観光案内所となり、今は
工芸品として提供。
町歴史博物館 Museum fuer Stadt Geschichte Templin 町の歴史的と
文化的な展示。
梟塔画廊 Galerie am EulenTurm 梟塔に絵画芸術の展示。
ベルリン門生活部屋 LebensRaeume in BerlinerTor 生活の部屋の展示。
多文化会館 MultiKulturelles Centrum プレンツラウアー門の前に展示。
市庁舎 | 市塔 |
火薬塔 | 給水塔 |
西壁 | 北西壁 |
1208 オットー4世の帝国文書に初言及、 1217教区教会・メアリ教会・ニコラス教会建設、
1290町となり1296-1306市壁・市門建設、 1346 バイエルン軍の助けで敵を退けた、
1346 バイエルンは町の忠誠で関税を免除、 1565 町は帝国直轄都市となった、
1636 町はスエーデン軍の攻撃を防いだ、 1641 スエーデン軍は町を略奪した、
1648 30年戦争後はペストもあり50人残る、 1716 大火災で町は被害、
1742 町は駐屯地となった、 1806 ナポレオン軍は略奪して通過、
1864 陸軍病院の建設、 1879-1952 地方裁判所が置かれた、
1945 第2次大戦で被災。
1296-1306に築かれた市壁は、高さ8-10m厚さ1.0mの楕円形で旧市街を囲んで
いた。今残っているのは、西北のHinter der Mauer の外側に90mである。
市塔 Stadt Turm (1352) 精霊礼拝堂として、西の市壁の内側に建てら
れ、貧しい職人や旅人のために使われた。30年戦争で荒廃し廃墟で長年残さ
れた。1872記念物となり、1936修複され、教師オスカー・ブラハビークは歴史的な郷
土のコレクションを展示して博物館とした。
火薬塔 Pulver Turm (13c) 北の市壁に火薬塔のみが残されている。塔は
駐屯軍の火薬と弾薬の倉庫として1877まで使われた。今はコウノトリの営巣のた
めのみに使われている。
給水塔 Wasser Turm (1910) 北東の市街地に、高さ42mの給水塔が建てら
れた。水タンクは、直径5m高さ5.75m容量10万リッター。1993改装され記念物。
旧市街地には、見るべき古い木組の建物もある、牧歌的な町。
市庁舎 Rathaus (1250) 初めは商館や倉庫として使われ、その中で職人
が造った製品を販売した。1370理事会と参審員の管理棟として使われ、塔
は1606に時計を付けて再建された。1783バロック漆喰の2階建てに改修した。
1837北側に屋外階段付けられ、地下に食堂、上階に大会議室があった。
1862円形屋内室が付けられ守衛室となった。1991前面塗装と屋根を新しく
した。
聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (1220-60) 南西に、初期ゴシックの十字
バジリカがあり、1519南に円天井の聖具室、1756西に新横断塔をつけた。
1969東の復旧工事でボールトの絵画と後陣の15cの絵画が現れた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1157) 東の端に初め石造で、1234-40煉瓦
造で初期ゴシックの十字型バジリカが建てられた。1370ラテン語学校が併設され、
1500四つの破風のある角塔が付けられ、1806捕虜収容所や倉庫として使わ
れ1811改修後再び礼拝が行われた。1959-65大規模改修で元の雰囲気が戻
った。
吊るし屋台 Hanken Buden (16c) 市庁舎の後ろに、かっての通商と倉庫
であった木組みの建物が在り、この中で職人が製品を製造し販売した。
ギルドハウス GildenHaus (1540) Hanken Budenの中に、古いギルド・ハウスがあ
る。地階は石積で上階は木組みの建物であり、地階には靴職人の作業場
上階はギルドホールがある。
小劇場 Kammer Spiele (1938) 500席の映画館として建てられた。1989
以来信託会社が管理した。
市庁舎 | 石門 |
東壁 | ヴィッテンベルゲ教会 |
983 スラブの反乱が起こり城は破壊、1147ガンス族は侯爵としてこの地を支配、
1170 城と入植地を造り柵・水堀で囲む、 1214 シュベリン侯爵は城と領地を占領、
1239 町の初文書言及、 13C オットー1世は石門を木造で造った、
1312 町の特権はオットー1世が確認・更新、 1321 メクレンブルクの所有で騎士を領主、
1337 辺境伯は町を騎士に売却、 1345 辺境伯は町を取り戻した、
1370-77 辺境伯は直属の町とした、 1539 宗教改革の導入、
1624 凶作で飢饉となりチフス・ペスト流行、 1627-38 30年戦争で苦難の時代、
1650.55.58.61エルベ堤防破壊、 1686.1709.57.61大火災の発生、
1706 ガンス家が関税を上げプロイセン王は戻した、 1724 城主と議会の争い和解、
1781 ガンス家支配は終わり城・荘園売却、 1791プロイセンは排水事業費を支出、
1806-12 仏軍占領し占領負担金を徴収、1945 2次大戦の爆撃で被災。米軍進駐。
川沿いの卵型の旧市街地の北東部に50mの市壁が残っている。
石門 Stein Tor (13c) 当初は門の上部は木造であったが、1410の火
災の後の再建で石造となった。警察・裁判所・刑務所として使われた。1926
に市博物館となり、火災・泥棒・町の外観について説明がある。
町は広いが、旧市街は川沿いで小さく、昔の物は殆ど残っていない。
市庁舎 Rathaus (1914-25) 旧庁舎の跡地拡大して歴史主義で建てた。市
議会の大会議室は、町の寓話の絵で飾られ、客室には木の彫刻と貴重なステン
ドグラスの窓があり、紋章は46の窓を飾っている。塔の高さは51m、高さ37.
5mにある展望台には登れる。
新教教会 Evangelische Kirche WIttenberge (1870-72) ゴシックリバイバルで建
てられた身廊は53m*17m・翼廊は20m*10.5mで、2000に大改造。塔の高さは53m
で、1920に3つの鐘を購入、1935のオルガンを設置。2012改修した。
四季の家 Haus der 4Jahreszeiten (1906) アアールヌーヴォーの美しい建物で、
住宅や商館としてつかわれ、白と青のセラミックタイルが使われ、明るい色調で四
季を表している。
市博物館 旧城 StadtMuseum AlteBurg (1669) 30年戦争で壊された後貴
族領主ガンスは城を建てた。町の郊外にあるシンプルな荘園は、19cまで存在し
1971から労働者と産業の博物館置かれ、大改装の後に市博物館「旧城」と
なった。1928-1991の家庭ミシン工場の経緯と職場での人々の生活を説明。
市庁舎 | グレッパー門 |
役所塔 | 市民通小門 |
東北壁 | 東南壁 |
西壁 | 南壁 |
946 スラブの入植地として成立し 、教区ハーベルベルクの教区証書に初言及、
1248 司教ハインリッヒ1世はステンダラー都市権授与、1271-1548 スラブ砦の上に城を建立、
1410 地震、1495大火災、町の大部分を破壊、 1523 最初の町の規則を公布、、
1548 最後の城の司教の死亡、1550 宗教改革後もハーベルベルク司教の支配継続、
1636 30年戦争の戦場となった、 1638 ペストの流行で人口半減、
1716 大火災で町の1/3を再度失う、 1812 ナポレオン戦争中に星形要塞設置、
1945 2次大戦での空爆被害は少ない。
1244煉瓦の市壁が修道院の形式で造られた。長さは、北側の小さな台座を
除いて、市街1999m+建物の壁264m+城172m=2435m、高さ9-11mであった。
市壁には約50m間隔で矩形または半円形のwiekhausが、ほぼ40あった。国
の刑務所の診療所を造るため1/3が壊されたが、1990-96に市壁は高さ4-8m
で、4か所の切れ目を除いて全て復元された。
グレーバー門 Groeper Tor (14c) 旧3門の内唯一残された煉瓦積5階建
の角塔の市門で東側に道路が付けられた。1503四角錐屋根を上げ、1867まで
門扉は夜間閉鎖された。
ダーバー塔 Daber Turm (14c) 煉瓦積4階建ての円塔で円錐屋根がある。
Daber Bachの庭園内にあり、塔内にはパン焼き窯が展示され、パンが焼ける。
役所塔 Amts Turm (13c) 昔の司教城のの一部で1271-1548に司教が住
居として使った。元は5階建ての角塔だったが、後で2階分と屋根が付け足
され、32mの高さとなった。今は30年戦争の博物館である。
復元された新しい煉瓦の市壁で囲まれた町で、煉瓦造の40ものWiekhaus
が見られる珍しい町である。北門から縦に旧司教城の見所と木組家がある。
市庁舎 Rathaus (1274) 建物は多くの改造や再建が行われたが、1905-06
ゴシックリバイバルで再建された。裁判玄関・地下アーチ・北破風は以前の物が使われ、
それで15cからの痕跡が遡れる。1997-97修復で古い美しさとなり、本会議場
の絵画を復元・古い太陽時計・玄関のスコッタが見られる。
旧司教の城 Alte Bischofsburg (1271) 司教がこの町に住居を移し、城
を拡大した。1995-98に全体を復元再構築された。1957地区博物館が城の塔に
移され、逐次拡充されて、町と地域の歴史・文化・産業の展示に加え、30年戦
争博物館として「平和のための7戒」がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) ゴシック3身廊煉瓦造ホール教会で、塔と
身廊は13cの物で、1704に高さ68mの高塔にバロックの天蓋が付けられた。中には
1558祭壇・バロックの木製洗礼盤・マドンナ彫像がある。
聖霊教会 Heilig-Geist Kirche (1300) 2身廊煉瓦造の建物で、中世の
商人や旅行者の礼拝のために使われた。1549旧フランシスコ会修道士が初めて新旧
両方の礼拝を可能とした。1716火災で損傷し1730の復元され、塔は今の姿に
なった。1996大改修の後に精霊教会になった。
新教教区会館 Ev.Gemeinde Haus (1581) 1711にそれまでの建物が老朽
化し、1720新しい教区事務所を建てた。1785には農場の作業や商業のために
1839監督者事務所に、1996に集会所としても使われた。
繊維工場 Tuch Fabrik (1324) 何世紀にもわたって町の呉服屋であり、
ウールが提供された。1845には服地の会社がここに設立され、1749第2織物工場
が近くのRosenwinkl通りに建てた。1870-1905工場は市外に移転された。
ローターの家 Rothersches Haus (1726) 大火災の後に再建され、1848所有者
ハーマン・ローターは拡張して2階建て石造のファッション・ビルを建てた。
最後の切妻家 Letztes Giebel Haus (17c) 古い切妻のある木組みの家は
300年間の町の火災を生き延びた。
テルショウの家 Telschowsches Haus (1566) 代表的な木柱式の古い事務所で
1681最初の郵便局になった。
鷲薬局 Adjer Apotheke (16c) 町で最初の薬局で、1570からは今の場所
に在り1598薬局特権が確認された。1716火災で破損後に買収された。
スエーデン岩 Schweden Stein (1636) 30年戦争のウイットストックの戦いの勝者であ
るヨハン・バーナーを記念して、大きな石の前で感謝の行事が行われている。
市庁舎 | 聖ピーター・パウロ教会 |
市壁 | 郷土博物館 |
キッツア通り |
1232 ブロート家の領主に属するとして初言及、1250ブロート家は町の憲章授与、
1293 塩の取引で繁栄して市壁を建設、1325 8つの村の管轄権を町に移した、
1400 集中的な塩の取引を開始、1560 塩取引の廃止での職人と農民の町に、
17c ペスト流行、 1638.1679.1758 大火事で町は壊滅、
1796-1806 騎兵連隊が駐屯、 1860-1875 ウーラン第8連隊だ4中隊が駐屯、
1945 2次大戦の戦災がない町に赤軍が進駐、1962 旧市街の包括的な解体。
13c煉瓦の市壁が補修されてWallwegの南東部にわずか残る。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus (13c) 高基礎2階建の簡素な市庁舎は、1638の火事
で焼失して再建された。
聖ペテロとパウロ教区教会 Ev.Pfarr Kirche St.Peter und Paul(1250) 最
初の建物は、花崗岩切石の十字型大聖堂であり、翼廊の端壁と交差点の
東壁は今でも残っている。13c後半レンガ造のハレンキルヘで再建が始まった。
15c塔の2階は細長い筋膜構造で建てられた。1764ヘルメットは落雷で壊れ今
の形になった。15cのゴシックの壁画は聖歌隊の東の壁に描かれた。
郷土博物館 Heimart Museum (1884) 元第3市場帝国郵便局は、2階建
マンサード屋根の3つの中庭のあるサイドウインドウの建物で、今は郷土歴史博物
館である。
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
旧市庁舎 | 上門 |
下門 | 南東壁 |
古い塔掲示板 |
1100 初文書言及、 1283 王ルドルフ1世は町の憲章を授与、
1465 ハプスブルク家はネレンブルク全体を獲得、 1499 シュバーベン戦争でスイスと戦った、
1525 農民戦争でヘガウの貴族は敗北、 1799 ナポレオン戦争で敗北、
1805 町はヴュルテンブルク州に帰属、 1806 バーデン大公国になった、
1973 地区改革でコンスタンツ地区となった。
旧市街は小山の上に在り、市壁が周囲を廻り、多くが残されている。
下門 Unteres Tor (1150) 市壁の南端にあり、3階建角塔・壁・アーチ
門・ツインガー・門衛所から構成され、一時刑務所として使われた。門衛所
には門衛が住んだ。1525農民戦争で壊され、1559市議会決議で市長が
門の鍵を持った1668-78改築され、1987街路が舗装された。
上門 Oberes Tor (12c) ツインガーの成立で西壁の前に深井戸が在った。
1494ユダヤ人学校を収容した。射撃小屋のあるツイガー・市民防衛隊の練兵
場。1945爆弾で被害を被った。
山頂の旧市街は、人は住んでいるが静かに古い建物が並んでいる。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1306) 市議会が設置され最古の紋章が定
められた。1461評議会室で裁判の実施。1457市長の最初の言及。1488
ハプスブルク家の皇帝フリードリヒ3世が滞在。1559皇帝フェルナンド1世は全権を有す
る都市憲章を授与。1750ハプスブルクの女帝マリア・テレジアは町の権限を確認し
た。1924新市庁舎を建設。1945一部は住家で使われた。
礼拝堂付牧師館 Kaplanei (1581) 町には二つの十字架・聖キャサリン礼拝
所があり、それぞれに祭壇とPruendeを持っていた。ボイアロン修道院か
ら取得したクリンゲンベルクのグート1750がある。1868建物を取り壊して今の牧
師館を建て、高位聖職者の家と呼ばれた。
始めの校舎 Erster Schulhaus (1543) 不動産管理の校舎と先生の住
居。1700町の代官は不規則な就学に苦言。1763最初の実績のある先生
が来た。1902-03四角い校舎が新築された。1972まで幼稚園。
ブドウ圧縮機 Torkel (1458) 15cワインガーデンの言及。1542販売文書に
ブドウ圧縮機の記載が証明された。1787の記録ではブドウ絞り器は醸造
所の鴨井の上にあった。1884町の大火でブドウ絞り器は醸造所と共に
焼失した。
ポンプ室 Burnnen Haus (17c) 1756までは桶とか盥による水の供給
であった。1756泉から上泉水小屋まで249mの堤防を築いた。1924自治
体水道の試運転により上泉水小屋の退役。
歴史的市庁舎 | 旧市庁舎 |
市庁舎前市壁 | マルクト広場 |
南壁 | 南壁内側 |
839 フルダ修道院の財産として記述、 1136 初めて村として言及、
1300 町として言及、1360 皇帝カール4世は自由都市を造りヴュルテンブルク戦に勝利、
1377 シュバーベン都市連合に参加、 1400 ゲミュンド門の建設、
1558 鉄鉱石の製錬を開始、 1593 Wasseralfngen城の再建、
1672 火災で破壊の公共建造物の再建 1796 仏軍による略奪、
1802 ヴュルテンブルク軍が町を取得、 1803 帝国自由都市の終了ヴュルテンブルク州へ、
1806 バイエルン州に落ちた、 1809 毎週市場の確立、1810 再びヴュルテンブルク州へ、
1812 要塞の解体開始。
高さ6m厚さ1.5-1.6m長さ990mの市壁が造られ、5.9haの旧市街地を囲んだ。
市壁の前面は二つの堀が置かれた。1320の市壁の残りは家の裏側に僅か見える。
見当らない。
大きな町だけど多くの市庁舎が残る旧市街地は狭い。
市庁舎 Rathaus (1995) 旧市街地の南西に、市の規模に相応しく大きな
建てられ、前面に帝国自由都市1360-1803の泉がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1907-95) 旧高級宿泊所:王冠ポスト(1575)は、
歴史的に著名な来客を泊め、ナポレオンの窓は1805にフランス皇帝が滞在した名残
である。外壁には1664からの市の紋章がある。1851までトウルン・タクシスの郵便局
であったが、1907に改修されて市庁舎になり1995迄使われた。今は、町の
劇場・芸術カフェ・町の美術協会を収容している。
歴史的市庁舎 Historisches Rathaus (14c) この建物は1674の大火災後
の再建時に友好帝国都市ニュルンベルは多くの芸術品を寄付した。1884の再度
の火災後には「アーレンの密偵の頭部」しかなくなった。1907まで市庁舎とし
て使われ、今は観光案内所と原始世界博物館となっている。
新教市教会 Ev.Stadt Kirche (1340) 1634火災で焼失後、同じ場所に急
いで再建され、1685に塔を付けた。1767バロックの新しい教会となった。
シューバートの家 Schubart haus (17c) シューバート家の2階建質素な木組の家は
詩人で音楽家のダニエル・シューバートが住んだ。
市民病院 Buerger Spital (1702) 高齢者介護施設として建てられた。
地階石積の上に3階建木組の見事な建物で1873迄使われた。
1980消防器具置場。
アイスリンガーの家 Haus Aisslinger (14c) 町で最古の家であり、赤白の外観
の3階建の大きな建物で、居間・納屋を含む都市在住農民の典型的な様式で
ある。1949火災で一部が損傷したが、元の形で復元した。
原始世界博物館 Urwelt Museum (1977) 州で最大の地質学・古生動物の博
物館で、密偵塔のある歴史的市庁舎に収容されている。鉄鉱石鉱山があっ
た事から研究が進められ、珍しい化石が見られる。
リーメス博物館 Limes Museum (2016) 考古学国立博物館の分館として、ドイツ
最大のローマ博物館である。かってアルプス以北の最大のローマ騎兵砦の敷地内に立
地している。
市庁舎 | マルクト広場 |
通り | 市壁 |
7c アレマン族の入植地が出現、 1075 ハインリッヒ4世の文書にヒルシュアウ修道院へ、
13c 農場に堀のある城を建設、 1275 王ルドルフの防御された町を設立、
1304 市壁内に農民を移動させた、1337 ディーボルトは町をヴュルテンブルクに売却、
14-16c 町に地区の事務所が置かれた、 1546 大砲を売却して木製砲に、
1634 避難民に疫病が流行、 18c 貧しい住民はアメリカに移住、
1845 大火事で町は全焼、1945米軍進駐、1952 バーデン・ヴュルテンブルク州へ統合、
1975 グレッツインゲンはアイルとノイエンハウスと合併した。
13cの市壁は、町の北門に20mと東部Am Weiher bad Strasse.13-15に
GefangnisTurumを含めて38mが木製屋根付きで復元されている。 その南の
Schul Strasseに13mも復元されている。
2市門と12の劈塔があった。
北門 NordTores Teil (13c) 半分の高さの市壁の残りと共に、北門
の石壁が見られる。
火薬塔 PulverTurm (13c) 3階建四角錐屋根で最上階が木造の角塔
が南西にある。
監獄塔 GefangeisTurm (13c) 2階建四角錐屋根の角塔が地下室と市
壁と共に復元されている。
隅塔 EckTurm (13c) 石積の隅に増築されたゴシックの大きな木組の隅
塔で市壁の角を守った。そのた、南西部に、塔の切り株が建物の地階に
残っている。
旧市庁舎 Ehem.Rathaus (1595) 最初の市庁舎は1840に改修された
が、1960に南側の旧学校(1820-1919)と共に取り除かれ、一体の新しい
建物となった。
福音教会 Ev.Kirch (1683) 13c身廊、1460後陣と塔、14cクレスコ画。
聖ミカエル牧師館 St.MichaerusPfarrhaus (1534) 3階建木骨造の建物。
1556-1734は国民学校として使われた。
牧師館 Pfarrhaus (1683) 教会病院を改築した3階建の大きな切妻の
美しい建物。
旧十分の一税倉庫 Ehem.ZehntScheune (17c) 1927に取り除かれた。
牧師館とラテン語学校 Pfarrhaus und LateinSchule1420
郷土博物館 HeimartMuseum ()町と地域の歴史・手工業と農業の発展。
Stadt haus | 旧侯爵宮殿 |
市塔 | 市壁 |
醸造所 | マルクト広場 |
600 ザルツバッハーブリュケの城を築いて交易路保護、890 城にロマネスク教会建設、
1067 貴族ヘッソン家が村を所有、 1111 バーデン家に村は結婚で移った、
1116 アウグスチヌス修道院を設立、 1230 町の憲章の文書化、
1235 町は破壊され市壁で再建、 1245 2教会.3製粉所.裁判所が存在、
1300 結婚の持参金としてヴュルテンブルクへ、1500 町はシュバーベン帝国に属した、
1525 農民戦争で略奪された、 1636 30年戦争で1693仏軍に焼払われた、
1758-1813 ヴュルテンベルクの事務所が置かれた、 1820市壁と門が取払われた、
1945 何度かの空襲で町は大被害、 1952 バーデン・ヴュルテンブルク州へ統合、
13cの市壁は、1820に大部分が取払わわれ、町は周辺に拡張した。
西グラーベン通の店の中10mと、東北川沿いに160mに残っている。
13cの門塔は、1820に取り払われた。
市塔 StadtTurm (13c) 旧Michaelkircheの初期ゴシックの内陣の上に
多角形の塔・丸天井・その上の木組の部分あった。1519木製部分が壊れ
1614再構築が行われた。1693町の大部分が消失し、1699町のランドマークと
して塔は再建された。2000-04にゴシックの内陣も修復された。
歴史的市庁舎 Histrisches Rathaus (1599-01) 1693に最初の市庁
舎が消失して、ルネッサンスの地階が残された。1716から古い基礎の上に木組
2階建ての建物が再建された。
市議会堂 Stadthaus () ヴュルテンベルク州の代表議員席。1877-1921は郵
便局、その後市政庁舎として使われ、2006以降は私有となった。
旧校舎 Ehem.Schulehaus () 最初ラテン語学校として建てられ、教区・
教師のアパートとなり、1981にVolks hochschuleとなった。
塔校舎 Turm Schulehaus (1122) 聖ミカエル教会として奉献され、1693
火事で身廊が焼け、1616-1712その跡に塔校舎が建設され1992まで使われ
た。今は市のギャラリィ。2001改修され新しい外階段塔が付けられた。
バンドハウス Bandhaus () 旧アウグスチヌス教会・ラテン語学校・高校校舎・地下室
のある穀物庫として使われ、今は市政の場と音楽・美術学校である。
聖パンクラティウス教会 Stiftskirche St.Pancratius (1608-28) バーデン家が
寄贈し、1240にはバーデン家の墓所とされ、1500星形円陣が追加された。
1693に焼失し、1697に単純な身廊で再建された。宗教改革以降はプロテス
タントの教会であった。1929に復元された地下にバーデン家の墓所がある。
プロテスタント・ディナリー Ev.Dekanat (1697) アウグスティノ修道院の食堂後に建
てられ回廊で教会と繋がっている。
旧侯爵城 Ehem.Herzogliches Schloss (1608-28) この1棟のみが建
てられ、1693の火災で大きく損傷し、穀物蔵として使われた。1875-77
郡の事務所となり、今は裁判所である。
旧侯爵の台所 Ehem.Hrzoglisch Kueche (16c) 侯爵の台所として建
てられ、19c以降は地方裁判所.刑務所となり、1982に改築されて、今は
市行政庁舎。
聖ヨハネ教会 Kath.StadtKirche St.Johanes (1893-94) ローマカトリックの教会
として、ネオゴシックで建てられた。1946インテリアの改修。1988オルガン設置。
市庁舎 | 騎士団城 |
1058 初文書言及、 12末 聖ヨハネ騎士団が町に来た、
1219 町にドイツ騎士団とドミニコ会がきた、 1340 バイエルン皇帝ルードヴィッヒが町に昇格、
1355 皇帝カール4世はドイツ騎士団に醸造権付与、1525 町はドイツ騎士団長の住居に、
1568-1628 ゴシックの水城はルネッサンスの王宮へ、1628 カプチン会修道院を建て1631焼失、
1635-37 カプチン会修道院の再建、 1809 ナポレオンの命令で無名の田舎町に、
1826 温泉源の発見、1926 町名にBadを付けた、1996 笛吹市石和と友好都市に。
旧市街はMauer通りとGraben通りで囲まれている。壁らしき
ものは、西のUnterGrabenに50m、南のMittlerGrabenに180m、
東の城の前に180mに見られる。
メンゲルハイム望楼 Mergentheim Turm (14c) カイザー通り南に1.0kmの丘
の上に立つ見張り塔で、要塞化された前哨基地の一つであった。高さ17.3m、
内径3.1m、璧厚1.2mの円塔で、地上5.8mの出入り口に引き込み式の梯子が置か
れている。市壁の主望楼である城塔には、この望楼方向への開口部があり、
バスケット・旗・松明を使って信号を送っていた。1738落雷で屋根が焼け1850には
修復された。
ロマンティック街道の町であり、消化器の疾患に効く鉱泉治療とドイツ騎士団が有名。
旧市庁舎 AltesRathaus (1562-64) 独特のルネッサンスの切妻付の3階建ての建物
で、ドイツ騎士団の依頼で建てられた。1838騎士団から町が買取り3年間かけて
改装した。1997-99に屋根・内装を改修した。
聖ヨハネ大聖堂 Muenster St.Johannes (1270-90) 市民の教会としてヨハネ騎士団が設
立に関与していた。元の形で残されているのは通路や聖教院で、1584に身廊のアーチは
改修され、聖教院の北側には創設者の墓があり、2階には教会の宝物が見られる。
聖マリア教会 Marien Kirche (1320) ドミニコ会によって設立され、14cからの聖具室
・合唱・回廊のフレスコ画が見られる。リーメン・シュナイダーの聖母マリアのあるネオゴシックの主祭
壇・1543騎士団長の墓がある。
ドイツ騎士団長宮殿 Deutsch Ordens Schloss (12c) ホーエンローの領主は、
ここに水城を建て、1219ドイツ騎士団に寄付し、1525-1809ドイツ騎士団長の本部居城
であった。今ではドイツ騎士団長博物館になっている。
カプチン会修道院教会 Kapuziner Kirche mit Kloster (1780) カプチン会修道院は
ドイツ騎士団長が建設したが、1631スエーデン軍に焼き払われ、1636-37新たに修道院が
建てられた。単純なパラレルアーチ型教会で、1640聖母戴冠の聖壇画がある。
宮殿教会 Schloss Kirche 1730-34) 明るい直接窓の天井の高い単身廊の教会で
2階貴賓室にはドイツ騎士団長の城から行くことが出来た。
双子の家 Zwillings Haeuser (1780) 旧市庁舎の反対側に立ち、初期の古典的
様式で建てられた二つの似た3階建ての建物ある。右側の建物は裁判所薬局で、
左側の建物は現在カトリック教会の集会場である。
精霊病院 Spital zum Hl.Geist (1340) ドイツ騎士団長ヴォルフガングは、病院の創始
者であり西正面のの小さな石碑に名前がある。1411北翼と礼拝堂が拡張され1772
に改修された。今は病院と老人ホームである。
リセウム Lyceum (1700-02) ドイツ騎士団長フランズ・ルードヴィッヒが建てた小学校であるが、
1753-55基礎の損傷で壊され、1770に新築された。
ドイツ騎士団博物館 Deutschordens (1996) 1527-1809ドイツ騎士団長の居城であり、
そこにドイツ騎士団博物館として、1190創立以来のドイツ騎士団の歴史を展示。
ドイツマイスター博物館 Deutsch Meister Museum ドイツのマイスターの300年間の伝統と制服
・記章・制度などの資料で、旧武器庫に開設している。
教会 | 木橋 |
60 ローマはライン右岸に集落を設ける、 260 アラマン族右岸進出、454左岸にも、
496 フランク王アラマン族を破る、 878 ライン中州に教会と2修道院を設立、
970 温泉の言及、 12-13C 教会の聖体拝領・市場の発展・裁判所の設置、
1270 木製の橋を設置、 1272 大火で殆ど焼失、
1316 自由都市となる、 1343 ゴシック大聖堂の基石を置き塔を建てる、
1364 温泉の開発、1408 氷で橋は破損し再建した、1480 洪水で橋は流された、
1638 30年戦争で町は略奪された、1796 仏革命軍の占領、 1805バーデン領となる、
1830 中州のドイツ側を埋立て橋と石門塔は撤去、 1854 ザッキンゲンのトランペッター出版、
1939 郡庁所在地になった、 1945-50 仏軍の占領下にあった。
GallusTurm付近に僅かな跡がある。
市門は塔のある東西の二方向と南農地への川中島門があった。1門2塔が残る。
川中島門 AuTorまたはSteinTor 中世市壁の南農地への出入口。昔の同業
組合と市庁舎が隣り合って門にある。
カルス塔 CallusTurm 1343建、2階建円塔6角屋根、洪水の後に防波堤と防御
を兼ねて島の北側に建てられた。1974まで道化師同業組合があった。
泥棒塔 DiebsTurm 14C建、中世市壁の南外側に立つ3階建角塔で監獄と
しても使われた。1864ネオゴシックに改修、1979に再改修され結婚式場となった。
ライン川には木橋があり、徒歩でスイスへ渡れる。町には大聖堂を中心に古い建物
が狭い通りから見上げられる。
市庁舎 Rathaus (19C初) 男爵が建て、1850改造され町庁舎と学校で使われ
、1977に拡張されて今の町庁舎となった。
司教座大聖堂 Muenter (1343-60)ゴシックの本体を建設、1678火事で被災、
1968-1740に早期バロックに改修された。1751火災、正面入口の造形はドイツ騎士団
が造った。19Cに改修されている。
古いカソリック教会 Alt Katholische Kirche (19c) 墓地に立つモダンな教会。
木橋 HolzBruecke (1270) 欧州最長の屋根付き木橋、1408・1480に落橋の記録
がある。石造の橋脚は、16Cに造られ20Cに更新された。木構造は18Cに1960-63
と1989-90に改修されている。スイス国境であるが、歩行者と自転車は自由に越え
られる。
古い館 Alter Hof (13c) 修道院の建物で、14cに領主がカロリング風の屋敷に改
修した。16c改造、1975全体の修復。南にネコ像のある噴水がある。
シェナウ宮殿 Schloss Schoenau (1430) シェナウ公の居城、1660水城に改修、多角形
の塔と両切妻屋根の典型的な領主の館。1740戦争で大被害、1908工場主が補修
し、1929町所有となり、1985外装を改修。今は、二つの博物館として使用、高
ライン博物館、トランペット博物館。
僧院建物 Abtei Gebaeude (1565-75)後期ゴシック館建設、1806大公の役所、
1973まで郡税務課、1973から街路建設局。
高ライン博物館 Hoch Rhein Museum 地方文化・考古学・農民部屋・時計の展示。
トランペット博物館 Trampete Museum ここ4世紀のトランペットを展示。1854から
「ザッキンゲンのトランペッター」の本がシュツフェルによって書かれ、劇や映画で公演された。
市庁舎 | 聖ヨハネ市教会 |
宿屋:カラス | 北壁 |
南壁 |
819 皇帝ルードヴィッヒの長男カールは上町の王農場と教会をブッシャウ女修道院へ贈与、
1239 シュタウフ皇帝フリードリッヒ2世が町に昇格、 1288 ルドルフ1世はリンダウ都市権を授与、
1299 ハプスブルク家は町を千マルク銀で買取り、 上シュバーベンの支配権は1806まで継続、
1400 町は外側の資産を取得、 1406-1680 ハプスブルク家は従者頭バルトブルクに入質、
1518-1684 魔女狩が行われた、 1611 ペスト流行で町の人口半減、
1632-34 30年戦争でスエーデン軍の宿営町、 1806 ナポレオンはヴュルテンブルク王国に割当、
1935 大地震で町の建物は大損害。
変形した四角形の市壁が13cに築かれ、北中と南東に残され、北東は市壁
の上に建物がある。
猫小塔 Katzen Tuermle (13c) 北側に残る市壁の中に、3階建三角屋
根の角塔が唯一残っている。以前は軽犯罪の留置所であり、危険な犯罪人
や魔女の監獄は市門塔等が使われた。
今の大きな市街地の中で、旧市街は一辺400mの狭い四角形で、美しい木組
の建物が多く保全され、マルクト広場周辺には裕福な市民の風格ある石造の建物
があり、歴史的な建造物も散見される。
市庁舎 Rathaus (1784) 今の市庁舎の場所に、1387修道院が設立された。
1698-1702フランジス会修道院は拡張され、1764-65構内に3階建の建物を構築した。
1784に販売されて以来市庁舎として使われた。1806修道院の世俗化後、町は
ヴュルテンブルクの郡庁所在地となり、マルクトに新築して移転した。1975には再度以
前の市庁舎に戻った。
聖ヨハネ市教区教会 Stadtpfarrkirche St.Johannes (814) 皇帝ルイが最初の教
会を設立し12cロマネスク柱聖堂の遺跡もある。1270-80拡張され、15c初めに今の
外観となった。1984-85現代的様式に改装された。中には中世の絵画・彫刻
がある。
角の小店 Ecklaedele (1581) 3階建上階木組・アレマン風の美しい建物。1978
-81再構築されたが殆どオリジナルの木組である。今は2階は市庁舎広間、3階は
美術館。
マルクトの家 Haus am Marckt (1400) 中世の宝石と言われ、アレマン・トラス構造で、
木製の釘で固定され、木材の関節は目板で繋がれたトラスである。
チューダー様式の家 Haus in KrenzGasse2 (15c) 古い木骨造の家で、大部分
フレマン木組を使っている。
ジーペナーの家 Siepener Haus (1251) 市庁舎の向かいにあるジーセン修道院の
初めからの建物で、市壁の一部として13cに建てられ、文献で最初の市民の
家である。都市農民の農場の建物は女子修道院として使われた。1803世俗化
でトールン・タクシス家にジーセン修道院と共に渡ったが、1808から私的所有とされた。
宿屋:カラス Gasthaus Zum Raben (17c) 印象的な木組の建物で、宿屋・食堂
として使われた。
ブシャウ修道院事務所 Buchauner Amtshaus (1384) 直接市壁の上に立ち、特
権を与えられた地位にあった。古い建物は1408-68に改造され今の姿になった。
元守衛詰所 Ehem.Garde Haus (13c) 中央通りの歩行者ゾーンに、2階建前面
塗装の元守衛詰所がある。ここで門の守衛と税の徴収を行い、地元の逮捕者
を留置した。1827迄はここに町で最も高い上門塔があった。
旧修道院バートザウルガウ Ehem,Kloster Baad Saulgau (17c) ブッシャウ女子修道院
長がフランシスコ会修道院の設立を計画し、1650-64に建物を建設した。1811修道院
の解散後市は病院管理のため修道院の建物を買った。最近改修して、老人施
設・展示館・市図書館・音楽学校を収容した。
市庁舎> | 精霊病院 |
ヴェルザッハ門 | 東壁 |
926 ハンガリー来襲の破壊記録に初言及、 10c 教会・領地は再建し地元貴族が管理
1171 皇帝ヘンリィ・ライオンは築城し住民に課税、 1298 ハプスブルク家は都市権授与した、
1289 ハプスブルク家は帝国自由都市とした 13c バルトゼー貴族は墺侯爵に町を売却、
1386 町はバルトブルクに担保とされた 、 1406 近隣町と共にバルトブルクに新担保に、
1424 領主の死亡で町は不安定に、 1525 農民戦争はゲオルク3世が鎮めた、
1530 スイス再洗礼派の大虐殺、 17c 戦争と疫病で町は荒廃、
1703 町は借金を背負い湖と漁業権を アウグスチン参事会に売却せざるを得なかった、
1788 修道院解散時に多くの田畑はヴュルツブルクに買われた。1807 郡庁都市だが貧困、
1811 市壁の撤去が町の発展の先駆けとなった。
中心部の市壁は、1283に建設が始まり、1400拡張され門や塔で強化された。
1811市壁の解体が始まり、1832-33本格的に門・塔・市壁を取壊し、石材は再利用
された。東南部に市壁の残りが見られる。
ヴェルザッハ門 Wuzacherer Tor (1400) 市壁の拡張に伴い門が建てられた。
その後数回焼失し門塔は再建された。主として農業の町であり、門は通行税
を払う関税であり、門衛が守っていた。
フェティシュ塔 Voetschen Turm (1528) 1403の内側市壁の壁塔は、VoetschenHaus
と
して1528に記述されている。Voetsch家は15cに入って来た家族で、16cには町
役場の長になった。
古い木組の家や歴史的な建物が多数あり、中世の余韻がある。
市庁舎 Rathaus (1426) ゴシックの壮大な3階建の小塔付き階段破風の建物で、
1586には17人の魔女が磔の判決を出された。バルコニィには死刑囚の鉄鐶があり、
前面に町の正義のスケールを飾り、オーストリアと町の紋章がある。
穀物蔵 Kornhaus (1500) ゴシック2階建の大きな蔵で、主食のトウモロコシを貯蔵し
た。1492から1945まで穀物蔵で使われた。1972町の博物館(1913)が移設され
町の歴史と美術の展示が行われている。
バルトゼー城 Schloss Waldsee (1386) 墺侯爵レオポルドは、ヴァルテンブルクのスチュワード
・ハンスに町を担保として与えた。1488今の城をヴァルテンブルクのジョージ3世が建てた。
城は市壁の外にあり、城の橋で接続した。
聖ペーター教区教会 Stiftkirche St.Peter (11c) アウグスチン修道会により、聖ペテロ
教会が建てられ、1579ゴシックからバロック3廊バジリカに教会の内外を改造した。
1788には西に身廊を延長し60mの二つの高塔と壮大な前面を得た。1712ドミニク
・ツイバロックの祭壇が設けられた。
精霊病院 Spital Zur Heilige Gaist (13c) 町でも古い施設で、1300病院教
会が言及されている。1659建物は再構築され、病院は農場・森林・乳製品・パン屋
等を備え自活した。1978ネオゴシックの鐘楼が復元された。
旧フランシスコ修道院 Ehem.Franzikan Kloster (1650) 修道院の建物は1806に世俗
化され、今は警察署が入っている。
マルクト広場> | 市教会 |
温泉宮殿 | フラウン城址 |
カールス皇帝温泉宮殿 |
12c 深さ12mの入浴プールがあった、 1345 城と町はチュービンゲン宮中伯が所有、
1367 ビュルテンベルク伯エーベルハルト2世が入城、 1376 シュペイヤー司教は町を牧師に遺贈、
1442 市壁を建設し公式に都市に、 1459-96ビュルテンベルク伯エバーハルト1世は町に滞在、
15c 重要な入浴リゾートへ、1464 最初の大火災、1525大火災の復興にマクシミリアン1世の手紙、
1530 カール5世による手紙の再確認、1534 宗教改革の導入、1645 30戦争被害は免れた、
1645 大火事で町繁栄は終わった、1742 大火事で全焼し新都市計画のバロックで再建、
1831 ビュルテンベルクは医療浴療法による新スパセンターを建設、 1860 年間4千人の訪問客、
1900-14 年間2万人上の訪問客が増え施設を増築した、1945仏軍の占領区域になった、
1947 新設のビュルテンベルク・ホーエンツオーレルン州へ属した
15cの市壁は、300年前に壊された下門の場所から、市壁に囲まれた四角の旧
市街地の輪郭を見ることができる。
市壁は市教会のに西にあり、テルメ宮殿の南まである。旧北門にも市壁は残る。
上門は18cまではあったが、今は見当たらない。
シュバルツバルト北部の温泉保養地であり、多くの美しい保養施設が建られている。
市庁舎 Rathaus (1913-14) この建物は、ライオンホテルとして建てられ、1922に市
が取得して市庁舎とした。前面にはぜいたくな装飾があり、会議室には
Weildbad攻撃の11のレリーフがある。
王カールス温泉ホーラム Forum Koenig Karks Bad (1893) ルネッサンス様式で建てられ1977
まで温泉療養所として使われ、今日では会議場や催物会場として役立って
いる。贅沢に改修され多くの部屋・広間・階段・吹き抜けには贅沢な装飾と高価
な絵画・ステンドグラス・タイル等で飾られている。
テルメ宮殿 Paleis Termal (11840-47) 古典的な2階建の前面のフレンツ砂岩の壁の
背面にユニークな入浴施設がある。豪華な入浴エリアは、東洋と西洋を結ん
で生み出された。デンマークの彫刻家による金星のレプリカがある。
福音町教会 EV.Stadtkirche (1746) 1844まで町には上町と下町の2つの教会
があったが、壊された。1367聖レオンハルト礼拝堂が言及され、1623-28上町の教会に
はグロッケン塔が付けられた。1742の大火事の後1746-48に新しい古典主義の教会が
建てられた。
ロイヤルスパ劇場 Koenigliche Kurtheater (19c) スパガーデンの中央にあり、劇場と
しては小さいが、ルネッサンスとバロック混ざり合った美しい建物が建てられた。
旧校舎 Altes Schulehaus und Wilhelm schule (1845) 町には15cから
学校があった。1845郊外に石造の教会が建てられ、1913までVolkschuleとして
使われた。
石の家 | ホッヘンシュタウヘン塔 |
赤塔 | 青塔 |
南壁 | 北壁 |
85 ローマが侵攻し砦を設けた、 965 皇帝オットー1世は最初の教会設立、
1269 ゴシックの参事会教会の復興、 13c 市壁と裁判権のある市場町に、
1300 自由帝国都市に、 1622 30年戦争で町は衰退し宮殿と市壁は採石場、
1803 ヘッセン州へ、 1835 塩水の活用としてのスパ、
1951 バーデンヴュルテンブルク州へ、 1945 空爆からは免れた。
現在見られる中世の市壁は、西南部を除いておおむね残っている。
赤の塔 Roter Turm (1200) 旧皇居の東側の塔で、最後の避難所とし
て使われ立派な暖炉やトイレがある。
青の塔 Blauer Turm (1200) 旧皇居の西側に立ち、19cまで望楼として
使われ、塔上から町を一望でき、塔上から時を知らせている。
ホーエンシュタイン門 Hohenstaufen Tor (1250) 皇居の入口の門で市壁に繋がる
下の古い町には木組みの家並みが美しく、上の町はホーエンシュタウフェン家のフリード
リッヒ1世が皇居を置いて栄え、名残の建物が連なっている。
市庁舎 Rathaus (1836) 新古典主義の3階建ての石造の建物で、中は木
造建築物である。昔は旧帝国の町評議会場と法廷として使われた。
石の家 Stein Haus (1200)
1668-1740に早期バロックに改修された。1751火災、正面入口の造形はドイツ
騎士団が造った。19Cに改修されている。
木組の家 Fach Werk Haeuser
木の家 Holz Haus (1580) 南入口近くの木組みの家で、かってユダヤ人
の祈りの部屋があった。
ロマネスクの家Romanisches Haus (13c) 南入口近くの小さなロマネスクの木組みの家
で、石造り地階の上に木組みの2階建てが乗っている。
市民の鉄の小家 Buerger Eisen Hauschen 市内で最もは幅の狭い木骨造2
階建。
フランク風木骨造家 Fraenkischer Fachwerkbau 装飾的なフランコニアの木骨造の家。
アラマン風木骨造家 Aramannischer Fachwerkbau (1500) アラマン風の木骨造の家。
昔の居酒屋 Ehem.Gasthaus Zur Krone 古い居酒屋の木組の家で今はアイスクリーム
屋。
大きな家 Reisen Haus アラマン風からフランケン風の木組みの家で地階は石造の3階
建切妻付の大きな家。
エーレンベルク館 Stadhaus Ehrenberg (1451)貴族のタウンハウス、木組みの3階建。
新教教会 Evanglisch StadtKirche (13-16c) 新教教区教会で、壁
画など内部装飾が美しい。
ボルムス館 Wormser Hof (13c) ヴォルムス司教の代表の事務所で、13c
ロマネスクの北側、16c中庭、西側のヴォルムス裁判所の位置に十分の一税穀物
倉庫があった。
防塁 Boll Werk (16c) 市壁南端の砲兵隊の砲塔であった。
市庁舎 | 市教会塔 |
東南水塔 | 東南壁 |
南壁 | マルクト広場 |
12c 貴族が領主となり城もあった、 1162 州ハイゲルロッシュからホーエンベルク伯へ、
13c 隣接のゾーラ伯へ移行、 1255 フリードリッヒ・イラストは都市権を授与、
1288 約200上流にバリンゲンの町は設立、1403 ヴュルテンブルク侯爵が購入し居住、
1546.1607.1672.011724.1809 大火災、 1806 ヴュルテンブルク王国の設立、
1810-1818 黒い森サークルへ、 1918 ヴュルテンブルク州にあった、
13cから市壁は建設され、南東に幾らか残る。
水塔 Wasser Turm (1483) 町の南西の角にあり、木組の円塔である。1825
-1911はバリンゲン地裁の拘置所であった。
洪水記念塔 HochWasser Turm (19c) 1895の洪水を記念して、花崗岩のオリベスク
に碑文を記している。エッケンヒルダー通の橋のたもとに立つ。
南東のゾラー城がランドマークであり、四角に拡張されたマルクト広場には、東南に
市庁舎西に強大な塔を持つ市教会が配置されている。
市庁舎 Rathaus (1811) 3階建の漆喰の大きな建物で、北の正面に2段の階段
がある高い台座。北sン核の切妻と屋根の尾根のある屋根。に1703-10基盤の上
に建てられた。
市教会 Stadt kirche (16c) 後期ゴシックのプロテスタント教会は、聖ニコラスの礼拝堂を
16cに建て直された。マルクト広場に向かって強大な塔が立ち、ツオレルン家の墓がある。
ゾラー宮殿 Zollern Schloss (1370) ゾラー・シャルクスブルク伯の代官は13cの小城の基
盤の上に宮殿を建てた。1403ヴュルテンブルクが買収し、州上級廷氏の住居となった。
1920市が購入し1937部分的に古い部分を使用して復元し、計量博物館を収容
している。石積2階の上に大屋根の木組1階が乗っている。
騎士の家 Reiter Haus (16c) 宮殿の使用人の家として建てられ、1649に再建
された。通りの正面は木骨造の切妻で木組が露出しているが、その他の面は漆
喰仕上である。1921からはユースホステルとして使われている。
を取得して変換した。
聖霊教会 Heiliggeistkirche (1897-99)ネオゴシックの多角形の聖歌隊の長身廊の
教会で、1964北向きの拡張が終わり、内部には1998現代芸術のマドンナの木彫りの
コピーがある。
硫黄井戸 (1724) 豊富な硫黄噴出があり、ほとりに風呂や医療施設が設けら
れた。1835井戸の石噴出口と受け皿が置かれた。1850内陣がユースセンターとなり、
1955隣接する牧師館も廃止された。
旧市庁舎 | 市庁舎 |
旧王宮庁舎 | バルテンシュタイン城 |
上門 | ローテンブルク搭 |
1234 バルトシッテェの騎士は領主を務めた、 1302-34 ヴュルテンブルク司教よる地区の管理、
1350 騎士の死後城はセルデック家へ移行、 1440-55 ホーエンローエ伯はホルンベルクを買い取った、
1688 城はホーエンローエ伯バルテンシュタインの居所に、1720-70 バロックの都市複合施設のけんせつ、
1766 3城門・宮殿・広場・中庭の建設、 1792 ホーエンローエ・バルテンスタイン連隊を設立、
1800 ホーエンローエ・バルテンスタイン公国となった、 1806 ビュルテンベルク王国が所有した、
1945 米国の占領下でヴュルテンベルク州バーデンした、 1952 バーデン・ヴュルテンブルクになった、
3市門は建てられたが、市壁は建設されなかった。 城の東のホフガルテンの南側に
は、1760にシュロス通の拡幅に伴い、130mの擁壁とテラスが設けられた。
3市門は、その内側に市庁舎・裁判所等の公共施設と宮殿・教会関連の兵士など
の住宅があり、外側には鍛冶屋・皮なめし屋・粉挽所等の職人と外国人が、遠避
けられて定住した。3市門は、1767に建てられ、番人が住んでいた。
リードバッハ門 Riedbacher Tor (1767-1811) 東、3階建マンサード屋根の漆喰
の頑丈な構造で、時計がある。1811に大規模な変更がなされて、門は再建され
た。1981前面と屋根の修復が行われた。近くに2階建切妻屋根の拘置室がある。
クロップホフ門 Klopfhof Tor (1767) 北、3階建の壮大な赤い門であったが、1945
に破壊され、門の下部工とクサビが残った。
ギューストバッハ門 Guestbあ、ach Tor (1765) 北中、2階建の切り妻屋根漆喰の門
屋は頑丈で南側に1900のドーマー窓がある。1937-40に修復と2004屋根の吹き替え。
ドイツに数少ない、純粋にバロック様式の建物群が残る珍しい町である。
市庁舎 Rathaus (18c) 始め旧裁判所の薬局で、次に旅館となった後市庁舎
となった。堅固な地階の上に木組み漆喰塗りの上階がある。前面は8軸と中横
突起の入り口がある。1969と1950に大規模な改修がおこなわれ、2006にも全面
・屋根・内部の改修が行われた。
バルテンスタイン宮殿 Schloss Bartenstein (13c) バルトシッテェの領主は13cに城を建
て、15c中にはホーエンローエとなり、農民戦争と30年戦争壊され、1710にホーエンローエ
・バルテンスタイン伯は増改築した。1765古い建物を統廃合して3翼のバロック宮殿となっ
た。1749-53厩舎のある南棟、1762-69拡張して大規模な3棟の複合施設となっ
た。
宮殿教会 Schloss kirche (1716) ホーエンローエ・バルテンスタイン伯はバロックのホール教会を
奉献した。1728に正方形の教会塔がつけられて完成した。高い天井や壁には
スコッタとフレスコ画で飾られた。
宮殿公園 Hof Garten (1686) 元の夏の庭が1760に350m×200mの公園とし
て整備され、バロック時代に多くの彫刻や備品で飾られた。また公園には、
パビリオンとオランジェリィの二つの建物がある。
牧師館 Pfarrhaus (18c) 2階建バロックの漆喰の建物で、通りに面した側面に
は豪華なネオバロックの扉と窓枠が、寄棟屋根の上には風見鳥と塔のフードが
ある。1902に新しくカトリックの牧師館が建てられた。
旧宮中顧問の家 Ehem.Hofrathaus(1765) サドル屋根の大きな建物で1869と
1876屋根が改修され、2001前面と内部の改修が行われた。
旧裁判所評議員の家 Ehem.haus(1749) バロックの細長い切り妻屋根の建物に
建て直された。前面は5軸と8軸がある。
市庁舎 | 城ホーエンバイルシュタイン |
東南壁 | 南壁 |
1070-80 小山の上にホーエンバイルシュタイン城を建立、 1150-1200 周壁の建設、
1234 フライヒンゲン侯爵の死後バーデン辺境伯が所有、 1250 辺境伯の治世で整備、
1304 町に昇格、1340 ヴュルテンブルク侯爵が所有、1361 皇帝チャールズ4世の都市権、
13-14c 市壁と門・塔の建設、 1504 九年戦争でローヴェンシュタインは町を獲得、
1634 ネルトリンゲンの戦に敗北し町は破壊、 1642 仏・スエーデン軍の略奪と破壊、
1688.1693 仏軍の侵攻と破壊、1803-06 郡庁所在地、 1810 マールバッハの下に、
1840 町の発展で市壁・門の解体が始まる。
13c後半カラ14c初めに市壁は建設され、1840に門から解体が始まった。
ホーエンバイルシュタイン城の周辺・斜面を下へ降りる部分・街中のStadtgrabenに残る。
別に城壁500m。
見当たらない。
城の下の町は、シュタウファー期に整備され、脚の市壁を介して接続されて
いる。中世からの町であり、ヴュルツブルクの地方事務所が置かれた。中
世の城壁・市壁・城・教会・建物・いくつかのワインセラーが残る。
市庁舎 Rathaus (14c) バロックの3階建の木組の建物で、1693の大火災
後に1703-10基盤の上に建てられた。
聖アナ教会 St.Anna kirche (1470) 市壁の外の墓地に1362にはニコラウスを
礼拝した。1470に聖アナ教会が構築された。1616教区教会から城山の小さ
拝堂があっなマグダラ教会とリリースした。聖アナ教会には鐘楼がなく、1617・
1786に鐘付きで再建された。1800教区教会となり、1988と1990最終の改
修が行われた。教会としては単純なホール教会で、東に隣接して内陣があ
る。
城ホーエンバイルシュタイン Burg Hohenbeilstein (11c) バーデン辺境伯は13cに城
をたて、現存する城壁は13cの物である。その後チュービンゲン・アスベルクを経て
1340ヴュルテンブルクの侯爵が所有した。14c包囲や破壊、1525農民戦争、1688
-97九年戦争の仏軍に破壊された。1836ヴュルツブルクから民間人が600ギルダー
で城を取得した。1898ロバート・フェルナラーが城と周囲の物件を購入し、旧管理
棟の基礎の上に1908下宮殿を別荘として築いた。
下宮殿 unteres Schloss (1906-08) ロバート・フェルナラは歴史主義の別荘に
住み1911に死亡し、娘のエリザベスは1957まで住んだ。1959地域の教会が
建物を取得して変換した。
マグダレナ教会 Magdalana Kirche ()後期ロマネスク教会には領主の墓が置か
れたが、1805教区教会としては放棄され、病院や弾薬庫で使われ崩壊し
た。1850内陣がユースセンターとなり、1955隣接する牧師館も廃止された。
旧ブドウ絞り所 Alte Kelter (1698) 2階建の木組の建物は、1970に
ブドウ絞りが行われた。1980改築後ワインが貯蔵されている。
手工業の家 HandWerker Haus (18c) 後期バロックの変わった外観の2階
建の建物。
旧牧師館 Ehem.Ev.Pfarrhaus (1669) 1693の火事を生き残った。
市庁舎 | シュッフェン搭 |
火薬塔 | 下搭 |
内市壁 | ビュール搭 |
通り | コウノトリ搭 |
ケルター搭 | 外市壁 |
1062 皇帝アグヴィスはエアスタイン修道院に町を委託、1153 バーデン辺境伯に女子修
道院を委託、1220 町に昇格し市場権・都市権を授与され防御施設を建設、
1231 執行官が城に居住した、 15c ワイン産業の振興による繁栄、
1504 ヴュルテンブルク侯爵が町を征服、 1595 ヴュルテンブルクは町をバーデンから買収、
1556 宗教改革の導入、17cの30年戦争・ペスト流行・1688仏軍占領で破壊・人口減、
1634 ネルトリンゲンの戦に敗北し町は破壊、 1642 仏・スエーデン軍の略奪と破壊、
1688.1693 仏軍の侵攻と破壊、1803-06 郡庁所在地、1810 マールバッハの下に、
1810 地区管轄都市へ、1822 地方裁判所の設置、1938ルーデヴィッヒブルクへ併合。
バーデン辺境伯ヘルマンは、1220に約100m延長し二つの要塞を築いた。一つ
の施設は、南の町の出口でショッヘン塔と石の建物で城の側を守り、もう一
方の北側は流れの渡河を制御した。狩ラッパ塔は17cに壊れ、取壊れた下
宮殿を思起させる。
狩ラッパ塔 Waldhorn Turm (1220) 下宮殿の一部として建てられ、
29m高さがある基部は4mの直径がある。名前は近接の宿屋から名付けら
れた。5階の丸天井・ロマネスクの暖炉・便所の張出があり、4階には元の入口
や石工の雑多な記号のある切石が見られる。
火薬塔 Pulver Turm (1220) 旧内側市壁の西の角塔で、少なくとも
1643までは、円錐形の頭巾を装備していた。中には火薬を貯蔵した。
北西壁塔 Nordwestmauer Turm (1220) 北西角市壁の防衛塔。
ショッヘン塔 Schochen Turm (1220) 高さ31mの上塔は、塔見張り人によ
って命名された。バーデン辺境伯ヘルマンは上城の一部として建てた。16c
塔冠には見張人が住んでいた。
ネッカー川にエンツ川が合流する平地に、ブドウの段々畑に囲まれて市壁のあ
る中世の細長い旧市街があり、多くの古い木組の家がある。
市庁舎 Rathaus (1459) バーデン辺境伯カールが、計量器・裁判所席・収穫
物蔵ある3階建木組の百貨店を建てた。地階は市場として使われ、2階
はブドウ会館と宴会場、3階は市場管理所であった。1750漆喰天井、
1977大規模改修後1989から市庁舎になった。
市公会堂 Stadt Halle (1470) 古いブドウ絞り所でもあった。建物は
17c九年戦争で仏軍に破壊された下城の農場の建物で、1938-73町の
ブドウ園組合が使った。1972町の岩山園ワイナリーにベジッシハイムブドウ園組合
が合併して、ワイン造りを行った。中には27,480リットルの木製の大樽があ
る。1986-89広場が再構築され地下5階の駐車場が造られた。
簡易裁判所 AmtsGericht (15c) 周囲を囲まれ。領主の農場・館への
入口・住居・管理棟がある。1571-1683若干の改造がおこなわれ、1683宗
教上の管理所、1756-74司祭館、1815-19校舎、18221地方管轄裁判所、
今は簡易裁判所。
新教市教会 Ev.Stadtkirche (1382) 神聖なマーチン・ニコラウス・キャシャニャを奉た
住居・住居身廊が建てられ、1484守護聖人聖キリアクスを奉った。1520高さ
15mの菩提樹の祭壇・聖具保管所・礼拝所、1545と1601新教改造と増築、
1847と1966更新。町の重要な芸術品は米人為飾られている。
旧牧師館 Altes Pfarrhaus (1774) プハルツの元領主がブドウ醸造所とし
て建て、1964まで町の牧師たちの住居と第2の役所であった。1967町が
取得し、1982-83に住居に改造した。
旧皇帝の館 Ehem.Koenigliches Oberamt (12c) 中世領主の館として、
管理事務棟のある貴族の本拠地である。13-14c城は上級代官の居所であ
り、15-17cは貴族家族の個人所有となった。1630ヴュルテンブルク侯爵の所有
となり、1810新設の上級官僚の居所となった。1908旧城を取壊して今の
建物となり、1938地区管轄役所は終了した。
石の家 Steinhaus (1220) 上城の住居として1413に言及され、バーデン
辺境伯陪臣の居所であった。19-20cは穀物蔵・刑務所事務所であった。
今は市立音楽学校で使われている。
焼き場 Backhaus (1820) 火災安全上の理由で、レンガ造の家が外れに
建てられ、毎年春にブドウの枝の束を燃やした。今でも3か所残され、
まだ操業している。
ベンガーターの家 Wengerter Haus (1500) 郊外にある典型的な家で、内外
市壁の間にある。2階建破風のある木組の家で、丸アーチの地下室門・丸天
井の地下室・持ち送り突出部・木製架台がある。九年戦争の仏軍に破壊さ
れた。1836ヴュルツブルクから民間人が600ギルダーで城を合体。
町薬局 Stadt Apotheke (1494) 非常に複雑な木組の家で、3戸の家の
集である。1628二つの建物を一つの大きな商社に改造し、1661薬局と薬
味の調合装置を備えた。1685-1858所有者の移り変わりに応じて改築さ
れた。
三切妻の家 Dreigiebel haus (1486-1501) 町で最古の三つの破風を建
てた木組の家で、1610今の形に改造されて店舗開設。1699多数の所有者
が分割、1986-89今の姿になった。
プファール路地10の家 Gebaeude PfarrGasse10 (1461) 2階建木組の家で、
上階に厚板室・壁画がある。牧師館としてバーデン教区の僧会員が使用し
た。1596バーデン辺境伯官僚が交換し、1763-1938ベンガーターの家、1928住居
と店舗。
市書記室 StadtSchreiberei (16c) 美しい3階建木組の家で、16cに町
の書記が住んだのでこの名前が付いた。17cに助祭19cに市民が使った。
記念物 Denkmalgeschuefztes Fachwerkhaus (1600) 2階建の木組の家
は、堂々とした土台に地下室入口があり、奇形の隅様式やねがある。
最も古い所有者は有名な外科医であった。
市壁の上 Auf der Mauer (1532) 漆喰仕上の木組みの家で、1532市長
が建て、1534-51に在職した。飾りの多いバルコニィにはイニシャルの「MY」がある。
市庁舎 | ギーゲル塔 |
東壁 | ウルム門 |
北壁 | 白塔 |
1083 文書による最初の言及、 1170 バルバロッサ皇帝は領主の所有地を入手、
1180 皇帝の鋳造地となった、 1190 バルバロッサ皇帝は町に昇格させた、
1239 土地を取得して病院設立、 1281 帝国都市となる。、
1343 ギルドの台頭、1374ギルド憲章、 1365 町を東に拡大、
1484 白塔完成、市壁には25の門塔、 1450 綿リネンの輸出で町は繁栄、
1516 大火で106戸を焼失、 1548 教会の宗派共同使用の初め、
1618-48 30年戦争でスエーデン・仏軍占領、1635 ペストの流行、
1703-04 スペイン承継戦争で仏軍来襲 1796-1800 仏墺戦争、
1802 バーデン大公国へ、 1806ヴェルテングルク州へ、 1945空襲と仏軍の占領。
西南の山上に190m、北に10m+30m、東12mとに、市壁の残りがある。
Ulmer tor 1365建 最後に残った市門、4階建前屋根付塔。1820に
自立の鐘楼。鐘は鵞鳥の夜の追込みに使った。
Gigel turm 14C建、見張塔として建てられ、1788に高さ39mで再建し
展望塔と住居として使われた。火事と嵐の警報を出していた。
Weisser turm 1484建、防衛塔で高さ41m径10m、30年戦争で壊され、
1978改修してボーイスカウトの家、ガイドツアーで塔中を見せる。
マルクトには、美しい木組の切妻が並んでいる。水と土曜日には市が立つ。
旧市庁舎 AlteRathaus 1432建、後期中世の木組の家。地階の開い
ている所は肉屋の販売所であった。上階には事務室と参事会議室がある。
新市庁舎 NeuRathaus 1497-1503建、アーケードには食料品やパン屋が
並んでいた。上階には会議室や織物展示場がある。
聖マーチン教会 PfarrKircheSt.Martin 14C ゴシック様式の教会、バロックの
天井画1748、上シュバーベンのバロック街道の駅、1548から両宗派が共同使用。
ビバーアッハ博物館 MuseumBiberach 1516建、聖霊病院は1258に創立さ
れ、大火災後今の形になった。市内最大の複合体に博物館が入っている。
自然史・考古学・町の歴史・芸術の展示。
牡牛館 OchsenhauserHof 1775建、修道院Ochsenhausの建物であり1903
からラテン語学校。1978高齢者出会の場。石造地階の上に豪華な木造3階建。
下囲い UnterSchranke 16C建、倉庫やショールームとして建てられ、1824
穀物倉庫、ヴュッテンブルク最大の穀物取引の中心、地階石造の上に木組破風が
乗っている。
市庁舎 | 火薬塔 |
東壁 | 下門 |
市壁 |
789 文書で最初の言及、 1360 ヴュルテンブルク伯の所有となった、
1364 都市権をえて、市壁を建てた、 15-16C ブドウ園や貿易で町は最盛期、
1634-50 30年戦争でスエーデン軍占領、 1689 仏軍による町の破壊、
1849 プロイセン軍進出。
市壁は1364に造られ、前面の堀と壁上防衛路で守られたが、一部は19Cに
壊された。残りの壁は、Bemalter塔に20m、Unters門に4m、西Graben通に50
mこれは1984復元、東Pulver塔に20m、南Zuinger通に120mと切れ切れにある。
Unteres tor 14C末建 昔の4市門の内唯一残された。門背中の切石
は城の再利用である。1500木組の側面は閉じられた。時計のある屋根頭
部は16C、門は落し格子で閉め、横の歩行門は1930に付けた。
Pulver turm 15C建、北東角の防衛塔で鉄板張塔として町側は開かれ1821
に塔は住居と共に売られた。1950に子孫が買い戻した。市壁もある。
Bemalter turm 南に上部構造を付けた四角形の塔基部、1587にルネッサンス
様式の彩色がされた。
地階部分が石積で、その上に木組を重ねた16Cの家屋が多い。市庁舎など大
きな建物も木組で残っている。
市庁舎 Rathaus 1507建、3階建の木組で張出塔・美術時計・屋内階段が
ある。1564に文書塔を付け、1602-08現代風とした。1780に化粧仕上で描い
た。地階は公開の市場、2階は大宴会場、3階は裁判所と参事会室とした。
今日は行政の事務所として市長がいる。1926と1981に建て直された。
ホルンモールドの家 HornmoldHaus 1536建、代官で教区の委員管理者の住宅。
曲がった×型十字の木組である。地階は広くルネッサンス壁画が飾られている。
1625-26現代的な台所と玄関を増築、1679-86に建て直され今は町の博物館
宮殿 BietigheimerSchloss 1542建、ヴュッテンブルク家の役所である。1506
に代官の所在地となった時に南西の古い宮殿が建てられ、1542に今の大き
さに拡張され倉庫・管理棟・ワイン醸造所として使われた。1707に火事に会い
1707-12に再建された。19Cから1999までは税務署として使われ、2000-03に
建て直されて公民館として使われている。
新教市教会 Ev.StadtKirche 1400建、初めは城礼拝堂として建てられ、
北に隣接した城天守閣が時計塔として残されている。1542の城塔の倒壊に
より教会は部分的に壊され、その後に身廊は拡張された。1544-47塔が立ち
1507後期ゴシックの説教壇の足がある。
ブドウ絞り所 Kelter 1542建、町の中央に領主のKelterがある。1542に
今日の大きさに拡大された。1762に落雷の火事で壊れ、トラスフレームの寄棟屋根
と四つのワイン絞り器を備えた。
焼き場 BackHaus 1830建、北側市壁の所に焼き場を建てた。板石屋根
と石造雨樋。農婦はまだこの焼き場を使っている。
焼き場 BackHaus 1828建、南側の乞食門にある。王の命令が1808に発
せられ、町中の公共焼き場を、危なくない周辺部に配置して建てられた。
1828の火事の前にこの町は命令に従って、この焼き場を建てた。二つの公
共と二つの私の焼き場があり、使用料を払って焼かなければならなかった。
裏門 | 修道院 |
壁跡 |
1085 僧院の設立、湧水「青い壺」、 1267 市場権の授与、
1447 ヴュッテンブルク州に売却、 1534-35 宗教改革の実施で修道院廃止、
1608 追加の市場で塩と鉄の貿易を独占、 1635 30年戦争で墺による一部破壊、
1648 ビュルテンブルク公国へ返された、 1806 神聖ローマ帝国が終わり郡庁となる、
19C 中世の城郭の外に南に町を拡大。
修道院と丸い旧市街地の両方に市壁があり守られてきたが、1830に多くは
壊された。今では家に取り込まれた壁と修道院近くに一部屋根付き市壁が
残され階段で登れる。
全く見当たらない。修道院の周壁には裏口の木戸がある。
旧市街地には、木組みの家屋が多く、歴史的な町の鍛冶屋がある。噴水
も。
修道院 Kloster (1085) ゴシックの大回廊教会であり、後期ゴシックの美しい
祭壇がある。修道院は1524改修された。今は神学校として使われている。
中庭にBrunenKapelleの湧水井戸がある。
湧水「青い壺」 BlauTopf 修道院の北に、深さ21mで湧水量32000l/s
の泉があり、地下には石灰岩の長大洞窟がある。
原始時代史博物館 UrgeSchichlichesMueumm 有史以来のネアンデルタール人の
生活を展示。
旧市庁舎 | 共同遺産相続人城 |
上門 | 宮殿 |
西壁 | 南西 |
793 教区の修道女がロルシュ修道院に遺贈文書 、1188 スタウフェン時代に城の存在、
1276 ロスバックはアウリッヒに城・牧草地を売却、 1284 王ルドルフは町に都市権を授与、
1286 正方形の旧市街地は市壁・門・塔で防御、1291 王ルドルフは息子に町を贈与、
1291 その後400年間町は相続された、 1750 伯爵フリードリヒは町全体を買った、
1750 そのため共同遺産相続人制度は終った 、1756 素晴らしい宮殿を建てた、
1785 ヴュルテンブルク侯爵カールが町を買収、1785 ヴュルテンブルクは町を地区管轄都市に、
1938 ルードヴィッヒスブルク郡に編入。
13cの正方形の旧市街は1.15kmの市壁で守られた。胸壁部は高さ9.1m厚さ
1.6mで壁上通路は木製屋根で覆われた。隅々には防御塔が立ち、今でも北東と
北西の角には残骸がある。市壁の残りは南西部と西側に点在。
上門 Oberes Tor (1286) 7階建の殻塔で内側のアーチ通路上と最上階は木
製でスイング門と跳ね橋で守られていた。夜には門は閉じられ、塔には守衛が
住み通行料を徴収していた。1772屋根は火災後にバロックに置き換えられた。
1984前面は修復された。
下門 Unteres Tor (1286) 市壁と共に建られ、1605火災後更新された。
1812塔が取払われた。残されたのは、二つの門柱へ町の紋章と半月に車輪
をを乗せている。
泥棒塔 Diebs Turm (1458) 市壁の前面に突出した半円塔で、防衛通路出
入口の上には「1458バルトザール」の飾り文字があり、町で最古の建設年次で
である。法律を破る人は、塔の地下室に閉込まれた。
8cからのワインの町で、多くのワイン酒場がある。また多くの興味深い建物があ
り、町では興味深い50の建物をルートに沿って説明している。
会議室 Ratstuebe (2000) マルクト広場にあった1456の美しい木組の市庁舎
は、1549に壊され1765に再建されて使われていたが、1945仏軍の侵攻の際
に燃やされた。2000に3階建木組トラスで再建されたが、歴史的な復元ではな
い。
共同遺産相続人の城 GanerbenBurg (1085) 皇帝バルバロッサ所有し、市壁の
北西の隅に当たり、後に共同以段相続人に渡された。1525農民戦争で壊さ
れ1546に再構築したが1679大部分が壊された。1979城は改修された。
協同組合ブドウ絞り所 Genossen Schafts Kelter (1188) 市内4地区の協同
組合のワイナリィの建物で、正面に時計と4地区の紋章を掲げた。
住民焼場 Orts Backhaus (1828) 市内のオーブンによる火災の危険性を排除
するため市民焼場が建てられた。まだブドウの枝等を焼却している。1929の
火事の後に更新され、1984にも改修された。
石の家 Stein Haus (1295) 1.3mの厚い壁の石造2階建の建物で、ゴシックの
窓とロマネスクの入口がある。農場の住居・穀物やワイン倉庫を務めた。1993シュバーベン・
シュナップス博物館となった。
農場 Meierei Hof (1462) 農場の中央管理棟・使用人棟・酒蔵・厩舎・納屋が
残っている。裁判所としても使われた。
十分の一税倉庫 Zehnt Scheuer (1480) 西にある大きな倉庫で、2008に十
分の一税倉庫として完全に復元された。
共同遺産相続人の代理人事務所 Sachsenheimer Amthaus (1620) 各共同遺
産相続人の代理人の席で、1370の共同遺産分割で成立した。ザクセンハイム領主の
紋章が玄関ドアにあり、この制度は1750に終了した。1995に改造された。
ゲミンゲン・ブドウ絞り所 Gemminger Kelter (1085) 地階石造屋根木組の建物
で、1地下室と3花床を有し、南側にゲミンゲン領主の紋章がある。
家人の館 Bebenhauser Hof (1085) 1103ブドウ畑を持っていた修道院の中庭
に2階建木組の建物が建てられた。階段塔は木組の碑文で飾られた。1983改
装されてホテルに変換された。
聖キリアクス教会 St.Cyriakus Kirche (1085) 1100に言及され、1280の最も古
い塔の部分が残されている。1350を中心に3廊の聖堂が構築され、1864二つ
の通路はネオゴシックで更新。1400内陣1500本祭壇はヴュルツブルクに固有の物である。
鋤の柄の家 Stelzen Haus (1085) 2階部分を片持支柱支持で張り出した珍
らしい家で、税金が地面の面積で課税されたために考えられた。
旧宿屋:金の鹿 Ehem.Gasthof Goldener Hirsch (1563) 16cの典型的な装飾
トラスの裕福な市民の家で、1984に更新された。
宮殿 Schloss (1756) 侯爵フリードリッヒ・シュタディオンは1750この町を買収し、娘
ゾフィーラが城に住み、小説を書いて出版した。その後キリスト教青年村ドイツが使い
1878-88林業部門が、1996博物館「シャーロットザンダーのナイーブアートとアール・プリュット」が
使った。
旧市庁舎 | 聖ブラジス市教会 |
マルクト広場 | ハウプト通 |
ヘンレス塔 | 屋根付市壁 |
西南壁 | 西南壁 |
775.850 ベネディクト会修道院の記述、1138 シュタウフェン皇帝コンラッドは城を領主へ、
1150 シュタウフェンはフロヒベルクの戦い勝利、 1188 皇帝バルバロッサは町として経済振興、
1241 帝国税リストにより帝国都市へ、1348-49黒死病・ペストの蔓延、1400市壁拡大、
1489 完全な帝国自由都市となった、1525 農民戦争、 1538 銃眼を設けた、
1545-46 プロテスタント同盟に参加 、1604 町は栄え市庁舎・学校・病院・市壁の建設、
1618-48 戦争の略奪・破壊・疫病。 1648 和平でヴェストファーレン州へ、平和金支払、
1796 仏革命軍の進駐、 1802 和平で帝国都市消滅、バイエルンへ所属、
1803-65 町の要塞は取壊された、 1810 ヴュルテンブルク王国に帰属。
最初の市壁は12cに造られ、1400頃に拡張された。多角形の市壁跡見わけ
られる。西側に120mの市壁には1985に説明板が付けられた。東南にも通路屋
根付きの市壁50mがある。
ヘンレス塔 Haenles Turm (1400) 北端にあり4階建円錐屋根の円塔で、拡
張建設時の2門6塔の内唯一残っている。1830刑務所として使われて、19cの
解体を免れ、1991に改修された。
16c帝国自由都市の最盛期からの多くの木組の建物が残され、歴史的な街
並とシュバーベン高原の自然に囲まれた小さな町である。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1585-86) ルネッサンスの印象的な破風の市庁舎は、
晒し台・時計・クレスト・螺旋階段塔があり、地階は穀物と肉の屋台として使われ
上階は会議室や宴会広場であった。1604に商店風に再建された別館を事務
棟として、1875に統合して拡張した。2011内部を近代化し、2007-09旧学校
を改造して追加した。2011ガラスの建物を建てて三つの建物のアクセスを提供し、
印象的な統合を果たした。屋根裏部屋には市庁舎の鐘がある。
聖ブラジス市教会 Stadt Kirche St.Blasius (650) 最初の建物は木造であ
り、8cに石造の建物になった。1100領主によって取払われ、ロマネスクの教会が
新築された。1299聖なる巡礼地となり、1300内陣はゴシックで建てられ、次の
100年間に拡張されて今の姿になった。鐘は時を打ち、908の大火にも鳴ら
された。塔は1911に壊れ、1612-13に再建された。
アグネス修道院 Agnes Kloster (1264) スタウヘンの宦官マルガードリッターは修道院を
設立した。その後町農場やゲストハウスとして使われ、1272アウグスブルク司教ハルトマン
の許可を得て売却された。今は住宅や食堂として使われている。
市教区司教館 Ev.Stadt Pfarrhaus (16c) ドミニコ会修道院の古い回廊の敷
地に建てられた。1606には今の位置にあった。1991建物の内装や改造を実
施。
病院 Spital (1731) 教区司教の許しを得て、市壁外に建てられた。1388
戦争で壊され、1395アウグスブルク司教により再構築された。1808礼拝堂と共に買
却された。1911病院は再建され、礼拝堂は1961に解体された。
山の粉挽場 Berg Mueller Haus (17c) 大規模で豪華な前面切妻の木組3階
建典型的な民家で、1990古い木組の家は復元された。
石の家 Stein Haus (13c) 領主が所有した風格のある建物は、1283エッケン
バードの領主に販売した。後にネーレスハイムの修道院が所有し、町の農場として使
われた。1566市が買取り市庁舎とした。市庁舎がマルクト広場に移転後は、市長
に売却され、今も個人所有である。
薬局の家 Apotheker Haus (1901) 前面は職業を表現しており、絵画は地域
の魔物である。2007建築家が購入し、前面の絵画を含め解体復元した。
下の銭湯 Unter BadsTube (1336) 初め銭湯は騎士団が所有し、15cの終わ
上と下の二つの銭湯が存在した。1615町は下の銭湯を買って整備した。18c
初め上の銭湯、1724まで下の銭湯は営業した。その後は住宅として使われた。
魂の家 Seelhaus (1505) 木組の家は初め貧しい人を収容した。二次大戦
後はアパートになり、1987大規模な改修の後に町博物館となった。地階には地
質から町の歴史を表示し、上階には帝国の小さな町の起源と発展過程、町
の特産品の経緯を展示している。
鍛冶屋 Schmiede () 古い鍛冶屋の建物は、1984伝統的な木組の様式に改
造され、今は食堂である。
古い学校 Alte Schule (1546) 町の最初の校長は1336に言及されている。
1546宗教改革の中に校舎は建てられ、1814生徒の増加で校舎は建て替えら
れ、1982改修された。今は社会的な目的に使われている。
故郷の部屋トロヒテルフィンゲン Heimat Stuben Trochtelfingen (1999) 旧市庁舎
内に博物館は収容された。地階は歴史と田舎の生活、上階は工芸品、屋根
裏は農業活動の一年を伝える。
市庁舎 | 宮殿北 |
宮殿南 | 西南壁 |
788 ロルシュ修道院の文書に記述、 1246 ツアイゾルフはヒルザウアーに物品寄付で言及、
1279 町には長方形の市壁と堀があった、1280 ハプスブルク王は帝国都市特権授与、
1301 市壁が完成し門が備えられた 14c 町の支配権は継承・販売等で変化した、
17c 30年戦争・承継戦争で略奪・破壊、1691 大災害で町は壊滅、再構築は18cへ、
1806 ヴュルテンブルク王国の地区を管轄、 1938 地区管轄都市を外れハオブロン地区へ、
1945 二次大戦最後の日に爆撃被害。
12-13cに造られた市壁は、旧市街地の南西の角の城の周辺に残っている。
旧市街の西南の角に円塔が残っている。
州最大741haのブドウ畑があるワインの町。
市庁舎 Rathaus (1424) 1691火事で焼失し、市庁舎は旧浴場に移転した。
1774-76ロココ2階建鐘楼付きの市庁舎を再建し、1954完全の改修された。
聖ヤコブ市教会 Stadt Kirche St.Jakobus (1200) 初期ゴシックの内陣と木製
バレルボールド覆の身廊で、改革後16cに市教会に昇格した。中には後期ゴシック
の墓石と初期バロックの説教壇がある。
ブラッケンハイム宮殿 Schloss Brackenheim (1559) 旧市街の南西に、モーゲンハイム
貴族の古い城の代わりに、1556-59伯爵クリストが3翼の建物を建てた。1670火
災後1657に西翼1685に北翼を再建され、代官と本部が入った。今は地方裁
判所。
上門の家 Obertor haus (1828) 1907-1968地方管区刑務所であった。
2000テオドールハイス博物館になった。
旧地区管轄事務所 Ehem.Oberamt() 3階建木組漆喰塗の建物は地区管轄事
務所のため建てられ、その後パン屋・住宅・商店として使われた。
風呂場 Badhaus () 1400-1530町浴場として使われ、1576改修された。
1691の火災後1776まで市庁舎として使われた。その後商業ビルとなった。
古い学校Altes Schule(1608-10) 華やかな3階建木組の家で、1896迄学校
として使われ、その後1804までラテン語学校だった。今は事務所ビル。
木組の家 Fachwerk Haus 多数の歴史的な木組の家がある。
Pfruendner Haus(1461)
Bad Haus(1580)
BandHaus,SchlossKeelerei(1600)
市庁舎 | 市聖母教会 |
下門外 | 下門内 |
アーチ門 | 館 |
799 ライフェナウのボットワルドは教区財団設立、802 ライフェナウ修道院への寄付で言及、
1100 この町の貴族の存在を証明、 1203 ツェーリンゲン侯爵は周壁・4門を建設、
1305 町となり墺の飛び地へ、 1313 町はディーセンホッカー法制を授与された、
1301 侯爵ルドルフは市場権・都市権を授与、 1415 帝国自由都市に、墺連邦脱退、
1450 墺侯爵は町の全特権を保証、 1444 フェルステンブルク侯爵は町を入質、
1492 町は再び墺の手に渡った、 1565 火事の後農業市民を町に定住、
1685 フェルステンブルクに対抗し墺連隊駐留、 1740 墺承継戦争で町は宿営地に、
1806 ヴュルテンブルク王国の領域に。
1203の町の防備は、市壁・4門・堀・土堤で守られた。内側と外側の市壁の
間には13-18mの堀があった。
旧市街の4門は、1203市壁と共に建てられ、1842Gupfen門、1850上門・教
会門は壊された。
下門 Unteres Tor (1203) 粉挽門とも呼ばれ、最後の1門として残った。
小門 Pforte () 北東と北中の市壁に抜け穴が設けられた。
旧市街地は変形五角形で、内側市壁を後壁とした建物で囲まれている。
漆喰仕上が主体で、木組が露出した建物は少ない。
市庁舎 Rathaus (1590) 助役のハンス・リ-トミラーが建て、1669から町は市庁舎と
裁判所として使い、1820-40はバーデン司令部となり、1978に改修された。
旧ストック城 Ehem.Stockburg (1505) ステーヘリン家の城付き領地であり、周壁と
一つの塔を備えていた。1667その時代の様式に改装された。
町長の家 Schultheissen Haus (1733-85) 町長の住居として使われた。
1820-40にはバーデン司令部が市庁舎を使ったためにここに市庁舎が移された。
聖レミギウス教会 St.Remigius kirche (11c) 地域の母教会で、1694迄は町教
会であった。古いアラマン族の墳墓の側に建てられ、元も古い部分は塔の基部で
1450に内陣で、1680火災後の改修、1859身廊が今の姿になった。1993-99改修。
旧宮殿 Altes Schloss () 以前のシェレンブルク城内に1393無税で貴族事務署を
設け、16-17cシェレンブルク男爵が所有した。1917火災で破壊され、1923今の形で
再建された。
ケルンの館 Kelnhof (9c) 皇帝の所有地にライヘナウ修道院が早期中世風の建物を
所有し、修道院財産の管理人が使用した。1922までは宿屋「仔馬」となり、
1988からは博物館である。
ブックの側の家 Haeuser"Am Buck”(12c) 旧城入口付近にある中世風建物群
であり、1673まではここに12cに建てられた城ニコラウス礼拝堂があった。
ヨハン・パプティスト・ツッチーネ生誕の家 Gebertshaus Johan Bapiist Tutine (1838)
カールスルーエの画家の生誕の家で、その作品はKelnhof博物館に納められている。
市聖母教会 Unsere Liebe Frau (1881-89) 1520と1694に礼拝堂が建てら
れ、19c末に教会が建てられ、1972と2009に修復された。
市庁舎 | ミュンスター |
門塔 | 銅門 |
良い仲間門 | ライン門 |
銅門 | 北門 |
ツッラー塔 | 西壁 |
ハーゲンバッハ塔 | 東北壁 |
北西壁 | 聖シュテファンミュンスター |
13c 町は都市権と舗装権を与られた、 1273 ハプスブルク王ルドルフは自由帝国都市、
1331 西部の宗教・文化の中心地となる、 1500 皇帝マクシミリアンは要塞と市場を整備、
1639 仏60年占領、対ハプスブルク防衛線構築、 1697 和平でハプスブルクに戻った、
1741-45 要塞の解体、 1793 仏革命軍により町は殆ど焼失、
1806 バーデン大公国になる、 1871 独仏戦争、
1945 2次大戦で町の85%を破壊、 1997 仏軍の駐留。
山頂の旧市街の南側に640m北側に140mが見られる。ライン橋の前後にも壁がある。
山頂近くの、大聖堂への南登り口にHagenbach Turm、北側のKapf Tor、北東
のTulla Turm,中のRadBrunnen Turmがあり、山の下の、北東にRhein Tor,東に
Kupfer Tor,南にGutgesellen Torがある。
馬飲場塔Rad Brunnen Turm (1189) 41mの古井戸、塔は拷問部屋・中世の市
庁舎・裁判所として使われた。1983以来塔は展示会と講演会場として使われる。
急坂を上がって大聖堂と市庁舎のある山上に見所は集まっている。
青の家 Blaues Haus (1691) 1829から聖ペテロ大聖堂のゲストハウス。1829ユダヤ協
会が購入して、集会場・学校・病院として使った。一時中断したが2003再購入
して<ユダヤ教会が使っている。
聖シュテファン大聖堂 Muenster St.Stephen (12c) 塔が不均等で、古い角塔は
ゴシックの網目窓、西側の建物は後期ゴシックで。3身廊はロマネスクである。主祭壇は
1526に造られ彫刻で飾られている。大聖堂の内部は芸術の宝庫であり、1491
壁画・1597ルネッサンスの豪華の説教壇・1967通路や玄関のステンドグラスなどが在る。
市歴史博物館 Rhein Tor Museum (1678) 仏軍によって建立されたライン門は
1991市歴史博物館となり、石器時代からの市の歴史を展示している。
旧市庁舎 | 市庁舎 |
マルクト広場 | メランヒト家 |
協同教会 | 笛吹塔 |
北東壁 | 南東壁 |
767 ロッシュ修道院の文書に初言及、 1120 ライヘン伯爵クライッヒガウは市場町に、
1158 エバーシュタイン伯爵が集落に、 1254 都市として最初に言及、
1283 シュパイヤーの教区になった、 1492 プファルツ伯フイリップは4年間市場権授与、
1500 プファルツ選帝侯は帝国の郡の一部へ、 1504 ヴュルテンブルクのウルリッヒは町を包囲、
1556 宗教改革の導入、 1689 プファルツ承継戦争で町は損傷、
1803-06 バーデン大公国へ所属、 1821 バーデン大公国の地区事務所へ。
旧市街は13c中に南西に拡張し14c後半に市壁で囲まれた。今は南東部と
1689プファルツ承継戦争で町は損傷、北東部に僅か残された。
笛吹塔 Pfeifer Turm (13c) 北側の見張塔として、高さ26mの角塔で、
塔頂には切根と窓があり、1645メリアン彫刻がある。数回ひどく壊れて再構築さ
れた。15cには包囲中に壊され、1689町の刑務所となり、最終的に郡庁にな
った。その後展望塔となり、使用中に焼失した。1830ヘルメットなしとなった。
シッメル塔 Simmel Turm (14c) 南東の角隅の円塔で、付近に市壁が残る。
マルクト広場は、2-3階建の切妻付の美しい木組の建物で囲まれている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (13c) それまでの栄光と称賛の壮大な建物は、
1669に破壊された。1689一時的な建物を建て、1787の改修も控えめのもの
であった。1888に拡張され、ドイツルネッサンスの立派な現在の市庁舎になった。
ホテル:クローネ Gasthoh Krone (1550) マルクト広場に立ち、皇帝カール5世・学者など
の有名人が宿泊した。この中世の宿の敷地内に今のホテル・クローネが建てられた。
1689火災後に復元されている。
聖十字架教会 St.Kreuz Kirche (1697-02) バロックの新教教会で、1821
バーデン新教教会の改革派とルター派を統一した。以来聖十字架教会の典礼使用
は参事会教会へ移った。
地方管轄区 Amtshaus (14c) 宮中伯地方管轄区とその後のバーデン地方事
務所を通じて行政の中心として600年以上あった。その伝統を持つ古典的
な建物である。町の役所建物に近接して1796に再建され、1887地方裁判所
が加わり、1936地方事務所の廃止後、営林署・警察署・税務署等として使わ
れた。
メランヒトの家 Melancht Haus (1897)フィリップ・メランヒトの生誕400年に生家の敷地
内に建てられた大きな記念館である。神学者の部屋・紋章・コインメタル94・原稿
と出版物の展示。
スイス裁判所 Schweizer Haus (1707) 中世に、裕福な修道院の十分の一税
の館に位置した。1997-01に老朽化し改修され、力強い3階建木組の倉庫が
蘇った。2002町と地域の歴史博物館となり、上層階にレストランと共に収容さ
れた。
鞣し屋 Gerber haus (1585) 馬具や製靴のための2階建の家で、1689の
火事に生き残った数少ない古い建物である。市壁を後ろ壁とした木組の
家で、居住空間と作業空間が分かれている。1991-94市民が改修した。
協同教会 StiftsKirch (13c) 一部ロマネスク部分的にゴシックで、塔は身廊の
軸に立っていない。1709二つの宗派のための分離壁がが設計されて、
1936-38にカトリックの独自教会が建設された。1936-37に教会は改修された。
市庁舎 | 聖ニコラス教会 |
839 貴族が城に君臨し行政と裁判を実施、 1085 ベネディクト修道院の設立、
1200 フリードリッヒ2世は町を新設、1213-16 町に市場はなく経済的な発展はなかった、
1241 市壁で町を囲んだ、1274 最初の都市権、1275 王ルドルフは自由帝国都市に、
1291 コウンスタンツの攻撃で略奪と焼払い、 1376 シュバーベン都市連合に加盟、
1525 農民戦争、 1634 30年戦争スエーデン占領、 1796 仏革命軍の駐留、
1755-71 スイスへの塩の輸出拠点になった、 1802 帝国自由都市を解消しバイエルンへ、
1810 パリ条約でヴュルテンブルク王国へ、 1944 空爆による町の破壊。
1241若い町の周囲を台形の市壁で囲んだ。1643絵画にも殆ど代わりない
市壁の状態を示している。西南部には下門があり病院が置かれた。北の教
会にある北門から火薬塔に向かって市壁は置かれた。南側の市壁は1853に
は存在したが、空襲後の復興期に殆ど除去された。
門・塔は、1813下門、1842上門、1845火薬庫塔と海門が、それぞれ壊さ
れた。
港の雰囲気はあるが、1944町は空爆を受け、古い建物は少ない。
旧市庁舎 Rathaus (1906-07) 1828からの市庁舎の位置に、20c初め旧市
庁舎が建てられた。地階には市場広間と警察署が置かれた。1944空襲で壊
され、1949道路拡張のため残骸は取り払われた。
新市庁舎 Neues Rathaus (1954-56) 旧市街中心部に、空爆による破壊の
後の設計コンペに優勝したシュツットガルト建築家の計画に沿って、新市庁舎が建ら
れた。
聖ニコラウス教会 St.Nikolaos Kirche (1431) 最初、墓地にミコラウs礼拝堂が建
てられた。1437-94後期ゴシックの内陣と塔を備えた教会として新設された。
16c単身廊となり、1745-46外装を変化、1940近代化、1944空爆で破壊、
1946-49再建して献堂され、1960.1984に今の姿になった。
旧牧師館 Ehem.Pfarrhaus (1427) 修道院が家を取得し、1519・1587に更
新された。1805-17国が所有。1944空爆で損傷し2年間は住めなかった。
1951-81再度牧師館として使われた。1983販売され、1986旅館「病院地下
室」になった。
旧病院 Ehem.Spital (1427) 精霊病院は1584と1738の火事の後に、2階
建切妻屋根で再建された。1871老人ホームとなり、1949に破壊され、1985-87
商業施設として新築された。
旧倉庫 Ehem.Gred Haus (1387) 陸上と海上の輸送のための倉庫として
1811政府機関の管理棟となり、1829宿舎として販売された。1897ヴュルテン
ブルクの税関となり、1906郵便局の電信所、1944破壊されて、商業・住宅
ビルとして再建された。
旧塩倉庫 Ehem.Salz Stadel (1755) 長さ95mの長い切妻屋根の建物で、
1810物品倉庫、1827通関倉庫、1851鉄道駅の半分に、1933店舗、1964取払
われて、新しい店舗。
ツェッペリン博物館 Zeppelin Museum 飛行船>ツェッペリンL21-2130まで実際に使
用した部品などが展示されている。
市庁舎 | 聖パンケレチウス教会 |
市門 | 木組の家(市壁左) |
762 ストラスブールの文書に初言及、 1231 城が文書に初言及された、
1348 都市権が授与された、 1525 農民戦争で城も破壊された、
1561 ラザロ・シュベンディが領主となった、 1572 領主は城をルネッサンスの宮殿に変換、
1648 30年戦争で町は荒廃、 1672 仏軍は宮殿を破壊、
1797-1803 モデナ公国に、 1905バーデン公国に、 1937 仏軍の占領、
1945 仏軍の占領、市街地は南西に拡大。
16cの市壁は旧市街を囲んでいたが、外壁は南に拡大された。西端の城
下の石積は高い。壁が見えるのはこの部分である。
町の市門は当初4基あったが、今は1門しか残っていない。
ライン門 Rhein Tor 3階建ての角塔、内側両側に木組みの2階屋がある。
旧市街地には、木組みの家屋が多く、石畳の道・井戸・菩提樹が雰囲気
を高める。
市庁舎 Rathaus (1604) ルネッサンスの建物。
ブルクハイム城 Burkheimer Burg (763) 初めストラスブールの砦として建てられ、
1525農民戦争で破壊され、1572領主シュベンティはルネッサンスの宮殿に拡張し防
護壁で囲んだ。1672仏軍が破壊し、その後再建はされなかった。1901
外壁の残る城の遺跡はワイナリィーに。
聖パンタラス教会 (11c) カトリックの教会で、16cの壁画・バロックの祭壇があ
る。1742再建され塔はゴシック。
コルク・スクリュー博物館 18cからのコルク栓抜きを1千個集め、その一部を展示。
市庁舎 | マルクト広場 |
新教市教会 | 南壁 |
南壁 | 西南壁 |
10c アウレリウス財団はHirsau修道院を支援、 775 カルヴ侯爵は南に城・新修道院設立、
1256 市長が自治証明、1260 カルヴ貴族断絶、1300 工芸品・革・織物生産と交易で活況、
1308-45 ヴュルテンブルク伯爵が所有、 1362 ヒルガウ修道院はスタムハイムを手中に納めた、
1400 現存のニコラウス橋を構築、 1454 ヴュルテンブルク伯爵は都市権を授与し市場を整備、
1525 農民戦争で修道院は略奪された、 1590 羊毛製品の海外輸出、1616玩具盛況、
1634 栄えた交易都市も30年戦争で壊滅、 1685-97 9年戦争で仏軍の略奪と破壊、
1851 大洪水で建物被災。
13cに要塞があったと思われ、1523に言及されている。16cの市壁は門・塔・高
い壁があり、外側にはツインガーが配置されている。19cの初めには殆どの壁が壊さ
れた。今残るのは、ツインガー通の右側とザルツ路地の南に厚1.5-1.8m壁と壁上通路。
外門 Aeuseres Tor (16c) 切妻付の二つの建物の間に旧外門があり、
SchaufelTorとも呼ばれた。19c初に市壁の大部分とこの門塔も壊された。
長い塔 Lange Turm (13c)元要塞の唯一生き残った塔は、刑務所の塔とな
った。右下に昔は刑務所の建物があった。全塔の最高の塔であったため、こ
の名前となった。夏には塔に登れる。上階木組の小さな建物は守衛の住居で
あった。今は小さな博物館で、旧要塞の資料・刑務所の様子を提供している。
ナゲルド川の河岸段丘の上にある町で、ヘルマンヘッセの生誕地である。中世の富の
象徴としての大きな美しい木組の家が多数残されている。
市庁舎 Rathaus (1454) 初めの役場は1634に壊され、再建された石造の市
庁舎の地階 では穀物が販売された。1673の市庁舎では、肉屋・パン屋の屋
台が地階に置かれた。1692には再度焼失し石造階のみが残り、上層階は1726
-30に再建された。1929には改修され、18cの窓枠は取り換えられた。前面に
はヴュルテンブルクと町の紋章を掲げた。
マルクト広場は、かっての裕福な商人や起業家の大きな木組の家で囲まれている。
新教市教会 Ev.Stadt Kirche (1262) 初め聖ピーターとポール教会は1634の大火
で破損し再建されたが、1692にも焼失したが、急いで15cの内陣を使って再建
された。19c中には新築が求められ、1888に一部古い部分を活用してネオゴシック
の新教会が献堂された。中には1655の十字架や1627の碑文がある。
ゲオルゲン・オイム Georgen aeum (1879) 創設者オランダ総領事が、町の教育機関と
して1871に発足させた。3階建の大きな建物で図書館・大ホール・読書室を整え、
後には女性労働学校も追加された。背後には広い市公園が配置されている。
ニコラス礼拝堂 Nikolaus Kapelle (1400) ナゴルト川に架かる石橋の上の礼拝堂
に海の守護聖人ニコラウスが奉られた。1926の改修時に、町の産業としての布と
木材の記号がくわえられ、窓には町の紋章が入れられら。1970礼拝堂の場所
は、マツクト橋が完成して、歩行者専用の空間になった。
ホマーの家 Haus Hommer (1692) 火事で焼けた隣地を買い求めて、3階建の大
きな木組の家が建てられた。一時鉱山会社が所有し後に市民が再建させた。
旧ラテン語学校 Alte Laten Schule (1696) 階段塔付き2階建上階木組の建物
に、初めはラテン語とドイツ語の学校学校が入ったが、その後ラテン語学校のみとな
り、化学などの高等教育が行われた。1980市が購入し、1987から地元のコミュニ
ティカレッジとなった。
ジュルダンの家 Haus Jourdan (1693) 2階建切妻屋根上階木組の建物は理髪師
のシンボルを掲げた。旅館:ツム・ラッペンとして100年間使われ1875から肉屋になった。
シュナウファーの家 Haus Schnahfer (1694) 1751木組の大きな家は歯科から売られ
磁器の生産を試みたが5年後に放棄され、その後ワイナリィーになった。1962の大火
の2年後に、玩具会社の家族のために、風格と美しさのある3階建木組の
AltDeutscheHausが高い技術で建てられた。
塩倉庫 Salz Kasten (1696) 15cから1807までは、ヴュルテンブルクの町は塩を供給
する義務があり、塩倉庫を建てた。その後民間会社が塩の特権を有してバイエルン
から購入した。
石の家 Stein Haus (1694) 1692の大火事の後に、石の耐火室と石造の家を
建てた。ヘルマン・ヘッセは、ひんぱんにこの家の客となった。
シェーバレの家 Haus Schaeberle (1500) この石造の家は、町で最古の建物で主
として住居として使われ、17cの町の破壊を生き延びた。19cには肉屋となり、
1862にシェーバレが取得してこの名が付いた。
シャーバーの家 Haus Schaber (1697) ヘルマンヘッセの家族は、1874-81この3階建木組
の家に住み、1877ヘッセはここで没した。この家でヘッセは幼少期と青年期を過ごし
た。
シュッツの家 Haus Schuez (1813-14) 医師は宮廷建築家に依頼して住居を建て
た。ここにヘルマン・ヘッセ博物館が置かれ、作家の人生と作品が展示されている。
ヨハネス教会 | 市博物館(元病院) |
地方税務署 | 地方裁判所 |
1136 初文書言及、 1289 アウグスブルク・サンモリッツ教団は権利と利益をエッチンゲン侯爵に販売、
1314 ホーエンローエ・クラルスハイムの叙任、 1316 町に市場権を付与した、
1338 皇帝ルードヴィッヒは都市権を授与、 1379-80 帝国都市ローテンブルクによる包囲、
1399 ホーエンツオーレルン家はニュルンベルク子爵へ販売、 1411 壁や病院礼拝堂の建設、
1441 城の丘への巡礼開始、1497 石の橋の構築、1556 アンスバッハ家の管区事務所設置、
1607 都市特権の新都市憲法制定、 1622 最初の町役場の取得、
1791-92 アンスバッハ辺境伯の退位、 1806 ナポレオン戦争後のバイエルン・ヴュルテンブルクの支配、
1812 市壁と市門の解体開始、1866 プロイセン軍の占領、1945 空襲・地上戦で8割破壊。
14cの市壁には、1大門・3入口・4塔があった。今は泥棒塔の南側に僅か残る。
市門の取壊しは、1812下門から始まり、1822下門のDurchGang、1825病院門、
1835頭部、1847レンク門と、全て壊された。
泥棒塔 Diebs Turm (14c) スタウフ時代のオリジナル市壁の最後の塔であり、水城の
表玄関でもあり、市壁の北東の隅に立つ。その後監獄を務めた。
市塔 Stadt Turm (1717)改革の200周年記念に建てられ、世界で最高の宗教
改革記念碑とされている。
武器庫塔 Zeughaus Turm 武器庫に塔があり、新壁塔の最後である。
二次大戦で戦略的に重要な鉄道の結節点であったため爆撃目標となり、町の
8割が破壊され、古い建物は少ない。
市庁舎 Rathaus (14c) 地方貴族が百貨店として建てた建物を、1824まで市
庁舎として使った。戦後に建てられた庁舎とL字型につながった。側に市塔が
ある。
聖母礼拝堂 Frauen Kapelle (1893) 聖母礼拝堂は大戦を生き延びた。
聖ヨハネス教会 St.Johannes Kirche (1398-1440) 聖ヨハネ教会は、終戦後に歴史
的建造物として、1400の高さ57.5mの塔を内蔵して、復元された。
宮殿 Schloss (1400) 初め地方の貴族が建て、その後方伯の王宮となり、
皇帝などが住んだ。1945破壊された後、1956行政の建物が建てられた。
旧市庁舎 | 聖ペター教会 |
クリゲリンゲン城 | 市民塔北壁 |
北壁 |
1045 バンベルク司教文書に旅行先で言及、 1088 コムブルクの修道院が来た、
13c 村はホーエンローエ家のブルクブラネットの財産へ、 1349 ゴットフリートは町の憲章を授与、
1338 皇帝ルードヴィッヒは都市権を授与、 1379-80 帝国都市ローテンブルクによる包囲、
1389 コンラート4世は教会を設立、 1505 ディルマン・リーメンシュナイダーの祭壇彫刻、
1390 系統の断絶後ホーエンローエ家ブラウネックが支配、1791 町はヴュルテンブルクその後バイエルンへ、
1836 プロイセンが所有し1810メンゲルトハイム郡に、 1973 マイン・タウバー郡へ。
中世後期の市壁は、西に残っている。
リンドライン塔 Lindlein Turm (16c) 中世後期の都市防衛施設の軍事望楼であ
った。1795その後の所有者が石壁の上に木製トラス構造の住居を置き、2部屋・台
所・便所がある。
1993市が塔を買収し整備し、1999から観光客に開放している。
ファウル塔 Faul Turm ()5階建ての角塔で長方形をしている。塔に家屋と市壁
が付いて、2階への外側階段付いている。
ロマンチック街道上の町で、ティルマン・リーメンシュナイダー作の木彫のマリア祭壇のあるヘルゴット教会
が有名である。
旧市庁舎 Altes Rathaus () 石造2階建の建物。
市庁舎 Rathaus () 3階建の旧学校で、大きな石造の建物。
ヘルゴット教会 Herrgotts Kirche (16c) 南約1kmのゴシックの教会の中に、1505の
ティルマン・リーメンシュナイダー作の木彫のマリア祭壇がある。
新教教会 Ev.Kirche (12c) 数回の建替えの後にバロックで再建され、1180の後
期ゴシックの聖堂が残され高い尖塔が付けられた。中には後期ゴシックの幕屋と16c
説教台。
ローマ風 Romschloessle (1) 1992-94に西南部の葡萄園の家を、根本的に改修
し、2階建木組の家と3階建木組の塔のある建物と庭園のある文化施設になっ
た。市図書館・市音楽学校・陶器の収集・美術展と演奏会の開催などに使われる。
旧薬局 Alte Apotheke () マルクト広場の角に、2-3階建木組切妻屋根の建物が
あり隅に張出室のあり目立つ。
指貫博物館 Fingerhurt Museum () 世界の縫製付属品を指貫など3500点を展
示している。
ユダヤ博物館 Juelisches Museum () ユダヤ人の昔の生活を展示している。
市門 | 城跡 |
西壁 | 教会 |
上通り |
988 オットー3世はヴォルムス教区の森を所有、 11c ラウフェンの伯爵が代官として城構築、
12c ネッカー川の舟運が発展し居住地に、 1156 城の古い部分を強い壁で固めた、
1206 ディールスベルク城の完成、1219 領主はデュルンへ、 1310-40 プファルツ選帝侯へ、
1347 選帝侯ルプレヒト1世は町を設け市壁を築く、 1360 城の拡張と近代化、
1401 プファルツの複事務所として機能、 1412 市長と議会のある町を保証、
17c 30年戦争と仏革命軍に城は生き残る、 17c 仏軍は拘置所として使った、
1822 石材が取られ城の解体が始まる、 1895 城の部分的回復、
1914-45 4千人以上の住民を収容、 1945 仏軍の占領、市街地は南西に拡大、
1967 歴史的な建物と街並の再生。
城の六角形の階段を上がると高さ16mの高い城壁が東部と南部に残る。全
長230m。市壁は全長730mが残されている。
町の市門は当初からの1門か残っている。城には高い天守閣が聳えている。
市門 Stadt Tor (14c) 町への唯一の入口の角塔。上屋部分は木造四角錐
屋根である。
天守閣 BurgFried (14c) やや傾いた形の六角の高塔。
山頂の城を囲む旧市街地を市壁が完全に囲んである。市壁内の旧市街地
は美しく再生されている。城からのネッカー川畔の眺めは素晴らしい。
ディルスブルク城 Dilsburg Burg (1209) 1360拡張と近代化。厩舎・果物店・司令
官の家・中庭のアーチ天井・トンネル地下道等が在る。
聖バーソロミュー教会 (1380) 背後に円塔が在る。
市庁舎・市教会 | 新教市教会 |
バスラー門 | 南壁 |
1161 村だった、1196 スタウヘンの町だった、 1219-34 バーデン辺境伯の個人財産、
1418 2年間の毎週市場開催権の授与、 1525 農民戦争に門を開き修道院は略奪、
1565 辺境伯カール2世はプファルツハイムから住居を移し、市壁の拡張と更新、経済は発展、
16c カール2世は市壁外の東にカールスブルクを建設、 1586 大学の地位を獲得、
1648-88 30年戦争の荒廃を克服して繁栄、 1689 9年戦争の仏軍による焼払い、
1715 政府と大学はカールスルーエに移転、農業の町へ、 1743 町の中心部で15戸焼失、
1786 ブドウ栽培農場の展開、 1810-32 バーデン大公国の組織変更で郡庁設置、
1833 カールスブルク城は兵舎に。
13cの市壁は辺境伯カール2世の遷都に伴い16cに市壁は拡張・更新された。
東南の刑務所は1843-46に旧市壁の上に建てられ、1872-73連邦最高裁判所の
青年拘置所と未決拘置所を新設した。
バスラー門 Stadt Tor (14c) 14cの4市門の内唯一残った市門で、昔は
バーゼルからの入口門であり、そこに辺境伯は副宮殿を持っていた。
牡牛門 Ochsen Tor (14c) 4市門は1689の火事の後に1753に再建され、
1845に壊された。東にまだツインガーが見られ火事の後に市壁も再建された。
一次市壁の旧市街地から、宮殿の移転に伴う拡張が行われ、不規則な形
状に発展している。町の規模は中程度である。
市庁舎 (1718) プファルツ承継戦争1689の破壊後に、1715-18ヨハン・ハインリッヒ・シュ
バルツの再建が行われ、次にヤコブ・ホッホステターによるバロック前面の今の階段切妻
になった。内側の化粧板には、町の飢餓の絵が描かれている。
新教市教会 Ev.Stsdtkirche (12c) 1255に初言及、それは聖ステファンに捧
げられた教会で1192には成立していた。1689大火災後に1700に今も姿の
新しい教会が再建された。
聖ピーターとパウル教会 St.Peter und Paul Kirche (1900) 1565の宗教改革
導入からこの町には新教の教会しかなかった。旧教徒は少数であり、
1809から礼拝はカールスブルクの祝祭場で行われた。1898-00にカトリック教会として
建てられた。
聖ニコラウス礼拝堂 St.Nikolaus Kapelle (16c) まず市教会の側に墓地があ
り16cに墓地は市壁の外に移され1900迄使われた。1535聖ニコラウス祭壇が市教
会の側にあり、1689に焼失したが1712に再建された。
イクスキュルシュ宮殿 Uexkuellsches Palais (1714) ニコラウス・ニッダが建て、その後
の所有者は王子たちの教育者とイクスキュール宮の宮中顧問であった。
カールスブルク宮殿 Karlsburg (1565) 旧狩猟の宮殿で、辺境伯カール2世がプファル
ツハイムからこの町に宮殿を移すに際して拡張された。1689プファルツ承継戦争で
損傷され、1715までに礼拝堂と王宮厩舎と共に西翼が建てられた。
町で一番古い家 Eones der Aeltesten Haeuser Durlachs (15c) 1689の大
火災を免れてわずかの家が残り当時の2階建切妻木組の様式を今に伝る。
豚肉処理場 Schlachthaus (1574) 30年戦争で壊され、1659-66に町が再
建した。1689の火事の後1788に王宮復旧し、1749-50に新設され、1930まで
ここで屠殺された。1989には建物は更新された。
オルガン工場 Orgel Fabrik (18c) 1770からこの建物はオルガン制作の家族が
所有し稼働した。この町の経済発展を表し、今は文化や芸術の催物に使
われる。
高等中学校 Gymnasium Illustre(16c) 1586設立。1689の火事で焼け、
1715王宮の移転後ギムナジュウムとなり、1724カールスルーエに移転した。町には教育
高等学校が残された。
市庁舎 | ミカエル教会 |
広場 |
12c ボルムス教区のエバーバッハ城が存在、 1196 エバーバッハに貴族領主、
1227 ハインリッヒ7世はホーエンシュタウヘン家の領土へ、1321 城近くの町が初言及された、
1330 城と町はラインプハルツ伯へ質入れ、 1361 プファルツ選帝侯支配への移行、
1402 城はヒルシュホルンのハンスによって破壊、1528-55ハイデルベルク大学はペストで移動、
16c プファルツ選定国として宗教改革導入、17c 30年戦争の被害は少なかった、
1803 町はライニンゲン公国に落ちた、 1806 バーデンに帰属した、
1845-55 欧州農業恐慌に苦しんだ、 1925 町は地区事務所を失った、
1945 空爆で旧市街の一部は破壊された。
1227市壁を建設するための資金を得て、新市街地を含め川沿いを長方
形に囲み、4隅に市門が造られた。東北隅のバラ門塔には魔除けの市壁が
10mあり、西北の火薬塔から南の青帽子の川沿いに建物の外壁を兼ねた
市壁260m、青帽子から北に外壁を兼ねた市壁が30mある。
火薬塔 Pulver Turm (13c) 市壁の北西の角に立つL型の5階建て
の角塔であり、1766時計、1870大砲が付けられた。今は自然公園ネッカー谷
・オーデンの森がここに置かれている。塔に登ると見晴らしが良い。
青帽子 Blauer Hut (14c) 市壁の南角に立つ、一番小さくてエレガントな
青いスレート屋根の角塔である。一時的に町の監獄として使われた。
ウインチ塔 Haspel Turm (14c) 市壁の北の角のリンデン広場に立つ角塔で、
町の監獄として使われ光のない地下室にウインチで囚人を降ろした。今は5
階にミニチュアの展示場がある。
バラ塔 Rosen Turm (13c) 市壁の東北の角にある直径6.5m璧厚2.0mの最
古で砂岩の唯一の円塔である。昔の馬の飲み場の近くにあり、バラ井戸
とも呼ばれた。市壁とロマネスクの門の跡がある。
市壁の塔が4基残り、塔内には様々な展示もあって面白い。歴史的な木
組の家も多い。噴水には様々な像が立つ。
旧市庁舎 Altes Rathaus (13c) 最初の市庁舎1480に取り壊され、2番
目の庁舎は1814に老朽化で壊され、1823今の古典主義の3階建ての市庁舎
になった。1990から町の博物館となっている。
ミカエル教会 Michaels Kirche (15c) かって礼拝堂があった所に、1836建
てられた新教の教会で、広間玄関壁西には1426の年号が見られる。
聖ヨハネ・ンエポムスク教会 St.Johannes Nepomusk Kirche (1884-87) イタリアルネッサンス
3身廊の建物でカソリックの教区教会である。
タールハイムの家 Thalheim'sche Haus (15c) 最古の石造の建物で、プハルツ選
帝候の事務所として使われた。その後ライニンガー侯爵の狩りの館になり、
町役場ともなった。今は、ネッカー谷情報センターとなっている。
館 Hof (1470) 完全に残っている最古の木組みの建物である。
浴場 Badhaus (15c) 州で最も保存状況の良い中世の浴場で、建物は8
砂岩列柱の上に3身廊のゴシック・ボールトが架けられ温水浴場があった。
今は、ホテルやレストランになっている。
スガフィットの絵 Sgrafitto Malereien スガフィットは多色の石膏材料を用いる
手法で旧市街の各所で作品が見られる。
〇鯉ホテル:1934旧マルクトにあるにある3階建てホテルの前面に14フレームで町の歴史を
描いた。
〇宿屋カニの石:町の職業が3階建の建物に描かれている。
桶製造博物館 Kueferei Museum ワイナリーの設備として桶製造の設備の整
った工房がある。
市博物館 Stadt Museum (1990) 1227からの町の歴史・ネッカー川の交易・
森林と人・地質と風景・石の活用などを展示。
スズミニュチュア展示館 Zinnfiguren Kabinett (2012) ウインチ塔に開設された
ミニィチュアの展示室であり、恐竜時代・石器時代・ケルト時代・ケルン・ドーム・ドレスデン
聖母教会塔の精密模型が展示されている。
マルクト広場 | 旧身分代表議会 |
西南壁 | 旧精霊病院 |
西南壁 | 東南壁 |
プヒスター塔 | 北屋根付市壁 |
981 シュバルツ(バーデン)修道院文書に、 1230 城の領主が上の町を開発、
1346 バーガー侯爵家の断絶で墺に落ちた、14c 財政弱体のハプスブルク家は貴族に
町を質入れした、 1500 皇帝マクシミリアンは町に滞在、
1645 30年戦争の終了後シュバーベンは墺の定期会議場となった、
1688.1740 町を大火災が襲った、1805プレスブルク和平でヴュルテンブルク王国の郡都に。
町の創成期に、1230先ず上町の周壁が築かれ、1343下町の円壁が得られ
た。市壁の高さ6.5m厚さ2.3mで瓦屋根の壁上通路を備えていた。今は家
畜市場の領域で市壁は再建されている。あちこちに残され一部復元され
ている。
町の入口は、東はニコラウスとヴレーマー門、西はリー、ディンガー門、加えて近くの
塔の入口やパン屋塔がある。
ニコラウス門 Nikolaus Tor (1310) 上町とウルム郊外地の間の小さな石積が昔
のニコラウス門の場所を示している。すでに消えている前面堀には跳ね橋が架
けられていた。5階建門塔の2階には、ニコラウス礼拝堂があった。この門は町
の門の最後として1881に取壊された。
パン屋塔 Pfister Turm (1300) 町の北東側面の地形上の弱点を強化す
るためパン屋の近くに角柱円塔が建てられた。遅くには砲台塔として強
化された。今の木組の上部工は19cのものである。
ビール文化都市として4醸造所と43ビール店がある。1688と1740の大火事の影
響が街並みに現れている。
市庁舎 Rathaus (1713) 1688仏軍の侵攻で、それまでのゴシックの建物が
壊され、今の3階建の建物となった。1890の再度の火事の後に、歴史主義
で修復された。この時代からの広い参事会広間が維持されている。最後
に2010-11に外側を更新した。南に接続して建て増された部分には、1975
と2003の年号がある。
エレンバッハ館 Ellenbacher Hof (1527) エーレンバッハ領主の邸宅として建てら
れ1688の火災で壊され3階建バロックの漆喰仕上で再建された。地階は神話
のモチーフで後期古典主義の絵画で飾られた。
旧身分代表議会 Ehem.Staendehaus (1750) 30年戦争の後に、この町は
シュバービッシュ・オーストリア上級階級代表貴族協議会の会場となった。1749の火事
で焼けた薬局の場所に今の3階建の建物を建てた。1769購入によって1805
まで身分協議会場であった。3階大会議場には1711のロココスコッタ仕上がある。
今は簡易裁判所。
高い家 Hoch Haus (1400) 元礼拝堂の聖エリザベスは、2階の石積の上に2階
建の木組がある印象的な建物で、領主シュタインが建た。1499プレモントル修道会の
帝国僧院マルヒターが取得した。今は世俗化され、17cから僧院の館になり、繰
返し賃貸され1801私人に買取られた。
騎士の館 Ritter Haus (1692) シュバーベン帝国騎士は、騎士の館を宿泊所
として建てた。3階建の建物には、バロックの渦巻き模様・張出と壁柱玄関が
前面にそびえる。今は簡易裁判所の支所を収容する。
スペタッシャー館 Spethscher Hof (1520) 市壁の上に建てられた中世のラテン語
學校継承し1686ギムナジュウムとして使われた。1718スペス家の所有となり、今は
町の近代芸術美術館として使われている。
聖ブラスルス市教区教会 Stadt Pfarrkirche St.Blaslus (14c) ゴシックの教会
は最初14cに建てられ、聖ブラシウスは織屋の守護聖人として崇められた。何度
も身廊の拡張後1736バロック化が始まり1763-66ドイツ騎士団の建築マイスターが更新
した。
旧精霊病院 Ehem.Heilig Geist Spital (1340) 市民の慈善として病院が
設立され、1493に後期ゴシックの病院礼拝堂が建てられた。1532新しい木組
の家が建てられた。に、今建物は博物館として使われている。
ザレム修道院 SalemerbKloster Hof (1586) ボーデン湖の側のシトー会の修道院
は、ゲンス山上の養護所を建てて管理した。1746新しい家庭礼拝堂を建て、
聖ベルトハレトに捧げた。
代官屋敷 Vogtei (1689) 貴族の家をドナウ帝国騎士区の法律顧問の為に取
得し、1775に今の姿に改造され、入口玄関にドナウ騎士区の紋章がある。
ベストヴェスタン・ビール文化ホテル Best Western Bierkultur Hotel (21c) 客室の
片側の壁に市壁が取込まれ、上階から地階へ階段で降りる珍しい客室がある。
市庁舎 | 南東壁 |
南東壁 | 聖ヴィート教会 |
旧市街 |
764 ベネッディクト会修道院設立、 9c 王室の支援を受けて町を拡大、
1122 火災後修道院を再構築、 1182 修道院の南に市街地を形成、
1525 農民戦争中に宗教改革失敗、 1626-35 30年戦争でスエーデン占領とペスト、
18c 貴族はバロックの住居や教会建設、 1803 世俗化、ヴィッテンブルク公国へ、
1945 2次大戦で被害。
南東部に市壁20m+20mが、建物の壁や塀として見られる。
市塔 Stadt turm (14c) 中世の塔の家は1984に2階建て円塔として復元
され武器と市民警備隊の詰所となっている。市民警備隊は1756に設立されて
19c末に解散され1958には再設立された。
大聖堂を中心とした中都市で、建物は石造が多く丘の上に城がある。
市庁舎 Rathaus (1335) 旧精霊病院や療養施設から1486市庁舎に転用され
た。1612-1752拡張再建され、1749-52にバロックの外観になった。
聖ヴィート修道院 Basilika St.Viet (764) 十字型の聖堂は1182-1233に
シュバーベンの円天井を持つロマネスクのバジリカとなったが、ロマネウクの装飾は西ポーチ・聖
ミカエル礼拝堂・地下室の3部屋しか残っていない。1468-73ゴシックの回廊が付けら
れその29の窓には少しづつ異なる浮袋型装飾の細工がある。中には、1737-
40内装バロック化・1517右通路に大修道院長と領主の肖像画がある。
新教市教会 Ev.Stadt Kirche 旧イエズス会の教会に、1724-29華美なバロックの
前面が聖堂の西側に追加された。美しいポーチの格子の内側や天井の絵画は
壮観である。1802新教の教会となった。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1427) 集落の中心に建てられ、1724-29
バロックで再建され、ロココの壁画と天井画がある。内陣に大きな1748銀の祭壇。
アデルマン宮殿 Palais Adelmann (1688) 大きなバロックの切妻付の建物で、
今は、市図書館と文化行事に使われている。
チィメレ家 Haus Zimmerle (1550) 元コーチング旅館であったが、その後郵便局
となり、今は破風付3階建ての薬局である。
旧貧救院 Ehem.Stifts (1748-50) マルクトの旧市庁舎の上に、バロックの建物を
立て、バルコニィの凝った手摺が見られる。1812-17神学教師のために使われ、
後に地方裁判所となった。
エルヴァンゲン宮殿 Schloss Ellwangen (14c) 山頂に在った中世の城は、1603
-08ルネッサンスのシャトーに改造され、1720バロックへの改修が行われ1726ダブル階段・礼
拝堂・玉座の部屋が造られ、大規模な宮殿複合体に成長した。今は博物館と
して、領主の生活を9つの展示室で見せ、バロックのキリスト降誕の絵画や人形も展
示されている。
アラマン族博物館 Alamannen Museum (2001) 5-8cのアラマン植民地の様子を、アラマン
の織物・木工品・金と銀・キリッスト教の布教などの展示で説明している。
タクト自然史博物館 Naturkunde und Tagd (1991) 市役所の1階に自然と狩猟
の様子を
展示している。
市庁舎 | 市教会 |
1178 教皇アレクサンドル3世証書で城と修道院を言及、1239 地元貴族ハインリッヒを記載、
1290 都市圏を付与、 1293 町を守る市壁と市門は存在、
1347 祖先が付与の都市権を再確認、 1490 大火災で町は焼失し再建を優遇、
1522 後期ゴシックの教区教会の建設、 1525 農民軍が攻撃、 1583 大火災、
1631 30年戦争の略奪とペスト流行、 1669 墺カール大公は都市と市場の特権確認、
1756 女帝が7ギルドを認めた、 1805 バーデン大公国に帰属、
1909-12 ゴシックの市庁舎を建てた。
市壁として、教会の南側に30mの石積が見られる。
全く見当たらない。
狭く車は信号で交互交通のハウプト通り沿いに、2-3階建ての木組みの家屋が
並ぶ。
郷土博物館 Heimat Mueumm (16c) 2階建ての紋章付の建物に、地域の歴
史・生活・宗教美術品・カーニバル衣装・絵画や彫刻などを展示。
市庁舎 | 旧市庁舎 |
マルクト広場 | エメンディング門 |
Ev市教会 | 辺境伯宮殿 |
1127 シトー派テネンバッハ修道院を設置、 1358-86 マーチン・マルテラーが村を支配、
1415 辺境伯オットー・ハッヘブルク2世は、城と統治権をバーデンのヘルンルト1世に売却、
1418 村は王ジギスムントから市場権を与えられた、 1424 ミールブルク戦争でフライブルク
に敗れた、
1500 シュバーベンの一部となった、
1584 バーデン辺境伯領の辺境伯ヤコブ2世の邸宅へ、 1590 辺境伯ヤコブ2世
は町に都市権を与えた、 1648 30年戦争で800人が100名となった、
1796 仏軍に墺同盟軍が勝った、 1809 地区事務所が置かれ、
1936 地区となった。
旧市街地の西のエメンディング門の南北にミュール川の護岸を兼ねた市壁が
ある。南にAn der Stadt Mauerの地名があるが、市壁の痕跡は認めら
れない。
西門 Emmendinger Tor (1590) 市壁と共に3市門が築かれたが、
今は唯一この門が残っている。1706門に砲台が設置され、1929第3通
路が付けられた。
旧市庁舎 Altes Rathaus (14c) 今は1998設立の Deutsches Tagebuch
archireとして18c中からの4,637人が書いた21,795の日記・回想録・手紙の
文書が集められ整理されている。
新教市教会 Ev.StadtKirche (1236) 1424に壊されて1430-34に再建られ
た。1813-15に再建され1858-59に古典主義の塔はネオゴシックに置き換えれら
た。1903-05にされに拡張された。
聖ポニファス教会 Kath.St.Bonifatius Kirche (1863) カトリック教徒の流入で
1863に建立された。1894-96と1911-13に拡張され、内部には1473の後期
ゴシックの有翼祭壇がある。1938にオルガンが付けられた。
錠前屋の家 Schlosser Haus (1588) 辺境伯はGremppischrHofとして所
有し最高責任者が住んだ。バロックで再建され1986市立図書館となった。
ホッホ城跡 Burg Ruine Hochburh (11c) 町の4km東にあるバーデンで2番目
に大きな城跡である。12cから17cにかけて丘の上にそびえ立つていた。
13cからバーデン辺境伯バッハベルク家が所有していた。1553大幅に拡張がなさ
れ、中世にはルネッサンス宮殿と要塞に改築された。1971から一部外壁が残る
のみとなったが、保全協会を設立しては廃墟の保全を行った。
ユダヤ博物館 Juedisches Museum ()旧シナゴーク広場近くの小さな半木造
の建1716-1940のユダヤ人の生活の歴史に関する展示と、ユダヤ教の年間
祝日の説明がある。
辺境伯宮殿博物館 MarkgrafenSchloss Museum ()宮殿は北側に八角形の
横断塔のあるルネッサンスの建物で、今は市博物館と写真博物館を収容している。
市庁舎 | 塔 |
北壁 | 北西壁 |
862 砦の存在で初文書言及、 1285-86 都市権を付与され市壁設置、
1318 市場権の授与、 1379 ハプスブルク家の支配下に、
15c 自由帝国都市の地位を保つ、 1581 町の門の更新、
1615 涙の母への巡礼、 1751 魔女裁判、
1806 バーデン大公国へ。
1285-86に市壁は造られ、北側のRempert通りに20+30mの市壁が小塔と共に
見られる。
ケーニッヒシャフハウゼン門 (1286) 4市門の内唯一残る西門として、1319に初
言及された。1581に3階建ての四角塔に改造され現存する。今、塔の中の
監獄は、博物館と町の道化師同業組合の集会所になっている。
街並みを外れた畑の中の斜面に、小さな市壁で囲まれた集落があり、町
の構成要素は一通り揃っている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (14c) 1527に2階建で再建され、玄関には1528
の14の紋章が飾られている。
市庁舎 Rathaus (1617) 巧みな石細工3階建て切妻のある穀物倉庫とし
て建てられ、1973から市庁舎になった。この建物には後期ゴシックにルネッサンス
もある
聖マーチン教会 St.Martin Kirche (1200) 元は修道院教会としてルネッサンスで建
てられ、1455教区権を授けられ、拡張して教区教会を新築したが間もなく
壊され、1471後期ゴシック尖塔方式で拡大新築された。3階建ての塔は高さ39
mで5つの鐘がある。
カニの家 Haus Krebs (1775) 美しいバロックの住家として建てられ、どっし
りした玄関と芸術的なバルコニィの手摺がある。
チーズ博物館 Kaeserei Museum (1901) 百年間のミルク・バター・チーズの製造工程
を展示している。
前オーストリア博物館 Vorderoesterreich Museum (15c) 木組の家にブライスガウ
におけるオーストリアの歴史を展示する。
カイザーシュチュール郷土博物館 Kaiserstuehler Heimat Museum (1527) 旧市庁舎
に、家財道具・同業組合の標識・チィンパニィ・鐘・境界石などを展示。
市庁舎 | マルクト広場 |
マリア昇天市教会 | 見張円塔 |
門 | 円塔 |
東北壁 | 東壁 |
700 古い町に聖マーチン教会が設立、 1050-86 領主ヘーベンは最初の城を建設、
1170 エンゲンの領主は城を強に構築、 12c マルクトの北に最古の着色の建物を建築、
1489 初めて町と呼ばれた、 1404ルップフェン方伯の所有となった、
1582 伯爵元帥コンラットは統治権を封土とした、 1635 ペストの流行、
1639-60 フェルステンブルク公国の一部へ、 1640 反帝国軍兵士に焼け野原にされた、
1796 仏軍による略奪と焼払い、 1800 仏軍が墺軍との戦争に勝利、
1806 バーデン大公国に移行、 1915 大火事で32戸焼失、
1975 全旧市街の健全化を始めた。
小山の上の旧市街地を12cに市壁が囲んでいた。主として西側に市壁は残る。
市壁の東北の隅に見張り円塔がある。下の駐車場から上の旧市街に上る
エレベーターがある。
小山の尾根に旧市街があり、小さいが南独で最も保存状態の良い中世都市
が復元されている。
市庁舎 Rathaus () 元々二つの後期中世的な建物が今の市庁舎を構成し
てる。1486には2階の大会議室が言及された。中央入口に五つの星の町の紋
章がある。上階の歴史的な会議広間で、今でも町議会や委員会が開催され
中には、美しい梁天井と精巧な16cの暖炉がある。
高い衛兵詰所 Hoch Wacht () 町の防衛施設の重要拠点として、高い衛兵
詰所がスペンド路地の東にある。
穀物倉庫 Kornhaus () オート麦倉庫とも言い何世紀に渡り十分の一税倉庫
として、その後町の穀物倉庫として使われた。巨大な正面には階段切妻が
あり道側は4階建その他は3階建である。1570北東の角に目立つだまし絵の
張出しがある。19cに建物はビール工場の大麦貯蔵庫となった。
クレンキング城 Krenkingeer Schloss () 起源はスタウヘン時代であり、1200には存
在した。1640の火災の後に、1892-93バーデン風の役所に拡張改築され、中心
に円形階段塔付きの2翼の建物が置かれた。
浴場 Badstube () 旧町浴場はルーフェン通にあり、1440に言及された。当時
の定めでは浴場は流水の上に建てねばならず、衛生的な観点で使われた。
その後時代の流れで 社会的・文化的な生活のための出会いの場となった。
聖ヴォルフガング修道院 Kloster St.Wolfgang () 旧ドミニコ修道院は、1300
ペギン会の定住地として建てられ、女性共同体を形成して、修道会規則に
沿って生活した。1725ドミニコ騎士団につながれた。1629修道院教会が建てら
れ、1802世俗化後廃止された修道院にそれでも住んだ。1841建物群の一部
は学校に使われ、教会の領域は監獄となった。今は町の博物館と美術館で
ある。
ザムルング路地 Sammlungs Gasse () 典型的な中世の町の建て方が、この細
長い路地の通りに面して姿を見せている。昔ここには、聖職者や裕福な市
民が住み、家は裏側を市壁上に乗せ2-10番地には後期ゴシック2階建が立つ。
郊外の民家 Buergerhaus in der Vorstadt () 北の郊外に、1558領主の代
官ペーター・ハウクによって建てられた。1620の紋章銘板は天使を示し、1831町の
拡大で郊外地が含まれ、郊外地はマルクトの軽減のため街路市場として使われ
た。郊外地区の家々は市壁の上に前面と背面を置いている。
町薬局 Stadt Apotheke (15c) 1827からこの建物に町薬局が収容された。
1872の火事の後、今の状況に二つの構造体を結合した。
マリア昇天市教会 Stadtkirche Maria Hmmelfahrt () 今の鐘楼は昔防衛塔と
して建てられた高塔であり、正面入口の後期ロマネスク装飾は見事である。教会
の建設は1200-1250であり、15cゴシックとなり、1746-47バロック化された。1295か
らの墓碑があり、伯爵ルッペンやパッペンハイムが埋葬された。
パッペンハイムの家 Haus Pappenheimer (15c) マルクト広場のすぐ北側に堂々たる
建物が領主の紋章付きで建てられた。文書には「領主の館」として記述さ
れている。
市庁舎 | 市教会 |
笛吹塔 | 笛吹塔 |
木組家 | 北西壁 |
985 オットー3世の寄付記録に初言及、11c ザリエル朝、12c ホーエンシュタウヘン朝の財産、
1188 守られた郊外の新市場を言及、 1192 皇帝ハインリッヒ6世が町に昇格、
1219 フリードリヒ2世はバーデン辺境伯に質入れ、1364-72 森林官はミュールバッハを購入、
1479 選帝侯パラティーノは年2階市場開催許可、 1525毎週の市場開催権授与。、
15-16c 町は経済と文化の全盛期を迎えた、16c 町は西に拡張し郊外に市壁を、
17c 多くの戦争で町は衰退、 1803 帝国代理支配者終業でバーデンへ、
1807 町に司令部役所設置、 1813 町にバーデン地方事務所設置、
19c 町は管理機能で発展、建築ブームで市壁は取崩された。
12-13cに東側の楕円形の市壁が築かれ、多くは建物の基礎として残され
ている。西側郊外部は15-16cに築かれ、同様に建物の基礎使われている。
笛吹塔 PfeifferTurm (13c) 望楼として建てられ正方形6.9m高さ32m
壁厚2mの町で最古の構造物である。階段112段で登る第6上階は、木製の住
宅から見張所になった。19c初めに門は終了し、1850-59刑務所となった。
旧市街の貴重な壁画や15-16cからの120の風格ある露出した木組の家があ
り、当時の町の経済力がうかがえる。後期ゴシックの教区教会も荘厳な内装
がある。
市庁舎 Rathaus (1823-24) 古典主義で建てられ、建物の前面は中央突
出・バルコニィ・目立つ4本の門柱で構成され、小塔部には元レオンハルト礼拝堂にあ
った14cの鐘がある。2006-07市庁舎は西に近代的に増築された。
教区教会 Pfarrkirhe (14c) カトリックの旧市街の聖母に捧げられた教会で
基石には1435の年号がある。内陣の塔は以前の古い教会から来ている。
2階建のポーチのの上に1986の49鐘のカリオンが設置され毎時メロディを鳴らしてい
る。内部の壁面には多くの宗教美術作品があり、内陣塔にキリストと12使徒
の場面が1320からある。
カサリネン礼拝堂 KKatharinenn Kapelle (1450) 教会近くの旧墓地に聖カタリナ
礼拝堂が建てられた。1805内陣は壊されたが、かっての礼拝堂の空間は、
後期コシックのクロズボードは保存され、文法学校の広間・男子学校として使用さ
れ、1882-1973は福音幼稚園を収容した。
旧郵便局 AltePost (16c) マンサード屋根フランクトラスの木骨造の家で、1515-88
にカフェを営業した。1903砂岩ネオゴシックの建物となり1904アールヌーボ-様式になっ
た。
商店 Kaufmanns Haus (1552) 旧市街の西への拡大に伴い3階建木組の建
物が建てられた。戸口の梁に1552の年号がある。今も元の木組の店で営業
し、ルネッサンスの美しい彫刻が入口にある。
都市在住農民の家 Ackerbuerger Haus (15c) ルネッサンスへの移行期の3階建
木組切妻屋根の家で、木組間隔は狭く斜材が多い。
市酒場 Rats schaenke (1483) 中世後期の2階建木組の典型的な形で、
地下室と急傾斜の切妻屋根を持っていた。19c後半に屋根と上部木組の崩
壊で除去され、あらたに新築された。
キツツキの家 Spechtsches Haus (1582) 隅柱の上に山背結節角材が立ち、
木造控え支柱構造で窓が小さい。
旧大学 Alte Universitaet (1494-95) 切妻幅12m軒幅16.5m高さ22.5mは
町で最大・最高の木組の建物である。初め百貨店として建てられ、地階
の広間には肉屋の屋台が9台も並んでいた。2階は結婚式や公共のスペース、
3階は穀物とワインの保存に使われた。1564-1465ペストで、ハイデルベルク大学の宿
舎と芸術学部に使われた。
パン屋 Baecher Haus (1412) この地区で最古の3階建木組の家で、中世
の短く細い木組の外壁構造である。
建設者の家 Baaumann'sches Haus (16c) 町でも美しい地階石積上階木
組の3階建家である。木組の模様が美しい豊富な彫刻があり、上階持出し
・三段張出の切妻がある。
浮かぶ切妻の家 Schwebegiebel Haus (1450) フローティング切妻が構成され
微細な構造の3階切妻がある。この家は復元されている。
手工業者の家 Handwerker Haus (16c) 数年前に、漆喰を剥いで枠組み
を露出させた。
役所 Amtshaus (1781-84) 西市門の前に、バロック2階建石造の家が建てら
れ、1813-1924に役所として使われた。今は地方勤労局。
旧養老院 Alte Spital(18c) 上階木組の建物に貧困層の養老院があった
1895迄使われ、その後町の病院施設となった。
デルフィンの家 Delfine Haus (16c) 3階建上階木組の建物で、想像上の動
物である二つのデルフィンの彫刻がある。
市庁舎 | プリーンザウ塔 |
太い塔 | シェル門 |
6C アレマン族がフランク王国の下で支配、 777 修道院に贈呈、巡礼が行われた、
800 市場権が授与され、 866 文書で市場と町の拡大を確認、
1213 多くの大建築物が建てられた、1284都市権を授与、貴族とギルドの共同管理
1448-54 関税紛争が起こり、 1408 国会が開催された、
1526 最初のプロテスタントの牧師、 1531 自由な説教の承認
1618-48 30年戦争・洪水・ペストで人口半減、 1688 仏軍の占領、
1701 大火で200戸が焼失。 1803 ヴィッテンベルクに帰属、
1805-11 市壁や門の多くと聖カタリーナ病院を取壊した、
1945 2次大戦の被害は少なかった。
1220に最初の壁で市場が囲まれた。1281に谷へ新しい壁で封鎖。1330上門
郊外は含まれ28門50塔となった。1519-31に要塞は拡大された。18C末に市壁
は取壊された。1850に残っていた外壁と塔を破壊した。
北部の城山のBurgStaffel城階段に壁が残り、塔や屋根も付いている。城は
貴族の居城だったが要塞の北部を形成した。1519-31壁・塔・屋根を強化。
Wolfs tor 1220建、町で最古の3階建の塔、東の貿易路を守った。
名前は外観から来ており、シュタウフェンのライオンよりもオオカミに類似性がある。
Schelz tor 町の北西角の門塔であり、1993に復元され今はアイスクリーム店。
塔には矢が突き刺さり、その上に人形が乗って、時と共に動いている。
PliensauTurm 1228建、古い石橋は16-18cに何度も修復された。
中世の橋は南から内径13mの5アーチが残っている。この橋の中間塔は1819
に、市側は1844に、外側は1837にそれぞれ壊された。この塔は1980に
復元された。
DickerTurm 1527 市壁の一部として建設され、尖塔は1887に配置され
塔や基礎は1977に改修され、今はレストランが入っている。
HochWacht 1527建、城階段の西斜面上の四角塔。
町の中を小川が流れ、大きな建物は小川の北側に立ち並んでいる。東の旧
市街地には古い木組の家屋が多く見られる。
内橋 InnereBruecke シュタウヘン朝から維持され、貿易のルートを構成し
た。橋の上には店が並んでいる。
旧市庁舎 AltesRathaus 1420建、美しい切妻の木造建物、1586-89時計
塔と切妻面をルネッサンス風とした。1591稼働の天文時計がまだ動いている。
1926に24のカリオンが寄贈され、1976にカリオンは補強されて200曲を奏でる。
新市庁舎 NeuesRathaus 1748-51建、ゴットリープ男爵の宮殿として建てら
れた。1841から市の所有となった。
聖母教会 FrauenKirch 1321建、古いゴシックの3身廊ホール式教会でシュパイヤー
に属した。1516に高さ72mの塔を付加。1330のステンドグラス最後の審判のポータル。
新教教会 Ev.FranziskanerKirche 1237設立、1300本陣を建て、聖書の
ステンドグラスを付け、1390南壁に絵画を描いた。宗教改革後市の所有となった。
1668に一部壊された。1840本堂のバジリカを壊し、今では内陣と修道院の両翼
は1908-12に改修された。1999-2004改装された。
聖パウロ大聖堂 MuensteSt.Paul 1233建、初期ゴシックの旧ドミニカ修道院の
壁内に大聖堂建設を開始した。1268主祭壇ともう二つの祭壇を完成した。
ニコライ礼拝堂 NikolausKapelle 1350建、最初の文書記述、16Cに閉鎖、
1822-48工場を収容、1956戦争犠牲者の記念碑として再建された。
聖ディオニス教会 StadtKirchSt.Dionys 13C建、8Cの身廊教会があり、今日
の教会はゴシックの身廊に1272北棟、1310南塔、頂上を繋いだ2角塔の教会。
内陣窓にゴシックのルード画のステンドグラス、後期ロマネスクの柱。地下は1960-63発
掘の出土品。
市庁舎 | 下門 |
上門 | 聖バルトムス教会 |
712 町の創立者はストラスブルク大司教、 810 ザンクトガレン修道院の文書言及、
12C 大司教から市場権を授与された、 1302-04 アルブレヒト王から都市権授与、
15C 町の経済の最盛期であった、 1452 今日の旧市街地の病院建設、
1637 スエーデンや仏との戦いで町を全焼 、 1716 新しいギルド制度を取得、
1803 バーデン大公国になる、 1848-49 バーデン革命軍の拠点、
1849 暴動後プロイセン軍の占領2年間、 1945 2次大戦後に仏軍が進駐。
内壁はGartenhausの西側の基礎となった。OberTorの外側には円壁の延
長があり、その上に幾つかの建物がある。
上門 OberTor 壮大な塔は無くなり、1778から前門しかない。前
門のアーチの上にストラスブルクの紋章がある。
下門 UnterTor この門の昔の塔は、刑務所として使われ、1844に塔
は壊された。門の前面にはストラスブルク教区とエッテンハイム町の紋章を
マルクト広場 | 宮殿 |
マーチン教会 | 市壁柱 |
見張塔 | 北西壁 |
西壁 | 南西壁 |
788 ヴァイセンブルク修道院の寄付証書に初言及、965 皇帝オットーは市場権授与、
1192 皇帝ヘンリー4世は市場で徴税・市壁着手、 1219 バーデン辺境伯ヘルマンが領主、
1462 バーデン辺境伯ヤーコブ1世は製紙工場建設、 1689 プファルツ承継戦争で全焼、
1727 辺境伯夫人は城をバロックで再建、 1805.09 ナポレオンが城に滞在、
1836 紡績工場を建設。
12cアルプ川から南の旧市街地は、二重の堀システムで守られ、北側の旧市街
は簡素な防備システムであったが角の見張塔で守られた。堀と壁の機能の保持
に町の財政は困窮した。1689の仏軍による市壁の破断で、壁の防備効果は
失われた。18cに、堀は排水されて牧草地になり、今は大通りにもなった。
高さ7mの市壁は、中世の町の周囲を囲んだが、19cに大部分が壊された。
見張塔 Lauer Turm (12c) 北西の角に立つ円塔で唯一残された。
塔の外側に14cからの紋章が飾られている。
1689プファルツ承継戦争で仏軍により町は全焼させられ、復興に30年を要
したため、古い建物は少ない。
市庁舎 | ハウプト通 |
市民塔・北壁 | ヴュルツブルク門 |
西壁 |
771 Vuelfingenとして初言及、 1042 コツファーガウ侯爵がVuelfingenを支配、
1210 城と城下の集落と壁の建設、 1234 コンラッド・デューンは城を完成、
14c Duern侯爵家継続でホーエンローエに移された、 1399 城と町は入質された、
1438 アルプレヒト1世未亡人は城を居城に、 1500 ホーエンローエは帝国評議会に加入、
1806 ヴェルテンベルク王国のエーリンゲン地区へ含まれた、
1770-1816 飢饉があり1852墺に1875米国へ強制移住、1945 空爆で1/3が破壊。
13cからの市壁は、改修されたり保存されたりして、今も殆ど残されて
いる。
ヴュルツブルク門 Wuerzburger Tor () 北の門で東側が欠けている切妻
の3階建の門である。
泉門 Brunnen Tor (1724-25) 西の門で新しい門とも呼ばれる。北側が
欠けた3階建の切妻付の門。北外側にも家屋がある。井戸が置かれていて、
1891に門と門衛詰所は取り壊された。
市民塔 Buerger Turm () 南西の隅の角塔で4階建の高い殻塔である。
泥棒塔 Diebs Turm (16c) 北西の角に立つ角塔で、地下室に泥棒や犯
罪人を拘置してこの名前が付いた。1774大規模な改修が行われ、良く保存
され、1922ユースホステルとして4年間使われた。1949からは博物館を収容。
コッハー川南岸の小さな町である。旧市街地には多数の木組の家があり、
保存あるいは再構築された市壁・門・塔と市壁上の家屋が、1300と1587を
中心に建てられ、往時が偲ばれる。北部に元石膏鉱山があった。
市庁舎 | ブライザッハ塔 |
百貨店 | 石積 |
1008 入植地の初文書言及、 1091 ツオーリング侯爵はレオポルド城を構築、
1120 市場権と都市権を貸与、 12c コンラッド1世による都市の造成、
1200 銀鉱山の収入で大聖堂を建設 1218ツオーリング家の断絶後ウーラッハ伯家が支配、
1368 金で市民権を買いハプスブルクの保護を求めた、1515農民戦争で占拠された、
1632-44 スエーデンとバイルンに占領された、 1677.1713.1744.1796 仏軍の占領、
1815 ウイーン会議でバーデン大公国へ帰属、 19141次大戦仏空軍の爆撃、アルザスを失う
1944 空爆被害、1945仏軍の占領、 1951 バーデン・ヴュルテンブルク州に統合。
13cの市壁は,宿屋赤熊の市壁を切開いた車庫の入口に市壁全高が見ら
れる。1677仏軍は市壁を破壊して、旧市壁の周囲に8要塞を着工し、
ハプスブルク家が完成させた。1745仏軍は撤退時に要塞を徹底的に破壊した。
中世の5門の内3門が残り、Christoffels Tor(-1704)、Lehoner Tor(-1713)
Prediger Tor(-1866)は壊された。その後町は郊外に拡張し2市門が補われ、
そのうち1門が残り、Schnocken Tor(1314-1842)は壊された。
Martins Tor(1238)4階建て角塔は、数回再建され、17cには聖マーチンの肖
像画が飾られ、1851何回目かの描き直しが行われた。1901門塔の隣に3階
建ての塔を付けて車を通した。塔の西に付けられた守衛詰所は今マクドナル
ド店である。
Schwaben Tor(1250) 中世にはOber tor と呼ばれ、5階建ての角塔で、
1572階段塔が付けられ、1900北ドイツ風階段切妻の門が東側に付けられた。
1903町の守護聖人の像が追加された。1954塔は部分的に元の姿に近
づけた。1969私立博物館が置かれ、農民戦争などのジオラマがある。
Breisacher Tor(1677)仏軍要塞の残りで1745の破壊を逃れた。2階建
の建物は19cに建てられ、その後学校として使われ1903東翼が壊され、
2次大戦でも壊れ、1950-51復元されて2007まで保険事務所が入っていた。
町の中を水路が走り、爽やかな町である。ロープウエイで城山に登ると、
大聖堂市庁舎・大学・修道院などが眼下に眺められる。
旧市庁舎 Altes Rathaus (13c) 町の行政のためフランス広場に細長い建<
物を取得し、1559から事務を執り、1578隣家を購入し拡張した。1944
に空爆で破壊され、1999-2002に改修されされた。
新市庁舎 Neues Rathaus (16c) フライブルク大学で使われていた二つの
市民の家を、1901地階部分をアーケードで繋ぎ、1944市庁舎が移転した。
ルネッサンスの張出窓には、一角獣の浮彫が見える。
古い守衛所 Altes Wache (1733) 元中央守衛所は、1830衛兵が民間
となり、1883-79診療所、1888美術館となり、今はバーデン・ワインの家で
ある。
大司教館 Erzbischoeffisches Palais (1756) ブライスガウの騎士のた
めに建てられ、その後国民議会の集合場所、1806大公の宮廷として
使われた。1824大司教に移され、大司教の宮殿として1832まで使わ
れた。
旧商館 Historisches Kaufhaus (1376) 自治体百貨店は背面を拡大
して1532に今の規模になった。1550バルコニィが付けられ1744戦災の後に
再建され、1814前面改修、1884建物を昔風に改装、1988大規模修繕、
1947-51バーデン連邦の議場として使われた。赤いゴシックの建物で、尖っ
た屋根の張出と見事な瓦屋根を持ち地階はアーケード造りとなっている。
宿屋赤熊 Gasthaus zum Roten Baeren (1120) ドイツで最古の宿屋で
その壁は市の創立以来の基盤の上に立っている。1744仏軍は撤退時に
要塞を破壊した影響で、ロマネスク・アーチの家は大部分が崩れ、現在の堂々
としたバロックの建物が建てられた。1957前面に紋章と建物の歴史が描
かれた。
大聖堂 Muenster (1200) 壮大な後期ロマネスク・ゴシックの教会で、翼廊と
八角形の雄鶏の塔は未だに残っている。西に向かって工事が進めら
れゴシック化の経緯が見られる。1330に高さ116mの正面塔が完成し153段
の階段で登れる1354新しい大規模内陣の工事が始められ1513にやっと
完成した。身廊には2列の優雅な柱列があり高いリブアーチがある。内陣
には1512-16中央祭壇に聖母戴冠の絵画がある。
マーチン教会 Martins Kirche (13c) フランシス会の町の中心の礼拝堂で、
1262-1350修道院が建てられた。教会の中は1713-14にバロック化された。
1944空襲で教会や修道院は壊されて、通路と西切妻の外壁のみが残
り、1949に教会は修復を始めた。1955古い集会室のある牧師館の修
復した。
ヴェンツインガーの家 Wentzinger Haus (1761) 画家で彫刻家のクリスティアン
・ヴェンティンガーが建てた住居で、大聖堂広場の南側にバロックの階段吹き
抜けが保存され、市歴史博物館が収容されている。
市庁舎 | 下マルクト広場 |
市教会 |
1599 ヴュッテンベルク公のルネッサンスの都市計画、1601 人口3.5千人を目指す、
1632 火事で町の半分を失う、 1634 30年戦争で町は荒廃、ペスト流行、
1667 町の防御施設の建設開始、 1670 新都市を再編成して建設、
1674 城壁の完成、 1868 城門の破壊、
1877 市長は標高の高い有名リゾートを目指した、
1945 2次大戦の仏軍砲撃で95%破壊。
見当たらない。
見当たらない。
ルネッサンス都市計画の四角街路の様子は見て取れる。中央広場の規模
が大きい。
マルクト広場 MarktPlatz 1599 219m×216mのドイツで最大の広場は
建物で囲まれ、50の噴水のある流れる水面をは1999に造られた。
町役場 Rathaus 1953北 市役所の会場中は43mの塔に登れる。
市長の肖像画のギャラリィがある。
町公会堂 StadtHaus 1945-54建、戦災復興時に建設された。
今郷土博物館で町の歴史.手工業と旅行案内の展示がある。町の図
書館も併設。
新教教会 Ev.StadtKirche 1601-08 角が鍵型のルネッサンス教会、
1945破壊され原型に合わせて再建された。石の洗礼盤、ロマネスクの聖
書台、ゴシックのキリスト十字架像、ゴシックの尖った窓がある。鐘楼には大
きな鐘2と小さな鐘5と時計がある。
木組の家屋 ReichSchtrasse 1871に王国にちなんで付けられ、
歩行者専用道路として屋外カフェと商店が並んでいる。
市庁舎・聖マーチン教会 | 南壁 |
南東壁 | 東壁 |
861 ザンクトガレン修道院文書に言及、1372 町に昇格し墺大公から町憲
章を得た、 1381 墺ホーエンベルク伯爵領とした、
1536 墺イフリンガーは城と町を買戻し封土、1793墺イフリンガー家は家の財産に、
1806 ヴュルテンブルク州となった。
閉じられた壁の中には、農家.手工業者.貴族の住家として機能的
は木組家がつくられた。壁の中にあるイフリンガー宮殿はホーエンベルク家の
管理者であった。市壁は、市壁の上に造られた墺双頭の鷲の紋章
のある風格ある十分の一税倉庫と教会通りの家の基礎に見られる。
見当たらない。
木組の家がある以外には、見るべきもののすくない、小さくて静
かな町。
市庁舎 Rathaus (14c) 古いゴシックの町役場があり、1876-77に今の
古典的な様式の庁舎に建て直された。ここに市議会と地方行政連合
ドナウ・ホイベルクが置かれた。庁舎と旧墓地との間に小さな修道院があっ
たが1851に廃止され、塔には町の拘置所があったが、何れも1914に
焼失した。
聖マーチン教会 StadtPfarrKircheSt.Martin (15c) ゴシックの塔のある教
会を、1851-53に西塔とネオロマネスクの凝灰岩造とした。1971-73教会は完
全に改修された。なかには、1420の祭壇・側壁画・彫刻がある。
イッフリンガー宮殿 Ifflinger Schloss (1330) ホーエンベルクのハインリッヒは堀・
塔・住居のある城を建て、中庭には農場建物・使用人住居等が建てら
れた。1381オーストリアのホーエンベルクに買却され、1793迄その家族が所有し
た。1793町は城を取得し、救貧院・学校・工場・クラブ室等に使った。
火事で3階が壊れ、1977改修をはじめ1963町図書館、1974博物館を
収容した。
リッツェンベルク Litsschenberg (15c) 町で最も古い部分で、その建物
は15cに遡る。東の壁には最大1.8mの市壁が組込まれている。
宿屋:シャーフェック Gasthaus Scharfeck (1554) 上門があった近くに
保存状態の良い木組の建物がある。1860から宿屋である。
古い司教館 Altes Pfarrhaus (1670) 司祭館は、1928個人所有と
なり、1973建物は美しい切妻の木組の家を地区貯蓄銀行が建てた。
十分の一税倉庫 zehntscheuer (1381) 穀物の十分の一を納税し
た風格のある倉庫で1764にオーストリアの双頭の鷲を掲げている。1381-
1806はオーストリアに属した。この建物は、1887救急病院に、1890学校と
して使われた。
旧市庁舎 | 旧宮殿 |
北壁 | 北壁 |
1260 シェンク・バルターの証書に初言及、1280 王ルドルフはリンブルクの衝突で勝利、
1286 ラーベノルデはコンブルク修道院へ贈与、 1374 ラーベノルデはこの村の城を所有、
1399 コッファー川木材運送関税条約に、1404 王ルプレヒトは市場・町防衛の権利付与、
1482 シェンク・アルブレヒト3世は王宮を建てて定住、 その後250年間王宮があった、
1690 シェンク家の断絶後ブランデンブルク選帝侯が占領、1778リンブルク侯爵が宮殿建設、
1806 ドイツ帝国解散後ブランデンブルクの郡庁、1868 火災で城・教会・46建物が焼失、
1806 戦災で城・教会の再度の破壊。
1404-80シェンク家のフリードリッヒ3世は市壁・隅塔・屋根付き壁上通路の建設を
始め,息子のコンラート4世が完成させた。今は、川沿いに断片が残る。
ブランデンブルク小門 Brandenburg Toerle (15c) 市壁の一部にある小
さな通路で、1713の断絶後のブランデンブルク選帝侯の占領があり、その後
子の正門にはその名前が付いた。3市門は残っていない。
隅塔 Eck Turm (1520) 四隅の塔は10-12mの高さで、石の基礎の上に
木製の塔が立っ
ていたが、木の部分は1790に取外された。塔は、守衛所や刑務所と
しても使われた。
旧市庁舎 Altes Rathaus (14c) マルクト広場に立つ3階建の木組の建
物は、1814迄まで庁舎として地階は市場・上階は評議会室であった。
1813-1967市庁舎は旧宮殿に移された。
新市庁舎 Neues Rathaus (1846) 今は新宮殿西の別荘へ再移転して
いる。この建物は1846に別荘として建てられ、1880.1896に拡張された
後、新宮殿は夏の離宮としてヴュルツブルク・リムブルクの所有であった。2次大
戦中に分宿を免れたが1945米軍に接収された。1954に町は宮殿と公園
を取得し、1946老人ホーム、1967市庁舎となった。
旧宮殿 Altes Schloss (14c) 要塞の場所に1399シェンク家のフリードリッヒ
・リムブルクが宮殿を建て繰返し拡張・建て直された来た。1464北東の隅の
木組の建物、1482旧西壁の門家が建てられ、1482シェンク家のアルブレヒト3世
は王宮とし1713迄使用された。その後1757まではシェンク家の夏の離宮と
して子孫が使った。今は市博物館や催物会場である。
新宮殿 Neues Schloss (1778) 川の北側に、新しく風格のある宮殿
をビュックラー・リムブルクが建設した。
聖ファイト市教会 StadtKirche St.Veit (1417) ホーエンローエ・シェンク・フレデェリック3
世未亡人エリザベートがマリエン礼拝堂として建て、息子コンラッドが寄進し、そ
の後後期ゴシックの大教会となった。1868に大火事で焼け、1870ネオゴシック
で再建された。1945砲火で破壊され1949ネオゴシックで再建献堂された。
湯屋 Bad Stube (1503) キルヒ通の終点ブランデンブルク小門に、2浴場が
あり、蒸留窯で沸かされた。今は存在しない。
旧穀物蔵 Alter Speicher (1490) 2階建木組の建物は、最初十分
の一税倉庫と穀物倉庫として使われた。その後醸造所としてリムブルクルク
の居酒屋を務めた。ゲストハウスと醸造所:鹿と獅子を結ぶ地下トンネルがある。
城代官館 Burghof VegteigebaeudeGasthaus Scharfeck () 裏中庭は
町の経済の中心地であり、農民からの納税生産物は、1967に取壊され
たKameral amtに収容された。
市庁舎 | 旧市庁舎 |
旧税務署 | 博物館 |
EV市教会 |
1100 町の上にヘルヒスタイン伯が城を築いた、 1108 ヘルフスタイン伯は町を設立、
1396-1802 ウルム自由帝国に属した、 1500 シュバーベン帝国へ一時属した、
1531 宗教改革の導入、 1803 ウイーン会議でバイエルン帝国へ、
1810 交換でヴュルテンベルクへ。
中世の都市複合体の市壁には、4市門・2内市門(北・南)と12壁塔が
あったが、今は東の家の裏と南のノウルマー門近くの民家の市壁が組み込
まれて残っている。
見当たらない。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1422) 地階石造で上階アラマン木組の
建物がウルムの時代に建てられた。地階には肉屋の屋台があり、向かい
側の旧税関と共に、旧市街ストリートマルクトの中心であった。今の前面は、
1882-84にルネッサンスに改装され、角塔のカリヨンは毎週違ったメロディを聞
かせている。上階の広間は評議会と法廷として使われ、中央パーラーは
市の要人の飲酒が行われた。現在は登記所と南モラビア集会所となって
いる。
市庁舎 Rathaus (1913-16)ベーカリーの跡に、アールヌーボーの大
きな前面には二つの側翼が3本のアーチで支えられ、前面のへこんだ入
口領域にささやかな装飾が置かれている。
新教市教会 Ev.Stadt Kirche (1424-28) 3廊ゴシックの大聖堂は
かって聖母マリアに奉献された高さ63m塔とそびえたつ身廊が強い印象
を与える。1529の聖母マリア説教壇は、中央に守護聖人の聖母マリア、両
脇に聖モーリシャスと聖マグデリナの像が立ち、更に両脇にペスト守護聖人の聖
ロスクと慈善の象徴としての聖エリザベス像が配置されている。1621の説
教壇には後期ルネッサンスの装飾が見られる。
新教牧師館 Ev.Pfarrhaus (1355) 旧市壁の南西の隅に位置し
2階建アラマン風木組みの家は元フランシスコ会の女性聖域であった。
その後校舎となり、現在は新教の牧師館となった。
コーンの家 Kohn'sches Haus (1355) 4階建アラマン風木造建築
で後部の切妻が市の内屋にあり、市の中心部と郊外部の上部を分け
ている。錠前屋コーンが住んでいた。
市民の家 Buergerhaus (1453-57) 4階建地階石造上階木組の
裕福な市民の家で、地下室の上に建てられた。1983-83に改修して歴史
的な前面を保存した。反対側はホテル ツアポストで、19cまで郵便馬車が1日2
回停車した。
旧ホテル・ポスト Ehem.Hotel zur Post(1457)18cに古典主
義の前面で再建された。このホテルは14室で町で最大であった。旗竿
とドアのポストホーンは18c前半のもので、18-19cには帝国郵便局で
あった。
古い税関館 Alter Zoll(1495)おそらく、ヘルフエンスタイン伯が建
てた税関の場所に、ウイルヘルムによって建てられた。木組にはオークの葉
の模様がある。
旧宿屋クローネ Ehem.Gasthaus Krone(1552)旧ブランディ蒸留所で
製パンの権利も持っていた。その後ガストハウスで酒場と宿泊をしていた。
1962-63に改修され、住宅と店舗となった。
シュパートの家 Schubert haus(15c)上階木組の切妻のある建物
で、1776-77に改修された。
古い建物 Alter Bau(1441)ウルムに建てられた7階建ての穀物蔵
で、ドイツ最大級のゴシック木骨造建物の一つである。16c北西の軒側は
再建され、1922からは市が所有し、市博物館となり、1985改修されて
市ギャラリィが追加された。
旧鞣し工場 Ehem.Gerberhaus(15c)2階建木組の建物に皮鞣
し・車制作・布製造・ロープ製織の人が住んだ。
病院 Spita(1351)精霊病院が設立され、8棟あったが今は3棟し
かない。かっての管理棟は近年改修が行われ、音楽学校になっている。
旧ガストハウス車輪 Ehem.Gasthaus Zum Rad(1766)寄棟屋根の上
階木組の建物で、1766旅館は閉鎖したが、前の広場は車輪広場とな付
けられた。
住宅 Wohn Haus(17c)上階木組の建物で、旧南門の左にある
美しい木組は修復され旧市壁の断面が現れている。
上門 | 南東壁 |
東壁 | 西壁 |
開墾塔 | 下門 |
8C アレマン公国にあり修道院が置かれた、 1007 ハインリッヒⅡの統治、
1287 最初の言及、教会の周囲に集落、1358 都市権の授与、市壁と堀
で守る、1366 帝国自由都市へ、 1374 バンベルクの領主司教へ、
1384 町の壁は拡大し改善された、 1555-56 ペスト蔓延、
1632 30年戦争スエーデン軍を退けた、 1643 3門は焼かれ2塔は爆破、
1678.1689 仏軍の占領、 1713-90 比較的平和な時代、
1803 バーデン大公国となる、修道院の廃止。
最初の市壁は12C中に建てられ、東南部にある最初の市壁は、
ツインガ-.水堀.土堤のある二重壁で補強された。100年後も屋根付
き壁上通路が残っている。1991から市壁の復元を行っている。
主として東半分の市壁が残っている。EngelGasseでは市壁の
残りが家の奥の壁として使われており、同じくFaeberHausで
も市壁を奥の壁としている。
14-16Cの防御塔が5つ残っている。
上門塔 OberTorTurm 4階建角塔で2階に屋根付きの置き場
が張り出す。この門には今も垂直の落し格子がある。1689に四角
の上に八角の尖塔がつけられた。1816に町側に時計と紋章が付け
られた。
キンティッヒ門塔 KinzigTorTurm 帝国自由都市の再重要の入り
口、夜警・消防時間発声に使われた。4階建角塔であり、2階部に部
屋が張り出す。1991に改修が行われ落し格子も再補修された。今
は博物館となっている。
高位聖職者塔 PraelatenTurm 大聖堂の後部を強化して塔
を築いた。3階建の角塔、1750に円塔を庭の家に改造した。
ニゲル塔 NiggelTurm 1582建、14Cに基礎工事16Cに八角塔が
四角の上に立った。見張と刑務所として使われた。この地域は1789
に焼失したが、孤立して残った。隣にある1747の木組の家は、染物
の家で材料を乾燥させた屋根裏部屋が今も見られる。
スエーデン塔 SchwedenTurm 町側に開いた半円型の塔に鉄の階
段が付けられているので登れる。
中世の雰囲気のある建物が道に並んでいる。多くの木組の家もあり、
色々な博物館も面白い。
旧町庁舎 AlteRathaus 1784建 前面はロココ的で窓が多く、
屋根中央の三角破風がアクセントとなっている。
穀物倉庫 KornHaus 昔の売場と穀物倉庫で、町の十分の一
税の徴収と保管が行われた。1689の火災で焼失後に1696ルネッサンスの前
面で再建された。
ライオン山荘 PalaisLoewenberg 18Cから町の名士が住んでいた。
陸軍元帥が有名。今は博物館。
ヨハネ教会 JohannesKirche(1263) 聖ヨハネ騎士団が教会と修道院
を建てた。1770にバロックの新教会として建て1777に側廊を拡張。中に
は15C二人のマドンナ。
天使横町 EngelGasse 上の階がせり出した木組の2階建が連
なっている。また、すべての家は通りから出入り出来るワイン庫がある。
聖マリエン教会 StadtKircheSt.Marien 12C建、元ベネディクト会の
修道院でありバロックの塔がある。1896に明るいバロックで再建された。
博物館 WahrGeschichtlicheMuseum(KinzigTurm) 軍事史
博物館NarrenMuseum(NiggelTurm) 馬鹿博物館。
市庁舎 | 南壁 |
西壁 | コウノトリ門 |
12C末 シュパイヤー司教は入植地を開いた、 1219 最初の文書言及、
1219 市場や教会は壁で囲まれた、1272 郡の中心地として開発された、
1488 木材業や製材業が興る、 1660 バーデンとシュパイヤー司教が競合、
1787.1798 町は大火で焼かれた、 1803 バーデンvユルテンブルク州に帰属、
1849 革命軍と連邦軍の戦で町は破壊、1872郡庁舎はラシュタットに移り寂れた。
13c中に、小高い丘の上に市壁は建てられ、西側は山に深い空堀を
設けて二つの塔で守った。市壁は、西側は塔を繋いで南側は殆ど繋
がって残っている。
昔4門あったが、19Cの始めに交通のため壊され残っていない。
コウノトリ塔 StorchenTurm 1449建、片側の高い市壁は切り取ら
れた。1915までコウノトリが巣を作ったので名付けられた。中には82段の
階段がある。
丘の上に古い木組みの建物が坂道の両側に幾つか残されている。
旧町庁舎 AlteRathaus 1618建、バーデンフッガー辺境伯が息子の
ために建てた邸宅、切石造り3階建、北入口は大きな出窓と窓飾り、
壮大な前面、バルコニーに二つの日時計が付いている。正面は非対称、西
側は木造で対照的拡張の計画はあった。1715-1936市庁舎として使わ
れた、市は鐘楼塔を増設。
カソリック教会 1388建、初め礼拝堂があった所へ、聖母教会は15C
に市壁の防御塔に身廊を取付けた。1970-71に広く改造されネオゴシックの
部分をゴシックに戻した。
百戸倉 ZehntScheuer 16C建、十分の一税の穀物倉であり、
1784に再建
マルクト広場 MarktPlatz 木組の家が並んでいる。
市庁舎 | マルクト通 |
市教会 | 織物館・マルクト通 |
要塞 | 要塞 |
6c 最初の集落とキリスト教教会があった、 1078 最初の町としての言及、
1391 シュタウフェン皇帝フリードリッヒ1世は市場権授与、1395町はシュバーベン同盟に参加、
1603 プロテスタント連合に参加、帝国自由都市の全盛期へ、工芸品・農業・交通、
1634 30年戦争で町は大火で全焼、 1802 ヴュルテンブルク王国に帰属、
1809 上部ハイゲンハム事務所に属した、 1872 町は今の区域になった、
1999 バーデンヴュルテンブルク州の町となった。
旧市街の右端の山頂に旧市壁が100m残っている。西南のフレンツ川沿いの
3半円殻塔を含む新市壁が70m残っている。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus (1667-71)
市教会 Stadt Kirche (13c) 不揃いの塔のある町の象徴的な建物
で、片側の塔はシュタウヘン時代の防御施設の存続したもので、隣の礼拝堂
と教会塔を含めて拡張・ゴシックで新設された。1634に30年戦争で壊され
1655に補修された。1711にはバロックで再建された。
市博物館 Stadt Museum () Huerbenの旧市庁舎に、一つの重点と
して旧石器時代からの人類分類学を形成し、珍しい古代鐘型壺の展示
もある。帝国自由都市時代の優れた手工業・錫・時計等の作品や作業場
がある。
スタイフ博物館 Seiff Museum () テディベア製造のシュタイフ社の工場が旧市
街の西にある。円筒形の博物館が開設され、シュタイフの国・時代別製品・蛇
の滑り台・売店・ビストロなど多彩な内容である。夏9.30-19時、冬10-18時
に開場。
1200 オーダー川の狭い所の中島に商人集落、 1225シレジア公爵は市場と町特権授与、
1253 公爵ヨハン1世は都市法を町に授与、 1430 ハンザ同盟に参加、
1432 フス派は修道院を焼いたが町は守られた、 1506 大学の開所式が行われた、
1535 ハンザ同盟を脱退、 1626 30年戦争で人口1/6減と荒廃、
1759 7年戦争でロシア・オーストリア軍は町を占領、 1759 プロイセン軍の敗退、
1811 大学はベルリンへ去った 1816 行政区と控訴裁判所を設置、
1944-45 空爆と赤軍の砲撃で町の93%を破壊。
13cの市壁は川側とRennenParkに堀とともに設けられたが、今は見当たらない。
見当たらない。
オーデル川西南の1253からの旧ハンザ都市であり、復元された北ドイツ・レンガゴシックの復
現された建物が町の歴史を示しているが、旧市街地は二次大戦終戦時の砲撃で全
滅していた。
市庁舎 Rathaus (1253) 北ドイツ・ゴシックで建設され、その後14cに2階建のデパートと裁判所
を含めて南に建てられた。中世ニシン貿易の象徴として、1454から魚でゲ-ブルを飾った。
1607-09イタリアの建築家によるルネッサンスの再建が行われた。1945の砲撃で大破し、われた。
1949からの募金と1950の宝くじで資金を調達して、市庁舎の再建が行
今は市政の他、若者芸術展示館を収容している。
聖マリア教会 St.Marien Kirche(1253)初めの教会は拡張され改良された。双塔は1450
に4階以上に嵩上げされた。この教会は北ドイツ・ゴシック・レンガ造で最大の大きさ長さ
77m幅45mである。1360-70キリストの生涯を表すステンドグラスが付けられた。戦時中はステ
ンドグラスをポツダムのサンスーシー宮殿で保管し、戦後ベルリン→ザンクトペテルブルク→一部返還
→モスクワ→残り返還され、2008に聖マリア教会に取り付けられた。1979から復元が行
われ、1998身廊の修復が終わった。
オーデルツルム Oder turm (1968-76) ブランデェンブルク州で最高の88.95mの建物で、鉄骨とコンクリ
ート造の24階建のオフィスビルは、当初ホテル・テストラン・書店などが収容された。1992-94に完
全に改装・再建され、4.5万m2のショッピングアーケードを含め、1300以上の職場がある町
のランドマークとなった。
オーデル川の橋 Odeer Bruecke (1253) 最初の橋は、ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世が木橋を
かけた。1892巨大なアーチ橋が架けられ、木橋は1896に解体された。2次大戦後に鉄
道橋と共に爆破され、木橋で応急復旧された。1951-72に友好の橋として開通し、
新橋は21世紀の初めに完成した。
聖ゲルトロウ教会 St.Ggertrau Kirche(15c)元ギルドのネオゴシック・レンガ造の教会は、19cに
荒廃して取除けられ1877新築された。1879ザウアーオルガンが付けられた。
フランシスコ会修道院教会 Franziskner Kloster Kirche(1270)フランシスコ会修道院の教会で、
1516-25に3身廊ホール教会に拡張され大きな教会になった。
平和教会 Freidens Kirche(1230)旧ニコレス教会とも呼ばれ、町で最古のホール教会で14c
に廊下合唱団が付けられた。中世には本殿の丸天井と、南塔を建てた。
聖十字架教会 HeiligKrenz Kirche(1897-99)カトリックの教会は1897に基石がが置かれ、
1899奉献された。ネオゴシックの塔がある3身廊教会で4つの鐘が付けられ、1967再設計
された。
クライスト技術館 Kleist Museum(1969)旧守備隊の建物に、地元生まれの詩人ハイリッヒ・コライスト
の生涯と作品が展示されている。2013クライストのための新しい家が発足し、その後
現代美術館が置かれた。
市庁舎 | 聖マリア教会 |
門塔・新宮殿 | 西壁 |
東壁 |
1197 最初の文書言及、 1307 町として文書に記載、
1375 皇帝カレル4世の文書にフェリー所有記載、 1424 服屋と靴屋の市を開催、
1574 町も紋章に示すように農漁村だった、 1738 30人の漁業ギルド設立、
1860 カトリック牧師はレンガ用の粘土を発見、 1882 14のレンガ工場と21レンガ炉設置、
1635 レンガ焼成が盛況で13カ所の粘土採掘場があり 年間1億箇のレンガを生産。
北西のBurgWall(120×160m)は粘土の採掘で残っていない。要塞の塔の
一部らしき物が残る。
見当たらなかった。
小さな自然豊かな町で、レンガが焼かれている。
市庁舎 Rathaus (1887) 農場の管理ととして建てられ、197迄は帝国郵便局であっ
た。1911横翼と塔が追加されて市庁舎となった。2階建鐘楼付き中央突出の建
物。
聖ペーター教会 St.Peter Kirche (1758-63) プロテスタント・バロック単塔ホ-ル教会。のレンガ造の
ロザリオ王女教会 Rosenkranz Koenigin Kirche (1910-11) カトリック・ネオゴシック教会で、高
さ40mの塔がある。
王の水上スポーツの家 Koenigs Wassersports Heim (17c) 町で最古の半木造の2階建
の建物。
旧砂糖工場 Ehem.Zucker Fabrik (11892-1967) 4階建レンガ造の大きな建物で、乾
燥工場と精糖工場があった。
市の家 Stadt Haus (18c) 2階建の市の家は、旅館:ショムブルクであった。旅館廃業後に
にレストラン:漁師クラウスとなった。2006-08広範な複合施設としての改修が行われ、今は
町の複合施設として使われている。
博物館・観光案内所 Museum (1854) 2階建の学校として建てられた建物に、まず観
光案内所が置かれ、1911には町の歴史を常設展示する町博物館が併設された。
市庁舎 | 聖ペーター教会 |
1238 マイセン辺境伯の文書で初言及、 1292 ナウムブルク司教の郊外の領地、
1319 マイセン辺境伯の領地へ、 1329 製靴ギルド権を確認、
1407 町は市場権を得た、 1429-31 町は戦争で荒廃し全焼、
1539 町は宗教改革を導入、 1546 2番目の大火事、
1554 高度な都市自立を達成、 1565 醸造所の建設、織物製造、
1586 ブナの木管による水道の導入、 1612 3番目の大火事で半分焼失、
1631 ザクセン軍の占領で疫病、 1707 スエーデン北方戦争で大火災、
1815 ウイーン会議でプロイセンへ属した、 1720 駐屯地の町となった。
旧市街地の市壁は、2門と二重壁と堀の防備システムであった。その位置に遊
歩道があるが、市壁は見当たらない。
見当たらない。
ブランデンブルクとザクセンの国境にある小さな町で、中心部は歴史的に改修さ
れている。
市庁舎 Rathaus (1525) 前市庁舎は1838の火事で壊され、マルクト広場の北側の17-
73番の住宅跡地を買収し、1840に2階建鐘楼付古典主義の新市庁舎が建てら
れた。1927-29近隣建物を取得して庁舎を拡張した。
市教会聖バーバラ教会 StadtKirche St.Barbara (1346) 初め礼拝堂であった。15
63-65に、ゴシック3廊の北塔付きの教会が建てられた。1612の火災で全壊し16
27に再建された。1707の火事で1728-32に改造再建された。その後1772.1821
.1872.1895.1928に改修が行われた。1983-84塔と外装を修復。
レンスミュール宮殿 Lensmuehl Schloss (1480) 農場区レンスミュールとして1904まで独立して
いた。ゴシックの2階建漆喰塗の建物で1600拡張、1750.1912改修。1912火災が
あった。その後住宅や機械加工工場として使われた。
染物屋 Faeberei (16c) 2階建上階木組の建物。1671説教師と歯科医が所有、1827
裁判官未亡人が使用、1872肉屋、1875-1953染色屋とクリーニングが営業された。
建物に煙突にはコウノトリが営巣し、巣箱は1992に更新された。
市庁舎 | 宮殿 |
聖バーバラ教会 |
1336 文書で初言及、都市権保有か、 1431 ボヘミア紛争でブランデンブルクへ、
1535 ブランデンブルク選帝侯の死後領土分割、 1537 辺境伯ヨハンは要塞建設開始、
1559-62 古い城を利用して要塞建設、 1595 町の周壁が完成、
1610 大火事で町は壊滅・周壁は残った、 1618-48短期間ブランデンブルクの首都、
1663 要塞に州の刑務所設置、 1701 創設のプロイセン王国に属した、
1744 プロイセン王国の要塞強化、 1756-63 7年戦争で要塞不要論、
1767 フレデッリック大王は要塞解体を命令、 1758 都市火災復興に市壁材使用、
1806-13 短期間ザクセンの支配下に、 1809 製鉄所に新高炉と加工機、
19c 市庁舎・教会等公共施設の建設、 1945 二次大戦の戦災はなかった。
要塞の周壁には砦や防衛島が含まれたが、今では見当たらない。
要塞塔 Festungsturm (1300) 印象的なレンガ造の塔は、この町で最も古く、
要塞の証人である。1300からの元城の痕跡があり、16cにイタリア建築家による
要塞主塔として建てられた。今日は博物館が置かれ、屋根裏部屋では要塞
の重要性の説明、要塞の歴史的形状の推移、上階にはブランデンブルク・ノイマークの
選帝侯ヨハンが建設者として説明されている。高さ35mの展望台からの眺めは
良い。
シュプレー・マルクの低地の小さな町で、南西にある褐炭を使う発電所があった。
ドイツでも古い要塞は16cに造られ、高価な施設であったため、ブランデンブルクに
3か所しか作られなかった。町の印象は要塞が支配していたが、今残るのは大
要塞塔のみである。17-19cに主要建設物が建設され残されている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1804) 2階建の大きな建物が建てられ、1850東部切妻と
入口をチューダーゴシックに再構築された。
教区教会 Pfarr Kirche (1656) 旧教会の老朽化により、1854-60新ロマネスク建て直
された。円形アーチ3連壁のホール構造で、異なる石の色で細分化され35.8mの塔
があった。1970に老朽化で閉鎖され、1975-79修復されて、コミュニテイセンターとな
り、イベンントも開かれている。
旧刑務所 Ehem.Gefaengnis (1764) レンガ造の建物は、1765から住宅として使われ
ている。
レーン邸 Villa der Familie Rehn (18c) 多角形2階建の邸宅で、壁で囲まれている。
製鉄所とハンマーミル (16c) 町の南東部の側に、製鉄所は建設され、建物と設備は繰り
返し改造された。1807-10今の建物が建てられ、珍しい曲がったトラス屋根の
下には旧設備があった。1973ピューリッヒ美術館が閉鎖した。2001旧機械工房のあ
る右翼が再建され博物館に追加された。2006漁業博物館に内陸水産場の展示
が開始された。
旧市庁舎 | 教区教会 |
825 ルードヴィッヒ1世は城塞を築き文書言及、 831 伝道の拠点となる司教座を設置、
845 バイキング来襲で司教座はブレーメンに後退、 11-12c 城郭と教会の周辺に居住地、
1188 ホルシュタイン伯ルドルフ3世は港に新市街建設、 1189 貿易・税免除を含む都市権授与、
12-13c 新旧両市街の統合1220共通都市法、 13c ハンザ同盟加入で町は繁栄、
1528 宗教改革の導入、 1618 デンマークを排除して自由帝国都市、
1618-48 30年戦争でも取引は継続した、 1712 仏との通商条約が成立、
1806-14 ナポレオン軍占領後英国貿易禁止で被害、 1867 プロイセンとの連邦国家となった、
1871 ドイツ帝国へ、1842大火災の被害、 1945 第2次大戦で8割破壊、英軍占領。
11cに市壁と12防衛塔で町を防備された。13cに一部煉瓦市壁が追加された。
1475-16cに市壁は拡大され町全体は新しい壁が築かれたが、すでに時代遅れだった。
1614-25からオランダ式星形要塞で拡大しアルスター湖の中にも要塞は築かれた。円型砲台は
前面に広い堀のある稜堡に変換された。要塞は殆ど5角形で市壁から22か所も突出し
300の大砲が装備された。10年間の要塞建設に売上げの1/4を費やした。30年戦争中
は無傷で経過し、人口が流入した。1697郊外の聖ゲオルク教会を囲む新市壁が築かれた。
1804人口増と交通量増で要塞の公園化が決定し1820-37に実施された。1945戦後に
堀は瓦礫で埋められ、1963と73の国際園芸展のために堀の西部は公園化が進められた。
昔5市門4追加門があったが、今は見当たらない。
ドイツ第2の大都市で,北の港として13-15cハンザ同盟に加わって栄えた。
その後も自由帝国都市として、中立を守り町を拡大して来たが、2次大戦で8割を破
壊され、中世の雰囲気を求めるには難しいが、主要な建物は復元されている。
市庁舎 Rathaus (1877) 1842の火災の後に4千本の杭の上にネオルネッサンスの112mの
鐘楼付の大きな建物を建て、内部には重厚な内装の64室がある。
聖ミカエル教会 St.Michael Kirche (1762) バロック煉瓦造の大教会で。1786に132
mの塔が付けられ、エレベーターで展望台に昇れる。
聖ヤコブ教会 St.Jakobi (14c) ゴシックのホール式教会で、多くの宝物を保有。14-
15c祭壇画・主祭壇の製樽ギルド3折祭壇画、1610大理石説教壇、1693オルガン。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1882) 1842の大火で焼け落ち再建された。
しかし2次大戦で壊され高さ145mのゴシックの塔のみ残された。
外アルター湖 Ausser Alster 船による周遊で、100mを超える旧市街の高塔・周辺の
町並・緑の林等が楽しめる。
旧市街 Altes Stadt(17-18c)タイヒ通りは古い商人の家が並び、今は居酒屋が
多い。対岸には修復された赤レンガ倉庫が見渡せる。
美術館 Kunst Halle イタリアルネッサンスの建物に、中世から現代までの絵画・彫刻・
版画・コイン・スケッチ塔が展示されている。1997隣に現代美術館が増築された。
ハンブルク歴史博物館 Museum fuer Hamburgische Geschichte ハンブルク市街、
模型100以上の船の模型、鉄道模型などがある。
美術工芸博物館 Museum fuerKunst und Gewerbe 中世の彫像・ルネッサンスの家
具・北独の時計・磁器・世界の骨董の展示がある。
郵便博物館 Post Museum 16cからの郵便物と輸送手段の進化を展示。
港周遊 Hafen Rundfahrt 行き交う多くの船と造船所・埠頭・倉庫などが眺
められる。
市庁舎 | ブラームス記念館 |
聖ミカエル教会 | 証券取引所 |
80 ローマの集落に温泉があった、 260 アラマン族の領域に、 8c フランク族が支配、
12c 侯爵ハーマン家は周辺を買収しバーデン辺境伯となる 1250 町に都市権を授与、
1306 辺境伯フリードリッヒ2世は温泉を使用、 1535 バーデン分割後も居城であった、
1689 プハルツ承継戦争で仏軍に焼払われた、 1705 ヴィルヘルムは王宮をラシュタットに移す、
18C エレガントなスパとして欧州の夏の首都と言われた、 1811カジノ、1824クアハウス新設、
1858 国際競馬の開催、 1863 町とプールの建設、 1945 仏軍占領本部設置、
1981 バーデンヴュルテンブルク州となる、 1995 仏軍の撤退完了。
見当たらなかった。
見当たらなかった。
谷合のローマ時代からの世界的な温泉保養地であり、公衆温泉施設としてカラカラ浴
場がある。
温泉会館と鉱泉飲場 Kurhaus und Trinkhalle (19c) 白いコリント式列柱の
クアハウスには多くの部屋があり、カジノ・ダンスホール・コンサートホールなどがある。鉱泉飲場には
バーデンバーデンの伝説の壁画が描かれている。温泉公園には遊歩道がある。
ホーエン・バーデン城 Burg Hohen Baden (1100) 辺境伯ヘルマンは山上に城を築い
た。14-15cに城は拡大され、100室を有した。1479下の町の新宮殿に王宮は移さ
れ、1599火災で壊れ、1830廃墟となった。
新宮殿 Neues Schloss (1370) 古い基礎の上に宮殿が築かれ、1479辺境
伯クリストフ1世が居住した。1529新宮殿にバーデン辺境伯の政府が収容された。スペイン
承継戦争で仏軍に宮殿は破壊され、1705辺境伯ルードビッヒ・ヴィルヘルムは王宮をラシュタット
に移した。18c新宮殿は夏の離宮として再建され、1843-47レオポルド大公は歴史主
義ルネッサンス様式で改装した。1919新宮殿はバーデン家の私有財産となり、1946博物館
となったが、2003バーデン家はクエート資本に売却し、今はホテルになっている。
参事会教会 Stifts Kirche (15c) ロマネスクのバジリカは、後期ゴシックに改造さ
れ18cに今の塔となり、内装はバロックに改修された。今の外観は1867再ゴシック化に
よもので、身廊の追加と新しい屋根を得た。1967内部の改修があった。内陣に
は1754辺境伯ルードヴィッヒ・ヴェルヘルムの墓碑がある。
ローマ浴場 Roemische Badruinen (1c) ローマ広場の地下を発掘調査した結果
ローマ時代の浴場の遺跡が発見され、床下暖房が確認された。
ロシア教会 Russische Kirche (1881-82) ロシア北部の様式で、砂岩のギリシャ十
字の身廊に金色の塔ドームの在る教会を、ロシアの貴族が建てた。
市博物館 Stadt Museum (2004) ローマ時代からの町の歴史・19cの華やかな世
界のスパとコイン・マダル・ボヘミナングラス・ガラス・石のモニュメント・彫刻などを展示している。
フリーダー・ブルダ美術館 Museum Frieder Burda (2004) 市立美術館に隣接し
て立ち、新現代美術ピカソ等850作品が展示されている。
ファベルゲ美術館 Faberge Museum (2004) ロシア皇帝の作品等をロシア美術のコレクター
が展示している。
トリンクハレ | 新宮殿 |
参事会教会 |
12C初 町が始まった、 1265 ハインリッヒ伯はヴュルテンブルク家のウルリッヒ伯へ
1265 城と多くの財産を売った、1442-48ヴュルテンブルク家の分裂時にも宮殿はあった、
18C 要塞は取壊された、 1885 国家承認された気候健康リゾート。
見当たらなかった。
動物園門 Tiergarten Tor (1603) 織物郊外の入口門とした公爵が建
てた、ブランデンブルク侯爵の紋章の頭飾りがある。1771から侯爵動物園の入口塔
として使われ、1875に移され、1963取壊され、1992再現して新築された。
下門 UnteresTor (1528)南の町外れの上橋の側に下門があった。重要な
二つの市門として塔と門は1528移転拡大して建てられ、1815と1842に壊された。
太い塔 DickerTurm 2階建円錐屋根、織物郊外の家並の間にある。堀を
補い郊外の安全を保った。
泥棒塔 DiebsTurm 1840まで市壁に埋め込まれていた。部分的には市壁
と共に取壊された。改造された塔基部は、郡監獄として1903まで使われた。
武器庫塔 ZeugHausTurm (15C) 中世都市防御の5階建の角塔。増築の建物
翼は1914-59に取り壊された。
小高い丘の上にかなり見所のある町があり、15-16Cの木組の家も多く見られる。
旧市庁舎 Alte Rathaus (1440) 1562拡張、1907-08改修。19C中まで開か
れた地階にはパン屋と肉屋が入っていた。その後1939まで農産物市場だった。
参事会ホールは16C建、1907-08紋章を並べたアーケードが造られた。
聖アマンデュス教会 StiftsKirche St.Amandus (1500) シュバーベン後期ゴシックの重
要な教会建築であり、内装装飾は見事である。1988-90に改修された。
新宮殿 Neues Schloss (1443) ヴュルテンブルク家領土分割の間1442-832は宮殿
として使われ、歴史的な内装(椰子の間・黄金の間・白い間)がある。今日は宮
殿博物館である。
旧修道院水車 Ehe.Kloster Muhle (1454) 1876に焼け残り、再建後さら
に穀物粉引として1958まで使われ、1990から町博物館で蓄音器が200台ある。
宮殿水車 Schloss Muehle (15C) 宮殿の西南の角に領主の粉引として造
られ、1918粉引小屋は焼かれ、続いて部分的に再建された。
山林監視人の家 Jaeger Haus (1774)バロックの建物は市壁を含んで営林署
長が建てた。1838ここで織糸作業が整えられ織物工業の基礎となった。
市庁舎 | 武器庫塔 |
太い塔 | 動物園塔 |
976 ゲント聖ハーフ修道院文書で言及、 1056 皇帝ヘンリー3世はシュパイアー司教に与えた、
1248 文書で町と呼ばれた、 1502 農民戦争で反乱に失敗、
1622 30年戦争で町は荒廃、 1676.1689 プファルツ承継戦争で町は破壊、
1722 新王宮の建設開始、 1742 バロック聖ペテロ教会建設開始、
1796 仏軍の占領、、 1803 バーデン辺境伯の所有となり王宮の地位を失う、
1806 バーデン伯爵アマリーは未亡人に宮殿を付与、1945 2次大戦の空爆で町の80%破壊。
1689の絵には市壁があるが、今市壁は見当たらない。
天守閣 BergFried (1356) 高さ32m璧厚3mの天守閣は、旧城の最後の
名残である。一辺9.3mの四角塔で町で最も古い建物である。1986-87新設の公
民館に統合された。新フードが付けられ、塔内には無料で町の歴史が展示されて
いる。
50以上の建物のあるバロックの宮殿とバロックの聖ペテロ教会があり、宮殿にはジューク
博物館として17cからのドイツ機械楽器を500以上展示し3階には市博物館もある。
市庁舎 Rathaus am Markt (1952-54) 2次大戦後の建物で、StadtKirche
St.Frauen (1268)と共にマルクトに立つ。
ブルッフザール宮殿 Schloss Bruchsal (1722-43) 王子司教ダミアン・フーゴが50以
上の建物で構成された宮殿に着工し、死亡した年に完成した。1721の噴水や彫
刻がある。1945に破壊され1950-75に再建され、Badischen Landes Museumと
して多くの機械や機器が展示されている。
ペトロ教会 Peters Kirche (1742-47) バルタール・ノイマンの作品でバロックの宮殿で
高さ22mのトームの下に4王子司教の墓がある。内装は何度も改装され1999に今の祭
壇となった。
カプチン会僧院 Kapziner Abtei (1669) 僧院は1880に廃止、2005再建された。
市博物館 Stadt Museum 宮殿の3階に、先史時代からの町の拡張や歴史とコイン
を展示している。
幼稚園博物館 Kindergarten Museum (1908) ネオバロックのSancta Maria私立
大学の建物の別館に、ドイツ幼稚園博物館があり、1970年代の幼稚園と教育者の
ための展示がある。
マルクト広場 | ペーター教会 |
宮殿 | 宮殿 |
6-7C アレマン族の集落として創立、786 ザンクトガレン修道院文書に最初の言及、
1061 ツホーレルン家が支配、 1225 ホーエンツホーレルン家文書で都市権は保持、
1401 大火、 1423城破壊、その後伯爵領の中心として発展した、
1632 バイエルン軍、 1632スエーデン軍、 1634ヴィッテンブルク軍、それぞれ侵攻、
1780-81 参事会教会の新建物とともに、町は南側へ拡大した、
1850 プロイセンへの移行、 1945 戦後仏軍の占領、
1952 バーデンビュルテンブルク州に帰属。
見当たらない。
下門 UnterTor 1579建、昔の町の防御施設の一部であり、
Eitelfriedrich伯爵によって建てられた。
こじんまりした町である。
市庁舎 Rathaus (1510) 建替えの5回目は1958、泉に浮彫りの町の
歴史が見られる。
新宮殿 NeuSchloss (1577-95) ホーエンツホーレルン家が、取壊されたフリードリッヒ
ブルクの跡に、ルネッサンス様式で新築された宮殿。
古い宮殿 (18c) 今はホーエンツホーレルン州立博物館。ホーエンツホーレルン領の先史以
来の歴史と絵画・彫刻を展示。
聖ヤコブ教会 StiftKirche ST.Jakobus 1783建、シュバーベンで重要な
擬古典主義の宗教建築物であり、伯爵が建てた。
市庁舎 | マルクト広場 |
下門 | 下門 |
870 ロルシュ修道院の創設、 1196 シェーナウ修道院文書でオーデンバルトに初言及、
1214 皇帝フリードリッヒ2世はヴィッテルスバッハ家に授与、1225上の城に付いて文書言及、
1386 選帝侯ルプレヒト1世は最古の大学開設、139ルプレヒト2世は西に市街地を拡張、
1400-10独王ルプレヒト3世が支配、 1556選帝侯オットーハインリッヒは宗教改革を導入、
1622 30年戦争で包囲・攻撃、 1689.1693 プファルツ承継戦争で仏軍が破壊、
1720 フイリップ王子はプファルツ王宮をマンハイムに移す、1742-64城の復旧は落雷で中止、
1784 木橋は氷で壊れ1786-88石橋に、1803プファルツはライン右岸を放棄しバーデンへ、
1945 戦災は無く、米軍本部が置かれた。
見当たらない。第1次市壁は、1220矩形の市街が形成され。遅くとも1235
には市壁で囲まれていた。市門は主要路の両端とSteinGasseにあった。
ネッカー川の架橋は1284に言及された。第2次市壁は1392にGrabenGasse
からBismarkPlatzまで伸ばして市域を倍増した。30年戦争の被害は限ら
れたが、1688-97プファルツ承継戦争で仏軍の占領下でひどく壊された。18Cに
建物はバロックで再建されたが、市壁は取り払われた。
峡谷門 Klingen Tor (13c) 3階建ての門塔であり、今は小学生の交
通安全のために、車の通行は禁止されている。
橋門 Bruecken Tor (1284) 屋根付の木橋は1784の氷洪水で流され、選
帝候カール・テオドールが長径間の石橋を高い所に架けた。終戦時独軍が爆破した
が、1947募金で復元された。橋門は要塞の一部として造られ、洪水を生き
延びた。守衛所と刑務所も務め1788尖った円錐形の屋根はバロックの塔頂に変
えられた。
カール門 Karls Tor (1775-81) 町を東西に貫く中央通りの東端に凱旋門
風の堂々たる門が建てられた。選帝侯カール・テオドールの通商促進の都市権には
喜んだが、建設費には悲鳴を上げた。門の上には東に2頭のライオンと紋章、西
に選帝侯と妻の肖像画が置かれている。
魔女塔 Hxen Turm (13c) 中世の市壁の唯一残された4階建ての壁塔
で、泥棒塔とも呼ばれ、新大学の中庭に残されている。強盗などの犯罪人
がこの塔に収監された。市壁は訴訟や苦情のために取り除かれた。
堀石塔 Roden Steiner Turm (13c) 大学広場の西の緑地中庭に2階建
ての6角形の砲塔が残る。
城門塔 Tor Turm (13c) 城の南正面入り口の門塔で、堀の橋を渡って城
に入る。
高台にある崩れかけた宮殿からの見下ろす展望は良い。町は18cにバロックで
再建されているが、華々しさは無く大学の町としての落ち着きが見られる。
市庁舎 Rathaus (14c) プファルツ承継戦争で破壊され、バロック3階建で1701-03
に再建された。北翼は188-90に延長され、1908の火事の後にネオバロックで改装され
た。2階にはネオルネッサンスの広間があり、壁画やステンドグラスがある。中世には、刑務
所・裁判所・劇場などを収容した。26鐘のカリオンが毎日3回鳴る。
宮殿 Schloss (1225) 最初の城はバイエルン公ルードビッヒによって建てられ、
1303城は占領された。1400要塞に東部の塔と住居棟が建ち、1537落雷で焼失、
1544新しく宮殿が建てられ、1549-1620北の宮殿はゴシックからルネッサンスへ移行期で
1612-19選帝侯フリードリッヒ5世の宮殿と庭園が造られた。1688.1693仏軍の占領と防
御施設の爆破、1720プファルツ王宮をマンハイムに移転、1742選帝侯カール・テオドールは宮殿を
再建開始。1764落雷で再建中断、1900現状の修復と保全が始まった。建物とし
て、フリードリッヒ翼棟・鏡の間・オットーハインリッヒ翼棟・図書館・アルターン見晴台があり、22万
リットルの大樽・薬学博物館・庭園もある。
厩舎 Narstall (1510) 選帝侯ルードヴィッヒ5世はネッカー川に沿って135m北側の
二つの円塔と壁で要塞化した武器庫建てた。1590プファルツ公は厩舎を構築した。
干草納屋 Heuscheuer (16c) 厩舎の東に粗石積の要塞に組み込まれた大
きな建物が、中世の市壁の北西の角のFrauenTurmの立っていた場所にある。1693
破壊の後に1824までは干草納屋であり、その後町の倉庫となった。1963-65大学
の講義室に改造された。
大公宮殿 Gross Herzoglisches Pslais (1717-19) バロックの宮殿は、厳密
な対象形で前面にアーケードがあり、広い中庭がある。裁判所として使われ、1920科
学アカデェミーが入った。
ヴォルムス館 Wormser Hof (14c) ヴォルムス司教のルネッサンスの邸宅として建てられ
1409改修され、1610選帝侯フリードリッヒ5世が取得した。19c読書室・図書館を収容し、
隣接のバロックの建物を壊して1959に劇場空間を作成した。
国際会議場 Kongress Haus Stadt Halle (1803) 町は大学改革100年を記
念して権威ある文化的会議室を建てた。設置オルガン演奏会や国際会議場となる。
モラス宮殿 Palais Morass (1712) バロックの貴族の館で、バルコニィ付の玄関があ
る。1778改修され、1900町の美術コレクションとプファルツ博物館となった。シュナイダーの十二
使徒祭壇画・町と城を描いたオレクションがある。
騎士の家 Haus zum Ritter (1592) 壮麗な豪商の家で、渦巻の切妻壁を飾
る聖ゲオルグの騎士像から名前が付いた。ルネッサンス末期の建物はユグノー商人のために建
てられ、唯一残る家である。
旧大学 Alte Universitaet (1712-35) 選帝侯ルプレヒト1世によって、大学は1
386に創設され、1803バーデン大公カール・フリードリッヒによって改組された独最古の大学で
ある。旧大学の建物は1712-35に建てられ、西翼の講堂は1886に500年記念として
ネオルネッサンスで建てられた。
新大学 Neue Universitaet (1931-34) カール・グルパーによって建てられた控え
目な建物で中庭には中世の魔女塔立っている。
精霊病院 Heiliggeist Kirche (1238) 選帝侯ルプレヒチ1世が、現在の建物の基
礎を築き1410後陣のホール、1411身廊、1508塔が造られた。
イエズス教会 Jesuiten Kirche (18c) バロックの教会は、ローマのイエズス会教会をモデル
として建てられた。正面はプファルツ宮廷建築家の作品で、3廊の身廊の内部にロココの
柱で支えられている。この教会を通って、宗教美術館・典礼博物館があり、17-1
9c宗教美術品や宝物が展示されている。
聖ペテロ教会 Peter Kirche (18c) 部分改造されたバロックとネオゴシックの教会は元大
学教会で教授達の墓がある。
天命教会 Provirenz Kirche (1689-91) ルーテル教会として建てられ、1885-86に
改修されて今の姿になった。
城北面 | 城中庭 |
城西面 | 城門 |
宮殿 |
1094 Durlachに城とベネディクト会修道院が置かれた、
1565 辺境伯チャールズ2世は住居をプハルツハイムからDurlachに移し栄えた、
17c 30年戦争で破壊された、 17c プファルツ承継戦争で仏軍の被害、
1715 バーデン・デュアラッハ辺境伯カール・ヴィルフルムは、 新カールスルーエの建設を宮殿から始めた、
1772 辺境伯は自由憲章を授け外国人誘致、 1768-73北のFasanenGartenni壁を構築、
1806 バーデン大公国の首都に、新古典の花が咲く、1817男爵は自転車の前身を発明、
1818 リベラルなバーデン憲法の調印、 1822 最初の独立した国会議事堂を、
1849 革命軍敗退後、プロイセン軍が町に入り、 レオポルド大公は町に戻った、
1870-1871 普仏戦争、 1942-45 空爆で大被害、1845 仏軍の砲撃被害。
新しい町であり、町の形からしても、市壁は築かれなかった。円形のAhaweg
北東のAn der Fasanen Garten Mauerに1767-73建設の300mの庭の壁がある。
地図上には、カイザー通の東にDurfackerTor・西にMuehlburgerTor,南クリーゲ通の
KarlsTorとEttingerTorの地名が地図に在るが、門は見当たらない。
北の城館を中心とした円型の公園と南の放射状市街地があり、1715の新しい
町
は戦災を受けたが再建されているので、古さはない。
市庁舎 Rathaus (1729) 1811に市庁舎は壊され、1805-25財政難で段階的に建てら
れた。1944戦災で破壊され1948-55に再建された。新古典主義建物は向かい側の
市教会と類似し、塔の中に高さ18mのマーキュリィ像がある。
ピラミット Pyramide (1823) マルクト広場に、市の創立者の辺境伯カール・ヴィルヘルムが埋葬された
KorkordienKircheが1807に取り壊されCrytとして石のピラミットが置かれた。16本
の石が鉄の鎖で繋がれ碑文が飾られている。
カールスルーエ城館 Schloss Karlsruhe (1715-18) 公園の中心に城館の六角塔が位置し、
32本の放射状の通りに繋がるバロックの王宮で、1918まで侯爵とバーデン大公が住んだ。
直径900m円形のAhewegが王宮を取り巻いた。1746一部木造部分が石造となり、
1770大きな窓と扉と両翼の間の2パビリオンを設けた。1944空爆で壊され、1955-
66にバーデン地方博物館として復元された。
新教市教会 Ev.Stadt Kirche (1807-16) ギリシャ神殿風の古典的様式で建てられ
62mの教会には5鐘がある。
議会記念館 Erinnerungs Sttaette Staende Haus (1993) 第一ドイツ議会の建物で
1993までバーデン州議会場であったが、1944空爆で壊れ、1993市図書館や記念館が入
る建物が建てられた。
市場博物館 Museum beim Markt (1993) マルクトにあった出版社バーデン最新ニュースの
建物で、1993から応用美術の博物館となり、城の収集物も展示。
バーデン州立博物館 Badisches Landes Museum (1929) 宮殿の中に、バーデン州の
文化・歴史・芸術を展示する文化史博物館が開設され、城のコレクションとしてのトルコ戦利品
に1936貨幣コレクションが加えられた。
プリンツ・マックス宮殿市博物館 Stadt MUseum im Prinz Max Palais (1881) 800m2の
展示場に町の住宅・生活環境・都市建設の経緯・有名人の紹介の展示がある。
マジョリカ博物館 Rathaus (1729) Museum in der Majolika (1901) マジョリカ陶器工
場の管理棟に、州立博物館の分館がある。マジョリカ陶器の歴史・作品と近代芸術。
州立自然史博物館 Staatlisches Museum fuer Naturkunde (18c) エキゾチィックな
植物や動物の飼育と自然史の展示。
州立カールスルーエ美術館 Staatlische Kunst Karlruhe (1846) 初期のドイツの美術館
と図書館を収容し、本館とオランジェリィには中世後期からの800点の美術品を展示。
国営鋳造所 Staadt Muenz (1827) 5国立鋳造所の一つで今はユーロ硬貨を鋳造。
芸術とメディア・センター Zenturm fuer Kunst und Medientechnologic (1997) 現代
美術・博物館メディア・映像メディア・音楽と音響の研究と展示。
市庁舎 | カールスルーエ城館 |
1038 漁村と教会で初言及、1333-38 最初の橋が架けられ、ストラスブール防衛の前線、
1437 集落の半分はバーデン辺境伯が支配、 1678 ルイ14世の仏軍が占領、
1683-98 仏軍が橋頭保砦を建設、 1771 再びバーデン辺境伯の所有に戻った、
1774 内陸要塞に選帝侯は都市権を授与、1792 ナポレオン戦争で仏軍は破壊し橋頭保に、
1814 パリ条約でバーデンに戻る。 1815 要塞の再建が行われた、
1870-71 独仏戦争で略奪破壊されたが再強化、 1919-30 1次大戦で仏軍が占領、
1945 戦後仏軍は占領し要塞は破壊された、 1953 バーデンビュルテンブルク州に帰属。
要塞は、歴史に在るように、何回も築かれそして壊された。最終的は、2次大戦
後の仏占領時に完全に壊され、今は見当たらない。
見当たらない。
2次大戦で町は殆ど壊された。
市庁舎 Rathaus (1817) 現在の市庁舎は、初め2階建ての兵庫を建て、同
じ年に3階部分を継ぎ足した。1869鉄道橋が見えないと言う防衛技術上の理由か
ら、3階部分は削除された。1870-71軍事的意義を失って、1872医院や学校になった。
1910独立した統合自治体の市庁舎になった。1921-23再び3階建建てとなり、新古典
主義の建物に拡張し、4本柱の柱廊とサイドウインドウ付けられた。
平和教会 Friedens KIrche (1817) 要塞のために1993教会が壊された後に、
カトリックとプロテスタントのための一時的な教会として設立された。1919ネオムカの聖ヨハネ教区教
会が完成してカソリックの教会になった。
聖ヨハネ・ネポムク教会 St.Johannis Nepomuk Kirche (1911) 新しいプロテスタント教会。
シュミット邸 Villa Schmidt (1914) 20世紀の上級階級のパルプ工場の取締役の一人の
豪華な2階建ての住宅で、かっての要塞の基礎の上に建てられ1944まで使われた。
1945-92仏軍の政治本部となり、今はレストランになっている。
バラ庭園 Rose Garten 古ラインの北端に造られた小さな公園で、昔の城の庭園風
に設計されている。
市歴史博物館 STadt Geschichtlisches Museum (1891) 旧ハーナウ博物館を引き継
いで町の歴史を展示している。
ヴァイプタウネン塔 Weiptaunen Turm (2003) 旧ラインの南端に高さ44mの展望塔が造れた。
フリーデンス教会 | 聖ヨハンネポルク教会 |
1154 ウルムシュバルツ・フローンホフ修道院が所有、 1300 王アルブレヒト1世は都市権付与、
1298-1313 ストラスブール司教は町と要塞構築、 1335-90 侯爵リヒテンブルクの個人住宅、
1480 リヒテンベルク支配終りハーナウ・フイリップ1世へ、 16-17c農民・30年戦争で略奪破壊、
1736 ヘッセン・ダルムシュタット方伯に落ちた、 1802 バーデン大公国の一部になった、
1805 バーデンの方針で市壁・塔は壊された、 1935 町の憲章を失う、
1945 空爆で多くの建物が破壊された。
14cの市壁は、壊されて見当たらない。
見当たらない。
市庁舎 Rthaus () 2階建の近代的な市庁舎。
新教教会 Ev.Kirche () 単塔の教会。
市教会 | 新教教会 |
766 ロルーシ修道院文書に初言及、 1284 漁村はヴィテルスバッハ家プファルツ伯に落ちた、
1349 今のリンデンホフの場所に関税城を築いた、1415-19 皇帝シーギスムントは元法王を投獄、
1462 バーデン・プファルツの戦いで選帝侯フリードリッヒが勝利、1607フリードリッヒ4世は都市権授与、
17c プファルツ選帝侯フリードリッヒ4世は要塞を築き、接続して格子状の市民の町を計画した、
1622 30年戦争で略奪を受けた、 1649 プファルツの商業活動と戦場を外れ再建された、
1689 仏軍の砲撃と占領で大被害、1720選帝侯カール・フィリップは王宮をハイデルベルクから移す、
1760 王宮と教会を同時完成、 1778 選帝侯カール・テオドールは王宮をミュンフェンへ移した、
1795 仏軍その後オーストリア軍による再占領、 1803 町はバーデンに落ち要塞を壊して拡張、
1945 空爆でほぼ全滅、米軍占領下で復興。
17cにプファルツの星形要塞が建設されたが、30年戦争と仏軍の砲撃と占領で荒廃し
た。1720選帝候カール・フィリップの遷都により、町全体を星形要塞で囲んだ大きな格子型
街路の在る市街地が計画して築かれた。19cになると要塞は取り壊され、格子状市
街地は北側に半円形に拡張された。
給水塔 Wasser Turm (1889) 町の東側に高さ60mの給水塔がネオバロックで建て
られ3.5mの像を乗せている。1903アールヌーボーの噴水が付けられ、2次大戦の後に速
や化に修復された。
旧天文台 Sternwarte (1772-74) 選帝侯の天文台として高さ33mの塔が建てら
れ、天文学者や物理学者の天文観測が行われた。
都心部は碁盤上に並んだ144の街区からなる大きな町である。2次大戦の戦災で
壊滅し、復元された城館と給水塔が見所である。
城館 Schloss (1720-60) ドイツでも大きなバロックの宮殿で、400以上の部屋と
2000以上の窓がある。主棟と左右翼が大きな中庭を囲み、両翼の先には更に主棟
に並行して伸び、城教会と城図書館の建物がある。2次大戦で大被害を受け、
1968簡素に建直され、大学が入っている。正面階段からはネッカー川までの市街地が
見通せる。天井画はアーザムのもので復元された。ロココの城図書館は緑とピンクで飾ら
れた。
イエズス会教会 Jesusten Kirche (1733-60) バロックのどっしりした教会で、正
面は古典主義の柱で構成された居る。中は、大理石風のスコッタ装飾が壁面を埋め、
銀の聖女が左側に在り、ドイツ最大の8000笛のオルガンがある。
市公会堂 Stadthaus (18c) 練兵場の右に在る昔の百貨店で18cには市公会
堂であった。今は、レストラン・カフェと市図書館となっている。
旧市公会堂 Alte Stadthaus (18c初) 最も古い選帝侯時代の建物で、高さ
57mの塔からはカリオンの鐘の音が聞こえる。
聖セバスチャン教会 Pfarrkirche St.Sebastian 教区教会と繋がり、中には、
テオドールの祭壇・ペ-ター・アントンの説教壇・マリア像などがある。
ダルベルクの家 Dalberg Haus (1733) 堂々たるバロックの宮殿で、国立劇場の初
代所長が優雅な社交界のサロンを開いていた。2次大戦で壊されたが、1961昔の壮
大な前面が復元された。今は、児童図書館や演奏会等に使われている。
ブロッテンハイム宮殿 Plais Brotzenheim (18c) ルイ16世様式の貴族の建物で、
ここでモーツアルトは選帝侯の娘を教えた。
ライス・エンゲルホルン博物館 Reiss-Engelhorn Museum (1730) 侯爵カール・フィリップスが設
立し、選帝侯カール・テオドールが拡充した。11300m2の展示場に120万点の考古学・芸
術と文化史の展示が、4つの建物に収められている。
市美術館 Stadt Galerie 市民芸術の展示場。
船博物館 Museums Siff (1929) ネッカー川に係留されている側外車汽船に、
川運の歴史を展示し、船内では機関室と食堂が面白い。
マンハイム美術館 Kunst Halle Mannheim (1907) ユーゲントシュチュールの建物に19.20c
の芸術が展示されている。
バロック宮殿博物館 Barock Schloss Museum 復元後のバロック宮殿に歴史的な家
具・絵画・硬貨・自然史収集物などが展示されている。
王宮 | 給水塔 |
11c ベネディクト会の修道院があった、 1147シュパイヤー司教の寄付で聖公会領地、
12c 修道院は地域の経済・政治の中心へ、1534 宗教改革で世俗化され学校に、
1555 ヴュルテンブルクの監督者が置かれた、 1838 修道院周辺に町が存在、
1886 ヴュンネンベルク王国のマウブロンは町となった、 1935 地区管轄都市となった。
別に、修道院の周壁が630mある。
修道院周壁の西南の角に修道院の入口門がある。
ドイツ・シトー派の修道院であり、周壁の中に付属建築物を含めて僧院全体が良く
保存されている。1993ユネスコの世界遺産となり、修道院だけでなく人口釣り池・
ブドウ畑もあり、有名なワインを産する。
市庁舎 Rathaus () 入口広場の北側にある製粉所の建物は、今市庁舎として
使われている。
教会 Kirche (1178) 回廊の南にあり、正面ポーチの天国は初期ゴシックの物であ
る。身廊と右側廊の網ボールトは、15cに追加された。 14c聖母像・1473キリスト像が飾
られている。
中庭回廊 Kreuzgang (13c) 回廊からは静かな中庭と隣接する多くの広間が
見える。東に14cの修道院総会場・談話室、北に13cの神父達の食堂・暖房休憩所・
調理場があり、中庭に向かっては1350の手洗の泉があり、西側には修道士の食
堂・食料貯蔵室がある。
付属建物 西側に鍛冶屋、南側に桶屋・井戸の家がある。東の裏には、新教
セミナーの高い建物がある。
市庁舎 | 修道院門 |
西壁 | 北西塔 |
修道院 | 南西壁上路 |
550 村に修道院の設立、 476 ベネディクト・オットーボイレン修道院の設立、
972 オットー1世はオットー帝国修道院に格上、 1152 修道院は火災後に再建された、
1365 修道院は独立性を失いアウグスブルク教区へ、 1558 ロマネスクからルネッサンスの教会へ、
17c 30年戦争で略奪その後帝国直属となり、 1711 バロック修道院の建設開始、
1737-66 大規模な大聖堂を建てた、 1802 世俗化で修道院はバイエルンへ移り存続、
1834 ルードヴィッヒ1世の下でアウグスブルク聖シュテファン修道院の分院となった、
1918 修道院は独立して元の地位を回復、 1964 大改修が行われた、
市場町オットーボイレンの歴史は、修道院に連動した。 世俗化で市場の教区とした後
教区教会聖ペテロは閉鎖された。
町を守る市壁はないが、修道院を囲むKlosterMauerは1.54kmもある。
見当たらない。
アルゴイの山々を背景に、ドイツバロックの頂点にある大聖堂が丘の上に聳える。
修道院大聖堂 (1746) ドイツ最大の身廊の高さ90m、塔の高さ82m、翼廊の高
さ90m幅60mに達する規模である。双塔の北側からの入口を入った内部空間は
驚くほど明るく、色彩は調和がとれたハーフトーンである。内陣には12cのキリスト
像が安置され、主祭壇は三位一体の栄光に捧られた。1764クルミの木で作ら
れた聖職者席は、1766内陣のオルガンと調和している。
修道院の建物 (1711-31) 修道院長館には、皇帝の間など豪華な広間があり
壮麗な図書館と劇場がある。
市庁舎 | マルクト広場 |
ヴェネディクト修道院 | 北入口 |
東北壁 | 東北壁 |
1084 ヒルザウ修道院文書に初言及、14c仏の侵略に対抗しラスタットに移り要塞化、
1404 王ルプレヒトは市場の町へ昇格、 1689 プファルツ承継戦争で仏軍が町を破壊、
1697 辺境伯ルードヴィッヒ・ヴィルヘルムは町を再建、 1699 狩の館を建設、
1700 町は都市権を授与された、 1714 ラスタット和平でスペイン承継戦争の終結、
1771 バーデン・バーデン辺境伯の王宮は残った、1773バーデン・デウアラッハへ領地は承継、
1797-99 町で仏・墺・普の和平会談、1832地区事務所は中ライン州に属し1847迄、
1842-90 連邦要塞の建設、 1849 バーデンのラスタット駐屯地の反乱、
1863 ラスタット地区事務所はバーデンバーデン郡に来て1938解消、1919要塞の取壊し、
1945 町は仏軍に降伏。
1842-90に連邦要塞の建設が行われ、堀に取囲まれた広大な近代要塞が
出現した。1919堀や市壁の多くは取壊され石材は住宅に転用された。
今日まで残されている要塞は、カールスルーエ門・ケラー門・軍病院・穀物倉庫・砲台
・外側砦・リュネッツ42である。
防弾病院 Garnisonszavett (1848-54) 連邦要塞の防弾病院として
3階建て2翼の建物を建てた。1919軍用を終え、1939機動隊・老人ホーム、1940
俘虜収容所、1945仏軍は外人労働者収容、1972難民・移民センター、1999州考
古学博物館。
穀物倉庫 Koerner Magasin (1854-57) 兵舎に3つの建物を穀物倉庫
を建てた。1919軍用を終え、1958パン屋、1945仏軍が使用、1947仏軍のパン
屋、食品庫、1997町が取得。
ロッターベルク外側砦 Ausserfort am RoettererBerg (19c) ルードヴィッヒ砦の
Bの領域に属し、屋根の上の覆土はカムフラージュと砲撃保護を務めた。建物の
上の碑文とレリーフは連邦要塞の歴史を示している。
オーパーロイテ外側砦 Ausserfort am Oberreuth (19c) 旧ライン川に近い東の
橋頭保だった。
砲台 Kasematten (1845) 砲台は地下の守られた空間に置かれている。
1849プロイセン軍はラスタット要塞を砲撃した際に、住民の避難場所になった。
扇状稜堡 Luenette42 (1875) ロッターベルク要塞のこの建物は、30cmの厚
い覆いの火薬庫として建てられ、1896改造して壁の中に火薬工場を造った。
1909町は建物を買って、1957文化財に指定した。1982修復を行って障碍者学
校を収容した。
防衛施設 Basten27 (19c) カールスルーエ門の近くにあり、地下防御施設を見学
できる。
要塞の2主門(カールスルーエ・ケール)は今も残っている。副門としての3門(北・西
・南東)は残っていない。
カールスルーエ門 Karlsurher Tor (19c) 北東 旧要塞の主要門で方形三連の
塔で、中央が通路となっている。ネオゴシックの狭間胸壁と小塔が上部にある。
ケール門 Kehler Tor (19c) 南 同上。
博物館門 Museum Tor (1705) ロッシ門とも呼ばれ、市街と宮廷庭園との
間に立つ。中央の通路の両側に窓付きの壁がある。
旧ライン門 Ehem.Rein Tor (19c) 1849ここから今のラインナウの方向に、包囲
された革命家は脱走を企てた。
配水塔 Wasser turm (1901) 高さ22m・容量700m3の給水塔で町の目印。
バーデン辺境伯ルードヴィッヒは、18c初めルイ14世に対抗してラスタットの町を要塞化
し城を築いて転居した。バロックの王宮は見事である。
市庁舎 Rathaus (1716-21) 1750後方への増築を行った。5軸の広い切妻は
広場に向けられ、地階はアーケードで開かれた広間があったが壁が付けられた。
1899新しい市庁舎別館が造られ、1979建物内部の改造が行われた。
バロックの王宮 Barock Residenz (1699) バーデン辺境伯ルードヴィッヒ・ヴィルヘルムは
伊の建築家を使ってヴェルサイユ宮殿を目指してバロック大宮殿を建設し、1705未完
成部はあったが家族を居住させた。19c要塞司令部が宮殿に置かれた。今は
ドイツ史・軍事博物館とバーデン戦争・自由博物館となり、内部は復元されて素
晴らしい。中には、オスマン軍戦勝記念品・先祖の壁画などがある。
お気に入り宮殿 Schloss Favorite (1710-11) 夏の離宮として印象的な前
面は花崗岩の模様で飾られ、中はバロックの贅沢な輝きに満ちている。貴重な
中国と欧州の磁器や陶器・チェコグラスなどのコレクションが見られる。
宮殿教会 schloss Kirche (1719-23) ミカエル・ルードヴィッヒ・ローラ辺境伯夫人の墓
を置くため聖十字架教会を建てた。1771バーデン家の絶滅後教会学校になった。
パゴダ城 Pagoden burg (1722) ミカエル・ルードヴィッヒ・ローラ辺境伯夫人は、ニンフェン
ブルク公園パゴダ城をまねて建て、辺境伯家族のティーハウスとして使われた。今は
郷土芸術家の展示会場になっている。
果物会館 Frucht halle (1852-58) 機能的な倉庫として建てられ、1945
バーデン芸術の町の展示場であり、地上階にはアイスクリームパーラーがある。
聖ベルンハルト教会 St.Bernhardus Kirche (1207) 古いゴシックの教区教会で17cの
戦乱で損傷を受け老朽化した。1771バーデン辺境伯ベルンハルトによる改修の後に19c
まで墓地礼拝堂として使われた。
聖アレクサンダー市教会 Stadt Kirche St.Alexander (1756-64) カトリック教会の基礎
の上に市民によって建てられた。教会の前庭にヨハン・ペーター・エルンスト・ローラの墓碑が
ある。赤砂岩で造られ単棟の簡素な前面を持つ。
新教市教会 Ev.Stadt KIrche (1702-14) 旧フランシスコ会修道院の教会であり
基石には1702の年号があり、1717にはマリア無原罪憶胎教会が奉献された。1805
世俗化され修道院教会は競売に付された。1866事務所、旧修道院の建物管理
を行い、1907新教の教区教会となった。バロックの華麗な装飾の十字架がある。
町博物館 Stadt Museum 旧貴族の家Kavaliers Hausは鳥の家と呼ばれた。
地方と町の歴史・特別な王宮の時代・改革の時代の収集物を展示。
パゴデン城 | 王宮 |
1108 最初はWalzhuetと呼ばれた、 1249 多分 町の設立、
1273 ハプスブルクによる教会建設 1444 Armagnakenの占領、
1468 同盟者による包囲、撃退、 1496 ブルゴーニュの支配、
1524 宗教改革を導入したが再洗礼、 1526 教会の古い秩序の再建、
1611 ペストで1000人3/4が死亡、 1633.1634.1638 スエーデン軍の占領、
1639-48 仏の支配、 1745 大火事で44戸焼失、
1806 新設のバーデン大公国に帰属、 1848 ヘッカーの義勇軍に参加、
1931 上塔のそばの橋を改造、 1945 仏軍が占領した。
見当たらない。
上門 OberesTor 13C建、7階建塔で町側に時計が付き、門に接
して4階建の建物が並ぶ。ライン川と町を監視する見張りが上の階にある。1864
から監獄として使われた。SchaffhauserTorとも呼ばれた。
下塔 UnteresTor 13C建、6階建塔でロマネスクの要素を持つ。1689に弔鐘。
1468にスイスが包囲して町の外から砲弾が着地。
魔女塔 HexenTurm 家並みに囲まれた5階建の円塔。背教者のための刑
務所として使われた。
ライン川沿いの町で、中央にKeiser通が4階の建物に囲まれ、中央を小川が貫
いて流れている。1869に3つの泉を除去した後に川の位置が動き、1988から歩
行者専用道となり、賑わいを増した。
市庁舎 Rathaus 13C建、1726の大火で焼けた。1766に美しいバロクの4階
建で森林監督署として新築された。
森林代官屋敷 WaldVogtei 1610建、ハプブルクの森林代官屋敷、1775主要
な部分はドイツ・オーデンの建設技師の計画で再構築された。
聖母教会 Katholische StadtPfarrKirche Liebfrau 1804建、古い様
式で建てられ、13Cゴシックの内陣は昔の地区教会のものを取り込んだ。
病院礼拝堂 SpitalKapelle 1420建、病院に所属していた2階建の
礼拝堂は、1468に職人のギルドによって復元され、一般に開かれた。
旧病院 Ehe.Spitalareal 1411建、病院は市民によって建てられ、
1857まで使われた。
旧肉屋 AltMetzig 1877まで町立食肉解体場、ゴシックの窓とルネッサンスの前
面。下水道としての町の小川と丸天井の掛け金がある。今、上階は博物館
穀物倉庫 StadtischesKornHaus 町穀物市場倉庫。ギルド集会所「殿方
の居間」。1726に焼失、再建後1768まで市庁舎であった。
上門外側 | 上門内側 |
魔女塔 | 下門 |
5-8c 町の領域にアラマン人の集落、 800 ヴェルフ家は山頂に王宮を建てた、
935 ヴェルテュ家は女修道院を設立、 1053 ヴェルフ家は南に王宮を移した、
1056 ヴェルフ4世はベネディクト修道院設立、 1094 ヴェルフ4世妻は修道院に聖遺物寄贈、
1124-82 ロマネスクの大修道院教会建立、 1377 皇帝カール4世は市場権を授与、
1525 連邦軍と農民の条約で戦争回避、 1555 皇帝カール5世から憲章を授与、
1618-48 30年戦争とペストで925→72人、 1803 世俗化でヴァインガルテン修道院廃止、
1806 ヴュルテンブルク王国の一部となった、 1865 ヴァインガルテンと呼ばれる町に昇格、
1868 第2歩兵連隊の入場で駐屯地へ、 1939-45 ラーフェンスブルクに一時併合、
1945 兵舎が爆撃された、 1974 人口2万人超で大郡庁所在地に、
1975 州憲法裁判所判決で独立を守る。
市壁は、1377に廃止されている。
見当らない。
マーチン山の上に最大級のバロックのバジリカが聳え、その南西に小さな旧市街地
がある。
市庁舎 Rathaus () 小さな石造の2階建の建物。
バジリカ Basilika (11c) マーチン山にドイツ最大のバロック・バジリカがあり、
シュバーベン・聖ペータが高く聳える。ローマのペター教会のほぼ半分の規模の教会から
、 その名前が来ている。このバジリカは1715-24に修道院長が建てた。壮大な前面
はイタリア建築家に遡り、内部にはバロック修道院教会の多くの貴重品がある。美
しいバロックの有名なガブラーオルガンや巡礼の対象となったキリストの聖遺物などが
ある。バジリカのきらびやかさはかっての領主司教の権力と富を象徴してい
る。1056からのヴェルフ家に基礎を置くベネディクト会修道士は教会の南の会議
室で2010まで生活した。旧高位聖職者は宮殿造の建物に住んだ。
収穫物倉庫 Fruchtkasten (1688) バロック破風の代表的な建物で、
修道院中庭に穀物倉庫とワイン地下貯蔵所として建てられた。1.1百万リッター
のワインが貯蔵可能であり、修道院の地階にも18cは貯蔵された。ボーデン湖と
南チロルからの多量のワインが運び込まれた。2000には新しいブドウ園を再建し、
建物は大学の図書館になっている。
穀物倉庫 Kornhaus (1621) ある市場の中心に中心に建てられ、旧
名のアルトドルフ市場権は1377に授与され、今も週市が水曜日の午前中に開かれ、
町の生活の要素となっている。2010周囲が再開発され、カール通りとライオン広場は
お祭りや催し物の中心地となった。
シュレッスレ Schloessle (1550) オーストリア行政本部の建物群はルネッサンスで建て
られた。18cには、帝国裁判官の住宅となった。1730ロココ様式で美しい漆喰装
飾に改造された。赤と白の窓覆いで目印となる。2001市博物館を収容し、町
と修道院の歴史を展示している。中庭にはルネッサンスの庭園があり、演劇や演奏
の会場となっている。2008アルメリアン博物館が併設された。
市庁舎 | マルケン山の大聖堂 |
穀物倉 |