ファイル | 州名 | 州数 | 小計 | 市壁無 | ||
bd1 | GS | 大都市 | g1-5 | +1 | ||
BR | ブランデンブルク | b1-42 | +4 | |||
BW | バーデン・ビュルテンブルク | v1-50 | 97 | +14 | ||
bd2 | BW | バーデン・ビュルテンブルク | v51-w67 | 116 | ||
bd3 | BY | バイエルン | x1-99 | 99 | ||
bd4 | BY | バイエルン | y1-z17 | 116 | +14 | |
bd5 | HE | ヘッセン | h1-i12 | 111 | +10 | |
bd6 | MV | メルケンブルクVP | m1-32 | |||
NS | ニーダーザクセン | n1-49 | 81 | +5 | ||
bd7 | NW | ノルトライン・ヴェストファーレン | o1-101 | 101 | +25 | |
bd8 | RP | ラインラント・プファルツ | r1-76 | +3 | ||
SL | ザールラント | l1-4 | 80 | +2 | ||
bd9 | S | ザクセン | s1-54 | +9 | ||
SA | ザクセン・アンファルト | a1-62 | 116 | +2 | ||
bd10 | SH | シュレスヴィヒ・ホルシュタイン | k1-4 | +7 | ||
TH | チュービンゲン | t1-60 | 64 | +8 | ||
合計 | 981 | +104 |
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
市庁舎 | フライベルク門外側 |
フライベルク門内側 | 北西壁 |
聖ミカエル教会 |
1260 一辺321mの正方形の耕作市民の町が建設され、今も残っている、
1293 民事決済市場の町として初文書言及、 1543.1768 大火災で壊滅し復興、
1632-34 30年戦争で大被害、 17-18c 交易の町で工芸と商業の進展、
19c 織物・機械刺繍・淡水真珠の生産。
1477にエルンスト選帝侯とザクセン公アルブヒトの命を受けて、1542に市壁が造られた。
町の北側に80+10+50mの市壁が残っている。
16cの市壁には3市門・4塔・5要塞があったが、1門のみ現存する。
Freiberger tor 地階は石造のアーチ門と住宅があり、上に木組みの守衛の住居が乗
っている。1955から市立博物館として、町の歴史と淡水真珠の資料
を展示塔している。
小高い丘の上のこじんまりした町で、マルクトが広く立派な建物並んでいる。
市庁舎 Rathaus (1895-96) ルネッサンス時計付2階建ての建物で、13cに231m2に拡大
されたマルクトに面して立つ。1945切妻が損傷し、構造的に変更された。2007-09
に大規模な改修が行われた。
戦争記念碑 Krieger ehrenmal (1925) 市庁舎前の広場に1次大戦後に、大きな50t
の彫刻された石に、銅製の骨壺が入っている。2011に戦争の場面や装飾的な風
化した碑文が復元された。
聖ミカエル教会 St.Michaelis Kirche (13c) 1543と1768に建直されている。火災で壊さ
れ1905-06にアールヌーボーで建て直された。1990以降にルーテル派信徒が継続し、2005
には新しい鐘楼と青銅の鐘が付けられた。
聖ヨハネ教会 St.Joseph Kirche (1498) 墓地の南に四角形の旧礼拝堂の基礎の上に18
58ゴシックのポータルで再建した。近年改修され主として新教の葬儀や会合のために
使われている。
アッカー農家 Acken Buerger Haus (18c) マルクトの近くに、18cの典型的な大きな門を持
つ大きな農家がある。
市庁舎 | マルクト広場 |
北壁 | 聖アナ教会 |
1397 小さな町として初言及、 1740 銀鉱業の開始、
1497 都市権と鋳造場所を保持、 1524-39 宗教改革の導入、
17c 鉱業は衰退し30年戦争で数回破壊、 1730 大火災で町は焼失、
1778 バイエルン継承戦争で墺軍の包囲、 1861 ザクセンの営業自由と繊維で好況、
1945 2次大戦の空爆で町は破壊、
1503-40に 全長2.5km、5市門、19塔壁の市壁が築き、部分的に堀を設けた。
鉱業の衰退による重要性の低下から市壁は荒廃し、17cには部分的に暫定修理が
なされた。30年戦争では役立ち、19cまでは門も残され夜間閉鎖されていた。
産業革命で町は市壁を越えて拡大し、1833-42門や壁は交通量の増大で壊され、
幾つかの塔には人が住んだ。今1/4の市壁が残り、1990以降は丹念に復元された。
見当たらない。
町並みは、18-19cの住宅や商店が多く、19c中から大規模な建物が加わった。
市庁舎 Rathaus (15c) 初めは木造であったが1536に石造となった。その後1664.
1731に火災に遭った。1751にバロックの簡素な建物で再建された。中に
には、装飾豊かな山の長官の部屋がある。
聖アンナ教会 St.Annen Kirche (1525) 後期ゴシックのハレン教会で、有名な山の祭壇の
背面には鉱業の絵・石の絵入り聖書がある。1539まで豪華な装飾のカトリック教
会であったが、そのままプロテスタントの教会になった。
聖マリア山教会 BergKirche St.Marien (1502-11) ザクセン州にある唯一の鉱業教会
であり、マルクトの北にある。中にはキリスト降誕の絵がある。
山男の家 Wildermann Haus (1507) マルクトでも古い建物で、後期ゴシックの木製の天井
の梁と地階のノレル星空ボールトがある。住宅の後に食堂・ホテルとして使われた。
エルツハッマー宿屋 Erzhammer Gasthaus 昔の宿屋を18cに美術館とした。1948鉱夫クラブ
も収容したが、1950からは町の文化の中心となった。
町図書館 Stadt Bibliothek (1508) <鉱山会社の家としてゴシックのアーチと尖ったポータル
のある建物が建てられた。何世紀にわたって「金の鵞鳥」旅館として使わ
れ、1871町の図書館になり、1935更に資料が収納された。2003-04前面改修後は、
4階建ての全てが図書館となった。
市庁舎 | オツテン城 |
ヴェンド塔 | ライヘ塔 |
鞣し屋稜堡 | マティウス塔 |
粉挽塔 | 粉挽門 |
ラウエン塔 | 外市壁 |
外市壁 |
1002 Budusinとして初文書言及、 1018 ポーランドとのヴァウツェン和平条約締結、
1158-1223 ボヘミア王が支配、 1240 都市権の授与、1250 自由都市となる、
1346 6都市同盟で盗賊対策、 1429-31 フス戦争で包囲されたが守った、
1525-30 宗教改革、 1618-48 30年戦争による破壊、
1620.1634 大火災の被害、 1635 ニーダーサクセンに帰属、
1707.1720 大火災に遭遇、 1813 ナポレオン軍を追撃、
1945 2次大戦の砲撃で町は破壊。
15c初に内側市壁:城から北のSchueler塔、東Reichen塔、南Lauen塔を結ぶ
約1.8kmの壁を築き、東南を除いて1.18kmが残る。
15c末に外側市壁:Wallの付いた通りの緑地の内側に、北から東から南へ半円形
に約2km築かれ、1859-91に高さを削られて1.51kmが各所に残る。
ラウエン門塔 Lauen Turm (0400-03) ボヘミアのライオン紋章に因んで命名された
角塔である。用いられた石材は市議会の指示で城天守閣の物を転用した。1543
犯罪者の刑務所となった。1720の火事で壊され、1739にバロックの天蓋で再構築さ
れた。1827前門は取壊され、1913ザクセン王アルバートの騎馬像が置かれた。1958-59
と1990-91に大規模な修復が行われた。
漁夫の砦 Roehrscheidt Bastei (1469) 漁港を守るために築かれた。1639
スエーデン軍によって壊され、1676円塔に円錐屋根で更新された。1867塔はレストラン所
有者の庭に移された。
漁夫の小門 Fischer Pforte (1500) 小門は漁港の入口で、要塞と市壁の間
に入口を守るために守衛所が設けられた。漁港は1870に無くなった。
僧要塞 Moenchs bastei (西) 内壁の7要塞の内の一つであり、フランシスコ会修道
院の近くに立つ長方形の塔は、戦時は修道士によって守られた。1813病院となり、
1868-71と1905に塔は改修され、今は住居と集会所となっている。
水塔 Wasser Turm (1878) この給水塔は、修道院教会跡の西端に上部木枠で
安価に造られた。1979給水施設は廃止された。
工場塔 Muehl Turm (1500) Eselsbergに建てられ、1606ロバによる小麦粉や穀
物を谷の粉挽き場から運ぶために再建された。坂道途中に2階建て花崗岩角塔にアーチ
門が空いている。元の衛兵室はクラブ部室として使われている。
工場要塞 Muehl Bastei (1468) 突出した円塔で、1684守備の砦として屋根を
改修した。1830-40体育館として使われ、1847織物製造業者が取得して倉庫として
使った。1945内部の木構造物が壊された。
城水塔 Burg Wasser Turm (1400) 城に水を供給するために建てられた。1535
給水は行われなくなり守備塔となった。1740-1900塔と中庭の間の建物は監獄とな
った。1945戦争で屋根と内装が壊された。
マテアス塔 Mathias Turm (1225) 初めマイセン司教は2階建ての塔を城の礼拝堂とし
て建てた。1483-86新しい礼拝堂の入口に門塔が造られ、30年戦争で焼失し再建さ
れた。正面にハンガリア王の砂岩の記念碑がつけられた。
ニコライ塔Nicolei Turm (1532) 北東部市壁にツインガーの門塔として建てられた。
初め木製であった上部は石の門塔と置き替えられた。1614落雷で燃え、1678再建さ
れ1775今の円錐屋根となった。ニコライ門は町の出入口の元の姿を唯一保っている。
火薬塔 Pulver Turm (1500) 1634の火事で壊れ、1674に新築された。塔の上
部は1776に取り壊された。塔跡の半円形部分に、両世界大戦の追悼碑文がある。
鞣し革要塞 Gerber Bastei (1503) 5階建の円塔は璧厚3.5mで、ツインガーの下
鞣し革屋を守るために要塞として建てられた。30年戦争では1620と1634に壊され
たが、1703に再建された。塔はペット病院として使われ、1913兵舎と体育館へ。
生徒塔 Schueler Turm (1400) ツインガーと町の入口を守る角塔を建てた。北側
に古い磔群像の砂岩レリーフがある。1515の修理の後に1634に30年戦争で上部工は焼失
し、1673に4切妻で再構築された。1833落雷で壊れた後に屋根は今の姿になった。
ベンデル塔 Wendlscher turm (1490-92) この門塔は、ラウエン塔と同時にヴェンデル
門を守るために構築された。1566大きな木製頂冠は嵐で壊された。1663町の債務者
拘置所が塔に設けれれた。1841塔の破壊計画は防止され、1842-44兵舎の拡張に包
含された。1992塔の外観修復が行われた。
境界塔 Reichen Turm (1490-92) 15c内側市壁を拡張する際に、塔の下部は成
立した。1620.1635.1686.1709四回の火災・破壊の後に、1715-18バロック石造塔が造ら
れた。1747塔の傾きが見付けられ、1953基礎の補強、1991-93包括的な復元。
旧噴水塔 Altes Wasser Kunst (1558) 水道の技術的な博物館で、47mの高い
展望塔とポンプの歴史的展示がある。
シュプレー川の湾曲点に、6cからスラブ系ソルビア人が伝統を守って住んでいる。町は
中央マルクト・城・聖堂・入り組んだ路地・古い噴水の懐かしい風景が見られる。
市庁舎 Rathaus (1213) マルクトの中央に、ボヘミア王オットカース1世の命令で建てられ
た。1489-93塔が付けられ、1582上階を付け足し、石の回廊を付けられた。1634火
災で壊され再建されたが、1704三切妻が崩壊した。1705バロックで再建され3階建て
の塔には冠が付けられた。1728-32拡張と改修が行われて今に姿になり、北側に
バロックの階段塔が付けられた。
町公会堂 Stadt Haus (1333) 法律顧問の家または警察署として知られる家
が建てられた。1514の火災の後再建され、ザクセン連邦政府の集会の場所、1625町の
法律顧問の家、1799-1816小学校副校長の家、1880-84貯蓄銀行、1884-95改築され
中央税務署となった。
オーテン城 Orten burg (958) 600から存在した砦をハインリッヒ1世が国境の城として
拡張した。1401.1441火事で壊れ、1483-84ハンガリー王マテアスは後期ゴシックで新築した。
1621-39に30年戦争でひどく壊され、1698三つのルネッサンスの切妻が付けられた。1782
新塔と倉庫、1869巡回裁判所が新築された。1971ソルブ語の博物館が置かれ、1945
戦争で牢獄と倉庫が破損し、1979包括的な修復が行われた。
バウツェン別荘 Bautzen LandHaus (1667-68) 1664大火災の焼跡に、上ラウジッツの
ステンデが住宅を建て、それをBautzen LandHausと呼んだ。1910銀行家が所有したが
1918軍の刑務所となり、1947労働局、1956市図書館となった。
聖ペトリ大聖堂 Dom St.Petori (1213-21) 最初の教会1000が建っていた所に、
聖ペトリ大聖堂教団により最初の大聖堂が建立され、1430に今の姿になった。1456-63
第4の南身廊が建てられ、1492-97後期ゴシックのハレン教会となった。1634火災の後に復
元され内部はバロックに改装され、1882-85.1950-53修復が行われた。
僧教会跡 Moenches Kirche ruin (1240) フランシスコ会修道院あったが、1401焼失
し再建された。1441屋根が壊れ、1598修道院と教会は焼失し、今は初期ゴシックのアーチ
窓や玄関の遺跡が残る。1894その後建てた家屋も焼失し、1878給水塔を建てた。
聖ミカエル教会 Kirche St.Michaelis (1429) 大天使ミカエルに捧げられ、1493拡張
し塔を付け、1523円天井を再建した。1618-48殆ど無傷で過ぎ、1964-76大規模修復
工事が行われ、15cの天井画が発見された。
ニコライ教会跡 Nicolai Kirch ruin (1444) 1407に墓地とされた場所に、後期
ゴシックの2廊の教会を建てた。1634に30年戦争で壊され、その後廃墟となった。
聖母教会 Liebfrauen Kirche (1293) 塩市場に建てられ、1318-65墓地教会
であった。1431フス戦争で壊され1443再建され、1620.1634.1686戦争や火災で壊さ
れ、1690石造となった。1848教会は再建され、内部は改装された。1897.1936.
1972-73修復が繰返された。
ハルトマンの家 Hartmannsches Haus (1720-24) ザクセンバロックの大邸宅で、12煙突
52室・365窓の宮殿のような4階建ての建物である。玄関にはこの世と神の2つの女
神像がある。
モンゼ出版所 Monsa Verlag Haus (1552) 最初の印刷所として4階建で建てら
れた。1574最初のソルブ語の讃美歌を印刷した。
旧兵舎 Alte Kaserne (1842-44) 建物は350人兵士が駐屯する兵舎で、ヴェンド
塔と旧市街の市壁にある。1933税務署となった。
市立博物館 Museum Bautzen (1869) 旧校舎に市博物館が開設された。1880
民家に移り、1884新築の建物に移り、1910-12穀物市場に新築して再度移転した。
市庁舎 | オシャッツ門 |
南壁 | 修道院中庭 |
鋼鉄渡船 |
973 定住を初文書言及、 983 城を言及、
1258 シトー会修道院を建設、 1286 町として言及、
1309 マイセン辺境伯フリードリッヒはその場所をBuch修道院に移した、
1570まで 町はマイセン辺境伯領だった、 1572 マイセン司教は町の憲章を確認、
1610 木製のローラン像が建てられた、
1 90 国民投票の末にトルブク公国ニーダーザクセンに。
中世の市壁で残っているのは、西Oschatzer門の右に10m、東KlosterHof
に20m、南Kirschberg通りに30m。
オシャツアー門 Oschatzer Tor () 中世の4門の内1門が残っている。2階建の建物の
端に小門が付いている。
旧市街は歴史的に保存され、ルネッサンス市庁舎・バートロメートロメ教会のある小
さな町。エルベ川沿いのDoeher公園に世界のエキゾチックな木々があり珍しい。
市庁舎 Rathaus (1575-78) ルネッサンス2階建ての長方形の建物で、マルクト広場に孤立し
ている。その赤い色は、町の所有者であるマイセン司教の指示による。前面と
背面の中央に、切妻壁がありマルクト側に時計塔がある。正面左端に、ザクセン
自由州で唯一生き残った石造のローラント像が立つ。
聖バートロメ教会 St.Bartholomaeus Kirche (1509-12) シトー派修道僧が建てた。内部
は後期ゴシックと農民バロックで飾られ、4階建て角塔には4つの鐘ががある。
1512-1658教会の年表がかかれ、1658碑銘は金文字、1660晩餐・磔・後架の
絵がある祭壇、1844オルガンがある。
修道院庁 Kloster Hof (1258) ライスニッツにあるシトー会修道士のブーフ修道院が経営上の
修道院庁をこの町に設立した。この庁は当時全く特別な地位にあり、1309
マイセン辺境伯フリードリッヒは全ての町を修道庁長に贈った。1370から修道院は
裁判権の一部を獲得した。シトー会修道僧のブーフ修道院は、1512バーロレメ教会
を組み込み、1486修道院学校をたて、1899更新した。いまは、保護記念物
であり、新教教区事務局・地方事務所・住居を収容している。
町博物館 Stadt Museum (2004) 19cの旧鍛冶工場に、古い鍛冶屋・エルベの魚・町の
歴史・ローラントの歴史・工芸品を展示している。
鋼渡し船 Gier Faehre (11c) 町に北側から入るためには、エルベ川の鋼ワイヤーとウイ
ンチによる渡し船に乗らなければならない。堤防を越えて川に入り流水部を
8.41*30.51mのフェリーに乗るのどかな風景に遭える。片道料金は小型車と運
転手で3ユーロであった。
市庁舎 | 旧マルクト |
南壁 |
1076 ヴェーダス司教が町に教会を設立、 1227 初文書言及マイセン司教が破門、
1286 円型の市壁と堀の建設、 1361 町と呼ばれ、毎週市場を開催、
1379 ギルドの組織、パン・肉・靴・毛皮・錠前・車・鍛冶・織・仕立・石工等、
1406 都市権の授与、工芸・商業の発展、 1469 大火災・ペストの被害、
1503 司教の要請で醸造所が設立され醸造組合に発展、 16c 疾病5回も流行、
1618-48 30年戦争クロアチアとスエーデンが占領、 1756-63 7年戦争で略奪に遭う、
1812 ナポレオン軍の通過、町は焼失、 1813 町は再構築され新古典で再建、
1913.45 世界大戦で被害を被った。
1286最初の市壁、1288拡張更新された。南側の堀や水路に沿って石積が
残る。南西に中高壁50m、南中に低壁40m、南東に高壁8mと中高壁50mある。
1288には4門が設けられたが、全て取り壊された。
前衛 Fronfeste (1286) 4階建ての角塔は元々はドレスデン門に接続し
ていたが、その後刑務所として使われ、町で最古の建物である。
司教の家には、球根状のドームの階段塔が中心にある。1813戦争の多く
の銃弾の跡がマルクトの扉にある。新市庁舎は2007-09の改修でオリジナルの装飾
が復元された。
市庁舎 Rathaus (1227) マルクトの中央にゴシックで建てられ、今はマルクトのガラス
張りの下に旧市庁舎の基礎が、掘出されて展示されている。
1813の新市庁舎は古典的な様式で、広場の北西に建てられている。
市図書館 BIbliothek (1816-18) 3階建ての司教の家は、新古典様式で中
央の円形階段塔がポイントである。今は、町の図書館として書庫の他に
文化観光資料・教育青年体育局・オールローゼガラリィがある。
キリスト教会 Ev.Christus Kirche (1816-18) 旧市街の最高地点に立つ単塔
白色新古典主義の教会で、各入口のモザイク画・説教壇の絵画・祭壇画
など芸術性は高い。
聖ベノ教会 St.Benno Kirche (1925) 旧市街の外、北西の公園に在るアールデコ
の教会で、2008改修された。中には、古くからの祭壇・洗礼盤・告白
所などが置かれている。
この町は、Coesfeldの市内にある。
市庁舎 | 帝国門 |
市壁 |
12c 水城に守られた小さな市場、 1251 文書言及、15c戦争で5回破壊、
14c 4門のある市壁が築かれた、 1493 町はヤーネー族の土地を取得、
11522 ペガウ修道院は教会・学校・牧師館を売却、 1668 大火災で町は焼失、
1799 ローゼンベルクの褐炭採掘許可申請、1813 ナポレオン・皇帝ヨーゼフ・ヴィルヘルム2世滞在、
1849 第3騎兵連隊が駐屯、 1876 ザクセン王はカービン銃連隊と名付けた、
19c 玉ねぎの町から褐炭採掘で工業化、 1945 4月米軍、7月赤軍が占領。
ReichsTorの北に在る町博物館の前側10mは市壁である。
中世には4門あったが、今は1門が残り、塔は見当たらない。
帝国門 Reichs tor (12c) 元の基礎の上に、1727バロック5階建ての角塔が再建され、
火事の見張塔として使われた。北に隣接する塔見張り人の家は、1882に壊さ
れた。その後塔は、自警団・住居・牢獄として使われた。
5階建ての門塔、2階建ての市庁舎、自衛教会堂のある小さな町である。
駅通りの4階建ての民家の側面には、町の古い絵葉書の絵が描かれている。
市庁舎 Rathaus (1439) 選帝侯ヴォルクファーによって建てられ、1648正面小切妻と時計
塔付に3階建て長方形の建物で再建された。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 1170のクヴェドリン教会が、1522ペガウ教会から教
会・学校・牧師館を買取った。1524旧市街のヨハネ教会が取り壊され、聖マリア教会
が唯一の教会となった。最古の部分は、13cの地下部分と幅広い西塔である。
1411後陣の建設を始め、1455身廊を構築、6祭壇の一つは15cからの物で、
1511の年号のある彫像もある。1964改修が行われた。
エムクス教会 Emmqus kirche (1258) ザクセンにおける最古の自衛教会堂であった。2007教
会はHenersDorfからトレーラーでこの町に移された。長さ14.5m*幅8.8m高さ19.6mの
大きさがある。
町博物館 Stadt Kirche (1935) 設立当時は町の中にあったが、1994からReichsTor
と隣の家に移され、1999復元されそこで常設展示が成立した。
Leipzigの市内
マルクト広場 | 市壁表示板 |
南西壁 | 南西壁 |
1046 コルデッツ教区の初言及、 12c 市場取引決済の台頭、
1256 市民権の初言及、 1404 ヴィッテン家のマイセン辺境伯領となる、
1430 フス軍の攻撃で城と町は焼かれた、 1504 大火災で町の殆どは焼失、
16c 亜麻布の織工場の生産と貿易で繁栄、 1578-91 城はザクセンの狩の館に、
1602-22 ザクセン王女ソフィアの治世下で最盛期、 1710 マイセン磁器製作所の設置、
1800-29 城は救貧院となった。
12cの市壁は、下市場を囲んで高さ4.5mで町側に壁上通路を持ち、前に置かれた
堀には水が満たされていた。中世の市壁の復元は、Am Grabenで2006-07に高さ4.2m
延長30m行われた。市壁は敷地の垣根としても長年使われてきた。
市壁には6門と多くの塔が在ったが、残っていない。
中心部にルネッサンスの市庁舎・教会がある、川の右岸にある城の下の小さな町。
市庁舎 Rathaus (1738) 3階建ての建物で、小破風と鐘楼があり、地階は星形アーチと綾
格子で形造られている。
コルディッツ城 Schloss Colditz (1083) 皇帝ヘンリー4世は、Wiprechtに地区を授け、城が構築
された。1430フス軍に破壊され1484に再建された。1504の大火で焼け1506から再
建を始め、1524上層階が築かれた。1578-91ザクセンの狩の館としてルネッサンスの建物を
建てた。1697バロックの城を築いた。1753選帝侯裁判所となり、1787崩壊が始まり、
絵画や写真は競売で処分された。1800救貧院となる。1829精神病院を併設。1913
容所。1939軍将校収容所。1945病院・老人ホーム。1996博物館も一部使用。1997復
元作業を開始。
SchlossKirche:城の中庭に斑岩の扉のある教会が復元されている。
聖ニコラス教会 St.Nikolaus Kirche (12c) 南西、1431古いロマネスクの建物で、町の墓地に在
った。1571回廊・祭壇・説教壇が整備され、教区教会として使われた。
聖エジデン教会 StadtKirche St.Egidien Kirche (1286) 初めの教会はフス戦争焼かれ、単
塔の教会が再建された。1598王女ソフィアが祭壇を寄贈した。
マルクトの家 Markt8:斑岩の円アーチ玄関、勤勉な蜂を象徴した要石のある民家。
Markt13:1600 壮大なルネッサンス切妻のある民家。
Markt21:1602 ヴィッテンベルクの法学者が所有した、元役所の建物。
宮殿通り Schloss Gasse (16c) 絵の様に美しい16cからの木組みの家並があり、変形バ
ルコニーの特異な外観のために、「偶像の神殿」「見せかけの家」「ウサギの家」等と
地方で呼ばれている。
コルディッツ博物館 Colditz Museum 町の長い歴史と文化、有名な人物の生涯と業積につい
て展示。
市庁舎 | ブライト塔 |
ハレ塔 | 北南壁 |
北東壁 | 東北壁 |
東南壁 | 南西壁 |
1166 最初の文書の言及、 1291 町として挙げられた、
1348 ペスト流行、 1399-96 市庁舎塔の建設、
1410 市壁と壁塔による町の防御、 1539 宗教改革の導入、
1644 スエーデンの占領と略奪、 1657 ザクセン・メルセブルク公国に、
1661 大火災が発生、 1728-1810 ザクセン軍の駐屯地、
1815 プロイセン領となり郡庁となる、 1945 4月米軍、7月赤軍が占領。
1410から赤レンガの市壁が、長さ1.5km高さ1.8mで町を囲った。30年戦争中に部分的
に壊され、その後高さ3-4mで再建された。西側を除いて煉瓦の市壁は殆ど残り、北側
の一部には木製壁上通路が付けられている。
ハレ塔 Hallescher Turm (1394) 西入口の高さ39mの角塔で、1686-98には夜警が
詰めていた。中世から近世では刑の執行を待つ囚人の牢獄が地階に在った。
広い塔 Breiter Turm (1396) 東入口の高さ46mの角塔は、市で2番目に高い建物で、
1504-1890警備員の詰所があった。中には、展示品かあり、古い靴職人の店
もある。
高い市壁と広い堀が旧市街を囲み、市庁舎・中世の教会・市長の家・騎士の家の
ある古い町。
市庁舎 Rathaus (1474-97) クラシカルな外観を持つ3階建ての建物で、ゴシックシック・ボールト
はまだ内部に残っている。
町管理者邸 Stadtschreiber Haus (1568) 町の管理者の居所で、入口はルネッサンス
の栽冠ペディメントを持つ。
浴場 Baederei (1386) 大型浴槽で入浴させていたが、病気のために1810に閉
鎖された。
市長の家 Buergermeister Haus (1583) ルネッサンス切妻付3階建の松ぼっくりが飾
られた建物で、大きなポータルを持つ。
騎士の家 Ritters haus (1558) ルネッサンス切妻付の3階建ての建物で、開口部に
赤いアクセントが゙ある。
聖ペーターとパウロ教会 St.Peter und Psul Kirche (1494) 煉瓦造の2尖塔と大身廊の
教会で100年を掛けて建てられた。ゴシックの主祭壇は絵画が修復されている。
内部の壁画は一見の価値がある。
聖ヨハネ教会 st.Johann Kirche (1516) 市庁舎の向かいに建てられた病院の教会
である。1391-92に建てられた病院に属していた。
バロックの館 Barockeschloss Delitzsch 1689-96には、ザクセン・メルゼブルク公の未亡
人が居住した。博物館として、城や町の歴史や文化的・政治的な収集品、未亡人の生
涯と生活を展示。
マルクト広場 | 宮殿 |
西北壁 | 西壁 |
1218 聖職者Johnの所有地として言及、 1326 市壁の小裏門アーチ要石に記述、
1266 マイセン辺境伯ヘンリーは鉱山町に自治を、1300 伯フレデリックは銀鉱山の1/10を修道院へ、
1358-62 マイセン辺境伯フレデリックは町の防備強化、 1429 フス軍と戦って負けた、
1503 侯爵ゲオルクは城に住み他役所を置いた、 1540.1760.31815.1841 大火災、
1569 鉱山122、製錬所、スタンプミル3、錫製錬所があった、 1634.43 スエーデン軍の略奪、
1707 7年戦争の戦場となった、 1806-13 ナポレオン戦争で被害、
1945 2次大戦でソ連軍の占領。
1358-63の市壁は、堀と2門1小門で守られた。市壁は主として西に残っている。
マルクト広場には、次の面白い3小門がある。
シュルツ門 SchulzscheTor 市庁舎近くの右側に元市長シュルツの家があり、その正門は長い
間守られ、2000市庁舎の近くの市道の小道に取り付けられた。アーチ門の上に三角
の飾りが付いている。
マルテッツ門 MaltitzscheTor マルティッツ家の門は、ルネッサンスの飾りのある左右の門柱が立ち、
マルクト広場にある。
飾り門 ZierTor des Rathaus(1543) 円アーチと壁のへこみがある。門の上にはマルティッ
ツの紋章がある。
14cの2門1小門は、何れも残されていない。
上門塔 OberTor 1634以降評議会場となった。1845取壊時に牢獄の証拠を発見
フライベルク小門 FreibergPforte PforteBurgに下る斜路にあった。
下門 NiederTor 16cには、両切妻屋根の四角い主門塔と書記室・収税室があった。
堀の上を通る木橋は石橋に代えられ、1814通行税の廃止で塔書記は解雇され、
町は開かれた町となった。19c後半に取壊された。
町庁舎 Rathaus (15c) ルネッサンスの3階建の建物で、破風と鐘楼が付いている。
宮殿 Schloss (1200) マイセン辺境伯は住居として突出部に城を築いた。1289-1300
一次ボヘミア王ヴァーツラフに売却されたが取り戻した。1358-63辺境伯フレデリックは城・堀
・市壁・門塔で町の守りを固めた。1485侯爵アルブレヒトは城を修復した。16-17c今の
宮殿はドレスデン宮殿に似せて造られた。今は、地方裁判所と東エルツ美術館である。
聖マリア市教会 St.Marien Kirche (1218) 最初のロマネスクの教会は、1409フス戦争で壊
され、1500ゴシックのホール教会で再建された。1634に30年戦争で崩壊し、1638簡素
に再建され逐次充実された。1841抜本的に改修され1964-80内装も復元された。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (13c) 町の南の外れの墓地に在る、ロマネスク3廊
のバジリカである。1882-83大規模な修復が行われた。
鞣し革博物館 Lohgerber Musum (18c) 3階建の古い鞣し革工場を博物館として
1975に復元した。皮革製造業界の資料と東エルツ山地の歴史的な発展、民族芸術・
地域の歴史等を展示。
市庁舎 | 市壁 |
981 皇帝オットー2世は城と村を修道院に寄贈、 1286 町と呼ばれた、
1307 辺境伯フリードリッヒは市場権を、 1333 町は大火災で焼失、
1383 辺境伯ヴィルヘルム1世は入門税・車両税徴収、 1422 1.7Kmの2重市壁を建設、
1423 選帝侯フレデリックは上級裁判所設置、 1439 ペスト流行で人口減、
1481 町は交易の集荷権を得た、 1539 侯爵ヘンリィは宗教改革導入、
1624-48 30年戦争で略奪・破壊・疫病、 1730 大火災で町は全焼、
1756-63 7年戦争の戦場となった、 1829-33 市門・市壁・塔を廃止、
1886 駐屯地となった、1888 兵所建設、 1945 2次大戦で米軍の占領。
14-15の二重市壁は、高さ10mの石積だったが、1829-33に殆どの部分が取り除け
られた。
見当たらない。
ムルデン島に千年以上にわたって旧市街があり、中心の市庁舎と聖ニコライ教会の尖塔
が町のシルエットを支配し、19-20cの大きな建物が多い。2007から馬車トラムが再建
され、旧市街地を巡回した。2009には馬鉄道博物館会内に常設し、特別の日のみ
馬が牽引する事になった。
市庁舎 Rathaus (1409) 初めの町役場は1571に再建され、1740旧市庁舎が建てられ、18
53-1901に管理席となる。3階建の建物には2つの湾曲切妻があり、6階建の市塔が立
ち、登れる。1910-12に新築された市庁舎には、市立美術館と小ギャラリーがある。高さ
3.7mの巨大ブーツは、靴制作600周年の1925に伝統的なザクセン職人の技で造られた。
聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (1333) 初めの教会は1293に奉献され、1479に3階建の
ゴシック教会は5/8身廊、1515ザクセンで最大の後期ゴシックの主祭壇がある。
聖ヤコビ市教会 St.Jakobi Kirche (1904) ネオロマネスクの地味な教会で、多角形凹合唱団の石造
の建物。1904西塔の設置。
聖ヨハネ教会 St.Johanis Kirche (1916) 新ロマネスクのホール教会。窓ガラスにザクセン選帝侯を描い
た。1997オルガンを設置。
鉄道馬車 Pfarde Bahn Museum (2009) 1892-1926に駅とマルクトとの間2.45kmを鉄道馬
車が運行した。2007に550m区間の運行を再開した。2009ドイツ鉄道馬車博物館に
鉄道馬車の歴史を説明し、鉄道馬車を展示した。
高級住宅 Villa (1880) ヴィルヘルミアン様式の印象的な石膏の2階建の建物。2窓付の屋根部屋が
ある。
住宅・店舗 Wohn und Wirschaft haus (1898) レンガ造4階建の新しい建物、中央突起の構
造美のある前面で石のレリーフがある。
市水泳場 Stadt Bad (1934-36) オリンピックの年に開場した水泳場は、屋外・屋内のプールと
サウナで構成され、2003.2013に改修された。
簡易裁判所町庁舎 Amtsgericht (1900) 白いクリンカーの2つの建物。
郡会事務所 Landratsamt(1897) 2階建レンガ造の長大な建物で、元Amtshaupt-Mannschaft
であった。
市庁舎 | マルクト |
交通博物館 | カトリック教会 |
レジデンツ | 民俗博物館 |
12c マイセン辺境伯はエルベを守って築城、 1206 町として初文書言及、
1261 城の近くに商人入植地が形成、 1270 Wettin家チューリンゲン伯ハインリッヒ3世の居城、
1429 フス軍が町を包囲、 1485 Witten侯爵マイスナーの息子アルベルトが相続し居住した、
1491 町は大火災に遭ったがその後第1次全盛期、1547アルベルト家に移りザクセンの首都に、
1620 30年戦争で破壊・疫病・飢餓で衰退、17-18c選帝侯はポーランド王を兼ねバロック都に、
1756 7年戦争でプロイセン軍が占領、 1760 プロイセンの砲撃で中心部は壊滅、
1815 プロイセンが領土の半分を取った、 19452次大戦の空爆で壊滅的被害。
13cの一次市壁は、旧市街地を今の緑地で囲み、その後対岸の新市街を含めて、大きく
市街地を拡大した。
要塞の中で生き残ったのは、ドレスデン要塞博物館がその下にあるBruehlsche Terrasse
660mである。近くには1960から学生クラブでとして使用されてきたBaeren Zwingerがある。
ツヴィンガー宮殿には、要塞ルナの一部が保存されている。70m
ドレスデンの市壁の一部は、グバントハウスの地下(リング・シュトラッセ1)でも見ることができる。
宮殿庭園の日本庭園ではノイシュタット要塞の要塞Ⅴの一部が保存されている。
その他、Gasse An der Mauerに70m、Wall Strasseに370mは要塞にちなんで名付けられた。
見当たらない。
灰燼に帰した町から、文化的な建物を瓦礫を積んで徐々に復元し、バロックの街
はエルベ川沿いに蘇っている。
ツインガー宮殿 Zwinger (1728) アウグスト強王が古いツインガーにオレンジ園を造る計画をたてたが、
次第に拡大され今の姿になった。南北にグロッケンスピール・パビリオンと壁パビリオンの半円
形の建物があり、西はツインガー展示室と冠塔、東にゼンパー展示室がある。中には、陶
磁器コレクション・アルテマイスター絵画館・兵器庫・数学物理サロン・ニンフェバード等が有る。
歌劇場 Semper Oper (1871-79) イタリアルネッサンス風の建物で、戦災後再建に40年を要した。劇
場前の広場には、ザクセン王ヨハンの騎馬像がある。
旧カトリック宮廷教会 Ehem.Katholische HofKirche (1736-55) 大きなマイセン司教区のバジリカ教
会堂5000m2で、屋根の上には78体の聖人像がと高さ85mの塔が立ち、身廊は4つの礼
拝堂に通じる周回廊で中央廊と側廊に分けられ、主祭壇には1750キリスト昇天の祭壇画
がある。地下にはザクセン王の高価な石棺がある。
王宮 Residenz Schloss (18c) 旧宮廷はルネッサンス様式で、緑の円天井には王家の財宝が
並ぶ展示場がある。北東の中庭の武芸競技場StalHofの外壁にはマイセンタイルの長さ101mの
君主の行列の壁画がある。東側の厩舎ヨハノイム入口には美しいルネッサンスの扉があり、中
には交通博物館を収容している。
旧武器庫 Ehem.Albottinum (16c) 1885新しいルネッサンスの美術館に改造され、があり、中
があり、中2階にノイエマイスター絵画館があり、ロマン派・印象派の名品が並んでいる。
ブリュールのテラス Bruelsche Terrasse かっての堡塁のあった場所にエルベ川をを見下ろす
絶景のテラスがあり、川の舟運と対岸の新市街が見渡せる。
市博物館 StadtMUseum Doresden (1770-76) ロココ的後期バロックの別荘に、市の歴史をた
どる展示がある。
聖母教会 Frauen Kirche (1726-38) 直径23.5mの大ドームの教会で、1945破壊され、放
置された後に、1994-2005に復元された。
十字架教会 Kreuz Kirche (13c) 前身はニコライ教会で、今の後期バロックに初期古典主義を
加味した建物は1764-1814にたてられ、高さ54mの塔には256階段を上がる展望テラス
があり、展望は良い。
新市街 NeuStadt (18c) 対岸の新市街には多くの大建築物がある。ケストナー博物
館 Erich Kaestner museum 作家の博物館。
日本宮殿 Japanisches Palais (1715-37) アウグスト強王の磁器展示場として建たれ
建物の形から名付けられた。
ザクセン民芸博物館 Museum fur Saechsische VolksKunst ルネッサンスの建物に、ザクセンの
家具・玩具・錬鉄製品などが展示されている。
市庁舎 | 広場 |
城跡と城壁 |
1198 レイエ騎士団が来た初文書言及、1225 Lobdeburg領主は丘に城を麓に教会を建てた、
13C 町は市場権を得た、 1354 都市権を得て正方形の市街を造り管理した、
1492.1705.1840 大火災で焼かれ再建、 19c モスリン・綿織物を生産し通商、
1882 最初の機械的な織物工場が開業、 1945 2次大戦4月米軍7月赤軍占領。
市壁は、通りの名前だけで残っていない。城跡に城壁140mと接続市壁110mが見られる。
見あたらない。
川から登った丘の上の城の下に旧市街地がる。城の他に見所は少ない。
市庁舎 Rathaus (14c) 市場の確立と都市権授与に伴い市場の下側に建てたが、1840大火災
で文書庫と共に焼失した。1843ネオゴシックの窓に特徴のある2階建ての小破風時計付の簡
素な建物になった。今は貯蓄銀行が入っている。
エルスター山 Elsterberg (1225) Lobdeburgの領主が来て、城を建てた。1354Vogtland戦争で占
領され破壊された。1366城は再建され、円型城壁と空堀で守った。建物は宮殿・礼拝堂
等が有り、二重壁の間のツインガーを長々と通らないと中庭に到達しない。1394Lobdeburg
家が絶滅し、ビューナウ家が購入し、1636-1736裕福なボーゼ家が来た。1750に人が住まな
くなった。1840町の大火災後に、城は町の再建資材として取り壊された。1909から修
復が始まった。
聖ローセンス教会 St.Laurentius Kirche (1225) 教会の建物は火災で何回も破壊され1840の大火
の後に19mの高さの内部空間のある今の建物が建てられ、1848に2千本のパイプオルガンが
付けられ、1987-95大規模改修が行われた。
市庁舎 | 城 |
教会 | 西壁 |
1200 交易路と銀採掘の保護のため築城、 1329 マイセン辺境伯は城と領土をマイセン城伯へ、
1416 マイセン城伯ハインリッヒは都市権を授与、 1438 城は辺境伯に6週間包囲され破壊された。
1473 シェーンベルク家は町と城と役所を授けられた、 15c 新しい今の町が成立した、
1585-88 新しい宮殿が建てられ、4門のある市壁で守られた、旧城は放棄された、
1647 シェーンブルク家は30年戦争で借金を背負い込み、領土の資産をザクセン選帝侯に売った、
1728.1869 町は大火災で焼けた、 1873 町は地方行政の中心から外れた。
16cの市壁は、町の南側に切れ切れに15m+15m+20mに残っている。
城の入口には、2つのアーチ3階建ての方形の建物がある。
広大なマルクト広場は、2階建ての建物がが囲み、中央には教会が際立っている。
市庁舎> Rathaus マルクト広場の北側に、2階建て時計塔付の小さな建物がある。
城と宮殿 Burg und Schloss 旧城は1200に創設され、13c住居塔と礼拝堂が建てられ、14c
大きな円形の城壁で守られた。1585-88ルネッサンスの新宮殿が、城の下に建設され旧城は放棄
された。東に開いたコの字型の3階建ての建物で塔が付いている。
今は、Silbermann Museum があり、城の円天井のホールに、有名なオルガン製作者の生涯
やゴットフリート・シルバーマンの仕事に関する展示がある。
教会 Kirche マルクト広場の中央に立つ単塔の教会。
市庁舎・上マルクト | フロイデンシュタイン宮殿 |
旧宮殿塔 | 北壁 |
西壁 | 南壁と石灰塔 |
1168 村に教会が置かれ、鉱物発見、1170 マイセン辺境伯のマナーハウスと石造教会建設、
1180 マイセン辺境伯の城を構築、 1233 町や山の憲章を授与され鉱業で栄えた、
1375.1386.1471.1484 四大火災で焼け再建、1542 高等鉱業事務所が置かれた、
1632.1639.1642 30年戦争で疾病と貧困、1756-63 戦争の戦場となって
1724.28 町は火事に襲われた、 1765 鉱山アカデェミーの設立、
19c 5市門とかなりの市壁が取り壊された。
15cまで州でもっとも裕福な町で、防備施設に多くを支払った。19cに多くの市
壁が取り壊され約1/3しか残っていない。
ドナット塔 Donats Turm 東、高さ35mの円塔。
黄ライオン塔 Gelberloewe Turm 南、シラー通りに復元された4階建ての角塔。
石灰塔 Kalk Turm 南、シラー通りに復元された3階建ての4角錐屋根の角塔。
旧城塔 Alte Schloss Turum 城の北にある5階建ての角塔。
宮殿塔 Schloss Turum 城の西南角の5階建て円塔。
ペスト牧師塔 Pest Pfarrers Turm 北、マイセン・リンクにある角塔。
昔栄えた大きな町で、城も復元され、二つの広場に立派な建物が並び、多く
の教会が復元されている。今は大学都市と呼ばれている。
市庁舎 Rathaus (1410) 1484の大火の後に後期ゴシック3階建てで建てられ、
5階建ての時計塔の地階には礼拝堂がある。マイセン磁器のチャイムががあり、11.15と
16.15notaiga-の歌が鳴らされる。
旧市場 Alt Markt (1210) 正方形の上広場の周囲には15c後半の後期ゴシック
の歴史的な高い建物が立つ。標高で10m低い下広場も一見の価値がある。大聖堂・
町と山博物館・高等学校等の建物が並んでいる。
フロイデンスタイン城 Schloss Freudenstein (1175-80) マイセン辺境伯オットーは、町や
銀鉱山を守るため城を築いた。16cから4翼の宮殿にに拡張された。2008-2010に
大規模な改修を行い、鉱物の世界最大のコレクションと鉱業の歴史を展示した。
聖マリア大聖堂 Dom ST.Marien (1180) 初めロマネスクの聖堂として建てられ、16c
に後期ゴシックのホール教会となり、その後も改修が重ねられた。1230の後期ロマネスク砂
岩のアーチの入口は、ゴールデンゲートと呼ばれ金色が残っている。16cチューリップの説教
壇・1638バーブマン説教壇・シルバーマンのオルガン(大2574本)・6鐘の美しい旋律がある。
聖ペテロ教会 St.Petri Kirche (1190) 初めロマネスクのバジリカが建てられ、
16cから1905まで、町の警備員が72mの高塔に住んだ。今この塔には登ることが
できる。2003-25鐘楼が再建され、1487の鐘が置かれた。1735内部の主要部分と
オルガン・説教壇も更新された。毎週水曜日にはシルバーマンのオルガンが演奏される。
ヤコブ教会 Jakobi Kirche (1160) 昔のセントジェームス教会は、村に最初に建て
られ、1890-92新しい場所に新聖ジェームス教会がネオゴシックのホール教会として建てら
れた。
聖ニコライ教会 St.Nikolei Kirche (1185) 村で2番目に古いロマネスクの教会で、
1200大幅な拡張が行われ、1484大火で破壊された。1630から再建され、1750
ロマネスクの主塔を残しバロックに変換され、1753西塔が追加された。20c隣接した劇
場の倉庫として使われ、1992-2002元のロマネスク双塔の前面に修復され、演奏や会
議に使われている。
町と山博物館 Stadt und Berg Museum (1861) 1484大火の後に建てられた
Domherrenhofであり、後期ゴシックの切妻と階段塔のある3階建ての建物は1902
世俗化で不要となり高等学校として使われ、1903博物館が創設された。鉱山の町
の歴史と宗教芸術が展示されている。
鉱山訪問 Besucher Bergwerk 銀の採掘跡で、地下150m延長20kmの坑道が見
学できる。
テッラ鉱物 Terra Mineralia (2008) 3500以上の鉱石・宝石・隕石・銀貨・銀細工
等の世界最大級の展示が宮殿で行われている。
市庁舎 | シャンパン醸造所 |
北東隅壁 | 北聖壁 |
南壁 | 北東壁 |
1090 新城ノイエンブルクの建設、 1203 町として初言及、
1260 市民憲章の文書化、市壁を備える、 1293 ナッサウ王アドルフによる侵略、
1347 鋳造場所となった、 14c中 市壁の建設を開始、
1441 最初の自治法令、 1539 宗教改革の勅令、
1551.1608.78.82.93.94.1740.1851 大火災、1632 30年戦争でスエーデン軍略奪、
1681 疾病の大流行、 1806.13 仏軍の侵攻、
1815 プロイセン領となる、 1866 コレラ流行。
約1.2kmの市壁で85haの旧市街を囲んでいる。教会のある南東で膨らんで
いる以外は、四角形の市壁はほぼ残っている。
北のOberTor、南東のKirchTorは、外側の要塞に加えて二重門の角塔であ
ったが何れも残っていない。12の円塔が壁から突出していたが、塔頂飾りが
残っている物がある。幾つかの抜け穴があり、木製の蓋で閉鎖されている。
町角塔 Eckstaedt Tor 南西、単独角塔門でそのまま残っている。
ワインの町と呼ばれ、スパーリングワインの生産で有名である。旧市街の殆どの石造
の家は、1551の火災の後に18cまでに建てられたものである。
市庁舎 Rathaus (1425) 現在の外観は1551と1682の火事の後の建物の
補修されたもので、建物の多くの部分は今も残っている。アーチ状のセラーは中世
からの物である。
新城 Neuenburg (1090) 旧市街南東の山上に、城壁に囲まれた石造の城
が残されている。中には王子の広間・家庭用具・地下のワイン博物館・ロマネスク礼拝堂
がある。1896のワインの大樽は12万m3の大きさで、その他ワイン器具もある。
聖マリア教区教会 St.Marien PfarrKirche (1220-30) ロマネスクの市教会で、
姿や装飾は、ナウブルク大聖堂の妹呼ばれるように似ている。正面玄関の上の像
と祭壇は有名である。
フリードリッヒ・ルードリッヒ・ヤーン博物館 Museum (1894) フリードリッヒ・ルードリッヒ・ヤーン
(1778-1854)は国民運動による体操の創始者で、ナポレオン占領の反対闘争とし
て体力増強を図った。博物館には体育館と展示がある。
市庁舎 | 火薬塔 |
市門 | 北東壁 |
1186 メアリー教会の贈物簿で初言及、 1209 ランツベルクのコンラート2世は市場・市壁設置、
1335 憲法評議会を開催、 1349 ライプティッヒの下で裁判所・火薬塔・市壁を設置、
1292 地方の下級裁判所を取得、 1467 地方の上級裁判所を取得、
1499 各ギルドは特権を使って結成、 1553 選帝侯モリッツは町に醸造権を与えた、
1618-48 30年戦争で17回略奪、 1861 ザクセンは貿易が自由で産業が興る、
1945 第2次大戦の爆撃で被害。
最初はニコライ教会に壁に、町は囲まれていた。1209市場を囲む拡張市壁が築か
れた。市壁の西部は、守衛詰所から南壁は湿地や池に伸びていた。
今は、北と西南の市壁が残されている。
町には4門を備え、常に守衛に守られ夜間には閉鎖されていた。19cに市門も
市壁も取壊が行われた。
上門 Ober Tor(13c)1840に上門も取り壊されたが、2階建ての門塔のみは
みは残された。
火薬塔 PulverThrm (1186) 町を守る市壁の一部で、1682ザクセン選帝侯は常備
軍を町に置いた。駐屯の建物は火薬塔の隣にあり、砲弾や粉末は塔に格納さ
れた。1950歴史資料を収容し、1986文化遺産博物館となった。
東西に長い町で、市壁が残り中央の広いマルクトに市庁舎が立つ。
旧市庁舎 Rathaus (15c) 市庁舎には15c基礎が残り、1538建設時のボールトが見ら
れる。1994町は旧市庁舎の購入を決定した。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (12c) 42mの高塔のあるロマネスクの教会で、二つの
塔の間の西側に美しい門がある。1564ゴシックの内装が始まったが、途中の
1595に格間天井となった。教会の隣に新しい牧師館としてKaland Stubeが
あり、1990に改修された。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 病院の礼拝堂に塔が付けられ、15c3身廊
後期ゴシック石造教会となった。1648落雷で火災となり3つの鐘が溶け、直ぐ
に付けたが1752塔は焼失し、1753再度付けたが、戦争で供出された。
郷土博物館 Heimat Museum 町の歴史を展示し、1995美術館を併設した。
1997庭のコテッジとテラスを設けた。子供のための中世・妖精・古いゲーム等の説明。
古い税務署 Alten Zollhaus (12c) 西側の入口に在り、ほぼ完全に保存された
市壁に囲まれている。
市庁舎 | ニコライ塔 |
塔 | 太い塔 |
北壁・Vogtshof | 東北壁・聖ペーター・パウル教会 |
雄牛塔 | 東南壁・雄牛稜堡 |
1071 マイセン司教ヘンリー4世の文書に村言及、1076 上ラウジッツ全体がザクセン領に、
1220 ゲルリッツは町となった、 1268 上市場の町を拡大し600年保った、
1303 都市権を授与された、 1329 貨幣と塩山の管理権を確立、
1346 上ラウジッツ6都市同盟が成立、 1635 プラハ和平で町はザクセン州となった、
1815 シレジアの一部としてプロイセン領へ、 1816 最初の織物工場の建設、
1900 旧市街と鉄道駅との間に新住宅地、1945 町は無傷で占領され国境に。
1220木柵と城があった。1250市街が拡大し石の壁が築かれ、堀・二重壁・壁塔・
門塔が整備された。郊外とは別の周壁があった。1700には外壁に8と内壁に12の
壁塔が在った。19cから要塞は取り壊され、今では東側に残る。市壁は、東北部
ニコライ塔から旧市街橋に430m、東南部旧市街橋から雄牛要塞に210m残る。
国境川塔 ReichenBacher Turm (1376) 西の門を守るための7階建51mの塔は1485
に上部工を強化し、1782ゴシックの尖塔はバロック銅蓋となった。1869歩行者通路を
追加。1935補修され1946から塔へ登れる。大きなロータリィは、昔の二重壁と前門
の跡である。
暗い門 Finster Tor (14c) 東の川に下る坂道の途中に残されたアーチの上に建物
のある門であり、落とし格子で通行は止められた。1455には死刑執行への門
と呼ばれた。
皇帝要塞 Kaiser Trutz (1490) 西側を守るための新しい円形の大要塞で、30年
戦争で有効に使われた。1848-50プロイセン軍の駐屯地を守るためアーチと塔が追加
された。1922以降は市立博物館として使われ、2008-2011に改修された。
太った塔 Dicker Turm (1305) 南西の門塔で女性塔とも呼ばれた。外見は少し
づつ変更され、16cには今の塔頂となった。下部の厚さは5.4mもあり、石の
レリーフは1477外壁のものである。1852に解体され今の場所に移され、1433の
皇帝の紋章が飾られている。1854の前門が壊され塔のみが残った。
ニコライ塔 Nikolai Turm (1348) 北の門を守るため、1717大火災の後に尖塔やドーム
とランタンに置き換えられた。1848門が壊され塔が残った、1903に2階に住居が
あった。1969展示会や展望塔として管理されている。
ニコライ・ツヴィンガー Nikolai Zwinger (14c) ニコライ塔から東に登る二重壁の間に小門と
ニコライ小屋がある。坂を登ると隣接するHotherBasteiがある。これは北東角
の要塞で現存しており、大規模な大砲の砲眼がある。1990年代にこれらの
構造は修正された形で復活した。
雄牛要塞 Ochsen Bastei (14c) 東南の緑地に二重壁と3階建て円壁塔が残る。1834
の門は壊されたが、1963再構築され、1999-2000に改装された。
ポーランド国境であるナイセ川の左岸に、13cに建設された町であり、下マryクトと上
マルクトの周囲には修復されたゴシック・ルネッサンス・バロック・アールヌーボーの建物が並んでいる。
市庁舎 Rathaus (1369) 今の外観は、何度かの再建の結果である。1537-38上の
3/4が変えられた。ハンガリーとボヘミヤ王の紋章が飾れれている。1524時計塔に
ダイヤルが付けられ、1584に12時間表示に変えられた。内部はルネッサンスで、1903
拡張は完成された。
代官屋敷 Vogtshof (13c) 北東、初めは領主の城であったが、13cから代官の屋敷と
なった。1826-30プロイセン州の駐屯地と刑務所を置くために増築拡張された。
1945雑多な目的で使われ、1975学生寮・宿舎・評議会公文書保管所となっている。
聖ミコライ教会 St.Nicolei Kirche (1372) 北、1452後期ゴシックの教会で1515南ポータル
には聖ニコラスと聖キャサリンの彫像がある。1925表現主義の様式で1次大戦の戦死者
の記念碑がある。
聖母教会 Frauen Kirche (1449) 南、1473ゴシックのホール教会となり、聖体拝領され
た。内装は1869-70ネオゴシックで再建され、1840近くの墓地は整理された。
聖十字教会 Kreuz Kirche (1850-53) 南、ローマカトリックの教会がネオビザンチン様式で建て
られた。
教区教会 PfarrKirche St.Peter und paul (11c) 東、ナイセ川沿いの丘に立つ長さ
72mの銅屋根でその富を示す。初期の城に建てられた最古のきょうかいで、13c
教区教会になり、1372守護聖人ペトロとパウロの小塔で飾られ、巨大な5廊のホール教
会になった。1423外装もゴシックとなった。1691火災で西正面を残して焼失し、
1696再建された。1891ネオゴシックの尖塔が付けられた。
トリニティ教会 Drei Faltigkeits Kirche (1234) フランシスコ会の修道院の元教会で、修道
院の壁は市壁に組み込まれた。1371-81ロマネスクの後陣は八角形のゴシックに置き換
えられた。15c布貿易の富からの寄付で、美術史上に輝く彫刻群が置かれている。
世俗化で一時荒廃したが、三位一体の聖体拝領でルネッサンスに改装され、1715
バロックの祭壇が置かれた。
聖書の家 Biblisches haus (1570) 1570家は再建され、聖書からの場面の彫刻装飾
が前面に付けられ、聖書の家と言われた。
ライフル隊兵舎 Jaeger Kasern (1857) 丘陵地に1854-588ライフル大隊兵舎として石と煉瓦
の巨大な外塀の中に、100mの長い建物、不規則な石積と正方形の塔で兵舎の
防備力を高めた。1945まで兵舎として使われ、その後ソ連収容所、住宅として
使われ、1990からは事務所として改修され、市の技術部門が収容されている。
アールヌーボー百貨店 Jugendstil Kaufhaus (1912-13) アールヌーボーの百貨店は、戦争を生
き延び1985から修復が行われている。
ランズクロン醸造所 Landskron Brauerei (1869) ナイセ川に沿った煉瓦壁の中に設立され、
今もピルナーと黒ビールを醸造している。1872ホールが建てられ中庭を含め3千人を収
容できて、多くのイベントが行われている。見学・試飲ツアーが行われている。
評議会薬局 Rats Apotheke (1558) ルネッサンス切妻の豪華な家として建て替えられた
薬局である。
美しい館 Schoen Hof (1526) 1525大火の後に、以前の家を含めたルネッサンスの複合建
築物で美しい。1617改修され、1991改修変換が行われ、2006シレジア博物館となり
2千m2の大展示場を有する。
計量所 Waage (1600) 角地に立つ4階建ての計量所は、貿易品や商品の通関のため
に使われた。1823まで関税事務所として使われ、1830貿易協会が設立され、こ
こに入居した。
死刑執行人の家 Schsrtrichter Haus (15c) 東、暗い門の近くにあるフランコニア様ため
ため木組の家は、町の外に住まねばならない死刑執行人の家として1571から使わ
れ、地上階は近年大規模な改修が行われた。
青い家と賃貸家 Waidhaus und RentHaus (14c) 聖ペテロ教会の南東側に、破風付4階
建ての醸造所が建てられた。その後学校・市長や審査員の住居となり、1529町
の商品倉庫となる。1529最初の印刷機が置かれ、1728王宮の穀物倉庫となった。
市庁舎 | マルクト広場 |
グラウシャウ宮殿 | 郵便局 |
1170-80 シェーンブルク家は城を建設、 13c 上町が築かれた、1300 城と町をボヘミヤ王に譲った、
1347-55 シェーンブルク兄弟の争いで 1372帝国領となった、 1453 フス戦争で5回荒らされた、
15c 製粉工場・製紙工場・砥石工場が立地、 1524 シェーンブルク家の財産分割、 1542 宗教改革、
1630 都市火災で城内の家屋が全焼、 1633 ペストの流行、 1640 市壁を壊された、
1712 大火事で243戸焼失、 1856-63 7年戦争で衰退、 1831 独立した二つの市壁の町は合併、
1945 2次大戦で米軍占領、DDR支配、
13cの市壁は、1831までレヒトシュタットとクアマシュタットは、それぞれ独立した市壁と市門を有していたが
合併した。 Rest der Stadtmauer は、Markt11に5mとNicoleiStr.2に70m残っている。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus(1819)マンサード屋根2階建のバロックの要素のある古典主義の建物で
1813に全焼し1819に再建された。1922-23に内部は大幅に改造され、隣接の建物は市庁舎に取り込
まれた。
郡庁舎 Gerichs Gebaeude(1860)最初は伯爵の郡事務所から始まり、3階建古典主義
の建物であった。1951に地方裁判所として全面が変更された。
プロテスタント市教会 Ev.StadtKirche St.Georgen (1726-28) 以前のゴシックの教会が組
込まれて再建され、1829には徹底的に更新された。1960-64に内装は元のバロックに戻された。
地方監督 Superintendentur (1871) 簡素なバロック2階建マンサード屋根の建物。
郵便局 Post Gebaeude(1892-93)後期歴史主義の角塔のある建物。
シェーンブルク伯宮殿 Schloss shenburg(1527-34)シェーンブルク家の住居を備えた宮殿の複
合体である。1170に右側に城を建て、1470-85にゴシックの邸宅に改造し、1527-34に宮殿に改築し、
1799に宮殿庭園が加えられた。
旧市庁舎 | マルクト広場 |
聖母教会 | 東壁 |
東壁 | 東壁 |
1170 辺境伯オットーが村を作った、 1344 民兵の初言及、
14c 町は最初の永久橋を築き、自治が行われ、好景気であった、
1440 地方の会議、
2002 世紀の大洪水で多くの家屋が破壊され、再建された。。
旧市街を囲んでいた市壁は、南東400mと西北90mに残っている。市壁の
上に民家のベランダが乗っている。
見当たらない。
ムルデウ川の西側に半円形の旧市街があり、美しい木組み家や大くの時代の
壮麗な建物が見られる。宮殿の地下通路は珍しい。
市庁舎 Rathaus 大きな切妻のある2階建の美しいルネッサンス建物である。中には、
市長の秘密のの通路や秘密の拷問部屋がある。
旧アウグスティン修道院 Ehem.Augustinians Kloster (1550) 豪壮な3階建ての建物
である。アウグスティノ修道会修道院には、修道院教会・高等学校・地域博物館
がある。
聖母教会 Frauen Kirche (12c) 双塔の教会は、火災・戦争・洪水を生延びた。
グリマ宮殿 Grimmaer Schloss (2009) 町の最古の建物であったが、1009-11
に再建された。
市庁舎 | 聖マリエン教会 |
文化宮殿 | 北東壁 |
西壁 | 北壁 |
1205 入植が行われ初文書言及、 1291 町は市壁で守られた。
1292 ブランデンブルク辺境伯の包囲を守った、 1312-16 ブランデンブルク領となった、
1443 町は商人の荷物の集積権を得た、 15-16c 貿易の中心地として栄えた、
1704 町は北方戦争で破壊された、 1744 最大の火事で町は焼失、
1875 歩兵大隊の兵舎が建てられた、 1913 訓練飛行場の建設。
13cに築かれた市壁は、切れ切れに半分残っている。
火薬塔 Pulver Turm 北東の内側市壁上に長方形の塔がある。
布の生産と交易の町として栄え、後期バロックの聖メアリ教会・ネオルネッサンスの市庁舎
と文化宮殿・バロックの宮殿庭園・最古のドイツ国立図書館がある。
市庁舎 Rathaus (1492) 市庁舎は、大マルクトの南に立ち、地下食堂・肉屋・パン屋・
塩室があった。1492火災で壊れ、1526-40に3破風・頂上塔付3階建ての建
物になり、1744再度火災に遭い、再建された建物には地下に評議会室・
地階に肉屋.パン屋.会議室・2階に広間.裁判官室.金融部門・最上階に靴屋
を収容した。1872また火災で焼け、全ての文書.証書.歴史的書類は失わ
れた。1875-76中央7階建中央塔付ルネッサンス3階建51.6*30mで再建された。
1992-2010改装されて今は市の行政と貯蓄銀行として使われている。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1744-48) 後期バロックの教会で、内部はクローバー
の葉の形状がある。
カール・プロイスカー図書館 Karl-Preusker buecherei (1828) 最初のドイツ国立図書館
である。1949古い後期ゴシックの修道院跡に移転し、2004-05改修・近代化
され、中庭は修道院の庭がそのまま使われた。
文化宮殿 Kultur Schloss (13c) 演劇・演奏・舞踏会・会議・展示会に使わわれる。
高さ27mの展望塔からは市内が見渡せる。
市博物館 Stadt Museum (14c) 1342にはラテン語学校は存在し、1586火災で壊
され、1744に再建された。1840までは男子文法学校があった。19c一時は病
院や保育所となり、1907博物館が設立された。都市の発展・貿易商業産業の
経緯・駐屯地の経過について展示している。
市庁舎 | 赤塔・聖マリエン教会 |
聖アンナ教会 | 北東壁 |
1190 ベルンハルトはカーメンツに施設を置いた、 1215 ベルンハルト2世は町を新設拡張、
1225 町として初文書言及、 1421-34 フスは上ナイセへ来襲し荒した、
1547 上ナイセの6町は特権を失い罰金を科された、1618-48 30年戦争で町は荒廃、
1620 ザクセン選帝侯ゲオルグ1世の支配下に、 1635 プラハ和平後にザクセン自由州へ、
1679-80 ペスト大流行、 1707.1842 大火災 1835 町の防御施設の取り壊し、
1875 地区管理事務所の設置、 1900 陶土産業と機械工場の発展、
1945 第2次大戦は無傷で降伏。
13cの市壁は、1835から取り壊された。今残っている壁は、元修道院を囲ん
で1512-1712に造られた。
3市門・自衛教会塔など、多くの塔があったが、今は3塔。
赤塔 Roter Turm (13c) 都市防衛の市門が1845までは在り、最近角塔が
復元された。中世には監獄として使われた。
ピッチ納屋 Pichschuppen (1600) 2階建て円形のずんぐりした要塞の塔で
ピッチ納屋の名前は1827まで用いられた町の醸造所はビール樽にピッチを
塗って活用した為付けられた。
修道院門 Kloster Tor (1518) フランシスコ会修道士が町への通路をこの場所
に設けた。バロックのバルコニィは1770付けられた。
旧市街には古典主義の建物が多く立ち並び、詩人レッシングの生まれた町である。
市庁舎 Rathaus (13c) 昔の建物は全焼し、1847-48イタリアルネッサンス3階建て鐘楼付
の市庁舎が建てられた。
聖マリア中央教会 HauptKirche St.Marien (1275-1479) 後期ゴシックの4廊ホール教会で、
高さ63mの単塔にバロックの屋根がある。中には、1475勝利の十字架・1500女性
の祭壇・14c洗礼盤・1564説教壇・1498北通路の真鍮シャンデリア・1648マイケルの祭壇。
公教要理教会 Katechismus Kirche (1358) 3主広間のある要塞教会として建て
られ、1724公教要理の奉献があった。中には、貴重な民族芸術がある。
聖イエースト教会 St.Just Kirche (13c) 最初は巡礼教会として建てられ、巡礼の
聖別の後にヤドックスと呼ばれた。中には、1400壁画・1500両開きの祭壇・
1520使徒祭壇がある。
聖アンネ教会 KlosterKirche St.Annen (1493-99) フランシスコ会修道院と教会の定礎式
は同時に行われた。三角切妻の教会には、1525アンナ祭壇・1513マリア祭壇と救
世主祭壇がある。
牢獄付陶器市場 Topfmarkt mit Foonfest (1850) 1842の火事までは、町の衛兵
の本部であった。1850監獄の建物が建てられ、1853屋内陶器市場が建った。
黄金の鹿 Golden Hirsch (1550) 町で最も古い宿屋であり、1621ザクセン選帝侯
ゲオルク1世が泊まった。1729詩人レッシングの洗礼の際の祝賀会が行われた。
1842の大火を免れた。
ポニッカウの家 Ponickau Haus (18c) 貴族ポニッカウの家族が住み、1745ヨハン・カジマーが
住み、次の火事は免れた。1961西ラウジッツ地方博物館が入って、地方の文化と
自然の歴史を展示している。
モルツの家 Molz Haus 大麦から大麦麦芽を作る町の大きな作業所であった。今は
町の歴史的展示に使われている。
肉屋のカウンター Eleisch Baenke (1487) 近くで1482に開業した屋台が現存している。
1507から、毎木曜日にここで肉市場が開かれた。1843火事の後にネオルネッサンス
で新築された。
レッシンク博物館 Lessing Museum (1929) 1632公共図書館にレッシング博物館が加わった。
2001別館としてRoehr Meisterhaus にもレッシング博物館が開設かれた。
Geising市内の町
マルクト | 宮殿門 |
東壁 |
1289 城があり農民が入植し銀鉱石発見、 1340 マイセン辺境伯領となり城は急拡大、
1374 市場権を得て毎週市場を開いた、 1449 選帝侯フリードリッヒ2世は町を取得、
1487 錫鉱山の採掘が行われ18cまで続いた、1494 都市権を授与され、市壁を築く、
1517 Buenau家が町を買収し、 1821戦後の経済衰退で売却された、
19c 町は基本的に変化を経験しなかったので、古い家並みが残された。
15cの市壁は、城と旧市街を囲んでいたが、今は城周辺に320mと東に40m残った。
衛兵門 城の入口の門で、衛兵が守った。2階建ての破風付の門に、城の2階建ての
建物が付いている。
四角い急傾斜の広場は町の中心にあり建物が取り囲んでいる。広場には1912に
彫刻家の鷹匠の泉がある。
宮殿 Schloss (13c) 初め地域の入植地を守るために城は築かれ、14c拡張され、1480礼
拝堂が建てられ、16-17cルネッサンスの宮殿になり網目模様の窓になった。今は、演奏
会が行われ、博物館は日曜・祭日・大晦日に開かれ、城の鷹匠実演も行われる。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1340) 初めの教会は15cに建て直されたが、1594火災で
損傷し、聖歌隊・塔の地下部・豪華な祭壇とオルガンは再利用されて、1596-1602大
きな塔のある後期ゴシックの3廊ホール教会となった。1997改修が完成し、2000豊かな
天井画とオルガンは修復された。Buenau家の墓銘は見事である。
ビルダー美術館 Galerie Bilder 広場に開設された。
新市庁舎 | 旧市庁舎 |
モーリッツ要塞 |
1015 メルゼブルク司教は城と市場を設置、 1156-70 マイセン辺境伯オットーは大市の開始、
1213-1409 町は4門の市壁で囲まれた、 1409 ライプチィッヒ大学の創設、
1497-1507 帝国都市特権の確立、鋳造権・市場徴収権の獲得、
1618-48 30年戦争で6回包囲、 1642-50 スエーデン軍が占領、
1815 ウイーン会議でザクセン王国の領土再編、 1942-45 空爆で甚大な被害、
1998 6教会の平和行進が発端で東西ドイツ合併。
南東隅のモーリッツ要塞部の一部が残っている。
シンケル門 Schinkel Tor (1836) 大学の大教室棟に組込まれている。
帝国都市として発展した大都市であり、音楽・見本市・本の町として有名であ
る。環状道をに囲まれた旧市街地には、歴史的建造物が再建されている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1556-57) ドイツ・ルネッサンスの大破風と塔が前面に在る3階建の
大きな建物で、地階は広場と一体のオープン市場である。長さ53mの宴会場ではザ
クセン王子のお祝も行われ、結婚式・裁判手続・お祭りなども行われた。1909から
は、市博物館・文化的催物会場で、参事会政務室・地下牢も公開。
新市庁舎 Neoes Rathaus (1905) 古典主義の重厚な建物で、13cザクセン領主の城郭プ
ライセン城の跡地の基盤の上に世界最大級の新市庁舎が建てられた。旧城の主塔を継
足し高さ114.7mの市塔を築き、250段の階段があるのは、国内の市庁舎では最
も高い。
旧帝国最高裁判所宮殿 Ehem.Reichs Gericht (1888-95) ベルリンの国会議事堂と平行
して建てたため共通点がある。戦争に遭い1999-2001に復元された。2002原型
を良く留めた前面改修の後に、美術館次に連邦行政裁判所となった。帝国裁判
所博物館が併設されている。
旧証券取引所 Alte Boerse (17c) 初期バロックの建物は1903ゲーテ記念館であった。1992
-95に改修され、今は音楽と文学のイベントや化学・技術・企業の説明会の会場となっ
ている。
現代史博物館 Zeit Geschichtliches Forum 東ドイツの生きた記録を伝える。3200点
の展示がある。
アウグスト広場 Augustus Platz (1785) 東の緑地に、オペラハウス(1960)・ゲバントハウス(1981)・
市塔142.5m(1968-72)・メンデ噴水(1886)が置かれた。
ゴーリス宮殿 Gohliser Schloss (1756) 商人で評議員は、ロココの夏の宮殿を建てた。19
98全面改修を行って、演奏会・演劇・展示会に使われる。
モーリッツ要塞 Moritz Bastei (1551-1554) 中世要塞の唯一の生残りであり、2次大戦後
1982に学生クラブ・1993整備して文化センター・カフェとなった。
ニコライ教会 Nikolai Kirche (1165) 町や市場の権利の賞を使ってロマネスクで建設され、
1520ゴシックのホール式に改造され3身廊の二重回廊で囲まれた幅63m・長さ43mの町
で最大の教会になった。
聖トーマス教会 St.Tomas Kirche (12c) 初めのロマネスクの教会は、1492-96に後期ゴシックのハレ
ン・キルヘに改造されて今に至る。長さ50m・幅25m・廊高18m・塔高68m1884-89内部
をゴシック・リバイバルに改装・1990修復復元された。1212から聖トーマス合唱団がある。
市庁舎 | 城 |
旧城天守閣・城壁 | 西壁 |
1046 皇帝ヘンリー3世の証明書の中で言及、 1147 フリードリッヒ3世に町を売った、
1157 帝国子爵ヘンリーが町に住んだ、 1286 町として言及された、
1365 マイセン辺境伯が町を奪い城を再構築、 1407-14 辺境伯ウイリアムの未亡人が住む、
1444 大火災で市庁舎も焼失、 1495.1508.1535 ペスト流行、
1523 宗教改革の導入、 1706 北方戦争でスエーデン・ポーランド軍が侵攻、
1727 郵便局の開設、1787 果樹園とタバコ栽培、1856 独立マイスターの数:靴154.仕立53.
織51.パン37.肉18.銅13.鍵13.毛皮11.ガラス7.牛革11.羊毛刈6.袋6.鍛冶5.帽子2。
1945 2次大戦は赤軍の占領で終わる。
北の城の周辺に高さ10-13mの市壁が450m、南東に80m、西南に210m残っている。
城天守閣 BurgFried (12c) 城の中庭の円塔で、高さ32m直径14m厚1.5m、
下から18mまでは煉瓦造、その上は石灰斑岩の大石で築かれている。1871高さは
20mに取り壊され、1875円錐形の屋根になった。
古い天守閣 Alter BergFried (11c) 古い天守閣の円塔が、城の南側の丘の
上に立っている。
ムルデ川の絶壁の上に聖マタイ市教会と旧市街がある。城への道の途中に長靴博物館
があり、ギネス認定の高さ4.9m長さ2.2m重さ440kgの巨大靴がある。城の博物館に
は5cの彫刻や100年の城の歴史の展示があり、天守閣には登れる。
市庁舎 Rathaus (14c) 1444には焼失の記録がある。1803の大火まではマルクトの中央
に立っていた。合わせて6回も火事に遭っている。1804-09今の3階建てで落成
し、しばしば改造された。1991-92増築され、ロビィーや階段で展示が行われる。
聖マタイ市教会 StsdtKirche St.Mattaei (15c) 初めロマネスクの教会はゴシックとなり1483
教会の円天井が完成した。1637火事の熱に耐え今日まで形を留めている。1639
-49修復され、1664ルネッサンスの祭壇がある。1522.1523マルチン・ルターがここで説教をした。
ブッフ修道院 Kloster Buch (1192) シトー派修道院が設立され、大聖堂が1200に3廊で
完成した。その後廃墟となり、1678新たにCutes Kapelleが構築された。
ミルデンシュタイン城 Burg Mildenstein (10c) 初めはLeisnig城と呼ばれ、1046に言及さ
れた。1084皇帝ヘンリー4世が滞在した。1147侯爵フリードリッヒ3世が城を取得し、1158
皇帝バルバロッサの所有となり帝国の城となった。最古の部分は12cロマネスク礼拝堂で、
14c辺境伯ヴィルヘルムは大宴会場・フロント・ロフトを設け、外観に影響を与えた。城は14c
からミルデンシュタインの本部となり、マイセン辺境伯に代わって城を管理した。何世紀も
わたって官庁や刑務所として1952まで使われた。1993ザクセン州は大規模修繕を
行って、今は博物館として使われている。城博物館には町と城の歴史・礼拝堂
の文書保管庫で彫刻・城の建築史・刑務所や武器等の展示がある。
長靴博物館 Stiefel Museum 巨大ブーツと聖靴の歴史の展示がある。靴屋ギルド650年
の記念事業として1990に高さ4.9mの巨大靴が造られ、1997ギネスに認定された。
画家カール・ヴァクラーの遺品もある。
市庁舎 | 西南壁 |
東壁 |
1200 町の設立、 1221 マイセン司教ブルーノ2世の文書に初言及、
1306-17 町の管轄下に24の村が置かれた、市壁の建設、1346 6都市が同盟、
1429 フス戦争で包囲され被害を被った、エンド布の生産、1499 最初に浴場設置
1547 上ラウジッツの6都市は 王に対する不従順で罰金を課せられた、
1635 上ラウジッツはプラハ和平でニーダーザクセン州へ、1708 リネン産業が貿易で繁栄、
1710 大火災で町は焼失、1729 3郵便距離列の設置、 1815 プロイセン領に、
1835 製紙・織物工場・穀物市場の設立、1859 ピアノ・ボタン・パスタ・靴・ゴム生産、
1912 歩兵大隊の兵舎を建設、 1945 第二次大戦で被害。
12-13cの市壁は、土堤・堀・門・塔で守られた。残っているのは、北西に
内壁30m、北東に外壁20m、南東に60m、南西に復元された外壁と防御塔140m
ある。 別に南の墓地の東側に高い古い石壁が2.0kmある。
猫塔 katzen Turm (14c) 南西の復元された市壁に、大規模に改修さ
れた3階建ての角塔が再開されている。
国境の三角点:独・ポーランド・チェコに町はある。1710の大火災で焼け、1711
バロックで再建されている。市庁舎は二つとない複雑な形態をしている。
市庁舎 Rathaus (14c) 古くからの市庁舎は1570と1710の火災で大被害を被
り、残ったにはゴシックの塔のみである。1711-14再建され、部分的に
1935-36構造的な変更がなされ、今の複雑な姿になった。玄関の上には
町の紋章とポーランド管轄記号がある。1992前面はバロックで復元された。
塔には時計が付けられ、今はコンピューター制御されている。
肉市場 Freische Baenke (15c) 市庁舎の一角に肉市場が残されている。
中世に、肉は地下に貯蔵され屋台で売られていた。15cに14店が肉屋の
ギルドに記載されており、市庁舎に肉屋の屋台が集められた。入口に肉
市場の看板が掲げられた様子が、市庁舎ロビィに残されている。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (13c) 聖ニコラスは商人の守護聖人で、ゴシック
の建物に1737南3廊を増築し、1884ネオゴシックで改築された。塔は高さ
83.5mである。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1336) 旧フランシスコ会修道院の教会で、何度
も火事に遭って建築上の変更がなされた。1676-1912はヴェンド語の教会
であった。1996再構築され、2001から6都市文化センターとなっている。
黄金の船 Stadthaus Goldenes Schiff (1712) バロック商人の住家と商館の
2軒は、1710.1733の火事で焼け、その後1811ホテルと宿屋を収容した。
1922町の所有となった。天井画やスコッタ装飾が見られる。
旧薬局 Alte Apotheke (15c) 1611市議会薬局の権限を付与された。1817
聖ニコラウスの隅で古い薬局を開いた。1844ブリェクナー家が塔付3階建ての家
を所有し、1969-70歴史的細部の復元が行われた。
市博物館 Stadt Museum (1945) 18cに前面の再構築が行われた。上ラウジッツ
6都市の歴史や文化の展示や町の工芸館がある。
ロイヤル・アルバート浴場 Bad (1824) 1714鉱泉を認定した。1824麓にある銭湯が
建てられ、1851鉄泉と塩泉に区分され、1875人気を博した。1878ザク
セン王アルバートが逗留し、クア施設として指定され、1878拡張された。
切妻造の家並 GiebelbauGruppe (18c) 1710大火の後に建てられ今も維持
されており、中世の町の雰囲気がある。
プロイスカー学校 Preusker Schule (1854-55) 昔のフランシスコ会修道院の基礎の上
に建てられ、市庁舎の技術部門を収容している。塔の復元。
1953城の復元完了、今は博物館を併設し美術品と地質学を展示。
市民の家 Buergerhaus (1712) 初め3階建で建てられ1885に上階を建て増
しされた。
市民の家 Buergerhaus (18c) 殆ど元のままの交差ボールトのある家。
市庁舎 | マルクト広場 |
南壁 |
1150 フランケン農民が塩の道に定住、 1170 マイセン城伯は防備した町を建設、
1238 森の町として初文書言及 1284 町として特権と醸造権を得た、
1388 マイセン城伯は塩の特権を授与、1406 ジョンブルク伯爵は郡を所有じ首都に、
1429-30 ヒュジッテン軍に包囲されたが無事、 1441 町に市場を開設、
1632-33 30年戦争で略奪とペスト、 1691 クリスマス市の初開催、
1740 ザクセンの支配下にシェーンブルク家と協定、1746 2度の大洪水1771にも洪水、
1756 7年戦争でプロイセン分離、 1759 再びプロイセンの駐屯。
12cから市壁は築かれ、14cには防備は拡張強化された。市壁の高さは7-8m。
残っているのは、上堀に60m、下堀に170m、下壁に10mである。
昔の12-14mの堀に架かる跳ね橋付の3門は残っていない。
桂馬塔 Roessel Turm 南西隅の角塔が唯一残っている。
西エルツの森林に囲まれた小さな美しい町。マルクト広場は注目。昔の塩の道を保
存している。
旧市庁舎 Altes Rathaus 2階建でマルクトに面して立つゴシックリバイバルの旧郡裁判所の
建物で、1601市庁舎となりルネッサンスの玄関には紋章がある。
新市庁舎 Neues Rathaus 市庁舎広場に新しい3階建ての建物がある。
聖ヨハネ教会 St.JohannKirche 新設のルーテル教会で、1826に成立した。1899ザクセンで
最大のロマネスクのオルガンが完成した。
市民の家 BuergerHaus am Markt マルクトの斜面に立ち、半分は3階の2階建ての市民
の家であり、今は展示室のある集会所・図書館である。
市庁舎 | ツショパウアー門 |
東南壁 | 北西壁 |
1519 聖セバスチャン鉱山の開設、 1521 ザクセン侯爵ヘンリーが計画都市を創設、
1523 醸造所を建設、都市・鉱山権の授与、 1531-33 ラテン語学校の開設、
1539、鉱山事務所を設置し地区鉱山を統括、1541-66 4隅塔・5市門・市壁建設、
1555 鉱業の最盛期で地区1千の鉱山を運営、 1566-1600 銀鉱山の衰退、
1603 町は塞いで破産した、 1610大火災550戸1684に184戸焼失、
1632 30年戦争で略奪、 1632-33 ペストで2千人死亡、1753-1858 駐屯地に、
1813 ナポレオン・ロシア・墺軍の侵攻、 1835 荒廃した市壁の除去開始、
1852 大火災で176戸焼失、 1945 赤軍の占領、ウラン採掘。
1541-66に市壁は建設された。荒廃により1835から除去が始まり、残り又は
再建されたのは西北側と南東の一部である。
北門 Zschopsuer Tor (1545) 5市門の内唯一北門が残った。四角錘屋根
の3階建て四角門塔で、歩道門が付いている。
小塔 Kleiner Turm (1541) 残った市壁の西端には、小さい3階建ての角塔
があり、1610と1684の火災で損傷し、1966-2006復元された。
赤塔 Roter Turm (1541) 市壁の4隅には4円塔が在り、色で名づけられた、
北:黒、東:赤、南:緑、西:白色の塔が在った。1610の火災の後に赤塔のみ
が再建された。高さ18.5m直径12m。武器の保管庫であったが、火薬庫とな
り、その後さまざまな小売店にリースされた。今は文化活動に使われている。
16cに鉱山経営のために新しく計画的に造られた町であり、街並みは整
然としている。中心には1.8haの広大なマルクトがある。
市庁舎 Rathaus (1537-41) ルネッサンスの市庁舎で、1610.1684の火事で壊され
唯一華麗な入口が残り、再建された。1938-39に改修された。1539ベル
付時計塔が有り、1684日時計が付けられた。
町の会館 Stadt Halle (18c) かって軍隊のクラブハウスとして建てられ、1996
までは私有文化施設であった。2006町が買収して改修し町会館として
演奏会・展示会・会議場として使われている。
ライムの家 Leiden Hauschen (1541) 最古の住宅で、ライムの木の下の鉱夫の家
である。火災にも戦争にも耐え、2003材木は差し替えられた。
旧鉱山事務所 Ehem.BergAmt (1539) 最初の事務所が置かれた。その後ゲーテ
の親友であり1767から鉱山長であったトレブラが、1759の火災の残骸を
1771に買って、鉱山事務所と住家として改修した。
山の貯蔵庫 Berg Magazin (1806-09) 市街東部に鉱山労働者の生活改善の
ために食料貯蔵所として、鉱山長トレブラによって建てられた。その後家
族のための病院や商業目的でで使われ、今はザクセン・ボヘミアンエルツ山地博
物館として、歴史的な展示がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1558-64) 後期ゴシックのホール教会が建てられ、
1611-16火事の後に再建され、1668-75増築された。
マルクト広場 Markt Platz (1523) ドイツ最大級の1.8haの広場で1523に市場が初
開催された。1524舗装され、1775リンデンの植樹、2008大規模な再開発。
市庁舎 | アルブレヒト城門 |
大聖堂 | アルブレヒト城 |
929 王ヘンリー1世が城塞を築いた 965 辺境伯に管理させ968司教区設置、
1002 水城が城山の下に築かれた、 1089 ヴィッテン家が所有し居城となった、
12c 市場が設立された、 1332 都市権授与の証書が残っている、
1423 マイセン辺境伯領となった、 1470 辺境伯アルブレヒトは王宮を建てた、
1539 宗教改革が導入され3修道院解散、 17c 30年戦争で被害、
1945 2次大戦の被害は受けなかった、 2002 大洪水で旧市街地は約1m浸水。
1200に7市門のある市壁が建てられ、山側にHinterMauerの道路名が残って
いる。北西角の旧アフラ修道院の外壁は、市壁を兼ねていたと思われる。
見当たらない。
2次大戦の被害が無かったので、旧市街には木組みなどの古い建物が残っている。
山上には大聖堂とアルブレヒト城の古い建物がある。
市庁舎 Rathaus (1470-86) マイスナー議員が建てたルネッサンスの美しい切妻の建物で、屋根
は13000m2もある。2001-02内外壁を改修した。マルクト広場には、ゴシックやルネッサンス
の美しい市民の家が並んでいる。
ベノの家 BennoHaus (1600) 大きなルネッサンスの入口のある建物で、1階の梁の部屋には
1640ルネッサンスの絵画があり、玄関ホールはゴシックのフレスコ画と後期ゴシックの円天井がある。
入口の上には、1841ドイツ初のボランティア消防署の設立記念銘版がが掲げられてい
る。
古い醸造所 Altes Brauerei (1460) 1570から代々ビールが醸造された前面がルネッサンスの
建物で、1868売却後も醸造は続けられた。
新教アカデェミィ Ev.Akademie (1205) 聖アフラ修道院にある教会の会議場や宿泊所を含む
施設である。
大聖堂 Dom Meissen (1250-15c) ゴシック3廊ホール教会は15cに完成した。二つの塔は
1315着手され西塔は落雷で壊れ、完成したのは1909であった。クラナッハの祭壇画
や内陣に13cの寄進者達の彫像が置かれている。大聖堂広間は修道院の建物:
1525長老館.1728参事会員の家.1500院長館で囲まれている。
アルブレヒト城 Albrechts Burg (1470-15c) 中世末期のゴシックの建物で、多の塔が組み
合わされて美しい。この城にはマイセン辺境伯の2君主しか住まないで、都はドレ
スデンに移された。1710-1865は磁器製作所として使われた。今はドイツ歴史と
16cドイツ美術作品が展示されている。
マイセン劇場 Theater Meissen (1851) 1963まで劇場ゲバントハウス内の劇場であった。
2002-04改修後に新装され開館された。
聖母教会 Frauen Kirche (15c) 後期ゴシック3廊ホール教会であり、美しい星形ボールトが
ある。1549の鐘楼にはマイセン磁器のカリヨンがあり、毎日6回演奏される。
磁器工場 Porzellan Manufaktur (1865) アルブレヒト城から1km南の郊外へ磁器工場は
移され、日本語イヤホーンで見学できる。
市博物館 Stadt Museum () 旧フランシスコ教会に市博物館があり、町の歴史やワイン産業・
漁船の展示がある。
貴族の家 PatrizierHaus (18c) ルネッサンスの塗装された3階建ての家で、豊かな貴族の
生活文化と現代美術の展示がある。
マイセン美術協会 Kunstverein Meissen マルクトにあるルネッサンスの3階建ての高位聖職者ベノ
の家に、町の美術品が展示され、個展が行われている。
チューマー・フェルドチューマー博物館 Thuermer Ferdthuermer Museum 1834設立のピアノ工
場が、復元楽器の展示と80席の室内楽の会場を設けたピアノ博物館を1999に開
設した。
市庁舎 | 西北壁 |
西南壁 |
12c 村を設立、1209初文書言及、1286 マイセン辺境伯ハインリッヒ文書に町言及、
1375 独立し市長と参事会があった、 1398 下級裁判所を買った、
1423 上級裁判権を獲得、 14c 4市門のある市壁が旧市街を囲む、
15c 織・靴・パン・仕立のギルドに亜麻布織工も受入、 16c亜麻布取引の中心に、
1509 ビール醸造権を得て、町に206醸造所があった、
町の火事:1306.1450.1498.1551.1624.1672.1693、
14Cに市壁で囲まれ、残っているのは、西側の丘の上の街並みの間に、
40m+70mは確認できる。
見当たらない
17cの火事や19cの大建設にもかかわらず中世風な佇まいがある。
斜面の町で、三角形のマルクト広場は中段の高さにある。
市庁舎 Rathaus (14c) 1375には市長も参事会もあった。1450.1498火災に遭
い、505-20石の破風付の新市庁舎が建てられた。1551火事の後1552-54再
建、1624火事で1625-61拡張され鐘楼が付けられた。ペストと30年戦争後に
再建された。1672火災で焼け1675-88破風や塔付で新築。1693火災1695-96
再建。1724-1820各所を改修。1851-53裁判所を含めて建築。1868-1993
3階建バロックの市長の家を買って、改修後市庁舎で使った。1993隣の元裁
判所の建物に市庁舎を移した。
新教市教会 Ev.STadt Kirche (15c) ルター教会UnserLiebenFrauenが南に立つ。
郷土博物館 Haimat Museum (15c) 教会山の上にAlterPfarrhaeuserがあり、博
物館となっている。JohannisSchillingHausにも博物館があり彫刻家の展示
がある。
市庁舎 | 教会 |
984 スラブの集落はポーランド王が支配、 1003 ボレスラウが進軍したが撤退、
1063 マイセン司教の所属した固定が管理、 1256 マイセン司教は市場権を付与、
1261 ルーハタール城の建設、 1276 町の管理権はアイセン司教へ、
1288 町は都市権を授与された、 1373 町の要塞を初言及、
1429 フス派が町の一部を破壊、 1556 ヨハニス司教は市議会を修正、
1547 皇帝チャールズ5世はシュマルカルデン戦争勝利、 17c 略奪と疫病で人口1/10、
1690 地震で町で2戸崩壊、 1834 最後の市門が崩れた、
1945 米軍が占領し、ソ連軍が管理。
14cの市壁は、19cまでに取り崩された。僅かホルスト・タルマン通23の中庭に
10m残るのみ。
見当たらない
市庁舎 Rathaus (1395) 左右対称の切妻の中心に入口を置いた2階建ての漆
喰の建物で、1882に改装された。曲がった床平面の上のクリンカー混合建築
にスレート屋根・軒柱・紋章・バルコニィー・階段ステンドグラス窓がある。
聖ヨハネ教会 Stjohanis Kirche (16c) 後期ゴシック砕石積み漆喰のハレン教会で、南
門前庭がある。1648北に2階建の延長・正方形の西塔には八角型の頭部と
フードがある。
ルーハタール宮殿 Schloss Ruhethal (1150) かっての堀城で司教の住居であった。
門と北西塔・東部柵と狭い中庭・4門柱と東部守衛詰所がある。1572マイセン司
教の宮殿として整備された。19cには司法事務所と会計局として使われ、
1990まで農場であった。城は3階建3翼・砕石石膏構造に丸塔の要塞造りで
ある。
薬局 Apotheke (1825) マルクト広場で最古のハンサムな漆喰の2階建寄棟屋根の建物。
郵便局 Post (1900) マンサード屋根・屋根窓・切出石の玄関階建のスコッタの建物。
旧男子学校 Alte Knaben Schule (1608) 上階木組の堂々たる建物で、元男子
校で今は住宅。
旧女子学校 Alte Maedchen Schule (1822) 昔女子学校として建てられ、今は
住宅。
住居 Wohnhaus (1802) マルクト広場にある後期バロックの石膏マンサード屋根の建物。
住居 Wohnhaus (1827) 城と市場を結ぶ要路にある、良く保存された2階建上
階木組の木製庇の家。
郵便距離標 PostmeilenSaeuke (1726) ザクセン距離標の1/4マイルストーンが1726に置
かれ、1979にコピィが修復された。
ワイン醸造所 Keller Haus (18c) 2階建石膏のレストラン。2009解体修理。地下貯蔵庫
は、地下2-3m・高さ4mで酒の貯蔵が行われた。
市庁舎 | 塔 |
1225 聖ジェームズ教会で初言及、 1232-48 ストラスベルクの侯爵が城を建設、
1357 憲章都市として街を再設計、 14c 織物・工芸品・鉱業(銅・錫)の開発、
15-16c 白エルスター支流で真珠採り、 1548 ザクセン軍がプロテスタント軍を破った、
1632 30年戦争で略奪や焼払い、 1859 大火災後に新都市計画、
1880 エルツニッツ織の絨毯の大生産地、 1945 米軍の進駐。
壁が今見られるのは、Graben通に10+40mとKirche通に10mである。
門や塔は見当たらない。
1859大火災の後に、再計画された左右対称の中央に、聖ジェームスの73.5m
の塔と市庁舎が立つ。0.3km北の城には博物館がある。
市庁舎 Rathaus (1861-62) 6階建て42mの中央塔を持つ3階建ての建物。
聖ヨハニス教会 St.johannis Kirche (1220) 73.5mの高塔を持つ。
フォイグツベルク城 Voigtsberg Burg (1232-48) 北に0.3kmの所に、14cにストラスベルク家
が構築した。1356城はマイセン辺境伯の所有となった。1874-1924刑務所として
使われた。塔は、最も古い部分を含め高さ30→22mになり、直径9.7m壁厚
3.3mである。広間は結婚式場として使われ、カーペット博物館、ゴシックのヨハネ礼拝
堂もある。
ゼーフェルスの家 Zoephelsches Haus 旧市街の西の角に古い建物があり、市立
図書館や観光案内所となっている。壁の遺跡もある。
市庁舎・新マルクト | 西壁・見張塔 |
西壁・見張塔 | 計量所博物館・見張塔 |
東壁 |
12c 市場が開かれ教会が建てられた、12c末 城壁都市が再設計され市憲章を、
1200 辺境伯の文書に初言及、 1238 辺境伯ヘンリーの世襲宣言に言及、
1246 フランシスコ会修道院・大聖堂の建設、 1312-17 ブrンデンブルク軍が占領、
1394 貿易と工芸の発展で定期的なフェアの許可、1429 フス軍による略奪と破壊、
1446 サクセン選帝侯兄弟の内戦で全焼、 1566 ペストで900人死亡、
1616 大火災で市壁内は444/468家や納屋を焼失、1631-48戦争とペストで2千人死、
1680-82 ペストで658人死亡、 1683 郵便局が置かれ駅馬車が走った、
1756-63 7年戦争の苦難で経済不振、 1785 ウール布特権、62織機と113呉服屋、
1815 ウイーン和平でニーダーザクセン州削減、 1842 大火災で366の建物損傷、
1867 皇帝ザクセン騎兵隊の駐屯地に、 1945 殆ど2次大戦の被害はなかった。
西側の緑地に300mと東側に50mが残された。
見張塔 Wache turm (1377) 西側の防衛のための高い円塔で、1616.
1842に火災を免れ、博物館の入口から塔に登れる。
1842火災の後に、聖エギディエン教会・市庁舎等はルネッサンスで再建されている。
旧修道院教会・旧役所・助祭館は古い。
市庁舎 Rathaus (13c) 市庁舎は旧マルクトにあったが1477新マルクトに移した。1538
-46ルネッサンスで再建。1616.1840の火災で損傷し、その後切妻と細い時計塔を
持つルネッサンスの建物となった。1914.1992-94前面・屋根・塔などを改築した。
内部も幾度となく改修されたが、市議会会議室は有名である。塔内の耐火
金庫には古くからの評議会の文書が保存されている。
旧役所 AltesAmts (1616-1712) 新マルクトの北側に選帝侯ゲオルク1世が建て、先ず
選帝侯の宮殿と宿舎となり、19cまで選帝侯あるいは王の役所であった。
聖ジャイル町教会 StadtKirche St.Aegidien (11c) 聖ジャイルが任命された教会は
木造の礼拝堂であり、14cに石造の教会となり、壁・柱は今も残っている。
1429フス派に壊され、1443-64双塔のゴシックの教会となった。1539新教ルーテル教会と
なり、1616火災に遭い1621バロックの木塔となった。1842火災で損傷し、1846-49
双塔ゴシックリバイバルで華やかなステンドグラクを使って再建された。1906.2005修復。
エリザベス礼拝堂のある助祭館 Archidiakonat mit Elisabeth Kapelle
(1394) 建物を買って慈善病院を設立し1410フレスコ画が保存されている礼拝堂が
建てられた。
修道院教会 Kloster Kirche (1248) フランシスコ会修道院の唯一現存する建物であ
る。最初聖マリア教会の名前を与えられ、最古の部分は北と西の壁に残る。
1381-1428拡張され1429フス派に壊され、1484南廊のある大規模なゴシック教
会となった。1978-83建物全体が復元された。
貯蓄銀行 Spark Masse (1266) 単純なルネッサンスの建物は最古の世俗建築物であ
る。ここには肉の市場があり、1616の火事で壊され1623に再建された。
1667-1912ザクセン騎兵連隊の衛兵所であった。1928-40民俗博物館となり、
1943地区貯蓄銀行となった。1996-97屋根と外壁は更新された。
白鳥旅館 Gasthaus zum Schwan (1458) 新マルクトの角にある旅館であり、1943
1943名前を白鳥として火事に生き残った。1872同業協会の所有となり
1990には閉鎖された。1999-2005再建されホテルとレストランが再開された。
学長事務局 Rektorat (15c) 1535宗教改革までは、服地屋の守護聖人の聖
セウエルスの祭館があった。1616火災後に破棄され、1621美しいルネッサンスの扉の
付いた建物に再建され、1842の火災からは免れ、1883まで学長事務局とし
て使われた。1889住居、1934まで協会事務局、1996-97改修された。
町事務室 Stadt Schreiberei (1400) 初め町の書記室であり、宗教改革後に
は町の医者が住んだ。1429フス派に破壊され、1611今の形式で再建された。
1616火事に遭い1617に2階建てで再建された。19cには助祭の住居になった。
町と計量所博物館 Stadt und Waagen Museum (13-14c) 市壁に持たせ掛けた
建物と塔1377は古い建物で、15cに南側は建てられた。1553-56役所の役
務者の住居として、北側に延伸された。1991-95全面改修と修復がなされ、
1996市立博物館となり25mの塔からの展望は良い。博物館には先史時代か
らの町の発展の歴史を展示し、塩の計量システム・為替の展示もある。
市庁舎 | 北壁 |
北壁 |
1263 ヴァイダのミルデンフェース修道院の文書で初言及、 1393 マイセン方伯に質入、
1449 都市の法令制定、 1571 都市の壁を言及、
1617 4haの町に700人の農民が住んだ、 18c 織物工場が発展、
1888 色々な工場や作業所が立地、 1933 近代的な休憩施設にプール設置、
1945 米軍の占領後に民主的な農地改革。
「Rest der Original Stadtmauer um 1394」の銘板のある市壁4mと、そ
の東に市壁の痕跡が20m見られる。
小さな町の旧市街に、北から市庁舎・簡易裁判所・聖ミカエル教会がある。
市庁舎 Radthaus (1852) 今の市庁舎の2階建ての建物を買い、何度も改築をして
1892に今の姿になった。
地球儀 Globus (1892) 2階建ての市庁舎の上に、初めガラスの地球儀が置かれた。
それで町は地球の中心点を象徴する事になった。地軸は市庁舎の地下室に
表れている。
簡易裁判所 Amtsgericht (17c) 1852まで市庁舎だった建物に、1852裁判権を受
領して簡易裁判所を置いた。1951簡易裁判所は解消され、住家となり、今
は模型鉄道クラブが下の階に入っている。
聖ミカエル教会 St.Martin Kirche (1826) 長さ34m*幅20mの教会で、高さ45mの高
い単塔がある。
市庁舎 | 北塔 |
北東壁 | 北外壁 |
南東壁 |
1091ベネディクト会修道院創立、1172皇帝フリードリッヒ1世は鋳造・市場・関税特権を、
1190 新しい下町の創設、 1307 ルッカの戦いの後に町と修道院の破壊、
1382 大火災の遭遇、 1430 町の北西端に要塞の塔を建設、
1470 塩の市場を恒久的に認める、 1539 修道院の世俗化、
1545 町はかっての修道院を買った、1644 30年戦争でスエーデン軍の破壊、
1778 ザクセン連隊が駐屯、 1813 皇帝ナポレオンが滞在、
、1945 空爆を受けた。
13cの市壁は泥の壁だった。1429-32と1446-50の戦争で防備が不十分である
事が判明し、15-16c焼きレンガ造で構築され、緊急時に浸水する堀と共に防備を
固めた。その後の修理や交換は石英切り石となった。市壁が残っているのは、
北側320m、南側150mである。
フォウアー門 Four Tor (15c) 1849に取り壊された。
北塔 Norter Turm (1430) 煉瓦造3階建て角塔。
南塔 Sueder Turm (1430) 崩れている2階建て円塔。
聖ラウレンス教会を中心に四角市壁が点々と残り、珍しく市庁舎は東端にある。
市庁舎 Rathaus (1559-61) ルネッサンス30m階段塔付の建物で、1644と1671の火災
後に屋根の切妻を省略して再建された。内部は再建時に改造された。
聖ローレンス教会 St.laurentius Kirche (1180) ロマネスクの建物を中心に構築され
ている。1463幾つかの火災の後に更新された。中には、1621バロック祭壇・
1015説教壇・1860オルガンがある。
煉瓦工場エアブス Fabrik Erbs (1909) 年間250万箇の煉瓦を生産していた。
乾燥小屋や焼成釜はそのまま保存され、1980記念物となり、1844公開された。
ナポレオンの家 Napoleon Haus (1744) 1561まで市庁舎がここに在った。新庁
舎建設後に民間所有となり、1744今の建物が建てられて商人や医者が
所有し、1813皇帝ナポレオンが滞在した。2005市議会に買収された。
旧交番 Alte Wache (1560) 市庁舎と共に建てられ、低価格で温かい食べ物
を提供する屋台があった。19c警察署が置かれ、2次大戦後は図書館等で
使われ、19cにはヌネッサンスに改造され、今は市図書館である。
宿屋:金の王冠 Gasthof zur Goldenes Krone (18c) 1740にプロイセン皇帝が宿
泊した碑文が飾られた宿屋で、2005まで営業していた。
宿屋:黒人 Gasthof zum Mohren () 1813にはオーストリア皇帝フランツ2世が泊まった。
19cに近代的なホテルになったが、1923に倒産した。1927市が購入して、
市貯徳銀行となった。
市博物館 Stadt Museum (1559-61) 市庁舎の中にある。学校と職業教育・
戦争と平和・自転車・育児と家庭・町の歴史などについて展示。
市庁舎 | 市壁 |
宮殿 | 山の聖母教会 |
1171-1329 アルテンブルク城伯の町の計画的構築、 1200 小さな市場のある村、
1227 町として初言及、 1353 靴屋のギルドが最初に成立、
15c 陶工のギルドが結成された、 1511 ビール貯蔵のためトンネルを掘った、
1537 手造りの紙を生産、19c工業用紙の生産、 1813 ナポレオン戦争の終結、
1945 2次大戦の空爆のよる被害。
1488の市壁が山の聖母教会の西に残る。
見当たらない。
ツビッカー・ムルデ川の南に大きな建物が立ち並んでいる。郵便距離柱列も残る。
市庁舎 Rathaus (1367) 建物の大部分は石像であったっが、1545老朽化でルネッサンスの
ザクセン様式3階建ての建物となった。1632墺軍の火災で焼け、時計塔を付けて
再建された。1711町の火事で焼け1717元の形式で復元された。1993-99大規
模な外壁と内装の改修が行われた。
宮殿 Schloss (1300) 水城として建てられ、16cには建て直されてた。19cライスニッヒ子
爵の邸宅になった。
聖アエギデン教会 St.Aegidien Kirche (1157) 後期ロマネスクのホール教会であったが、1515
ルネッサンスで建て直された。小さな教会は軍の病院として使われ、その後焼失し
た。1617ローマカトリックの教会になった。1945に拡大され新しい屋根を含めて今の
外観となった。
山の聖母教会 Unser Lieben Frauen Aud dem Berge (1280) 初めは墓地の霊安室と
して建てられ、1476後期ゴシックの身廊が、1515最初の塔が付けられた。1539新
教の教会となり、1781バロックの帽子を付けた。1891-96大規模な内外の改修がな
された。1985塔の屋根と身廊の改修、1992西切妻の複元が行われた教会の西側
に墓地があり、1488角の塔と市壁が残っている。
市庁舎 | 宮殿 |
修道院中庭(博物館) | 西壁 |
1233 マイセン司教ヘンリーの文書で初言及、1291 町として認定、1294ボヘミアに属した、
1300 ドミニコ会修道院の創設、 1404 マイセン辺境伯の支配下になる、
1635 プラハ和平の前交渉が行われた、 1639 30年戦争でスエーデン軍の占領、
1706.56 北方戦争・七年戦争の戦場、 1813 ナポレオンの占領、
1836 市壁と市門は最終的に崩された、 1897.1927.1957.1958 洪水被害、
1945 2次大戦空爆で被災。
14cの市壁は、東北部の聖ドミニコ会修道院(市図書館)の周辺に40mある。
見当たらない。
ドレスデンの南のエルベ川沿いにある中都市で、旧市街は賑わっている。
市庁舎 Rathaus (1367) 1555-56の改築でほぼ現在の形になり、1822.76に損傷した。
長方形のマルクト広場の中央に立ち、地階の窓アーチや戸はゴシックで、2階から上の切
妻はルネッサンスで、塔は優雅なバロックである。東側の天文時計は黒と黄金球を持って
いる。1991-95改修されている。
マリア市教会 StadtKirche St.Marien (1502-46) 後期ゴシックのホール教会で、塔は1466-
95に建てられ、18cバロックの尖塔が付けられた。1544-46オリジナルの絵と砂岩の祭
壇と説教壇、墓の碑銘、石洗礼盤が残っている。
宮殿 Schloss Sonnen Stein (1269) 城は初め古代の交易ルートのエルベ川の交点に築かれ
、1470-73居住宮殿に再構築された。1486の火災後に再建され1544拡張された。
1639スエーデン軍が56日間包囲した。1645修復し防備を固めた。1706北方戦争でスエ
ーデン軍に侵攻され、1756北方戦争で城は降伏した。1764擁護施設となった。
1813ナポレオンは砦を再開した。
カメレートの家 Canalet Haus (1520) ゴシックからルネッサンスへの移行を示す今の形になった。
1753-55カメレートは広間の絵を描いた。1999修復を経て観光サービスを提供
ブレッヒ・シュミットの家 Blechschmidt Haus (1544) 13cの古い基礎の上に渦巻破風のある
建物を再建した。1996三ツ星のロマンティック・ホテル「ドイチェハウス」となった。
天使の家 Engelser Haus (16c) 地元産の砂岩で造られ、中央張出柵の金メッキの天使
の図から名前が付いた。玄関にはライオンの頭がある。1911-40ワイン酒場「アレクサンダー
・グロッセル」となった。1994ルネッサンス木製梁の塗装天井が調査で発見された。16c螺
旋階段が家の中の窓の側面に付けられた。
ロッホウの家 Rochowsches Haus (16c) 以前の家はバロック時代に改造され、幻想的な前面
とロッホウとブリッツホルク家の同盟紋章がある。1756住宅の所有者は要塞サンストンの司令官
Rochowとなった。
テッツエルの家 Tetzel Haus (1381) ルターの論文を定式化したドミニコ修道士テッツエル生誕の家は、
昔は玄関のある2つの家から成り、棟木に1381からの年号がある。2階には厚板
を張ったゴシックの居間がある。1994-98改修された。
修道院 Kloster Hof (1300) ドミニコ会修道院が創設され、1539-48宗教改革後に解散さ
れた。2廊ゴシックの修道院教会は使用されず、絵画は残るが臓器は失われている。
1957カトリックの聖ハイエンリッヒ教会として使われ、2000-02洪水の後に復元された。敷地
内には市壁が残り、市博物館や市図書館が設けられている。
市博物館 Stsdt Mueum (1861) 自然と伝承、地元の歴史が展示されている。博物館は
1993に大改修されて再開されている。
市図書館 Stadt Biblotheh 16Cからの6千冊の収集物がある。ザクセンの歴史や紀行文学、
地図と飛行機のテーブルシート等が集められている。
市美術館 stadt Galarie Fronfest (1572) 中世以来町の刑務所として使われ、1945住
宅となった建物に、今は市絵画館と入れ替え展示場のある文化協会。
新旧市庁舎 | 東壁 |
東南角壁 | 南壁 |
南西角壁 | 西壁 |
1122 聖ヨハネ教会への奉献で初言及、1224 町の憲章が得られた、
1263 新市街についての初言及、 1350 皇帝チャールズ4世は領土を継承、
1430 フス軍は城を恐し町を焼いた、 1521 宗教改革の始まり、
1548 大火災で町はほぼ全焼、 1569 ザクセン選帝侯の所有となった、
1602 Voigtlandの郡庁所在地に 1632 30年戦争とペストで人口半減、
1702 家電と綿紡績の工場建設、 1758 プロイセン
1786 住宅地拡大で市門や市壁の破壊、1806-15 仏・露・プロイセン・ザクセンの略奪、
1844 大火災で旧市街はほぼ全焼、 1944-45第2次大戦の空撃で町の80%破壊。
東側に高い石積が残されている。
1786から門塔は取り壊されはじめたが、1830マトラスボルダー市門とノインドルファー
市門は取り払われた。
修道女塔 Nonnen Turm (1200) 旧市街の市壁の唯一の残りの北西の角塔であ
り、見張りと防御に使われれた。昔は高さ30mもあったが、1945の空襲で破
壊され、1950に再建された。1962道路拡張で取り壊され、移されたが高さ
10mの白い円錐頭巾の塔が造られ、カフェに使われている。
大きな町であるが、2次大戦の爆撃で町の3/4は破壊され、丘の上の中心部は
再建されて中世の富の雰囲気がある。15cからのレース刺繍の博物館は珍しい。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1329) 初めの建物は数回再建され、1503-08後期ゴシック
の丸窓となった。1548の火事で壊され、残った基礎の上にルネッサンスの切妻に天
文時計を付けて再建された。1912新しい市庁舎の建設の過程で、時計は二重
階段付で最初の正確なレプリカが付けられた。1945空襲で屋根と壁が壊され、
1950天井の梁、1970南切妻と天文時計が改修された。2011前面を復元した。
新市庁舎 Neues Rathaus (1912-20) 1889-1906旧庁舎の東にいくつかの建物を購
入して用地を確保し、1912起工し、1914最初の部分は建てられ、1945空爆で損
傷し前面はガラスで再構築された。このガラスを取り除く計画はあるが保留中である。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1122) フォクトラントで最古のローマ・バジリカの教会で1227
ドイツ騎士修道会に寄進された。12303身廊と翼廊のある大聖堂に拡大された。
1548大火災で壊滅し、後期ゴシックのホール教会で52mの高塔があった。1945高塔は
破壊され、1951-59に再建された。
ルター教会 Lutter Kirche (1693-1722) 墓地にある2番目に古い教会で、1883に
この名前となった。1945空爆で屋根が破損し修理された。
麦芽の家 Malz Haus (1200) 市壁の市壁の南東の角に、エバーシュタイン伯爵が城を築き、
1238新しい城を築いたが、1430フスの攻撃で焼かれ、所有権が数回移転した後に、
1590貯蔵倉庫となったが、1635の火災で壊れ、再建されなかった。1727-30町は
4階建ての麦芽製造所を建て麦芽製造業者に貸与した。1990-98映画館・ギャラリィ・
と共に醸造麦芽の家は綺麗に更新された。
白小川の家 Weisbachsche Haus (1778) 後期バロック4階建ての実業家の住居と工場
は、1794持主が変わり、紡績工場に拡大した。1945被弾し再開発された。
フォグトラント美術館 Vogtland Museum (1787-89) 1920町は綿商人の家や商店を買収
し、町と地方の歴史博物館を開設した。1923群美術館が開設されたが1945に
一部損傷し、戦後さらに家を買って拡張した。地元レースの展示は珍しい。
市庁舎 | 博物館 |
市壁 |
1225 貴族が小さい城を建てた、 1355皇帝カール4世から市場権を 1375都市権を授与された、
1429 フス派が侵入、 1500 市庁舎がゴシックで建てられた、 1580 シェーンベルク家が町を売収、
1635 ザクセンに属した、 1637 30年戦争で4回全焼、 1633.1680 ペスト流行。
市壁は14c初めに建てられ、高さ1.8m砕石積市壁が再建されている。痕跡をとどめるのは、Goet
str.12の南側広場にL字型の石積が案内板と共にある。
見当たらない。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1555) ニッチポータルに1555の年号がある。2階建ルネッサンスの
5軸の建物で、ラッツケラーにはゴシックの交差ヴォールトがある。
新市庁舎 Neues Rathaus (1844) 3階建の7-8軸の建物で両側に切妻ドーマがあり、玄
関には1840の天井画がある。
聖ニコライ市教会 Ev.Stadt kirche St.Nicolai (1473) 最初の教会は、30年戦争で
損傷し1742の大火の後に1745に再建された。内装はバロック・ロココで飾れれている。
古いルネッサンスの城 Alte Runeissanscer Schloss (1600) プルスニッツ城は入口の門屋を
含めルネッサンスで建てられ、1718に寄棟屋根の風格のある長方形のバロックの建物が追加された。
住宅 Wohnhaus (1750) バロック・マンサード屋根の2階建ての建物は、1930に肉屋に改装さ
れた。
市庁舎 | 北西壁 |
1219 フランクとチューリンゲンの農民が開墾、 1289 城が築かれ農民・手工業者が定住、
1341 町は市場に独自の計量所を設置、 385 町の防御団体が置かれた、
1412 マイセン辺境伯は都市権と居住権を授与、 1540宗教改革の導入、
1633 帝国軍は町を占領、 1706北方戦争でスエーデン軍が占領、
1704.14.25.41 町を大火が襲った、 1758-60 墺軍・ハンガリー軍・プロイセン軍襲来、
1798 サラサ染め工場、1801紅茶マイスター223人、 1858 ガラス工場の設立。
市壁らしい市壁は見当たらない。北の墓地と緑地との間の壁は墓地の壁か?。
見当たらない。
町は、古くからビールを輸出していたので「ビールの町」と名乗っている。
ビール醸造所は見物・試飲できる。マルクトは1741の火事の後1769に整備され、取巻く
建物も建て直されている。
市庁舎 Rathaus (1517) 植民時代の市場に建てられ、1741火災で全壊の後に1767-69新
築され、1794塔が追加された。3階建て塔付の建物と隣の2階建ての建物の両方を市
庁舎として使っている。
市教会 Stadt kirche (14c) 1486ゴシックのハレン教会として61m塔と共に建てられた。1714
大火で壊れ、1730に再建された。1996の改修で、塔に新しい青銅の鐘が掛けられた。
クリッペンシュタイン城 Schloss Klippenstein (1289) 主城は高さ40mの建物ともう2つの建物が
あり、5石塔と厚さ2mの二重壁で囲まれていた。1543-46モリッツ侯爵は狩猟ロッジとし
てルネッサンス3翼の城に拡張した。1641-42の30年戦争の損傷を修理した1772基本的に
外観を保って主要構造の改築が行われ年金事務所として使われた。1879地方裁判
所となり、1945移民を収容、1953博物館を設立。
皇帝館 Ksizer Hof 中央通りの角にあり、公民館の閉鎖後に文化事業を提供している。
醸造所酒場「カイザーホフ」は、本格的な改修をして開業している。
市庁舎 | 南壁 |
南壁 |
1180 ドイツ入植者の集落に城を築く、 1212 初文書言及、
1240 都市法の制定・市場と市壁の建設、 1430 大火災でに遭ったが再建、
17c 町は30年戦争などで荒廃したが布生産で繁栄、
1720.73.1818.33 大火災で焼失、 19c 毛織物・ミルク・紙の生産と金属加工、
1945 第2次大戦の爆撃で73戸壊滅・675戸破損。
13cの市壁は、SebaschanBach Platzに僅か残っている。
見当たらない。
南下がりの斜面に旧市街があり、マルクトは広いが特別のものは見かけない。
市庁舎 今は図書館。
トリニティ教会 Torinitatius Kirche (1621) 墓地の礼拝堂として建てられ、1706最初の鐘
を備え、1730オルガンを設置、1773火災で壊れ、1777拡大され新しい教会となった。
1898老朽化して再建され、二つの小塔が追加された。
聖ペーターとパウル教会 Ev.St.Peter und Paul Kirche (1122) 最初からの正方形の塔の部分
はロマネスクである。1430大火で壊れたが再建された。1720火事で破損し、1722新築
され、1725オルガンを備え、1780塔頂に八角楼とバロックランタン付けられた。内部には、
バロックの祭壇と1680キリスト像がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1927) 1877カトリックの人々は工場のホールを買って礼拝堂とし
た。今の新しい教会は、バウハウスの影響を受けた建築家により、新しい教会に拡張し、
前面に階段状の切妻と32mの高塔を追加した。
ノイパーの館 Neuberin Haus 文化センター・講演会場・催し物会場として使われる。
ノイパー博物館 Neuberin Museum ノイパー・演劇史・町の歴史・出版物の展示がある。
市庁舎 | 南西壁 |
南壁 | 西南壁 |
西北壁 |
995 城を初文書言及、 12c 町は発展し城の下に市場を置き都市権を継続、
13C 門塔・市壁・堀で囲まれていた、 1288 一部市壁の崩壊、
1367-73 市壁の改修と外側市壁の建設、 15c 町は黄金期を迎えた、
1537 宗教改革の導入、 1616-48 30年戦争で数回略奪された、
1632.81 大火災で多くが焼失、 1769-91 軍の駐屯地となる、毛織物工場建設、
1816 ザクセン公国の地方事務所設置、 1890 町の要塞の解体が始まった。
内側市壁のAn der Stadtmauer130m.Muehlgraben80m.Wallgasse25mが赤砂岩で
復元されている。
見当たらない。
城と聖ペトリ教会は、市壁外の西にある。郡庁都市であるが大きくなく、旧市街
の中心の長く広いマルクトの中には、市庁舎・教会などの建物が建っている。
市庁舎 Rathaus (1442) 30年戦争の破壊の後に、1650苦労の末新設されたが1681大火
の犠牲になった。その後に階段切妻のある市庁舎になり、マルクト広場に移した。1828
今の建築様式の外観で、経済力・自主独立・市民の誇りを反映して建てた。1993-95外
装は1828の姿に復元され、内部は近代化された。
ロッホリッツ宮殿 Schloss Rochlitz (995) 1009に城は大帝国兵団として、高名の客や国王や皇
帝の滞在を保証した。14-15cザクセン一族の宮廷としてしばしば使われた。今の城の形
状は、1525二つの四角の塔に続く大きな建物で建てられ、ほぼ千年の歴史を経過し
ている。
聖クニグンデン教会 St.Kunigunfen Kirche (12c) 初めは双塔前面の地下室のない内陣付の支
柱バジリカであった。中央塔と両脇塔の前に1681の大火の後に玄関ホールが付加された。
今は後期ゴシックのハレン教会となっている。
聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1018) 初言及は1186である。1470-1499の後陣・殆ど四角
の身廊のある後期ゴシックのハレン教会には古い建築部分が引き継がれた。1892-94に再建
された。
市庁舎 | 聖マリエン教会 |
西壁 | 東北壁 |
1200 マイセン辺境伯ディートリッヒが計画的に設立、 1220 町の税収入者ベルトルトを言及、
1286 町と呼ばれた、 1293 ザクセンのフリードリッヒ1世はシトー派ノッセン修道院に贈与、
1360 町は市長と参事会を持ち、ノッセン修道院の世俗化後に町を監督した。
14c 町は1221mの防衛通路のある市壁で囲まれていた。
1550 町には、農民259人と自由労働者360が居た。 1613 ペストの流行で被害者多数、
19c 金属・履物・織物・葉巻の産業が立地した。
14cには高さ最高8m(3.4m-4m)下幅2.75mの市壁が、旧市街を1.22kmで囲んでいた。
復元あるいは残存の市壁は、西北160m・北70m・東北20mにある。
当初からの5市門に、1420の火事の後にBueckenTorが追加され、何れにも望楼が
あった。1805市門の夜間閉鎖をやめた。しかし門の整備はその後45年間行われた。
中世の市門の防御は、市民自身によって行われたために、市民には次の武器の訓練
が行われた。投げ槍・石弓・剣・投石。
郵便距離柱列は、1862市庁舎改修時に除去されて消え、1994-97墓地の壁から柱
が見つかり、そのレプリカが建てれた。200年前から温室で日本の椿が栽培されており、
今も見られる。小さな町ノマルクトに中に市庁舎と教会が立つ。
市庁舎 Rathaus (14c) 1529の前面を残して、1862に再建された4階建ての建物。
元修道院庁の家 Ehem.Abthaus des Kloster Altzella (16c) 元修道院長の家は、毛織物
業者の家として使われた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (14c) 外装は茶色の縁取りに白色に塗られ単塔の教会。教
会の内部は古典様式である。
旧郵便局 Alte Post (1891) 明るい砂岩の柱と装飾的な赤レンガの建物であり、100年も経
過している。
郷土博物館 Heimat Museum (2002) 階段の上のルネッサンスの建物から入る。町の歴史・オルゴ
ール・ストーブタイル等の展示がある。
市庁舎 | 宮殿 |
城南壁 | 北壁 |
1150 町の創立記念式典の起点とされる、1170皇帝バルバロッサは要塞を設けた、
1334 ロブデェブルクが所有、 1500 鉄と錫の鉱山を開発、
1533 ザクセン選帝侯が支配権を獲得、 1535 大火災で町は焼失、
1555-58 城は狩の館に変換された、 1627 2門と市壁が存在した、
1632-34 帝国軍によって数回略奪された、 1709.1824 大火災で殆ど焼失、
1825 市壁外に新しい墓地を開設、 1839 ガラス工場の開業。
主として、東側の山の斜面に石積がある。
見当たらない。
この町ザクセン。エルツの山の上の狭い所にあり、広場と教会を高い建物が取り巻
いて、その奥に城と博物館がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (15c) マルクトの東の地下には古い建物があり、火災の後1906
にユーゲントシュティールの庁舎が再建され、その後市庁舎は平地に移り、今はホテルやレスト
ランとして使われている。漆喰2階建ての建物には屋根裏部屋隔壁屋根頑丈な砲塔
が立つ。1911の火事で青銅の鐘が壊れ、2つの銅の鐘が付けられた。
宮殿 Schloss (12c) 要塞として建てられ、1533までシュバルツェンベルクの領地であった。
その後ザクセンの狩猟の館となり、1876塔内に刑務所と北翼に裁判所が置かれた。
今は大ホールと南棟は展示に使われ、南翼には音楽学校がある。
宮殿博物館> Schloss Schwarzenberg Museum 城の歴史・町と地方の伝統工芸の展示
があり、塔には登れる。
聖ゲオルグ教会 St.Georgen Kirche (1690-99) 城の手前にバロックのホール教会には、平ら
な木製天井・2階祭壇・豪華な彫刻がある。
噴水とカリオン Burnenanlange und Grocken Spiel (1993-94) 公園に歴史的な噴水があ
り、鐘楼付のマイセン磁器のカリオンが1日に4回鳴らされる。
市博物館 | 城 |
市教会 | 下門 |
南壁 |
1100 最初の防衛施設として木の城を建てた、 1222 町の城の初言及、
1218 ンマイセンの司教ブルーノ2世は城と山林を買収、 1241 マイセン司教とベーメン国の条約、
1320 行政の中心の城に役所組織、 1429 今の場所に移り城の建設、
1451-1537 早期近代防衛施設の新設、 1539 ザクセンの宗教改革でマイセン司教撤退、
1559 選帝侯アウグストは城・町・役所を引受け、 1716-65 アウグストの愛人が城に住む、
1795 大火後に市壁の取除きを認めた、 19c初 市壁は殆ど取り除かれた、
1813 ナポレオンは撤退時に城壁を破壊した。
1470に市壁は造られ、城の南の壁は選帝侯の設計によって取り付けられた。
1738まで、ここで選帝侯の狩りの獲物が育成された。市壁は19c初めから取壊さ
れ、今は、城から市教会に50m・市教会から下門に70mが見られる。
2門と8木製見張塔が市壁には造られたが、下門しか残っていない。
下門 Nieder Tor (15c) 今在るのは玄武岩のアーチだけである。
山の上の小さな町で城跡が高く聳えている。山腹に傾斜した広いマルクトがあり
市庁舎・博物館等の建物が囲んでいる。
市庁舎 Rathaus (1723) 小さな屋根に梯子塔がある、1723の大火は免れた。1549市門
の紋章が飾られている。
シュトルペン城跡 Burgruine Stolpen (1429) 1509ヨハネ塔(CoselTrum)は、切妻付5階建ての
角塔で、良く維持されている。この塔にはコーゼル伯爵夫人が住み、1716-65監獄と
なった。1877から城の見物は自由である。
新教市教会 Evangelish Lutherisch StadtKirche (1470) 後期ゴシックの磔刑の石彫刻・
1470バロックの木製説教壇・1727バロックの告白台と木製書見台・1766天井と壁の絵画・
1898建物のバロック化。
市博物館 Stadt Museum 屋根が美しい新旧の選帝侯役所に、町の歴史と文化を展示す
る市博物館を収容している。
市庁舎 | 宮殿 |
白塔 |
974 メルゼブルク司教の文書の初言及、 1170 ライプティッヒ大司教は布市場憲章を授与、
1220 マグデブルク大司教は城と城壁を築く、 1626-90 ペストの大流行、
1631-44 30年戦争で数回破壊された。 1819-20 市壁の解体、
1832 再び独立した都市となった、 1944 空爆による被害。
見当たらない。
見当たらない。城の東北に城の入口と同様な白いアーチ瓦屋根が付いた新しい門
はある。
旧市街は古い静かな小さな町で、城があるだけ。
市庁舎 Rathaus 5階建ての大きな建物。
聖モーリッツ教会 St.Moritz Kirche 白色の4階建て単塔の新教教会。
宮殿 Schloss 町の西の丘の上に、中庭を囲んだ古い建物が立ち、
入口には白い新門がある。
市庁舎 | 市教会 |
宮殿とエルベ壁 | 市壁 |
973 トルガウは古いスラブ語で市場町を意味する、1119 マイセン辺境伯の領地へ、
1267 町として初めて承認された、 1442.82 町は大火災に見舞われた、
1485 ニーダーザクセンは兄弟の間で分割、1514 選帝侯フリードリッヒ2世は町紋章を授与、
1525 灰の水曜日に修道院を市民が襲った、1547 皇帝チャールズ2世が戦いに勝つ、
1811 ナポレオンの命令で要塞の強化、 1815 ウイーン会議でプロイセン領となった、
1889 町の守りを崩した、 1907 製鉄・陶器・発電・ガラス工場建設、
1939 古い要塞「橋頭堡」は軍の刑務所に、1945 2次大戦米・ソのエルベ川会合。
旧市街の市壁は北東部で一部430m残る。19c初に旧市街の周囲に星形要
塞と外稜堡、対岸にも橋頭堡が築かれた。ElbeMauer:川岸には護岸の上に
パラペットの付いた壁が820mある。1811には建設が始まっていた。
橋頭堡 Pier (1631) エルベ川の東側の対岸に、橋を守る橋頭堡を築い
た。1633ザクセン選帝侯ヨハンゲオルグの下で1637に30年戦争で破壊された。その
後修復されて1807まで残った。19c初めナポレオンの要請で橋頭堡は強化された
その残った建物は、2次大戦後にユースホステルとして使用された。
星形要塞 (19c) 多くの後期ゴシックと擬古主義の建物がある。
側面砲塔 Flanken Kasematte: 北に③稜堡Ⅶ、南に⑤稜堡Ⅱ2004-05再建、
⑥南西に稜堡Ⅲがある。
中堤 Kurtine: 二つの要塞の間の防壁の部分。⑦ⅡとⅢ。
裏門 Poterne: 要塞の中の上部工。⑧ⅡとⅢ。
守衛塔 Hausmanns Turm (1533-35) 中世の城の中の風格ある53mの
角塔で、後期ゴシックのアルブレヒト造りである。塔の展望台には163段の螺旋階段
で登れ見晴らしは良い。塔内には二つの小さな展示室があり、民俗と歴史の
展示がある。
水塔 WasserTurm (18c) OberHafenTorとも呼ばれ、2004に復元された。
エルベ川の西側の丘の上に城が聳えるルネッサンスの町で、丘の斜面に大きな16c
の美しいルネッサンスの建物多い大きな町である。
市庁舎 Stthaus (1563-65) 聖ニコラスの敷地内に市庁舎は建てられた。
1577彫刻デザインのある部屋が造られ、1606-07翼は道路に拡張された。19c
町は郡庁となり巡回裁判所が配置され、1850刑務所も置かれ、20cには必要
な変更や改修が行われた。1971市庁舎周辺の再開発が行われ、19cのレイアウト
は削除された。
ハルテンフェルス宮殿 Schloss Hartenfels (1482-1623) ドイツ早期ルネッサンスの唯
一の現存する宮殿である。4翼の建物はD翼の住宅から後期ゴシックのアルブレヒト
造りとなった。C翼の壮大な建物はザクセン選帝侯フレデリックが1533-36に建てた。
1540B翼が造られ、1623A翼を完成させた。1636スエーデン軍の攻撃で損傷し、
その後病院・労働者.難民.孤児に住居・兵舎・地方裁判所として使われた。
今はD翼が地区事務所となり、その他過去の栄光や、室内彫刻、1425から放
飼いの熊が守衛塔で見られる。
聖マリア市教会 StadtKirche St.Marien (1119) 町で最古の教会で、1200
マルクトに更新された。1390後期ゴシックのホール教会に建替えられ、1505ルーカス・クラナッハ
絵画がある。1504侯爵夫人の墓碑、1552キャサリン・ルーサーの墓碑、1582華やかな木
製の説教壇、1698後期ゴシックの祭壇、等が有名。1813損傷して伝染病棟とな
った。その後内装が再建され、200215cの外観に復元された。
城教会 Schloss Kirche (1544) この礼拝堂は宗教改革の精神が初めて
建築と内装に実装された新教教会であり、シンプルさが強調されている。ルーカス・
クラナッハは城教会の配色を決め説教台を設計した。プロテスタントボーカル音楽の創始者
カンドールは、ここで教会音楽の基礎を築いた。
町・文化・歴史博物館Stadt und Kulturgeschichtlisches Museum (1533)
シトー会修道院の旧管理棟ハ16cの初めに領主の所有に移行した。選帝侯ヨハン・フリー
ドリッヒは、ここに法律事務所を設立してザクセン行政の礎石とした。2005に旧法
律事務所は忠実に復元され、町の歴史や文化の貴重な展示が行われた。
市長リンゲンハインの家 Buergermeister Ringenhain Haus (16c) 最高の品質
で描かれた天井と壁の絵画は、風格のある民家の落着いた前面の背後に隠さ
れている。室内装飾も芸術的に重要なルネッサンス家築物である。
カタリーナ・ルターの部屋 Katharina Luther Stube (1523) マルチン・ルターの妻は1552
ナルトキャサリン通り11の家で死亡した。カタリーナ・ルターの人生の各段階に分類された資料
が展示されている。
醸造博物館 WolffGiersings Brauer (15c) 初め醸造所、16cモルトハウスとな
った風格のあるルネッサンスの建物。中世の大規模な醸造施設と天井や壁に絵のあ
昔の市民の酒場には、興味ある600年の町の醸造の歴史が展示がある。
石彫刻 Lapidarium 城の中庭の部屋に古い城の石組が置かれている。
風化した砂岩は新しいレプリカに置き換えられた。城の建築の歴史が見られる。
職人の家 Handwerker Haus (15c) 小さな2階建てのルネッサンスの簡素な建物
は、大部分が保存された古いもので、旧市街の外れに在った。17cにはここに
3人の桶屋のマイスターと2人の煙突掃除人が家族・職人・弟子と共に住んだ。窮屈な
空間と曲がった壁に壁画があり、過去の文化・生活が伺える。
ニコライ教会 Nikolai Kirche (12c) 3廊バジリカに西正面塔が在り、古い商人
入植地の近くに守護聖人を祀った。13cから残った身廊、1482大火で破損し煉
瓦で屋根が葺かれた。1519最初のドイツ語洗礼が行われた。1565市庁舎建設によ
り、内陣の屋根も変えられた。火事で内陣と中廊は新しい屋根を備えたが、側
廊は廃墟として残された。2次大戦で鐘は供出され、戦後倉庫と行政目的で使
われ、1992両塔は改修され1995再び鐘が響いた。
平日教会 AlltagsKirche Ehem.FranziskanerKloster (13c) 3廊後期
ゴシックのハレン教会で、修道院の教会として成立した。1525宗教改革で修道院が世
俗化された後は、教会は1529AlltagsKiecheとして残され、1811まで毎日の新教
の礼拝に役立った。その後倉庫・据付室・ギムナジュウム・体育館・集会所として使われ
1945-96名前をベルンハルト・ケラコーン会館とし、1997外装を改修して大講堂として落成
し、演奏会場にも使われる。
市庁舎 | マリエン広場 |
1165-72 フリードリッヒ1世の命により城を建設、 1226 ムルデ川の洪水、 1254 町を設立、
1378 フス派による焼払、 1473 民家を購入して市庁舎に、 1576.1633 ペスト流行、
1447.1450.1584.16341640.1684.1784大火災,1448 皇帝フリードリッヒ3世は市場権授与、
1531.1543 ムルデ川の洪水、 17c 30年戦争で教会を占領された、 17656-63 7年戦争、
1945 戦争なしで米軍が占領、6月から赤軍が占領。
15-16cの市壁は、町の北東のMalzhaus Gasseに僅か50m残る。
見当たらない。
市庁舎 Rathas (1727) 市庁舎は1472に民家を購入して始まり、1529-31に新
築された。火事の後1731に今の市庁舎が建設された。尖塔と小破風のある2階建バロックの建物で
大きな外階段が付いていた。地下にワイン居酒屋の壁画が残っている。
聖バーソロミュー教区教会 Pfarr Kirche St.Bartholemew (13c) 2身廊後期ゴシ
ックの教会で、1430から北身廊と内陣が造られ、15cに南通路と共に完成した。塔は火事の後1580
-81に再建され、階段塔が西に追加された。聖具室と南門は16c後半に建てられた。1888-94と19
36-39に内部はゴシックに戻された。
商店 Geschaefts Haus (1760) 地階に中庭門があり上階木組のバロックの3階建漆喰
の建物で、マルクト広場を取り巻く典型的なバロックの建物。
ヴァンデンブルク城 Schloss Waldenburg (1165-72) 皇帝フリードリッヒ1世の命により、宮
殿が建てられ、1378からシェーンブルン家が領主となったが、1848に宮殿は焼失し1855-59に再建され、
1909-12に城は現在の姿になった。1932城博物館として一部を開放し、シェーンブルン家は1945まで城
を所有した。
1945に赤軍は宮殿を接収して軍病院としたが、図書や家具は略奪された。1947-98は結核療養
所として使われた。2006に宮殿礼拝堂は修復して再開され、宮殿は市の情報の本拠地とした。内部
はガイドツアーで見学できる。
グリュンフェルダー公園 Gruenfelder Park (1779) シェーンブルン伯は、英国庭園のある夏の
離宮を建てた。公園は1780-97に113haに拡張され、1813には53の建物があった。
教会 | 時計塔 |
13c スラブの森にドイツ入植者が侵入、 1396-98 ロシアの支配下に、 1398 ザクセン選帝侯が支配、
14c 布地生産、ビール生産、周壁の権利獲得、 1557-60 魔女狩り、 1756 大火事で全焼、
18c 貿易と商業で発展、 1911 新市庁舎落成で黄金期、 1945 空爆・4月米軍占領・7月赤軍へ。
町の東には城があり、1670に火事で焼けた。南門は1835に取除かれた。市壁は北西の住宅に残る。
4市門と8搭があったが、今は無い。
1756に大火災があり、現存するのはその後の建物である。
市庁舎 Rathas (1908-1911) ネオルネッサンスの風格のある3階建ての建物で、部分的な細部には
アールヌーボも見受けられる。正面の片切妻と高い鐘楼に特徴がある。
市教会聖マリエン Stadtkirche St.Marien (1760-64) マルクトの東北にあるバロックのホール教会
に19cのネオルネッサンスの塔が付いている。15cの聖体拝領の盃、18cの祭壇と説教壇がある。
聖ボニファティス教会 Kath.St.Bonifatius Kirche (1927-29) 牧師館に併設された教会。
気象広告時計 Annonsen Uhr (1891) アウグストバベル通の歩道上に四角時計が建っている。
市エンジン博物館 Stadt und Dampfnerchinen Museum () 2階建の建物に、市と地域の
歴史と産業と共に、Frsurenther磁器・1899の蒸気機関と庭園鉄道の展示がある。
市庁舎 | 南西壁 |
西北壁 | 北東壁 |
12c 森林に入植し教会を建てた、 13c 聖ニコラス教会の近くに町を設置、
1259 マイセン大聖堂教会にトウモロコシの1/10贈、 1281 安全な町として言及、
1447.1450.1584.16341640.1684.1784大火災,1448 皇帝フリードリッヒ3世は市場権授与、
1543 シェーンブルクのハンスは城を構築、 1700 宮殿を拡大し3翼に、
1745 プロイセン王フリードリッヒ2世は戦後滞在、 1806 農民・醸造・工芸・運送に1216人、
1912 18大工マイスター.13家具工場があった。
13cには、ささやかな柵やフェンスが湿原に設置、1411シェーンブルクのカスは市壁を構築、
1450シェーブルクのハンスは市壁と市門を再び設けたが、1543フス軍に壊された。
市壁は西に残っている。
1530守衛詰所付の3市門があった。1552市門は初めて閉じられた。今は無い。
東部エルツ山地の中心都市で、昔は中波の送信機を有し放送を行っていた。
城・教会・市庁舎が、市壁に囲まれた旧市街に立つ。
市庁舎 Rathas (1423) 正方形の最高地点に建てられ何度も火事に遭い修復された。
1744大火で損傷し、1755-58再建された。バルコニーの上の紋章はポーランドの王冠
である。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (13c) 1572拡張され、1686燃え、1693復元されたが、
1744大火で天井が燃え、1805改装された。1896老朽化して解体されネオゴシックの
教会となった。1994尖塔・屋根・前面は復元された。
聖ヤコブ教会 St.Jakobi Kirche (12c) ロマネスクの厚い石壁とアーチの窓枠のある教会で、
1591屋根が更新され、1689窓の拡大が行われた。1984周囲の墓地は閉鎖され、
1990-2005改修された。
町郷土博物館 Stadt Heimat Museum (1999) 地質的・先史時代の歴史、都市の構成、
農業・工芸品・産業、ケツの戦いのジオラマ等の展示がある。
宮殿 | 聖バルテルモイス教会 |
南壁 |
1241 ボルケンシュタイン領主フ-ゴは修道院への贈物に町の名前を挙げた、
1293 ヴァルデンブルク家は町の全鉱山の十分の一税を女子修道院に移した、
1303 町と呼ばれ城と町を一つの壁で囲った、 1378 ヴァルトブルク家の鉱山本部、
1473 ヴィッテン家の領地となり城を居城とした、1505 ハインリッヒ侯爵は役所を受取った、
1540.1610.1689.1695.1802 大火災、 1573 屋根付の木橋が架けられた、
1622 67の鉱山が運営された、 1730 郵便距離の石柱を復元、
1815 紡績工場、1880靴・ダンボール工場、 1926 町は温泉を買収、
1945 空爆で200以上の建物が壊れた。
14cに0.9kmの市壁は、旧市街を城を含めて囲んだ。今もMuehlTor周辺や城の
南に見られる。
粉挽き門 Muehl Tor (14c) 昔の3市門の一つで、ザクセン州で4つしか残
っていない市門の一つ。
80mの岩上の城の町で、800年の雰囲気が保たれている。小さな温泉町でもあり
三つの博物館がある。
市庁舎 Rathaus マルクトの北側の3階建ての大きな建物。
ヴォルケンシュタイン宮殿 Schloss Wolkenstein (1505) 後期ゴシックの城は、ザクセン侯爵アンリ2
世の居住宮殿であった。19cに建物は改修され、城と町の歴史と後期ゴシクの部屋が
見られ、監獄には中世の正義の歴史の展示がある。2002旧門衛の家では結構式が
挙げられる。
聖バーソロミュー教会 St.Bartholomaus Kirche (1648) 中世の城に属する礼拝堂であった。
東の聖歌隊席の一部が最も古く、1687火災の後に、1689長方形の本堂が建てられ、
1710高塔は35mで完成した。1818大理石の祭壇が置かれ、1980年代に全体的に改
修された。
旧市庁舎 | 宮殿 |
復元市壁 | 北壁 |
961 オットー1世の贈物文書に初言及、 995 マイセン司教に世俗的所有物として提供、
1114 マセン司教は大学の設置・聖堂の建設、1200 マグデブルク法を授与、防備を固めた、
1481 市評議会は司教から裁判権を貸与され、 1574購入した、
15C 町の産業:農業・漁業・リネン織・漂白・製粉・醸造、 1519.77.99.1609.10.26.80ペスト、
1636 30年戦争でスエーデン軍の略奪、 1717 市民は壁内111戸.璧外270戸、
1811-13 仏軍等の通過で戦争負担金を支出、 1945 第2次大戦による戦災はない。
北西に30m、北東に40m、西に40m、南側に15mの市壁が残っている。
見当たらない。
ザクセンの中央に位置する郡庁都市で、12c大聖堂の町となり、歴史的な旧市街は
美しく修復された街並みがある。詩人で画家のリンゲルナッツは、ここに生まれ市博物
館に作品と生涯の記録がある。
マルクト広場 Markt Platz (12c) 17-19cの2-3階の建物が周囲に立つ、北側には1998復元さ
れ、その他の建物も美しく改修されている。
旧市庁舎 Alte Rathaus (15c) 1519に焼失し1637に建て直された。1722に老朽化し、バ
ロックで建直された。1802また焼け19cに単純な新古典主義で建直された。1927市立博
物館になり、1993-95大改築されて文化センター・都市ギャラリー・図書館である。
ヴルツェン城 Schloss Wurzen (10c) 旧城の場所に、1491-97に司教ヨハン6世によって後期ゴシッ
クからルネッサンスの宮殿を建てられ、堀や跳ね橋で守りを固めた。カーテンアーチのの窓とボール
トはマイセンのアルブレヒト城に似ている。1581最後の司教が城から離れた。1631二つの塔は
壊れたが、城は裁判所と警察署として長期に使われた。今、城はホテルやレストランとなっ
ている。
市教会聖ヴェンセスライStadtKirche St.Wenceslai (13c) 古いヤコブ教会の位置にベンセスライ教会
が1389聖別された。16cから今の後期ゴシックの外観となり、1628正方形の西塔の屋
根を切妻屋根とした。1638壊され、1673に3廊のハレン教会となった。1911高さ52m
の塔が付けられた。1926格間天井は塗装されたが1975に落下し、1997改修された
公開された。
聖マリア大聖堂 Dom St.Marien (1114) マイセンのはービック司教は柱バジリカのロマネスクの大聖堂
を建てた。1470火事で壁や塔の基礎を残して焼失し1513再建された。30年戦争の
後に、塔にはバロック・フードが付けられた。1817ドームはゴシックになった。1931-32入口
は今の姿を与えられ、1999建物の改修が行われた。
聖心教会 Katholische Herz-Jesu Kirche (1899-1910) 町の東にロマネスクの単塔教会が建て
られ、建築様式は改修の時代毎に変えられた。1917鐘は供出され、19243つの鐘が、
1940オルガンが付けられ、1998建物の改修が行われた。
ペストの家 Pest Haeuschen (1687) 1548開設の墓地に1552Heiliggeist Kirche が、1607
のペスト大量埋葬地に1687ペストの家が建てられた。20cに改修されている。
旧帝国郵便局 Ehem.KaizerlischesPostamt (1889-1900) 旧帝国郵便局は、1854の古い
郵便局を建て直した。1990改修・拡張されて中央郵便局となり、2001まで使われた。
ザクセン選帝侯のポスト・マイル柱 Kursaechsische Postmeilen Saemle (1724) ザクセン選帝侯フリード
リッヒ・アウグストによるポスト・マイルの高さ4.53mの柱は、3列設けられたが、19c後半には削
除された。1984に古い柱が見つかり、再建植された。
旧ザクセン選帝侯郵便局 ehem.Kursaechsische Posthalterei mit PostTor (1696) ポーランド
王とザクセン侯の二重紋章の付いた郵便門のある旧郵便局で、大邸宅・使用人宅・付属
建物など多くの建物があった。
コロスティガル Crostigall (1340) ライプティッヒに向かって道は付けられ、この土地は貴族に授け
られた。1700道はそのまま使われ、1843までここは特殊な自治体と見なされた。
郵便局や貨物の家が残っている。
リンゲルナッツの家 Ringelnatz Haus (1554) 詩人リンゲルナックの生誕の地は、1678にはFreyの家
あった。1919に彼の出生地が選ばれ復元され、1945記念銘板が建物に設置された。
工場の塔 Muehlentuerme 町の西側に遠くからも見える城のような大建築物は工場で、二
つの大企業が食品を生産している。
ヴルツェン博物館 Museum Wurzen Ringelnatz Sammlung (1668) 町と考古学協会の歴史博
物館を1927に設立し、1948町でも美しい民家に収容された。建物は30年戦争の後にルネ
ッサンスで再建され、市長・評議会員・商人が住んだ。
市庁舎 | 肉屋稜堡 |
小稜堡・南東壁 | 北壁 |
1238 マリエンタール修道院の文書に初言及、 1255 ボヘミア王オットー2世は都市権を授与、
1346 貴族の圧政に対抗し6都市連合、 1348 皇帝チャールズ4世はルドルフに保安を委任、
1358 町は保安権を買取って自治を回復、 1359.1422 町は大火災、
1555.1559.1599 疾病の大流行、 1631 30年戦争で被害、
1635 プラハの和平でザクセンに割り当て、 1757 7年戦争の墺の砲撃で町は壊滅、
1869 幾つかの残基を除いて市壁は撤去、 1945 ナイセの東領域をポーランドに割譲。
13cの市壁は、1869には僅かの残余しか存在しなかった。残っているのは、北東
に20m、東に15+40m、南東に15mである。
肉屋の砦 Fleischer Bastei (1513-62) 2階建て円塔の上に八角形の部屋が乗って
いる。今の外観は17cのものである。砦は13も造られた。
小砦 Klein Bastei (16c) 3階建て円塔に円錐屋根が乗り、市壁にある。
ドイツ・ポーランド・オーストリアの国境に町はある。中心のマルクトは市庁舎・7階建の塩の家
教会など特徴ある建物が集まり威厳がある。聖ヨハネ教会の塔は、266段を登れる。
市庁舎 Rathas (1840-45) ルネッサンスのイタリア貴族風で擬古典要素もある建物で、正面入り
口には、ドレスデンの彫刻家による、英知を表すテミス、正義を表すゾフィアの砂岩の像が
ある。
ノアクの家 Noacksches Haus (1689) 早期バロック豊かな実業家の家。
町薬局 Stadt Kirche (1519) 薬局は1707にバロック4階建ての大邸宅となり、1760に改修
された。
侯爵の宿 Fuerstenherberge (1767) 優雅な後期バロック大邸宅。1813ナポレオンがここに泊
まった。
元地方裁判所 Ehem.Amtsgericht (1678) 市長ストレの邸宅として建てられた町で最も古
い後期ゴシックから早期バロックの建物で、地方裁判所として使われた。
ドルンスパッハ館 Dornspach Haus (1553) 2階建ての町で最古の貴重なゴシックの町屋であり、
市長ドルンスバッハが建てさせ、1580まで住んだ。改修された建物は、歴史的な家主を
知らせている。
グレッツの家 Graetzsches Haus (1710-17) 商人グレッツは、息子のためにバロック3階建ての
大きな建物を建てた。華やかな塔のあるその前面は町で最も美しく豪華なものに属
する。
市プール Stadt Bad (1871-74) 後期古典主義で建てられたドイツ最古の屋内のプールである。
ヨハニウム Johanneum (1869-71) 実業高校として後期古典様式で建てられた。56mの高塔の
上の銅に金メッキのエンジェルがある。
元フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (13c) 中庭に17cのバロックの納骨所があ
る。1665評議会の図書館となり、20c市博物館として再構築された。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1291) 1485今の4廊の建物となり、1757火事で壊れ、
1837に今の教会の建設が始まった。
ウエーバー教会 Weber Kirche (15c) 市壁の前に位置するトリニティ教会であり、1889-90に
ネオゴシックに転換した。
元フラシクコ会修道院教会 Ehem.Franziskaner KloaterKirche (13c) 単塔2身廊ゴッシクのホール
教会である。
十字架協会 Kreuz Kirche (1400) 後期ゴシックの支柱式教会で、バロックの地下室がある。
1472の簡単四旬節布の博物館が1999に併設された。
花時計と磁器カリオン BlumenUhr mit Meissner Porzellen GlockenSpiel (1907)花時計に
は400種の植物が植えられ、マイセン磁器のカリオンには21の鐘があり1966に職人が寄贈
した。
旧町の鍛冶屋 Alte StadtSchmide (1713) 塩の家の南にバロックの家がある。
塩の家 Salz Haus (1511) 厩舎・武器庫・店舗として後期ゴシックで建てられた。1730に高い
マンサード屋根を持つバロックの建物として再建された。
食肉市場 Fleisch Baenke (1361) アーケード付の肉の小売店で、1838に今の姿で再建された。
新市庁舎 | 新マルクト |
ヴィルデック宮殿中庭 | 宮殿外壁 |
南壁 |
1286 最初の文書による言及、 1292 町は防備を固めた。
1300 町と城は王国閣僚リエンの所有に、 1340-56 マイセン辺境伯の領地となった、
1456 ザクセン選帝侯の領地になり、銀鉱山開発、1494-95 市教会・市庁舎・市壁の建設、
1539 宗教改革の導入、 1612 ペスト流行、1632.34 30年戦争略奪、
1648 戦後に商業・工業・鉱業で復興、 1748 大火で焼失、ザクセン・バロックで再建、
1802 綿の漂白剤・紡績材の工場設置、 1945 空爆で23人死亡。
1494-95に築かれた市壁は、城から教会にかけて残っている。
見当たらない。
1634と1748の大火災で旧市街は殆ど焼け、建物の大半は18cバロックの建物であるが
木組みの家も見かける。オートバイの町とも言われ、昔生産工場があり、城にはオートバイが
集められている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1495) 初めルネッサンスで建てられたが、度々の改造が行われ、今の
姿には1920になった。その時、正門と大広間が成立した。塔にはオートバイ工場の創立者
の寄付で、グロッケンシュピールが付けられ、黄銅の鐘は9.13.18時に聞く事ができた。塔
の歴史に関する展示がある。
新市庁舎 Neues Rathas (1561) ルネッサンスで巡視警察長官の貴族の邸宅として建てられた。
1748町の火災で大部分は壊れ、1751の再建でバロックの今の姿になった。
ヴィルデェック宮殿 Schloss Wildeck (1125-1180) 13cには、城は小さな行政区画役所であっ
た。1307マイセン辺境伯の封建領土となり、その後所有者を度々替え1456にザクセン選帝侯
の領土となり、その後100年間所有して1545-47ルネッサンスの狩猟用の別邸として改築し
た。建物の中には、貴重な色を塗った木の天井があり、例えば2階の黄色の小部屋・赤
の広間、3階には青白い部屋と緑の広間が美しい。バロックと古典主義の時代に改築され
た。今は、市博物館・印刷と製本博物館・スタンプ部門・鋳造工場・市図書館冷蔵庫・地下
水槽・オートバイ等が在る。
市教会聖マーチン教会 StadtKirche St.Martins (1494) 元の後期ゴシックのハレン教会は、1748
の火事で壊滅し、1751バロックホール教会として再建され、大きなザクデン・バロックオルガンを
収めている。塔は1798にやっと付けられた。
市庁舎 | マルクト広場 |
聖母マリア教会 | 人形劇場 |
シューマン像 |
1118 司教文書にボザウ修道院を初言及、 1150 入植地が置かれ城と教会を建設、
1192.1212 都市権の授与、 1232 修道院学校と 1266 病院の建設、
1290 帝国自由都市となり、3市門と一部土堤と堀で守った、 1627 4門と堀の市壁、
1403 大火で町は壊滅、7年間免税で復興、1616-48 6回包囲され平和貢献金が多額に、
1702-17 市壁の取壊し、 1810 ロベルト・シューマン生誕、
1945 2次大戦の空爆で被害。
1327の市壁は、1702-17に殆ど取壊され、僅か30mの市壁が東側にある。
残っているのは1塔であり、PulverTurmがある。それは円形白色の2階たての塔に
青色の円錐屋根が付いている。
町は鉱石の豊富なエアーツ山地の北にあり、14cから銅・銀・鉄を採掘して栄えた。
マルクトの町人の家と市庁舎は綺麗で、ドームは地味な外観である。
市庁舎 Rathas (1403) 大火の後に、高さ54mの塔の南側を広場に向けて、4階建で建てられ、
1867にネオゴシックに改修され、中央入口上に町の紋章が飾られた。
オスターシュタイン宮殿 Schloss Osterstein (1292) 北東に建築時の姿で2009に公開。主祭壇、
聖マリア大聖堂 Dom St.Marien (1453-65) 後期ゴシックホール式教会堂で、1479六面の
1502キリスト哀悼像、1507聖墳墓、1538説教壇と洗礼盤が、中にある。
カサーリン教会 Katharinen Kirche (1206-12) 東北、後期ゴシックのホール教会で、クラナッハの両開き祭
壇と砂岩の説教壇がある。
ロバート・シューマンの家 Robert Schwmann Haus (1810) 老朽化し忠実に復元された。シューマンと
クララの記念館がある。
ゲヴァントハウス Gewand Haus (1522-25) 反物商館として建てられ、前面には三角破風に眼鏡模
様がある。1823にオペラが開演された。
市立博物館 Staedtisches Museum 町の歴史と発展・16-20cの絵画.彫刻.・化石を展示してい
る。
人形劇場 Puppen Theater 1952に始まり、1987にゲバントハウスの南に新設された。
アウグスト・ホルフ博物館 August Horch Museum 車Audiの前身であるHochが1904に生 産を開始し
た。Hoch車の歴史と生産車の展示。
1282 城主コンラッドと城の初言及、 14c 小さな町としてプラウエン知事の言及、
1432 町はビール醸造権を得た、 1505 管理事務所が置かれた、
1543 山の事務所が建てられた、 1524 宗教改革、
1561 瀝青権を授与され瀝青の町と呼ばれた、 1632 30年戦争で大被害、
17c 多くのギルドが結成され、織物工芸が栄えた、1757.1834 大火災で町は壊滅、
1800 町は穀物交易の中心地、 19c 学校や大学が置かれ織物・家電生産、
1945 4月米軍、7月赤軍が占領。
見当たらない。
見当たらない。
新旧マルクトと教会の3広場のある中都市で、宮殿塔44m・聖ラウレンティウス・聖十字架教
会の3塔は、遠くからも取り巻く森の上に頭を出しており、「3塔の町」とも呼ば
れている。町博物館には700年の歴史が展示されている。
宮殿 schloss (13c) 高さ43.9m八角屋根の円塔が残る。その他の部分は1757の火災
で焼失した。
聖ラウエンチウス教会 St.Laurentius ()
聖ニコライ教会 St.Nicolei Kirche (1553) 市壁の外に在った急勾配の屋根の中世の小さな
礼拝堂である。1700病院も置かれた。1791荒廃し放棄、1792長方形7.5*18mの
木製天井の新建物を建てた。1866大規模な復旧工事、1982復元工事が行われ、
イベント会場として使われている。
町博物館 Stadt Museum 町と城の歴史と文化や貿易・産業の発展を展示。
モデル鉄道展示 Auerbacher Modellbahn Austellung モデル鉄道を展示。
郷土博物館 | 城壁 |
聖ラウレンチウス教会 |
1136 ベネディクト会聖マリア修道院の設立、 1142 王コンラッド3世は市場権を付与、
12c末 赤塔と高塔の建設、 1264 聖ヤコブ教会と市壁の完成、
1291 帝国都市として参事会憲法の制定、 1324 マイセン辺境伯の所有となる、
1379.89.95 大火災に遭遇、 1412 辺境伯は町に市場権を与えた、
1539 宗教改革の導入、 1613 ペスト流行、1631大火災で300戸焼失、
1648 30年戦争で人口・家屋は半減、 戦争の負債額の返済には1698まで掛かった、
1680 ペスト流行、1706-07 北方戦争でデンマーク軍が占領、1756-63 プロイセン軍の占領、
1813 仏軍と墺・露軍が戦闘、 1945 空爆による被害。
見当たらない。 旧市街の1次市壁は12-13cに建てられ、19c初に市壁と市門
は取壊され、市堀は埋め立てられた。AmWallの名前がその位置を示す。
赤塔 Roter Turm (12c) 市壁の一部として6階建ての角塔が建てられ、16c赤色の屋
根瓦となりこの名前となった。1960まで刑務所として使用され、1945空爆で焼失し
1957-59復元され博物館となった。
大きな工業都市で、再開発が進み、近代的な建物が立ち並び、中世の雰囲気は
感じられない。
旧市庁舎 Altes Rathaus (15c) 旧市庁舎は、1496-98木造建築で建てられ、何回か再建
されたが、2次大戦で全焼した。戦後の再建は、1階増して14cの高い塔の正面を残
して、ゴシックと17c様式の美しい前面を見せている。塔は1946に崩壊したが、1986
バロックで復元された。
新市庁舎 Neues Rathaus (1907-11) 高さ5mのローラント像と紋章が正面を飾っている。建物
の内部は主としてアールヌーボーである。1978塔にカリオンを付けた。旧庁舎と調和した入
口は、そこに在った古いラテン学校から来ている。
劇場広場 Theater Platz 1909オペラハウス1992再建、1906-09キングアルバート博物館1885-88聖
ペテロ教会、1928ホテル1994改修、等の大きな建物が囲んでいる。
聖ヤコブ教会 St.Jacobi Kirche (14c) 現存する唯一の中世教会であり、後期ゴシック3廊の
教会で、15cに内陣が付けれれ、1911前面は再設計された。1945身廊が内陣を残し
て崩壊し、1997-2007に再建された。
聖ヨハネ教会 St.Johan Kirche (13c) 初めの木造の教会は1566までに破壊され1866-78に
現在の形になり、1912-13高塔が計画され、戦後23mの塔が建てられた。
市美術館 Staedtische Kunsutosammlungen 19.20cのドイツ絵画と彫刻、ユーゲントシュティールや
アールデコの織物・工芸・家具が見られる。
市庁舎 | 赤塔 |
歌劇場 |
961 ドイツのとして初文書言及、 1089 ヴェッテン家マイセン辺境伯ヘンリー1世の領土、
1362 最初の市議会開催、 1376-86 コルディッツの貴族は町の館を買った、
1394-04 マイセン辺境伯ヴィルヘルム1世は城を再建、 1413.1535 町の大火災、
1631-48 30年戦争とペストの大流行で町は衰退、 19c 産業の発展、
1945 第2次大戦の米軍砲撃による破壊。7月赤軍が占領。
通りの名前で、市壁の位置は分かるが、市壁はは見当たらない。
ゾルベン塔 Sorben Turm(12c)丘の上に16mの塔が見張りのために建てられた。1865
望楼として保存され、1997-98改修された。正方形の壁厚は1階で1.6mもあり、古い
煉瓦で構築されている。
楕円形の旧市街は空爆で90%が破壊され、市庁舎と教会は復元されている。
市庁舎 Rathaus (1403) 当時はまだ百貨店と呼ばれた町役場の建設が始まった。町役場は数
回破壊され、1521新築の建物は1535に焼失し1544-45ルネッサンスで再建され、その後も改
造が行われ階段は内側から外側に変わった。1945砲撃で破壊され、1949に再建された。
1991-96近代化が図られ、2002の洪水後にも改修された。
城山 Schlossberg (10c) 旧市街の西500mの丘の上に、ザクセンの発祥地として1089伯爵ヘンリー1
世が領土国家を誕生させた。1997-98Sorben塔・2001城門と城壁改修された。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1140) ロマネスクの教会は石造となり、1516-22後期ゴシックに転
換され、絵画が多く残っている。1603オルガン・1625三つの鐘が付けられ、小さい方の祭壇
はロマネスクのまま残された。1945の爆撃で破壊され1948に再建された。
聖ニコラス教会 St.Nikolai Kirche (970-80) 町で最初の教会で最古の建物である。1404教会と
墓地が再奉献され、1435.1535火災で損傷し、1413.1434.1573.1771.1858の洪水に見舞
われた。1945の砲撃で損傷し、再建はまだ完全ではない。
カソリック教会 Katholischen Kirche (1853) 1525の宗教改革でカトリックの司教は去り、1777カトリック
の礼拝が始まり、その後聖ニコラス教会で開催され、1853自らの教会を建てた。
町博物館 Stadt Museum (1900) 当初旅館で古代博物館が開かれ、スエーデン王の宿泊記録が知ら
れていた。2003貯蓄銀行の建物に展示場を移し、町の歴史とオモチャの展示。
市庁舎と聖ニコライ教会 | ゾルベン塔 |
1039 Pegau文書に城と市場を初言及、 1073 城の要塞化、
1214 辺境伯ディートリッヒは都市権を与え市場を拡大、 1294-96 城の破壊、
1513 火災後ザクセンのフレディリックは城を構築、 1647 ザクセン選帝侯は町を売却、
1830 町で自治統治した、 1834 町と郊外の統合。
見当たらない。
市塔博物館 Stadt Turm Museum (1170) 元Aegydius教会の塔が1513の火災で残り、
市塔となった。他の二つの建物と共に市の博物館になっている。
給水塔 Wasser Turm (1903-04) 高さ45mの鉄骨の塔の上に4角の水槽が乗っってい
て、まだ使かわれている。
町は復元されたマルクトに市庁舎と市塔博物館が立ち、北に旧市教会と市水車がある。
旧市街の建物は、木組みの家も残るが、多くは新しく建替わっている。
市庁舎 Rathaus (1890) ルネッサンス2階建時計角塔付の建物。
ヴィップレッヒツ城 Wiprechts Burg (11c) 1073-74ヴィップレッヒツ侯爵が建てた城でであるが、
1294-96軍の通過により破壊され、遺跡が残るだけ。
市水車 Stadt Muehle (12c) 今の建物は1083に建てられ、1930火災後に再建された。
1985粉挽き工場は閉鎖され、1999市は改修して水車を再開した。
聖母教会 Frauen Kirche (12c) ロマネスクの市教会で、1883-84に再建されその後数回改装
され、1994外部改装2005-07屋根改修と全体装飾の修復された。
旧市庁舎(市博物館) | 市塔 |
白馬 |
1200 ラウエンシュタイン城は築かれ、1323に言及、 1369 町として初文書言及、
1522 銀・鉄・石灰岩の採掘、 1567 ザクセンによる城の建設、
1587 ギルドの設立:肉・靴・錠前・大工・仕立・鍛冶・材木・工芸品等、
1851 最後の鉱山も閉鎖、 1906 綿紡績工場に加え、照明器具工場を開催、
1944 ライプティッヒ・ドレスデンの書籍・美術品が石灰工場に移された。
見当たらない。
見当たらない。
1856の大火の後で、市庁舎が再建され、街並みも形成された。市博物館の隣
には、消防博物館もある。
ラウエンシュタイン城 Burg Rauenstein (1200) シェレンイルガーの領主が城を築いた。ザクセンが城を
築いた。1630大きな構造変化があり、1651-1743城が再建され、銀の採掘が富
をもたらした。
郷土博物館 Heimart Museum 木組みの2階建ての古い建物に、石灰の歴史的な展示が
ある。
市庁舎 |
1333 ボヘミア王国の鉱夫による金採掘の町として初言及、
1443 町の半分は購入や交換によってザクセンへ、 451 残り半分もザクセンへ、
15c その後はザクセンの所有で市場町へ、 16c 仕立屋・靴屋・鍛冶屋・革鞣屋、
17c 戦争・疫病・火災で人口激減、 1768 車大工と鍛冶屋は木製車輪生産、
18c ボヘミヤ巡礼の巡礼路にあたった、 1945赤軍の占領時に砲撃された。
地図には市壁らしき地名があるが、見当たらない。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus (1700) マルクト広場の中央に2階建の大きな市庁舎があり、入口の上
に町とマイスナーの紋章がある。銅製の鐘楼は鉱夫を象徴している。
プロテスタント聖ヤコビ教会 Ev.Kirche St.Jakobi (1346) 木製の教会として建てられ、最も
古い部分はゴシックの聖歌隊と1500からの美しい彫刻の祭壇でである。1854新塔
が付けられ、身廊は1883基礎の上にネオゴッシクで建てた。
レクトリィ Rektory (1616) 町で最古の上階木組切妻付の建物は、司祭の家であり、ルネッサ
ンスの入口とフランコイアの枠組みを備えている。
聖グートルード教会 Kath.Kirche St.Gertrudis (1926-27) カトリック労働者の増加に伴い、
新設された。
郷土博物館 Haimat Museum (2007) 元醸造所シュモルの麦芽の家の博物館は、町の歴
史の展示がある。
市庁舎 | 聖ヤコビ教会 |
1268 ブランデンブルク辺境伯オットーの文書に初言及、 13c 村は農産・工芸品生産、
14c 村周辺の多くの農地はマーチン家が所有、 1798 度重なる大火事が発生、
1815 ウイーン会議でプロイセン王国に属しローテンブルク郡庁の町に、
1945 二次大戦の戦闘で深刻な被害 1960 空軍の戦闘機パイロット訓練所設置。
見当たらない。
見当たらない。
ナイセ川の西に位置し、東のポーランドとの国境の町であり、殆どは19c以降の
建物である。
町役場 Rathaus (1789) 建設後に前面は成形された。マルクト広場の中央に支配的な
2階建の建物がある。
プロテスタント市教会 Ev.Stadt Kirche (1799-1805) ゴシックの前教会は1798の大火事で
全焼し、1805再建聖別された。1817オルガン、1823祭壇画、1838四角の西塔を
高さ60mに嵩上げ、1840鐘の供出、1945戦闘により塔が身廊へ崩壊、1950再
建で塔高は45mとなった。
牧師館 Pfarrhaus (18c) バロックのシンプルナ漆喰の建物で、横アーチの入口。
旧牧師館 Alten Pfarrhaus (1799) 後期バロックのハンサムな建物。
宿屋:王冠 Gasthaus Zur Krone (19c) 2階建の大きな建物。
カソリック聖マリア・ロジーナ・ロザリイ教会 Kath.Pfarr Kuratie St.Maria Regina Rosarii
(1920) ネオ・ゴシックの礼拝堂。
市博物館 Stadt Museum () 市の歴史を展示、市図書館を併設。
農業博物館 Bauerun Museum () 600年の農村生活と文化を展示。
航空技術博物館 Luftfahrt Technisch Museum () 歴史的な航空技術と実機を展示。
市庁舎 | 市教会 |
1100 ショッパウへの道の駅として城を設置、 12c この地域はボヘミア王の宗主権、
1235 今日の町が南岸に計画的に造られた、1239 都市権を受け、石壁の建設、
1413 修道院の開設、 15c 自治体の権限を得た、
1527-29 宗教改革の導入、 1636 30年戦争で数回略奪された、
1725 ジャガイモの栽培が始まる、 18c 城は放棄された、
19c 工場として使用していた城を大改築した、 1930 城は町の財産となった。
見当たらない。
見当たらない。
エルツ山地のチェコ国境近くの寂しい町、聖ウルリッヒ教会は丘の上に堂々と立つ。
宮殿 Schloss (14c) ゴシック・ルネッサンス・バロックが混在する高い塔のある建物で、公園に
は隣接するマナーハウスは二つの池に映えている。城にはエルツ山地風景図・騎士の間
・森林と野生の物語・レストラン塔がある。
聖ウルリッヒ教会 St.Ulrich Kirche (14c) 司祭はマイセンから1361に着任した時には既に
礼拝堂があった。 教会の名前は、アウグスブルクの司教を務めた聖ウルリッヒ(BC890
-973)から命名された。
宮殿 | 市庁舎 |
1262 初文書言及、 1286 町として初言及、
1345 下級裁判所の設置、 1349 皇帝カレル4世は市場権・醸造権を授与、
1429 フス戦争で町は破壊、 1460 3門の規模を大拡張、
1623 皇帝フェルナンド2世は橋や舗装の管理権限を付与、
1749 ポーランド王オーガスタスは牛保有特権・毎週市場開催権・橋と舗装特権を付与、
1808 プロイセンの自治体憲法の導入、 1815 プロイセンのザクセン州となる、
1823 最後の大都市火災でほぼ全焼、市門の解体、1945 市長は非戦闘降伏。
見当たらない。
見当たらない。
中央広場は、主にとして2階建ての建物で囲まれている。
市庁舎 Rathas (1780) 元の建物は拡大・改修されカリオンが付けられた。1940焼け、2次
大戦中に簡素な3階建ての市庁舎が建てられた。
昇天教会 Himmelfahrt Kirche (13c) 司教ウィテゴの時代の教会は、1429フス戦争で焼け、
1440-45残った塔にゴシックの教会を再建した。その後何回も修復され、1823塔頂
は玉ねぎ頭となった。それも火災に遭い、1846-47今の塔の姿になった。1723に
3人の彫刻家が作ったバロックの祭壇がある。
イーグル薬局 Adler Apotheke (1854) 1823大火で焼け、1854に3階建てで新築された。
家の持ち主が変わり、1854薬剤師が取得し薬局を開業した。1904バイエルン様式の
外観で再建した。1993前面は1904の様式に復元され、今も薬局は営業している。
ヤクベッツ病院 Jakubetz Stift (1780) 慈善病院として建てられた2階建てのアーチ天井の建
物である。1953-64内部は改造されている。1788-1832町の学校として使われ、
今はデイケアセンターを収容している。
十字架教会 Kreuz Kirche (1780) Jakubetz Stiftの教会として、1780火災後に再建さ
れたバロックの建物である。
市庁舎 | マルクト広場 |
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
市庁舎 | デッサウ塔 |
ケーテン門 | 西壁 |
西壁 | ニコライ教会 |
フェリー |
12c 城が初言及されたが1121焼失、1270 直角に区画された方形の町とした、
1300 30haの方形の町を 4市門・14塔のある市壁で囲んだ、
1355 ザクセン公爵ルドルフは ドイツ騎士団長の館を設立し1717まで存在した、
1541 宗教改革の導入、 1680 ブランデンブルク公国の帝国直属都市に、
1701 プロイセン公国に属した、 1790 プロイセン軍の駐屯地になった、
1806 ナポレオン軍に敗れ、1807エルベ以西はヴェストファーレン王国としてナポレオンの弟が支配、
1815 ウイーン会議でプロイセンに帰属、 1881 舟運で栄えた、1889-91港湾整備、
1945 第2次大戦の空襲からは免れた。
珍しく四角な町を、それまで守って来た木柵に換えて、1300-12に市壁が築かれ
堀と土堤で守った。19c初めに撤去されたが、約7割の市壁は残された。
14cの4門は夏10時冬9時にオーク材の扉が閉じられた。その後通用扉を開けるために
は、15ペニーを払わなければならなかった。
デッサウ門 Dessauer Tor (1608) 東、8m角・壁厚1.65m・4階建ての門塔。塔頂に
コウノトリの営巣が見らえる。
ケーテン門 Koethener Tor (1288) 南、1551から今の姿になった。1960塔の両側
に時計が付けられた。下の部分は中世からの部分で、その後上の部分がルネッサンスで
継ぎ足された。
城門 Burg Tor (1288) 現在の4階建て角塔の姿は1500からの物で、3塔と
も1994-96に大規模修復が行われた。
エルベ川の南岸に、まだ多くの市壁に囲まれた町が有り、木組みの家が残っている。
対岸からは林立する門・市庁舎・教会の塔が見られる。
市庁舎 Rathaus (13c) 古い市庁舎は大火災はで1485に破壊された。1490に
実用的で頑丈な2階建ての建物を新築した。1609更新、1907拡張され、直交する
2面に切妻のある屋根。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1265) 当初通商路の礼拝堂として設立され
1270参事会教会となった。1316エルベ川の洪水被害後、1317-35拡張修復した。その
後ゴシックの聖歌隊・3階建て双塔が付けられ、3廊の天井はゴシックとなった。
1884-92ネオゴシックに改装、1945から構造劣化で1983閉鎖された。その後新教教会とし
て修復された。
聖マリア教会 St.Mrien Kirche (1188) 1484大火で焼失し豪華な内装で再建され
た。市民・商人・職人の教会で、1540改革後プロテスタント教会となった。1975に使用を断
念され、1992から改修された。
古い木組みの家
Nieman Haus (1584) Koethen str.41 大邸宅で入口に年号と所有者の碑文がある
美術館で入口扉飾りと真鍮製のノッカーが見られる。
Haus (16c) Koethen str.30 木製の切妻は草の模様で埋められ、リビングには16c
の漆喰がある。門扉はバロック。
遺産博物館 Museum 舟運と港湾の歴史・町と地域の先史時代からの歴史、屋外
段塔が付けられ、18c後半には拡張が行われた。今は地方裁判所として使用。
市庁舎 | デッサウ塔 |
ケーテン門 | 西壁 |
西壁 | ニコライ教会 |
780 ヴィークベルティ教会のAlstedi村を初言及、890 修道院と城が記述された、
935-1200 ハインリッヒ1世が憲章に署名し帝国の王宮へ、12-14c 貴族アルステートは本部を、
1323-48 マンスエルト伯爵は近接の市場町設立、1425 都市権を授与された、
1496 貴族ケアフルト家断絶後 都市とした、 1515 フェアの特権を付与され取引の中心、
1568 新学校開設、1570ブドウ栽培の振興、17c 30年戦争で課金された、
1652.1657 火災でほぼ焼失、1681 ペストで人口半減、18c 都市の権利を失い村へ、
1776-82 ゲーテは事業のため訪問、 1834 法的に都市となり市壁は取崩した、
1851 砂糖工場、1885麦芽工場、1980金属加工工場、 1918までチューリンゲン、
1920まで ザクセン公国とワイマール自由都市、1945 空襲後占領、ザクセン州へ、
1990 ザクセンアンファルト州へ。
14cの市壁は、1834の都市化に伴い取崩され、町の西半分に残った。
堀と土堤で守った。19c初めに撤去されたが、約7割の市壁は残された。
見当たらない。
大きな宮殿が残されている。
市庁舎 Rathaus () 前面ゴシクの階段塔の上に鐘楼が乗っている2階建の建物には、
古い帝国の鷲の紋章とザクセン選帝侯の赤い剣があり、ドアの上には町の紋章
も掲げている。会議室には見事な木彫がある。
ヴィークベルティ教会 Wigberti Kirche (8c) 神聖なヴィークベルティに捧げられ、古くからの
木造の教会は1200弓のような窓の付いた頑丈な石造の建物で再建された。
教会の塔は修復され登る事が出来る。月の第1日曜日には聖堂の展覧会がある。
聖ユハネ教会 St.Johannis paptistKirche (17c) バロック石造の身廊に低い大きな塔が
あり、ランタン鐘楼が乘っている。広い内陣の後ろに網目模様に豊富な花や果物
の模様で飾った説教壇がある。教会評議会員と監督の絵が広間を飾っている。
町粉引所 Stadt Muehle (19c) 1997にミル技術の復元を始め、1998水力発電所の再開、
1999水利権を得て、水車の運転を始め、歴史的ミルの稼働を行った。
宮殿 Schloss Allstedt (10c) 町の北東1kmに、オットー2世の下で多くの皇室と帝国
会議がここで行われた。何世紀に渡って改修され、1188フレデリック1世はドイツ
最後の帝国会議を開催した。1776-82ゲーテも何回かこの城に滞在した。1989
中心のブルグは博物館と文化の中心となった。
アルステッド宮殿 の入口は、四角塔が立ち、周囲は城壁と城の建物で囲まれている。
入り口を入って左にVorburgがあり、右側には2階建の各種建物群が長方形に
大きく建てられている。入口から北に正方形に囲まれたブルグがある。
宮殿博物館とブツグ・ケラーで使われている。
市庁舎 | 鳥の井戸市場 |
円型塔 | カラス塔 |
聖ヨハネス塔 | 塔 |
壁 | 壁 |
壁 | 壁 |
753 フルダ修道院の贈り物の文書に初言及、 11c アルブレヒトは町を行政・司法の中心に、
1266 ヘンリー2世は都市の憲章を授与、 1322 オットー2世は市壁の建設許可、
14c 町は市壁と堀と門塔で守られた、 1326 商業的利益からクエトリンブルクと同盟、
1446-70 現存の市壁が築かれ、16cに補強、1426 ハンザ同盟に加入、1518まで、
1525 農民戦争が始まる、 1528.1566.1625 ペスト流行、
1618-48 30年戦争でスエーデン軍の略奪、 1760 仏軍の占領と略奪、1792プロイセンへ、
1807 ナポレオン軍が占領、 1813 プロイセンのザクセン州となった、
1940-45 航空機工場と町が空爆大被害、 1945 4月米軍のち英軍、7月赤軍へ。
14-15cの市壁は、全周2.1kmあり、リングに沿って緑地がある。市壁は高さ8m・厚さ
1m、堀幅は22-26mで4-6mの水深がある。壁には2.5m間隔で様々な形の銃眼がある。
木製の壁上通路は僅かしか見られない。戦時には市民は防御に動員され、加えて武
装した雇い兵を町の隊長の下へ提供しなければならない。火器の発達により、市壁
の防御機能は失われ、交通障害の増大もあり、18-19cに部分的に取り壊された。
初めは51塔あったが、まだ15塔が様々な形で残され、5門のうちヨハネ門の内門のみと
その他2が残っている。
ヨハネ門 Johannis Tor (1380) 北、高さ42m側門付きの角塔で、屋根には4小塔が
立つ。前門は1571に建てられ1861に取除かれた。堀橋の外側にあった区分門も
1850に壊された。
ハインロッヒ細塔 Turm Schmaler Heinrich (1442) 北、ヨハネ門の近くの高さ32mの角塔。
ヨハネ遊歩道塔 Turm in der Johannis Promnenade (1442) 北西、昔32mの高さは
今11mの角塔で、屋根には4小塔が付いている。
カラス塔 Raben Turm (1442) 北西、高さ31mの角塔で、登頂には胸壁と帽子が付い
ている。保存状態は良く、名前は絞首台の近いために付けられた。
大円型塔 Rondel (1507-83) 南、高さ23m直径17m厚さ3.5-4mの大砲が装備され
た円塔で、木材の床はギルドによって1846に作られた。
愛妄想塔 Lieben Wshnscher Turm (1442) 東、高さ27.5mの角塔、高さ13mの門
は1437に造られ1811にこわされ、高さ23mの前門は1767に壊された。
ロンデルの西の塔 Turm Westlich des Rondels (1443) 高さ30mの角塔。
エリザベート・ツインガー側の殻 Schale am Elisabeth Zwinger (1441) 高さ7mの半円形、
エリザベス歩道に沿った殻。
火星原前塔 Turm vor dem Marsfeld (1443) 北東、高さ26.5mの角塔。
麦芽工場防備 Befestigte Malzmuehle (1419) 西南、高さ8mの町の防備のため
の施設でもあり、水を引いて2階建ての粉挽水車と麦芽工場があった。
高い靴下塔 Hoher Stumpfer Turm (1440) 西南、高さ23mの角塔で地下に牢獄。
麦芽工場東殻 Schale Oestrich der Malzmuehle (1440) 西南、高さ11.5mの円塔
麦芽工場西四角殻 VierEckige Schale Westlich Malzmuekle (1440) 昔は32m、
今は高さ11mの角塔。
麦芽工場西四角殻 Rund Schale Westlich Malzmuekle (1366) 西南、高さ10m。
裁判所側の先端要塞 Spitze Bastion beim Gericht (1436) 西、高さ10mの
ツインガー前面要塞の小門。
裁判所側の大殻 Grosse Schale beim Gericht (1436) 西、高さ12mのツインガー前
面の4/5円塔殻。
ルイゼン遊歩道ツインガー Zwinger in der Luisen Promenade (1461) 西、高さ10mの
円型の張出し。
ルイセン遊歩道の四角殻 VierEckige Schale in der Luisen (1461)西、かって32m
の角塔。
観光歩行者誘導の3ルート(建築物・町の防衛・公園)が石碑・パネルで表示されている。
15cのゴシックの建物がおおく、1市門15塔2稜堡と市壁、19cに堀を埋めた公園もある。
市庁舎 Rathaus (13c) 古い市庁舎は教会広場にあり1511に爆発、1798に取り
壊された。1715-18新しい市庁舎が建てられ、その後に主塔が付けられた。1730に
黄色に塗られた新しい窓が付けられた。1885周辺の土地を町が購入し2階建て別館を
増設し、1935市場側に拡張した。南側の階段塔は4つの床に伸び、西に時計塔がある。
灰色の館 Grauer Hof (1309) 最も古い世俗的な建物で、中庭には灰色の服を着
た僧侶が常駐していた。修道院の農園として管理され、主な建物は石造であるが、西
側に市壁のある不規則な木造の上部工の2階建ての建物もある。外側の門は2アーチで内側
の尖頭アーチにつながる。今は町の文化施設として使用されている。
クルマンの家 Krukmannsches Haus (1572) 商人の家で、ルネッサンス上層木製の3階建て
主門のアーチをを通って中庭に入る。角は円形の出窓で飾られ、中庭からのみ見える16c
初の塔には階段がある。
ビアハウスレデラー Bier Haus (1512) 古いルネッサンスの宿の建物で、1774-1802
に詩人が住んだ。
聖ステファン教会 St.Stephani Kirche (15c) ゴシックのホール教会。1406-1469高さ82mの
塔、1480-1507身廊。当初は2つの塔が在ったが、砂基礎のため北塔は中断され、南塔
は定期的に傾きを確認している。
聖マルガレーテ教会 St.Margarethen Kirche (1250) 30年戦争で教会が破壊された
後で、1715に再建された。
フランシスコ会修道院教会 Franziskaner Kloster Kirche (1280) マルクトのフランシスコ会修道
院の教会を、新教の聖十字架教会として使われている。
水車 Wasser Muehle (1357) ロンデアルのある堀の南のWasserVorstadtにあり、橋桁
の壁で守られ、今は1992-93に改装され、若者のクラブとして使われている。
肉屋台 Schafl (17c) 聖ステファン教会につながる小さな路地に、2つの古典的な柱廊
があり、ここで1724肉の屋台が置かれ、19c肉屋が自社製品を展示販売した。名前は、
中高独語で肉屋屋台の意味である。
市博物館 Stadt Museum 町の歴史(創設・要塞・中世の遺物・農民戦争・手工業・
工業化)、先史(新石器時代・青銅器・鉄器時代)、古生物(化石・4mの竜魚)。
犯罪ロウ人形館 Kriminal Panoptikum (1896) 1982まで旧市街の刑務所で使われ、
その後20年間空いていたが、2003に再構築して、市内の犯罪ロウ人形館と共に、犯罪
博物館となった。凶器・拷問道具・歴史的刑務所施設・調査道具・ヘルメット等多くの珍しい
物が見られる。
市庁舎 | 塩水搭 |
12c 岩塩鉱山の採掘、 1291 町の市壁の建設、 14-15c 市壁の包括的な改修、旧市庁舎の建設、
1680 町はマグデブルクのブランデンブルク・プロイセン公国へ、 直轄都市として公国が直接支配、
1756-65 Gradierwerk 1837mの流下式塩水濃縮装置の建設、プロイセン公国最大の国営企業、
1802 ドイツで最初の塩水スパの開業、 1926 Gross Salze市はBadSalzmen市に改名、
1946 Schoenebeck市に併合された。
14-15cの市壁が残っているのは、北西のMauer Str.、西のPfaenner Turmの北、南のDr.Dorberg
Str.沿い東側町外れである。
プフェナー搭 Pferner Turm (1291) 中世の都市要塞の一部で、切石造3階建の四角錐屋根
の角塔で上階からのみ入ることができる。Elmener Torの塔として包括的な改修が1470に行われ、
シャデレーベン城の整地もこの改修に含まれた。 このエルメン門は二重門で門の中庭の堀に橋が掛けられ
ていた。プフェナー塔は門に隣接して刑務所として使われた。1880に門は全て取壊され、プフェナー搭だけ
が残された。一部市壁の残骸も残されている。1945に塔は住宅として使われ、守衛詰所は1961に取
壊された。1994に塔は大改修が行われた。 搭には、ツアーで入場できる。
塩水搭 Sole Turm (1776) 荒石の6階建で、高さ72mの上に向かって先細りの丸い塔はオランダ
風車の躯体である。風車で85mの地下から塩水を汲み上げていた。1792に40馬力の蒸気機関が設置さ
れて、風車の羽が取外された。今この塔はクンストホフザルツェルン博物館の一部で、技術設備も修復され、塩
ボイラーも置かれている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1400) 旧市庁舎の南部は古く、北部は1536に追加された。
18cに階段切妻と黄金のボイラーバスケットのある前面が建てられた。同時に2階建の鉄塔のあるサドルが追加
された。1428の時計今も鳴っている。1913にネオネオルネッサンスの市庁舎が追加された。1932にシェーンバックへの
併合がなされ、市庁舎は移転した。1954に設立された博物館がこの庁舎に収容された。
ザルツラント博物館 Salzland Museum (1924) ザルツランド地区の博物館として、カールリーブネヒト学校
に設立された。主としてザールラント地区のエルベ・ザール川での塩の取引と内陸水運についての展示がある。
1954にザルツエルメンの旧市庁舎に移り、展示を拡大した。2011に地区博物館からザルツラント博物館に改称さ
れて展示は更に拡充した。
シャデレーベン城 Burg Schadelebeh (1310-19) マグデブルク大司教ブルカント3世は14cに城を建て
1533と1804に拡充した。1874に城は3階建の住居部分を除いて取り壊された。1806にネイ元帥が占領し
て病院に改築した。 中庭には守衛詰所と1961からの老人ホームがある。
聖ヨハニス・バピティスタ教会 St.Johannis baptista Kirche (15c) 後期ゴシックのホール教会で多
角形の後陣は17本の支柱があり、高さは中央身廊と同じ15mです。二つの塔のある巨大な西側の建
物に繋がっている。
1635の火事で内壁は焼けて、17c後半に内部はバロックで再設計された。中には、1675の高さ12mの高
祭壇 1275鋳造の鐘があり、塔の高さは52mあった。
グラディアヴェルク Gradiar Werk (18c) プロイセンが構築した長大な塩水流下式濃縮装置で、クアパーク
の鉄道沿いに1323mの大木造構造物であり、1837mに延長された。塩シャフトが完成して地下採掘
でのブライン抽出の噴霧プロセスに移行して、経済性を失った。今でも300.4mが残り、見張塔には時計台
と塩水抽出用の旧風車のレプリカがあり、ガイドツアーで登ることができる。
市庁舎 | 水郷門 |
1150 フラマン帝国の植民地として教会のある村、 1206 初文書言及、
1350 町は都市権を授与された、 1454 レンガ造の新教会の建設、
1490 市民権が与えられ新市庁舎建設、 17c 30年戦争で市庁舎破壊、30年後再建、
1700 ザクセン選帝侯は駐屯地に、 1815 ヴィッテンブルク王国に属した、
1878 駐屯地の廃止 、1878泥浴槽を設けスパ予定都市になった、
19c カイザー・バスの創設、 1908 アールヌーボーのスパビルの建設、
1925 市名にBadの呼称が許された、 1945 戦災は受けず ザクセンアンファルト州へ。
14cの市壁は今は殆ど残っていない。西側の公園通の南端と北部に痕跡がある。
水郷門 Au Turm (1490) 北門は2階建でアーチ門の上に塔と見張り所がある。門は東に伸
びる大きな建物につながり、その地階に歩行者の通路がある。
カイザー・ヴィルフェルム塔 KaiserWilhelm Turm (1910) 南西の標高208mの山中に立つ4階建の観
測角塔である。
市庁舎 Rathaus (1570) ルネッサンス2階建の基礎壁が高く正面に屋外階段がある。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (14c) 以前の教会が1429に壊れ、1453-54にレンガ造後期
ゴシックで再建された。1640天井が崩壊し、1666-81に復旧された。修復は1905.1991
.1997-98に行われた。後期ゴシックの塔は1806と1904に更新された。1813-16ヴィッテン
ベルク大学の大学教会であった。1731後期バロックで改装された。
住居 Wohnhaus (1619) 前面ルネッサンスの建物。
住居と商店 Wohn und Geschaeft Haus (16c)中庭に2階建てのアーケードを持つバロックの建
物。
牧師館 Pfarrhaus (1563) ルネッサンスの建物。
サナトリューム Sanatorium AltesKaiserBad (1896)公園にあるルネッサンスと後期古典主義の複合
入浴施設。
都市農民の家 Ackerbuergerhaus (16c) ルネッサンスとバロックの建物。
住家 Wohnhas (16c) ルネッサンスの建物。
市庁舎 | 市場塔 |
上中庭 | 南壁 |
西壁 |
1030 町の伯爵Esicoの文書に初言及、 1043 Esico伯爵は城山に修道院を建立、
1170 ブランデンブルク辺境伯は修道院教会に埋葬、1512 アンハルトの侯爵は醸造権を付与、
1525 農民戦争で修道院は破壊された、 1543 都市権を授与された、
1623 30年戦争で帝国軍は町を占領、 1665 30年戦争がバーレンシュタイン軍が略奪、
17-18c 城山の修道院は改築された、 1765 アンハルト・ベルンベルク侯爵は宮殿を置く、
1863 侯爵家の絶滅後デッサウ家に移った、 1900 アンハルト公の狩りの副宮殿、1918まで、
1946 アンハルト公家族の住居、 1945 2次大戦後に産業団地で経済発展。
市壁は町の南側に点々と残っている。町中にも古い境界壁が多く見られる。
マルクト塔 Markt Turm (15c) 5階建て石積四角塔で時計付四角錘屋根。
17-18cの木組みの家のある旧市街地から、大通りを0.7km西に行ったの丘に、
大庭園と宮殿棟が築かれ、各種文化施設となっている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1683) 木骨造の建物で、伯爵パウリ図書館を収容し1万2千点
の王宮資料と18千点の町の資料が集められている。
市庁舎 Rathaus (1906) 3階建て白色の正面破風の建物で屋根の頂上に時計塔がある。
聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (1326) 単塔石積の後期ゴシックの教会で、1498に焼失し、
1501に再建された。
バレンステット宮殿 Schloss Ballenstedt (18c) 旧市街地の西0.7kmの山上に、修道院の残り
と、宮殿群がある。
宮殿 Castle Bellenstedt (18c)バロック3翼の宮殿でアルハルト・ベルンブルク侯爵の王子の住居と
なった。11cからの旧修道院の一部を反映し、南翼と西翼を公開している。
映画博物館 Film Museum 北翼に映画館と映画史を収容している。
城劇場 Schloss Theater (1788)ザクセン州最古の劇場で、1992-2005に大改修された。
宮殿庭園 schloss Parks (1858.1962) 29haの広大な公園には、噴水・樹木・パビリオン・
工場が整備されている。
厩舎 Marstall (1810) かっての厩舎を改修して食堂としている。
宮殿教会 Schloss Kirche (11c) 旧ロマネスクの教会の塔が現存している。
市博物館 Stadt Musium ヴィルヘルム王博物館、住居として伯爵王子の部屋、ヴィルヘルム王
の部屋、入植地と文化史、鉱業と治金、健康と生活等の展示。
市庁舎 | 聖ヨハネ教会 |
マグデブルク通 | 橋門 |
広い門 | 東南壁 |
東壁 |
961 皇帝オットー1世の文書に初言及、 古高独語で名は木のある川の曲る村の意味、
13c 町は5市門の市壁で囲まれた、 1497 帝国の郡となりバービィ伯爵に属した、
1540 ルターの改革を導入した、 1659 最後のバービィ伯爵死亡バイセンフェルス公へ、
1637-1715 息子ヘンリィは城を建設、 1660 魔女裁判が行われた、
1747 新教説教神学校を開設、 1806 仏軍はバービィでエルベ川を渡った。
市壁の2003に改修されたエルベ川側の部分は洪水対策として役立っている。
南や西側にも市壁は点在している。
広い門 Breite Tor (13c) 南東門の跡に、石積みの壁が復元され、門の
絵を描いた説明板がある。
小公子塔 Prinzesschen Turm (1570) 木製の塔を備えた北端の要塞塔であ
った。バロックのドームとランタンがある八角形の茶室のがあり、ロココの色彩豊かな壁画
と天井画がある。
丸塔 Rund Turm (15c) 町の南西端の川沿いに6角錐屋根の円塔がある。
市庁舎 Rathaus (12c) 何回も改修や拡張が行われ、今は高基礎の2階
建の建物で、地階に屋外両階段があり、正面にベランダがある。町の紋章付きの
三角屋根の上にはコウノトリの巣台がある。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1264) フランシクコ会修道院教会として、長さ
40m幅10m石造ゴシックの町で最古の教会である。北側に回廊があったため東端に一
つの窓しかない。南側の前面には地上3mの12のアーチ窓がある。14cに火事で損傷し
たが領主グンター2世によって修復された。改革導入で修道院が解散され、1659教会
に転換された。1886と1937に修復された。1994屋根を改修。内部には1271からの
墓碑・14石造のキリスト像・1570木製のマドンナ・1588-1820重要牧師絵画がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 初期ゴシックの細長い42.5m×9.7mの建物
が初めに建てられた。1505正方形の西塔が付けられたが、50年後に崩壊し1565-
71に高さ49mで再建された。1683通路と東聖具室が加えられ、1719屋根の修復、
1990天井倒壊で閉鎖、1995大改修。
バ-ビィ宮殿 Schloss Barby (10c) 初め国境の要塞があり、961皇帝オットー2世
は女子修道院長の姉マチルダに与え、バービィ家に城をゆだねた。1880バービィ家の断絶
後バイセンフェルスのハインリッヒ伯に移り、1687バロック3葉の新宮殿を建てた。1739南翼は焼失
し再建されなかった。1746バイセンフェルスの断絶後、ボヘミアが城を取得して神学校とし
て使った。仏ヴェストファレン王国時代に軍病院となり、1815プロイセンの穀物倉庫、1855
教員養成大学になった。1945ソ連軍病院、1959-79外国移住者寮、1979ザクセン・アン
ファルト州土地登記簿収蔵。2006改修改造された。
エルベザール病院 Elbe Saale Klinik (1995) 大規模な施設を備えたリハビリテーショ
ンクリニックが建てられた。
市庁舎 | 城教会 |
塔 |
961 オットー1世のサンモリッツ修道院証書に言及、1138 ザクセンに包囲され焼き払われた、
1150 アルブレヒト・ベアは城を再建した 13c 山と谷に市街があり別の壁・堀で守った、
1245 領主ベルンハルト1世が即位、 1278 領主ベルンハルト1世は2市街に都市権授与、
1326 城の下に山の町が生まれた、 1410 2市街は合併し防御を固めた、
1539 領主ヴォルフガングは王宮を置く、 1561 山と谷の町を結んだ。
1597-07 ペストの流行、 、 1636 スエーデン軍 1640ザクセン軍が占領・略奪、
1713 プロイセンと最初の契約郵便局設置、 1808.1813 仏軍の占領、
1825 山と谷の町は合併、 1918 アルバート公の退位、1936 駐屯地に。
1945 4月米軍占領、7月赤軍進駐。
15cの市壁は、Talstadtの新市街地の西側に240m残る。
ニーンブルク門 Nienburger Tor (13c) 谷に町の創設時から門塔が在った。この
5階建ての角塔は、東側の古い町との境界にあり、元は出入り口のある羊番
の塔で、家畜を牧場に出すために設けられた。15cの新築後は新塔と呼ばれた。
オイレンシュピーゲル塔 Eulenspiegel Turm (13c) 城でも目立つ強大な切妻付の壁厚
3mの塔は、城の最後の避難所であった。高さは44mで広い視野を見張人に提
供した。1640警備員として勤めたといわれるオイレンシュピーゲルの名前で呼ばれた。
ウサギ又はコウマ塔 Hasen oder Fuellen turm (13c) 町の創設時から門塔があり、
北側の古い町の境界であった。仔馬の名前は、馬飼いによる牧場への仔馬
の放牧から、ウサギの名前は塔の風見の形から呼ばれた。1408の大洪水の後、
15cに今の3階建ての円塔は建てられたらしい。
ケスラー塔 Kessler Turm (1913) 1813のライプチヒ諸国民の戦いから100年後に、この
塔の落成式があった。この塔は工場主テオドール・ケスラーの名前を付けられ、展望
台として建て、サーレの町に贈った。この塔はフリードリッヒ斜面の上のIlberstedter
通に立ち、保養地域「クレムブ森」の一部である。
ザーレ川の左岸の谷の町Talstadtと 右岸城の麓に山の町があり、それぞれに
見所がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1461) 侯爵ベルンハルト4世は山上の居酒屋の隣に町の議会
の大きな家を二つの町の共通の市庁舎として贈った。すでに1443には居酒屋は
開かれていた。市庁舎のルネッサンスの建物は、中世の基礎の上に新設され、何度か
焼失し再建され、1570今の姿になった。1825谷の町との合併まで城町の市庁舎
であった。1950新設の自由教会が置かれ、それ以来教区会館として使われた。
市庁舎Ⅰ Rathaus (17c) 塔のある石積の建物と歴史的な御者の木組みの家とが
あり、1895から市庁舎が置かれた。
アンスバッハ産のタイルで飾られた鏡の間、陶磁器の装飾品や金塗の木工細工のある鏡の
間、居間にあるホーエンツオーレルン家の肖像などが見られる。
市庁舎Ⅱ Radthaus (1532) ヴィクトル・フリードリッヒの摂政政治の間に1756から城の乗馬
学校として建てられた。1824改築・拡張され、1878アンハルト国は宮殿を買った。
1919-21アンファルト国の郡庁Ⅱとして改築された。今は市庁舎Ⅱとして使われている。
ベルンブルク宮殿 Schloss Bernberg (961)ルネッサンスの宮殿はザーレ川の東岸の崖の乗馬
乗馬建てられ、アンファルト。ベルベルク侯爵の居城となった。12cに高いロマネスクの天守閣が付
けられ、その後にオイレンシュピーゲルの塔として有名になった。16cに壮大なるルネッサンス
の宮殿に変えられた。1567-70ルネッサンスの棟を形成し、城の前の堀にヒグマが19c中
まで住んでいた。
宮殿教会 Schloss Kirche St.Aegidien(12c)ロマネスクのバジリカで、様々な様式が
並置されたいる。1762バロクで再建、1756オルガン、1625後陣に2階建ての墓礼拝堂
が付けられ、ルネッサンスやバロックの侯爵家の棺がある。
宮殿博物館 Schloss Museum(1893)考古学・鉱物学・自然史・貨幣学・現代美術
・工場文化・居住歴史等の展示がある。
聖ニコライ教会 St.Nicolei Kirche (1240) 谷の町の新市街の教区教会であり、13c
の聖歌隊・北通路・身廊の壁が生き延びている。15c後期ゴシックのヨハネの木版画。
1966-68大規模な内外の改修が行われた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (965) 谷の町の古い教会で、1228ゴシックの教会
となり、主要ポータルや後陣は1460-1500の物である。
旧マリアしもべ修道院Ehem.Marienknechte (1308)谷の町の新旧市街の外側にゴシック
の建物があり、聖母のしもべ会修道院は1526宗教改革で世俗化され、1535精
霊病院になった。修道院は30年戦争で破壊され、17cに病院は聖ヨハネと改名した。
1997から大学の応用化学科として使われた。
最古の家 Alteste Haus(1550)谷の町の旧市街のマルクトに在り、美しい木彫飾の
木組の家である。この建物は1979に取り壊された軒家の木製の部材を使って
1982にこの場所に、元の姿では無く新築された。
谷の町市場 Talstadt Markt (1278)ベルンハルト1世は、谷の町の新旧二つの市街に
都市権を与えた。旧市街のマルクトに最初の市庁舎が1384に言及され、1746には政府
の建物も建てられた。マルクト周囲の建物はルネッサンス・バロック・アールヌーボ・新古典主義と雑多
な様式の前面を見せている。
緑薬局 Gruen Apotheke (1775) 谷の町の旧市街のブライト通に、火災の後に薬剤
師によって建てられた2階建の古典的な形の民家である。
旧侯爵事務所 Alte Fuerstliche Kanzlei (16c) 谷の町新市街のブライト通にルネッサンス
の屑石積の長屋で、1749バロックに改築された。この事務所は1746までアンハルト・
ベルンブルク侯爵の地方行政の場所であった。
市庁舎 | 北壁 |
南壁 |
1123 最初の文書言及、 1133 ブランデンブルク貴族Poppos侯爵が支配、
1182 バルベローナ皇帝に城下町は壊された、 1305 市壁1.55kmが存在した、
1384 ベルニゲローデの伯爵が攻撃した、 1425.1836.1847 町を大火が襲う、
1525 農民戦争で町に侵入、 1618-48 30年戦争で6回も占領された、
1651 ボルフェンビュッテル公国となる、 1707 郡公国になり、工業・治金で栄えた、
1807-13 ヴェストファーレン州のバンケンブルク公国、 1814-24 仏ルイ18世の占領、
1815ブランデンブルク州となる、 1877 プロイセンに所属アンハルト州へ、
1945 2次大戦で大部分は破壊、4月に米軍、7月に赤軍進駐。
1305に市壁が1.55km在ったが、今は20mしかない。城の壁にも痕跡は有る。
聖カタリナ塔 St.Katharien Turm (13c) 南、4階建ての角塔で、1936から市の博物館
となり、城や町の住人・民兵の歴史的な展開・彫刻・祈りの文書の展示。
15cからの木組の家が多く残り、18cのルネッサンスやバロックの建物が市壁内に見られ、
市壁外にネオルネッサンスやネオバロックの建ものが在ったが、2次大戦で多くが破壊せれ戦後
の建物になった。
市庁舎 Rathaus (1442) 中央の切妻・隣に入口の5角塔・屋根の上には時計塔がある不思議
な形の建物である。1584時計を付け、1738時計塔・入口・屋根を更新。1870バルコニィ
のための保全対策が行われた。マルクト側には3紋章がある。
大宮殿 Grosse Schloss (1122) 305mの山頂に立つ要塞が宮殿となり、ヴァンケンブルク侯爵
が住んだ。16cに3翼のルネッサンス宮殿となり、市壁に接続し礼拝堂もあった。1546の燃
やされた古い城の上に、1705-18バロックの外観は単純であるが内部には美しい広間や
チャペルのある建物になり、ブランデンブルク公国の皇帝が住んだ。
小宮殿 Kleine Schloss (1725) バロックのテラス公園と砂岩の彫像のある宮殿で、今は14の展
示室やホールのあるはくぶつかんとなり、ブランケンブルク侯爵の宮廷生活・庭園の歴史・町
の貿易.産業.工芸品等が展示されている。
聖バーソロミュー教会 Burgkirche St. Bartholomaus (12c) 町の教区教会としてロマネスクで建立
された。13cシトー派修道院による早期ゴシックの教会となった。15c農民戦争と宗教改
革で修道院は停止され、再教区となった。1712バロックの祭壇壁を侯爵が設立した。
職人宿博物館 Herbergs Museum (1684) 木骨造の家で1887-1916に職人宿であった。
ドイツ唯一の歴史的な職人宿博物館で、中庭・厩・台所・食堂・泊部屋と巡礼に関する展
示がある。
ルーンの家宿屋 Runen Haus (1750) 2階建ての美しい木骨造の建物で、19c改修後に隔離
病棟となり、1995幼稚園として使われている。
木造絞り器 Baumkelter (1618) 1999にワインの絞り器を購入し屋根を付けてワイン博物館の
庭に展示している。
市庁舎 | 市壁と壁搭 |
948 古い交易路上の市場町として言及、12c フランドル入植者は布で洪水を防ぐ、
13c 新たな防備壁と塔で守りを強化 1359 大火災で町の3/4を焼失、
15c マグデブルク大司教は城を拡充、 、 1644 戦争・略奪・破壊で町は崩壊、
1689 ブランデンブルクはプロイセンへ町を売却、 17c 仏ユグノー移民で工芸品・衣服を生産。
13cの市壁は東北・北東・北西・西に見られる。東から南のプロムナーテにも痕跡は有る。
ベルリン門塔 BerlinerTor Turm (14c) 東の防衛塔で、旧30要塞塔の唯一の残り
のレンガ造5階建の円塔で、2001改修が行られ、結婚式・読書会等に使用。
牡牛塔 Kuh Tor Turm (15c) 1530には言及されたが、以前から塔は存在した。
北東のレンガ造3階建切妻屋根の角塔で、外国人住居や刑務所として使われた。
市壁内の住民は放牧地へこの門を通って家畜を放牧した。
魔女塔 Hexen Turm (11c) 3階建円錐屋根の円塔で、今は階段が付けられた。望楼
と防備に使われ、付近には市壁が残る。女性刑務所として使われ魔女の名前
が付いた。
給水塔 Wasser Turm (1902) 赤レンガ造の美しい円塔で、町の最高地点に立つ。
400m3水槽を持ち、塔では町・農業・園芸・塔の産業史についての展示がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1263) 旧市庁舎は登記所となり、儀式に使われている。
上階は市議会の事務局であり、大評議会室では市議会の催物がある。建物は
①1263ロマネスク小ホール、②1550新ルネッサンス、③1702バロックの改造、④1843三階建て
の建物。
上部教会 Ober Kirch (1186) 聖母教会とも呼ばれる石造ロマネスクの教会で、火事の
後にゴシックで再建された。西側の双塔は別々の帽子を被っている。
聖ニコライ教会 St.Nicolei kirche (1161-86) 下部教会、ロマネスク花崗岩造・西双塔の
あるT字型の大聖堂で、エルベの東で最大のロマネスク・バジリカで装飾はシンプル。17c
の説教壇と壮大な碑文がある。
住居 Wohnhas (16c) ベルリンフィー通に1589の言及がある。町でも古い木組2階建の建物で、
木組の前面の装飾は特徴がある。1835から牧師と教師の住居であった。
2007に全面的に改修され市図書館になっている。
革ナメシ屋 Gerberei (1450) 構造的に古い木組2階建の家で、高ラック家として構成され
基石から屋根に柱が通っている。今はなめし革の技術的なモニュメントとして、
全ての危機が備えられ、今でも稼働できる。水曜日の10時と15時に実演がある。
ローランド広場 Rolande Platz (15c) この町はザクセンアンファルト州の14ローラント都市の一つ
である。1519正義と権限の象徴としての木製ローランド像が建てられ、1581石造に、
となった。今のローラント像はギルトハウスに1581-1803固定されていた。ギルトハウスの競売時
分解された。1840宿屋の庭で発見され、ホテル・ローラントの西ファサードに挿入された。
1990ローラント像は再構成され、町の真ん中柱の前に立っている。高さ5.6m重さ12t。
市庁舎 | 街並 |
ローレンティウス教会 | 市壁搭 |
9c初 開拓地があった、 936 国王オットー1世の文書で町として初言及、 1160 市場権授与、
968-1680 マグデブルク大司教区に属し、 マグデブルク大司教は、カルベ城を 夏と2番目の席とした、
14c カルベ陪審の法学者がウエットブックに具体化、 1517.20 95か条の論題を集約、
1634 町役場裏の監視塔は古くから魔女塔と呼ばれた、 1680 マグデブルク公国の直属の町へ、
19c初 布地産業の中心地として経済的文化的最盛期、 1816-1950 プロイセンの地区の中心の町、
1945 カルベ城は焼失し1951に撤去された。
12cに都市権が与えられ市壁が築かれた。1367に大司教は都市を拡張して新たに市壁と塔を追
加した。1842に長さ183.5mのザーレ堰を建設。南側のHinter der Stadtmauerに220mの残骸
があり、並行してSaal Wehr200mが復元されている。北西のBlau Turmに接続して20mの市壁が見
られる。
魔女搭 Hexen Turm (13c) 以前は都市要塞の望楼であった。その後刑務所と評議
会の文書庫として使われ、今が市の文書庫となっている。市の歴史に関する文書の加え、地元作家の
著作も保管している。
青搭 Blauen Turm (19c) 以前は都市要塞の青スレートに覆われた壁塔であった。19cに
郡庁のアパートの中庭に現在の市壁を伴う形で再建された。
ビスマルク搭 Bismark Turm (1904) 1898に死亡した統一ドイツの第一首相のビスマルクを記
念して、全州に義援金で建てられた。州で最高の30mの高さで、標高を加えると151.2mの展望台とな
る。幅4.5m厚さ2mのコンクリート基礎の上に石灰岩の塔が建てられた。西3kmにある。
市庁舎 Rathaus (1876) マルクトの南側に、歴史主義2階建レンガ造の建物で、3軸のパ
ラペットがあり、時計塔には4小塔が付いている。
ローラント像 Roland (1381) 市庁舎の前に、立派なローラント像が立っている。最初のローラント像は
1381にマグデブルク大司教が木製の像を設置し、後に塗装された。2番目の像は30年戦争後の1656-
58に4.2mの木彫であったが、1946-47に焼払われた。1976には、2番目の像を基にしては高さ4.5mの
砂岩で再建された。
聖ステファン教会 St.Stephani Kirche (10c) 高さ57mの双搭のある最大の教会で、初期
ゴシックの砂岩バジリカが後に高ゴシックに変更され、その一部は現在に長方形の後陣として残っている。
1495後期ゴシックの全長58.2m中央身廊の高さ13.7mの大きなホール教会となった。1542に宗教改
革が導入された後に、1659にバロックの祭壇画をかざった。
聖ノベルティ教会 St.Norbereti Kirche (1870) 隣のエリザベート修道院と共に建てられた。
教会は1870に礎石が置かれ、ネオゴシックのレンガ造で十字型の教会が建てられた。
精霊教会 Heilig-Geist Kirche (1948) 商用旅行者のための礼拝所(ニコライ教会)で
あったが、長い間病院の教会として機能した。
12cにこの町に新しい市場が設立された時、経済の中心は新市場の聖シュテファン教会に移った。1204に
病院が設立され、1563に神の恵み修道院が世俗化されて、精霊教会と病院での牧畜の世話を引継が
なければならなかった。1683町の火事で病院の建物は教会の後ろに再建された。近代的な病院は1868
にホスピタル通に建設された。
郷土博物館 Heimat Stube Calbel (16c) 今も営業中の2階建上階木組の古い食堂の
上階で歴史的な展示を行っている。30年戦争で荒廃した建物は、1653に駅馬車商人の市場宿舎「ブ
ラウナーヒルシュ」として再建された。1980と2003に建物の上階を拡張して展示を充実した。
市庁舎 | 教区管区エゲル |
水城 | 水城入口 |
北壁 | 南壁 |
941 オットー1世は砦を築いて道を守った 10-11c アスカン族は北西に新しい町と城を、
1250 ハデマースレーベンの貴族が征服し、堅固な壁で守りを強化し、市場・関税・町の特権、
1259 貴族は妻の要請でシトー派修道院設立し1809まで存続、
1317 町の最初の紋章は盾・ライオン・蛭で1365文書化、市場は評議員審査の後開催した、
市民の内ライセンスを得た84人はエゲルン・ビールの醸造権を有し、ビールは良く売れた。
1680 エゲルンはマグデブルクの直接都市としてブランデンブルク・プロシア公国に属した、
1701 プロイセン王国に渡り1807まで生き延びた、
1816 ザクセン州のマグデブルク行政地区のヴァンツレーベン地区に割り当てられた。
13cの市壁は、北と南に僅か残る。その他に水城の城壁が0.48kmある。
見当たらない。
大きな水城と修道院の間に町がある。
市庁舎 Rathaus (1897) マルクトの中の建物で、今は医者の共同診療所である。
水城 Wasser burg Egeln (10-11c) 新しい城がマルクトの北西に建てられ、1250ハデマースレーベン
の貴族が占領して領主となった。城壁で城を守り、都市権を授与し、1259修道院
を設立した。大司教シュバルツブルクは城を拡張し納屋・厩舎を構築した。30年戦争で
一時スエーデンに占領された。1945国に財産となり衰退した。1993修復して博物館を
収容し、ホテル・カフェも開設された。
保管庫 Speicher () 2階建の保管庫にシアター・セラー・劇場・結婚式場がある。
博物館 Museum (1933) 門の建物の中にある。城と町の歴史と文化を展示。
プロテスタント牧師館 Ev.Pfarrhaus (1581) 2階建上階木組の建物。
修道院と修道院教会 Kloster und Marienstulkirche (1731-34) 修道院は多くの建物
が建て直され修復され、現在の修道院教会は同じ場所での3番目の建物である。
1696修道院修復の最初に古いゴシックの建物を解体して、約2/3の規模でバロックの教
会を建てた。1737マリーの腰掛、メアリの祭壇に1450奇跡のマドンナがある。
市庁舎 | 一次市壁南 |
二次市壁南 | 二次市壁南 |
994 オットー3世の文書に初言及、 10c 市場・鋳造・関税の権利を確認、
1081-84 ルクセンブルク伯ヘンリー4世は水城に居住、 12c 約7haの1次市壁を建設、
1200 銅鉱石の採掘が始まる、 1348 マンフェルト伯が所有、
1480-1520 市域を拡大して2次市壁建設、 1489 大火災後、5年間の免税で足止、
1525 農民戦争で修道院略奪・破壊、 1529ペスト流行、1550ペストで1.5万人死亡、
1601 大火災で253戸焼失、1626ペスト、 1628 30年戦争ワレンシュタイン軍占領、1681ペスト
1701-06 北方戦争でスエーデン軍の占領、 1756-63 7年戦争でプロイセン軍が占領、
1806-14 ヴェストファーレン王国マンスフェルト郡に、 1815 プロイセンのマンスフェルト郡となった、
1945 4月米軍、7月赤軍が占領。
12c中に約7haの第1次市壁を建設し、壁の維持と防衛は市民のギルドが担当し、
門の警備は町の雇い人が務めた。1480-1520市域を周囲に拡大し第2次市壁を建設
した。南側に120mの煉瓦造2次市壁が残っている。その銘板によれば1512.1530に
建設され1858に取崩された。
見当たらない。
マルチン・ルター(1483-1546)の生誕と終焉の地であり、世界遺産としてルターの生家、洗
礼の聖ピーターとパウロ教会、最後の説教の聖アンドリュー教会、死の家などがある。12cか
らの建物が相当残っている。
市庁舎 Rathaus (1519-31) 後期ゴシック2階建ての建物で、両側に高い切妻やルネッサンスのポ
ーチがある。階段下にゴシックの砂岩ポータルがあり、登記所の入口となっている。1874
現在の外観となり、1994大規模な修復が行われた。
聖アンドリュー教会 St.Andreas Kirche (13c) ロマネスクの3身廊の建物に後期ゴシックの塔が付い
ている。新教の重要な教会で、マルチン・ルターが最後の説教を行った。
聖ニコラス教会 St.Nicolei Kirche (1191) 今の後期ゴシックの広間と内陣の建設は1426から
始まった。細い単尖塔がある。1972教会は屋根の崩壊の恐れで閉鎖。
聖ガードルード教会 St.Gertrud Kirche (1914) カソリックのネオゴシックのホール教会は、新Helfta修
道院が1346-1525に在った土地に、1916に奉献された。1928オルガン、1952鐘4基、
1991に63mの塔を持つスレート屋根が付けられた。
聖ペトリとパウリ教会 St.Petri und pauli Kirche (15c) 後期ゴシックノホール教会で後期ゴシック
の祭壇は鉱業の守護聖人である聖アンナに捧げられた。この教会でマルチン・ルターが洗礼をう
けた。
旧侯爵鋳造所 Ehem.Graefliche Muenze (16c) ルネッサンスのポータルと8角形の階段塔のある
建物は、侯爵の硬貨鋳造所であり、1540からの銀生産が硬貨となった。19c騎兵連
隊の兵舎となり、1857-1912地方裁判所であった。
計量所 Waag マルクトの東側に、百貨店と秤量の二つの建物を組み合わせている。地元産の銅
と銀を計量し、商社に渡して外国に運ばれた。
ルターの生家 Luther Geburts Haus この家でマルチン・ルターが1483生まれた。1689に改地元産の
銅在のバロックの外観となった。今は博物館として、ルターの生涯を展示。
ルターの死家 LUther Sterben Haus 急な切妻屋根を持つ2階建ての建物で、1546にルターが死亡
した家と見なされていた。1862買収し1894にルター記念の部屋を設けた。
地域と宗教博物館 Orts-und Ordens Museum Holfta この博物館は、古代の町のHolftaと
聖マリア修道院の歴史を、絵画を交えて相対的に伝えている。
市庁舎 | 教区管区エゲル |
水城 | 水城入口 |
北壁 | 南壁 |
1090 ヌシャーテルは山の東側にロマネスクの集落を構築、 1203 フライブルクがチューリンゲンの町を置いた、
1261 都市権を授与された、 1485 ライプツィヒの分割でザクセンのアルバーティン公が所有、
1547 ザクセン選帝侯へ、 17c 30年戦争でほぼ壊滅、1806 ザクセン王国へ、チューリンゲンとして統治
1816 プロイセン王国へ、 1856 地区の中心の町であった、 2005 Unstrutへ併合。
13cの1.2km市壁は、3門と14壁で守られ、ほぼ正方形で東南部がふくらんえでいる。15c中の
サクソン戦争で大幅に拡充された。1447にザクセン選帝侯フリードリッヒ2世の2週間の包囲に耐えた。
市壁は高さ6-7m厚さ1mで、貝殻石灰岩を使用し、木製の胸壁もあった。1.2kmの全長が文
化財指定構造物であり、門の前に別の郊外が開発されたため、大部分の市壁が残った。
13cの市壁には3門14壁搭があったが、残っているのは西南門と半円形壁搭が12基である。
上門 Ober Tor (14c) 北門 アーチ門の隣に正方形の塔があり、南側に門衛小屋が
あったが、1584に刑務所となり、1876に交通障害のために取除かれた。
教会門 Kirche Tor (14c) 南門 正方形の門塔で半木造の構造であり、1527に
は新しい時計が付けられた。1860-61に交通障害のために取除かれ、以前の門の位置に色の異
なる舗装を行った。
エックシュタット門 Eckstaedter Tor (14c) 西南門 唯一残る門塔で、アーチ門は取除か
れ、4階建の四角錐屋根の角塔が立っている。2階部分の市壁の上に登れる階段がある。
市壁搭 Mauer Turm (14c) 市壁に付随した石積の円塔が、北側に5基、東側に3
(2)基、南側に5(4)基、西側に1基の合計14基が建設され、(12基が残っている。)
南東6kmの山頂にヌシャーテル城が見える。旧市街地は一辺300mの四角形を市壁で囲み、スパー
リングワインの町として有名である。
市庁舎 Rathaus (1425) マルクトの東南の角の北に、高基礎屋外階段のある2階建の建
物で、鐘楼がある。1478に暖房付きの会議室がされたが、1551の火事で損傷し1561に再建された。
1654に落雷があり、1685-88に隣の別の建物が建てられたが再度火事に遭った。初期から生き残っ
たのはロマネスクの地下室のみである。1683に再建された階段切妻と屋根を簡素化した建物は、現在
まで維持されている。1833に改修・1992-95に東に拡張された。
聖マリエン教会 St.Marien Kirche (13c) 砂岩で造られ、西側にナウムブルクの大聖堂に
倣ってロマネスクの四角台の上の八角形の双搭があり、東側に後期ロマネスクのクロッシング塔のヘルメットが残っ
ている。ロマネスクの後陣は15cの初めに今のゴシックに改装された。15c終わりにはホール型のゴシックの身
廊が建てられ現在の形になった。
ヌシャーテル城 Schloss Nuschertel (1090) 南東6kmの山頂にヌシャーテル家は、最初の石
灰岩で高さ8mの環状壁を築き、その中に王宮・居住棟・台所・中庭を建て、東側は溝と石造円塔
で守りを固めた。12cに東内壁の南北に八角形の塔を追加した。1440のザクセン公は居住機能を高
め、1485ライプッチヒの分裂でヴェッテン家が住んだ。16cにはザクセンは狩猟宮殿に変えた。1815ウイーン
会議でプロイセンの所有となった。1934に学校が開設され、1935には博物館となった。
フリードリッヒ・ルードヴィッヒ・ヤーン博物館 Friedrich Ludwig Jahn Museum (1838-39)
始め住宅として建てられ、1924にユースホステル、1936にヤーンの生涯の博物館となった。ヤーンは生涯市民
体育の発展に寄与し4つの展示コーナーで表現している。
ロットカプチェン・スパークワイン醸造所 Rotkaeppchen-SaktKellerei () 古くからのスパーク・
ワインの製造施設。
市庁舎 | ザルツ・ヴェルダー門 |
南壁 | 南壁 |
南東壁 |
1186 ガルグレーゲの侯爵ハインリッヒの本拠地としてブランデンブルク司教の文書に初言及、
1196 ブランデンブルク財産の封土委託として、町は城と小さな町として言及された、
1314 醸造権の授与がなされた、 1316 町長事務所を置き裁判権を得た、
1353 アルトメルク同盟、1358ハンザ同盟に加入、1488 選帝侯とのビール戦争となった、
1553 町の防衛施設建設で3門閉鎖、 1658.1667.1685 町は大火事で焼失、
1715 町はブランデンブルク・プロイセンの駐屯地、1816 町は144村の郡庁所在地になった、
1945 2次大戦爆撃被害、4月米軍、7月赤軍。
中世の市壁は堀と土堤に守られ、今でも緑地と土堤は町を取巻いている。
野石の上に煉瓦造で修復されている。市壁は、北160m、西10m、南150mにある。
ザルツベデラー門 Salzwedeler Tor (16c) 西、前面に二つの直径9.2mの大円
塔があり破風のある門がよく保存されている。
ステンダラー門 Stendaler Tor (16c) 東、まだ門の名残がある。
マグデブルク門 Magdeburger Tor (16c) 南、まだ断片が残る。
火薬塔 Pulver Turm (16c) 南、市壁の間に再建された。
水路に囲まれた小さな旧市街は、北の木市場と中の市庁舎広場を中心に市庁舎
の塔・教会にもハンザ都市の面影がある。堀の土堤には120本のライムの並木もある。
市庁舎 Rathaus (1241) 百貨店と展示場として文書言及され、三角形の市庁舎広場
に立っている。美しい後期ゴシックの煉瓦造の外観は、南に星形ノアーケード豊かな
アーチの内側空間、二つのランタン、東と西側に紋章のある守衛塔がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1200) 後期ロマネスクの初期の建物である。最初の小さな
教会が1200に建てられ、15cに5身廊のホーツ教会に建て直された。1492宗教改革
の時にライゼンベルクが司教に任命され、教会の修繕や新しいオルガンの購入をした。
聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (13c) 元はロマネスクのバジリカで、1300ゴシックの上部構造
とされ、16c再度増改築された、美しくて古い北ドイツ煉瓦造の教会である。
1945空襲で破損し、祭壇や洗礼盤等は聖マリア教会に移された。
聖下僕病院 Hospital St.Spiritus (1300)貴族の寄付で大病院は成立した。病院は
老人と貧しい人を収容するために設立された。19cには虚弱な市民の娘が収容
された。今は、各種クラブと、州の教育局の本部がある。
ローラント像 Roland von Gardelegen 職人と商人の正義と誇りと強い力のシンボルとして
建てられた。市庁舎の火災何度も壊わされ、1727に最終的に崩壊した。
2002に275年を記念して再設置された。
市庁舎 | 市壁 |
下門塔 | 市壁 |
1285 アンハルト侯爵アルブレヒト2世の文書に初言及、1291 城の初言及、
1448 町の防御の再構築、市壁・堀・塔、 1454 町の権利の再確認、町書類の焼失、
1531 宗教改革の導入、1512 最初の学校開校、1610 ペスト流行で人口減、
1637 スエーデン軍が町を破壊、1642 再び疫病、 1775 7年戦争で包囲攻撃、
1807 大飢饉、1815 ザクセン選帝候からプロイセンへ支配が移った、
1822 郵便開始で駅宿設置、 1867 駐屯地の町へ、
1890 褐炭の採掘開始、 1945 米軍占領の後赤軍が進駐。
町は土塁・堀・市壁で守られ、どっしりとした市壁は荒石や野石で造られた。
19cに大部分の市壁が取り壊された。
上市塔 OberStadt turm (1448) 町の防衛施設として、5階建正方形の大
きな塔が再建された。昔は監獄として使われた。
下市塔 UnterStadt turm (14c) ヘルメット付き3階建の円塔で、町の出入りを見
張った。
水塔 Wasser Turm (1927) 給水塔として建てられ、今は展望台として目立
つ構造物である。
市壁で囲まれた旧市街地も、マルクトも狭い町である。
旧市庁舎Altes Rathaus (1637) 30年戦争中に最初の市庁舎はスエーデン軍に全壊
された。今の市庁舎は1695-99に建てられた。上階木組2階建の鐘楼のある
建物。
新教聖マリア市教会 Ev.Stadtkirche St.Marien Kirche (1531) 今の教会の最古の
部分はロマネスクであり、ゴシックの教会の建設時の正方形の内陣はそのまま保持さ
れている。1637スエーデン軍に壊され、1658-66再び再建された。1867-68今の高
さ57mの塔が建てられた。
パウル・ゲルハルト礼拝堂 Paurl Gerhardt Kapelle (1844) 疑古典主義の旧墓地
礼拝堂で、今は展示会場や演奏会場として使われている。
パウル・ゲルハルトの家 Paurl Gerhardt Haus (1907-09) 新教教会の礼拝に一時
使われ、その後幼稚園となり、1997記念物として再整備された。
城跡 Schloss Ruine (12-13c) 30年戦争でスエーデン軍に破壊され、その後建
物は建てられなかった。古い宮殿の跡。
距離標 Post Saeule (1728) ザクセンの距離標はプロイセン選帝侯アウグスト2世に由
来する。
風車台 Bockwind Muehle (19c) 3基あった木製風車台の一つ。1848風力駆
動の風車台は置き換えられた。1992技術的な構築物として再建された。
印刷博物館 Bachdruck Museum () 古い印刷機は市立図書館の背後にある。
町の印刷機の歴史と町の黒い芸術の伝統を経験できる。
市庁舎 | ドーム主席司祭館 |
半殻塔 | 南塔 |
西壁 | 聖母教会 |
ドーム | 地方裁判所 |
804 司教座が1648まで置かれた、 859 最初のカロリング朝の大聖堂が奉献された、
989 オットー3世は市場権・鋳造権を授与、 996 司教は大聖堂広場を拡張した、
1005 聖母教会の建設開始、 1134 ドームブルクで国会の開催、
1137 ヘンリー軍による町の破壊、 14c ハンザ同盟加入、 1433 ローラント像の建立、
1491 第3のゴシック大聖堂の奉献、 1629 ヴァレンスタイン軍、1632スエーデン軍の占領、
1648 ヴェストファーレン州となる、 1807 ヴュストファーレン王国の県庁所在地、
1945 空襲で旧市街地は大被害を受けた。
市壁は、西に255m、東に320m、に見られる。
半殻塔 Halbschalen turm (15c) 西の市壁に残る2階建て半円形の殻塔。
水塔 Wasser Turm (1444) 中世の市壁に残る3階建ての円塔。
9世紀には司教座が置かれてから、織物取引のハンザ時代にかけての町の遺産は、
1945の爆撃で大部分が消滅した。歴史的な建物は修復が行われている。
市庁舎とローラント像 Ratslaube mit Rpland (1433) ローラント像の立つ石造2階建て
の小さな市庁舎。
ドームと宝物館 Dom St.Stephanus und Sixtus UND DomSchatz (859)
今の建物は、元のフランス式から1236-1486に壮大なゴシックの大教会となった。中世の
ステンドグラスが聖歌隊の窓で輝き中世の彫刻が飾られている。 宝物館には大規模な
650の宝物あり、宝石・象牙細工・水晶・石・テキスタイル・タペストリー・等の展示がある。
聖母教会 Liebfrauen Kirche (1005) アウグスチン会修道院に設立され、1146-1200
ローマ・バジリカで建てられた。1945爆撃でバジリカの柱・双塔が損傷し1952に修理、
2004修復が終わった。内部には1230のフレスコ画が残っている。
聖ヨハネ教会 St.Johannis KIrche (1646-48) ルネッサンスの独で最大の木造教会で鐘楼が
ある。ルネッサンスからバロックの祭壇や説教壇は美しい。ヨハネス修道院は30年戦争で壊
された。近くの東にフランシスコ会修道院教会の聖アンドレアス(1223)があり、爆撃で
壊され1985改修し奉献された。
マーチン教会 Martini Kirche (13c) 14cからまちの教区教会で、高さの違う2つの塔
は歩道橋で繋がれている。青銅洗礼盤・説教壇・キリストの生涯・十字架の勝利。
モーリッツ教会 Moritz Kirche (1231) 巨大な塔と角ばった構造のロマネスクのバジリカ
で、再建されて天井画がある。
教区教会 PfarrKirche St.Kstharina und St.Borbara (1360) ゴシックの教区教
会でドミニコ会修道院の3身廊のホール教会。主祭壇・脇祭壇・説教壇は見事である。
市博物館 Staedtische Museum (1782) かっての中将の邸宅で、1905に博物館
になり、町の歴史を展示している。
ドーム主席司祭館 Dom Propstei (1592-1611) 司教の建てたルネッサンスの外装が美しい
2階建ての建物で、2004主席司教の館になった。
市庁舎 | 東市壁 |
966 皇帝オットーの投資文書に初言及、 1150 市場権を城商人居住地へ付与、
1181 マグデブルク大司教は占領後破壊、1215 マグデブルク大司教所有、
1223 町の再建開始、 1228 アルブレヒト大司教はシトーは修道院創設、
1526 市場権を再度授与、 1541 宗教改革の導入、
1636 疾病の流行、1661 大火災、 1680-1807マグデブルクのプロイセン公国に直属、
1810 ヴェストファーレン王国へ属し修道院廃止、1816 ウイーン会議でプロイセンのザクセン州へ、
1945 4月米軍、6月英軍、7月赤軍進駐。
中世の二重の内側市壁は、ほぼ完全移保全され、高さ2.1m幅1.2mの石積。
北から西側には外側の市壁も残っている。
ベルストリンガー門塔 Baelstringer TorTurm (1250-60) 西北の市門で、
瓦礫積みで造られた。塔は高さ13mであり、入口は2階の壁上にあった。1858
塔は段なしで再建され、今のヴェール時計に置き換えられた。塔は刑務所として
後に羊のペンとして使われた。1986塔内部が改装され町の歴史の展示がある。
ステンダー門塔 Stender TorTurm (13-14c) ステンダー方向の市門で、MuehlenTor
とも呼ばれた。9.1×6.45mの長方形の平面で1.4m厚の壁厚がある。19cに
は刑務所となり、20cの初めにPfannen Walmdachとなった。1998に塔と市壁が
改修された。
ハーゲン門 Hagen Tor (1238) 南西部の市門で、17cに門塔が短縮され、
バロックのフードが付けられた。1862片側が崩壊し、門は放棄された。残りの
部分は1870-80に歴史主義で再設計された。
王ヘンリー・ライオンの都市計画は、円形の1.4kmの市壁に囲まれた中心のマルクトで直交
する街路網で実現された。1991から中心部の改装に取り組んでいる。市庁舎の前
には、都市と市場の権利を象徴する15cからのロ-ラント騎馬像が立つ。古い門塔・そ
れぞれの時代の歴史的な建物・16c木組の建物などが残っている。
市庁舎 Rathaus (1579) マルクトの東の前の建物跡に、2階建3軸の中央部が
突出した入口の上に、紋章とレリーフを取り込んだ。1701-03にバロックの建物は建設
された。1815-23古典主義で再建され、1910東側に庁舎は延長された。2000市
庁舎の北側の1662木組2階建の住宅を組み込んだ。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 古い教会の基礎の上に建てられた教
会は、1181マグデブルク大司教の軍隊に破壊された。1223新しい教会が建てられ、
1375ゴシック3廊の教会建設がが始まった。1661大火事で大部分が壊され、1675今
の20mの塔のある教会が完成した。1808南塔に加え北の塔も壊れ、1812から新
塔が建てられた。17cからのオルガンは1878に今のオルガンに置き換えられた。
聖アンナ礼拝堂 St.Anna Kapelle (1112) 古い石積みの上に木製屋根の礼拝
堂が修道女に与えられた。17cに今の半木造の建物となった。1810修道院に売却
された。
騎士団の家 Templar Haus (13c) 北部の旧城遺跡に、14cに壊されたテンプル
騎士団の跡がある。また、町にも地下を含めテンプル騎士団の遺跡がある。
ローラント Roland (1419) 市庁舎の正面に、欧州唯一の乗馬ローラント像が町の権
利の象徴として立っている。1526市場特権と関連して取り換えられ、1927-28
風化したため、2.4mの石灰岩造と置換えられ、オリジナルは市博物館に収容された。
クーネの家 Kuehnsches Haus (1592) 町で最も美しい3階建の建物で二つの
張り出した床がある。30年戦争と1661に火事を免れた。宝石商が1875に購入し
大幅に修復した。美しく装飾された三角の木材の表面に標語と彫刻のある梁は
塗装を取り除いて明らかとなった。1923後継者が改造修復を行った。
レプスの家 Repssches Haus (16c) 30年戦争前に建てられ市内でも古い2階
建の木組の家で、通りに軒先のある家の骨組みは特徴的である。中庭への通路
が建物内にある。1766レプス家が所有し、家族は市議会で1932まで働いた。20c
初めには居酒屋となり、1936画家が改築して通り側の木組が露出された。
市博物館 Stadt Musem (1910) 1865-66に建てられた古典主義の石膏の建
物に収容された。ヤコブとウイルヘルム・グリムの資料が展示されている。
フンテスブルク宮殿 Schloss Hundisburg (1196-1202) 南の丘の上に大司教ルド
ルフが城を築き、1452アルフェンスレーベン家が所有し、16cにルネサンスに改装し、30年戦争
で破壊された。1693バロクの壮大な宮殿と庭園に拡張した。1811起業家が購入。
1945ソ連軍が使用したが火事で壊れた。2001-12ザクセンアンファルト州が再建した。
市庁舎 | ライプティッヒ塔 |
地方裁判所 | マルクト広場 |
マルクト教会 | 国立美術館 |
ヘンデル記念館 |
738 塩水鉱を守るため砦に教会と兵士を置いた、806 市庁舎の初言及、
968 マグデブルク大司教が支配、 1120 塩貿易の富で町を拡張し市壁を築く、
1263 マグデブルク大司教は自治都市建設、1281 ハンザ同盟加入1479-1506中断1518迄、
1478 200年の自治を終え1484大司教の居城、16c 教会・聖堂のルネッサンス化で財政難、
1625 30年戦争で帝国軍占領、 1637 モーリッツ城の焼失、1698 大学の設立、
1701 プロイセンへ、1714までプロイセンの首都であった、 1806 ナポレオン軍の進駐、
1807 ヴェストファーレン王国となる、 1815 プロイセンのニーダーザクセン州に入る、
1945 2度の空爆で大被害、4月米軍、7月赤軍進駐。
中世の市壁は、1817-28の市街地拡大の際に、門と共に大規模に破壊された。
残っているのは、南西の端にモーリッツ・ツインガーとハロリンリンクの角に80mが高さ7mである。
ライプチッヒ門塔 Leipziger TorTurm (15c) 東南、40あった塔の内で唯一残された
門塔である。3門構成の門は交通増加のため、1819に取り壊され、高さ27m厚さ
2.8mの望楼塔のみ残された。それまでの瓦屋根を1573にドーマー出窓のあるフード
が付けられた。内部には16cの時計部屋がある。1996-97改築され綺麗になった。
赤塔 Roter Turm (1418) マルクトに、装飾として鐘の付いた高さ80m
の塔が、「神と市庁舎の栄光のために」建てられた。
738には塩水泉を守る砦が築かれ、13cハンザ同盟の加わり、14-15cには塩取引
で栄え、音楽が奨励された。マルクトは高い建物に囲まれ、高低差のある大きな広場
であり、市電が走りヘンデル・ローラント記念碑が立っている。
市庁舎 Rathaus (1891-94) 旧市庁舎が狭くて自治体会議と祝祭のために、ヘンデル
の銅像の前にルネッサンスとリバイバルルネッサンスの3階建て石造の建物を建てた。入口は
柱で飾られたアーチ門で紋章が飾れれた。屋根は寄棟で前面に小塔が多く付いて
いる。大広間は多くの彫刻と絵画で飾られている。2次大戦の被害は少なかった
が、大広間のステンドグラスは更新された。
モーリッツ城 Moritz Burg (1484-1541) マグデブルクとマインツの大司教が居城とした。
30年戦争で破壊されたが、20cに美術館として部分的に再建された。
ギービッヘン石 Giebichen Stein (12c) まず石造のアパー城が築かれ、1484-1503マグデブルク
大司教の居城がとして要塞が築かれた。163630年戦争で壊され、1906市
が購入して、1966建築博物館となり、多くの壁の遺跡が修復された。
新宮殿 neue Residenz (1531) 大聖堂の南に修道院を解体して斜面の上を拡げて、
建てられた。中庭のある2階建ての建物は18cに改修されて、ルネッサンスの大きな
建物になった。
大聖堂 Dom (1271) ドミニコ会修道院の旧修道院教会であった。1520枢機卿アルブレヒト
はルネッサンスの3身廊ホール教会に改造した。16cの17彫像・説教壇・後陣の一部
は現存している。1692から新教の教区教会と共用され現在も礼拝の場所である。
1950内部の大修繕が行われた。
聖母教会 Markt Kirche Unser Lieben Frauen (1530-54) 今の教会は古い東のロマネスク
の塔と西のゴシックの塔との間に、新しく建てられた3廊式ホール教会である。
側廊の壁には石造の楼台があり、主祭壇の祭壇画は1529のクラナッハの弟子の作品。
聖モーリッツ教会 Moritz Kirche (1388-1511) 3身廊後期ゴシックのホール教会で、網目と星
模様で飾られたボールトがある。中には1411聖モーリス、1416ピエタの彫像がある。
ヘンデル記念館 Hoendel Haus ヘンデルの生家でその生涯と作品がたどれる。1702ハレ
大聖堂のオルガン奏者となり、ソナタやカンタータを作曲し、英国へ渡った。た。日本語の
イヤホーンがあり、16-17cのチェンバロ等の古楽器も展示している。
製塩博物館 Salinen Museum (1720) 旧市街の西岸の川向こうに在る。1722生理
食塩水博物館を設立し、製塩技術と製塩文化の展示は1720からの高い煙突の
沸騰家と平屋切妻の家の中に博物館はある。
モーリッツブルク国立美術館 Staatlich galerie Moritzburg 20c初に改装され国立美術館
となった。19-20cの絵画とドイツ彫刻が展示されている。
市庁舎 | マルクト |
市壁 |
993 オットー3世は修道院を設立し、市場・鋳造・関税の権利を修道院長が行使した、
1326 ベルンハルト3世は皇帝の領地とした、 1338 町に都市権を授与、市場と市壁を建設、
1536 アンハルトが主権を引き継いだ、 1550 ペスト流行、 1500.1635.1659.1722.1817 大火事、
1623 30年戦争で略奪、 1635 アンハルトハルツゲローデ公国設立、 1646 鉱石の採掘と製鉄所開設、
1709 ハルトゲローデ家の断絶でベンブルク公国へ、 1863 アンハルト州に統合、 1919 ワイマール共和国に、
1945 4月米軍占領、7月赤軍進駐。 1990 東西ドイツ統一。
4門と堀のある市壁が14cに雑石積に漆喰で高さ2-3mで建設された。
西側に2か所の市壁が僅か残っている。
見当たらない。
旧市街は、古い2-3階の建物が、多く残されている。
市庁舎 Rathaus (14c) 始めの市庁舎はマルクトに建てられ、二番目は1639に同じ場所で2
階建木骨造で新設された。今の建物は1900-01に、前の建物から地下室・ロビーの木制飾り板・市の
紋章をを引継ぎ、2翼2階建の地階にアーチ窓があり、上階は豪華な木組の装飾があり、多角形の3層
ドームのある塔が付いている。
ハルツゲローデ城 Schloss (1320) アンハルト・ベルンブルク・ハルツゲローデの王子の城は、14c最初に
建てられ、1549-52に4棟の複合施設として再建された。1775に一部は撤去されて。北西の塔・東翼
の砂岩レリーフ・17cの壁画・梁のある天井と床が残されている。
聖マリエン教会 St.Marien Kirvhe (1697-99) 1635・1659の大火災の後に、アンハルト・ハルツ
居住教会としてローデ王子の居住教会として再設計された。19cの終わりに、聖具室が追加された。大き
な四角い西塔には、時計と鐘楼がある。中には王子の肖像画がある。
地方裁判所 Amtsgericht (17c) 郡庁舎として建てられ、刑務所や地方裁判所として使わ
れている2階建の建物。
ヴォルフホフ Wolfshof(1720)アンハルト・ベルンブルク家の王子や王女が住んだ。2階建木骨造の赤
色の大きな建物で、前面には梁の頭や床敷居があり、名前は1760から42haの農地を耕作したウルフ家か
ら来ている。
レーダーシャー・ザッテルホフ Roederscher Sattelhof (16c) 豪華に装飾された木骨造2階建の
建物。
住宅 Wohnhaus (17c) 南の市壁にもたれて建てられた日雇い労働者の2棟の平屋木造漆喰
の建物。
住宅と管理棟 Bergfakori (17c) 鉱業管理所の2階建木骨造の建物。
旧鋳造所 Alte Muenze (16c) 鋳造所長の家として建てられたアーチ型の地下室のある2階建
上階木骨造の大きな建物。
旧醸造所 Ehem.Brauhaus (1635) アーチ型地下室のある2階建ての堅固な建物で19cまで使
われた。
市庁舎 | 橋門・南東壁 |
砂糖帽子塔 | 振子塔 |
北西隅塔 | モルメッツ門塔 |
城天守閣 | 北西壁 |
西南壁 | 西壁 |
1046 マイセン大学教会のヘンリー3世文書で初言及、1181ブラウンシュバイクのヘンリーライオンが破壊、
1199 鉱夫によるヴィッパン銅鉱脈の発見、 1283 銅と錫の採掘で人口が増え町に、
1334 都市権が付与された、 1418 木造に代わり石造教会の礎石を置いた、
1430-39 3門付延長1.1kmの市壁を築く、1434 マンスフェルト公爵フォルラートは醸造権を付与、
1573 ザクセン・アッパーの宗主権に戻った、1618-48 30年戦争略奪・採掘中断・飢餓・ペスト、
1780 マンスフェルト家の断絶でザクセンが領主に、 1815 プロイセンのザクセン州となった、
19c 精錬鉱業の発展。 1945 1回の空爆、4月米軍占領、7月赤軍進駐。
中世の市壁は、1430-39に建設された。
北西の公園内と南東のウィッパー川沿いに僅か残っている。
振子門 Seiger Tor (1434) 北門、1537改修が行われ、マンスフェルト式時計の振子
「ザイガー」から名付けられた。1651焼失後、1721-22今の姿で再建された。
高さ33mのフードは聖ヤコブ教会の塔と似せて、景観の統一が図られた。20c末改修。
橋門 Brueck Tor (1556) 東門、解体して簡素な水門となり、川を渡る簡素な跳ね
橋が付けられた。1716木製の跳ね橋は石橋となった。1810仏占領下には、仏榴弾
兵が構内に駐留して守ったためラレンチ砦と呼ばれた。
モルメック門 Molmeck Tor (1434) 西門、村の名から名前が付けられた。一時は刑務
所として使われた。
円錐屋根塔 Zuckerhut Turm (1434) 東市壁の3階建円塔で、18c後半に住居や監獄
として1930まで使われた。北側の振子門からは胸壁が繋がっていた。今は
復元されて、展示場やワークショップとなっている。
旧市街は、古い2-3階の建物が、多くの場合復元されて地上階には店舗を持っ
ている。町は銅・銀の採掘と治金鉱業で栄えた。
市庁舎 Rathaus (15c) 始めの市庁舎はマルクトの中央に他の建物と共に立っていたが、
1506に焼失に焼失し1520-26今の場所に新築された。1627再び焼失し1667新
たに拡張して再構築された。1879.1913に拡張され、旧ネオゴシック隅小塔は切妻
に取って代わられ、地上階にはラッツケラーが開かれた。現在の外観は1913に復元。
ヘッテシュテート城 Burg Hettstedt (1204) 町の西のバスセンターに、城の唯一の残りである
天守閣が残されている。天守閣の高さは17m直径8mの丸い塔でフッハバーグ鉱山を
守るために建てられた。30年戦争でひどく壊され、1650以降城跡は醸造所として
使われた。1967-68バスセンター建設のため解体され、塔だけが残された。
聖ヤコブ教会 St.Jakobi Kirvhe (1223) 町で第二の教会として始め木造で建てられ
た。1418-1517後期ゴシックのホール教会となった。1697の火災を受け1706バロック
のドームとして再構築された。1905に改修が行われ高さ63mの今の外観となった。
聖ガンゴルフ教会 St.Gangolf kirche (13c) 町で最古の教会で1200に銅の採掘が
始まり13c初めに鉱山労働者のための礼拝堂が建てられた。その後修道院と
病院が置かれ、1420ゴシックの村協会になった。1812まではまだ廃墟があった。
古い印刷ハイゼ協会 Alte Hettstedter Druckerei Heise eV. (1889)印刷会社は
新聞を創刊し、1941商業印刷を行った。2001博物館のためのプリントショップを
復活した。建物も印刷機械も国の記念物である。
自治体醸造展示場 Staendige Ausstellung Baukommune Hettstedt 町の575年の
醸造の歴史と伝統を、城の歴史と共に展示している。醸造協会は予約制で通
年供給を行っている。
マンスフェルト博物館 Mansfert Museum (1721) バロクのワンポルト城は、1740にプロイセンのカール
・フリーッドリッヒが購入し、孫娘のキャロティンに与えた。今はマンスフェルト鉱山博物館として、
銅鉱石の採掘・精錬・治金の発展と歴史を機器と共に展示している。
また、ドイツ初の蒸気機関(1785)を再現している。加えて、城の所有者キャロライン・フォン
・フンボルトと夫のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによる城の歴史と所有者の展示がある。
市庁舎 | 市壁 |
市壁 |
11c ヴェッティン・ブレーナに属し言及された、 12c フランドルの入植者が定住、
1290 アスカニッシュ・ザクセン・ヴィッテンベルクが支配、 14c初 市壁に塔が付けられた、
1346 町として記載された、 1482 下級裁判所を取得、
1488 マグデブルク法が確認された、 1522 宗教改革を導入、
16-17c ペストが7回流行した、 1638 30年戦争・洪水・疫病で人工1/10に、
1703 上級裁判所を取得、 18c 18cまで人口減は回復しなかった、
1815 ザクセンからプロイセンへ支配が変わった、 1908-55 褐炭の露天掘り開始。
1350の市壁は、Mauer通に、僅か残るのみである。
見当たらない。
12cからの農業都市で、中心部の世俗建物はルネッサンス・バロック・疑古典の建物が混在する。
旧市庁舎 AltesRathaus (15c) マルクトの東側に立つ後期ゴシク2階建・前面3破風の建物で鐘楼
に1496の鐘がある。現市庁舎は、旧市街の外のブルク通りの東にある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1290-1340) 1340奉献のロマネスク3廊ホール教会。1415 東南の
ポーチが建てられ、1520拡張された。1856-59ネオゴシックの古い西塔が崩壊し、高さ86
mの高い塔に変えた。改革時にルターはこの教会で説教した。1546ルターの死後一時棺桶
が置かれた。
距離標 Postmeilen Saeule (1725) プロイセンの距離標がある。
住居 Wohnhaus (1773) 3階建の前面バロックの建物。
市民の家 Buerger Haus (1568) 2階建石造の建物。
薬局 Apotheke (19c) 後期古典主義のレンガ造漆喰仕上げの2階建の建物。鳥の剥製・野鳥
の保護・押絵などがある。
市庁舎 | 聖ヴェンツル教会 |
南壁 | 南東壁 |
西壁 | 西北壁 |
806 ソルビア人の集落が成立、 1004-07 ヘンリー2世、
1012 メレセブルク司教の書簡に記載、 12c ヴィチマン大司教はケナールの城を所有、
1364 ケナール記録に市庁舎と都市権の記録、 1479 事務所はマグデブルク大司教に渡る、
17c 火災・疫病・略奪で町は衰退、 1680 町はプロイセンへ属した、
1801-13 仏占領でヴェストファーレン王国へ、カントンの首都になった。
1845 4月米軍、7月赤軍が占領、 1952-2007 ラウンダースに属した。
市壁は、西北と南に、飛び飛びに残る。
見当たらない。
3角形の市壁に囲まれた小さな旧市街地。
市庁舎 Rathaus (14c) 1364のケナールの文書に市庁舎は記載されている。1862今の市庁舎
は前の建物の敷地に、2階建・中央入口塔の17窓列の大きく建てられた。行政に加え
て、警察・刑務所・地方裁判所・レストランが収容された。
聖ヴェンツル市教会 Stadtkirche St.Wenzel (1491-1510) 改革以前の教会で、狭くなり建て
替えられた。印象的な塔のある後期ゴシックの教会は、2連の複合施設で、町のスカイライン
となっている。
聖アグネス教会 St.Agnus Kirche (1694-99) ルーテル教区教会を1880まで務めた。1849クラシック
様式に大改造され、1996修復が行われた。中には、1881後期ゴシックのオルガン1887ステンド
グラス、1565クラナッハの絵画、後期ゴシックの彫刻祭壇がある。
ピースドルフ城 Burg Piesdorf (12c) ヴィチマン大司教はこの町に城を建てた。1479マグデブルク
の領地となり、1754Krosigkが所有、1868ヴィルヘルム・ヴェデルトによりルネッサンスの城に
なった。
市庁舎 | ヤコビ教会 |
ハレ門塔 | バッハ広場 |
1115 オットー・バレンは貴族領主の住む町を略奪し販売した、1160 市場に多くの住宅、
1280 最初の市壁の確立、 1313 初めて町と呼ばれ議会憲法を制定、
1316 都市裁判官、1322市議会議員が居た、1323 最初の市議会開催、
1330 城にはアンハルトの地方領主が居た、、 1406 マグデブルク大司教による町の包囲、
1508 侯爵ヴォルフガングが即位した、 1598.1636 ペストの流行、、
1601 皇帝ルドルフ2世ハトルク税を公布、 1606 侯爵ルードヴィッヒの治世、軍事訓練、
1626 30年戦争で帝国軍が包囲して4万ギルダーを課せられた、1715 皇帝レオポルド即位、
1717 バッハが宮廷楽長に就任、 1756 7年戦争の間に軍の契約を義務とされた、
1807 侯国から侯爵領となった、 1810 ナポレオン法典の輸入、
1818-28 プロイセンとエルヘ川自由航行の関税戦争、1848 民主的君主憲法の制定、
1944 2度の空爆で相当の被害被害、 1945 4月米軍、7月赤軍進駐。
13cの市壁は、南西のHallescherTorの東側に60m残るのみである。
昔3門あり、市壁を貫通して堀を越え、内門と外門があり、堀にはオーク材の跳ね
橋が付けられ中間に守衛所があった。今は南西と北西の2門が残る。
ハレ門 Hale Tor (13c) 今の塔は14cに5階建て32.2mの角塔として建てられ、最
大壁厚は1.2mである。頂上には八角形上層にバ゙ロックのドームが付けれられた。
アーチ門は荷車が通れる幅である。1592-19c刑務所として使われ、今はクラブ室。
マグデブルク門塔 Magdeburer Torturm (13c) 今の塔は古い塔の基礎の上に建て
られた6階建てゴシックの四角塔で、1784にイマノフードが付けられた。
配水塔 Wasser Turm (1884-89) 直径33m高さ46mの大きな給水塔である。1983
破損し500m3のステンレス容器が付けられ、1994に使用中止となり、遺産となった。
3塔のコの字型の大城館は、町の外れの堀に囲まれて立ち、小さな旧市街とは不釣
り合いな規模である。旧市街には、古い木組みの家が静かに残され、バッハの博物館
やバッハ広場のバッハ像もある。
市庁舎 Rathaus (①12c) 現在の市庁舎は4回目の建物で、何れも現在の位地にあった。
②1457、③1639、④1896-00。今の建物は、大きなアールヌーボー3階建てで、高さ
40mの展望台にエレベーターで登れる。評議会所は46室・234の窓と48mの尖塔がある。
審議会室には豪華な木製彫刻の内装・飾りガラス窓・鍛造のシャンデリア・オーク材のテーブルと
イスがある。14寓話の女性像は社会的な属性と美徳を体現している。また、公国と
隣接都市の紋章が結束を示して掲げられている。
ケーテン城館 Schloss Koethen (1115) バーレンスタインのアスカン侯爵は、ここを領地としてエルベ
スラブの襲撃から守るため、家来としてのケーテンの貴族に城を保持させた。1156.1160
アスカン侯爵は裁判所と封建領主の権利を取った。1547大火で北西翼のみ残された。
1606-1853独立したケ-テン・アンファルト侯国あるいは公国があった。16cルネッサンス、17cバロック、
1821-33古典主義に変換されている。今は西棟はイベントセンター、南棟は歴史博物館、
バッハ博物館、北西棟は市立公文書館、北東棟はナウマン博物館がある。
聖ヤコブ教会 St.Jakob Kirche (12c) 今の建物は14cからの古い建物で、1514
3身廊となり。1430時計塔が付けられた。1606ルター派の教区教会となり、1895
-97高さ75mの高い双塔を結ぶ橋に置き替えられた。
聖アグネス教会 St.Agnus Kirche (1694-99) ルーテル教区教会を1880まで務めた。1849
クラシック様式に大改造され、1996修復が行われた。中には、1881後期ゴシックのオルガン
1887ステンドグラス、1565クラナッハの絵画、後期ゴシックの彫刻祭壇がある。
聖マリア昇天教会 St.maria Himmelfahet Kirche (1827-32) 古典主義の建物で1849
1849侯爵夫人の棺が納められ、イタリア大理石の祭壇がある。2010新しくカトリックの
マリア昇天教会となった。
古いドイツの館 Alt Deutscher Hof (1600) 石造の地階の上に木組みの2階建てが
乗っている。急勾配の切妻屋根やルネッサンスの戸口や窓枠がある。古いドイツのかって
のゲストハウス「ドイツ皇帝」の館であるが、今はレストラン「酒蔵」である。
ライオン薬局 Loewen Apotheke (16c) ルネッサンスの急こう配の屋根のある2階建て木造建築
である。薬局のシンボルとして、ライオンは大きなアーチの入口に置かれている。1812薬
局となり、1835には侯爵の認可を得た。1991に改修され今でも薬局。
アウグスト財団 Augusten Stiftung (18c) (Neues Schloss) 堂々とした2階建ての
バロックの建物で、侯爵の寡婦の家として使われた。1848ケーテンの省事務所、1857最後
の侯爵夫人の贈り物として貴族夫人財団が設立された。その後、教会会議所、巡回
裁判所、住居として使われた。
歴史博物館とナウマン博物館 Historische Museum und Naumann Museum 城館に、
歴史博物館は先史からの町の歴史を展示し、ナウマン博物館は鳥類学の唯一の展
示館で鳥の剥製・野鳥の保護・押絵などがある。
市庁舎 | フクロウ塔 |
壁 | 南壁 |
北東壁 | 南西壁 |
934 王ヘンリーはジークリート伯へ町を与え、文書に初言及、
10c ジークリート伯の死後ヘクスターCorvey修道院が支配した、
1253 都市権を授与された、 1359 町の紋章が承認された、
1371-1727 地元の諸侯が支配、 15c 古い男子寄宿舎を開設、
1651 マグデブルク選帝侯は砂岩の自由の十字架を設置、
13cに市壁は築かれ、30年戦争ではあまり役に立たなかったが、16cに再建された。
相当延長が残されている。
梟門塔 Eulen Turm (1361) 13cの3市門の内、残された西門塔である。バロック
の帽子のある四角塔で、1463に敵の攻撃で破損し、1553から再建された。塔の
西側には1566病院が建てられ、右隣には現在の地域博物館が収容されている。
こじんまりした市壁に囲まれた古い建物のある町である。
市庁舎 Rathaus (1598) 火事の後1719再建された2階建てで、東部分は1730に高い
勾配屋根を被せられた。二重階段の北側に主入口がある。15cからの古い文書が
残っており、1934に再設計された登記所には、人生の様々な段階を示す壁画がある。
自由の十字架 Frei Kreuz (1248) 市庁舎に対面して石の基板上に自由の象徴として
建てられた。最初は木製であり、定期的な更新が必要であったが、1651砂岩のバロック
十字架となった。高さ4.4mでクロスバーで2つの小十字架を結び金色の紋章がある。
聖マルチン教会 St.Martin Kirche (1207) ロマネスクの長方形の教会で、1483塔は古く身廊
はホール式の教会となった。南翼は3廊それぞれにルネッサンスの贅沢な切妻が付けられた。
16c日時計、1919時計塔、1403最古の鐘、1699大きな鐘、1693後陣、1684説教壇、
1603オルガンが付けられた。
町博物館 Stadt Museum (15c) 古い木造の建物に1992博物館が置かれた。町の
歴史、大量のデンマークの銀杯、古い家具を展示。
市庁舎 | 南壁 |
南西壁 | 上門 |
西壁 | 東壁 |
531 チュービンゲンの敗北でスラブが入植、 FreiHofとして言及された、
1124 市場の出現を初文書言及、 1392 王ベンツシェルは都市権・町紋章を授与、
1409 マイセン選帝侯フリードリッヒは市場権・下級裁判所・参事会選挙権を授与、
16-17c ザーレ川の周航による恩恵は有ったが、戦争・略奪・火災で苦しんだ、
1866 砂糖工場、1904 缶詰工場が繁盛。
15c市壁は、旧市街地の北側の川沿いを除いて、殆ど残っている。
昔は3門と8~10要塞があった。今も1門2要塞が残っている。
上門 Ober Tor (15c) 良く保存された二重門は町の紋章をアーチの
上に付け、強い壁・防御通路・狭間胸壁で、ツインガーとなっている。第2門
の部屋には舗装料金徴収人が住んでいた。今はそこに郷土館がある。
航空スポーツと鐘の町である。中世の防御遺跡として二重門のOberTorと
1kmの市壁がある。木組みの家も見られ、恥辱の石と鐘博物館は珍しい。
市庁舎 Rathaus (1543-63) 中世風の石積外壁のある3階建ての建物
で、後で大きな2連の外階段を付け、屋根の上には小鐘楼がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 初め礼拝堂が在った。1476-96
石造の教会となり、1498-1514塔が付けられた。
古い学校 Alte Schule (1615)教会の後ろに、校長のカール・トーマスの名
前の付いた学校が建てられ、丸いアーチの中に碑文がある。
市民の家 Buerger Haus (1613) 上中央通り38に、1630店が入り、
1720改築された。よく保存されて美しい。
恥辱の石 Schand steine マルクト広場に置かれた中世の見せしめの首
を固定する石柱である。深刻でない罪の不道徳な行為の場合に、
首と胸を金具で固定して晒し者にされた。
ウンストルット工場 Unstrut Muehle (1841) まだ、煉瓦造の建物がある。
鐘博物館 Glocken Museum (1732) 鐘鋳造の創始者が設立した鋳造
所で、1911までに5千の青銅の鐘が造られた。
市庁舎 | ミュンフェン門 |
西南壁 | 南壁 |
965 皇帝オットーⅠ世は町をマグデブルクのモーリッツ修道院に譲与した、
10c オットー1世は国境の城として重視した、 983 スラブ族の反乱で破壊、
1162-1200 城伯ルボラッハは新城を築いた、 1207 都市権を持ち3門・市壁で守る、
15c モーリッツ修道院は貴族を繰返し替えた、 1604 贅沢な市庁舎は市民の誇り、
1600.1660.1674.1684.1688 大火災発生、1648 戦後にブランデンブルク・プロイセンへ、
1680 帝国直属都市となりマグデブルク侯爵領、 1716 駐屯地を町に移した、
18c プロイセンは18c末まで税関本部を置く、1862 プロイセン行政改革で郡会事務所。
13cの市壁は、18c終わりから取り壊され、南西の教会の周辺に僅かに残る。
その北MuelenStr.30m、その東建物壁15mに市壁らしき物があるが確証がない。
ミュンフェン門塔 Muenchen TorTurm (1291) 東南のミュンフェン門通りに角型門塔が立つ。
Moeckern市内の南に位置し、15-17cの多くの火事で中世の建物は少ない。
市庁舎 Rathaus (1609) 後期中世風の建物で今の姿は1747に成立した。1826復元
され今日でも使われている。1996も改修が行われマルクト中心に輝く。
ローブルク城 Burg Loburg (965) 旧市街の西北の外れに中世の城があり、オットー1世の
マグデブルクのモーリッツ修道院への贈与調書に言及された。この城は、オットー1世が
レッヒの戦いで大勝利の後に、スラブ侵攻を恐れて国境に建てた。
聖ラウレンチウス教会 St.Laurentius Kirche (10c) 村に在った教会は983にスラブの反乱
で壊され、1212ロマネスクで再建された。尖塔の正方形の基礎は今でも残ってい
る。その後ゴシックの3身廊となり後陣が追加された。1569オランダ風ルネッサンス装飾
の切妻が付けられ現存している。1737身廊の窓を延長し、筒形円天井が構成
された。2004-07に全般にわたる健全化と復元がなされた。
聖母教会跡 Ruin Lieben Freuen Kirche (12c) 元は村のロマネスクの石造教会だった。
1207東側の村と合併した時に市壁の外に移され、略奪に遭って1562には放棄
された。1601建物を煉瓦で修復して礼拝した。1806-15ナポレオン戦争の火薬庫
となり、その後捕虜収容所、遺体安置所となった後に放棄された。1900修復
1990復元されている。
市庁舎 | 聖ペトリ教会 |
ハレ門 | 北西壁 |
東南壁 | 東北壁 |
961 皇帝オットーはベネディクト修道院へ献金、10c 旧城の言及、
13c 町として知られ名前はソルビア語、 1460 町と聖シリアシ教会へ病院を寄贈、
1463 ビール鋳造権を得てビール生産、 1518 採石場の開設、1529 ペスト流行、
1583 大火災で公共施設と180戸焼失、 1680 ブランデンブルク・プロイセン公国へ属す、
1807-17 ヴェストファーレン王国のカントンの町、 1815 ザクセンのプロイセン州に属した、
1849 甜菜からの精糖技術開発し工業化 1852 新射撃場建設のちにVolkshaus、
2011 合併してLoebejuen-Wittinとなった。
市壁は、主として北と西に残っている。
元は4市門であったが、唯一ハレ門が残っている。
ハレ門 Hallesches Tor (1605) 金額323タラーで建てられ、唯一残っている。1749
に上部が更新され、1824から町の刑務所として使われた。その後1972まで住
居として使われ、1992修復されて博物館が開設された。地階:アーチ門、上階:
博物館、四角錐屋根のシンプルな構造である。
プレッアー門 Ploetzer Tor (17c) 北門であったが、門塔は残っていない。1852
市壁の外の道路が造られ、1546-53墓地公園に面してレンガ造の壁や門がある。
旧市庁舎> Altes Rathaus (1502) 1835に旧市庁舎は荒廃し売却された。
買取ったリーシュは、塔と出窓を取除き大幅な改修を行って、入口を中央に移した。
新市庁舎> Neues Rathaus (1816) 町の役人の住居として建てられ、1838に町は
行政の場に変換した。従って飾り気のない2階建の建物である。
城 Burg (10c) Auf der Burgには、昔城があったが、1125に破壊され、その
後再建されなかった。
聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (13c) 1125に最初の教会がの記述があるが、城教会
であるかどうかは不明である。1485ゲオルグは町教会聖ペトリを建てた。今も
ゴシックの大きな教会である。市教会に接続してCarlLoewe博物館があり、
ドイツ・バラ-ドの作曲家の作品と生涯が展示されている。
病院礼拝堂 Hospital Kapeiie St.Cyriact (15c) 礼拝堂は町の最古の建物で
テルマンが建てた旅行者宿1460に接続して建てられた。1992に改修され文化で、
行事や演奏会に使わている。
牧師館 Pfarrhaus () 町の教会聖ペトリの隣に立ち、美しい2階建の建物で、今は
青少年の施設である。
古い木組の家 Alte Fachwerkhaus (1879) 城通り16の2階建の窓の少ない木組の
家は。碑文によれば1600の建物で、町で最古の木組の家である。
古い消防署 Alte FeuerWehr (1131) 消防団の最初の庁舎で、1995今の場所に
来るまでに2回移転している。今は独自の構造の見張りを兼ねたホース塔がある。
高い見張通り HoheWart () この町の典型的な路地は、狭く・曲がり・急勾配で
ある。古いPfarrMauerに沿って教会に向かう路地である。1998改修された。
歴史的町の農場 Hostoriche Stadtgut (19c) かって農場として使われ、1800
-50建物はに要塞跡地に建てられた。1995-2001市役所として拡張された。
この歴史的不動産は、今は文化的な中心として使われている。
井戸斜面 Born Schlippe () 上下の都市を結ぶ歴史的な階段。
市庁舎 | 聖ビティ市教会 |
リュッツエン城 | 東壁 |
東北壁 | 北壁 |
13c メルセブルク本山の影響下にあり、聖公会の公式のリュッツエンの座席であった、
16c メルセブルク主教区の世俗化のために、ザクセン選帝侯の支配下に置かれた、
1583 疫病の流行で多数の死者、 1621、町は暫定硬貨を発行、
1632 この町は30年戦争の主戦場の一つで、スエーデン軍が敗北した、
1815 ウイーン会議後ザクセン王国は領土の大部分をプロイセン王国へ譲った、
1952 町はメルセブルクからヴァイセンフェルス地区へ、 1990 ザクセンアンファルト州に属した。
プロムナーデ通りの西側に南北方向の市壁の痕跡がある。
見当たらない。
1632に30年戦争のリュッツエン戦いで、常勝のスエーデン王は敗北し死亡した。
ナポレオンは、勝利したすべての戦いの場所を、パリ凱旋門の一番上の30の楯に刻ん
み、Lutzenの名がある。
市庁舎> Rathaus (1884-85) 新ルネッサンス3階建中世風破風付きの堂々たる市庁舎が建て
られた。会議室・市長室・刑務所は元の部分が使われた。また、市庁舎の北側には、
グスタフ・アドルフの像がある。
グスタフ・アドルフ記念碑 GustavⅡAdolf Denkmal (1632) リュッツエンの戦いで倒れたスエーデン王
に捧げられた最初の記念碑として、大きなボーダーが建てられた。1837に鉄製のキャ
ノビーがスエーデン石の上に建てられた。1907っスエーデン領事によってヒ年礼拝堂が贈呈
された。
グスタフ・アドルフ記念教会モイヘン Gustav-Adolf Gedenke Kirche Meuchen (15c) 当初ロマネスク
の教会であったが、19cにゴシックで再建された。1912に記念協会再設計され、祭壇
の後ろの古い木製テーブルの上にグスタフ・アドルフの死体があったとされている。
リュッツエン城 Schloss Luetzen (1252) メルセブルクの司教か建て、16cリンデナウのジギスムンドが
ルネッサンスの宮殿とした。700年以上の歴史を持つこの高塔のある四角い建物は貴重
な遺産である。1928都市と地域の歴史博物館を収容し、特に世界史的に有名な二
つの戦いの大きなジオラマが戦況を示している。詩人・作家のヨハン・ゴットフリート・シーメの
展示もある。
聖ビティ市教会 St.Viti StadtKirche (1513) 13cからのロマネスク教会の跡地内に、1488後
期ゴシックの教会建設を開始し、塔は1515-31に付けられた。1778の落雷後に、初
めの77mの高さは10m短縮された。
旧市庁舎 | ドーム |
東北壁 | 南東壁 |
東壁 | 要塞壁 |
805 砦に守れれた交易拠点の初言及、 929 オットー1世は結婚でマグデブルクを取得、
937 オットー1世はベネディクト会聖モーリス修道院設立、955 オットー1世はマグデブルク大司教に、
965 モーリス修道院に支配権・市場権・鋳造権・関税権を授与、975オットー2世は商人を免税、
1188 マグデブルク大司教は町の特権を強化、 1207-09 大聖堂は火災で壊れゴシックで、
13c ハンザ同盟に加入、 1548 ペストで2.5千人死亡、宗教改革、
1631 30年戦争帝国軍は町を破壊・虐殺、 1685 仏ユグノー教徒の移住、
1702-40 レオポルド侯爵がプロイセンの要塞化、 1806 仏軍占領、1807ヴェストファーレン王国へ、
1815 プロイセンのザクセン州の首都となった、 1912 町の要塞は取り外された、、
1945 空爆で町の90%が破壊され。
10cから市壁は造られ、1430に拡張され、1600市門6を設け、1702-40レオポルド候爵
が知事になり市壁の外側にオランダ式要塞を設置して大砲による攻撃に対応した。
1750旧市街地・中島・対岸の3要塞はほぼ完成し、4850には鉄道が敷設されたが要塞
はさらに強化された。1869要塞部分は取り除かれ、そこに市街が広がり中央駅が
置かれた。
元は6市門と市壁には20近くの防御塔があった。Fuersten Wallの両側に角塔は市
壁と同時に復元された。
1631に30年戦争デイリー将軍の帝国軍に廃墟とされ、その後商工業の発展で立ち直
ったが、1945二次大戦の空爆でバロックの旧市街はほぼ破壊された。ゴシックの大聖堂は
ドイツの初期ゴシック建築の大構造物であり、内部にも見るべき物が多い。
旧市庁舎> Altes Rathaus (12c) 古い部分は地下に残っている。ホールは牛革の倉庫
や販売に使われた。30年戦争で破壊された後に、1691-98イタリア・オrンダ風ルネッサンス
2階建ての建物を砂岩で建てた。19c改修と拡張が行われたが1945空爆で破壊され、
1965忠実に復元が始まった。屋上の小塔には4オクターブのカリオンがあり、庁舎前には
マグデブルクの騎士像が立っている。
大聖堂 Dom St.Mauritius und St.katharina (937) オットー1世は聖モーリス修道院を
設立し、955大司教座教会に昇格させ、大聖堂の建設が開始された。イタリアから斑
岩・大理石・花崗岩を運ばせた。西側入り口にはオットー1世とエディータ妃の坐像があり、
北側の天国の入口には愚かな処女と賢い処女の彫像1245がある。1207火災で壊れ
ドイツで最初のゴシックで再建され、1362西塔が101mで建てられた。内部には大空間
と多くの芸術品が収容されている。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1131) 町で最古の教区教会でロマネスク3廊の十字型
の聖堂であった。火災や戦争で何回も再建され、1886には教会の前にルター記念
碑が建てられた。1945爆撃を受け、1991-99再建された。
聖母修道院 Frauen Kloster (1064) ロマネスクの建物複合体で、1220初期のゴシックボールト
を付けた。1834世俗化されたが1698に設立された学校と教育学研究所は1928ま
で存続した。1945一部破壊されたが1974美術館が設立され、ロマネスクの北翼と彫刻
公園は見所である。
文化・歴史博物館 Kultur und Geschichte Museum (1906) 1913東翼を第2期に建設
したが、1945爆撃で美術品の殆んどは失われた。今は15cからの絵画・織物・
タペストリー・家具等の展示がある。
旧市庁舎 | クルメ門 |
フクロウ塔・東壁 | 南東壁 |
東南壁 | 西北壁 |
南壁 | ドーム |
8c カール大帝の時代にザーレ左岸集落の言及、 919 プファルツ王ヘンリー1世は王宮を置く、
968ザクセン・プファルツ領に司教区領創立、11c プファルツ王ハインリッヒ2世の時にドイツ最大の王宮、
1015 大聖堂の礎石が置かれ1280完成、 1188 皇帝バルバロッサは新市場ノイマルクト設立、
1219 市場と大聖堂は市壁で守られた、 1322 大火災で町の多くは焼失、
1428 町は司教に対抗しハンザ同盟に加入、 1525 農民戦争で司教はライプチッヒへ逃れた、
1561 ベネディクト修道院は世俗化で荒廃、 1656-1738 ザクセン・メルゼブルク公爵の文化、
1815 町は1945迄プロイセンの一部であった、 1832 郊外アーテンとノイマルクトは都心に合併、
1945 数回の空爆で町の大部分は破壊。
11cに城を取巻く市壁が築かれ、今でも北・西・南に610mの0.88が残されている。
13cに南のノイマルクトを含む市壁に拡張され、1430に第3次市壁が強化された。
今は、西のEulenTurm付近と南東の市庁舎付近に残されている。
曲がった門 Krumme Tor (1430) 胸壁付半円塔で、城山入口の北門の位置に1430
市壁の外門として築かれた。解体されアーチが変形した形で1822-88に再建された。
フクロウ塔> Eulen Turm (15c) 町の西側に残された市壁にある円錐屋根の塔である。
丘の上に宮殿と大聖堂などの大きな建物が聳える大きな町。
旧市庁舎> Altes Rathaus (12c) 2階建て切妻屋根の建物で、1478北側は古い
形の建物で再建された。1561-68ルネッサンスの南翼を拡張、1692建物の前面にある多数
の司教の紋章に、町の紋章を加えた。
メルゼブルク宮殿> Schloss Merseburg (13c) 古い建物の上に1470司教ティロは新い
城を建て、1605-08ザクセン公爵ゲオルク1世により後期ゴシックとルネッサンスに変換された。
塔室の螺旋階段と北翼の壮大な出窓に特徴がある。今は文化史博物館・音楽学校・
管理本部として使われている。前庭には大きな鳥小屋がある。
メルゼブルク大聖堂 Dom Merseburg (1021) 1019司教ティートマーが礎石を置き、皇帝
ヘンリー2世が落成させた。11cからからのロマネスクの3廊ホール教会と地下室が保全されてい
る。1080ルドルフの古い青銅墓記念碑がある。ロマネスクのポータブル祭壇、13c象牙箱と貴
重な写本が回廊の宝庫にある。
聖マクスミ教会 Stadtkirche St.Maximi (10c) 1432後期ゴシックの教会は1501に再
構築され、1867-72ネオゴシックの高さ74mの高塔を建てた。今は演奏会場でもある。
碑が建てられた。1945爆撃を受け、1991-99再建された。
聖トーマス教会 St.Thomasu Kirche (12c) 対岸のノイマルクトに位置し、皇帝フリードリッヒ
・バルバロッサの文書に、ロマネスク十字架教会として1188初言及された。
三民会議場 Staende haus (1891-95) ザクセン・プロイセンの州議会場として建てられ、今は
文化行事や催し物会場として使われている。
市庁舎 | 市教会 |
グレッツアー門 | 南壁 |
948 オットー1世のマグデブルクのモーリッツ修道院への文書に初言及、
955 オットー1世はハンガリーの勝利後に教会を寄付、 11c 市壁は3市門を装備、
12c ブランデンブルクの辺境伯が支配、 1196 マグデブルク大司教に引渡した
1373 すでに都市権は有していた、 14c クエトリンブルク修道院の所有に、
1376 修道院は所有権を再びブランデンブルクに譲渡、 1472 選帝侯は抵当に、
1524 アルンスタイン伯爵に行き絶滅まで所有、 1626.88.大火災で深刻な被害、
1710 ミュンヒハウゼンのクリスチャン・ヴィルヘルムに、 1742 ハーゲン家に町は移り1945まで
1813 ナポレオン軍の占領、 1803 プロイセン王国の郡庁を設置、
11cの市壁は、SchlossParkのEhle川沿いに何百mか残るとの事だが、Groetzer
Str.がEhle川と交わる地点から東に、とびとびに100mしか確認出来なかった。
グレッツアー門 Groetzer TorTurm (11c) Zerbster Torとも呼ばれ、塔頂に町の紋
章を掲げる3階建ての円塔がある。
マルクトにぽつんと市庁舎とその東に宮殿がある小さな町。市庁舎前に守護女神の
戴冠頭像女性像が立つ。
市庁舎 Rathaus (14c) 古い木組みの建物に代わって、1895砂岩の前面と大階段のある鐘
楼付3階建ての市庁舎が三角形のマルクトに建てられた。
メッケレン宮殿 Schloss Moeckern (1705-13) 最初の城は木造で、ミュンヒハウゼンのクリスチャン・ヴィルムヘ
ルムによって建てられた。1840-63ハーゲンのアデルバート伯爵は英国ネオゴシック様式で城と天
守閣を結び付けて城を改造した。1813郷土館がおかれ、1812のナポレオン戦争ジオラマが
ある。1998城の基礎学校で子供達は学び、町は補修を行った。
聖ラウレンチウス町教会 StadtKirche St.Laureentius (955) 皇帝オットー1世はハンガリーに勝利した
後に町教会を寄付した。元のロマネスクの教会はルネッサンスやバロックに数回改装された。角塔
は10c、身廊は15cの物である。現在の外装は主に1581-93の改修で得られたもので
ある。中には、1585砂岩の八角洗礼盤、1678説教壇と絵画、1688火災後に内装が行
われた。
カールリンクのオルガン Kahring Orgel (1705) 町教会のオルガンは、アンドレアス・カールリンクにより製作・
据付けが行われた。彼の現存する唯一の大規模オルガンである。近代的な音階への転換
は1833-34になされた。
市庁舎 | 聖ヤコビ教会 |
西境界塔 | 南西壁 |
東南壁 | 東北壁 |
881-89 ハースフェルト修道院の十分之一税の場所としてミュンフェルン城が初言及、
11-15c ウーラドリゲ家が村を支配、 1350 町となった、
14c フレデリックス・ミュンヘルンが貿易・醸造・採掘に権利を得た。
1815 ヴェッテン家に属し、後にザクセン・フレイブルクに所属、
1816 ウイーン会議後にプロイセンになった、1944までザクセン州メルセブルク行政区に所属。
14cの市壁は、北東のAn der Stadtmauerに140mと、西南に20m残る。
別にAmPfarrturmに6×20mの石積が復元されている。
見当たらない。
マルクト広場が傾斜面にあり、珍しく低い方に市庁舎や観光案内所がある。旧市街
の北東側には長年の褐炭の採掘で掘り下げられた所に水が溜まりドイツで最大の人工
湖を生み出して、観光地になっている。旧市街地から歩道トンネルを抜けると、7分間
で湖を見下ろす壮大な光景が見下ろせ、湖にはマリーナが整備されている。
市庁舎 Rathaus (1571) 後期ルネッサンスの3階建の六角形の螺旋階段塔のある建物で町の
繁栄を表す華麗な石の絵画が飾られている。1613地下室ではビール保管所や刑務所・
拷問室があり、ツアーで見学できる。市庁舎の隣の郵便局には、博物館があり、地質
年代の説明・褐炭の採掘・鉱夫に生活などを展示。
市教会聖ヤコビ Stadtkirche St.Jakobi (13c) 4階建四角単塔のホール教会で、教会最古の
部分と塔の基礎は13cに遡る。本堂・バロック説教壇・オルガンは1718の火災後に建てら
れた。
鉱業キャビネット Bergban Kabinett () マルクト広場の北東側に3階建の工業展示場で、正面玄
関の東にはタマネギドームの監獄がある。
水城ミュンヘルン Muechelner Wasser Schloss (12c) 2-3階建の中央突出の建物。
バロック庭園聖ウルリッヒ Barockgarten St.Ulrich (1720) バロックのテラスガーデンは、聖ウルリッヒと
その庭師の邸宅からのみ利用できた。1921-25石灰岩の壁で3つの高さにまとめ、
芝と石壁のコンストラストが美しい。
市庁舎 | 聖大聖堂 |
市教会聖ヴエンツエル | 通り |
1012 マイセン辺境伯が交易拠点に城を築き初文書言及、1144 町となった、
13c ザクセン・ザイツの司教が町を支配、 1432 ハンザ同盟に加入、
1544 ザクセン選帝侯はナウムブルク事務所を設置、 1568 宗教改革を導入、
1618-48 30年戦争で経済的に疲弊した、1718 ザクセン・ザイツの死後ドレスデン選帝侯領に、
1815 プロイセン領となった、 1945 空爆、米軍占領、赤軍占領。
13cの終わりに、市場と大聖堂を中心とし二つの要塞が置かれた。これらは
15cに強化新築され、町の防御は土堤に18塔のある内側市壁と16塔のある外側市壁
で守れれた。全プロイセンに1835適用された石造都市法の導入により、市壁は大部分
がはぎとられた。今は旧要塞に沿って二つの環状道路がある。旧市街の周囲には
東と南に市壁が残され、大聖堂を囲む市壁は見当たらない。
マリエン門 Marien Tor (14c) 5市門の内唯一残り、中庭と2塔施設の珍しい形態で、
夏には中庭とマリエン広場で催し物が行われている。道路上の部屋には守衛と整備員
が住んでいた。19cには刑務所として使われ、1997-2000に改修後市博物館として
市壁の歴史を展示している。塔からの眺めは素晴らしい。
塩門の家 SalzTor Haeuaer (1834-35) 南の門に新しく古典主義の構築物が建てら
れた。
地方冠 Lands Krone (1463) 東南の隅の要塞である。
噴水 Wasser Kunst (1488) 南の塔で噴水もあった。側に市壁の通路がある。
ヴェンツェル塔 Groetzer Turm (17c) 高さ62mの塔で、聖ヴェンツェル教会の高さ46mの
デッキから展望は開けている。教区教会の鐘楼に加えて主要な見張塔であった。
ナウムブルクは世界遺産の町で、古くからの大聖堂とマルクトを中心とした市民の町とし
て後期ゴシックの網目模様のアーチ出窓と1517火災後のバロックの建物がある。
市庁舎 Rathaus (1517-38) 3階建の大きな建物で火災から免れたルネッサンスの部分も
残されている。切妻は特に初期ルネッサンスの形が見られる。1612ザクセン選帝侯の紋
章が正面玄関に掲げられている。
聖ペテロとパウロ大聖堂 Dom St.Peter und Paul (1042) 最初の大聖堂が建てられ聖体
拝領された。1542ドイツで初めてのルター派の司教が生まれた。大聖堂はロマネスクとゴシック
の建物で、主として初期ゴシックの記念碑的な彫刻で装飾されている。13c中頃の西の
内陣には創設者の等身大の彫像がある。地下室は後期ロマネスクで飾られ、ステンドグラス
は中世のもので、中世とルネッサンスの宝物が多い。
聖ヴェンツェル教会 StadtKirche St.Wenzel (1426) 17cに新しく建直され、内部は
バロックと化したが、中には1680祭壇・1724ルーカス・クロナッハ工房の2枚の絵画がある。
1746のバッハオルガンが本格保存されている。
マグダナのマリア教会 Marien Magdalenen Kirche (12c) 古い礼拝堂の上に、1712-30
バロックのホール教会が建てられた。1869から定期的な演奏会が続けられている。
エギヂエン礼拝堂 Agidien Kapelle () 大聖堂の北側の控訴裁判所の前に、聖ジャイルズ
専用の礼拝堂が建つ。Agidius伝説のドイツで最も古いロマネスクの絵画がある。これは
多くあったプライベートチャペルの一つで、今の大聖堂と同じ時期に建てられた。2007
に高い芸術性と歴史に重要なためザクセン・アンファルト州の「ロマネスクの道」に認定した。
ユダヤ路地 Jueden gasse (1350) マルクトの東南の路地で、1350からユダヤ人が集まり、
1440には22人が居住した。1494にはザクセン選帝侯フリードリッヒにより追放された。
その後19c半ばには一時的にユダヤ人が住んだ。
高等裁判所 Ober Landes Gericht (11c) マイセン辺境伯の城がザーレ峡谷に立ち、ネオバロック
の建物が1914-17に裁判所造で建てられ、1816以降は最高裁判所であった。
大戦後赤軍が使用し、1995改修後州高等裁判所となった。
市博物館 Stadt museum
高い百合 Hohe Lilie マルクトの北西の13-15cの4民家を集めて市博物館とした。
マクスクリンガーの家 Marklinger haus ライプティッヒの画家・彫刻家・グラフィックアーティストが
1903-2012に住んだブドウ園の家である。
ニーチェの家 Nietzsch haus ニーチェ(1858-97)の家で、1994から開館した。ニーチェの
人生と仕事を展示。
ヴァンツェル塔 Wenzels turm 塔頂の十字架の高さ72.74m、展望プラットホームの高さ
53.68mである。1991-2001に改修され、見張の住居の見学や展望ができる。
マイエン門 Marien tor 町の市壁の歴史の展示があり、塔からの展望も良い。
市庁舎 | 聖カトリーヌ教会 |
城と博物館 | 東壁 |
東北壁 | 北壁 |
1014-75 村として文書初言及、 1263 城と教会と町が建設された、
1547 シュマルカルデン戦争・1630 30年戦争で数回荒廃した、
1680 ブランエンブルク・プロシアンマグデブルク公国に直属した、
1807 まで木のサークルに属した、 1910 北のカルテンドルフと合併、
1942 短波放送局を開設。、 1952 GDRは国境閉鎖・制限区域設置、
1990 国境除去後西に通勤、 2009 新しく周辺統合。
中世の市壁は、西側のAn der Stadtmauerに主として残る。
金の畑塔 Goldacker Turm (14c) 南のブラウンシュバイク門の西に、5防御塔の最
後の一つが残されている。1901ひどく壊れた塔は、実業家 Goldackerが再構
築して夏の別荘として使った。大半円と四角の複合形の2階建に平屋が付いて
いる。今はヴォルフスブルク料理組合の趣味のために使われている。
アレ-川沿いの小さな町で、14-19cの木組の家が並び、大きな城には高さ27m
の天守閣がそびえる。
市庁舎 Rathaus (1200) 町の中央広場に、二棟の破風2階建の建物が接して立
っている。幾度も改造が行われ1892には、建物の正面入り口が表通りに面
して付けられた。1年後にはそこにローラント像が乗せられた。
城と博物館 Burg und Museum (10c) 初め交易路保護のために設置され、1014-73
町と城は寄付された。1300中世の都市要塞に取り込まれた。1547シュマルカルデン
戦争で城と町は何度も荒廃した。1710不規則な5角形の形状で3階の建物が
取り巻き2つの中庭が保たれている。入口に近い小さな中庭には高い四角塔が
立っている。今この城には、博物館・図書館・文化の中心・観光案内所がある。
聖カトリーヌ教会 St.Kathorinen kirche (13c) オペフェルドの貴族が城の直後に疎石
で設立し寄贈した。1381に司教座の席となった。1901-02人口増で、ロモネスク
の身廊を東に延長した。2011塔は改修されたが、西に95cm傾いている。塔の
西壁には、十字架上のイエスの像の彫刻石板が埋め込まれた。
市庁舎 | 聖ニコライ教会 |
994 皇帝オットー3世の文書に北の辺境として初言及、
1052 ハルバーシュタットの司教が城を所有、 12c 町は開発され3門のある要塞に、
1235 市場権・都市権を保有した、 1540 宗教改革の導入、
1542-45 城の再建、 1534 城にブランデンブルクの司教が入った、
17c 幾つかの大火災、 1816-59 郡庁の所在地、
1840 ビートによる砂糖工場の開設、 1945 第2次大戦の爆撃による大被害。
12cに450m×450mの市域を二重市壁と堀で囲んだ。
壁があって距離を取っていた。
12cには、東西南北に4市門が築かれたが、見当たらない。
小さな町で、美しい木組みの家と復元された建物がある。
市庁舎 Rathaus (13c) 1689 大火で破壊され元消防署の敷地に1631に2階部分が17
36に3階部分が建てられた。1920ホテルとレストランの建物を買収し大会議室と管理棟
を置いた。
アムプファス城 Burg Ampfurth (12c) 旧市街の外北東に、領主はBurg Mannenを1381
に建設し、1608-15に美しいルネッサンス新城を建てた。古い城の階段塔が残り、18
38-53プロイセン電報局として使用された。1897ウーンシャフェの子孫が所有。城の西翼
と北翼の一部はまだ使われている。ハトの塔は中庭にまだ立っている。
聖メアリ教会 St.Maria(1868) 町にカトリックの労働者が来て、1857カトリックの学校を設立し
1858牧師を置き、1868ネオゴシック煉瓦造の教会を建てた。1970に改修した。
聖ニコラス教会 St.Nikolaus (806) 初めはキリスト教布教の段階でシュテファニ教会が建てられた。
17cに火災で壊れ、1659バロックで建てられ、1885塔を除いて壊されネオゴッシクの大
ホール教会として再建された。1944空爆で屋根が破損し応急修理されたが、1969
の嵐で壊れ使用できなくなった。1987には修復された。
市博物館 Stadt Museum 町の文化と歴史・クロック時計・ミニィチュアカー等の展示。
ハントメアースレーベン郷土館 Heimatstube Handmersleben ハントメアースレーベンの旧市庁舎に、
昔の洗濯場・居間・寝室・台所と農場の機材を展示。
市庁舎 | 博物館 |
市壁 |
10c ニコライ教会と北の城に町を形成、 1157 伯爵ヴェルナー世の分書で新しい町を言及された、
1281 市壁に拠る町の要塞が初言及、 1390 ブランデンブルク辺境伯は市裁判所を設置、
1436-83 ハンザ同盟加入で発展、 17c30年戦争で何回も略奪・放火、 1761 大火事で2/3焼失、
1816 地区の町となり178年間保った、 19c 町は西と南に拡大した、 1859 王立教師大学設置、
13cに新市街地は3門・野石の市壁・堀を備えた要塞で守られた。18cには市壁外への交通の障害
となり、門は取り除かれた。建物の石材が必要となり市壁も殆ど取り壊された。北東部で僅か2か所に残り
が見られルる。
旧シーハイザー門 Ehem.Seehaeuser Tor (12c) 旧北門は18cに解体され、今はブライト
通りの北大きな壁画で示されている。
市庁舎 Rathaus (13c) ゴシックの市庁舎は30年戦争で焼失し、1668-70に再建した。
1771に現在の場所に地下室を備えた新市庁舎が再建されたが、1761に大火事でまた焼けてしまった。
1879と1904の大規模改修と拡張で今の姿になった。
聖ニコライ教会 St.Nikcolai Kirche (12c) 新市街にロマネスクの大聖堂が建てられた。15c
のハンザ最盛期に3廊ゴシックのホール教会に改装された。1761の火事で塔のゴシックのフートaedchen ゙は壊さ
れバロックのフードに取り換えられた。1890の改修でロココの家具は外られ、ネオゴシックとなった。中には、1442
のブロンズの洗礼盤、1598の説教壇、15cの十字架のキリストは価値がある。
地区博物館 Kreis Museum (1762) 木骨造の建物に1954から地区博物館が設立され、
かっての職人と農業の町の歴史と民間伝承を展示してしている。
旧市立学校 Ehem.Stadt Schule (1770) 堂々としたKreyenberg Schule Haus は
1834に小学校となった。1936地区郷土博物館の最初の展示室となった。1980に市立と地区の図書館
を収容した。
旧ゼミ養成学校 Ehem.Stsedische emineruebungs Schule (1908) Msrkgraf-
Albrecht-Gymnasiumに現在属している。旧Royal Teachers Semnary の複合施設。
旧市女子学校 Ehem.Heimatstube Handmersleben(1864)ブルク通の民家を購入して
小学校を拡張した。学生増で1888-89に近隣の土地を購入して市小学校の女子校を建設した。
1995改修後に高校の芸術分がここに移った。
切妻の家 Giebel Haus (18c) 博物館の対角線にある古い切妻の建物は、1761の火事に
生き残った、当時の街並みを知る唯一の建物である。
市庁舎 | 木組家 |
木組家 | 木組家 |
804 ハルバースタットの宣教師が木造教会を再建、 974オットー2世は市場権・慣習法を授与、
1073 大司教からの手紙で初言及、、 1495 大洪水で町や市壁は破壊、
15c 裕福な職人・商人・農民は壮大な木骨造の家を再建した、
1511 大火で町は焼失、 1844 大火災で町は損傷。
北のVogteiPlatzで40mと西のGartenStr.の北端に30mに市壁の痕跡がある。
見当たらない。
歴史的な木組みの町で、記念碑的な木組の家376戸の半分は1720以前に建てら
れた物で保全も進んで、美しい景観を示している。
木組の家 Fachwerk Haus 多くの木組の家が保存されている。旧市街の中心には、約
100戸の木組の家が1970年代に補修され、今は町の約半分の400戸の木組の家が
保護され、美しい中世の街並みが見られる。
ゴシックの木組の家(-1521)、ニーダーザクセンの家(1533-84)、ルネッサンスの家(1580
-1640)、バロックの家(1640-1780)の家並みが、空き家で寂れた感じもあるが、
美しい彫刻や碑文に満ちている。1480最古の家はチャペル通りにある。
聖ステファン教会 St.Stephan Kirche (12c) 最も古く大きな教会で、高さ54と53mのロマネスク
の塔は12cに付けられ16cに添加され、屋根は新たに1983スレートで葺かれた。ロマネスク
起源の西側前面は1512に再建された。身廊は工事や老朽化で荒廃したが1552-57
に再建された。13c金属洗礼盤、15cゴシック祭壇がある。1990大改修。
町博術館 Stadt Museum (1265) 1450-60に拡張され、市庁舎として1923で市長と市
議会が入り、1933労働局が使った。戦時中は登記所として使われ、1945からは学校
・事業所ともなった。町博物館として、先史時代からの町の歴史・靴屋の作業場・初
めての屋内便所・木造家具・革貨幣・武器庫等を展示。
旧市庁舎 | 門塔 |
北壁 | 北西壁 |
北西壁端 |
965 オットー1世の手紙に城の言及、 1012 ブランデンブルク大司教区に、
1290 ザクセン・ビーテンベルク伯爵領へ、 1334 地方自治法の記録がある、
1335 ルドルフ1世は水城を築いた、 1400 土堤・市壁・3門の新しい町の成立、
1530 大火災焼失し道を拡げ再建、 1637 30年戦争の略奪・飢餓・ペストで衰退、
16cから町の土地構成をを守り続けている、 16c終ザクセン選帝侯はリヒテンブルク城建設、
1807 プロイセンに帰属した、 2002 大洪水で町は大被害。
14cに築かれた石積の市壁は煉瓦で再建されている。北側は明らかに市壁跡
と分かるが、南側の煉瓦積の壁は外構壁のようで、市壁ではなさそうである。
上門塔 OberesTorTurm (15c) 北東にに、3門の内唯一残る4階建の円塔で、北側
に2階建ての14-18c衛兵の家が付いている。
アンナブルク市内のエルベ川東岸の小さな町で、旧市街には17-19cの古い建物は一
見の価値がある。リヒテンベルク城には城博物館があり、城の内部や歴史、その後の
刑務所・強制収容所の経緯も分かる。国道からの経路に在るフェリーは趣のある渡し
船で、のんびり川渡りが楽しめる。
旧市庁舎 Altes Rathaus (15c) 飾り気のない2階建ての建物は、21cに改修された。
聖マリア市教会 StadtKirche St.Mrien (11c) 14cにゴシックの煉瓦造の建物になった。15
30火災により鐘楼・オルガン・天井は焼失し、1582に修復された。木製の祭壇は、
リヒテンブルク城教会に置かれ1614に設置された、説教壇・鐘は市内の新教教会から
贈られた。1886高い尖塔を付けた。
高齢者クラブ三つのバラ Seniorentreff Drei Rosen 高齢者が集い、様々なサービスが提
供されている。
聖アンソニー修道院 St.Antoni Kloster (1312) 現在の城、リヒテンベルク修道院の敷地内に仏
の聖アンソニー修道会病院として建てられた。1533に火災に遭い、1570に世俗化さ
れた。
リヒテンベルク城 Burg Lichtenberg (16c) ザクセン選帝侯アウグストとその妻デンマークのアンアは、
昔の聖アンソニー修道院の跡地に、1574-82ルネッサンス3翼の宮殿を建てた。1611-41ニーダ
ーザクセン選帝侯クリスチャン2世の妻は、夫の死後ここに住み、城を拡張し中庭を整え
た。1685-1717プファルツ選帝侯カールの妻は、夫の死後ここに住んだ。1811放置さ
れ、遺跡が刑務所に、1935-39女性刑務所、1939女性強制収容所となった。
1970町と地域の歴史博物館となり、16c宮殿の絵画も見られる。
フェリー Faehre (1431) 両岸に渡したワイヤーと上流にアンカー・ワイヤーを使ったフェリーが今も運行
している。フェリーは人と車を合わせて40tを運べる。フェリーの家1835は住居であっ
たが、1995に改修され、今は食堂と宿屋となっている。
市庁舎 | マルクト広場 |
ゲンシィルト塔 | 東壁 |
南西壁 | 広場 |
聖セルバティウス教会入口 | 聖セルバティウス教会 |
西塔 |
922 ザクセン公ハインリッヒ1世に関する文書に言及、 936 宮殿でハインリッヒ1世死去、
936 女王マチルダは貴族の娘の修業の場として女子修道院を設立、
994 皇帝オットー3世は市場権・鋳造権・課税権を授与、1164-80 近郊で戦争勃発、
1180 獅子王ハインリッヒが新市街を設立、 1327 新旧市街の合併、
1426-77 ハンザ同盟に加入、 1477 市民は修道院との武力闘争で政治特権獲得、
1539 宗教改革導入、 1802 修道会は解散し、城はプロイセンが所有、
1862-82 修道院教会を修復し南塔を新設、 1869 破損1477のローラント像を再建、
1936 修道院教会の拡張、 1945 米軍の砲撃で被害。
10cに市場と市場教会の周辺に定住地を形成し、12cに営農住民の多い新市街
が聖ニコライ教会周辺に設置され、それぞれが市壁で囲まれた。1327には新旧市街
を統合して一つの市壁を築いた。 市壁は全周に切れ切れに残っている。
新市街の市壁の東側に3つの望楼が残っている。
羊飼いの塔は、後ろの家に組み込まれて住宅として使われている。
ガチョウ飼育塔は、4階建て角塔で、殆ど元の状態を保っている。
Turm OpinTittenPlanha, 1900に改修された。
恐ろしい塔 Schreckeens Turm 市壁塔の一つで、中世には刑務所として
使われた。開殻塔の市街側は木製トラスが付けられている。
城と修道院教会のある岩山の北側に広がるこの町は、古い木組みの家が立ち
並び狭い街路が多く17cの町の雰囲気を忠実に伝えている。マルクトは市庁舎をは
じめ17-18cの建物が立ち並んでいる。
[Alte Stadt]
市庁舎 Rathaus 1310) 1616-19に紋章付ルネッサンスの建物になり、1889-01
に南翼に拡張や補修が行われた。議会会議場の壁面内装は一見の価値がある。
市庁舎の前のローラント像は、1477に破壊され、1869にドイツで2番目に小さな像で
再建された。
聖ベネディクト市教会 Markt Kirche St.benedikti (11c) 後期ゴシッくの教
会で、前のロマネスクの西前面が残されている。雷で壊された塔の一部は残ってい
る。内部はバロックで飾られているが、南通路にはゴシックの祭壇がある。
エギディ教会 Agidi kirche (12c) 元は村の教区教会であった。ロマネスクの
部も残るゴシックの教会は、白と金の美しいバロックの装飾がある。市壁に近接し
て立つ風格のある塔には、軍事的な目的もあった。
聖ブラジウス教会 St.Blasius Kirche (10c) 今の建物は1715に全く新しい
ロマネスクの塔と八角形の本堂の建物を建てた。内部はバロックのホール教会で、内装は
白と黄金色であり、唯一赤バロックの祭壇を目立たせている。
市参事会計量所 Rats Waage (1690) 穀物市場に在る木造の建物で、
1850には市参事会が入った。
ザルファード家の宮殿 Palais und Wohnhaus den Familie Salderd (1737)
穀物市場に評議会財務のRoetger・Salfeldが大きな砂岩の前面と漆喰天井の宮
殿を建てた。1745-07にロココに改装されて、居住宮殿のほか一部は地方裁判所
となった。財団が二つの建物を購入し改装して、催物会場として使った。
ハーゲンの館 Hagensches Freihaus (1564) ハーゲン男爵が新旧市街の間の町
の城を、ルネッサンスの荘厳な宮殿とした。格子天井の広間にルネッサンスの木彫りの扉
がある。今はホテルに改装されている。
[Neu Stadt]
聖ニコライ教会 St.nikolai Kirche (12c) 農民の教区教会であった。以前
のロマネスクの部分を残したゴシックの教会が建てられ、内装は殆どバロックである。
72mの高塔は、羊飼が野原で見つけた宝物による。
柱造り博物館 Staeaender Bau Museum (14c) 1300を超える古い木骨造
の家が存在するドイツでも大きい中世の町であった。基礎から屋根まで柱を
通し、二つの床の梁が付けられている木造の古い形である。家は博物館とし
1965修復された。枠組みの進展の歴史・木材の関節の方法・大工道具塔展示し
た。1997焼失し修復して再開された。
ステンドグラス工芸博物館 Museum fuer Glaskunst & Kunst Handwerk (17c)
歴史的な木組みの建物は、博物館として復元された。ステンドグラスの光や色につ
いてワークショップと意義や歴史について展示されている。
[Schlossberg]
聖セルバチウス教会 Stift Kirche St.Servatius (1070-1139) 司教区教会。
9c創設の教会の跡に建つ現在のバジリカ会堂はラテン十字形をしており1129献堂
された。内陣の下に3廊の地下聖堂1320には、最初の独王ハインリッヒ1世と王妃マチ
ルダの墓があり936に埋葬された。1936後陣の内装はロマネスクに復元され、両塔は
19cに修復された。1945米軍の砲撃で尖塔が壊され今の平らな屋根となった。
修道院の建物 StiftsGebaeude 女子修道院の住宅には城の博物館がる。
何世紀にもわたってロマネスクの要素はバロック的に多数の変更や拡張がなされた。
城博物館には、16-17cのイタリア絵画・女子修道院長応接室・女子修道院の生活
・王座の間を展示している。
城館 Schloss (16-17c) 修道院として使われた不規則な建物。
[Muenzenberg]
コイン博物館 Muenzen Museum (16c) 廃棄された聖メアリ修道院に手を入れて
16c終わりに鋏研磨機が置かれた。その後コイン博物館を置き、コインの変遷や聖
メアリ修道院の建築史を展示している。
市庁舎 | 東二重壁 |
東南二重壁 | 西二重壁 |
531 チューリンゲンは敗退しザクセンが城を獲得、 743 城と修道院の文書初言及、
973-1009 貴族領主フランが支配、 1198 都心部の市壁が文書記録、
1200 コンラッド2世は都市権を授与し町は繁栄、 1357 20の塔を持つ外壁の建設、
1496 マグデブルク大司教の領地へ-1635、 1528 ペスト流行その後も繰返す、
1542、宗教改革の導入、 17c 30年戦争の略奪と大火災、
1663 ザクセン・クヴェアフート公国の首都で復興、 18c 7年戦争・ナポレオンの略奪、
1871 プロイセン帝国へ 、 1945 空爆による被害。
都心の市壁(13c)全長1.03km、城の東側の丘の上に良く保存された中世の市
壁がある。北と西と東で、璧厚1.6-1.8m高さ最高7mの二重壁であり、西と南は
高さ5-6mに達する。北東と西を除いて0.64が残されている。
外側の市壁(14c)全長3.05km、元郊外を囲んで防衛建物と構築物が造られた。
都心の市壁には3門、外側の市壁に4門と20壁塔は円塔と角塔を交互に設けたが、
残っていない。
丘の上に旧市街があり、その西に城が城壁に守られ整備されている。特に
東側第1次二重壁は良く保存されている。
市庁舎 Rathaus(12c)1455の市庁舎は1655と1678の火災で破壊され、今の
市庁舎はその後に再建された。建物は2階建で高く急勾配の屋根を持つ。
切妻の西側には開口部のある石の塔が飾られている。南部の中央に正方
形の4階建ての塔が在る。建物の上階には大広間、地下には広間・計量所・
2監獄・守衛室があった。今は市長室と市議会場として使われている。
クヴェアフート城 Burg Querfurt (880) 12c城教会の建設、13c拷問塔の建設、1350
外輪壁の建設、1460-90要塞と西塔の構築、1528豪壮な邸宅へ変換、1535
穀物・磁器倉庫の建設、1640-50スエーデン軍の占領、1663ザクセン公国の首都、
1815プロイセンの城、1952城博物館の開設、1972改修を開始。
マルクト広場 Msrkt Platz (12c) 中世の広場はバロックの装飾的な建物に囲まれて
美しい。
聖ランパート市教会 StadtKirche St.Lampert (14c) 後期ゴシックのホール教会であり、
1523北側の聖具保管室は拡張され、1655大火災で焼失し1662再建したが
1678再度焼失、1684-86再建され、1703-09バロック帽子の塔が付けられた。
1985-92大改修が行われた。
カルメル会修道院 Karmeliter Kloster (14c) マリエンツェル修道院の聖ベネディクト庵とし
て設立され、遅くはカルメル会修道院に変換され、1618教会と共に焼失した。
当時の修道院の中に建設された学校の建設に石材は使われた。
マリア庵室修道院 Kloster Marienzell (1120) ベネディクト会修道院の芸術性の高さ
を示している。二つのロマネスクの柱列は、市教会の中に配置された。1558に修
道院は解散され、荒廃が放置された。1643に30年戦争で焼かれ、1654には
16本の柱と基礎壁が残った。残った柱の内2本は市教会の中に立っている。
霊教会 Geist Kirche (17c) 聖ゲオルク病院の元病院礼拝堂として建てられ1848
-50に全く新築された。聖ヨハネと聖ゲオルクの両病院の統合で18cからGeist-
Kircheと呼ばれた。
新旧市庁舎 | 簡易裁判所 |
石門 | 新ペルファー門 |
西壁 | 東壁 |
東南壁 | 教会 |
800 塩の道の入植地に城を築く、 1112 城に初言及、1134アルバート・ベアが取得、
1233 アルバート家が町を築いた、 仕立屋のギルドが布貿易権を得た、
1247 旧市街の北東に新町を建設、 1263-1518 ハンザ同盟ゴットランド島の取引権保有、
1314 旧市街は都市権を獲得、 1315 侯爵の減税による市壁の建設、
1470 新市街の市門が完成、 1488 反乱で諸権利を失い、ビール戦争に敗れた、
1642 30年戦争で破壊され拠出金を取られた、1713 新旧の町は合併された、
1816 町は郡庁所在地となった、
1945 第2次大戦の被災はなかったが、その後多くの古民家が失われた。
14cの市壁は高さ5m長さ2.9kmで新旧市街を守った。今の市壁の高さは3.5m以下
で、1.63kmが残っている。
このハンザ都市には、かって10市門があった。
新パーファー門 Neuperver Tor (1460-70) 新市街の正門であり、元の内側の門が
残っている。簡素な2階建ての切妻付の煉瓦門塔である。
石門 Stein Tor (1530) この塔はかって刑務所として使われた。三角形の切
妻は後期ゴシックの装飾で両側を飾れれている。
城塔 Burg Turm (17c) 城は塩の道を守るため9cに建てられ、1112に言及さ
れた。13cには直径220mの水城となった。1899爆破されて放棄された。
今でも高さ27mの天守閣が残る。
配水塔 Wasser Turm (1903) 高さ43.7mのネオゴシックの高架水槽であり、1981ま
で使用された。この塔により木製給水から鉄管に置き換えられた。
空腹塔 Hunger Turm (15c) 南西の公園に立つ監獄塔である。
旧市街の北に城がありその北に新市街がある大きな町である。市壁が多く残さ
れ、多くの古い木組の建物もあり、両マルクトも賑やかである。
旧新市街庁舎 Ehem.Neustaedter Rathaus (16c) ルネッサンスの八角塔で、1703
嵐で損傷を受け新市街の市庁舎・地下レストランとして再修復された。1801上部床は
降ろされゴシックで建てられた。1820町は市庁舎・地下レストランを売ってその場所に塔
と黒鷲の建物が残された。
旧旧市街庁舎 Ehem.Altstaedter Rathaus (16c) 2階建煉瓦造の建物に多く
くの階段切妻が付いている。今は、地方裁判所に使われている。
僧教会 Monchs Kirche (13c) フランシスコ会修道院の2廊の教会として建てられ
た。14-15cに構造上の変更後に今の姿になった。1541宗教改革後にラテン学校にな
り、19c高等中学、1895市庁舎、20c駐屯地教会として使われた。
聖ロレンツ教会 St.Lorenz Kirche (13c) 初めロマネスクの大聖堂としてレンガで造ら
れ、円型の入口の上には切妻がある。1692塩の倉庫として使われ、南側通路と塔
が取り除かれた。1997から掘削調査が行われた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 初め野石積の建物であったが、15cゴシック
5身廊の翼廊と交差空間のある煉瓦積大聖堂に再構築された。高さ86mの八角形
の塔は西翼造られ教会の中になったが、やや傾いている。中には、16cの8*6mの
美しい彫刻・14-16c壁画・ステンドグラス・洗礼盤・説教壇がある。
聖カサーン教会 St.Kathannen Kirche (14c) 新市街の翼廊のない二重ダイヤフラム
切妻で飾れれた煉瓦造のバジリカである。豊かな教会には、ユニコーンの祭壇・3彫像・
後期ゴシックの壁画・木製の説教壇・聖堂の洗礼盤・小さな絵画がある。
ジェニー・マルクスの家 Jenny Marx Haus (1737) 市長のための住居として単純な
後期バロックの建物が造られた。1809-16副知事が住み、カール・マルクスの妻となるジェニー
を産んだ。1969-87マルクス家族の博物館になり、2005音楽学校として使われた。
高い場所の家 Hoch Staeder Haus (15c) 木組みで最古の旧醸造所である。
16c西の前面は垂直の部材が強調されている。
旧鋳造所 Alte Muenze (15c) ここでは1314から硬貨が鋳造された。右側の
2階建て煉瓦造の建物はリューネブルクの商人の家をモデルとし、左半分は木組の2階建て
の建物である。今は商工会議所が使っている。
ラテン学校 Latein Schule (16-18c) 木組みの建物の一群は、元新市街のラテン
語学校であった。その後16c煉瓦積に漆喰塗の地階に、木組みの床と階段塔を置
き、塔室に17c花の絵がある。
賑やかな通り Reiche Strasse 川に沿って美しい木組みの家並みが続い
でいる。復元された1586の商店もある。
ダネル博物館 Dannel Museum (1578) この建物は、壮大な出窓の3階建ての木
製の旧厩舎であった。校長で歴史学者のダネルが住んで郡博物館と名付けた。ハンザ
都市として栄えた町と地方の文化的・歴史的展示がある。
市庁舎 | 南二重壁 |
南壁 | 東壁 |
ヤコビ教会 |
780-802 フルダ修道院の管轄、 811-899 ヘルト修道院へ1/10税納付、
991 皇帝オットー2世からの手紙に言及、 1004-17 市場権、1194都市権の付与、
1204 町となり柵で守られた、 1247 ヴィッテン家のマイセン辺境伯が要塞拡充、
1263 町は西に拡張し市壁を築く、 1525 農民戦争参加の市民に罰金・処罰、
1618-48 30年戦争で衰退、 1815 プロイセンのニーダーザクセン州になった、
19c末 機械・家具・皮革・チーズ・砂糖製造、 1945 第2次大戦は殆ど無傷。
第1次市壁が、南側に一部二重壁で残っている。
南側に Kylischen turmなど4壁塔がある。
古い町で、中世からの教会や市庁舎が残り、ルネッサンスの家々が残っている。
ヨーロッパ・バラ園には世界的なバラのコレクションが見られる。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1268) 古い木組みの市庁舎は1358の火事で焼失し、
1431-39同じ場所に石造で建てられた。1604西側の増築が行われ、北側に
石の頭が壁に埋め込まれている。市庁舎とマルクト4番地との間に、ラッツケラーへ市
参事会員が濡れずに行けるように木製の屋根付通路がある。今のラッツケラーは市
庁舎の中に在る。屋根はバロックのランタンで飾られた。
州庁 Kreisver Waltung (1892-98) 1816ウイーン会議でプロイセンの州庁となり、隅塔付
2階建ての州庁舎が建てられ、外観と内装は1996-98に大規模改修が行われた。
旧城 Altes Schloss (1260) ヴィッテン家のマイセン選帝侯は国境の要塞として建て、
魔女の塔が残されている。1269拡張して再建された。後に知事を収容し
裁判所・兵器庫・穀物倉庫として使われた。1622新宮殿が完成して重要性は失わ
れ、1818刑務所倉庫などになった。今は音楽学校が入っている。
新城 Neues Schloss (1616-22) ザクセン選帝侯カスパーがマルクトの南東側に印象的な
ルネッサンス3階建ての建物を建てた。1586西翼の建設。東の角の2階建てのペイ
ウインドウは2010に復元された。1711-36ザアクセン・ワイセンフェルス侯爵の第2住居となり、
1746-51ザクセン・アイゼナッハ未亡人が住んだ。今は地方裁判所が入っている。
ウルリッヒ教会 Ulichs Kirche (1116-23) 3廊の十字型柱アーチのロマネスク・バジリカ1200
-1539直ぐ北のシトー派修道院の教会となった。15c塔にはゴシックのランタンをで、付
け、1892-93内装は再ロマネスク化された。北翼廊に墓石と碑文・興味深いタンパン・
1200内陣の壁画・1369青銅洗礼盤があり、1993ウルリッヒ教会となった。
ヤコブ教会 Jacobi Kirche (1271) 初めの教会に代わって、1457-1542に後期
ゴシックの3廊ホール教会に建て替えられた。高さ61mの鐘楼はバロックの帽子が付
けられ、東西の時計の文字盤の絵に黄金の月がある。内は1665の絵が印象的、
1539修道院から3部構成の祭壇画が来ている。1726オルガン設置。
心のイエス教会 Herz-Jesu Kirche (1897) 1539宗教改革以来カトリックの教会は無か
ったが、19c後半の労働者の流入で、聖マリア教会の一部を借りて礼拝を行っ
ていたが、1894北西にゴシック・リバイバルの教会が設立され、内陣のステンドグラスは
目を見張るものがある。
マリア教会 Marien Kirche (1350) 郊外の新しい村のゴシックの教会で、町で2番目
に古い建物である。今は展示会・講演会・演奏会等が行われる文化施設。
シュベングラー博物館 Spengler Museum シュペングラーの収集物を元に地質学・自然史
・先史時代からの町の歴史・芸術家シュレーフの作品が展示されている。
シュペングラーの家 Spengler Haus (2001) 大工グスタフ・アドルフ・シュペングラーは、大工
の店と伝説のプライベート美術館を持っていた。ここはシュペングラー博物館の分
館として開設され、特異な構造の建物と大工機器を有している。
市庁舎 | 聖ヴィンセンツ教会 |
マルクト広場 | シェーニンゲン宮殿 |
西壁 | 南壁 |
1152-92 マグデブルク大司教寄付文書に初言及、 1490 都市条例承認、 1582 追加条例承認、
1347 魔女裁判が行われた、 1665-1745 プヒュ-エル家が所有、 1798 ザクセン選帝侯に売却、
1806 町を仏が占領、 1945 2次大戦の被害は些少であった。
1839に取払われた高さ4-5mの市壁は、エルベ河畔にある塩門とその東にあるBaryer門との間に、
まだ残っている。
塩搭 Salz Turm (1613) かっての中世の要塞で、切石で造られた高さ37mの四角搭は
1839に取壊された中世の塩門の一部で、1613に繋がって更新され、バロックのグロッケンシュティールのある三重のボ
ンネットが付けられた。現在の塔の外観は、1711-12に形成された。四角い塔には警備員が住み1時間ごとにホ
ーンを鳴らした。1993に二重階段の設置を含めて大改修が行われ、搭には展示場が設けられた。夏の間には
30m以上の高さからの展望のツアーが行われている。
市庁舎 Rathaus (1788) 最古の市庁舎は1788に廃止され、塩の塔の対角線上のマルクトに
に建てられた。1892-93に同じ場所にネオルネッサンスの2階建のポータル出窓・外階段で建てられた。
聖ヤコビ教会 St.Jakobi Kirche (13c) 初期ゴシック3通路陸屋根のの大聖堂は切石で建てら
れた。数年後に西側に二つの四角搭が付けられ、1735にランタン付きのバロックのフードとなり、1840にネオゴシック
の西ポータルが設置された。18cと1845に大改修が行われ、1876の洪水で浸水したため内装は殆ど更新さ
れた。
塩貯蔵庫 Salz Speicher Haeuser (1876) エルベ川沿いにある長さ133mの塩倉庫で、ヨーロ
ッパ最長の木骨造の閉鎖式アンサンブルである。今は25室の自給式コンドミニアムとなっている。
塩の花 Salz Blume (1997) デンマークの芸術家がエルベ川沿いに、鉄塔の上の鋼鉄製の塩の花
の芸術作品を、ランドマークとして建てた。
産業博物館 Industrie Museum (1908) 旧発電所は2013から産業博物館となった。
アールヌーボで建てられ、発電所・変電所・管理棟・住宅がある。
市庁舎 | 聖ヨハネス教会 |
1170 マグデブルク大司教からの寄付調書に初言及、 12c エルメンで岩塩の採掘、
1576-1664 魔女裁判が36回も行われた、 1663 ブッフエル家が所有、
1680 グロースザルツェの町はブランデンブルク=プロイセン・マグデブルク公国へ譲渡、
1802 ドイツ初のスパが開業した、 1894 エルメンの町を併合してグロースザルツエの町となった、
1926 町はバートザルテェルメンと改名、 1932 シェーネベック市に併合された、
14cの市壁の跡は、門から南に高さ4-5mの市壁が100mある。
塩搭 Salz Turm (1613) 中世の市門はレンガ積で3階建の四角搭で最
上階に木造の見張室がある。高さは37m。
1711-14に現在の形になり、1993には大掛かりな改修が行われ階段が付けられた。
市庁舎 Rathaus (14c) 2階建の屋根に鐘楼の付いた建物で、1932のシェーネベック市への併合
後は、1954からSalzland Museumとして、ザルツラント地区のエルベ川とザール川流域の産業・水運について
展示している。
シャーデンベレ城 Burg Schadenbile (1310-19) マグデブルク大司教によって建てられ、1523
と1804に拡張された。城は1806に占領されて労務者宿舎後に軍病院として使われた。1874に3階建の
居住部分と門屋・一部周壁を残して壊された。1961に介護施設となった。
フンメルベルク Hunmelberg (1781) 西5kmの山中に夏の離宮としてあり、かっての高さ94.4mの展
望台は1860に移転され、東斜面は1980に庭園となり、1841に2階建の建物が建つた。高さ13mの塔を
1956-61に展望台として使用した。1893に水タンクは稼働し今でも給水している。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1906-08) ネオゴシックの十字形の平面で、工業化に伴うカトリ
ック教徒増加のためレンガ造で建てれられた。1980に教区は15c前半の聖マリア像を獲得した。
地方裁判所 Amtsgericht (1909-11) ネオルネッサンス3階建5軸の建物で中央に三角形の切妻が
ある。現在の複合施設には中庭の4階建の刑務所と警備員宿舎がある。
市庁舎 | 聖ヴィンセンツ教会 |
マルクト広場 | シェーニンゲン宮殿 |
西壁 | 南壁 |
748 ブランズヴィック公国で古い所と言及、 10c 塩鉱床があり集落は遅れた、
994 皇帝オットー3世は軍時作戦実施、 13c ドイツ騎士エルムスブルクが来た、
1347 ヴェルフスは国境を守る城を築いた、 14c ブランズヴィック侯爵未亡人の住居、
14c 町は都市権を授与され市庁舎を建築、16-17c ルネッサンスの大複合宮殿を建設、
2016 褐炭の露天堀は終了。
14cの市壁の跡は、南西のWallGrabenと北東のPennyMarktにある。
見当たらない。
マルクト広場・宮殿・修道院跡が見所である。
市庁舎 Rathaus (14c) マルクトに立つ3階建の飾り気のない四角い9窓列の大きな建
物。
市教会聖ヴィンセンツ StadtKirche St.Vincenz () 身廊の屋根の延長線上に太い西塔
がその上に立つ特徴的な教会である。
シェーニンゲン宮殿 Schloss Schoeningen (1350) 初めヴェルフ公マグヌスが狩猟用ロッジを所
有した。ハルバーシュタットとマグデブルクの司教達の国境の守りにも使われた。シュマル
カンド戦争で城は損傷した。後に居住施設となり、1568-1659ブラウンシュバイク公
爵夫人の居所となった。17c宮殿複合施設は壮大な規模となり、ヴォルフェンビュ
ッテル侯爵グニルフの狩猟宿舎として使われた。1733にはプロイセン皇太子フリードリッヒ
が滞在した。
聖ローレンス修道院と教会 Kloster und Kirche St.Lorens (1119) ハルバーシュタット司教
ラインハルトは既存のベネディクト修道院を聖ローレンス修道院へ昇格した。15cには修道院
本体は破壊され、15cにはゴシックに変換された。1690落雷で塔が破壊された。
1648には世俗化された。
郷土博物館 Heimat Museum (1981) 1593ルネッサンスの古い3階建の古いラテン語学校
の校舎に博物館が収容され、地域の歴史を展示している。
ロープ博物館 Museum (2004) 宮殿の中にあり、歴史のあるロープ産業の経過・製品・
製造方法などを展示している。
聖ペトリ教会 | 南東壁 |
南壁 | 西壁 |
北西壁 | 北東壁 |
924 ヘンリ-1世はハンガリーに対抗し多くの城や砦を築いた、
1062 アウグスブルク司教が村を引き継いだ、 1201 城が壊れた後伯爵レーゲンシュタインへ
1270 町として初言及された、 1334 巡礼教会が設立された、
1345 広場にペトリ教会を建設、 1400 町は3門の市壁を建設、
1560 火災で55戸焼失、1623も63戸焼失、 1638 疫病流行で多数死亡、
1786 7年戦争で仏軍は町を包囲・略奪、 1850 砂糖工場の稼働。
市壁は、昔 強盗と争いから町を守った。この町もまた市壁を持ち、今日ま
でも市壁は残り町の観光資源となっている。南側の市壁は相対的に低いいが、
そこには低湿地で自然に守られている。TurmStrasseでは市壁は明らかに高く
厚い、そこは平らで川の守りもない。この部分はPanne塔もあり良く保存され
ている。18cには火器の発達で市壁の効用は低下し、市壁の外に各方面に
市街地は拡張された。市壁の跡は道路名や塔の位置で判別できる。
恐らく、TurmStrasse・KlosterStrasse・MarktStrassa・HanlerStrasseの範囲
10cの集落であろう。
13cの市壁には、4市門があり通行税を徴収した、他に牧草地に家畜を放
牧する為の小さな穴があった。
パネ塔 Panne Turm (13c) 西側のTurmStrasseに3階建の家畜の出入口
のある角塔が残っている。非常時には火や煙で危険を知らせた。
旧市街地は丸と三角と四角の図形が散在する複雑な形状である。大きな
マルクト広場はないが、中心点には市庁舎とペトリ教会が存在する。
市庁舎 Rathaus (14c) マルクト通りの北側に2階建の市庁舎があり、ラッツケラー
のガストハウスと併設。
市教会聖ペトリ StadtKirche St.Petri (1345) 13cの古い礼拝堂は、今の
OberPfarrに建てられていたが、1345ハルバーシュタットの司教がマルクトに新しい
教会を建てた。1526宗教改革でプロテスタントとなり、1674の30年戦争の火災
を通り抜けられなかった。1683にバロック塔とオルガンのある新しい花崗岩の
教会が建てられた。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1061-1135) ハインリッヒ4世の時代に建てら
れ、13cシュバネベック城があり、その集落の後援者が教会を建てさせたと
思われる。町が市壁を設けると外側となった。1556プロテスタントの教会と
なり1674に焼失、その後今の教会に改修された。
王なる神礼拝堂 HerrGotts Kapelle (14c) この礼拝堂はブルクハルディ修道院
の管轄下にあり、1810世俗化の過程で商人に買われ、醸造所に改造され
砂糖工場にも使用された。1860町のカトリック教徒が増え、ヨハネ教会が狭くな
り、1892カトリック教会として買われ、再度教会に改造し1899に聖別された。
教区司教館 PfarrHaus
市庁舎 | ボイスター門 |
西南壁 | 南壁 |
聖ペトリ教会 |
1009 ヴィクベント司教は入植地に言及、 1151 アルバート・ベアの領地にフランドル移民、
1196 マグデブルク司教に質入れされた、 13c中 旧市街から新市街に移転、
1256 都市憲章を受け取る、 1260 旧市街は放棄され19cに再構築、
1358-1488 ハンザ同盟に参加、14c最盛期、 1641-44 30年戦争でスエーデン軍が破壊、
1732 大火災が襲った、その後駐屯地へ、 1807-15 ヴェストファーレン王国の州へ、
1909 エルベ川の氾濫による被害、 1945 2次大戦で米軍に白旗を掲げた。
13cの高さ4m煉瓦の市壁は、西南、南、東に点在している。
ボイスター門 Beuster Tor (15c) 15cの4市門の内、東北に唯一残る。後期ゴシックの
3階建て煉瓦造の角塔で、南側の螺旋階段歩いて塔に登れる。1722の大火
を逃れ、2-3階部分の前面にはこの地方独特の5つの縦長の白いスリットが見ら
れ、塔頂には小さな鐘楼が付いている。町の歴史の展示。
小門 Not Pforte 南の小門の一部は市壁と共に見られるが通れない。
ザクセン・アンファルト州の最北端の小さなリンデンの町であり、14cにハンザ同盟で栄えた。
中心部の塔時計博物館・市庁舎・教会が見所で、木組の家は修復されている。
市庁舎 Rathaus (1883) 二番目の市庁舎は1828に取り壊され、その基礎の上に裁判
所と刑務所が建てられ、1882-83新しい市庁舎を移動して建てた。ネオゴシックの半
地下煉瓦造2階建ての建物で、切妻と塔が付いている。
塩教会 Salz Kirche (15c) 昔の精霊教会で、15cから旧病院の礼拝堂であった。その
後何世紀にもわたって倉庫として使用された。
聖ニコラス教会 StiftsKirche St.Nikolaus Beuster (1160) アウグスチノ修道参事会の元修道
院付属聖堂でこの地方でも古い煉瓦造の教会であり、商人や船乗の守護聖人聖
ニコラスを祀った。1541改革後修道院は解散され、荒廃した。
聖ペトリ教会 PfarrKIrche St.Petri (12c) 新市街の教区教会として、初めロマネスクの
バジリカ次いで3廊ハレン教会となり、15c後期ゴシック煉瓦造で高さ65mの塔を持って
再建された。祭壇はオランダ人により彫刻や絵画で飾られている。
修道院学校の建物 Kloster Schule Gebaede かっての修道院の円天井の大きな2階建
ての木造建築である。
ハンザ都市郷土クラブ Heimat Verein der HanseStadt Seehausen 塔時計博物館の隣
に手工業・商業・農業に関する展示がある。
塔時計博物館 TurmUhren Museum (2004) 大広間には14の塔時計が動いている。
振子とガラスの85の展示は見るものを魅了する。
市庁舎 | 南市壁 |
966 最初の文書言及、 1197 プロイセンのマグデブルク公国の町、
1273 市壁の建設を開始、 1316 飢餓、1342.1415ペスト流行、
1500 望楼の建設、 1695 都市の憲章授与、羊毛貿易で繁栄、
1727 駐屯兵が仕立屋塔に衛兵所、 1806 ヴェストファーレン王国へ帰属、
1812 ナポレオン軍の占領で疲弊、 1816 プロイセンへ、
1838 製糖工場の建設、 1944 2次大戦の爆撃で被害。
湖側に30m見られる。
バンツレーベンの市内にある、ハルツ山中の湖に囲まれた小さな町で、教会と仕立
屋門が見所である。
聖ラウレンチウス教会 St.Laurentius StadtKirche (1273) 市壁の建設と同時に建設され、
15cゴシックに改築され、1511には塔が完成した。1679教会外壁の拡と改装を行っ
た。塔は7.6mの正方形で鐘楼への螺旋階段がある。祭壇には1620ルネッサンスの絵画
がある。
聖パウル教会 St.Pauls Kirche (830) 丘の上にハルバーシュタットの司教が建てた。西塔に長方
形の身廊と半円形の後陣があった。16-17c石造の教会となった。教会は西塔と
同じ幅の唯一の身廊を持っている。2次大戦で屋根が壊され1990に再建された。
市庁舎 | 聖ヨハネス教会 |
市壁 | 市壁と壁搭 |
市壁ロンデル |
806 シャールマーニュ皇帝が軍の集会の文書で初言及、 1180 防護壁内の集落に都市権が与えられた、
1180 アンハルト伯が1277まで所有、 1277 マグデブルク大司教区に、 1427-63 二重壁・壁搭の建設、
17c 30年戦争で町は荒廃、 1680 マグデブルク=ブランデンブルク・プロイセン公国の直属に、
1815 プロイセンのザクセン州に1947まで属した、 1852 塩鉱山を開設、 1882 ソーダ化学工場開設、
12cの市壁は、1180に都市権を付与された。1427-67に二重壁・防衛塔・ラウンデルで補強・拡充さ
れた。1450に市壁内にスパイ搭と梟塔が建てられた。戦乱で壊されては補修された。
残っているのは、東側の一部と南側であり、南側には別に二重壁の内側壁が110mある。
旧市庁舎 Ehem.Radhaus (1554) 石造3階建ルネッサンスで造られた。1824に破壊されて、市庁
舎に変わる建物を購入・拡張して移転した。古い建物は1965-66に解体された。
聖ヨハネ教会 St.Johannes Kirche (1876) 西800mのレオポルズヘルにプロテスタント教会として、搭高
40.5mのネオロマネスクの教会が建設された。
暫定教会 Interims Kirche (1906-96) 南側の市壁がにあり、聖ヨハネ教会が解体された間に
暫定的に使用された。
聖ヨハネ礼拝堂 St.Johannes Kapelle (15c) 7面の後期ゴシックの祭壇は、礼拝堂に奉られてい
る。
郵便局 Post Amt (1899) 新たに建てられた帝国郵便局が開設された。
市と鉱業博物館 Stadt und Bergbau Museum (1630) ザルツ伯爵の邸宅に開設され、中左側に
は記念物の木製のギャラリィがある。魅力的な地下室には丸天井がある。この博物館には、屋外展示を
含めて、工業と町の歴史を展示している。
中央通路の家 Mittelganng haus (17c) 古典主義の荒石積み石膏塗りの2階建ての大きな建物
は使用人のための宿伯施設であった。
鷲薬局 Adler Apotheke (1550) 上階木組の2階建の建物で、1991までは薬局として使用され、前
面の大切妻には108のトラスがある。
梟搭 Eulen Turm (15c中) 4階建の防御角塔で四角錐屋根が付いていた。1971に解体され、現存
しない。
市庁舎 | マリア教会 |
タンガーミュンデ門 | 北壁 |
1032 ヒルデスハイムの聖ミカエル修道院が所有、1160 辺境伯アルバート・ベアは市場権付与、
13c 町の船員はバルト・北海貿易で活躍、 1300 町は市壁と市門を建設、
1360 ブランデンブルク辺境伯の銀貨を鋳造、 1358-1518 ハンザ同盟に参加した、
1488 ビール税に対して町人の反乱、 1502 選帝侯ヨアヒム1世はエリザベスと結婚、
1682 ペストの大流行、30年戦争でも被害、 1691 仏ユグノー教徒の定住、
1771-1830 市壁と門塔は壊された、 1945 空爆の被害、4月米軍、7月赤軍。
1300の市壁は1711から部分的に壊され、土堤は良く残っているが市壁は殆ど
無い。Wiekhausの付いた市壁が、Nordwaldに70mある。
1771-1830に、WendenTurm、TorTurm、ArueburgTor、ViehTorは壊された。
タンガーミュンデ門 Tangermuender Tor(1230)初め野石で造られ、1440には残った
野石の下部構造の上にレンガにのゴシック二重門が建てられた。18cには前門
とツイガー壁は壊され、正門のみが残された。煉瓦造の上部工の石膏パネルや
胸壁の芸術的な装飾は、町の富を示している。
ウエングリンガー門 Uenglinger Tor(1300)初めは野石で造られ、1450-60に残った
野石の下部構造の上にレンガの壮大なゴシックの角塔と円塔が付けられた。
上部工は石膏パネル・コーナー塔・銃眼の花輪で飾られて美しい。18cに前門は
壊された。夏の間は見晴らしの良い塔に登れる。
火薬塔 Pulver Turm (15c)煉瓦造の円塔は火薬の所蔵に使われた。
塔には市壁の手掛かりが残され、1990-91に復元された。
緑地・土堤に囲まれ、大きな建物や木組の家も多く残る大きな町である。
煉瓦ゴシックの市門・市庁舎・多くの教会などが、修復されて保存されている。
市庁舎 Rathaus (15c) 一番古い裁判所アズマ屋の部分は15c初めに建てられ、
アーチ天井の地下室には百貨店が開かれた。15c中には服地切屋ギルド背後に
細長い呉服館の翼を建てた。ルネッサンス正面入り口の背後には昔の階段がある。
15c終に上流の翼はルネッサンスの典型的な切妻で建てられた。19c初めにルネッサンス
の左翼が追加された。大祝宴会場には1940ステンドグラスある広間で町の歴史
的な重要イベントを示している。
ローラント像 Roland (1525) 1160-65辺境伯アルバートによって創設されたマルクト広場
の市庁舎の前に、権利と自由の印として独で3番目に大きい7.8mの砂岩の
像が立っている。今の像は1974に嵐で壊れた後に復元された。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1447) 昔の参事会教区教会はバーソロミューにに捧
げられた。大きな市場教会は後期ゴシックの3身廊ハレン教会で、煉瓦造の高さ
82mの双塔はハンザ商人の誇りと富を今に示している。1470マリア祭壇の彫刻は貴
重な作品であり、1566ルネッサンス説教壇、1474青銅の洗礼盤、16c天文時計もある。
聖ニコラス大聖堂 Dom St.Nikolaus (1188) 辺境伯オットー2世が設立し、1420後期
ゴシックの煉瓦造聖堂参事会が十字型の3身廊ハレン教会で建設された。ステンド
グラス・大パイプオルガン・ベロックの祭壇がある。
僧修道院 Moenchs Kloster (15c) フランシスコ会修道院は、煉瓦造の食堂のみ残っ
ている。今は町の図書館が置かれている。
聖アンナ教会 Kirche St.Anna (15c) サンフランシスコ会托鉢僧の中世の修道院が僧侶墓
地の場所に在った。後期ゴシックの小さな煉瓦造の聖アンナ教会は、一時女子修
道院にに属したが、今はカトリックの教会となっている。1440のマリア祭壇がある。
聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (14c) 小さくて簡素な後期ゴシックのハレン教会で、
野石とレンガで造られた。中には、13-15c使徒の像・内陣仕切り格子・勝利
の聖人のある主祭壇・塗装したバロック説教壇・1490貴重な鐘がある。
ヤコブ教会 Jacobi Kirche (14c) 大きなゴシックのハレン教会で、野石とレンガで建て
られた。14cステンドグラスの窓・1430-40聖歌隊席・15c使徒の像のある内陣の仕
切り柵1602主祭壇と砂岩の説教壇がある。
アルトメルク博物館 Altmaerkische Museum 15cの旧アウグスチン修道会カサリン修道院は、
回廊のみのこされ、1908煉瓦造の建物が建てられて新教女性修道院にな
った。1945-52町は移住者の宿泊所として使い、1963アルトメルク博物館になった。
博物館には、町の歴史・芸術と文化の証人としての展示がある。
ヴィンケルマン博物館 Winkelman Museun 18cからの木組の2階建ての家は、1995
の大改修されてヴィンケルマンの博物館になった。ヴィンケルマンの人生と作品に
ついての情報と、美術史に付いていての特別な展示がある。