ファイル | 州名 | 州数 | 小計 | 市壁無 | ||
bd1 | GS | 大都市 | g1-5 | +1 | ||
BR | ブランデンブルク | b1-42 | +4 | |||
BW | バーデン・ビュルテンブルク | v1-50 | 98 | +14 | ||
bd2 | BW | バーデン・ビュルテンブルク | v51-w67 | 116 | ||
bd3 | BY | バイエルン | x1-99 | 99 | ||
bd4 | BY | バイエルン | y1-z17 | 116 | +14 | |
bd5 | HE | ヘッセン | h1-i12 | 111 | +10 | |
bd6 | MV | メルケンブルクVP | m1-32 | |||
NS | ニーダーザクセン | n1-49 | 81 | +5 | ||
bd7 | NW | ノルトライン・ヴェストファーレン | o1-101 | 101 | +25 | |
bd8 | RP | ラインラント・プファルツ | r1-76 | +3 | ||
SL | ザールラント | l1-4 | 80 | +2 | ||
bd9 | S | ザクセン | s1-54 | +9 | ||
SA | ザクセン・アンファルト | a1-62 | 116 | +2 | ||
bd10 | SH | シュレスヴィヒ・ホルシュタイン | k1-4 | +7 | ||
TH | チュービンゲン | t1-60 | 64 | +8 | ||
合計 | 981 | +104 |
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
市庁舎 | 大聖堂 |
トリニティ教会 | ポンド門 |
ラウフェンシュタイン搭 |
1C ローマ共同浴場を整備、 5C フランク王国の支配、
765 文書による最初の言及、 768 カール大帝即位、
800 西ローマ帝国となりカール大帝居住、 936 大聖堂で独王国皇帝の即位式、
10C フリードリッヒ1世から都市権を授与、 1166 帝国都市となり1172市壁に着手、
1257-1357 外側市壁と4門の建設、 16C-17C 30年戦争で衰退、1656大火、
1796-1814 仏軍による占領、 1815 ウイーン会議でプロイセン領、
1919-29 1次大戦 ベルギー占領、 1941-44 2次大戦の空爆で65%が戦災、
1172初めての市壁に着手grabenの位置で2.43km厚さ1.5-2.5m、1257-1357
百年かけて外壁alleeの位置で5.3km高さ8-10m厚さ2-5mを築いた。1419-53町を
守るため幅24-28m深さ7-12mの堀を加えた。1841始めて外壁外に住宅が建てら
れた。カイザー広場・ボント通に旧市壁が残っている。
当初の市壁には10門と10塔があり、外市壁には4正門7追加門23塔があった
が、今では2門5塔しか残っていない。
Pont tor(北)前門があり、13C後半に外市壁に造られた。
Margchier tor(南)1257建、1960復元、3階建の長円塔で三角屋根に尖塔
がついている。物置や避難所。
Langer turm(西)5階建長方形の火薬塔、最も高い塔で見張や消防に使用。
Pfaffen turum(西)2階建円塔。
Marien turm(北)1512建、円筒、市壁も残る。
Granus turm(中)788建、1050と1883の火事に会い1978改修、8.85mの
長方形で20mの高さ、市庁舎の角に立つ。
KleineAdolberts turm(中)カイザープラッツに立つ円塔。
LavenStein ボックス グラーベンの塔
大聖堂 Dom(8C)カール大帝は八角形丸屋根のローマ風バジリカの建設を開始した。
内陣は1355にゴシック様式で起工し1414に献堂となった。17Cカロリング式八角堂
のリブ付丸屋根を中心に多くの礼拝堂が取り巻いている。内部は11CハインリッヒⅡ
世の説教壇や後陣の13Cカール大帝の聖遺物箱、大帝の聖堂が収められてた。
宝物殿 DomschatzKommer 地下室に990ロータルの十字架、カール大帝の胸像、
聖遺物。
市庁舎 Rathaus(14C) 昔のカール大帝の宮殿跡に建てられた。宮殿の名残は
クレーマー通り角のグラス塔GranusTurmにある。アーヘンで戴冠した皇帝や国王の胸
像で飾れれ、広間には神聖ローマ帝国の至宝レプリカが見られる。
クヴァン博物館 CouvanMuseum 館内には中産階級の住まいの文化展示と
アドラー薬局を収納している。
ジュールモント・ルートヴィッヒ美術館 SuermondtLudwigMuseum 現代から15世紀の
欧州絵画・ガラス彩色画や彫刻を展示。
市庁舎 | 旧市庁舎と聖バーソロミュウ教会 |
聖マリエン教会 |
772-804 先住ザクセン人を征服し布教、 804-09 ミュンスター司教は洗礼院を設立、
1139 ヴェルナー司教は洗礼院を修道院に編入、 1212 堀・土塁のある要塞を言及、
1214 市場権を授与され尺度を制定、 1224 町となり 自治権の授与、
1269-1271 5市門と塔のある市壁を建設、 1287 全ミュンスター教区の免税認定、
1349-51 ペスト流行、1505 ペスト再流行、 14-16c ハンザ同盟に加入、
1480 落雷による火災で町の1/3焼失、 1533 改革の導入と再カトリック化、
1551 疫病の流行、 1563 ブラウンシュバイク軍の包囲、
1618-42 30年戦争で17回破壊・略奪、 1633-42 スエーデン軍が占領、
1668 大火災で100戸焼失、 1713 スペイン承継戦争で仏軍占領、
1765 要塞撤去開始、 1803 プロイセン軍占領、
1809 仏革命軍占領、1809-13ベルク大公国に属す、 1815 プロイセン王国となる、
1929 最後の要塞が消滅。
13cの市壁は、14c.16c.17cに拡張された。道路名MauerとWallにあり市壁の位置
が分かる。1765から市壁の取崩しが始まり、1929には地上の痕跡は消滅して平準化された。
1994に地下構造の遺跡として9か所が登録された。2011発掘調査が行われ、北門と西側
市壁の石積が確認された:30m。また、OstenMauer.19の家の地下には市壁の存在が確
認された:10m。
1554西門塔建設、1562南門要塞拡充、1587北門要塞拡充、1595西門要塞拡充
されたが、残っていない。
風車塔Windmuehlen Turm 町の東南に円形風車塔と粉引工場がある。
大きな旧市街地であるが、度重なる戦争と1668.1744の火災で、古い建物
を残せなかった。
旧市庁舎 Altes Rthaus () 今はFolksHochSchuleである。
市庁舎 Rthaus () 今の近代的な市庁舎は、西の外れにあり、市民会館や市図書
館と共にある。
聖バルトロメ教会 Kath.Kirche St.Bartholomew (9c) カトリックの教区教会ミュンスターランド
で最古のパプテスト教会で、1480建設の既存の建物は、4ヨークと多角形の後陣
を備えた後期ゴシックの教会である。1815-19崩壊後バロックフード付きの西塔は
再建された。紋章で飾られた碑文には1724の年号がある。
聖マリア教会 Kath.Kirche St.Marien (1285) カトリックの教区教会で、1283-89に聖
マリア教区を設立し、初期ゴシックの教会を建設した。1775教会は閉鎖した。
1902-09に現在のネオゴシックの身廊は古い建物の敷地に建てられ、南側では
ゴシックのポータルを再使用した。前の建物から引き継がれたのは豊富な16cの
パプテスマのフォントである。
住宅 Wohnhaus (18c) 1668.1744の火災の後に木組・マンサード屋根のシンプルな建
物が建てられた。
ビショピンクの館 BischopinkHof (17c) 2階建・木組の家で今は食堂。
最古の家 Altest haus (16c) 古い木組の家で、今は歴史博物館として使われ
町・周辺の歴史・考古学・農業・鉱業について展示している。
美術館 Kunst museum (1993) 20cの芸術を展示している。2005に死亡した
起業家の収集物を基本に博物館を増強した。
金の鍛冶屋博物館 Museum im Golschmiede haus (1984) 太陽時計・機械時計
など、1595からの時間計測のための歴史的資料を展示。その他キリスト教の
金属加工・家庭生活の道具・多宗教の紹介などがある。
聖アンドレアス教会 | ホテル |
10c 村にケルン大司教管区による教会組織の設立、 1165 アンズルーク伯の財産となった、
14c ケルンのウエストファーレン公国に属した、 1407 アンドルフは市の権利を受け要塞化、
1424 ケルン大司教は自治権を付与、 1629 魔女裁判の判決が行われた、
1747 町の半分が焼失、町には布職人のギルトがあった、 1802 ヴェストファリア公国はヘッセン・ダルムシュタットへ、
1816 プロイセン領となりエスローエ地区へ、 1858農村地域に分類され都市でなくなった、 1961人口1006人。
15cに都市権を与えられて840mの市壁を建設した。残りがあるのは、Koetten hahn8の住宅の壁
10m、Allendorfer Str60の市壁の残骸10m、Allendorfer Str73の北側の建物の壁に10m。
見当たらない。
丘の上の小さな町であり、古い木組みの家屋が多く見られる。
聖アントニウス教会 St.Antonius Kirche (1725) バロックの教会で、塔の基礎に後期ゴシック
の秘跡の家がある。1750の高聖壇がある。
市庁舎 | 市壁 |
城 | 殻搭 |
789 修道院と耕地で最初の言及 1102 城の建設、1114町は要塞化、
1238 新しく壁で囲んだ、 、 1621 町は拡大、魔女狩り、
1762 7年戦争の砲撃で町も市壁も破壊、1794 仏軍の進行にケルン大司教逃亡、
1816 プロイセン領となり新都市の建設、 1847 大火で旧市街地壊滅後再建。
城址の下に古い都市壁の残りがある。StadtmauerStrasse。
Hirschberger tor(東)1753鹿狩りの彫像が門の上にある。狩猟の正門。
Glocken turm(中) 白い角塔でバロクの円蓋、Schloss通りを跨いで立つ。
半円形の皮だけ残った塔がすぐ近くにある。
Limps turm(北) 角塔で古い市壁に生き残った。
Gruener turm(北) 円塔で円錐屋根、古い市壁の角に立つ。
丘の上の小さな町であり、古い木組みの家屋が多く見られる。
聖セントローレンス教会 St.Laurentius(1273)旧修道院の聖具室・礼拝堂がある。後陣に13c
のステンドグラス、バロックの説教壇、回廊やフレスコ画。教区長教会
聖ゲオルグ教会 St.GeorgKirche(14C) ゴシック様式のホール教会。
ザウラント博物館 LanzbergerHof 館内に歴史と文化の展示。
ノイマルクト広場 NeuMarkt 1816プロイセン領となり行政施設が広場の周囲に建てられた。
福音派教会・古典主義の官庁建物が見られる。
アルターマルクト広場 AlterMarkt 周囲に1710旧市庁舎、鐘楼、1779マクシミリアンの噴水、木
組みの家屋がある。
市庁舎 | 搭 |
1072 カルン大司教はグラフシャフト修道院を寄贈、 1206 ケルン大司教は城を建設し硬貨を鋳造、
1222 ケルン大司教は都市権を授与、 1255 町は繁栄して大きな町としてハンザ同盟に加入、
14c 教会と墓地のある病院を建設、 1444-45 ソースト戦争に参加、 ペスト流行 1464.1597.1598.1612、
1613 1623.1656.1716.1721.1742.1783 大火事、 1280.1444.1583.1618.48 戦災で衰退、
19c中 経済回復、 1945 3月空爆と6月砲撃で被災。
13cの市壁は、1812の火事の後に取壊されて、中心部の再建のための建設資材として使用された。
北部のBieketurmに西に20mと、Pulverturmの南に10mに、わずか残る。
13cの市壁には、4市門と12壁搭があったが、1812の大火事の後に市壁と共に殆ど取り壊された。
Bieke trum(13c西)3階建て円錐屋根の壁塔がある。17cには刑務所、後に氷の貯蔵庫、
1949カトリック青年の家、2004兵器とライフル博物館となった。
Pulver turm(13c北)2階建て円錐屋根の火薬塔がある。今は、Pulver Braeu Brauen
の醸造所内に立っている。
明確に市壁の跡が楕円形に残る小さな町。
旧市庁舎 Alte Rathaus (14c中) 古い市庁舎は14cに建設され、18cと19cに改造
された。1962-64に古い資料の基ずいて元の階段切妻の外観に復元された。18-19cは地方裁判所
として使われ、1909には博物館となった。1962-67に建物は復元されて南サウアイラント博物館を収容し
ている。
シュネレンベルク城 Burg Schnellenberg (1222) ケルン大司教がハイデン通リの確保のために、
東2kmの川の対岸の丘に城を建てた。1291にウェストファーレン公国は城を強化した。1491-83に城の売却が
繰り返された。1594にフェルステンベルク家が城を買収して建て直した。1835にフェルステンベルク家城を去り醸造
所・居酒屋・ビヤガーデンなどで使われた。1911にドイツ初のユースホステル設立、1958にブルグホテル、1960
動物園設立があったが、今はホテル・レストランである。 聖ゲオルグ礼拝堂は(1600)は城の修復の
一環として整備されて、今も維持されている。
洗礼者聖ヨハネ教区教会 Pfarr Kirche St.Johannes Baptist (1200) 大聖堂
とも呼ばれ、1200頃のロなネスクの塔と14c1のゴシックの身廊である。1634のバロックのタマネギフードは大きい。
聖バーバラ旧病院教会 Ehem.HospitalKirche St.Barbara (14c) ゴシックのマリエン
礼拝堂として建てられ、1306-17に市壁の外の病院の総合施設に含まれた。1697-1726に再建拡張
されて、バロックの外観となった。2次大戦で壊され、1962に修復された。
アレンズの家 Haus Arens (1783) 町に中心にあり、古い上階木組の家。
ホルテの家 Haus Holte (1787) 市壁沿いに立つ元都市農民の家で、地階と側面が石積
で、その上が木組の切妻のある2階建の家。
市庁舎 | ランゲン通 |
聖ペーターとパウル教会 | 南東市壁 |
南東市壁 | ランゲン通中心 |
8c バーダーボルン司教は城に聖ペテロ教会を建てた、 868 城にヘーセ修道院、
1189 バーダーボルン司教は騎士の城に粉引き所設置、1290 都市憲章を授与、
1345 バーダーボルン司教は全権利を確認、 1532 ガラス工場設立と林業振興、
1802 バーダーボルン司教の支配が終わりプロイセンへ、 1815 スパの開設、
1807-13 ヴェストファーレン王国、 1813 プロイセン王国の統治区域に含まれた。
荒廃した市壁は、Muehlen Pforte辺りで修復されている。
見当たらない。
中心部には、18-19cの建物は半分も残っていない。都市再生の一環
として、古い病院・郵便局・商店等は解体されたので、モニュメントは少ない。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1550) kigumi 2階建木組の建物は、後に住宅に改
造された。地階は大規模に更新され、地下は1330の丸天井のままである。
建物全体は2002-04に修復され、今はアート展・日曜カフェ等に使用。
教区教会・聖ペテロとパウロ Kath.Pfarrkirche St.Peter und Paul (1894-97)
ネオゴシック3廊のホール教会で、内部に祭壇・説教壇・オルガンがある。1909絵画は
バロックで描かれた、以前の教会からロマネスク・フロント、1676の守護聖人、1463
の墓石などを搬入した。
ガラス博物館 Gras Mueumm 500年の歴史のあるガラス残って生産と製錬を説明
し、ガラス製造機械と歴史の展示。歴史的ユーティリティガラスもあり、ガラス吹きの
デモンストレーションをしている。
ヴィッテゲンシュタイン教会 | 旧市街 |
780 最初の文書の言及、 13C ヴィトゲンシュタイン領の一部、
1277 都市権を得た、町は2門6塔を備えた市壁を整備、
1788 プロイセンの統治区域に含まれ、プロイセン国鉄の運行区間に接続、
13Cに2門塔6壁塔を備えた市壁を築いたが、19Cの初めに僅かの断片
を除いて取り払われた。
なし。
小さな長円形の町であり、古い木組みの家屋が多く見られる。
国際ラジオ博物館 InternationalesRadioMuseum 歴史的な
3,000台のラジオを収集し、1,000台が交代で展示されている。
郷土博物館 HeimatMueumm ヴィッテゲンシュタイン国の文化と歴史の
展示。
市庁舎 | 市壁 |
1312 バダーポルン大聖堂本部は最初の城を建てた、 1346 集落は町に発展、
1445 バーダーボルン大聖堂の章は都市権を付与、 1785 荒廃した城を放棄、
1832 癒しの泉の発見、 1833 スパ入浴の開始、 1843 プロイセンの支配で都市権失う、
1921 都市権を取り戻す、 1934 カールス大帝温泉会社を設立、 1972スパとして国認定。
1380の市壁は、西90mと南140mのAnderStadtmuerに長い部分が保存され、その一部は
家に組込まれてている。市壁の高さは約6mで、多くは1800年代に取壊された。
市壁の南東には、SteinbekerStrから見える丸い塔の切株がある。北東の角にはとかさ10m
の塔があり、その基礎は2006-08に崩れて、その後屋根なしで再建された。
リップスプイゲ城 Burg Lippspringe (1312) バーダーボルン大司教支部は城を
建てた。1350にヴァルデック伯は征服して城を全焼した。その後も数回包囲され1414には全壊した。
1482再建され要塞化された。その後30年戦争や7年戦争などで壊され、1760に再建されたが世
俗化後1803にプロセンの財産となった。1816に競売にかけられ、その後取り壊された。城の大きさは
48m×24mで外壁の遺構が残されている。
教区教会聖マーチン Kath.PfarrKirche St.Marrtin (1360) 1898-1900に
ネオゴシックのホール教会に壁は切石で建て替えられた。1600からの正方形の西塔は残されている。
1911にオルガンが付けられた。
王子の宮殿 Prnzen Palais (1585-55) 中2階のある2階建漆喰の建物は、スパ
の2番目の建物として建てられた。内装は1979に大改装され、2016には建物は近代化され2階に
クラブの部屋が設けられた。
古い郵便局 Prnzen Palais () 角に四角い塔のある2-3階建のレンガ造の建物。
リポリウス癒しの泉 Burnenhaus der Liborius Heilguelle (1905-08)
ネオゴシックの飲泉ホールで3角形の建物には豊かな装飾の窓があり、ホールはガラス屋根で覆われている。
Stift教会 | マルクト |
オルヒハイム門 | 市壁 |
ヨハネス門 | ハイスターバッハ門 |
ウエルター門 | 市壁 |
880 ベネディクト会はノイミュンスター修道院を設立、 844ローマ聖人遺物を所有し巡礼地、
854 修道院に住宅と農園を言及、 898修道院は市場.鋳造.関税の権利授与、
1265 ユーリッヒ伯爵の領土となった、 1299 初めて要塞の場所と呼ばれた、
1317 城が始めた言及された、 1416 大洪水、1451ペストの被害、
1625 イエズス会修道士はギムナジュウムを設立、1689 仏軍に城は破壊された、
1784 仏革命軍はライン川の左岸を占領、1815 プロシア領となる。
12Cの終わり頃と14Cの初めに領主ユーリッヒは城施設と1.60kmの市壁を4門と
18防御塔と共に建設した。市壁はエルフト川が貫通した町を取り囲み、外堀は埋
められている。町周囲の守りと市門は完全に復元されている。城壁通路220m
に登れる。
Werther tor(北)3階建ての四角塔、最も古いフランケン入植地の名前
を付けた。今日塔では、自然と 境保護の勉強が出来る。
Johannis tor(東)3階建ての四角塔、教区教会の跡で教会の名前を付
けた。以前は、跳ね橋.落し格子.門翼の施設が整っていた。
Orchheimer tor(南)3階建ての四角塔、塔は画家のスタジオ。
Heisterbach tor(西)3階建ての四角塔、塔は今化石や鉱物の博物館。
町の中を川が流れ、大通りには古い木組の家屋が多く見られる。
Orchheimer通りの町並みは、1644頃の木組の家屋が美しい。
修道院付属礼拝堂 StiftsKirch(830)。初め小さな修道院礼拝堂を設立、
12C-13Cに今の3廊の西3塔、翼廊の支柱バジリカとなった。守護聖人の遺物。
イエズス会教会 JesuitenKirche(1668) 1659-1668修道士が建てた。
隣の黄色い建物は1659-1724ギムナジュウムである。
市庁舎 Rathaus 初めに呉服屋として使われた。1476市庁舎とされた。
1551にアーケードで西翼を建てた。1818の洪水の後に建物は売られて、
長い間ビール貯蔵庫と麦芽製造所となった。ここ30年間は市庁舎となった。
前面に曝し台がある。
市庁舎 | マルクト |
11c中 岩塩鉱山と集落の発言及、 1300 スタンバーグ伯は中世の製塩所を建設、
1377 スタンバーグ伯はショームバーグ伯に町を売却、 1400 リッペの領主の所有物となった、
1447 町はボヘミアの傭兵によって破壊された、 1450 4門3壁搭の市壁を建設、
1488 リッペのベルンハルト7世伯は町の憲章を授与、 17c 30年戦争で200年続いた繁栄終わり、
1756-63 7年戦争と1762の落雷の火災で大被害、 1766 製塩所は支配者が購入して近代化、
1818 温泉保養地として発展、 1914 バートの呼称が認められらた。 1945 戦争を生き延びた。
それまでの市壁は1447のゾーストとの戦争で壊され、1450に4門3壁塔のたかさ7-8mの周壁が
完成した。今はオスター通46とオットーワンネル・プラムナードの間170mと、マウアー通トツルム通間80mの市壁はある。
猫塔 Katzen Turm (1447) 泥棒塔とも呼ばれ、2階建円錐屋根の監視塔とし
て建てられた。一時刑務所として使われたため泥棒の名前が付いた。
塔切株 Stumpfer Turm (15c) 北2.5kmの林の中に、高さ5.5mの見張塔の切株
がある。
①木骨造の家
旧市街の中心部には、16-17cのほとんど切妻の無く、木組みに彫刻を施された木骨造の家が
多数存在する。
Salzsieder Str2(1551),Lange str3(1590),Lang Str5(1650)は、東ヴェストファーレン
州ヴェザールネッサンスの最も重要な生き残りである。
Lange Str33(1612)は、豊かな彫刻とユトレヒトを備えた木骨造切妻の家で、Lange Str37(1623)
は、ロフト付き木骨造に切妻の家、Lange Str41のHaus Obermeier(1618)は豊かな彫刻の前面
は19cに改装されている。歩行者ゾーンの家屋は、全て保存状況が良く地階部分は殆ど
ショーウインドウの店舗に改装されている。
近年補修された美しい家は、OberMuehlen Str1:市内で最も壮大な木骨造のであり、Wenken
Str8(1631) 3階建の切妻の家、Wenken Str10a(1520) 地下室のある3階建で最古の年号が
ある、Ritter Str2.6.8.とSchennauer Str2.3.4.は1990以降に改修された。
②ルネッサンスの石造の建物
旧市庁舎 Altes Rathaus (1545-47) 狭い切妻の正面と隆起したスクラッドの切妻を備えるルネ
ッサンスの建物で、1859-60に正面の階段が追加された。
ギーセンビアーの家 (1533) ギーセンビアー市長は2階建切妻の家を建てた。
バルクハウゼンの家 (16c) シンプルな後期ゴシックの切妻は、1590にルネッサンスに替えられた。
ブランデス薬局 (1620) その後1792にルドルフ・ブランデスは薬局とした。
③スティーテンクロン城 南
Schloss Stietencron (1729-32) バロックで国務大臣ドノップが建てた。所有者を変更した
後に、1831ミュチーテンクロン家の本拠地となり、1983にエントランスホールを拡張した。1949に城と公園は
町の所有となり、1983にバート・ザルツウフレン音楽学校がおかれた。
④19cの建物
地方裁判所 (1879-80) 2階建ルネッサンスの建物。
住宅と商店 (1898) 2階建ルネッサンスの建物。
⑤ヴィラとスパの建物
1818からリーベ川の温泉保養地として栄え、1914には「バート」の呼称が付いて、浴場Ⅰ
(1855-56)、シオポルト浴場(1903)が建てられた。クアハウス(1900)クアシアター(1908)。
多数のゲストハウスとヴィラとして、ヴィラ・ヂュルコップ(1914-17)ネオバロックの有名な建物。
また、別荘として、WaldStr1.3.18.20.の四つの美しいアールヌーボの別荘。
市教会 Stadtkirche (1763-65) 1762の落雷で全焼し、後期ゴシックで再建され、1892に改修
された。
キリアン教会 Ev.Kilians kirche (1850-64) 3廊ネオゴシックのホール教会と四角い西塔の上に八角
形の上階と急な尖塔が付いている。中央の身廊には木製サドルカバーが付けられ、側廊は平屋根
1になっていた。960.1980.2004改装・修理が行われた。
救世主教会 (800) 最初の木造の教会は800年頃に建てられ、1000には幅10mの教会となった。
1150に3通路十字型のバジリカとなった。1847に老朽化で取り壊されて、今の教会となった。
エアレエッサー教会 Ev.Luth.ErloeserKirche (1891-92) 1880年代の外国人労働者のための
ルター派の教会が後期ロマネスクで建て始め、1901搭柱と十字架を備えた25mの塔が付けられた。
1969に全面的に改修されて、内装・オルガン・砂岩祭壇・洗礼盤が新しくなった。
市庁舎 | 搭 |
14c 貴族ヴュンネベルクが城を築いた、 1306 町となり都市権の授与、
14c 市壁と堀で町を囲み単市門で守る、 1348.1356.1360.1371 疫病、
1379 ヴェストファレンの君主が277年間支配、 1430 大火災で半分焼失、
1564 大火災で64戸焼失、 1621 30年戦争で占領略奪、
1656 バーダーボルン王子司教の支配下へ、 1678 大火災後新計画で再建、
1756-63 7年戦争の占領で苦しむ、 1759 仏軍が再び占領、
1802 プロイセン王国の統治区域に、 1807-23 ナポレオンのヴェストファーレン王国、
1825 再びプロイセンで町造りが進んだ。
14cの市壁は、戦争と火事で、次第に取り除かれた。1725の大火事
の後に都市建設のための採石場となって殆ど消滅した。
防備塔 Wehr Turm (13c) 1725火事の後採石場となり20cには消滅した。
地元の同好者と州の基金で2001に再建された。円錐屋根付きの大
円塔で市壁が付いている。
山の上の周囲700mの小さな長円形の町であり、1725の大火事で
古い建物は少ない。
地方事務所 KreisPaderborn der Landrat () 旧市街地外北東に市庁舎と
観光案内所がある。
小鉢の家 Haus Kump () 旧市街地の中央に、四方流れ屋根の平屋の小
さな木組の建物があり、今は集会所。
古い倉庫 Hist.Speicher () 簡素な屋根の高い平屋の木組の家で、前庭さな
さなは青銅の山羊が立っている。
教区教会聖アントニウス Pfarrkirche St.Antnius (850) 半木組の教会は、1677
の大火事で町と共に焼失した。1678-79に切石で再建された。漆喰
のホール棟は3面閉鎖で高い西塔はフード付きで十字架と風見がある。聖
具室は1929に付けられ、教会は1997北に延伸された。パーダーボルン王
子司教の紋章が飾られ、1720聖人アントニウスの木像がある。
ヴェストファーレン家フュルステンベルク宮殿 Schloss (1783) 狩猟用ロッジで、大きな複合
宮殿が広大な森の中に立っている。
市庁舎 | 聖ステファン・セバスチャン教会 |
マルクト | 北通 |
防御塔(博物館) | 南土堤 |
1134 パロシア・バイク家文書に初言及、1224 3本川の合流点に町が存在、
13c 町と一部農地を市壁で囲み、4市門22塔で補強された、
1433 交易路の要点に位置し多くの商人が定住し町は栄えた、
1598 スペイン軍に略奪され、300年戦争で何回も占領され町は衰退、
1635 ペスト流行、1655.1657.1734 大火事で貧しい町に、
1872 セメント工場建設、19cストロンチアン鉱業、1945空襲を逃れ、無血降伏。
13Cの市壁は、二重土堤と共に作られ、Suedwallに残っている。
初め4市門22防御塔が設けられたが、今は唯一3階建の防衛角塔の
BuddenTurmが町の西に残り、今は郷土博物館になっている。
町の南のHoexbergには、1853風力発電風車(Windmuehle)と
見張り塔(SoestWarte)6階建の2塔が別にある。
3回の大火事で1734よりも古い建物は殆ど見当たらない。
旧市庁舎 Altes Rathaus(13c) 今の建物には1441の核があり、
1879横向きの破風と尖ったアーチアーケードが付けられた。1937ネオゴシック
で単純化された。市場側入り口には聖スティーブンと聖セバスチャンの石彫
像のコピィが置いてある。市庁舎には、裁判所・銀行・消防署・警察署
などが置かれた。1986市博物館となり、石灰生産・セメント生産・中世
ハンザ都市の役割・フランクの集落などを展示。年4回の現代美術展も。
市庁舎 Rathaus(1985) 町の西にある元郡庁に接続の建物を
合わせ、それまで各所に散在していた市の行政を集めた。
旧ステファノとセバスチャン教会 Kath.PropsteiKirche St.Stephan
und Sebastian (13c) 町で最大の教会で、1188ミュンスター以外で最古
の教区として言及されている。1230からの建物で、初め守護聖人
に捧げられ、1881殉教者ブルデンチア建物が移された。1250の洗礼盤
13c石のレリーフ・14c木製の救済礼拝・14cゴシックの聖杯等がある。
旧アウグスティヌス修道院(1451)町の西の外れにあったが1451に
市内に移転され、1463礼拝堂は聖別された。1657の火事で全焼し
1814修道院は廃止された。2007-09改装されアーカイブとして使った。
都市農民の家 AckerbuergerHaus(17c)珍しく火事を生き
抜いた建物である。
セメント博物館 Zement Museum この地域の産業であるセメントの
仕組から生産までの説明と原材料の採掘と製造の過程を示してい
る。中心のセメント研究所では、セメントの品質管理を明確にしている。
ペトブルク城 | 市壁 |
893 プリュム修道院のショユウリストで初言及、 1175 ザフェソブルク伯が滅びザイン伯へ継承、
1293 町として言及された、 13c ケルン大司教とユーリッヒ伯との争い、 1384 地区事務所が支配、
1582-87 ケルン選帝侯とバイエルンの争いで町は疲弊、 17c 30年戦争で被災、
1839 ライン騎士団の貴族は城を買収、 1842 ライン騎士アカデェミーを開設。
Reste der Historischen Bedburge stadtmauer が文化財リストにある。
場所は、Friedrich-Wilheschen Str.13の建物の地階部分にレンガ造の外壁として20m
残っている。
見当たらない。
聖ランバート教会 St.Lanbortus Kirche (1298) 最初の教会は13c末に
建てられ、2階建ドーマー屋根の大きな建物のアウグスチヌス修道院が設立され、その後1388-1414教
会は修道院に組込まれた。1414に聖ランバートの捧げる教区教会が建設されたが、1823に壊された。
1891-94にネオゴシック・レンガ造のホール教会が、再建された。
ベトブルク城 Schloss Bedburg (12c) 最初の城は、1279ケルン大司教によって破
壊され、その後ゴシックの城が再建された。ヴュルスタブルクのジークフリートから領地を得てヨハンは中庭の周
囲に3翼の複合施設と2円塔をレンガ造で建てた。1584戦争で破壊され、ヴェルナー伯はルネッサンスの新
しい建物を建て、城から宮殿に変えた。1839にライン騎士団が買収し、1842-53ライン騎士アカデェミー
の4回建ての校舎を追加した。1922アカデェミーは終了して、行政センターとして機能しネオバロックの門屋を
建設した。1970-80に市が改修して使用可能となった。
ラダー風車 Rather Muhle (1804) 古い風車が郊外に残っている。
市庁舎 | アーヘン門 |
北市壁 |
1028 王室の荘園をパラティーノ・エッツオ伯に譲渡、 13c ユーリッヒ伯が所有して城を築いた、
1300 町は市権を得て税関と鋳造を行なった、 14c 2門と市壁で守れてた、
1440 ユーリッヒ・ベルク公が町を統治、 1542皇帝カール5世との戦争で町は破壊され19cまで停滞、
1816 プロイセンの侵略、 1890 鉱業化と亜炭鉱山で町は振興、
1945 空襲と占領戦闘で町の家屋の半数は被災、 1937 合併で事務所が設置された。
14cと15cの市壁は、部分的には改修され、アーヘン門の北側は道路建設に際し1980に造られ
た。残っているのは、西側で200m、北側で300m、東側で40m、南西側で50mである。
アーヘン門 Aachener Tor (14c) 2階建の2重円塔門で右円塔に歩道が追加
された。16-17cに損傷し、1800に刑務所に改造された。1911-14と1925に改修され、1959に
寄棟屋根となった。今はスカウトが本拠としている。唯一残った市門。
ケルン門 Koelner Tor(14c)この門は市が所有し市民の費用で維持した。中世から
近世は市庁舎が無かったため、この門を営業所とした。10m×10mの正方形で、3階建マンサード屋
根のレンガ造であった。1880交通障害で取り払われた。今は舗装の色で門の位置を示し、表示板で
説明している。
新城門 Neues Stadt Tor (1994) 高さ4mの木製の柱の彫刻が歩道の東端に新
門として置かれた。
ローマ搭 Therren RoemerTurm (1200) ローマ街道にある古い塔で、礼拝堂の塔に
始まり1500に再建され1670-81に拡張されて教区教会となった。1878の地震で教会は壊され、
レンガ造の高さ2mの塔のみが残った。2007-08に全高に修復され、今の尖塔付4階建の姿となった。
歴史的市庁舎 Historisches Rathaus (1911) 最初の独立した市庁舎
は、1911にアールヌーボーと新古典の建物であり、今でも入口部分は残っている。曲がったボンネットが屋
根にあり、評議会の位置は上階正面の4つの長方形の窓で見分けられる。時計はマンサードゲーブルに
ある。2次大戦後英軍に接収され管区司令部となった。1937に初めて拡張され、結婚式場や警察
も含まれた。今も歴的市庁舎と1991に拡張された近代的な庁舎を繋いで使用している。
ゲオルグ礼拝堂 Georgs Kapelle (1420) ユーリッヒ公がマルクト広場に建て贈呈したが
1542の戦争で破壊され、1550に2身廊切妻屋根レンガ造漆喰で再建された。1772に改修され、
1959修復中に天井画が発見されて露出され、窓とステンドグラスも交換された。
聖レミギウス教区教会 Kath.Pfarrkirche St.Remigius (1175) 最も古い部
分は東翼半円形の内陣と2ロマネスク搭であり、15c末にはゴシック3廊の教会となった。1748崩れた西
塔は1758に再建された。
ウエリントン公 Zum Herzog von Wellinton (1400) 地下2階の旧酒蔵のある漆喰の
2階建の建物で庇は通りに5じぃある。
赤い家 Rotes Haus (17c) 4軸3階建の重厚な赤く塗られたレンガ造の建物。
ビットナーの家 Haus Bittner (16c) 1542の戦災を生き延びたレンガ造2階建の黄色
い建物は、1799にパン屋 1919に画家ビットナーが購入した。
クローネ醸造所 Brauhaus Zur Krone (1607) 400年前からの宿屋で1928に旅館
が再建された。2階建木骨造で、今も醸造所とレストランのあるホテルとして営業している。
新旧市庁舎 | マルクト劇場 |
ニコライ教会 | 旧マルクト |
9c スルヴァイ修道院が農地を所有、 1214 ラーフェンスベルク伯爵が守りの町を創設、
1240 シュパレンブルク城の建設と新市街の開設、 1293 ノイシュタットの成立、
1346 ラーベンスブルク家の後にユーリヒベルク家へ、 14c ハンザ同盟加入で富を増大、
1511 フランシスコ会修道院の奉献、郡はクレーヴェ家に落ちた、1520 新旧市街の統一、
1550 改革の導入、17c オランダ・スペイン・スエーデン・フランス軍が占領、1636 ペスト流行、
1830 機械生産織布の輸入でリンネル衰退、米国へ移民、 1860 タバコ産業の発展、
1945 空爆被害、米軍無血占領。
13cの市壁の跡は、Walkhausによりたどる事ができる。かってのGretscher
Hofは、市壁の跡に建てられた。14cからの新市街の市壁はKeselStrasseの建
物の中庭に塔の基部がある。大砲の発達で、新旧市街地を囲む市壁には1539
-45に多くの円塔が付けられた。KreuzStrasse38の裏には、長さ6mの市壁基部
が僅か残っている。
オストマン塔 工場建物の一部であり、7階建の塔は学生寮として使われている。
マルクト | 市壁 |
アーチ | 壁塔 |
市壁 | 北壁 |
西壁 | 西壁 |
下門 |
1180-90 Lemgoの所有、 1255 Lippstadtの町として成立、
1447 ゾースターの争いで町は完全に破壊、その回復は巡礼が盛んとなり助長、
1460-62 チャペルの建設、 1468 アウグスチーノ修道院は巡礼で有名となった。
1536 宗教改革で巡礼は終わり修道院は解散、修道院教会は改革教会へ、
17C 小手工業と商業の町、靴屋のマイスターが百人もいて遠くまで出荷、
町の西側に残っている。
Niedern tor(南) 1520-30建、唯一残った市門。
Martin turm(中) マルクト広場に重々しく立つ。
第2次大戦に無傷で残り、美しい木組みの家屋.歴史的な町役場.中世の城.
市壁が見られる。
町役場 Rathaus(1587) マルクト広場の北側に目立つ3つの大きな木組み破風。
左に中世の罪人の見せしめの曝し柱が置かれた。
アルヘイド泉 AlheydBrunnrn(1460) 記念すべき事件を思い起こさせ、その
奇蹟で巡礼を起こした。
ブロムベルク城 BurgBlomberg(1511) 伯爵の城として建てられ、今はレストラン。
アムトハウス Amthaus(1572) 城の出入口に領主の代官の住居として建てられた。
板張の家 dielenhus(1627) 大きな板張の家、1978の火災後彫刻を全面復旧。
町図書館 StadtBibliothek 金具付の後期ルナッサンスの前面と絵入彫刻は1985
改修。
木組みの家屋 FachwerkHaeser(17C) 手工業者.都市在住農民.商人の17Cの
住家が残っている。特に美しい建物は東側のGrossStadtmauerStrasseに
見られる。
旧市庁舎 | マルクト |
9c 教区の初言及、 1222 ミュンスター司教は都市権を授与、
14c 町の防御が強化され教会の建設、 1598-99 スペイン軍は七月間占領、
17c 30年戦争で町は衰退、 1635-50 ヘッセン軍が町を占領、
18c 7年戦争とナポレオン軍の被害、 1803 ミュンスター王子司教は事務署設置、
1813 プロイセンの占領、 1815 ウイーン会議でプロイセン王国に属す、
1945 空爆で町の85%破壊、英軍の占領、1947 ノストライン・ヴェストファーレン州設立。
13cからの市壁は、地図上にMauerの名前があるが、19cに姿を消し地上には見当た
らなかった。
1986にSudmauerで、これまでの市壁の基礎で最長の部分が発見された。長さ33m
幅0.90m高さ1.26mであった。
ベルリンの壁崩壊記念碑 Denkmal Berliner Mauer (1995) 1961-81GDRがベルリン
に建てた壁が1995に撤去され、新市庁舎の前に2.5mのパネル2枚を置いて
記念碑とした。2014にパネルが50年を経過して劣化し、今の位置に移して
保全した。
市壁の門や塔は、見当たらない。
石積の煙突 Mauerwerks Schrn Stein (1875) 今は商店街の近くの産業記念
碑である。高さ32m正方形の基礎の上に、鉄の帯のある八角形で建てられ
ている。
オベリスク Obelisk (1985) 戦後都市開発の象徴であるベルリン広場ににあるプロイセン
のマイルストーンのレプリカであり、位置はベルリンまで470kmである。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1350) 1423に同じ場所に控えめに再建された。
その後も何回か再建され、1606スペイン戦争の回復期に再建が計画されたが30
年戦争で遅れ、1619切妻付階建の地階オープンアーチの外構が建てられ、1624
内装が終わった。1786修理が重荷となり、19cには衰退し、1827裁判所と
して改修されたが、1945空爆で破損した。1977新市庁舎は、文化の中心で
ある対岸の人工島に建てられ移転した。
新市庁舎 Neues Rathaus (1977) 文化センターと劇場を含む近代的4階建の大きな市
庁舎が中島に新築された。
聖ゲオルグ教会 St.Georg Kirche (1415) ヴェストファーレン州で最大の規模のロマネスク教会
は40年経っても完成しなかった。1486前の基礎の上にゴッシクの教会が建1958
に再てられたが、1945の空爆で破壊された。1946瓦礫整理が始まり、構築
は完了した。1910聖具室・芸術スペース追加。
聖アグネス教会 St.Agnes Kirche (1484-89) 後期ゴシックの礼拝堂はかってのアウグス
ティヌス女子修道院の修道院教会であった。1819-1901にはプロテスタント教会と
なり、1945空爆で破壊し1952-53に修復された。
聖母教会 Kath.Pfarrkirche Liebfrau (1785) カトリック教区教会でかってのミノリテ
修道院の教会であった。1310市内第2の教区教会とされ1316には使用さ
れた。 1912-13教会は拡張された。
市博物館 Stadt Museum () 地域の歴史と文化・地質学・先史時代・美術品・民族
芸術・舞台芸術などの展示。
ヴォルト邸 Mansion Woord (1792-95) 2階建てのマナーハウスは、石とレンガ造で、19
34に拡張された。戦災後に古い形の大邸宅が復元された。
アートハウス Kunst haus Bcholt (1996) 2階建と屋根裏を含め、科学・文化・環境保
護の推進のため、ルネッサンスの別荘にアートハウスを置いた。
市民の家 Buerger Haus (1900) アールヌーボーの建物に実業学校がある。
テクスタイル工場 Textilserk (2011) 歴史的モデルに基づいた織物工場で煙突・発電所・
小屋の屋根・工房・倉庫・門・門衛・線路・ボイラーがある。
学校博物館 Schulmuseum () 聖ゲオルク体育館の200年にわたる歴史を描写し、
古典的な自然科学・物理・化学・生物・地理の分野の発展を記録した科学部門
が有名である。
市庁舎 | 市壁 |
ボン大学 | ミュンスター広場 |
BC12 ローマ軍駐屯地 9C フランク王国が教会.修道院の建設、
1243 完全な市民権の授与、 1244入植地を守る壁の設置、
1265 ケルン大司教座の所在地、 1288ケルン選帝侯の宮殿を居住地、
1314-46 ボン大聖堂で戴冠式、 1601 ケルン選帝侯の領政庁の所在地、
1673.1689.1703 包囲され破壊された、 1794仏軍の占領、
1815 プロイセンに帰属、 1945第2次大戦の空爆で建物の30%破壊、
ローマ駐屯地跡は、500m北にあり一辺500mの正方形の砦であった。
中世の市壁は13C全長2.30km、ライン川北(ベートーベンハレ)から中央駅まで行
き、ライン川南(旧税関)に戻る。20C初めに市壁と2門が都市開発で壊され、
旧税関AlterZollと星塔門付近に市壁は僅か残る。
Stern tor(南)13C建、塔は1898に取壊され、南壁1245に移動して組込ま
れ、1900に円筒が再現された。聖母の画像が埋め込まれている。
Koblenzer tor(南)宮殿の翼の一部として建設され、天使マイケルの像が飾られ
ている。外側通路は税関を守るため使われた。
旧市街地の大聖堂.ベートーベンの生家.マルクト広場.ライン州立博物館が見所である。
大聖堂 Muenster(11C) 古代ローマの墓の跡に三身廊のバジリカが建てられ、
1239火災後に後期ロマネスクの聖堂が建てられた。中央方形部に八角の塔が
聳える翼廊を半月形の後陣で纏めている。
ベートーベンの家 BeethovenHaus ベートーベンが生まれ幼少期を過ごした。1889
から博物館としてゆかりの品が展示されている。
旧市庁舎 AlteRathaus(1738) 1689に古いゴシックの建物が砲撃で破壊され2連
の屋外階段を持つロココの3階建石造バラ色とグレーの色彩で新設された。1944空襲
で破壊されたが1950に復元された。マルクト広場に立つ。
ライン州立博物館 RheinschesLandesmuseum 先史時代から現代までの下流ラインの
歴史.文化.芸術を展示。
選帝侯の居城 KurfuerstlicheResidenz(1693-1725) バロックの宮殿は1818以降
は大学として使われている。
古い税関 AlterZoll 旧市街地の東南の端に位置する要塞で市壁も少し残る。
中世は税関として使われた。
風車塔 | 市壁 |
聖レミギュウス教会 | ホルケン塔 |
800 最初の文書の言及、 1220 礼拝堂の建設、
1226 都市権を得た、 1250 ハンザ同盟に加入、
1391 市壁と塔による町の防御に言及、 1404 聖霊教会の完成、
1576-89 ペスト流行、 1803ザルム公国 仏領、
1815 プロイセン領となる、 1945 2次大戦による町の80%破壊、
1978 残っていた歴史的建造物も壊された。
14Cからの古い市壁による町の防御は16Cに完成された。旧市壁跡の柵があ
るが新しい。風車塔の北側に市壁H5mの残り30mがある、その北に古い材質
の壁が10m残っている。HolkensTurmの再建にはH7mの市壁を10m復元した。
DiebesTurmには、まだ古い市壁H8-9mの残りが20m残り、控え壁で補強。
泥棒塔Diebes turm 1433建、第2次大戦で壊され古い形で1976に復元。
壁厚2.2m、円径5.7m、高さH16mのレンガ造円錐屋根。一時刑務所となった。
Kuhm turm 16C初建 壁厚1m、円径6.1m、高さ16mレンガ造。1913復元。
会議室として使用。
Wedemhobe Turm16C初建 壁厚1m、円径6.0m、高さ15m、階段塔付。
展示場や会議場で使われる。
熊塔Baer Turm1434建のVennerTorであり、駐車場のために1976に壊され
外壁の一部となっている。古いレンガ造りの長方形。
風車塔Windmuehlen Turm1434建16C再建 壁厚1.6m、円径6.2m、高さ
15m。17Cに風車に改造したが1869の竜巻で破壊され、1902に風車は除去。
Holkens Turm1434と16C建 壁厚1.9m、円径6.2m、高さ12m。1945の
戦災でネオゴシックの塔は破壊され、1988レンガ造屋根なしで再建された。
市粉引塔Stadt Muehle1393建 穀物の粉引のためミュンスター大司教が設置。
町の建物は殆ど第2次大戦で壊され、現存するのは殆ど復元された物であ
るが、中世の雰囲気は残されている。
旧町庁舎 AlteRathaus(1953) マルクト広場北側の旧町庁舎1500は、戦後再
建され、1987から町博物館として、町の歴史と美術品を展示している。
旧聖霊教会 Heilig-Geist-Kirche(1952) マルクト広場北側の救貧院設立の
ため1390建てられた。2次大戦で焼け落ち、外観を保って再建され1966
から町博物館となった
レミギウス教会 RemigiusKirche(東)フランク式の木製礼拝堂1160として建てられ、
今はゴシックのハレン教会となっている。中に1200ローマ風洗礼盤、15Cピエタ像。
ヨハネ教会 JohannesKirche(1263) 聖ヨハネ騎士団が教会と修道院を建てた。
1770にバロックの新教会として建て1777に側廊を拡張。中に15C二人のマドンナ。
穀物広場 KornMarkt(南) 面して16C三段破風の家、1684ルネッサンスの家。
市庁舎 | 聖ミカエル教会 |
マルクト | Thy石 |
北市壁 | 東市壁 |
南東市壁 | 南市壁 |
西南市壁 | 西市壁 |
836 ベネディクト派修道院によって初言及、1213 ブラサールのヘルマンは収入を献金、
13c ブラケルは小貿易都市へ発展、13c パダーボルン司教支配下でハンザ同盟加入、
1350 4門10塔の市壁で町を防御、 14-15 バルト海でブラケル硬貨が流通、
17c 30年戦争で的は衰退、 1803 世俗化でプロイセンが町を引継ぎ、
1807 一次的に仏支配下で地区の町、 1832 ヘクスターに統合された 、
1945 米軍が無血占領。
1350の市壁は、まだ多くの部分で残され、堀もオープンスペースとして存在する。
王門 Koenigs Tor (1329) 4市門の一つで北東に位置し、前門の跡には
古い鍛冶屋がある。
モーデックス見張塔 Modexer Turm (1385) この円塔は、市壁から外側のいわゆ
るLandwehrという中世要塞に一部である。2-3階の塔の上に警備員が
配置された前哨基地で、敵を発見したら塔の上に閉じこもり、狼煙
で町に伝えた。この塔名はファッション・ブティックの名前であり、12.6mの高
さの円塔は展望台として使われている。
市庁舎 Rathaus (1250) 初めゴシックの中央部分が建てられ、1410マルクト
広場の中に階段切妻の市庁舎を建て、南の入口に1573の年号がある。
マルクト広場にあるローランサテールは、1385に高さ5.45mの像を建て、ブラケルの
市場権を示している。
旧計量所 Alte Waage (1350) マルクト広場に面してモデックス騎士団の家として
ゴシックの階段切妻で建てられた。1479に町に抵当権が与えられ、1553に
は不動産となった。1840町の計量所となり、1868に建物は修復され、穀
物蔵から住居へ改造された。1980から会議室・公文書館・展示室となった。
来客の家 Haus des Gastes (14c) マルクト広場に元鋳造所かも知れない古典
的な前面の建物で、18cには都市旧農民の家となり、今は観光案内所・
市博物館となった。
教区教会聖ミカエル PfarrKirche St.Michael (99c) 初めての教会は9cから存在
し、1160矢型バジリカとなり、1350東内陣、1517焼失、南通路再建1846
今の70mの塔を付けた。中に1335十字架、1622説教壇、1748石の祭壇。
カプチン会教会 Kapuziner Kirche(1715-18) 1645カプチン会が町に来て、初め
病院教会で礼拝していたが、18cにバロックの簡素な教会を建てた。入口
の上には司教の紋章がある。
旧カプチン会修道院 Ehem.Kapuziner Kloster (1304) 旧精霊病院が建てられ
た場所に、簡素なバロック3翼の修道院建物が建てられた。今は教区事務
局である。
塔守の家 Torwachter Haus (1306-1803) ハネカンプ市門にある守衛所。
王通り Koenig Strasse (19c) 大きな建物が並ぶ。
夏の家:Haus Sommer (1836) 2階建の木組の家で地方取引業者が住む。
穀物蔵:Speicher Haus (1821) Hanaの家屋の裏に建てられた。
中粉引所:Mittel Muehle (1338) 後に市の粉引所。
ヤーコブ教会 | 市壁グラーベン通 |
1184 シーブルク修道院の文書で初言及、 1396 ディートリッヒ伯爵は都市権授与、
14c 町を市壁で囲み射手を維持、 1418 裁判所の設置、1464パン屋ギルド、
1468 ハンザ同盟加入、1499関税権付与、 15c 鉄鉱床採掘・製鉄・鉄加工、
1520.1557.1628.1655.1711.1727火災頻発、17c 水力発電のハンマー加工に移行、
1808 仏ベルク大公国は自治体再編、 1816 プロシアに帰属。
旧市街地は中世後期の市壁と堀で囲まれ、市壁は二重で3門・壁塔があった。
見当たらない。
町の中心では、聖ヤコブ教会を建物が取り囲んでいるのが珍しい。
市庁舎 Rathaus () 東南の市壁の外に市庁舎を新築した。
プロテスタント聖ヤコビ教会 Ev.St.Jakobus kirche (1390-1430) 旧市街の中心にあり、
教会の中庭と建物に囲まれ、ヴェストファーレン州で唯一の後期ゴシックの大聖堂であ
り、単一の聖歌隊席を持つ。内部にはオーク材の彫刻翼のある祭壇、1740バロック
の説教壇がある。
カトリック聖ヤコブ教会 kath.kirche St.Jakobus (1728) 1727の大火災の後にプロテスタント
のコミュニティ教会として建てられたが、1844カトリック教徒に引継がれた。1728から
の塔のあるシンプルなホール教会である。
地方歴史博物館 Heimart Museum (20c) 歴史的建物に鍛冶屋のワークショップは、鍛冶
屋フリック・シュミッツが1993まで練習していた様々な製品のプレゼンテーションを行っている。
2014からハンザ同盟都市登記所では、結婚式場として使われている。
ベフィングの家 Haus Boevihg (1728) 2階建の石積の家。
市庁舎 | マルクト広場 | |
聖プロプスタイ教会 | 市街 | |
西壁 | 西南壁 | |
南市壁 | 東壁 |
973 オットーⅡ世の文書に鉱石を言及、 後にPader教会に渡されて発展、
1220 ケルン大司教が町を獲得した、 町を整備して都市権を与えた、
1444 侯爵領ベストファーレンの首都となった、 17-18C 戦争の略奪と大火で衰退、
1802 プロイセン領となる、 1945 2次大戦の空爆で町は壊滅。
13Cからの古い市壁は、二重の広い堀と4門8壁塔で守られた。市壁の残り
は、まだOberenMauer.DerkernMauer.NiederenMauerの通りに見られる。
デルカー塔Derker turm 南の入り口であり、市壁の跡を示す道路の中に唯一残さ
れている。この塔は老朽して1750に再建された。2階建ての角塔。
古い木組みの建物が幾つか残されている。
古い木組の家 SchultenHaus(steinweg)1767木組造玄関ホール,1962-65にすべ
て更新された。HovenerHaus(markt)1804マンサード屋根と古典的玄関の傾いた木
組家、古い部分が保存されている。DielenHaus(NiedersSt.)1792木組のホール造
り、門梁碑文には1791の大火の記録がある。BruchHaus(Schulgasse)1431切
出し石造り2階建、1659.1720に木組造で拡張した。
町庁舎 Rathaus(13C中) 同業者組合の建物として建てられた2階建。1755にバロック
の切妻となった。
聖パウロ・アンドレ教会 PropsteiSt.Petrus&AndressKirche1220-1350早期ゴシック火事の
後に31mの塔頂はバロックで置き換えられた。
聖ニコライ教会 St.NikolaiKirche 1772-82 チャペルの跡にバロックの回廊教会を建てた。
町博物館 StadtMusum 恐竜骨格、鋳物工場、町の歴史。
ペトロ泉 PetrusBurunnen マルクトにペテロ像が立つ泉、今の形は1726更新。
マルクト | 東壁 |
東壁 | フクロウ塔 |
西壁 | 西壁 |
1095 最初に文書に言及された、 1150貴族領主が城を合流点に建てた、
1195 paderbornの司教と貴族領主との契約で、司教は要塞経費を負担した、
1220 道路.町庁舎.教会等を整備し、少しづつ壁で囲い9塔を作って守った、
1238 リップシュタットの都市権を基本として、都市法を制定し市壁を築いた、
1568 最初に泉に水が配られた、 1661水道水が各戸に配られた、
1728 城を1717-28に取壊して、跡にイエズス会学院をバロックのコ形建物で建てた。
13Cに0.9kmの市壁が築かれたが、1728には北側部分が無くなり、
今は東西にMauerの名前の付いた道路の下側に石積みが残っている。
フクロウ塔 EulenTurm 東南に円錐屋根の円塔がある。
北東塔 NertostTurum 北東の外れに円塔の市塔、茶色の尖塔。
特に魅力あるものはない。
聖ニコライ教会 PfarrKirche St.Nikolaus 1220十字型のバジリカ教会で
西塔がある。1774バロックのオルガン、19Cに改修された。
マリア教会 JesuitenKircheMaria 1719-28イエズス会学院のバロックの教会。
中庭に通じるアーチには1661の年号がある。
古い木組の家 マルクト広場に木組み板張りの寄棟屋根の家があり、入り
口の角材に1608の年号がある。
郡博物館 KreisMuseum paderborn王の中世の城の歴史を展示。
学校博物館 SchlnMusum 南の学校センターにある学校博物館。
水車博物館 MuehlenMuseum 西下の再建された中央水車にある。
ゾーリンゲン市内
中門 | 宮殿 |
時計塔 | 宮殿門 |
1133 ベルク伯アドルフ2世は居城建設、 1218-25 狩猟宮殿としても使用、
1225 アイゼンブルクのフレデリックの死で承継戦争、1288 伯爵アドルフ5世の居住地、
1385 デュッセルドルフ・ベルク公国の狩猟宮に、1509 城結婚式でユーリッヒ・ベルク公国、
1632 スエーデン軍が町を破壊、 1700 公爵の居所は部分的改修、
1807 宮殿から公爵の退去、 1849 宮殿は全焼で廃墟に、
1889 城建設協会による復元運動、 1890-1914 城の復元作業開始。
1920 城の火災、1922から城の再建、 1952 最初のケーブルカー設置。
宮殿を囲んで城壁が築かれている。
宮殿門 Schloss Tor アーチ門がある。
溝門 Graben Tor 城の建物にアーチ門が開けられている。
山頂に復元された宮殿と周辺の建物や公園を見る。
宮殿 Schloss Burg 塔のホール、祖先のギャリイ、東屋、礼拝宮、
博物館がある。
聖マルチヌス教会 St.Martinus Soringen Burg。
見張城 Schloss Aussicht Burg 。
旧市庁舎 | 宮殿 |
門屋 | 聖ヨハネス教会 |
890 市街集落の初言及、 9-12c 農場と住宅の集落、
1155 貴族ルドルフ2世は水城を建てた、 1421 城はベンスハイム伯爵が相続、
14c 貴族は市場を開設し町を発展、 1558 伯爵ヴァールブツクは城修復、
1558 伯爵アーノルト3世は体育館設立、 1591-93 アーノルド4世は高校構想、
1623 30年戦争の略奪・破壊・疫病、 1648 司教クリストフ・ベルンハルトは占領、
17c 町を駐屯地を60年間維持、 18c 城や市壁は平坦して払下、
1945 町の半分は空爆で破壊、英軍が占領。
地図上には、Stadtmauer・Wallなどの道路名が残る。Tuerke.43と
kircheStr.23に僅か残る。
見当たらない。
水城と大きな城下町が一体としてある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1561) 砂岩漆喰塗の2階建の建物で、丸窓と二
つの尖ったアーチ窓で構成され独特な切妻である。正面に3軸アーケード入口
があり、鐘楼には展望ギャラリィが付けられた。ミュンスター・モデルにに倣って作
られ、1922までは地下に肉屋・警備員室・刑務所があった。今でも登記
所が置かれ、観光案内所となっている。
ブルグシュタインフュート宮殿 Schloss Burgsteinfurt (1129) 領主ルドルフ2世は、堰で
川を止めた水城に、正方形の塔のある城を築いた。次に別の人工島に
強力な要塞塔と管理棟を建てた。1164に城は破壊されたが直ぐに再建
された。12cには城の礼拝堂が追加された。13c住宅棟が改修され広間
がゴシックで造られた。2つの島は共通の防衛壁で囲まれ統合された。13
c城の外に納屋・馬小屋・倉庫など農場の建物と城人の家も建てられた。
1421男系が途絶えて、ベンスハイム伯爵の所有となり、居所とならなかった
ため衰退した。1558修復されたが、30年戦争やバイエルン軍の占領を経て
1662修復が始まり1723-29バロックの建物で更新された。1773-79防衛塔
が取り壊して石材を活用した。1898補修が行われた。今もベントハイム・
シュタインフュート家の住居として使われている。
大教会 Grosse Kirche (9c) 旧市街の外に木造の教会があり、1222聖ヨハネ騎
士団が来た時には、今のロマネスクの石造の教会となった。1648説教壇とオ
ルガンが付けられた。1990の嵐で壊れ、再建された。
小教会 Kleine Kirche (14c) 市民により貧弱な礼拝堂と家が建てられた。
1430隣接地に木造で建て替えられた。1472-77後期ゴシックの八角塔の
ある砂岩造の教会が建てられた。1945爆撃で全焼したが再建された。
聖ヨハネ・ネポムク教会 St.Johnnes Nepomuk kirche (1721-24) 古いバロックのホー
ル教会は、1883-85にロマネスク・リバイバルの十字架教会に拡張された。18cか
らの祭壇画とオルガンがある。
高校 Hohe Schule (1591) 伯爵アーノルト4世は、ラテン語学校をこの町に移した。
大学に昇格して神学・法律・哲学・歴史・物理・天文の講義が行われた。正面に
3部構成の石造十字窓と3段の切妻のある大きな3階建の双搭で強調されている。
1807にナポレオン軍は占拠し、1811-13は仏帝国法廷、1814-51は小学校であった。
1897にプロイセンは大改修を行い、地方裁判所として1945まで使った。戦災を受け
改修して1958-81市庁舎として使われ、今は音楽学校と成人教育に使われている。
フック・バイファングの家 Huck-beifang Haus (1607) 納屋・馬車庫を壊して、2階
建上階出窓付のヴェーザールネッサンスの切妻のある建物を建てた。1940地元博物館に改装され、
1978に市図書館となった。
コーン・シュライバーの家 Korn Schreiber Haus (17c初) この町で最古の狭い2階建
の木骨造のとがった高い切妻のある家で、片持ちアーバーと屋根裏部屋が特徴的で、
張り出し梁は変形している。1617に穀物書記住み、その家族は80年間住続けた。
20cに復元された。
市ワインハウス Stadt Weinhaus (1445) シュタインアルト伯が建てゲストハウスとして使われた。
1490にゴシック木骨造の最古の建物で、ここでワインが販売された。1569伯爵は大改
修して売却した。1638廃墟となり、1648復元された。1912現在にシックイ仕上げとなり
アールヌーボーとバロックの組合わせとなり、住宅や商店として使われてきた。1983に市の
所有となり、修復されて市図書館となった。
ホーリッヒ風車 Hollicher Windmuehle (1858) ホーリッヒ農業共同体が200年前の
風車を動かしている。町の北800mにある。
下水車 Nieder Muehle (1352) 町で最古の建物の一つで、1864に3つ目の製粉
サイクルが追加され、ライムギ・ソバ・オオムギを製粉した。1957に操業を中止し1974にモーンドルフ
家に売却した。1995に地元クラブが借用して復旧して見学可能とした。
市博物館 Stadt Museum (1987) 十字軍の行動・宗教改革など市の歴史を展示。
市庁舎 | 塔守跡 |
バルケン橋門 | 火薬塔 |
火薬塔 | 旧城 |
809 最初の文書による言及、 1197 町を南に移し都市権の一部授与、
1244 シトー会修道院が移動してきた、17C 30年戦争で数回外国軍隊が占領、
1761 経済の衰退、 1803 仏軍の侵攻、
1815 ウイーン会議でプロイセン領となった、 1945 第2次大戦の爆撃による破壊。
全周を土堤と緑地が取り巻き、東から南にかけて堀が残る。
東のWalkenbrueckenTorの周辺に市壁は僅かに残る。
門塔 (東)WalkenbrueckenTor 14Cの要塞の残り、第2次大戦で壊され
1945に外観は復元。車道と両歩道の3アーチの長方形レンガ造、西側に建物
が連り美術館として使用。
火薬塔 PulverTurum 14C市壁の円塔でレンガ造円錐屋根。
塔家跡 TorHausRuine 守衛詰所の上部が保護されている。17C中にルドガー
の城を作らせたが完成せず、後に壊されかけた。
旧市街地の中心にあるマルクト広場には、石造の大型で高い建物が取り巻き、
教会の高い塔もあって、見事である。
旧町庁舎 Rathaus 古いゴシックの市庁舎は2次大戦で破壊後、広場の東側に1955
移設された。レンガ造りの簡素な建物。入口の上に牛の頭部の紋章が飾られ、
1階は観光案内所となっている。
聖ランバート教会 St.LanbertiKirche 広場の東北にロマネスクからゴシックに教会は拡張さ
れていたが、戦後に再建された。1703前面の5階建てのバロックの塔は1945に
爆弾で破壊され、忠実に復元された。内部に聖十字架の遺物。
福音教会 Ev.Kirche プロテスタントの教会は1692にイエズス会の教会として建てられ、
1945の爆撃で破壊され1955に再建された。1969に福音派の教会。
切妻の家 GiebelHaus 広場の西に入母屋2階建てレンガ造1955改造や石積み破風
の家1744の再建がある。
元城 Ehe.Schloss 1666初めはイエズス会の大学であった。戦後に修道院として再
建され、1977に市が買い取った。
市庁舎 | ランゲ通 |
侯爵宮殿 | 市公会堂 |
783 最初の文書による言及ザクセン領、 1265 市場で町は発展した、
14C 城は領主の代官に管理された、 1305 堀.土塁.市壁で町を守った
1515 帝国自由都市、 1557 宮殿はヴェザールネッサンス造りで完成、
1616 郵便の駅を設けた、 1625-37 ペスト流行、
1648 30年戦争終了、壁の中に9百人、 1701市壁を壊して南に新市街地を設置、
1720 運河のために土塁と堀を撤去、 1780 市壁と壁塔が取り払われた、
1818 NRW州に帰属。
市壁は、直径500mの円形であり、まだ市壁は南側の各所に残されている。
昔は東西南北に4門があった。(東)BuergerTor 壁の裏側は沼沢地。
(西)BruchPforte 家畜が牧草地に行くために開けた。(南)HornTor
(北)LemgoischenTor 二重門。
旧市街地には、350の木組みの歴史的な建物が見られる。
特に、ランゲン通.クルメン通.マイアー通は見事である。
領主王宮宮殿 FuerstlicheResidenzSchloss ヴェザールネッサンスの華やかな宮殿
1366初めの宮殿、1447戦争で壊され城壁で補強して1511再建、1549ヴェザー
ルネッサンスの堂々とした建物とした。1780宮殿の庭のため城壁を取り壊した。
赤い部屋:1882古代神話の天井画.肖像画.磁器飾られ、後期バロックの広間
先祖の間:16Cダークオーク材で囲まれた先祖の肖像画が飾られた荘厳な広間。
王の部屋:アレクサンダー大王のタペストリィのある、後期バロックのプロイセン王の部屋。
地域博物館 LandesMuseum 地方の文化.歴史.民族学.歴史の豊かな展示。
民族屋外博物館 Lwl-FreilichtMuseum 100haの広大な木組の家の田園風景
と歴史的な内装が見られる。製粉.鍛造.陶器の古い工芸品を展示。
市庁舎 | 市壁 |
10c 今の城の場所の堀と壁のある丘に集落があった、 12c 修道院が設置され砦が築かれた、
13C 水運による貿易拠点として栄えた、 1251 ケルン大司教から都市権を授与、
1273 クレーブ伯ディートリッヒ伯が町に自治権を与えた、 1420 城が築かれ布とリネンが生産販売された、
1412 クレーブ伯アドルフ2世は布作りギルドに事務所を付与、 1433 修道院の設立、
1478 町は市場権を取得、 1540 ハンザ同盟に加入、 1627 オランダ軍が城を焼いたが再建、
1712 デュッセルドルフからの定期ポストバス運行、 1753 クレーベ公国の大学と裁判所が立地、
1816 ナポレオン戦争後プロイセンが支配、 1850 接着剤工場・点火プラグ工場・1873鋳物工場開設、
1853 デフリース家は城を買収して蒸留所設置、 1909 石炭採掘開始、 1923 仏が占領。
昔の市壁は、騎士門とRotbach沿いに20m、東のVoswinckelshofの1527に新設した内
側に20m残っている。
騎士門> Ritter Tor (13c) 最古の門衛詰所の建物の奥にアーチ型の屋根付き
小門があり、城と旧市街地を分けていた。旧5市門の内唯一残っている。門衛詰所は観光案内所にな
っている。
城には地下駐車場のある市庁舎があり、加えて文化センターが併設されている。また、城跡の公園
には高い石垣を背景とした半円形の野外ステージがあり、ブルク劇場では催物が開かれている。
市庁舎> Rathaus (1163)3翼の城は12cに始まり、1627にオランダ軍に焼かれたが、
すぐに再建され、拡張された。20c初めに市に買収され、2次大戦後に近代的な市庁舎が建てられた。
なお、城の施設として、主塔・東搭・城壁などは残された。
聖ビンセント教会 St.Vincentius Kirche (1273) 礼拝堂として設立され、1436に
教区教会として昇格された。初期ゴシックのレンガ造で西塔の帽子は何回か更新が行われてきた。終戦の
日には塔は壊され、身廊は下敷きになった。1951に西側から再建が行われ北西に新鐘楼が置かれた。
ヴォスウインケルスホフ博物館 Voswinckels Hof Museum (1527) 貴族である所有者は、
市壁の一部を壊して、市壁の外側に新しい建物を建て、18Cには今の建物に建て替えた。一次大戦後
に子供の祈りの場となり、1976から博物館となり、1999に大規模改修して再開し、充実した展示と
イベント行こなわれている。
ハイスフェルト地区の風車と水車 Hiesfeld Wind Muehle und Wasser Muehle
「風車」 (1822) かっての穀物と石炭の向上にあった風車は、1922に操業を中止し、1976から製粉
教会によって博物館として使用されている。
「水車」 水車と木造とレンガ造の建物は、Rotbachの両岸にあり、1991から工場博物館とし
て展示されている。
市壁 | 西壁 |
聖アガサ教会 | 壁搭 |
BC7-11 ローマ駐屯地の遺跡を発掘、 8C キリスト教化始まる、
13C 水運による貿易拠点として栄えた、 1251 ケルン大司教から都市権を授与、
1260 堀.土堤.柵.市壁による3.5haの防御、1334 長方形11.8haを壁で囲った、
14C ハンザ同盟に加入し低水路料金で、 1588 魔女狩りの文書化、
1641 30年戦争で占領され荒廃、 1633 円形防備に星形要塞を付けて強化、
18C初 ハンザ同盟の最盛期で経済回復、 1945第2次大戦の爆撃で町の80%破壊。
昔の市壁の位置に低い石やレンガの柵が置かれている所がある。
西南東のGraben通に、僅かに市壁が残る。西側水路に昔の星形要塞跡が
見られる。
2つの丸い防御塔が西南側の緑地に立つ。その一つは30年戦争から第2次大
戦の戦死者の記念碑となっている。RecklinghaeuserTorは基礎だけ見られる。
木組みの家は見るべき物がある他は、小さな旧市街地の中に旧市庁舎
(郷土博物館)と聖アガサ教会に囲まれたマルクトがあるだけである。
旧町庁舎> AlteRathaus 1567建、ルネッサンスの建物は1797までに玄関ホールが設けら
れ市営計量所として使われ、1902までは市庁舎として使われた。1935から郷
土博物館となり、古い武器屋.羊飼いのフルート.町の歴史を展示。
聖アガサ教会 St.AgathaKirche 中世の教会はゴシックのホール教会であるが、1945に連合
国の560発の爆弾を受け主塔3階だけ残った。今日の教会は1951に基石
を置き1952にバジリカ様式で落成した。内部はマグダリアのマリアの祭壇、ロマネス
クの洗礼盤、13Cの3つの鐘がある。
ユダヤ博物館 JuedischesMuseumWestfalen 州内のユダヤの歴史と文化を展示。
旧郵便局 | ヴェーナ邸 |
851 アレキサンダー旅行記に浅瀬を記述、 14c シュタインフートの館の町に教区設立、
15C 定住人口増で4市門の市壁建設、 16c 町の市門と市壁を強化、
16-17c 戦乱は免れた、 18c 都市拡張・公共施設・農場の形成、
19c 家畜・農産物・ストロンチアン鉱石の鉄道輸送。
15-16cの市壁は南東部に一部残る。
見当たらない。
第二次大戦の破壊にも関わらず、古い木組みの家は残されている。
旧郵便局 Alte Post (1647) 2階建の11柱列の本館と4柱列の突出した分館が
一体となった三角屋根の木組の家で、上階は持ち出している。地下アーチに
は1647の年号がある。通路で入った中庭には、倉庫・事務室・炉のある土
間等に使われた。その後馬車や馬の留置場所となり、アルテ・ポストと呼ばれ
た。1976町が建物を取得して改修し、1980市議会・委員会・文化行事に使
われている。
シュタインフュート宮殿 Schloss Schteinfurt () ヴェーザー川と堀で囲まれた町の北側に、
宮殿複合体がある。邸宅・二つの別荘・中庭の左右の門・水車公園などで構
成されている。中心の大邸宅は1907-09に建てられた2階建レンガ造左右
対称の建物で、前面に軽い突出の横翼がある。最古の部分は1585-91の
門衛の部分にあり、ルネッサンスのレンガ造である。
ロレート礼拝堂 Loreto Kapelle (1726) 1666聖ヨハネ礼拝堂の跡に3方に開かれたレン
ガ造の礼拝堂が建てられ、入口の上には砂岩のナザレ家の告知がある。1730
-79には聖巡礼が行われた。
聖レジーナ教会 St.Regina Kirche (1137) カトリックの教区教会で、主としてレンガで造
られた。最初はロマネスクの小教会であったが1783には取壊された。1787-90
に既存の土台の上に、西塔・長方形後陣・2階建の聖職者の家から成り、木製
の天井は石灰で飾られた。1890に2通路を追加し、1895木製天井の置き換
え、19c広大な絵画が描かれた。
蜂博物館 Bienen Museum () 数十年ミツバチを飼い、平屋の建物でハチの必要性を説
明している。蜂蜜の効用・蜂蜜コロニィの研究発表もある。
ミルと機器博物館 Muehlen Museum () 工場・装備品の博物館であり、機械がスローモー
ションで作動する。1935時代の技術が理解できる。
古い家 Alt Haus (1550) 古い木組の家で、1982に改修された。
カフェ・プレーニ Kafe pureni (18c) 不規則な屋根の木組の家。
カソリック教区館 kath.Pfarrgemeinde 新バロックのレンガ造の建物、1912修復。
古い木組の家 Alt Fachwerk haus (16c) 軒柱持ち送りの2階建の可愛い家で、18
06ウルリヒが追加された。内部には塗装された木梁が残っている。
古い木組の家 Alt Fachwerk haus (16c) 不規則な屋根の2階建木組の家で、二次
大戦の戦災は1958に復元された。
ビスプティング館 Haus Bisping (15c) ガレン家が16c以降水域を所有し、1651に再編
され、入口門のみが残った。2階建ての門の家は地階砂岩上階木組で区画
レンガで囲まれている。
市庁舎 | 聖ビクター教会 |
マルクト | ローティングハウゼン門 |
尼僧塔 | ローレンケン塔 |
889 修道院税登録で初言及、 1115 領主は城を建設、
1229 村を焼かれ、市壁と堀を築く、1311 ミュンスターから市場権・自治権授与、
14c 門のある石の要塞が建てられた、 1328-1808 町は自治を行い栄えた、
1470 ハンザ同盟に加入、 1583 スペイン・オランダ戦争で要塞強化、
1623 30年戦争の占領、1623 魔女2名処刑、1629 大火災で町の1/3焼失、
1670 123の荒廃家屋に79人が住んだ、 1752 穀物貯留所を建設、
1761 7年戦争で占領の仏軍が市壁補強、 1803 王子司教ミュンスターの廃止、
1811 ミュンスターランドは仏に編入、 1816 プロイセンとなりヴェストファーレン州へ、
1945 空爆で町の9割が破壊。
14-16cの市壁は、殆ど残っていない。北と東に僅か残る。
5門と6塔以上があったが、東に1門1塔、北に1塔が残る。他の4塔は地名
やレストラン名で残されている。
リューディングハウゼン門 Luedinghasen Tor (14c) 二つの円錐屋根のレンガ造円塔の高
い位置を屋根付きのバルトメントで連結している。1908の創立600年記念事業と
して改装されこの時に連結された。で補修されている。
尼僧塔 Nonnen Turum (14c) 4階建の四角塔で、南側には市壁がある。
ローレンケン塔 Lorenken Turum (14c) 4階建円錐屋根の円塔。
二次大戦終結直前の1945.3.21に連合軍の空爆があり、町の9割は破壊
され、1200戸の集積は殆ど失われた。しかし馬の町として知られ、歴史的
な町のツアーでは興味深い話がが知らされる。
市庁舎 Rathaus (15c)建物は幾度かの増改築を経て、1945の破滅の直前に徹底
的な改修が行われたが、戦災は免れなかった。1954飾り気のない3階建の
長い今の建物で再建された。
聖ビクター教会 St.Victer Kirche (740)小さな木組の教会は、1074石造のロマネスク
のホール教会となり、1323ルーデヴィッヒ司教は教区教会を建て1811まで建物は使わ
れた。1601にゴシクの後陣と正方形の塔が完成した。1945崩壊後1949-51塔の
ヘルメットを着用して再建された。
旧宮殿 Ehem.Schloss (1844) クロー侯爵は、1803郡庁を取得し1815ナポレオン戦争後
はプロイセン王国の公務員となった。1834-44市壁を超えて宮殿を建てた。1861
美しい庭園に改装した。二次大戦の被害は再建されない。
十字架礼拝堂 Kreuz kapelle (14c) ハンセン病の病院として建てられ、15cに十字
架礼拝堂が建てられた。30年戦争後1696礼拝堂は再建され、7年戦争で壊さ
れ、1765に今の建物になった。
教区教会聖十字架 Pfarr kirch Heilig Kreuz (1938) 人口増で第2のの教会が求
められ、1938ミュンスターの司教によって奉献された。1945の被害は1952-54
に再建された。
オストホフの家 Haus Osuthoff (18c) 1727に買収されたバロックの建物は、2次大戦後
1968まで民家として使われ、2002デザイン会社の本部となり、2016歴史的建
造物に指定され、美しい庭と高基礎の2階建の建物がある。
ミューズ邸 Villa Mues (1913) クラシック様式の幾何学的に単純化された2階建の建物。
市庁舎 | 聖アンナ教会 |
マリア教会 | ディッケン塔 |
グレーンャンス塔 | プレツアー塔 |
シュピーセン塔 | 西南市壁 |
西市壁 |
747 初言及、帝国議会開催、 774 カール大帝は王宮に滞在、
1184 都市要塞が築かれ18cまで強化、1241-46 フレデリックは帝国自由都市に、
1356 ユーリッヒ伯爵の領地へ16cまで、 1501 マインツからアンナ聖遺物を盗み置く、
1506 戦いの後ユリウス2世は聖遺物を残す、 1543 被災し9割の家が壊れた、
17c 30年戦争や仏軍占領で人口減、 1815 ウイーン会議でプロイセンへ帰属、
1816 アーヘン地区の管理都市へ、 1944 空爆で町の9割が破壊。
12cの市壁は、南のAltenteichの東に5m、西に180m、その北のWallstrasse
に40m、東Hohenzollen strasseの10m残っている。
大口径のレンガ造の塔が4基残されている。
ピーツ塔 Pietzer Turm (1355) 東の市壁に直径15mの5階建レンガ造円塔
で補修されている。
槍塔 Spiessen Turum (14c) 東の市壁に直径40m4階建の塔で、一次
刑務所として使われ、下部は補修されている。
太った塔 DickenTurum (14c) 南のAltenteichの東側に5階建レンガ造の
大塔で1909に修繕された。
グレーセン塔 Groenjans Turm (14c) 南西のAltenteichの西側にあり、塔
の下にはローマ将軍マーカステェリウスの石碑がある。
市庁舎 Rathaus (1956)以前は家畜市場にあったが、1889から皇帝広
場に移った。1891皇帝ウイルヘルム1世の立像が建てられたが1944壊れた。
1956皇帝広場は、同時に市の行政の場になった。10階建の中央塔を
中心に4階建の建物が連なり、各種用途に使われている。
ブルガウ宮殿 Schloss Burgau(1532) 南の森に水城があり、住居棟は、1532
にルネッサンスで再建された古い塔である。外構は1600に周囲に建てた。
地方裁判所 Amtsgericht (1940) 地方裁判所の3階建の建物が建てられた。
戦災を無傷で生き残った、数少ない建物である。
ラスの家 Haus Rath (16c) 東にある水城で。宮殿と前城は戦災後1956から
修復された。厳格幾何学的な庭園は1793のパビリオンしか残っていない。
アンナ教会 Anna Kirche (12c) 1501マインツの聖シュテファン教会のアンナ聖遺物を持ち
出して、デューレンの聖アンナ教会に奉り、重要な巡礼となった。
マリエン教会 Marien Kirch (1459) フランシスコ会は、今の位置に1459修道院を開
設し、1832新しい教会が開設された。1944戦災で破壊され、戦後
再建された。
紙の博物館 Papier Museumf (1980) 町の製糸業の生産額と独特の歴史と
文化を博物館に展示した。
レオポルト・ボーゼ博物館 Leopold Hoech Mueum (1905) 創設者の名前を冠した
博物館には、広く芸術や絵画のコレクションで知られている。ネオバロックの建物
は幸運にも戦災を免れた。
北西壁 | 北西壁塔跡 |
北壁 | 北壁塔跡 |
北壁塔 | 北東壁 |
420 ローマの遺構が存在、 883 ノルマン人の遠征、
929 町は拡大し 宗教会議を開催、 1120 要塞の建設 川沿いに古い石積、
1195 ハンボルン修道院の設立、 1290 帝国都市となった。
13C レンガ市壁の建設その跡が現存、 1316 サルバータ教会をゴシックで建設
1407 ハンザ同盟の復活、 1655 大学の設置、
1756 市壁外へ最初の家建設、 1815ー1833 中世の町の全4市門を解体、
1945 重工業地帯のため空襲311回、全2.4kmの市壁の80%を破壊、
1960 Kuhl壁の補修再構築された、 2010 Spring壁も再構築中。
13cに2.4kmの市壁が築かれ、第2次大戦後80%が残っていたが今は35%
しか残っていない。1960にはKuhl壁を解体し古い破片を使って再構築した。
地名で残っている4門Torは全て壊され、防御塔は21の内4塔ご残る。
アーヘン塔 AachenerTurm Unter通 12C居住塔、14C都市防御に組み込ま
れ、今日高さ4mの半円塔が歩道上にある。
羊塔 SchaefenTurum OberMauer通 。
塔跡 TurmRuine 歴史博物館の東側地下に円塔の基礎が掘ってある。
コブレンツ塔 KoblenzerTurum 川沿いの公園の中に立つ、かっては高さ21
mの見張り塔。今は周囲21mで高さ10mの半円塔で屋根が付いている。
町は旧市街地から東へ拡がっている。旧市街地の建物は戦後の建物である。
市庁舎 Rathaus 1926小さかった市庁舎を含む一帯を再開発して裁判所.市
劇場.ホテルも建てた。市庁舎は石灰岩と凝灰岩の縦方向を強調した建物。
サルバトーア教会 SalvatorKirche 宮廷の敷地内の9Cの建物は火事に会い、1415
に再建されたが1467にまた火災に会い1515に復元された。1898-1907
にゴシックに改築され、大戦で屋根と保管庫が壊され1960修復されたが、
尖塔は再建されていない
古い木組の家 DreigiebelHausu 1536建、現存する最古の家。建物は中央
部は1536に建てられ旧シトー派修道院の家であった。1823高等女子学校と
なり、1906民会の手に渡ったが、老朽化し1961に市が購入して復元した。
旧郵便局 AltePost 1571ドイツ騎士団の建物だったが、1818からプロイセン時
代の郵便局。レンガと赤い砂岩で作られた細長い建物。ポストホルンの標識。
市歴史博物館 StadtHistorischesMusum 1979文化と歴史の博物館。1902
から古代博物館があり、戦災後に下ライン博物館として再開した。
旧市庁舎 | 市壁 |
700 ユトレヒト主教区にエメリッヒ教区を設立、マルチン教会を奉献、 1040 大学教会を設立、
1233 オットーズトフェン伯は都市に昇格し都市権を授与、 1355 市はクレーフェ公国に属した、
1307-1570 ハンザ同盟と提携して貿易で繁栄、 14c 堀と市壁で囲まれ門で守られた、
15c ラテン語学校を高校として学生を集めた、1811まで、 16c 壮大な教会が建てられた、
1672 仏軍の占領から衰退が始まった、 17c スペイン承継戦争・7年戦争・仏革命軍と苦難、
1815 プロイセン王国に属し工業化が進展、 1832 人文科高校を再開した、
1918-21 ベルギー軍が占領、 1944 2次大戦の爆撃により9割が破壊。
1238に市壁が建設されたが、19cに門を含め除去された、ライン川沿いの家屋の前面に
レンガ造の市壁が再建されている。
見当たらない。
旧市街地は、15-18cの切妻レンガ造の建物で満たされていたが、1944の爆撃により、91%
が壊された。
市庁舎 Rathaus (1938-39) 戦災で壊された古いネオゴシックの様式で再建された、
評議会室のタペストリィは下ラインの天然物から作られ、制作に100年を要した大作である。
ライン橋 Rhein Grueche (1965) 1.2km西に架かる延長1、228mの吊橋の中
央径間は500mでドイツ最長である。
ライン・プロムナード Rhein Promenade (1965) 長さ1kmを超えるプロメナードは、多
くのレストランやカフェが並び、遊歩道も備えて、過半の雰囲気が満喫できる。東端にはレベルの家があり、
大きな時計はライン川の船上からも読むかとができる。
ボルギー城 Schloss Borghees (17c) 3km北のボルギーザスの森に立つ、18c中
に今の姿に拡張された。2階建レンガ造の建物にドーマー窓のある寄棟屋根が付けられ5つの軸で垂
直に分けられている。東側には正方形の階段塔がある。今は文化行事に使われている。
シュタイン通り 15-17 Stein Strasse 15-17(15c)2次大戦を生き延びた歴
史的な建物が2階建切妻付で保存されている。
15.De Wdete Tekder (15-19c) 切石造で19cに全面を改造した。
17.Zum Golden Pfau (17-18c) ベル破風を備える、19cにショウウィンドウを付けた。
聖クライスト教会 Christus Kirch(1690-1715)カイスト広場の中央にある説教教会
でオランダ様式で建てられ、2次大戦後の復旧時に天井が設置され、礼拝堂が上階にある珍しい教会
せある。
古い市場 Alter Markt(15c)赤レンガ舗装から赤の広場とも呼ばれ、噴水や彫刻
で飾られている。高い階段切妻のある建物は、オランダの商館であり15c初めに貴族が建て19c初
めには市庁舎としえ使われ、今はホテルとなっている。
聖マティーニ教会 St.Martini Kirche (11c) 古い教会はレンガと凝灰岩で造られ、
ゴシックの不規則な2身廊で、正面に3階建の角塔と地下室の上にロマネスクの内陣が位置している。
聖アルディガンヂス教会 Sr.Aldegandis Kirche(1474)1483に西部と塔は追加
され、教会は1854と1909に改修され、2次大戦後の再建中に1876-71に付けられた先の尖った
ヘルメットはやめて、以前の平らな搭頂となった。43ベルのカリヨンは2000に付けらた。
ライン博物館 Rhein Museum Emmerich()150を超える船の模型、レーダー、ライン川
地図、都市の歴史を表す取集物が展示されている。
コーヒー技術博物館 Emmerichの焙煎機メーカーのProbatが、工場施設内の博物館で、コーヒー
技術の発展を紹介している。
旧市庁舎 | ランバトース教会 |
マルクト | エルケレンツ城 |
北東市壁 | 北東市壁 |
996 オットー大王の寄付文書に初言及、 1118 古い交易路の交点で発展、
1326 ゲルデンのライナルト伯は都市権を授与、 1416 ライナルト4世は要塞を建設、
1425 町はエグモントのアーノルトに落ちた、 1500 4市門14防衛塔の市壁で守る、
1580 疫病の流行、 1607 オランダ軍が占領、1674仏軍が破壊、
1713 プロイセン軍が占領、 1714ユーリッヒ公国に落ちた、1794 仏軍が占領支配、
1815 プロイセン王国に属し地区の町となる、 1944 2次大戦の爆撃による破壊。
1339に軽い市壁があったが、1416レンガ造の市壁建設が行われた。1514
4門14防衛塔の1.4kmの市壁となった。1674に2門が崩壊、1818-19プロイセン
王国は廃墟の市門と市壁を破壊して、プロムナードとした。今は北東部に、
市壁は僅かに残る。1950市壁の一部復元。
4門は何れも残っていない。
MaarTor内門(1416)外門(1459)、OeratherTor内門(1420)外門
(1454)、BruckeTor(1945)、KoelunerTor(1514)、に壊された。
これらの門は、レンガ造で巨大な土台・閉鎖されたツインガー庭・30-40m前にある前
門を含み門城を構成した。内側には詰所や住居もあり、屋根付きの市壁につ
ながっていた。今はブロンズの説明板が置かれている。
防衛塔 14防衛塔の内、唯一北側に2階建で四角いレンガ塔がある。防衛塔は市
壁の延長70m毎にレンガ造の壁塔を建て、両側の塔で死角なく射撃ができた。
塔は13mの正方形で、高さは23mあった。
古くから交易で栄えた小さな町。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1326) 初めの市庁舎は、市場の家と呼ばれ、亜麻取
引・組合・行政の場で、重量・徴税など都市特権を監視した。1540火災で
焼失し、1546ゴシックの煉瓦造2階建の4隅タレットの庁舎となった。地階はオープ
アーケードで上階は審議室や倉庫であった。1756手狭になり、地階に壁を立
てて警察署と留置場を内蔵した。1918新市庁舎に移転し、一次大戦後ベ
ルギー占領軍本部となり、1920歴史と古美術協会なり、1930改修を行うが
1944空襲で破損し、1948-51再建が行われた。
聖ランベリティウス区教会 PfarrKirche St.Lambertus(11c)初め広間教会で1418
ロマネスクで長さ方向に延長された。1458高さ83mの塔がフランダース風に建てら
れた。1944空爆で大破し1952-54にネオロマネスクで再建された。
レオンハルト礼拝堂 Leonhards Kapelle (1540) 貧困者の病院や宿泊所もあり、18
07仏軍が接収して小宮殿になった。1989-12修復して文化行事が行われ
ている。
スピースの家 Haus Spiess(1806)後期バロック2階建3翼の館が建てられた。スピース
は、仏ルイ16世の役人で、この町にレンタル・マイスターとして滞在した。1978市が
所有し補修して、結婚式や展示会に使われている。
旧市庁舎 | マルクト |
870 氾濫原の上の教会を初言及、1151 聖マーチン教会拡張とホーフ教会建設、
1270 堀と壁で町を守った、 1280-1300 都市の拡大、
1302 ヴァルラム8世はモンシャウ・ファルケンブルクを授与、1325 3門7塔1.45km市壁で守る、
1945 米軍が占領。
1302町が堀と壁だけで守られた後に、1355から大規模な町の要塞が造ら
れた。1世紀後には、高さ7m長さ1.45kmの市壁が完成した。1702要塞は
仏軍が取壊し、1906町の発展の阻害から取り壊される事になった。
14cの市壁には、初めの3市門に、南東にNeutorが追加されたが、今は
門は残っていない。 北のKessenicherTorは1702仏軍に爆破された。
西南のRuedesheimeTorは1823まで門前で家畜(豚・山羊・羊・子牛)が取
引され、1842に取り払われた。南のDisternicherTorからは川が流れ込
んでいたが、1746門は廃止され、1810爆破され、1851取り払われた。
南東のNeuToraは1809に壁の穴が開けられたもので、市壁除去と共に消
えた。高さ20mに及ぶ壁塔が7基建てられたが、1702仏軍に屋根を爆破さ
れた。マル〇印の4塔は、現存する。
○太い塔 DikerTurm (14c) 北西の古い塔で直径11.3m壁厚2.6m
1950屋根再建、1992-2010市博物館に一部を収容。
〇半塔 HalbTurm (14c) 北の半円塔で屋根はない。
〇カーレン塔 KallenTurm (14c) 北の塔でプロイセンの決定で残った、
1992屋根を再建しボーイスカウトが使った。
〇食物塔 FressenTurm (14c) 南側で唯一の円塔。下に抜け穴。
アナ塔 AnnaTurm (14c) 教会壁の高さで立っていたが1857解体。
ピッチェ塔 PitschnTurm (14c) 北の半円塔で18cに家に統合。
捕虜塔 FangenTurm (14c)塔は刑務所をつとめた。1908聖心教会
建設のために取り除かれた。
14cのアルターマルクトを中心とした町で、マルクトでは穀物・牛・羊毛が取引され
た。1606噴水が建てられ、代表的な建物が周囲を囲んだ。1970商業ビル
に建て替えられた。旧市庁舎・7cからの教会・城・ローマ水路などの見所があ
る。この町には12の城跡がありそれぞれに歴史と文化がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (14c) 1533に大火事で全焼し、ルネッサンスで再建
された。1734戦災の後もロココで修復した。1900特徴的な鐘楼が付けら
れ、1945戦災で破壊され、1952古いモデルで復元された。1970市庁
舎はケルン通りに移転された。
聖マーチン教会 St.Martins Kirche (7c) 町で最古の建物で、今の教会は12c
にローマ時代の基盤の上に、西に角塔東に後陣のある大聖堂に建替えら
れた。1951に地震があり、それで尖塔は傾いた。
聖心教会 Kirche St.HerzJesu (1906-08) 旧市壁と捕獲塔の近くに建て
られた。1924教区教会となり、1944戦災で損傷し再建された。長さ
62m幅24mの大きさで33.9×11.7mの身廊に高さ70.2mの塔がある。
市博物館 Stadt Museum (2012) ローマ時代からの町の歴史を展示し、美術
館のスペースもある。1992-2010は太い塔に置かれていた。
ライン産業博物館会 Rheinisches Indasrie Museume (20c) ミューラー毛織物工
場の、20cからの古い布工場を1961に改修して博物館とした。
旧市庁舎 | ニコラウス教会 |
ガンゲルト城 | ブルッヒ門 |
ハインスベルマー門 | 火薬塔東 |
火薬塔北東 | 火薬塔北西 |
東市壁 | 南東市壁 |
828 王宮の所有物足して初言及、 その後ハインスベルクの領主に属した、
1243 市街地が設立された、 1301 町と呼ばれた、
1364 城が建設された、 1420 町は3市門の市壁に囲まれた、
1472 ユーリッヒ公国に属した、 1643 ヘッセンが町を占領、
1765 仏軍が占領、 18c 終りに都市権を失た、
1870 町は火事で被害。
15cの市壁は、周囲にいくらか残っている。
旧4市門の内2前門が残り、SittarderTorは1615に取り崩された。
ブルッヒ門 Bruch Tor (15c) 2階建の角塔にアーチ門があるが、今車道
は門塔の西側に迂回している。
ハインスバーク門 heinsberger Tor (15c) 2階建の角塔にアーチ通路がある。
3火薬塔 3Pulver Turm (15c) 大径の円塔で、北に2箇所と西に1箇
所に市壁と共に残っている。
旧市庁舎 AltesRathaus () 町の中央の聖ニコラス教会の北にある。
共同行政所 Gemeinde Verwaltung Gangelt () 市街地の南の外れに、
大きな近代的な建物が建てられた。
ガンゲルト城 Burg Gangelt (1365) 町の南西の1250要塞に建てられた。
1511に建てられた城は、シェークスベルク伯爵が要塞と共に所有した。ブルゴーニュ人
による破壊の後、拡張再建された。1791に15cからの5階建の住居棟を除い
て取り壊された。1945堀は瓦礫で埋められた。1986-88建物は修復された。
教区教会聖ニコラス Kath.Pfarrkirche St.Nikolaus (14c) ゴシック3通路の
大聖堂は大部分はレンガで、14cの塔は4階建正方形の石灰岩で造られた。
15c身廊、16c西側の建物が建てられた。1860現在の外観は修復によって特
徴つけられた。二次大戦の被害は、1951までに修復された。
旧校舎 Ehem.Volksschle (1902-03) 14cから学校があり、16cからは高
校であった。1826プロイセンの教育制度の小学校が、2階建てレンガ造漆喰塗で建
てられた。
館施設 Hofanlage (1608) 4翼中庭付き2階建レンガ造の建物群である。
旧旅館 Ehem.Gasthaus (1813) 鋭角の角に立つGasthausBijtrautche
は2階建の不規則な窓軸のサドル屋根で化粧シックイが施されている。
住宅 Wohnhaaus (1708) レンガ造2階建4軸の門のある家で、戸や窓に
ブルーストーンが使われている。
住宅 Wohnhaaus (1608) 古い住宅。
市庁舎 | 西南壁 |
西南壁 | 西壁 |
西壁裏 | 表示板 |
通り | 石門 |
1261 最初の言及、 13C都市権を得て、土塁で町を囲んだ、
1341 侯爵は町に土地を贈った、 1350 最初の円形防護市壁の完成、
1458 町は原野を平坦化し羊毛紡績、 1540 ハンザ同盟に参加、
16C 資金不足で古い要塞のまま、1620 200年間オランダ.スペイン.フランスが占領
1815 プロイセンに帰属、 1945第2次大戦の爆撃と砲撃で建物の81%破壊。
14Cに2.2kmの市壁が築かれたが、今は南側に3か所90mが残る。
14Cには4門と19塔を備えていたが、今は唯一SteinTorのみ残る。
石門 SteinTor 14Cの北側石門、丸型の二つの側塔を持つ堂々たる
4階建門塔である。1919南中央部が崩れ復元された。19Cは刑務所、
戦後は警察署、今はカーニバル博物館として使われている。
マルクトから北側に大きな建物が並び、古い建物も残っている。
市庁舎 Rathaus
テアチアリン修道院 TertiarinnenKloster (1651)レンガ積の旧聖ヨハネ修道院の翼が
残され1848に病院に寄贈され、今は市立図書館になっている。その他の
建物は19C中に取り壊された。
聖マリアマグダネラ教会 St.MariaMagdalenaPfarrKirche (14-16C) 古い部分
は1323教会文書館として建てられ、1628オランダ軍による閉鎖の後に破壊
され、本堂は1945-59に復元された。塔は1993に崩壊し2003に再建した。
新教教会 Ev.Kirche (1570) 1701大規模な改修、1889バロックの漆喰、
1942前面はレンガライニングとした、1945爆撃で外壁のみ残った、1958屋根
が付けられ、1973白い建物、1997に復元された。
女性の家 FrauenHaus (16C) 貧しい女性の2階建の家、
男性の家 MaennerHaus (16C)
五つのリングの家 Haus zuden FuenfRing (1550) 3階建レンガ積破風付の家。
1945爆撃で前面のみ残り、戦後再建された。1825ワイン販売、1850ビール醸造。
ゴッホ博物館 GochMuseum 旧地方裁判所の復元建物。1991創立、
町の美術品と歴史的な展示。
市庁舎 | 市壁 |
1231 ケルン大司教コンラートは町建設の領地を得て城砦を築き、街道・領地を守る、
1240 ケルン選帝侯の将軍は防衛施設建設、 1271 市の印章が授けられた、
1272 城代エーレンは町を統治、 1288 リムブルク継承戦争でヴァルデック伯が町を破壊、
1300 ケルン選帝侯の将軍は教会や城砦を復旧、 1396 都市の特権が確認された、
1400 大火災で町は破壊された、 1480.1540-42 ペストが繰返し流行、
1519 町は再び大火災で破壊された、 1537 ケルン大司教とヘッセン方伯は境界確定、
1621.32.33.43.46 略奪で市民逃亡、 1591-1717 魔女裁判で46人処刑、
1760 7年戦争債務支払で疲弊、 1781 僅か195戸に減少、
1816 プロイセン王国へ帰属、 1833 大火災で大部分が焼失、
1945 第2次大戦の米軍無血占領。
1300に建設された市壁は、1811に取り払われた。1288ヴァルディック伯オットー1世
は町を破壊した。1372ケルン元帥ヨハン1世は教会や城砦を復興し、ケルン選帝侯領地の
国境警備のため周壁・外堀・城・2二重門・6塔を置いた。ヘッセン・ダルムシュタットの統治下
の1810に命令で門と市壁は取り壊された。市壁の残りは1955まで鉄の帽子のパ
ン焼き小屋の後ろ壁として残っていた。道路拡張に伴い建物は撤去されたが、
土地所有者が市壁の部分を残し、銘板が付けられた。
見当たらない。
町の中心には、珍しく周囲を壁で囲まれた教区教会があり、その東がマルクト広
場、西が市庁舎広場となっており、広場は傾斜が付いている。17-18cの木組の
家が残っている。
市庁舎 Rsthaus (1843) 今の市庁舎は、4自治体のために、校舎として1843に建て
られ、1943の火事の後に西翼を拡張して4番目の市庁舎となった。第1の市庁
舎は1424-1829マルクト広場にあり、火災で壊れた。第2の市庁舎は、いわゆる
Amtshausとして南西のPefueStrasseにあり、1974に壊れ、3番目の市庁舎は
南東の貯蓄銀行の部屋に行政の場があった。
教区教会聖ヘリパート Pfarrkirche St.Heribert(13c) この教会は13cの最も東のハレン
教会の手本であった。その3身廊の広間は8角のランタンのある四辺形の屋上小塔の
冠をかぶった。内部には1558ルネッサンスのフレスコ画・バロックの3祭壇がある。教会の
右には1806迄埋葬された墓地がある。1708-09古い台座の上に全高50mの塔
が建てられた。
8014救護者礼拝堂 Vierzehn-Nothelser Kapelle (1722) 言い伝えでは百年前から有
る倒壊寸前の前の建物の場所に、1722小さな礼拝堂が建てられた。
クンプの家 Haus Kump des Quartals Burg () 3階建上階木組の隅入口の上に6角形の
塔がある美しい建物。1909建物の改修で今の姿になり、2004-06健全化が行わ
れ地域の情報センタートなった。
パン焼小屋 Back Haus des Quartals Burg (1600) 石造壁に屋根組は木材の平屋の家
で、1984記念建物として保全された。
巡礼教会聖マリア昇天 Kath.Wallfahrts Kirche MariaHimmelfaht (11c) 南の下門の外に
古くからあった。1002ベネディクト僧院が建てられ贈呈された。
木組の家Fachwerkhaeuser
Ort Str.4 (18c) 2度の持ち出しのある3階建の木組の家で、前面切妻と銘文で飾ら
れている。1818に健全化されたが、全新設ではなかった。1883の火災は生き延び
た。
Petrus Str.6 (18c) 堂々とした切妻の2階ての木組の家で、基礎で傾斜をを均し2回持
ち出しで建てた。家の起源は16cに遡り1883の火事は生き延びた。
Petrus Str.8 (17c) 3階建の木組の家で、付加された前面に飾りがある。それは建物の
変更を物語り、第2の床部にはラテン語の碑文がある。
Merkling Str.15 (1755) 豊かに飾られた切妻の正面は、屋根に風見が掲げられている。
切石台座上2階建の木組の家は、市長の家・料理屋・毛皮商・靴屋の作業所・歯科
診察室等に使われ、今は雑貨屋事務所である。
Merkling Str.19 (1659) この切妻のある木組の家は、今は店舗と住居を収容し、碑文
に1659の年号が大きく書かれている。この年号は30年戦争11年後であり、1883
の大火災は生き延びた。切妻は彫刻や着色で飾られている。
市庁舎 | 七岩塔 |
1169 以前からの司教の役所が存続、 1289 ミュンスター司教から都市権を授与、
13C 町は高い周壁.防御塔.市門で防御、 1554-1611 ハンザ同盟に属して繁栄、
1815 ナポレオン戦争後、プロイセン領となる、 1929 Reckinghausenの影響下へ
1930.1985 二つの大きなダムが造られた。合わせて3千万m3の水量。
16cからの市壁の残りが、西側のTurm通の塔に17m付いているだけである。
第2次大戦で市壁は壊され、市壁の位置は通りの名前で想定される。
古くは4門Tor有ったが、全て壊され、ブロンズの説明銘板しか残っていない。
防御塔も「7人の悪魔の塔」が唯一残るだけ。
RekumerTor 北西 17Cには、ここで毎年1回森林木材審判が行われた。
MerschTor 南西 1652建、古い門の壁の基礎が見られる。
MuehlenTor 北東 門の近くにある粉引所は、1339に町の所有に移った。
LippTor 南東 1570にリップと命名、近くにある積込クレーンが1597に言及された。
7人の悪魔塔 SiebenteufelsTurum 1502建、円筒に円錐屋根ノレンガ造。
この名前の由来は明らかでない。1996から秋ー冬に照明が付く。
小さな旧市街地だが、マルクトに面して旧市役所と教会があり、泉と記念碑が
多く落ち着く町である。
旧市庁舎 AlteRathaus 1575-77ルネッサンスの切妻屋根で作られたが、2次大戦で
破壊され1948-52単純な形で再建され、1998に現在の姿に再構築された。
小さな破風にはカリオンと時計が飾られた。今は事務所と会場として使われる。
聖シスト教会 St.SixtusKirche 1897建、ゴシック レンガ造の中央教会。
内部には、16Cのアントワープ祭壇画、1330の十字架がある。
古い牧師館 AltesPastorat 18世紀からの古い牧師館は、今日は地方の歴史
を証明する記念建築物である。
市図書館 StadtBibuliothek 1984から図書館が置かれ、本と印刷工芸の博
物館を併設し、ベストファーレンの本と印刷工芸を展示。
市庁舎 | 聖パウロ教会 |
アグネス教会 | オスト通 |
東北市壁 |
1226アドルフ1世は新しい町を創設し都市権を授与し市壁を築かせた、
ハムはマーク郡を統括し、事務的経済的な権力を有した。
1444-49 ゾースト紛争があったが、大きな影響は受けなかった。
1531 ペストと内戦で経済に打撃 1549 ハンザ同盟で主要都市として活躍、
1553 町に改革が到達、 1557 町に飢餓が襲来、
1587 スペイン・オランダ戦争で武力紛争、1648 30年戦争終結後ブランデンブルクに、
1701 ブランデンブルク公爵はプロイセン王国へ、 1741 大火災で346戸焼失、
1756-637年戦争で町は破壊され、要塞の強化を求められた。
1806 ナポレオン軍が占領し仏へ統合、 1813 プロイセン王国へ、経済回復、
1943-44 何回かの空爆で被害、 1945 米軍に占領。
堀で守られたが、柵や市壁で守りは強化された。1741大火災後市壁は
石材として建築に使われた。中世の市壁は、町の北部で道路下から発掘
され復元された。
見当たらない。
古くから交易の要衝として栄えた大きな町であるが、1741の大火事
と1944の空爆によって、多くの歴史的な建物が破損した。後期バロックの町
屋・旧高等地方裁判所(今市庁舎)そして楕円形の旧市街地は今でも判別
できる。修復された教会とグスタフ・リューベ博物館にハム歴史を表している。
高さ35mのガラスの像・ヨーロッパ最大のヒンズー教会・二つの城は再建されている。
市庁舎 Rathaus (1894) ネオルネッサンスの3階建の建物で旧高裁として建1957まで
市庁舎で使われた。二次大戦で壊され再建されたが、狭隘となり1958に
新しく建てられた地方裁判所の建物に移転し、1959から市庁舎として使
われている。
旧市庁舎 Historisch Rathaus (15c) マルクト3にある今はStadtSparkasseである。
1760アーケードと階段切妻が付けられた。1741の大火事で上層階と切妻が
壊され、バロックで再建された。19c中に狭くなり市場の民家を借り、次
に1885に新しい市庁舎を建て移転した。1944には旧市庁舎・新市庁舎・
タウンハウス共に破壊された。1945兵舎に市庁舎は移されたが、1959旧高裁
の建物を75万DMで購入し、100万DMで改修して市庁舎は移転。
オーパーヴェリエス宮殿 Schloss Oberwerries (1284) 1464にベアーフォルデが購入した。
マンサード屋根に大きな煙突とベル型の付いたパビリオンタワーがある。中庭には
バロックの宮殿厩舎がある。周辺は牧歌的な雰囲気である。
ヘッセン宮殿 Schross Hessen (1760) フォルマースタイン家はオーク材を使って宮殿を建て
た。1905-08に15cの形状で復元された。階段状ゲーブルが30mの塔に繋
がっている。菱形文様のレンガ倉庫には、四角い隅塔がある。今は学校の
寮である。
パウル教会 Ev.Paulus Kirche (1226) 度重なる火災で建物は大きく変わってき
た。14cの高さ80mの塔と5アメスレートの身廊が建てられ、1961新しい尖塔
が付けられた。内部は円柱で3舟に別れている。1944の空爆で壊され、
復元されていない。
マーチンルーサー教会 Martin Luthar Kirche (1734-39) 町のルーサー会のために、小さ
な福音協会が建てられた。1912にこの名前となった。その後大き
く改修されて、ユダヤ教会となった。
聖アグネス教会 St.Augnes Kirche (1515) カトリックの教会で、フランシスコ会修道院は
1507に建設が始まり教会は1515に献堂された。教会の床にはゲルハルト侯
爵の棺が納められた。1944には東外壁を残して崩壊した。
ヒンズー教寺院 Hindu Temple (1987) Sri Kamedchi Ampel Templeスリランカの少
数民族タミル人はシンハラ人との戦いが激化した1983に、スリランカを脱出し、独
に6万人が移住した。2002欧州最大の700m2の寺院で儀式が行われた。
マクシミリアン公園 Maximilian Park (1984) 以前のマクシミリアン炭鉱跡地に開設され
た。州がガーデンショーの際に整備したランドマークである。高さ35mのガラス象が
置かれている。砂丘・登山ネット・水辺のある子供の楽園。
オルトリンク庭園記念館 Ostrings Garten Denkmal (1986) 熊の噴水・バンドスタンド
がある。公園の中心には、楕円形のパビリオンにコンクリート柱7本の上に独特
のド-ムがある。
マルクト広場 Markt Platz (14c) 1km以上の歩行者専用道路の中心にマルクト広場と
聖パウル教会がある。市場権や鋳造権を得て、貿易を伸ばし1469ハンザ同
盟に参加した。1944の空爆ではほぼ全壊し、旧市庁舎は1950-51に歴
史的様式で再建され、今は貯蓄銀行の本部になっている。
モニュメント中央駅 HauputBanhof (1847) 鉄道の開通時に建てられ、1860-61に
中央駅ビルとなった。1912貨物のトラックへの移行で衰退し、1944空爆され
た。ネオバロックの駅は美しいもので、修復後夜間照明されてヨーロッパ記念建築
物協会に証書が授与された。
就学前の家 Haus Vorschulze (18c) 後期バロック2階建の民家は、町でも美しい
建物で、その後市長が住んで上流階級の内装を施した。二次大戦の被害を
免れ、今は市の所有となり結婚式場などに使われている。
貴族の邸宅 Herren haeusen
Gut Dredhen(1900)12cから領主の農場で、1900にルネッサンス2階建の
邸宅が建てられ、邸宅の道に木の橋が架かり、堀や林の遺跡もある。
Haus Stuniken (18c) バロック2階建の邸宅で、北ドイツ商人の家を模倣し
た。1944の空襲を免れたが老朽し1973修復された。クラブで保全活動
を継続し輝いている。
Gut Kump (13c) ヴェストファーレン州でも大きな建物で、1298シトー会修道院が
取得し、ヴィラ風の邸宅は1885古典主義2階建に建てかえた。中庭に
は1832木組倉庫・1800木組納屋もあり、ホテルには33室・会議室がある。
Haus Groeneberg (1735) 2階建本館持つ中庭があり、中世後期の騎士
邸宅であり、1735装飾的な要素を継承して建て替えられた。
市庁舎 | 南東門 |
市壁搭 |
8c サクソン人が定住しシャルルマーニュが征服した、 その後フランケン朝の帝国裁判所が置かれた、
1005 皇帝ハインリッヒ2世はベネディクト会ドヴィーツ修道院に集落を寄付、 12c ケルン大司教が城を建てた、
1225 アイゼンベルク伯はケルン大司教を殺したが処刑された、 1250 ティンゲン伯マルコはケルンに対抗して城を築く、
1250.54 ハッティンゲンはブランデンブル軍によって焼き払われた、 1350 市場と自治の権利を与えられた、
1396 要塞化の契約を結んだ、 1486 市場権・道路税・物品税・免税などの特権と自治権を与えられた、
1412 ギルドに設立、 1554 ハンザ同盟に加入、 1576 経済の最盛期で豪華に装飾された市庁舎、
1580 宗教改革の定着、 17-18c 戦争や疫病で繁栄を終え ブランデンブルク選帝侯に属した、
1853 ヘンリッヒ伯は製鉄所を開設、 1869 鉄道が開設し 市壁を超えて拡張、 1923-25 一次大戦
の賠償金を取り立てるため、仏とベルギーが占領した。
1586-90に市壁はグラーベン通リ沿いに、堀と共にルールー砂岩で200m×200mの旧市街地を囲んで建
設されたが、大部分は1820に取壊された。1960-70年代に修復され、現在の高さは7mである。残っている
のは、南から東に190mと、北西に50mである。
16cの終わりには、5門と7壁搭が存在したが、南に唯一壁塔が残っている。直径9m高さ15mの屋根
のない砂岩造の防衛円塔である。
南東鉄門(2003)現代芸術家が南東のシュタインバーケン広場入口の市壁に鉄製の梁を渡して、新
しい門を置いた。
南ラポルタ・ラペルタ(2010)旧ブレーク門の外に、上半分にぜブラ塗装をした方角門が文化都市を記
念して建設された。
縦横200mの小さな旧市街地には、狭い路地に13cからの古い木組の家が多く立ち並んでいる。
旧市庁舎 Altes Rathaus(1420)下広場に初め地階部分が広場の食堂として砂岩で建
てられ、肉販売も行われた。1576に木骨造の上2階部分が建てられ、18c終わりには大きな窓と漆喰で尖
った切妻屋根はマンサードド屋根に置き換えられた。1910まで何回か建て直されながら使われた。
1910にローン通りの新市庁舎に移転した後は、1932から市立博物館となった。1993に復元工事が終わり
今は芸術協会のギャラリィである。
新市庁舎 Neues Rathaus(1909-10)ネオルネッサンスのアンレヒター石造の建物で部分的に漆喰で
覆われ、2翼とコーナー塔がある。
市博物館 Stadt Museum(1611)古い城の2階建本館と3階建て別館の複合施設で、最小
のコイン・最古のメッセンジャーボックスなど地域の絵画・彫刻・写真・文化史などを展示し、図書館に歴史書がある。
聖ゲオルグ教会 St.Georg Kirche(820)古いロマネスクの柱が1972に発見された。1240に
ルール砂岩で再建された。1424と29に戦争で破壊され、1450にゴシック3身廊で再建された。1807-10に
再建されてバロックのインテリアは取り除かれ、レンガ造の部分が増え漆喰で塗りつぶされた。教会の塔は1976に
風見鳥までの高さは57mと高くなった。
古い税関 Alte Zollhaeuschen (1820) この町で最小の木骨造の建物で、市壁と堀に沿
って平屋で建てられ、呼称と異なり税関ではありません。
鉄の家 Eisenhaus(1611)2階建の木骨造の家で地階が狭く上階と切妻が張り出している。
今は地域の博物館で、中を覗く価値はある。
木骨造の家 Fachwerkhaus (1553)72個の窓のある2階建の建物で、1982に移転。
木骨造の家 Fachwerkhaus (1587-88)部分的に上階が張り出した家。
木骨造の家 Fachwerkhaus (1550-70)噴水のある古い家、1980にレストランに改造。
木骨造の家 Fachwerkhaus (1600)3階建の店舗付き住宅。
通り | 博物館 |
11c ハインスベルクの領主は木造の城を建て住んだ、 1164 リンブルクは城を破壊、
12c ハインスベルク・フイリップはケルンの城を築く、 1255 都市権を授与され要塞建設、
1484 ユーリッヒの廷氏が城に住んだ、 1538 近代的な要塞に拡張強化、
1543 ゲンデン継承戦争で一部破壊、 17c 仏軍は要塞を破壊、
1815 ウイーン会議でプロイセンに所属、 1944 空爆でほぼ全滅、1972 近隣の町を併合した。
16cの初めから半ばにかけて建設され、2防衛塔と市壁を含む中世の市壁の一部が城山の南に
残っている。2005にキルヒベルクと城跡の残骸を修復して公園として整備した。
壁塔が長方形の塔と長方形の殻塔が城山の南に市壁と共に残っている。
丘の上の町の中心では、城跡・公園・教会などが集まっている。市内には、
5か所の風車がある。
市庁舎 Rathaus (1969) 近代的な建物が建てられ、1996入口周辺を改修し今の外
観となった。Stadthalleは出会いの場に改造された。
聖ガンゴルフ教会 St.Gangolf der Selbst-konrolle(15c)町で最も高い城山にあり町
のランドマークとなっている。良く補修され、元ロマネスクの大学教会の地下室には聖ヘン
ドウィックの遺跡がある。
美術館 Begas Haus () 美術館と地域歴史博物館として、町の中心にある。考古学
的展示として歴史的な文書、中世からの様々な時代の貴重な遺産の展示があ
る。美術館にはベガスのコレクションとロマン派ビーダーマイヤーの絵画・彫刻ある。
市庁舎 | Munster |
Werrem | 北壁 |
13C 長距離貿易を行いハンザ同盟加入、 1220 参事会リストに町の有力者、
1256 町と大修道院長との協定で、町は経済と政治の発展を達成した、
13C 町は、6門14塔を持ち、前面に土堤と堀を備えた3.5kmの市壁で守られた。
13Cに3.5kmの市壁が築かれ、今は遊歩道としてAufdenStadtWallが全長歩け
る。市壁が残っているのは、東北に210mのみである。
全く残っていない。
町は広く、MuensterPlatz.AlterMarkt.NeuerMarkt、GanzeMarktと特徴ある広
場があり、古い木組みの家や記念碑も多い。
市庁舎 Rathaus 宮殿のようなネオバロックノ市庁舎には屋内市場がある。1913-17にかっ
ての侯爵修道院の敷地に建てられた。
大聖堂 Muenster 帝国直属の女子修道院があり最初の聖堂区教会である。1220から
後期ロマネスクのホール式教会であったが、後期ゴシックの司教教会の規模に増築された。
側廊は身廊と同じ高さで印象的な空間効果を生じている。
聖ヤコブ教会 St.JakobiKirche 13-14C建、中世ヤコブ巡礼の宿駅。1590から教区教会と
して使われ、壁画と統一的装飾のあるゴシックのハレン教会である。
聖ヨハン教会 St.JohannisKirche 1220創立、新市街地の教区教会。1414-1810はディオ
ニュソス神学校教会でもあった。16-17Cからの内容豊富な装備がある。
古い木組の家 Elisabeth通に17Cの高位の人が住んだ二階建ての木組の家が美しく並ん
でいる。
古いマルクト広場 AlteMarkt 旧市街地の中心にあり、16Cにルネッサンスで拡大され1878まで
に周囲に建物が立った。
新マルクト広場 NeuMarkt 木組の家やルネッサンスの建物による美しい広場であり、昔の独立
した新市街地の市庁舎が1634に中世風の石造破風で建てられた。
1860にWulfertHausを商人の自尊心の表れとなるルネッサンス破風付の家とした。
市博物館 StaedtischeMuseum DanielPoppelmannHausで1874建。1941から市博物
館となった。地元生まれのバロック建築と美術同好会の展示。
市庁舎 | ホルン城 |
フクロウ壁搭 |
1248 都市として創立され初文書言及、1348 貴族リッペは城と館を建てた、
1404-09 ホンジュラス紛争に関わった、 1444-49 町は戦争に参加、
16c 経済全盛期で人口増、ヴェーザールネッサンスの美しい建物が建てられた、
1618-48 人口急減し町は荒廃、 1767 マインベルクをCurortni任命、
1770 バロックのクアパークとスパが建てられた、 1864 火災で中心部60戸焼失、
1970 周辺の18の町を統合。
14cの市壁は、南側のHinter der Mauerと北のMauerStrasseに残る。
14cの市壁には4門7塔があり、その後12塔追加された。1864の大火事で市
壁が壊れた。南のフクロウ塔のみが残っている。
フクロウ塔 Eulen Turm (1500) 円錐屋根と銃眼のある3階建の円塔で、直径8.5m
高さ17.5m壁厚1.8-2.5m。18-19cには麦芽室として使われた。
貴族リッペが創立した古い町で、リッペ国の王冠と呼ばれた。市壁と復元され
た木組の家によって昔の雰囲気が楽しめる。
市庁舎 Rathaus (1865-66) 2年前の火事で壊された跡に、ネオゴシックの石造の市庁
舎が建てられた。東北前面に多角形の塔のある8窓列の建物で、中央上部
には二つの3角形屋根がある。
プロテスタント教会 Ev.Kirche Horn (1248) 町の創設時にはロマネスクの教会があった。塔
の下部には1200以前の部分がある。1480西塔とゴシックの3廊まで拡張され
た。1819雷が落ち塔の屋根と鐘を変えた。1860本堂と後陣の屋根を更新。
ホーン城 Burg Horn (1248) 旧市街の北端の標高230mにあり、14cに市壁が付けら
れ、1348城は完成した。城はリッペの住宅と軍の複合体として使われた。城
は数回戦争に巻き込まれ、1605城主が不在となり、リエージュの長老が取得し
1656-59リッペのヘルマン・アドルフが再建した。18c城が荒廃し塔・住宅の一部が壊れた。
1983-89広範囲に復元された。今は警察署・城博物館・ホテルなどに使われている。
ホテル・ベイロン Kotzenbergscher Hof (1616) 2階建石造の大建築物で、北側31×12m、
西側25×11mの2つの並置された翼から成っている。1679-81バロック・ポータルと
暖炉が変換され醸造所と蒸留所が設立された。1880Vialon家はホテルとしとて
2006迄使った。その後 Kotzenbergscher家に所属してホテル・バイロンとなった。
地方裁判所 Amtsgericht (1756) 中央通67にある町の記念建築物は1970に地方
裁判所となった。バロックの巨大切妻のある木組の建物で、3つの中心的な
軸の頭は強調されている。
古い木組の家 Alte Fachwerkhaus (1731) 側板を備えた平屋の木組の家。
元市民の家 Ehem.Buergerhaus (18c) 正面と背面に2階建の部屋がある家。
市庁舎 | 西南壁 |
赤塔 | 西壁 |
西北壁 | 北東壁 |
市庁舎 | コルヴェイ城 |
木組家 | 木組家 |
822 ルードビッヒ王から新設のCorvey僧院に集落の土地と共に与えれた、
1150 市壁とその前の土堤が築かれた、 1250 都市権を授与された、
1295 ハンザ同盟に加入、 1634 30年戦争で包囲攻撃の後に略奪と殺人、
1803-06 町はNassauーOranien家が所有、1807ヴェストファーレン、1813-46プロイセン、
1865 鉄道開通で市壁の南を破壊、 1945第2次大戦の被災はない。
1150に築かれた市壁とその前の土堤は、南側の鉄道部を除いて47%が残る。
市壁の上には一部防御通路があり、東の市壁の外のペトリ土塁には見張塔で
ある赤い塔があり、その前に射撃施設がある。
17Cには5門20塔があった。今はRotenTurmとPetriTorしか見られない。
赤い塔 RotenTurm ブレンツ家の後期中世風国境見張塔
ペトリ門 PetriTor 市公会堂StadtHausに隣接して立つ。
旧市街地には、多くの見るべき古い木組の建物もあり、マルクトも見事である。
市庁舎 Rathaus 1250建、地下室は中世風石造であり、1608ヴェーザー
ルネッサンスで改築された。1613外階段付のルネッサンス表玄関、1889-1906ネオ
ルネッサンスで今日の外観に改築。別棟の塔に観光案内所がある。
聖キリアン教会 St.KilianiKirche 1075建、最古のバジリカの教会。塔は45m
と48mの2塔であり、北入口はロマネスクであった。1597芸術的な説教壇、
1710バロックのパイプオルガン。
ニコライ教会 St.NicolaiKirche 1157建 ニコライ塔のある広場にあり、1766に
取り壊され、am Marktにバロックで新築された。
聖マリア教会 St.MarienKirche 1283建、旧ミノリテン修道院の聖堂、中には
二つの部分からなる石の内陣格子がある。
古い木組の家 WesterBach通に1537-1610の市民の住宅があり、Rosen通や
Nagelschmied通には後期ゴシックの家がある。
TillyHaus 1582建、4階建代表的な木組家、30年戦争のティリー元帥の名前。
Aden und Eva-Haus 1572建、家の前面にリンゴの木とアダムとイブを描いた
Dechanei 13C建のアメルンクセン家の貴族の館があり、1561にヴェーザールネッサンス
の美しい木組の家を建てた。この破風のある前面は60以上の棕櫚の
葉模様が描かれて美しい。
シタデル南 | シタデル中 |
マルクト | 魔女塔外 |
魔女塔内 | 西市外要塞 |
西市外要塞 |
4c ローマ街道に位置し要塞が築かれた、 5c 町はフランク族の手に落ちた、
1328 ユーリッヒ公国となった、 1239 ケルン大司教に町は破壊された、
14c 市壁と門塔で町を守った、 1416 ユーリッヒ・ゲレデルン公は自己金融、
1547 大火災でほぼ全滅、 1609公爵家の断絶後町はノイブルクへ、
1685 プファルツへ、1777 バイエルンへ、1794-1814 仏の領土へ、ナポレオンの橋頭保、
1815 プロイセンに属し要塞拡充、郡庁、1860 要塞は取壊され、守備隊は残った、
1882-1912 仏・ベルギーはラインラント占領、 1944 空爆で町はほぼ全滅、
1949-56 市街地は再建された、 1990 シタデルの修復。
独でも保存状態のよい要塞で、同時代のベルリン・シュパンダウ要塞とは多くの
類似点がある。イタリアの建築家により1543-50に構築された。4シタデルは約400m
円周で周辺の土地から5-10m高く設計されている。
外堡:多くの遺跡がまだ存在している。①前衛Ⅲ北西溝に沿って壁や墓が残る。
②前衛Ⅱ北東溝の前に壁がある③半月堡Ⅰ東部分的に東kurtineに前に避
難所。④半月堡Ⅱ北の壁。⑤半月堡Ⅲ西の土堤。⑥半月堡Ⅳ東側守衛詰所
⑦石積 町の堀の西の壁。⑧南東隅の南壁。
建築物:武器庫、兵舎、城、侯爵住宅宮殿、礼拝堂、庭園。1944空爆1964復元。
アーヘン門 Aachener Tor (1548) この門はラインラントで最初のルネッサンスの門
であり、外側のアーチ門のみが残っている。内側のアーチ門屋は1860に築かれた。
堀が埋められる前には、幅30m深さ4.5m長さ115mの堀が前面にあった。
ルーア門 Rur Tor (14c) 魔女塔とも呼ばれる。ケルン大司教が占領し
て町の古い市壁を破壊した1278の後にこの市門は建てられた。今は小さな
壁の断片が中庭に残っている。
魔女塔 Hexen Turm (14c) 市壁の解体後刑務所や拷問室として使われ
魔女も囚われていた。今は市歴史博物館として資料を展示している。
1944の空爆でほぼ全壊したため、重要な構造物もその後再建されている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1953-54) 空爆後3階建バロックの前身の建物が
再現されたが、時計等とホール窓枠には差異があた。1972市の再編のため、評
議会と一部行政は白鳥湖の新庁舎に移転した。
新市庁舎 Neues Rathaus (1972) かっての要塞の外に白鳥湖があり、
養魚場・馬の水飲場・洗濯場として使われていた。1952プロイセンの地方事務所が
壊され、その敷地にユーリッヒ郡の事務所が構築された。
プロプスタイ教会 Propstei Kirche (945) ローマ砦の輪郭上に、身廊と聖所壁
が残る。ユーリッヒ公は、1147教会の前で十字軍に参加し、1219にエジプトで戦
死した。教会の遺跡としては、12cロマネスクのポーチ・塔ホール・ロモネスクのキュウポラなど。
新教教会 Ev.Kirche (1637) 都市の前にプロテスタント教会が建てられ、戦災後
1950に再建された。1743教会の前の墓地に入口門が建てられた。
宮殿礼拝堂 Schloss Kapelle (16c) かなりの部分が戦災生き延び、
イタリアルネッサンスの豊かな装飾が見られる。1768の火事でロココの西側前面の改修が
行われた。
宮殿要塞 Schloss Festung Zitell (1545) イタリアで開発された三角形
で矢型のドイツで初めて町の北に建てられた。要塞は9haあり、旧市街地より
わずか小さい。外堀の角の一辺は360m・壁厚34-48m・堀33m・高さ12.3m・
全長2.2kmである。その中央に16cオランダ風の宮殿が建てられた。
要塞聖ヤコブ Bastion St.Jakob (16c) 旧市街地の南端に、唯一残され
た旧市街の要塞である。側壁と地下室がある。
ナポレオン橋頭堡 Napoleonischer Bruecker Kopf (18c) 仏が1754から占領
し、ユーリッヒは仏独国境に位置し、重要要塞としてEllebachの北岸に橋頭堡
を築き、1804ナポレオンも建設現場を訪れた。1806自立式火薬庫が置かれた。
1998には、長さ800m幅300mの強大な橋頭堡が修復された。
町ホテル・クラツ Stadthotel Kratz (1948) クラッツ家のための3階建のホテルが、
ユーリッヒハウスの再現を目指して建てられ、歴史的な街並みを再現した。
マルクト広場 | 市壁 |
旧市庁舎 | 旧地裁 |
1050 ヴェルデン修道院の資産台帳に記載、 12c アルティナ伯はパウルス教会の西に堀のある城を建設、
13c ケルン大司教は国境要塞として支配、 13c中 都市権を授与された、 1284 町の憲章の制定、
1432 町は拡張され堀と市壁と6門で要塞化、 16c 人口千五百人の旧市街地は29haと広大であった、
16c ハンザ同盟に加入、 15-18c 煩雑な都市火災・戦争・疫病で町は衰退、 1609 プロイセンへ、
1732 自治権の一部を失い 1753管轄権を失った、 1806 ナポレオン軍の占領、 1810 ギルド廃止、
1813 再びプロイセンに属した、 1873 石炭の採掘開始。
都市の防衛機能は失ったが、市税と物品税の徴税機能は残った。18cの終わりに税金が存在し
なくなると、市壁は意味を失って荒廃し、市壁の石材は教会の建材として使用されるなどして、東壁とブルク
通りの交点に、小さな残骸が残るのみとなった。
15Cには6門があったが、今は見当たらない。
旧市街地は広いが空地が意外と多い。古い木組の家は多くない。
旧市庁舎 Altes Rathaus () 地階がオープンの3階建の漆喰の四角い建物は、1976にバンホフ
通りの新市庁舎に移るまでは、市庁舎として使われた。今は市立図書館である。
聖パウルス教会 Pauls Kirche (12c) 最初のロマネスクの教会は、砂岩で建てられた。14cに建
て直された教会の塔は、1800の嵐で倒壊し、意図的に風上に傾けて再建された。身廊は1844-49に新し
くロマネスクで建てられた。
木骨造の家 Fachwerkhaus () マルクト広場の旧市庁舎の向かい側に、良く保存された美しい木
骨造の建物がある。
市庁舎薬局 Rathaus Apotheke () 2階建の木組の家で、地階は珍しく柱廊がある。
市庁舎 | 市博物館 |
聖ニコラス教会 | マルクト |
1230 ライン川の沖積層の北麓に幅400m×長さ1kmの堀で囲まれた町を設置した、
1242 都市権を授与された、 1380 東半分の入植を始めた、 14-15c 中世には堀で囲まれ、
市壁や防御塔で強化され、 1450には街路・広場は完成した、 1540-72 ハンザ同盟加入、
16c 羊毛産業・穀物貿易で栄えた、 16c末 火災・戦災・疫病で衰退、 1656 シタデル建設、
1674 町の南に突出したシタデルは役に立つことなく取壊された、 1815 プロイセンに属した、
1945 連合軍の空爆で町の一部破壊、
中世の市壁は今も残るが、北側のKesselTurmにしかない。
南のMonreTorと東のHanselaerTorは二重門で前門として二つの円塔を繋いだクサンテンの
KleverTorに似た姿であったが現存しない。西にも5階建のAlterkelkarerTorも現存しない。
ケーゼル門 Kessel tor ()北門で、6階建の門塔があり、先細りのテント屋根が付い
ている。 門には守衛詰所があった。
ハト塔 一時的に刑務所として使われ、中世から塔の下の丸い部分しか残っていない。
市庁舎 Rathaus(1446)マルクトにあるゴシックの六角塔のある3階建の建物。
市博物館 Stadische Museum()旧商社の4階建レンガ造の破風付きの建物に、
町の歴史・絵画・彫刻・近代芸術などが展示されている。
破風つくりの家 Giebel Haus(1500)後期ゴシックの破風造りの家で、大金を投じ
て復元された。
階段破風の家 Treppen Giebel Haus()中世の階段破風の家は、昔は商館と
して使われた。
プロテスタント教会 Ev.Kirche(1697)石造り2階建のバロックのホール教会で、塔は1898
に付けられた。貴重なオルガンと木製の祭壇がある。
聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche(1450)ケルン大聖堂によって建てられらた。貴重
な美術的な財宝があり、15あった祭壇は8残っている。
粉挽場 Muehle(1770)石造り2階建で建てられ、1910にネオゴシックとなり、1990には
完全に復元され、風車の地階は風車の関連展示とビールとパンの提供、上階は機能展示と展望
を提供している。
Bedburg町内の北東部
西入口南壁 | アガータ門外側 |
アガータ門内側 | エルフト門 |
<フクロウ門 | フクロウ門内側 |
北壁 | 西壁 |
1148 最初文書ケルン大司教の城買収、 1273 領主ユッリッヒ侯爵死亡、
1328-37 未亡人の居住場所、 1339 都市として言及、
1542 ブルゴーニュ戦争で町破壊、 1642 大火により壊滅、再建の家現存、
1648 30年戦争で城は破壊、 1700 四隅の防備補強、
1794-1801仏革命軍の占領、 1821 市壁は殆ど存在、
小さい町だが、殆どの古い市壁は市門と共に現存している。ただ、南東の
隅は壁の痕跡がぼやけている。
今は、4門の内3門が残っている。AgathaTor西、ErftTor東、EulenTor北が
残り、前2門はアーチ通路付レンガ造2階建角塔で三角屋根がある。残りの梟塔は
1階建門戸で横に古い木が立ち8羽の梟の彫刻があり、近くに梟塔が立つ。
フクロウ塔 EulenTurm レンガ造の3階円塔、屋根はチューリップ型。
ドイツで二番目に小さな都市権を持った町、壁の中は全て中世の街並と路地がある。
旧市庁舎 AlteRathaus マルクトの北に1692旅館TappenMannchenで建られ、
1912ガストホフ、1972旧市庁舎、1985PfannkuchenHaus今はパンケーキの家。
聖ジョージ教会 St.GeorgKirche マルクトの北奥に、1363最初の礼拝堂の建設、
1542破壊、1551最初の地区教会を礼拝堂の基礎の上に建設、1624火災
後に再建、1783古い塔は守って後期ゴシックのレンガ造広間式単廊の教会
を今日の姿で建設。1978大補修。
城の廃墟 BurgRuiner 1278-79建、1648に30年戦争で破壊、
今は旧市街地の北東の丘にレンガ造の基礎や壁の残骸が見られる。
市庁舎 | 風車塔 |
東壁 | 南壁 |
西壁 | 西壁 |
ペーター塔 | ランデス塔 |
1006 ケルン大司教の農村集落、 1186 最初の文書言及、
1290 要塞都市となる、 1294 都市権の文書、
1372 市場権を授与された、 1396-40 城と町が建設、
15C 中世後期は経済繁栄、 1579 ペストで人口半減、
1642 ヘッセン軍占領、 1794-1814仏革命軍占領、 1815 プロイセン領、
1945 空爆による都市破壊、 1966 旧市街地の再建。
最初は堀で守られた土塁であったが、1270-1320塔と市壁を建設した。
ほぼ楕円の全長1.83kmの市壁と門塔を、現場焼のレンガで築いた。
初め4門4塔であった。4門は、北KuhTor、東EngerTor、南PeterTor、西
EllenTorの内北門のみが残る。塔には円形の塔が14追加され風車の塔も
1つ加わって21塔となったが、今は1門3塔しか見られない。
雌牛門 KuhTurm 1350建、3階建て門塔、3階の上にゴシックの尖塔が乗
っていたが、1898に現在の三角錐の屋根になった。
ペテロ塔 PeterTurm 南からこの塔を通って堀の橋を渡りペーター門へ続く
二重門の外門であった。1989に取壊された塔の基礎上に4階建で再建。
庭塔 GartenHaus 西のMoehtenWallに1773-76建、農園として払い下げ
られた堀に2階建の夏の家を建てた。
風車塔 TurmMuelen 1481建、西南の市壁に直径8.7m3階建ての製粉
風車。
旧市街地中心の聖マリア教会周辺と木組の建物が見所である。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1926) 旧市街地の東の外の駅前に、石基礎と
高いヒップ屋根の2階建レンガ造の建物で、5窓列が中央に集中している。
聖マリア教会 St.MarienKirche (1200) グラッドバッハ修道院の後援で建てられ、
1240ヴォールト大聖堂に再建された。1400身廊が建てられ、丸天井となった。15c
に疑似大聖堂から3廊ホール教会となって再建された。1854-76包括的な修復が行
われた。1942爆撃・1945砲撃で屋根・丸天井・窓ガラス・外壁が壊され、1945応急
屋根が付けられた。1948-59丸天井・窓ガラスが修復された。1990-93内装修復。
中には、3つのアントワープの祭壇画と歴史的な彫刻がある。
ケルン州城 KurKoelnischeLandesburg (1400) ケルン大司教は石造の建物を
建てて貴族の執事を置き行政を行わせた。1634に中世の城として大きな
窓と両側の二つの円塔をを持つ3階建とした。
旧フランシスコ会修道院 Ehe.FranziskanerKloster (1627-30)修道院建、1640
大ホールを追加。1746-48老朽化により修道院は拡大改築。1802仏軍病院
1863教区大学、1912税務署や市博物館、11987市美術館・博物館。
古い家
広間の家 HausHall 1764建、最古のローソク工場、ロココの入口扉は見事。
ニーヴェンハイムの家 HausNievenheim 1524建、破風付3階建ゴシックの石造建物。
ルードビッヒの家 HausLudowig 1789建、レンガ造の仏商人の家、大戸は重い荷
物の馬車が出入りした。ロココの窓の上に飾り止め石印がある。
市庁舎 | 西北壁 |
西壁 | 給水塔 |
ミノルテン教会 |
1092城と町に言及、1242都市権の授与、 1275-1305 評議会選挙特権を授与、
1341 町の拡張による市壁の移動、 1368.1528 大火災が町を襲う、
1439 古い城の崩壊、 1635 スペイン占領・ペスト流行で人口1/3に、
1641 帝国軍が略奪、 1742 温泉入浴治療開始、 1794 仏軍の占領、
1815 プロイセン領、1893-97.1909-14 白鳥城の復元、1944第二次大戦空爆で被害、
1953 白鳥城の復元完了。
中世の市壁が残っているのは、西HeidebergerMauerに0.2kmのみ。
見当たらない。
白鳥城が見所、中心の歩行者道路には、多勢の人が歩いている。
市博物館 MuseumKoekkoek 1834建、旧市壁の遺跡は庭の背面にある。第2次大戦
を生き残り市庁舎としても使われたが、1997市博物館となり市の歴史や美
術品等を展示している。
白鳥城 SchwanenBerg 900-1000建、最初は細長い楕円形の土塁に囲まれていた。
12cに宮殿を建設、1439古い塔が壊れて1440-1448白鳥の塔完成、1663バロック
に改修、1893-97.1909-14白鳥城が復元、1944空爆で破壊、1950塔の復元。
1953城の復元完了、今は博物館を併設し美術品と地質学を展示
ミノリテン教会 MinolitenKirche 1445建 修道院は1300年には存在し、現在の教会は
1425-45に建てられ美術品の展示もある。
湯治保養所博物館 MuseumKurhausKleve 1845-72建、旧市街地から北西に離れ
ている。段階的に建てられ円形劇場もある。一次大戦後に荒廃したが、新しい
建物で再建され、1997から絵画彫刻の美術館が開かれた。
旧市庁舎 | 大聖堂 |
聖マーチン教会 |
50 最初の市壁を築き入稙させた、 80 植民地コロニアとしてローマ市壁と水道、
5C フランク王国に支配される、 9C 大司教区に昇格、
11C 盛んに教会堂が建設された、 1180-1225自治権を得て新市壁建設、
1259 集散権の授与、1288帝国自由都市、1618-48 30年戦争は金払で無傷、
1794 仏軍の占領で帝国自由都市の終了、1815 プロイセン王国に帰属、
19C末 旧市街地の壁は取壊された、 1943二次大戦で旧市街地の90%破壊。
ローマ市壁 80年にタキトウスの要塞は、一辺1kmの凹んだ四角形に高さ8mの市壁
を持ち9門21塔が築かれた。川側は2-3Cに完成または変更された。
次に北門から西部分は253-268であり、北西の角のあるローマ塔の上層部
は3世紀、壁内面積は、約100haであり。北側市壁13mが残る。
中世1次 950-960 ローマ市壁の東側の大部分を取壊して、ラインの古いローマ
北壁と南壁を延長。ライン側の25haがローマの正方形に加えられ壁内は122ha。
中世2次 1106 人口増加で市壁の拡大が行われ、また6門も追加した。
北へ52ha、南へ34ha、西へ15haが加えられ壁内は223haとなった。
中世3次 1182-1259 西へ1180延長9km半月形401haの拡大を開始し、新し
い堀と土堤で守られた。1191盛上げた土堤の上に市壁を築き始め、壁と
12門52壁塔も1259には完成した。
近 世 19C プロイセンの要塞は、ラインの右岸を含め市壁の前面に星型の出張
りと堀を設け、その前に20の出島砦を設けた。1881から都市の拡大と道路
建設のために市壁は取壊されたが、まだ一部の壁と門・塔が残っている。
壁が残っているのは、北西角GereonsWall、西南KathaeuserWall、南東
Bottmuehleである。
数多くの門や塔の内、現存しているのは12門の内4門と、3塔である。
自分石門 EigelSteinTor 北 5階建二重半円塔。
雄鶏門 HahnenTor 西 上記塔と同様にはめ込まれた半円塔。
ウルレ小門 UlrePforte 南西 小2塔門、14C壁で塞がれた。
ゼベリンス門 SeverinsTor 南 7階建の六角中心塔と外側に狭間胸壁回廊。
ローマ塔 RoemerTor ローマ市壁の西北の角に立つ。
ローマ北門塔 RoemischenNordToresTurm 駅前に復元された昔のローマ北門。
ボット風車 BottMuehle 1587木製風車が建てられ、1678石造塔となった。
旧市街地は広く、大聖堂を中心に多くの見るべき建物や広場がある。
旧市庁舎 AlterRathaus 14C建、地下室は中世風石造であり、1608ヴェーザー
ルネッサンスで改築された。1613外階段付のルネッサンス表玄関、1889-1906ネオルネッ
サンスで今日の外観に改築。別棟の塔に観光案内所がある。
大聖堂 St.PeteroDom 1258-1880建、ゴシックの壮大な大聖堂であり、前面
には密度の濃い線が束となって157mの塔の先端を眼指している。身廊の
高さは43.5m長さ144mの広大な空間である。内陣には、1320中央祭壇、
東方3博士の聖遺物、16Cのステンドグラスがある。
ゲルマン博物館 RoemischGermanischesMuseum 発掘されたローマモザイク、ローマ
将校の墓標、ローマガラス製品などローマ時代の文化財の展示。
ヴァルラフ・リヒャルツ博物館 WallrafRichartzMuseum 15C祭壇画、14-19C欧州絵
画併設のルードビッヒ美術館では近世の幅広い芸術品を展示。
ロマネスク教会 RomanischeKirche 10-13Cに旧市街地に建てられた12の教会が
残っている。第2次大戦後、ほぼ完全に修復されている。
聖マーチン大教会Gross St.Martin東、聖マリア・リース教会St.MariaLysKirche東、
聖ゲオルク教会St.GeoggKirche中南、聖セヴェリヌス教会St.SeverinKirche南、
聖クーニベルト教会St.KunibertKirche北東、聖ウルズラ教会St.UrsuleKirche北中、
聖パンタレーオン教会St.PantaleonKirche南西、聖アポステル教会St.Aposteln
Kirche西中、 聖ゲーレオン教会St.GeteonsKir.西北、聖アンドレアース教会 西北。
聖マリエン教会St.MarienKirche東南、聖コルムバ教会St.KolumbaKirche中。
市庁舎 | 南外壁 |
市壁 | 聖ペテロとパウロ教会 |
粉引塔 | |
1270 クレファー家のディートリヒが設立、 1294 都市権が授与された、
1308 奇跡的な十字架が発見され巡礼 14c 最初の要塞があった、
15c初 新城と2門9塔と石の市壁建設、15c 繁栄してゴシック大教会を建てた、
1609 ベルギー・クレフェ・ユーリッヒ家の断絶でクレーフェ公国へ、1789 火事で中心部焼失、
18c 仏占領併合時にカントンの座席、 1800 老朽化した市門の取崩、
1802 MartinstiftとKath.Konventは世俗化、1815 ウイーン会議後に市民連合、
1945 米軍は戦闘後占領、 1969 州の再編で周辺と合併。
1400の市壁がまだ一部に残る。WanderStrasseの市壁は修復されている。
15c初めの2市門(Klever-、Niemeyer-Tor)は取払われ、9塔の内4塔は残
っている。西壁の屋根なし半円塔があり。南には2階建の塔が建物に取込ま
れて残っている。
粉引塔 Muehlen Turm(1400) 製粉業者が所有し、老朽化に取壊し時に、7人
の市民が1922に買い取った。1932に博物館として建物と塔を再建した。
1948戦災を修復して美術館が再開された。1970巡礼博物館としても使わ
われた。1999大規模な修復作業が行われ、2004に再開された。1階には
「風車からランドマークまで」、上階には芸術作品、塔の下には「先史時代
からの町の歴史」が展示されている。
小さな台形の市街地が堀と修復された市壁の中にある。古い木組の家は
見当たらない。
市納屋 Stadt Scheune (18c) 旧農場の名残の古い建物である。今は修復
され、工芸博物館となっている。長方形の屋根付のレンガ造の建物で、
古い工芸道具やバター装置・農具を収容している。市壁内に30もあった
農場の名残である。靴屋の道具を備えた作業場もある。
聖ペテロとパウロ教会と巡礼教会 Kath.Kirche St.Peter und Paul (15c)
1290に都市権を授与され、既に教区教会聖マーチンは存在した。今の教
会は15c前半に、有名な建築家によって建てられた。奇跡的な1308
十字架が発見され巡礼地となったため、教会は拡大された。1802の
世俗化後に教区教会聖ペテロとパウロとなった。
教区教会クレーベ Ev.kirche St.kleve (1723) 小さくシンプルなホール教会である。
1903の塔は戦後屋根棟に置換えられた。1622の説教壇と近代的な
ガラス窓がある。
カタリネンホフ博物館 Museum Katharinen Hof (1446) Klever修道院の別館として
2階建の長い建物が置かれ、聖キャサリンの後援の下にあったアウグスチヌス修道
院とした使われた。1961にカタリネンホフ博物館として開館以来、中世から
現代までの芸術作品や宗教芸術作品が展示されている。
市庁舎 | ボン門 |
デ゙ュレナー門 | 市壁 |
市壁 | 市壁 |
5C フランク時代に集落が置かれた、 650 最初のケルン司教はこの農場から収入をえた、
1059 ケルン修道院がこの村を取得、 1279 ケルン大司教は都市権を授与、市場・要塞の建設、
1301 古い城の破壊、 1306 ケルン大司教は新城と市壁を拡張、
1642 3週間包囲に町は破壊したが城は耐えた、 1689 仏軍に城を焼き払われ、城は放棄、
1756 地震で市壁の崩壊が進んだ、 1794 仏革命軍が占領、 1800-14 州の拠点に、
1816-27 プロイセンの郡庁が置かれた、 1857 市壁を貫通して道路建設、
1901 道路建設に伴う市壁取り壊しの進行、 1895 城の所有者は北側市壁を撤去。
1250-1350に375m×450mで176haの四角い旧市街地を堀と市壁で囲み、破壊と強
化・再建が繰り返された。今では最も古い遺跡は、エーベルスミューレの向かいの堀にあり、14cの市
壁の遺跡はツエントバール・クロスターシュトラッセ・メルヒオーシュトラッセ・シュロッスバールシュタインシュトラッセに残る。
1960壁の家の取り壊し後に復元が行われた。古い壁は荒石で造られ14cの復旧はレンガで行
われた。北と西の角には要塞ががあり、南側には5つの木製監視塔が置かれた。17cにはヴィーク
ハウスがいくつも作られ、後に住居として払い下げられた。
西門と東門は、一直線にマルクトを通って大通りでつながっている。後に北門としてプライアー
Pforteが設けられた。税関が門の近くに置かれ、人と物品に通行税が掛けられた。
西門 Herriger Tor (13と14c) 外門に木橋を吊り下げていたが、1733に石橋と
内門には吊り下げた木製扉を落とし込む溝が残されている。14cにレンガで造られたが、1689の
破壊の後に修復され、1709に門は鉄桁で補強された。1769に一部がレンガでネオゴシックの西側
階段切妻で再建された。1965に隣接家屋の解体により、道路の中央に門は残された。
東門 Bonner Tor (13to14c) 土台は凝灰岩や石灰岩で造られ、後にレンガで補
強された。1642の破壊後に1726に再建され、1853にネオゴシックの胸壁のある2階建レンガ造の
アーチ門の上部工は、門に刑務所の独房が設けられる時に作られた。1901に道路の拡張に伴い
門は南に残された。
堀と市壁で囲まれ、旧市庁舎のあるマルクトと2門がある小さな町に、見所が多い。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1862) ネオゴシックの十字フロアーのあるレンガ造2階建
の建物には砂岩の窓が各階にあり、北側入口の上には町の紋章がある。スレート屋根にはドーマー
窓が付いている。階段の壁に積み上げられた石は1752の庁舎のものでありる。
聖キリアン教区教会 Pfarrkirche St.Kilian (1717) 単身廊バロックの教会で、
教会の前には4階建タマネギドームの西塔がある。1887-89に再ゴシック化と後陣が追加されて完
成した。
旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franziskaner Kloster (1655) 2階建2棟のレン
ガ造の建物で片流れ屋根が付いている。
旧牧師館 Ehem.ViIkarte (1857) 傾斜屋根に3ドーマー室のある2階建レンガ造の
建物は、牧師館としてたてられ、1970に地階部分を改装して店舗となった。
エーベルミューレ Oebel Muehle (19c) 石台座の2階建の建物が中庭を囲んで立ち、
後に住宅団地改造された。
クレッツの家 Haus Kretz (1862) 2階建ネオゴシック石造の建物で、前面に大きなロゼ
ットがある。
元納屋 Ehem.Lana Scheune (1765) 元納屋の大きなレンガ造の建物で、元憲兵
隊の厩であった。
レンガの家 Back Stein haus (1817) 3階建クラシックの7軸レンガ造漆喰の建物で、
片流れ屋根にドーマー窓がある。
元公証人事務所 Ehem.Notariat (1900) 後部切妻がスレート屋根を超えて聳える
2階建漆喰の建物で、入口は広い右側にある。正面には階別のコーニスがある。
旧薬局ビル Ehem.Apothke Gebaeude (1899) 薬剤師によって建てられた店舗付
階段切妻のある2階建ての建物で、赤レンガの前面には窓や戸の周りに漆喰がある。
住宅と店舗 Wohn und Geschaeftshaus (18c) 傾斜した屋根と切妻のある2階
建の建物で1905に改修された。中庭への入口は窓と同じ前面ガラス張である。
木骨造の家 Fachwerkhaus (17c) ヘッセン戦争後の廃墟に、市壁を裏壁とした建物
が建てられ、市から払下げられた。2階建木骨造の建物で軒側に漆喰が塗られ19c改修された。
木骨造の家 Fachwerkhaus (17c) 現存する最古の建物の一つで、上階張出し2階
建漆喰塗りである。
旧地方裁判所 Ehem.Amtgerocht (1836) 2階建階段切妻のあるレンガ造の建物で
地下室の窓があり、後に刑務所も収容した。
旧市庁舎 Landesburg Lechenich (14c) 堀に囲まれた旧州議会議事堂の遺跡
は、1689に仏軍撤退時には放火され、その後復旧されていない。
市庁舎 | 南壁 |
北土堤 | 南西土堤 |
11C初 この地域はLimgauweとかLimgaと呼ばれ、入植地拡大の文書がある、
1190 Brake城は建てられていた、北西の乾いた土地に町を育成した、
1231 町のPadarborn司教区は、副司教の所在地となった、
1245 都市権の授与、 1265新都市の拡大、 1324ハンザ同盟に加入、
1365 両方の都市は共同の壁と堀で統合、 1583 宗教改革が町に及んだ、
18-19C 防御施設は取り壊された。
市壁は一部に僅かに残る。
北東Hirten通25m、南Langenbrueker塔10m、東Rembken120m、計155m。
南側HoherWall通とLindenWall通には高さ10mの土堤と前後の堀が残る。
東側KastanienWall通:1990(市800年祭)で稜堡が復元された。
1900年以前に南側以外の土堤は平らにされた。
火薬塔 PulverTurm東 唯一立っている塔。
高い門 HoheTurm東。部分的に再建された。
OsterTor東北は、30mの高さがあったが1863に取壊された。RegensTor東南
は1876に壊された。
旧市街地には、15-19Cの小さな木組の家が百戸もある。商家には後期
ゴシックやルネッサンスの立派な家屋もある。
市庁舎 Rathaus 13C建、古い部分は広間造り、1480-90中央の建物部分は
ゴシック、15-16Cにヴェーザールネッサンスとなった。
聖マリエン教会 St.MarienKirche 12-13C建。
聖ヨハネ教会 St.JohannKirche 塔には古い日付の鐘がある。
古い僧院 AlteAbtei 16C建、18Cに改修。
魔女市長の家 HexenbuergermeisterHaus 1571建、ヴェーザールネッサンスの美し
い前面の破風付2階建木組の家。異例の名前は17cのゴッツマン市長から来て
いる。
Romscheidの市内
古い市庁舎 | 旧市庁舎・元地裁 |
ヴァル通 | 地区庁舎 |
12C 小川のフロンホフはベルク伯爵が所有、 13c ケルン修道院聖クミベルトに贈呈、
13c 要塞教会を形成、 1259-76 ベルギッシュでも早期に都市権を授与、
1276 ベルギッシュラント裁判所の設置、 13c ハンザ同盟に加入し交易所を維持、
13c 二つの出撃門を持つ要塞壁が存在 14c 布産業は輸出されて発展、
1371 鋳造権と関税権を獲得、 1563 大火事で枚の大部分が焼失、
1575 ヴィルヘルム侯爵の免税によって町を新しく設計した、
1746 町は全焼して繁栄は終わり住民は移住した。 1808仏併合下カントンに、
1815 ウイーン会議でプロイセンに割当、 1857 プロイセンの都市の権利を授与。
13cの市壁は、南に僅かに残る。
見当たらない。
旧市街地は、ほぼ円形でかっての市壁には南西ケルン門と北東シュベルメール
門と南に粉引門の3市壁は門があった。市壁はWallStrasseの位置に堀・
土堤と共に周囲を取り巻いていた。中世の建物は1746の大火事でほぼ
全焼し残っていない。建物の多くは、18c後半のベルギッシュ・バロックである。
郡庁舎 Kreishaus Lennep (1889) 3階建円形階段塔のある建物。
修道院教会 KlosterKirch Lennep (1677) 新しく修道院の一部として建て
られた。1980年代に改装され、今は文化センターと食堂の「Kloster
Schaenke]となった。
新教市教会 Ev.Stadt Kirche (13c) 教区教会は聖ヨハネに捧げられメインの祭壇に
加えて聖ニコラスに捧げられた。1540改革が導入され1746には火災で焼失
した。1756にベルギッシュ・バロック説教教会として8×8m高さ51mの塔を付け
た。2次大戦では無傷であった。
ドイツ・レントゲン博物館 Deutsvhes Roentgen Museum () X線の発見者レントゲンの
歴史的・技術的な概要が、ノーベル賞と共に展示されている。建物は2006
に再建された。向かい側に布博物館がある。
布博物館 Tuch Museum Lennep (1987) 織物工場の歴史と装置を展示してい
る。
市庁舎 | 市壁 |
リヒテナウ城 | 聖マグダネラ教会 |
1233 ザクセン公国バーダーホルン教区に創設以来属した、
1233-1273 今の教区教会の建設、 14c 王子司教バーダーホルン領土形成、
1326 ドイツ騎士団の町を創設し移住、 1394 司教の新城建設集落形成、
1411-15 町は王子司教反対者が支配, 1474ヴァルディックとバ-ダーホルンの抗争、
1545 火災・戦災・ペストで町は衰退、 18c 七年戦争で仏軍にが占領、
1802 プロイセン王国が占領、 1806 ナポレオンのヴェストファーレン王国の一部、
1809 2つの市門が取払われた、 1815 プロイセン王国へ帰属、
1871 ドイツ帝国へ、 1831.42.85.90.03 火災発生、
1945 米軍占領、英軍へ移管、 1949 英軍撤退。
旧市街地の北西の角にあるElken Turmに石積みがあり、市の文化財リストに旧市壁として
掲載されている。
エルケン塔 Elken Turm () 北西の角に、まだ痕跡がある。
旧市街地の中央を国道68号が珍しく走る。小さな町の中心に公共施設
は集まっている。
教区教会聖キリアン Pfarrkirche St.Kilian (1323) ゴシックのホール教会で、リブ付の
丸い柱で支えられた金庫室がある。1670改装工事の際に南の入口にバー
ダーホルン王子司教の紋章が付けられた。1624アラバスター高祭壇・1749祭壇画
がなかにある。
リヒテナウ城 Burg Lichtenau (1326) 4階建の大きな建物で、町の創設時から保護
の城として非常時に住民を収容した。地下室は丸天井、地階には騎士の間
・倉庫・牛舎・武器庫がある。初めパーダーボルン王子司教の拠点として行政が
行われ、17c貴族ドロスタの管理事務所、1710更新され、1813拡張された。
Korschen braichの市内
粉引塔 | フリュー邸 |
リートベルク宮殿 |
1100 領主貴族の城の言及、 12c ケルン選帝侯の廷史が城に住んだ、 1642 ヘッセ大戦で占領、
1673 オランダ戦争で城は破壊された、
1680 教会はバロックの塔で再建、
1802 世俗化で国有化されケルン行政管理者がKopp取得、 1815 ウイーン会議でプロイセン王国へ所属、
1935 ゲーレンに併合、 1975 Korschen braichに組み入れられた。
1269に町は要塞化を図る。 1271市壁には5門7塔を備えた。 13cに堀と市壁のシステムが完成。
14c.16c.17cに拡張された。 1765に市壁の解体が始まり、19cには殆ど取り壊された。
1929の掘削調査で北門の所に市壁の一部が出土し、記念碑として登録された。また、オシテンマウアー19の家
は市壁の上の建てられたことが確認されている。
粉引塔 Muehlen Turm (13c) 城にある7階建の円塔で、1572風車に改造され
た。1660.1706の戦争で壊されたが再建された。1776収益性の悪い風
車は競売に掛けられ、1794仏は製粉所として1836迄使った。1836に嵐
で屋根トラス・車軸受け・櫛歯を壊され、製粉所は終了した。
リートベルク宮殿 Schloss Liedberg(11c)13c宮殿は大きな堀に囲まれていた。
1270中央塔が建てられ、門塔と刑務所はあった。1350にケルン大司教が建
物を追加した。1707堀の外に新しい宮殿礼拝堂が建られた。14cの大き
な4階建の中央塔は砂岩で、1673バロックの屋根が完成し、アーチ門は中庭に
通じている。塔の隣には、階段切妻のレンガ造の建物がある。
砂造の館 SandBauen Hof (18c) 木組の農場であり、1977-80に復元された。
木造2.5階建の建物は、マルクト市場の記念碑的な建物群であり、市が所有
して文化的な行事に使われている。
聖ゲオルク教会 Kath.Pfarrkirche St.Georg (1913) 個別の教区はなかったが、11
00には領主が礼拝堂を建て、1654にも新しい礼拝堂を建てた。1915教区
教会として聖ゲオルク教会を祝った。1944空爆で一部損傷。1945鐘。
ヒェルト家 Haus Fuerth (15c) 州で唯一の水城の生き残りで、何度か拡張され、19
58-64にも改修された。Spee家が所有し居住している。2階建の邸宅は十字
型の平面図で側面の翼は木造である。
旧市庁舎 | 北市壁 |
1090-1120 皇帝スヴートの文書にリンからの収入が記載、 1209 リンの城が文書言及、
14c クレーブ伯ディートリッヒ8世がリンを所有し、 リン城にはケルン選帝侯ティルギン・プレムトが居城とした、
1642 ドイツ人傭兵が町を占領、 1642-50 城と町の要塞を拡張し、二番目の堀が掘られた、
1784-1813 仏の占領下に、 1826 プロイセンに属した、 1856 ライン下流県で市を外れた、
1901 リンの村はクレフェルト市に併合された、 1910 肥料工場設立、 1917 製鉄所設立、
1940 コンスターチ工場の設立。
1642のヘシアンの占領後に城と町の要塞は拡張された。1581に最初の外堤システムで建設
され、1620に強力な新システムにおこ替えられ、城と町は土壁と堀で構成され、5つの砦のある
単一の市壁で統合された。
製粉所中門 Muehlen Hof (1602) 東の市壁外にある製紛所の中庭への西
入口に、3窓の門がある。2次大戦中に爆撃で破壊されたが、市民の手で修復された。
イスム塔 Issumer Turm (14C) いわゆるBurgmannshausで中庭のある城の塔とし
て建てられた四角塔がある。イスムの騎士や貴族が住み、18c後半に大工ススクールに売却し、1908
には市へ売却した。東南の角の塔は長方形で、地階には厚さ1.1mの壁があり、マンサード屋根
である。西側は旧市壁にもたれている。
バッケンホフ Baken Hof (14c) かっての騎士の城で、直角に2翼の住居と門屋に5階建
の四角塔がある。1670-19cに200年以上住んだハインスベルク家の紋章がある。
リン城 Burg Linn (12c) 貴族リンの住居兼防衛塔として8.5m×14.0mの大きさ
で、国境の守りとして建てられた。リン家のオットーは第3次十字軍に参加するため、1188にケルン大司
教に売却したが、帰国しても城を維持し強化した。1219に息子のゲルハルトは、城を完成させ防壁
を3m高くした。1392にケルン選帝侯は堀で囲まれた住居と農園として保有した。1477にヘッセンのヘルマン
によって占領され、堀は埋められ外壁が建設された。17cに城と町は土壁と堀を利用して5つの要
塞を備えた単一システムに統合され、1620に強力なシステムとなった。1643-45にヘッセン・カッセルに占領
され、さらに拡張強化された。スペイン継承戦争で、城は仏軍に壊されたが修復された。
1794に仏軍が占領して城を売却し、シルク製造家のグラウフ・イスナックが取得して夏の離宮として使った。
1924に市が購入してが屋根や床を補修して、1930に州立博物館とした。
製粉所 Muehlen Hof (1602) 東の市壁外に、水車と馬力による製粉所が設けられ、
1643-45のヘッセン・カッセルの占領で壊され、1650に穀物工場として再建された。2次大戦の爆撃で壊
されたが、市によって水車小屋は復元された。
ドイツ繊維博物館 (1880) 始め、繊維会社の教育部門として、古代から現在までの衣
類やテキスタイルを取集し、1936に市の収取物も引継いで3万点以上の品物を展示している。
聖マルガレータ教会 St.Margareta Kirche (1819-20) 最初の教会は7cに遡り、周囲
の集落と共に1279の洪水で壊された。今の教会は、1814に塔の崩壊で撤去された後の新しい建
物で、1820に最初の礼拝が行われ、19c中に二つの側ポータルが追加されて今の姿になった。
>グライハン・ホルストの家 Greiffen Horst Haus (1838-43) シルク製造業者が自分の土
地に狩猟小屋と庭を設けた。中央の3階建シンケル様式の八角形の建物は、4つの側面を2階建の翼
構造で構成し全体は十字形の建物となっている。
公園 Garten (19c) 宮廷造園家マキシミリアン・フリードリッヒ・ヴェイエによって古典的な英国
風景的庭園を設けた。2001-02の州立庭園ショーEuropa 2002 plus で大部分が復元された。
市庁舎 | 旧市庁舎 |
マルクト |
1067 ケルン大司教に属し初言及、 1114 皇帝ヘンリー5世の城を築く、
1268 都市権を授与された、 13c 堀と壁が築かれた、
1288 ヴェリンゲン戦の後ケルンの支配弱化、 1462 ドルトムント方式の自治完成、
1549 宗教改革の導入、 16c ハンザ同盟に加入、
1530.1578.1589.1656.1681.1723大火災、木造茅葺屋根の工場は市壁外へ、
1609 ブランデンブルクとプファルツの共同支配、 1720 茅葺屋根の禁止、
1756-63 仏が5年間占領、 1806-13 ナポレオン支配下でグルク公国、
1813 プロイセンの再統一、 1945 米軍の無血占領 イギリス支配。
西のRingmauerとCornelius Str.の間の中世市壁の残りは1980年代
の初めには消滅した。塔のように見え基石で覆われた半円形の部分で、
新たに擁壁が20m建てられた。
北のLuisenStr.13 1723の火事の後存在していたつながり再建され
た。地下室の長さ3.8m高さ2.1mの構造物があり、地下室の南側には直
径6.8mの井戸がある。この地下室と井戸は市の記念物に指定された。
見当たらない。
大きな町であり度重なる火災のため、石造の大きな建物が建てられた。
旧市庁舎 Alte Rathaus (1872) 3階建イタリアルネッサンスの丸型アーチ窓のある建物で、
以前は高貴なヒューメン家の伯爵邸宅であり、1816-72は市庁舎として使われ
た。1973文化事務所、1979市立美術館、今は成人文化センター。
ノイエンホフ宮殿 Schloss Neuenhof (1326) 貴族ノイエンホフの城で、アルバート伯爵が住ん
でいるので、見学できない。本館は長方形の2階建で、中庭側に2つの塔
が並び周辺い庭がある。元は要塞城で堀の断片がある。1643本館が再建
されたが、1695火事の後外壁を再利用して復旧された。1808北部の外棟
が建設された。1830に記念建築物となった。
地方裁判所 Amtgericht (1844) 地方裁判所の2階建の建物は、農業裁判所と
なり、1907にネオルネッサンスの3階建の建物になった。
市歴史博物館 Stadtgeschchts Museum (1988) ツタのある2階建の建物に産業・
技術の歴史を説明し、電車・蒸気発電機・ボタン・地図の展示。
市図書館 Stadt Buecherei (1850) 都心の東部にある4階建の新しい建物で、
1980に拡張された。
貯蓄銀行 Sparkasse Luedenschail (1844) 1984に歴史的記念物に指定された。
4階建の帝国中央銀行の建物は、今も銀行として使われ続
けている。
救世主教会 Ertoeser Kirche (1072) 聖Medardiusとして言及され12cロマネスク大
聖堂として建てられた。1822に荒廃して取り壊された。1826ヴァルデン修道
院長の設計で残っていた11cの四角塔を含めて再建された。
市庁舎 | マリエン教会 |
橋塔 | ヴィンケル塔 |
西南市壁 | 西市壁 |
北東市壁 | 東北市壁 |
774 フランクの資料に記録、 1036 パーダーボルン司教はブスドルフ修道院を設立、
1195 ゴットシャーク伯爵の硬貨は都市権を推測、 12c 市壁・堀・塔・土堤の要塞、
1246 リッペ3道路モデルの町造り、 13c ピルモンテ郡の主要都市であった、
1255 ピルモーテの伯爵は町の半分をケルン大司教に譲渡、 1583 改革の導入、
1624 30年戦争でカトリックになった。 1668 ヴィルモント郡の紛争解決、
バーダーボルン皇太子は町を受取り住民は抗議、1756-63 7年戦争で被害、
15c-18c 19回の火災発生し2回は全焼、1797 248/315戸焼失・200戸は復元、
1862 プロイセン軍は町を占領、 1806 仏に占領でヴェストファーレン王国へ、
1813 プロイセン王国に帰属、1945米軍占領、1946 最大の洪水で市壁を超えた。
13cの市壁は、殆ど堀・土堤と共に残されている。洪水対策で長さ1.5kmの
市壁は歴史的な旧市街地を囲んで全部残っている。
防衛塔 Wehrturm am BrueckenTor (13c) 7塔の内2塔が
残され、橋門の側にあり、町の守りのために使われた。
隅の防衛塔 WehrTurm in Winkel (13c) 1797の火事の後に、塔は軍の
住居に使われた。
市壁と塔が残り、1997の大火事の後に、木組の建物の多くは、保全作業
が行われ、この州でも美しい歴史的な市街地となっている。
市庁舎 Rathaus (12c) 火事で何度も焼け再建されたが、以前の建物の
外観は知られていない。1548に建替えられた市庁舎は、近隣の市庁舎と同様
にルネッサンスで建てられたが、1790大火事の犠牲となった。1799古典主義の木組
の新市庁舎を再建した。ラッツケラーは1965に新しい建物に移った。
聖マリア教会 Kath.PfarrKirche St.Marien (13c) 市壁の外にキリアン教会が
あったが、13cに都市教会が建設された。1797の火事で壊れ、1894荒廃し、
同じ場所に古い部分も使ってネオゴシックの教会になった。19c教会は再建された。
中には、1520の祭壇・1877に14枚の絵画などがある。1987-90改修・再塗装。
聖キリアン教会 St.Kilians Kirche (1150) 町の南の旧要塞に正方形の後
陣とその北に広がりを持つ教会が、初めに建てられた。今の教会は、ロマネスク
の十字が高く中央身廊に円形後陣がある。1494シュバレンベルク家の最後の埋葬地
となった。墓地と共に高い塀で囲まれている。
旧フランシスコ会修道院 Ehem.Franzikaneer Kloster (1749-56) イエズス会が
1739バーダーボルン王子司教の承認を受けた後に、フランシスコ会に移り、1749基石を
置き1752に修道院は完成し、1753-56バロックの教会が建てられた。1812ナポレオン
の兄弟に引き継がれ売却された。カトリック教会は購入し1860に病院を開設し、
1958まで継続された。1974カトリック教会の聖マリエン教区幼稚園となった。
市郷土博物館 Stadt Heimat Museum (1799) 典型的な都市農民の家で
1797の火事の後に、4列の木組の家が建てられ、3家族211人が住んだ。
1987からは郷土歴史博物館となった。
聖ヨハニス教会 Ev.Kirche St.Johaneis (1864) プロテスタント・ルター教区が建てた。
宗教儀式の建物はハインリッヒ・ルターの聖歌隊の壁画が有名である。
最も古い家々 Die altesten Hauser (16c) HinterStr.に町で最古の木組
の家々が、1797の大火事を切り抜けて存在する。
町のレリーフ Stadt Relief () リッペ国で典型的な3道路方式の町に、大きな
倉庫門とデュール広間に特徴のある建物があり、町のブロンズのレリーフが歴史を張り
付けている。
ニコライ教会 | Stijt教会 |
Butten塔 | 北壁 |
772 カール大帝のザクセン出兵で征服、 785 修道院建、キリスト教化の初め、
900 鋳造権を保有、 1150 僧院は金属の掘削と加工、
1220 王位紛争で上の町は避難場所、 1550 宗教改革が到来、
1624 司教が反宗教改革、 1645 30年戦争でスエーデン軍の破壊、
1646 破壊で町の重要性が減り、防御施設は壊され、古い形状のままとなった。
東側の教会の近くに壁が残る。西側のAufDerMauerの下に石積みがある。
古い防御施設には6塔があったが、2塔がまだ残っている。
桶門 ButtenTurm 北、監視塔として有効であった、地下牢でも使用。
水塔 WasserTurm 南、守りと同時に水の供給に役立った。僅かの残
りが見られる。
市街地中心を離れた西北の山の上に、忘れられた上の町が在る。
旧市庁舎 AlteRathaus 石造2階建がマルクト広場にある。
聖ペーター・パウロ教会 StiftKircheSt.PeterUndPaul 修道院付聖堂。785カール大帝
が石造のバシリカを建て、1250-1410に何度も改築された。30年戦争の破壊
の後1670にバロックの円蓋先端の塔を持ち、1817落雷火災に会い、1829今
の八面体の角錐先端が存続した。
ニコライ教会 NikolaiKirche 1229-47中世の美しい聖堂が建てられた。1877徹底
的な改新がなされ、塔は今日の姿となった。ゴシックのピエタ像。
曝し台 Pranger 町の裁判権の何百年もの古さの目印として、今日も見られる。
最初の記録は1619で、昔は木製の曝し柱に鉄製の首輪が付いていたが、後
には石造の曝し台となった。マルクト広場旧市庁舎の前にあり、この曝し台使用
の最後の判決は1805に執行された。
ローラント像゙ RolandStatue 1600にルネッサンスの石灰岩の石像が立ち、市場権のシンボル
であった。1757に台座の更新がなされた。
旧市庁舎 | 聖ビンテェンツ教会 |
ペニィーゲ塔 | トイフェル塔 |
北東市壁 | 聖霊教会 |
818 ヴェルデン修道院文書に初言及、 9c ケルン大聖堂の章は農場を所有、
1072 新設された修道院は郡で重要、 12-13c 近所にアルテナ・リムブルク伯爵邸、
1249 メンデンを占領しケルン大司教が所有、 1301 城はマークによって砲撃された、
1344 町は3門12塔の市壁で守った、 1437ヴェストファーレン公国の農業協会加入、
1592-1631 魔女狩りが行われた、 1634 30年戦争で31回占領 1662疫病、
1637.52 火災で被害、 1802 ナポレオン・ヘッセンはヴェストファーレン占領、
1816 ナポレオンルールの終わり、 1941-45 空爆で被害甚大、
1946 ノルトライン・ヴェストファーレン州に属した。
1344の市壁は、1790-1813に取り壊された。Anderstadtmauer3-5の家の間
の孤立した部分のみが残る。
3門12塔の内3塔がまだ残っている。
悪魔塔 Teufels Turm (1344) 14cの要塞塔で4階建角塔。その後刑務所で使
われ、隣の3階建の木組の家と共に1981からカーニバル会社がヴェストファーレン
カーニバル博物館として使用し、歴史・発展・今日のカーニバルを展示している。
ポエニゲ塔 Poenige Turm (1344) 町の中心にある要塞塔で、ケルン大司教ボルラム
が建てた。魔女狩りで犠牲者が投獄された。
会計書記塔 Rentschreiben Turm (1344) 旧選帝侯宮殿の後に建てられた。
市街地は、中世からの木組の家・バロックの邸宅・アールヌーボーの市庁舎・旧ユダヤ
人の百貨店など色々な建物がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1912) ケルンのカール・モーリッツがアールヌーボーで建てた。砂岩
紋章の銘板・中世を手本とした塔やアーケードがある。1989市公文書館と市
図書館となった。
寄生虫の家 Schmaratzerhaus (17c) 中世の市壁を側壁として利用した家で
あるため、この名前が付いた。2階建木組の建物で漆喰仕上である。1840
博物館の分館として、貧しい人の生活状況を展示している。
聖ヴィンチェンツ教会 Kath.PfarrKirche St.Vincenz (1344) ゴシックの広間教会とし
て建てられ、1868-71強大な西塔が構築され、四角い身廊と後陣が拡張
された。中には15cマドンナ・15c勝利の十字架・16cの聖職者席がある。
都市文化史博物館 Stadt Museum () バロックの壮大な商人の家に収容され、
屋根のコレクション・ブルジョアビーダーマイヤーのファッションとジュエリー・豊かな市民の都市
生活を体験できる。
産業博物館 Indestrie Museum (1807) 有名な貴族の住居であったRoeding
hausenは1807に建てられた古典主義の地下室の高い2階建の木組の家
である。南ヴェストファーレンの産業の発展経緯を展示している。
精霊教会 Ev.Hl.Geist Kirche (1834) 1861-64市壁の外にネオゴシック・ハレン教
会が建てられ、1834小さなプロテスタント教会が形成された。
最古の宿泊所 Altes Hospiz「Zum Heiligen Geist」(1300) この町で最
古の建物で、近隣の養護所であった。今は町の音楽学校である。
古い牧師館 Altes Pastorat (1666) 早期バロックのレンガ造の家で、1970-02
に補修され、今は教区の中心である。
市場薬局 Alte Markt Apotheke (1710) バロックの貴族の家、1710商人によ
って拡張され、1785この町で最初の薬局になった。
シュミットマンの家 Schmittmannhaus (1571) バロックの貴族の家として建てられ
1864-86は市庁舎として使われ、2006修復された。
市民の家旧市庁舎 Buerger Haus (1864) 後期古典派の市立高等学校とし
て建てられ、1886-1912市庁舎として使われ、1913-58簡易裁判所、
1939-73監査室となり、その後青少年センターであった。
マルクト | 市壁 |
市壁 |
1072 ヘンリー4世は農場集落をカイザースヴェルト修道院に贈った、 12c ハーデンベルク裁判所設置、
1363 地方事務所が置かれ行政の中心だった、 13-14c 独自の市壁を持っていた、
1424 侯爵アドルフ7世は自治・税関の特権を与えた、 1624 裕福で年827タラーの税収があった、
1806 ベルク大公国をナポレオン軍が占領した、 1815 ウイーン会議でプロイセン王国に属しメットマン地区へ、
1856 プロイセン王ヴィルヘルムから都市権が与えられた、 1945 二次大戦の被害は少なかった、
1975 市となった。
13-14Cに市壁が築かれ、Ober Str9とAm Koenig hof43の裏に僅か残っている。
見当たらない
旧市街地は1960頃から大幅に新しい建物に置き換えられたが、上町の聖ランベルトラス教会周辺
には、中世の雰囲気が保存されており、木骨造の家並も見られる。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1879) Garten Str.に12の大きな部屋のある市庁舎が
建てられ、貯蓄銀行を収容し、市長と5人の役人も住んでいた。1904にミレミアムのお祝いに、市庁舎
前面に塔構造の装飾が付けられた。1945庁舎は手狭となり、南100mのレンガ造の建物を改修して
移転した。 1964に旧市庁舎は解体されて、福音病院が建てられた。 2004に新市庁舎の拡張
部分の入口に、1904の庁舎の塔の時計が付けられた。
旧市長室 Buergermeisterrei (1584) この建物は1628に市長の住居となり、1811
ナポレオンの登記所を含む市民会館となった。1938に市が購入して、400年以上の歴史のあるマンサード
屋根の建物は、1980からレセプション・展示会・祝賀会・結婚式などに使われている。
また、市歴史館として、市の歴史の部屋が設けられている。
聖ランベルチウス教会 St.Lambertus Kirche (12c) オオキナロマネスクの教会が12cに建てられ
塔と洗礼台は今も残っている。1484に内装はゴシックに置き換えられ、1703に横通路1705に主通路
が崩壊して補修された。1881-83に解体されてネオゴシックの建物となった。2次大戦後の1946と1978
に改修が行われた。
福音教区教会 Ev.pfarr Kirche (1774-80) 16cにはカトリック教会である聖ランベルチウス
教会を共用して居た。この教会は1708に奉献された。マンサード屋根の身廊と梨型帽子の西塔はバロック
である。説教壇のみが当初からのもので、その他は1965の改修時に置き換えられた。
ゴールドベルガー製粉所 Goldberger Muele (1450) 製粉所として建てられ、1555には裁
判所として使われた。1715に新しい水車が建設され、1771にドーマー屋根のあるマンサード寄棟屋根の建
物となった。1904に大火事でゴールドバーガー邸は焼失し工場は残った。1944-46に工場は稼働され、
1954に市に売却され、工場跡は文化財と文化行事の階さ場所として整備された。
市庁舎 | 商店 |
ドーム | 博物館 |
東市壁 |
798 フランケン国年史に最初の言及、 800 ミンデン司教区の創立
977 市場・鋳造・関税権を授けた、 1294 全市民を新教とする布告、
1552 ヴェーザー川の自由航行権を得た、 1627 貨物集散権を授けられ繁栄、
1634 30年戦争でスエーデン軍占領、 1650まで 国王軍が駐屯、
1723 プロイセンの北方行政の中心地、 1759 プロイセン連合軍が仏軍を破った、
1806 仏に占領され1810仏王国に属した、 1813 プロイセンが取返し防衛強化、
1816 プロイセンの行政区域に、 1873 要塞の廃止、
1915 中央運河とヴェーザー川水運の交点 1943-45 空爆で旧市街地は被害。
13Cには、市壁の外に大きな郊外団地地域があったが、町の防御線に含め
られた。1553にSt.MarienとSt.Simeonを郊外に残して町を壁で囲った。
北に漁業の町が有り、ここに古い要塞に属していた旧市街地の市壁も一部分
0.5kmがまだ在る。未確認。
見当たらない
旧市街地中心の大聖堂と市庁舎周辺と木組の建物が見所である。
市庁舎 Rathaus 1260ゴシックの市庁舎は、通りに面した地階はアーケードが造られて
いる。1659-62にルネッサンスへ変換され、18Cには時計塔が付けられた。2次大戦
で被害を受け、1978に補修された旧市庁舎と新築市庁舎とが設続された。
大聖堂 MindenerDoms 8Cには簡素な塔のないホール式教会であった。12cに今の
姿になった。13にロマネスクの西正面と内陣、ゴシック装飾窓の大広間、第2次大戦で
破壊され大部分は復元された。内陣祭壇には1480キリスト架刑祭壇画、十字交差
部右の袖廊には1250使徒たちのフリーズがある。
大聖堂宝物室 Domschatzkammer 西正面の右の迫持の下。中には11Cミンデンの
キリスト磔刑像、1250マエスタの聖母像、1070ペテロの聖遺物箱、典礼具。
聖マリア教会 St.MarienKirche 1022建設開始され次第に拡大された。12Cロマネスク化、
14C聖具室、身廊教会のホール再建、1811世俗化され、修道院は軍事用に、
教会は教区教会に使われた。1945破損し修復。
ミンデン歴史博物館 MindenerMuseum fuerGeschichteLandesUndVolkskunde考古
学.地方民族衣装.復元職人工房.軍事史として1759ミンデンの戦のジオラマ。コーヒー博物館
や人形博物館も付属している。
水路交差 Wasserstrassenkreutz 北へ、ミッテラント運河が375mの橋で14m低いヴェーザー
川の上を通る。運河橋により、ミュンスターとハノーハー間211kmの運河には閘門がない。
ゲロ公園の壁 | ゲロ公園の壁 |
アプタイ山の壁 | アプタイ山の壁 |
市庁舎通石積 | 聖ヴィート教会 |
市壁塔 | 西壁 |
974 ケルン大司教がこの町に聖堂を設立、 1366 都市権の授与、市壁の建設
1684 教会と市壁の破壊、 1794 仏革命軍の占領 、
1801 左岸は仏領となる、 1815 プロイセンに帰属、織物産業の振興、
1940-45 空爆により都市の65%破壊。
壁が今見られるのは、Steige塔、Neu通、Gasutohaus通、Gere公園、
MuseumとApteiの庭である。Gere公園の市壁には、市壁変遷の説明銅版がある。
Hindenburg通とWall通の交差点には、市壁の位置が着色舗装で表示される。
門塔は残っていない。
太い塔 DickerTurm 西側の市壁の中にあり、太い円塔に円錐屋根。
丘の上に市壁で囲まれAlteMarkt広場を中心とした旧市街地が見所である。
私立博物館 MuseumApteiberg 1982市立博物館の新館が建築賞を受賞
した。マンレイの写真作品が有名。庭には緑の中に彫刻が配置されている。
司教座大聖堂 Muenster 1180建、ロマネスクの大聖堂だが、小聖堂と聖教壇
席はゴシックである。1180三つの身廊に成長、1260窓の聖書ステンドグラス。
聖ヴィース St.Vith 修道院の前のガストハウスは、17Cの建設され、今は食堂。
破風3階建。
新教中央教会 Ev.HauptKirchePheydt 1770バロックの塔、ロマネスクの身廊、
内部の装飾はロココ様式に改造。
元武器庫 AlteZeughaus 2002元武器庫に、カーニバル博物館を開設。
市庁舎 | 塔 |
大聖堂 |
793 修道院の建設、 805 最初に来た司教に大聖堂建設命令、
850 最初の大聖堂の完成、 1050 新教区教会の建設、
1178-78 憲章・防衛権の授与、要塞建設、 1221 大聖堂や多くの家屋が焼失、
1227 ハンザ同盟加入、 14C 市壁は外側の壁と2番目の堀で強化、
1454 職人組合の権利をギルト法に定める、1534 再洗礼派王国となりギルト廃止、
1553 都市に関わる自由と権利の授与:選挙・司法・防衛・法務・徴税等。
1618-48 30年戦争に強要塞で守った、 1678要塞を強化し西側に星形要塞付加、
1764-67 更に都市の防御強化、 1803プロイセン、1806ー13ナポレオンの仏軍が占領、
1815 プロイセンに帰属し内堀を埋めた、 1903 西側の星形を除いて外堀を埋めた
1941-45 2次大戦の爆撃で旧市街地の91%、市全体の63%が破壊された。
Budden Turmに接続していた市壁の取り除いた残りの市壁が3m残っている。
1173-78 高さ10mの市壁約4.0kmで104haを囲み、8上流堀、10門6塔で守った。
14C 外側の市壁と2番目の堀を加えて強化。突出星形要塞を付加。
1678 強大な要塞は西側に拡張され、2重の星形要塞を付加。
1815 市壁が壊され内堀が埋められた。
1903 両側の星形を除いて、外堀を埋めた。遊歩道4.5kmと公園が残された。
古い防御施設には6塔があったが、2塔がまだ残っている。
要塞砲塔 ZwingerTurm 16C東 強力な要塞と砲塔として建設され、威力を発揮し
た。その後、要塞の塔、火薬庫、刑務所、美術スタジオ等に使われた。
ブッデン塔 BuddenTurm 1200建、北 旧市壁の名残であり、壁の解体後1878に給水
塔として再建された。1945以降に白い円塔と古い円錐屋根の形式で補修された。
市街地は丘の上に在り、戦後ゴシックからルネッサンスの建物が、数多く復元され、
昔の魅力を取り戻している。
市庁舎 Rathaus 14C 切妻のある正面は美しく小尖塔の有るゴシックの建物であり、
平和の門の飾り板は戦災を逃れた保存されていた。和平条約に署名した国々の君王が壁
に描かれ、1720のシャンデリアがある。
大聖堂 Dom 13C建、ヴェストファーレン様式の二つの角塔と二つの内陣を持つ。16c南側玄関
から入り内側には13Cの彫像が飾られ、後陣周歩道には1540天文時計があり、
自動人形が鐘を打ち、礼拝堂は調度品で飾られている。
宝物館 DomKammer 13C建、中庭回廊を通って入る。11C聖遺物、13C聖立像、15c
聖ハネ祭壇画塔を展示。
ランベルト教会 LambertKirche 14C建、ゴッシクのホール式教会。1535再洗礼派の曝場となり、
今でも鉄格子の檻が両塔にある。19Cに搭上に尖塔99mを付加。
城館 かって選帝侯の居城であったが、今は大学として使われている。三つの翼棟を持つ
赤レンガに砂岩張りのゴシックの建物である。
州美術館 WestfalischesMuseum ゴシックの彫像、ステンドグラス、祭壇画、30年戦争記録等
の展示。
主人市場 PrinzipalMarkt ルネッサンス切妻の富裕な商人の館が簡素に復元されている。