ファイル | 州名 | 州数 | 小計 | 市壁無 | ||
bd1 | GS | 大都市 | g1-5 | +1 | ||
BR | ブランデンブルク | b1-42 | +4 | |||
BW | バーデン・ビュルテンブルク | v1-50 | 98 | +14 | ||
bd2 | BW | バーデン・ビュルテンブルク | v51-w67 | 116 | ||
bd3 | BY | バイエルン | x1-99 | 99 | ||
bd4 | BY | バイエルン | y1-z17 | 116 | +14 | |
bd5 | HE | ヘッセン | h1-i12 | 111 | +10 | |
bd6 | MV | メルケンブルクVP | m1-32 | |||
NS | ニーダーザクセン | n1-49 | 81 | +5 | ||
bd7 | NW | ノルトライン・ヴェストファーレン | o1-101 | 101 | +25 | |
bd8 | RP | ラインラント・プファルツ | r1-76 | +3 | ||
SL | ザールラント | l1-4 | 80 | +2 | ||
bd9 | S | ザクセン | s1-54 | +9 | ||
SA | ザクセン・アンファルト | a1-62 | 116 | +2 | ||
bd10 | SH | シュレスヴィヒ・ホルシュタイン | k1-4 | +7 | ||
TH | チュービンゲン | t1-60 | 64 | +8 | ||
合計 | 981 | +104 |
表中の各町について、 その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
MV メクレンブルク・フオルポメールン州 1-32
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
市庁舎 | デミナー門 |
ブランデンブルク門 | 聖ペトリ教会 |
ミューレン倉庫 | 市壁通 |
1176 カジミエシュ1世は修道院を設立、 1245 都市権を授与され、文書初言及、
1316 ノイブランデンブルクと争い10年後に和解、 1450 3門のある市壁が建てられた、
15c ミュチェチン相続紛争で町に半分は焼失、 1527.1569.1698 都市火災発生、
17c 30年戦争3回占領力だつされた、 1720 ストックホルム和平の後にプロイセンに譲渡された、
18c 絶え間ない戦争で疲弊した、 市壁は町の拡張のため削除された、 19c中 各種工場立地、
1450の市壁は、18cに町の拡張のために削除された。町の記念建築物として記載されているのは、
Stadtmauerとして、Amtshof1に20mとStadtmauer1に20mである。
1450には3門あったが、MuelTorは1844に取り壊され、今は2門である。
ブランデンブルク門 Branburger Tor (1450) 煉瓦造の階段破風で、5階建ての塔には、
3階までの落とし格子がある。塔は望楼としても機能し、切妻屋根の5階建レンガ造の建物で、
上層階のすべての側面へこみは白く塗装されている。市門は後に小刑務所として使われ、1895
には門のすぐ近くに
法廷刑務所が拡張された。今は歩行者のみが通行できる。
デェミナー門 Demminer Tor (1450) アーチ門のある古いゴシックの門は、東北部に建てられ、
元々はブランデンブルク門のような門塔であったが、高塔は壊され、19c後半に大幅に簡素化され、
両側に四角い柱が4本ある形で再建された。道路上の高欄はレンガ造であったが、1927に一部
が落下したため鉄製に変えられた。
市庁舎 Rathaus (1292) 始めゴシックの堅実な市庁舎が建てられたが、15cのシュテェチン
継承戦争で焼失した。1618に3つのゴシックのゲープルのある2番目の市庁舎が建てられたが、
30年戦争で荒廃して、1663には市政はログメントホテルで行われ、1734に2番目の市庁舎は取壊され、
1748に貧しい1600人の町の3番目の市庁舎が建てられた。1868-69歴史主義の英国風石造で
4隅に塔のある寄棟屋根3階建の4番目の市庁舎が建てられた。1950には人民警察がその建物を
使い、1984に市庁舎に戻った。1995に徹底的に改修された。
聖ペテロ教会 St.Marien Kirche (1175) 始め木造の簡素な教会があった。1318にゴ
シックレンガ造3通路ホール教会が建てられ、大きな正方形の西塔は90mの高さがあったが、火災で
失われ 1793高さ65mバロックの八角塔となった。15cのユニコーン狩の壁画は、最初の礼拝堂に残って
いる。1812オルガンが置かれ、1865には31レジスターに拡張された。
住宅 Wohnhaus (1909)2階建寄棟屋根の漆喰アールヌーボーの建物は、窓と柵のデザインが良
い。2013-14に改装された。
粉曳家倉庫 Muehlen Speicher (1844) 部分的な地下階と寄棟屋根の3階建半木造
の長い倉庫の建物。
旧旅館 Ehem.Gasthof (1663) 切妻屋根とパートドーマのある旅館の木骨造の建物。
1740に暫定的に市庁舎として使われ、1823からは旧登記所となった。1990改装。
石門 | 火薬塔 |
南西壁 | 東壁 |
門 | 西北壁 |
西南壁 | 教会 |
12c フラマン人とドイツ人が市場町に定住、1243 初め集落、1264マグデブルク法の町を言及、
1283 町はハンザ同盟加入、1292リュベック法、1338 漁夫はデンマークの漁業権を保有、
1370-1461 町はシュパンテッコウ城と紛争、 1412 町を守る高い石壁を言及、
1427 ハンザ同盟としてデンマークと戦った、 1535 町は宗教改革導入、1565ペストで人口減、
1627-27 帝国軍やスエーデン軍の占領・略奪、1648 町はウエストファリア条約でスエーデン国境の駐屯地、
1657 北方戦争でポーランドが町を放棄、 1711 大北方戦争でスエーデン軍は撤退した、
1720 和平後にプロイセンとプロイセンで分割、 1806 仏軍が侵攻し1809まで占領、
1815 町全体がプロイセン領となった、 1943-45 米空爆と赤軍占領後の独爆撃で8割破壊。
1191要塞の基礎段階。1400最初の高さ5mの石壁を6門と多くのWiekHausと共に2.5km建設。
1517市壁は高さ8mに強化され拡張された。7年戦争後1756-63に一部市壁は壊された。
市壁が残るのは、西から南にかけて30+350+110+90=500m、東に15+25=40mである。
6門の内残るは1門。
石門 Stein Tor (1250) ゴシック煉瓦造の角塔で、元は半分の高さであったが
1450には32mの高さになり、内外側に切妻が付けられた。火器の出現により前門
が1570の議会承認で付けられた。1759七年戦争の間に多くの要塞は取り壊された。
残ったこの門は刑務所として1900まで使われた。隣接する庭に博物館が建てられ、
守衛所は拡張され博物館となり,塔の5階にも1949から先史時代からの町や地方の
歴史や文化を展示している。
火薬塔 (1450) この円塔の塔頂には先端が円錐状に突出し胸壁が在ったが、
今は失われている。1462刑務所として16cまで使われた。その後火薬庫として使
われ 1866-1874には天文台となった。
独の北西の端にあるハンザ同盟都市で、繁栄した後期ゴシックの北欧風破風付の家屋が
残り、大きな建物がオムスビ型の旧市街地に多い。
市庁舎 Rathaus (13c) 1535火災に遭い、1549再建された。1842ゴシック市
庁舎は焼失1950-52に新築。3階建ての簡素な旧市庁舎は、今は市図書館である。
北にRathausⅡ(Betrtes Wohnen),西にRqthausⅢ(Got.Glebslhaus)がある。
聖ニコライ教会 St.Nikolai (1280) 船員・漁師・商人の守護聖人を祀ったゴシック
は1320-40巨大塔・1336祭壇の寄贈・1498説教壇設置された。17-18cは裕福な商人
の墓所となった。1851オルガン内陣の付加・1907-09オルガン・ステンドグラス塔の大規模改修。
1945爆撃を受け1997内装・床舗装の補修、2000壁画の復元・2004塔や身廊の補修。
聖マリエン教会 St.Marien Kirche (13c) ゴシック煉瓦造の美しい教会で、13cの
四角の二重塔と長方形の内陣が残っている。15cに3身廊に延伸され南廊に聖具保
管室と礼拝所の増設が行われた。1676-77ブランデンブルクの攻撃を受けて破壊され、
1778と1849で金は撤去され、1806仏軍の干草と麦藁の倉庫となった。1814再び鐘
が奉納され、1816焼けた尖塔は更新された。1887塔は100mになり、1936内装は
ゴシックのフレスコ画が柱の上に置かれた。1945爆撃に遭い1947に塔を再建し聖ニコラス教会
から祭壇を受け取り、1962主祭壇・マリア像・オルガンを設置した。
カソリック教会 Katholische Kirche (1901) 市内で塔のない唯一の教会で、オーク材
の柱の上に構築された。1964-67補修が行われシナの木のマドンナを受け取った。
聖霊病院 Heilige Geist Hospital (1272) 精霊の家として貧しい人や病人
を収容した。1238僧侶は病院を建てた。1376・1659焼失下が再建され、1781救貧院
になった。1958-93は老人ホームで使われ、今は市庁舎Ⅱとして使われている。
切妻の家 Giebel Haus (1406) 馬市場に面してゴシック煉瓦造の風格のある切
妻の3階建てのの建物は、町で最古の公共の建物である。元は貯倉庫として建てら
れ、18cは科学者が使用し、1997に修復を終えて登記所・ハンザ同盟会議役員室・市立
会社の会議室として使われた。
高い石 Hofer Stein (1458) 中世の楼閣として町の2.5km南に尖塔付円塔
が建てられた。土堤と堀で守られ、尖塔上の鉄鍋は敵の接近を狼煙で知らせた。
旧郵便局 Alte Post(1878)帝国郵便局は郵便局に電信局を開設するため
に煉瓦造2階建ての建物を造った。1894に最初の町の電気通信機材が設置され、業
務量の増加で1905と1925-26に機材は増強された。1997まで郵便局は使われた。
ヴェッセル風車 Wesselsch Muhle (1728) オランダ風車が建てられ、1872に工場
はヴェセル家の所有となった。スエーデンの支配下で1806まで地方下級裁判所になり、18
15-74共同体アッテンダム理事会の所在地だった。1920まで風車は操作された。風車は
1958に桟板と帽子が除かれ、今は風車塔と工場が残されている。
聖マーチン教会 | マルクト広場 |
マグデス教会 | ファンチレス搭 |
ダム門 |
1255 リューゲン帝国ヤロマー2世の文書に初言及、 1313 城建設、継承戦争でポマメラニアに、
1324 要塞建設、1570 ポメラニア侯爵はルネッサンス宮殿再建、1590 楕円形の城と堀を建設、
1603 公爵は住居を移転し最盛期終了、 1648 30年戦争後スエーデン領ポメラニアに、
17c 略奪・疫病・火災・高潮で被害、 1710-11 ポーランド王が一時城に居住、
1727 外航船を初建造、1783には40隻所有、 1815 プロイセンがフォアポルメンを併合、
1875 5造船所と18海運会社が存在、 1945 赤軍が進駐。
旧市街は主として洪水に対する市壁と堀に囲まれ、1786には土堤に植樹が行われ
遊歩道となった。今は僅かの市壁しか見当たらない。
今は西のダム門と南東の監獄塔が残る。
ダム門塔 DammTor (1375)石造高さ35mの三角屋根角塔で、幅4mの通路がある。
二重 門として元保護ダムの上に立ち、前門と本門は二つの木製扉で守られた。
監獄塔 FangTurm (16c初)レンガ造高さ12m直径7.7mの円筒形の建物で、二つの床
のある巻階段で上のプラットフォーム登れる。17c迄魔女が投獄され、19cドーム屋根
となり、1968天文台が屋根に設置され物理教師により維持された。1991迄学校観測
所であった。1997・2007に改修された。
中世からの要塞都市の区画を今に残し、復元された多くの歴史的公共建築と家屋
が保全されている。
旧市庁舎 AltesRathaus (1926) バースは1925北方の町の地位を確保し、ベルリンの
建築家によって地区庁舎として建てられた。北ドイツ風レンガ造3階建の建物は中
央にゲーブルが飾られ、サイドウイングに地区管理者アパ-トが収容された。1946から市
庁舎として使われ、2005から公邸も含まれた。
低ドイツ聖書センター・聖ユルゲン NiederDeutsches Beibelszentrum St.Juergen(14C)
教会は戦争と病気の守護聖人聖ヨハネに捧げられた。16cに病院と貧困居住として再
建され、ハンセン病患者と貧しい巡礼者を収容した。1980老朽化したがGDRに財
政手段がなく、2001に修復後、低ドイツ聖書センターとしてルター低ドイツ語訳ポメラニア印刷聖
書の写しなど、1548冊の聖書を展示している。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 煉瓦造の教会建設は1300には始まり1325に
は初言及された。教会は5段階で建設され、最古部分の東聖歌隊は初期ゴシックで
始っり、四角塔が最後に追加された。1856ネオゴシックの内装に変更された。教会に
は42レジスターのオルガンがあり、演奏会が開催されている。
貴族女性修道院 AndlegesFrauleinstift (1733) ボジスロウ13世が1573に建てた城の
跡に、スエーデンのフレデリック1世は貴族女子修道院をバロック中央部2階建てマンサード屋根で
建てた。修道院は未婚女性や未亡人のための広いアパートを提供した。入口にレンガ
造平屋スエーデン建築がある。長方形の敷地は1741修道院壁が囲んでいる。
旧商人の家 Ehem.Kauhmannhaus (18c) 元商人の家で1970-1946には市庁舎として
使われた。ここにヴィネータ博物館が1997に開設された。2階には神話Vinetaの展示
3階には都市の歴史と特別展の会場がある。
聖バートロミュー教会 | ルイーセン門 |
火薬塔 | 市壁 |
市壁 |
8c スラブの集落が存在、10c 国境要塞の建設、1075 町として城と市場があった、
1140 ポメラニアの城と教区があった、 1147 独・デンマーク・ポーランドの十字軍が包囲、
1156 ボギズラウ1世は支配し住居の一つとした、1211 デンマークが支配した、
1227 ブランデンブルクの領地となった、 1236 格子状街路を周壁5門で囲む、
1236-49 リューネブルクの憲章を与えられた、 1283 ハンザ同盟に加入、
1327 メクレンブルク軍が町をが包囲 1495 大火災で町の半分が焼失、
1534 ポメラニアに改革導入、1546-47 追加の壁、1627-39 帝国軍とスエーデン軍が取合い、
1648 和平でスエーデン領となり要塞強化、 1659 北方戦争でブランデンブルク軍が占領、
1712-13 ロシア軍占領、1715 プロイセン軍占領、 1756 スエーデン軍の奪回作戦継続、
1807 仏軍占領、1812 ナポレオン軍の北上、 1815 全フォアポメルンはプロイセン領に、
1945 空爆の被害は甚大で、赤軍に降伏。
1236-1340に市壁と堀が造られ、1641-59にスエーデンは近代的な要塞を構築。1659に損
傷した要塞はスエーデンが再構築。1720にプロイセンは要塞と市壁を拡張整備した。
攻撃にさらされた東側に多くの壁塔があり、円形10基・長方形17期の塔があった。
門は、4主要門の他に4小門があった。
牡牛門 Kuh Tor ()西門として唯一残された。ゴシック5階建レンガ造の市門
である。塔頂にはレンガ階段切妻がある。1763-1895市の刑務所として使われ、1952
-2002はホステルであった。その他Frauentorは1848、SchlossTorは19c、FischeTorは
1659、KahldenTorは1824、HolstenTorは1862、MentzerPforteは16c、ChristinTor
は19cに壊された。
火薬塔 PulverTurm(1546)レンガ造4階建の円錐屋根の円塔。中世壁塔の内
唯一残されたもの。
市壁は良く残されているが、1945の空爆で損傷した建物が多かった。
市庁舎 Rathaus (1950) 2次大戦の終わりに破壊され、取り除いた跡地に歴史
主義の市庁舎が建てられ、合わせてマルクト広場もハンザの泉を含め整備された。
聖バートロミュー教会 St.Bartolomaei kirche (1269)3身廊ホール教会は破壊され、
14Cに周囲に壁のあるゴシックレンガ造の教会が建てられた。1641.1637.1639に破壊され
1676に再建されたがまた壊された。1684-1706復元を行い、1734に新しいヴォールトを
備えた。1857-67祭壇と内陣を変換し、ネオゴシックの高さ92.5mレンガ造の祭壇がある。
バラ花冠女王教会 St.Marien Rosenkranz Koenigin kirche (1915) ネオゴシック
45mの単塔のある教会。
ハンザ地区 HanseViertel 港の漁師の島に、大人と子供の冒険活動と鴎外博物館
がある。
住宅と商店 Gesellius haus (1935) バロック3階建のゲゼリウスの家は、プリンタ家によ
って建てられ、クラフト文字の出窓のある記念建造物。
フリックロイター学校 Schule 3階建てレンガ造中央突出の窓の大きな建物。
市庁舎 | 聖ヨハネス教会 |
要塞壁 | 要塞 |
市庁舎広場 |
13c エルベ川氾濫と軟弱地盤のため立地遅れ、 1235 中州に集落と城建設、
1237 ダネンベルク伯爵がエルベ関税所設置、 1259 ダネンベルク伯爵は都市権を付与、
1291 町の支配者は変遷したがメクレンブルクへ、 1554-65 アルブレヒト1世は要塞を拡張、
1620 30年戦争で略奪・疫病・火災で被害、 1809 要塞の重要性低下、多国が占領、
1888 エルベ洪水の被害、1894要塞の廃止、 1953 要塞は博物館となった、
1975 要塞は国定公園となった。
1559-65の要塞の防壁は80m残されているが、市壁はTorStrasseの北端の川沿い
の旧門衛所に8mしか見当たらない。
市庁舎塔 RathausTurm (1820)市庁舎の背後に立つ4階建の角塔で、切妻
屋根の上に鐘楼がある。
閘門 Schlause (1572)北側の川向うにレンガと砂岩の門が建てられた。1722
今の閘門となり、1821-22改修され今の大閘門となった。1956ポンプ場が付けられ、
2001に改修された。
エルベ川上流の小さな町で、18-19cの木組の街並みが魅力的である。
川の西側には、16cルネッサンスの保存された要塞が、1953から歴史博物館となっておる。
市庁舎 Rathaus (1820) 2階建9アーチ・マンサード屋根の大きな木組の建物である。
2012に修復された。後に市庁舎塔が立ち、消防署を収容した。
聖ヨハネ教会 St.Johanne Kirche (1875) ネオゴシックのホール教会で十字型テント屋根レンガ造
の教会で、高さ50m八角形尖塔付きの西塔と四隅塔があり、1664の鐘を納めた。
百貨店 Kaufhaus (1926) 寄棟屋根クリンカータイル3階建の建物。デパートは2014閉鎖。
要塞デミッツ Festungensanlage (1559-65) 五角形の堀の囲まれたオランダ様式の
要塞でレンブルク侯爵の時に建設された。良く保存された北ドイツ唯一のルネッサンス要塞である。
15c3階建指揮官の家・東レンガ塔、1790内部門、1750精神病院と監獄を建設。1861-65に
健全化され、1953要塞博物館となった。博物館には町の発展の歴史とエルベ港運・港
湾施設、民族史、要塞の歴史と防衛システムなどを展示している。
木組の家 Fachwerkhaus (19c)
RathausuPlatz2: 2階建寄棟の美しい建物。
AmWall9: 1870漆喰木組の2階建の船員の家。
GoethStrasse8:両切妻2階建の建物。
聖マーチン教会 | アンクラマー門 |
ノイブランデンブルク門 | フアンゲル搭 |
東壁 | 東壁 |
1200 ニコライ教会のある商人の集落が成立、 1244 ブランデンブルクのオットー3世が市を設立、
1300 楕円形の旧市街地は高さ6mの市壁で囲まれた、 1304 メクレンブルクの支配下へ、
1523-1918 メクレンブルク地方議会へ代表を選出、 15c 29のウイークハウスを市壁に追加、 1637 流行病、
1703 都市火災発生、 1760 七年戦争、 1806ナポレオン軍が占領、 18c 新市壁、
1862 病院建設、 1886 水力発電所、 1886 水道管布設、 19c 神学校設立、
1854 街灯設置、 1945 米軍の占領。
1304からの市壁は、高さ6mまでの野石の市壁が建てられ、15cのウイークハウス29基が追加された。
外堀システムは今は部分的に緑地になっている。旧市壁は東部と南西部に残っている。
聖ニコライ教区教会 Pfarr kirche St.Nikolai (13c) ゴシック石造ブロク構造の教会
で十字型テント屋根レンガ造の教会で、1945の破壊で周壁まで壊れ廃墟となった。
聖マリエン教区教会 Pfarr Kirch St.Marien (1244) 始め、野石で造られた塔の地下室
から作り始め、1330に6湾ゴシックの教会となった。1340に9湾に拡張された。1703大火事で
損傷し、1860と1880-89に市民によって修復された。東西の切妻と八角形の尖塔が付けられ、
高さ91mに嵩上げされた。オルガンは1744に付けられた。
市美術館 Stadt Museum () 古い2階建の木骨造の建物で、今は市の美術館である。
市庁舎 | マルクト広場 |
捕獲塔 | 南東壁 |
南西壁 | 南西壁 |
西壁 | 聖ヤコビ教会 |
1172 デンマークのシトー派修道士が修道院設立、 1248 小さな町として初言及、
1264 旧と新の市街を合わせて防衛整備、 1299 ハンザ同盟の創設の町、
1456 市長は北独で2番目の大学を設立、 1534 宗教改革の導入、
1631 スエーデン軍が町を占領、 1648 ウエストファリア条約でスエーデン領へ、
1678 ブランデンブルク軍が砲撃して占領、 1713・1736 大火災で町は焼失、
1815 町はスエーデンからプロイセンへ、 1856 港湾の整備で北市壁と塔は破壊、
1945 空爆の被害は些少で赤軍に降伏。
1250に高さ7-9mの市壁と堀と土堤で守られた。1627の30年戦争に町は守れられなか
ので、18cには市壁の取り壊しが本格化し、跡地は庭園や散歩道となった。
残っているのは、西260+310m、西南330m合わせて900m。
塔 Faugen Turm (1329) 町の防衛施設として3階建て胸壁付円塔が造
られ、1774-1726天文台として使われた。1994から古い港の博物館事務所となった。
昔からの大学の町で人口6万の2割が若者で3割の人が大学や研究施設で勤める。
繁栄したハンザ同盟都市で郡庁としても栄え、マルクトの大建築物と3ゴシック教会がある。
市庁舎 Rathaus (13c) 中世に建てられ、市長と参事会が置かれた。1369に初
言及された。会議室は18c壁面装飾をされ、入口には1965のブロンズ像が立つ。
マルクト広場 Markt Platz 美しい広場で中世からの4泉があり、1998-99改修され
た。周囲には、15cゴッシク切妻の煉瓦造の建物が多く町の富と繁栄が偲ばれる。西側
市庁舎裏の小さな魚市場には漁夫の噴水がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) ゴシック煉瓦造の3廊教会にはキリストの壁画・オルガンが
ある。高さ21mの内部には様々な墓石がある。1780長さ67mの屋根が付けられた。
1985以来、戦争記念館となった。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (13c) 大聖堂は高さ100mの塔を持つゴシック3身廊の
教会で、内部にはフレスコ画が残り砂岩色合いの装飾がある。床は14cからの墓石
が並んでいる。
聖ヤコブ教会 St.Jacobi Kirche (1280) 元は2廊の教区教会であったが、1400に
3廊バジリカに建替えられた。中には8柱・祭壇・13c花崗岩の洗礼盤がある。
エルディナ旧修道院 KlosterRuine Eldena (1199) シトー派修道士が建てた修道院の
遺跡で、30年戦争でスエーデンの被害を受け衰退し、1960-70遺跡保存の公園整備。
聖生命 St.Spiritus (1262) 中世の老人や病人のための病院で、18cに建替え
られ、今は大学とハンザ都市グライフスバルトの社会文化本部となっている。
大学本館 Hauptgebaeude der Universitaet (1745-50) 市長が建てたバロクの建物で、
その後改修・再構築されて400席の広さになった。1885-1914学生監獄だった。
旧大学図書館 Alte Universitsets Bibliothek (1882) マーチン・グロピウスが建て、
ポマラニアの古文書がある。
ポメル州立博物館 Pommersches Landes Museum ポメラニアの1400年間の自然と歴史・
ハンザ都市の豊かな文化・スーデン時代の遺跡・1554大きな4*7mタペストリーカーペット・ゴッホの絵。
カスパー・ダヴィット・フリードリッヒ・センター CasparDavid Friedrich Zentrum フリードリッヒ家の複
合ビルにあり、地階で石鹸とローソクの製造工程が、上階には画家の人生と作品に関する情
報が展示されている。
造船所博物館 Museums Werft 歴史的な古い木造ボート製作所で、古い帆船を展示。
市庁舎 | マルクト広場東 |
地方博物館 | 市図書館 |
1226 メクレンブルクで最も古い町で都市が成立した、 1230 ラツエンブルク教区に含まれた、
13c 中世の都市要塞にはウィークハウスと3門があり、市壁と外堀は19c初めに取り壊された、
1279の市場と1345の城は1659の火事で全焼した、 1525-67 コインの鋳造を行った、
1725と1756の都市火災と7年戦争で1800まで拡大しなかった、1850モルト工場・レンガ工場建設、
1970 都心部の建物は新しくなった。
塔 Wasser Turm (1911) 1967まで給水塔として使用された。
白く塗られ町のランドマークとして立っている。今携帯電話局がが使用している。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1715) 1660にグレーウェスミューレンの市庁舎が焼失
し、1715になって新市庁舎が建設された。1994まで市庁舎として使われた。
その後改修されて今はレストランホテル Gasthof Altes Rathaus である。
市庁舎 Rathaus (1921-22) 外階段2階建の公共の建物として建てられ、
1945まではシェンベルク税務署として使われ、1952-91はソ連司令部であった。
1994に市庁舎の一部になった。
新市庁舎 Neuer Rathaus balock (1998) 新しい市庁舎はマルクト広場の北に位
置し、市政と大規模イベントに使われている。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1230) ロマネスクからゴシックへの移行期のレンガ造
教会で、ゴットラント島の石灰岩製のロマネスクの洗礼盤、古いキリスト架の3画面の絵画、
ゴシックの八角形のアーチ聖歌隊がある。1872にオルガンが設置された。
麦芽工場 Malz Fabrik(1980)工業用建物の構造は、4-6階建のピラスターストリップ
セグメント化されたアーチ窓がある。1990東独時代に生産は停止され、買い物と商業の
中心になった。メクレンブルクの地区事務所も収容している。
グレーフェス風車 Greves Muehlener Muehle (1878) 高さ30mのオランダ風車は、
1970に操業を停止し、5年間の補修の後に、市の記念物であっても1996に売却さ
れ、個人住宅として使用され、訪問できない。
最古の家 Altest Haus(1666)、市場薬局 Markt Apotheke (1800),
August Bobel Str.21 ,Hinter Str.にある。
市庁舎 | ラッツケラー・薬売り |
ストラルスブルグ門 | グライスバルター門 |
ミューレン門 |
10c ゲルマン人の定住後にスラブ族が移住した、 1220 スラブ族ウエンド人の定住、
1250 移住商や職人が格子状の街路の町を構成、1287 町の支配者としてベルトルトが来た、
1278 シュベリン教区に属し騎士アーノルドが支配、1325-1648 リューゲンの断絶後にポメラニア公国へ、
14c 町の要塞が建設され15cに門を付けた、1536宗教改革導入、1630.1637 都市火災、
1648.1637 スエーデン軍が占領、1648 ヴェストファーレン条約でスエーデン領へ、 1757 都市火災、
1757-59 プロイセンが占領、1797 都市火災で町は全焼、1807 仏軍が町を占領して破壊、
1815 ウイーン会議でプロイセンとなった、 1829 地区事務所が置かれた、1835 市壁の取壊、
19c 市壁は撤去されて町は膨張した、 1945 5月に非戦闘降伏、赤軍が占領。
14cの市壁は1835に取り払われ、僅かの残骸が、門の近くに残る。
ストラートジュント門 Stralsunder Tor (1320) 2階建レンガ造刻み目のある階段切
妻が15cに付けられた。
ミュール門 Muehlen Tor (1325-) かってあった風車の名前が付けられた。
高さ24.8mの初ゴシックのレンガ積みの四角形の門で、1460ブラインドゲーブルの改修が行わ
れた。門の側面には市壁が残っている。1985-87に復元され、グリブン郷土博物館は
門と共に隣接する。
グライスヴァルト門モン市庁舎 Greisfswoldeer Tor (1350) 1800に落雷で壊れ再建さ
れた。門の北には市壁が見える。
市庁舎 Rathaus (1400) 2階建レンガ造の建物で、7つのアーケードには華やか
な切妻ステップと17cにバロックフード付き八角タレットが追加された。
聖マリエン教区教会 PfarrKirch st.Mariem (1267) 始めは野石積のゴシックの3階建の
ホール教会の建物が15cに3通路ホール教会後陣で補完された。1707の豊かに飾られた説教壇、
1976-77に内陣、1986に屋根、1982と92にオルガン、1953広間と塔が改修された。
古い学校 Kaland Haus () 後期ゴシックレンガ造の学校の建物。
市庁舎 | ボルヴィン泉 |
聖マリア教会 | 宮殿 |
南壁 |
1226 ハインリッヒ・ボーウイン2世は大聖堂を寄付、 1228 ボーウイン2世は都市法を授与し町を建設、
1229-1436 宮殿は一家の絶滅で放棄された、 1441 町に特権のある防衛団体を設立、
1505.08.12.56 町は火災に焼かれた、 1524 宗教改革の導入、
1556-1695 町はメクレンブルク侯爵の居住地に、 1628-29 バレンシュタインはデンマーク軍を破った戦争
費用の担保として邸宅に住んだ、 1712 町で大北方戦争の休戦交渉が行われた,
1806-12 ナポレオン軍に占領された、 1945 5月に非戦闘降伏、赤軍が占領。
旧市街の南西に煉瓦積の市壁が、補修されて残っている。
1889に水道の開設を記念して、この町の創設記念碑の噴水が馬市場に設けられた。
左岸六角形の柱状の構造物で、1999には修復されたが、2004再度損傷して市民からの寄付
で修復。
風光明媚な川に囲まれメクレンブルクの中心部の町で、大聖堂・教会やルネッサンスの城が特徴の
ゴシックの古典主義煉瓦建築が中世の都市構成を今に残している。
市庁舎 Rathaus (13c) 1798に4つの既存の切妻付2階建ての家を古典主義で一つ
に構成し、壁柱や花輪も古典主義となった。2001-02に復元された。
ギュストロウ宮殿 Schloss guestrow (16c) メクレンブルク侯爵の宮殿として、イタリア建築家による
隅塔付4階建てルネッサンス構造で建てられ、南に大きな庭園がある。中には中世の芸術品・工芸品・
侯爵の狩猟や儀式用具・武器・古代からのガラス・絵画・陶器等を展示している。独立した部
屋でヴァレンシュタイン・ギュストロウの短い治世を知らせている。
大聖堂 Dom Guestrow (1226-1335) ハインリッヒ・ボーウインが寄贈した。13cにロマネスクからゴシック
へ移行された。大規模十字型レイアウトに高さ44mの西塔が付き、1565に侯爵の宮廷教会となった。
1995に大改修された。
聖マリア教区教会 Pfarr Kirche St.Marien(1308)市民のために建てられ、1503落雷火災
で基礎
壁を残して焼失し、1508北ドイツ煉瓦ゴシックの新教会となった。塔は町で最も高い。19cの
大改修で3身廊ホール教会に変えられた。
北ドイツキリスト降誕博物館 Norddeutsches Krippen Museum (14c)改装された精霊教会に、
2007博物館が開設された。精霊病院は貧しい人や病人のための病院に1313に建設が始り、
ゴシック煉瓦2階建であった。1524に教会としてその建物が使われた。博物館は、世界からゴシック
350の伝統的なキリスト降誕の場面のコレクションである。
町博物館 Stadt Museum (2003)町の様々な歴 史を語る大規模なコレクションを新しく建築
した建物に展示している。1.2万枚の包括チラシと地方画家の芸術的遺産がある。
町美術館 Staedtische Galerie Wollhalle (19c) 侯爵の厩舎として建てられ、19cには
毛織物取引所となり、20c劇場の工作所となり、2000に現代美術のアートギャラリィとなった。
エルンスト・バーラッハ博物館 Erust Barlach Museum (1953) 1938にこの町で死んだ エルンスト・バーラッハ
の、芸術家の生涯と文学作品と彫刻を展示している。
エルンスト・バーラッハ劇場 Erust Barlach Theater (1828) 古典的様式の劇場で、有名な彫刻家で
作家の名前を冠し365人を収容する。
郵便局 Post 旧市街地の角地に立ち、正面に角塔と小切妻のある2階建ての建物で、
前の広場には町の創始者Borwinの噴水がある。
裁判所 Gericht 3階建ての大きな建物である。
市庁舎 | 石門 |
マリーナ・駅 | 地方裁判所 |
12c スラブ族のルティシの勢力圏に属した、 12c中 ポメレニアン公バルティスラフ1世が征服、
1187 リューゲン公国に属したがすぐポメラニアに戻った、1236 Loitzはメクレンブツクに十分の一税を納めた、
1242 町は騎士デトルフから憲章を授与された、 1270 騎士の断絶によりリューゲン公国に属した、
13c末 ポロメニア公国に落ちた、 1292 町に免税された、1314 要塞化された町は攻撃に耐えた、
16c 多数の市場特権で商工業発展、1593-1601エルンスト・ルードヴィッヒ公未亡人はロイツを遺贈され住む、
1638 スエーデンはロイツを将軍にあたえた、 1648-1815 西ポロメニアはスエーデンの支配下に置かれた、
1758 7年戦争でスエーデンが砲撃、スエーデンは賠償金を払った、 1815 ウイーン会議でプロイセンに属した、
19c ガラス、石灰、デンプンの工場建設、 1945 5月に非戦闘降伏、赤軍が占領。
14cの石門のある市壁の遺跡で、雑石で構成されている。2019から市壁も改良されている。
石門 Stein Tor(14c) ゴシックの石造アーチ門に漆喰の両流れ屋根の上屋が乗っている。
1701の火災で壊れ、その後再建された。
門柱 Tor Pfosten (14c) 石基礎の上にレンガ造の角柱が車道に2本と歩道に2本立って
いる。門は1701の火災で壊され再建されていない。
市庁舎 Rathaus (1789) 1242に町の憲章を受けて、1299に教会・1314に城が建てら
れたが、市庁舎への言及はない。1701の大火事と18cの戦争の後に、スエーデンによって1781に
2階建マンサード屋根のバロック漆喰の市庁舎が建てられた。1995に改装・修理された。
聖マリエン教会 Pfarr Kirche St.Marien (13c) 1299からのキ教区教会は、3廊5湾のホール教会
で四角い西塔がある。17cには、大幅な追加修正が行われた。野面石とレンガで建てられた後
に、石積は漆喰で塗られた。
4階建てルネッサンス構造で建てられ、南に大きな庭園がある。中には中世の芸術品・工芸品・
侯爵の狩猟や儀式用具・武器・古代からのガラス・絵画・陶器等を展示している。独立した部
屋でヴァレンシュタイン・ギュストロウの短い治世を知らせている。
旧地方裁判所 Ehem.Amtgericht (1879) 2階建の壁構造で、後に市庁舎や1994ペンネタールの
事務所として使われた。
聖マリア教区教会 Pfarr Kirche St.Marien(1308)市民のために建てられ、1503落雷火災
で基礎壁を残して焼失し、1508北ドイツ煉瓦ゴシックの新教会となった。塔は町で最も高い。
19cの大改修で3身廊ホール教会に変えられた。
住居 Wohnhaus (1884)2階建の事務所ビルは、1996-97に改築され、上層階は赤レンガの
模様がある。
旧新教地方監督官事務所 Ehem.Superintendentur (1785)平屋バロックのマンサード屋根の建物。
今日のEv.Kirchen Gemeinde。
倉庫 Grosse Speicher (19c) 木骨造の3階建の倉庫の建物で、今は高齢者住宅。
引所となり、20c劇場の工作所となり、2000に現代美術のアートギャラリィとなった。
小倉庫 Kleine Speischer (19c) 修復された文化財。木骨造2階建の建物で、穀物を船
に積み替えるために建てられた。
市庁舎 | マルケン門 |
細長搭 | クラレンシャー門 |
スタイン搭 |
1215 ポーランドの古い名前に由来して初言及、 1220 ヴェルレのニコラスは格子状街路を計画、
1236 ニコライ1世が町の憲章を授与し市壁を築いた,1397 ロマネスクの教会は焼失しゴシックレンガ造で再建、
1521 メクレンブルク・ギュースト公国に属した、 1523 メクレンブルク州議会に選出された、
1639 30年戦争で町は16回略奪された、 1700-21 北方戦争で町はロシア・デンマーク軍が包囲、
1755クレンブルクは州憲法を制定し1918まで施行、1762七年戦争でプロイセンが攻撃、1806仏軍による略奪、
1806-12 ナポレオン軍に占領された、 1842 新市庁舎の再建、 1929 マルチン地区事務所を使用、
1945 赤軍の占領で火事と死者が発生。
13cの楕円形の市街の東側に市壁が残っている。
石門 Stein Tor (14c) 旧市街の南市門で14cの野石の基礎に2階建のレンガ造の建物で
復元され、刑務所として使われ、1893に老朽化で解体された。1894にメクレンブルク大公フランツ3世は
1894までにオリジナルに基ずいてネオゴシックで復元された。
カーレンシュス門 Kalensches Turm (15c) 豪華なゴシックのレンガ造の北市門で、内側門は1837に
取り壊された。19cまで刑務所として使われた。
刑務所塔 Fangel Turm (15c) 東にある高さ35mのレンガ造の防御塔で国境方面の望楼の
として機能した。16cにルネッサンスの切妻が追加された。1996に完全に修復された。刑務所とし
て使われた。
給水塔 Wasser Turm (20c) 町の西の外れにある。円形の給水塔は1902-80に使用された。
市庁舎 Rathaus (14c) 14cのゴシックセラーが残っている。1745に2番目の市庁舎が建られ
た。3番目の市庁舎は1842にゴシックと古典的様式による大規模改修に拠って建てられた。議事堂
は上階にあり、1900には再設計され、火災後1925-27に再建された。市庁舎は72のギルドサイン
飾られている。1996に市庁舎は大規模改修された。市庁舎塔には登ることができる。
聖ヨハネ教会 Ev.Luth.St.Johannis Kirche (13c) 最初のロマネスクの教会は1347に基礎壁を
残して全焼し、新しくゴシックの建物をレンガ造で1440に建てた。29の祭壇あり、3廊大聖堂で高さ
42m長さ22mであり、搭高は67mであった。19cに内部を再設計して新祭壇を建てた。
市粉挽所博物館 Stadt Muehle Museum () ジークフリート・マルクスの部屋と発明者の作業場の展示
がある。
トレップトヴェア前門 | トレップトヴェア後門 |
トレップトヴェア後門内側 | 新門 |
ムクドリ衛兵門 | 自由州門 |
Wiekhaus・東壁 | Wiekhaus・北壁 |
聖マリア教会 |
1240 プレモントレ修道会が修道院建設、1248 ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世は入植者の町を構築、
1250 フランシスコ会修道院建設開始、 1292 町は、結婚によってメクレンブルクの領地となった。
1300 石造防御施設建設、市壁・門塔、 14-15c メクレンブルク・スタルガルト侯爵の居住地として繁栄、
1627 30年戦争で帝国軍の略奪と虐殺、1671 町は戦災と過重債務で破産した、
1676 大火災で殆ど焼失、 18c 町にメクレンブルク・ストレリッツ侯爵の夏の宮殿、
1775 マルクトに侯爵の都市宮殿を建設、 1850 市壁を越えて都市拡大が始まる、
1863 門と関税障壁は廃止された、 1945 2次大戦の空爆は町の8割を破壊した、
1952 旧市街地の再建が始まった。
14cの市壁は殆ど残れれている。1248町が構築され、その後防御のための木柵・フェンス
が建てれれ、1300町の経済力向上で石の堀・高さ7.5m長さ2.3kmの市壁・門塔・壁間小屋が築
かれた。
19c末まで市壁は完全に閉じ4門以外からは入れなかった。1864鉄道開通時にも壁は破れな
かった。土堤と堀は、市壁の外20-30mに在ったが埋め立てれれ今は緑地になっている。
14c初めにまず木製の戸で遮られ、4ギルドにより4門が煉瓦造の門に置き換えられた。
18cメクレンブルク・ストレーリッツ公国は徴税と衛兵所を合わせた木組みの建物を門に建てた。ゴシックの
4門は戦災を免れ、前門のある堂々たる切妻付市門として貴重な存在である。
Wiekhaeuser(壁間小屋)は、北独にしかない珍しい存在であり、ぜひ見てみたい。
Wiekhaeuserは、14c初め30m間隔で57のWiekhaeuserが町側から 市壁の上に木造で付加され、
眼前の敵を攻撃した。30年戦争後にその有効性を失い、防御を諦め宿泊所等で使われた。
1965まで小屋の幾つかは残っていた。市は23のWiekhaeuserと2塔を復元し、今はクラブ・
バー・レストラン・店舗・集会所等で使われている。
フリートレンガー門 Friedlsender Tor (1300) 最大で複雑な古い門で前門との間は88mも
ある。内側の高さ20mの切妻付のある門で1300に建てられ、高さ8mの市壁につながる。14c
前半に前門が造られた。両門はツインガーを形成する壁によって連結された。今は造形センター
となり、町の文化・芸術の中心である。1970に元関税の家が復元され、今はカフェである。
新門 Neue Tor (1450) 4番目の門として交通緩和のため設けられた。1852には前門
は老朽化して取り払われた。内側の8切妻のニッチはテラコッタの装飾がある。今はフリツロイター学会教
会が入って、文学の催物が行われる。
スダガルト門 Stargarder Tor (1310) 2番目に造られた門で、町の南入口である。高
さ24mの町側の門と高さ18mの前門が建てられ、長さ40mのツインガー壁で両門は繋がれ、税関
の建物がある。前門はゴシック煉瓦造の華麗な2階建てで、西側にLohMuehleナメシ革工場があり
保護壁で守れられている。内側の門には、漆喰・煉瓦・石積・9つのステラコッタがある。
トレップトウ門 Treptower Tor (1400) 町側の高さ32mの切妻のある門から半分の高さの
前門が見渡せる。1873門塔は州で最古の市立博物館となり、今も町の先史時代と初期の歴
史の展示がある。ツインガーは34mで18c南部壁に守衛の木組みの家と関税が置かれ、1856には
第1通信事務所が建てられた。
見張り塔 Ausichts Turm (1905) 高さ34mの角塔で階段を111段上るとTollenseSee
を見渡せる。2次大戦後は軍用地で立ち入りできなかったが、1995改装され登れる。
捕獲塔 Fangel Turm 北側の壁中に立つ3階建ての円塔。
旧市街地は、ほぼ完全に残る丸い市壁と緑地に囲まれ、縦横に街路が区画されている。
4門は前門が残る規模の大きい物もあり、破風が建てられて見事である。また市壁の上の木製
Wiekhaeuserも珍しく、再建されている。また市庁舎は西側の市壁外に在り、マルクトには文化教
育センターがある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 町で最大のゴシック煉瓦造の教会で東切妻は見事で
ある。1298ハーベルベルク司教によって祭壇が奉献された。何度も火災に遭い、1832-41に復元が
なされた。2次大戦では廃墟となり1980に再構築され、コンサートホールになった。鐘楼の鐘は2007
に奉献され、塔には教会の歴史が常設展示されている。
フランシスコ会修道院 Franziskaner Kloster (1250-60) 町の北部に広大な建築複合体を
形成し、16cの宗教改革時に修道院は廃止され、元修道院教の聖ヨハネ・西翼・北翼・東翼が残さ
れた。教会と西翼は聖ヨハネ教会と地区行政機関によって使われ、北翼の石造食堂とレンガ造広
間は2013改修後に町と教会の歴史を展示し、東翼は17cの火災後再建されなかった。
聖ヨハネ教会 St.Johannis(1250)修道院内の石造の教会で14cに今の本堂が建てられた。
16cに修道院は解散され、町は教会を引き継いだ。中には、1598精巧な石灰岩の説教壇・1730
豪華なバロックの祭壇・1700錫や真鍮のシャンデリアなどがある。戦争や火災で幾度か修復された。
定期的に聖歌隊やオルガンの演奏が行われている。
聖ゲオルグ礼拝堂 Kapelle St.Georg (1308) 中世には町外れの街道に3礼拝堂があり、
市門の閉鎖後に旅行者や巡礼者に食事や宿泊所を提供していた。1631ブランデンブルク軍の包囲
時に、他は破壊されたが、聖ゲオルグは十字軍守護聖人に因んで名付られて生き残った。
トレップトウ門の外に初期ゴシックの四角い中央塔の煉瓦造の建物は病院の礼拝堂でもあった。
1994改修後に使用可能となり、音楽・講演会・結婚式場・展示会等に使われている。
四輪水車 Vierrade Muehle(1271)トレップトウ門の前に煉瓦造4階建ての建物と古い3階建
木組みの工場がある。四輪水車の粉挽場は、860mの水路を介して動作した。1925から電気動
力となり、今は施設内見学と文化機関・サービス・教育の分野が入っている。
地域博物館 Landes Museum
Treptwer Tor(1873) 塔の5階に地域の先史時代と初期の歴史を展示。
Vierrad Muehle(2004) 古い水車・昔の町の歴史・市民生活の工芸品・農業・ピアノの展示。
Franziskaner Kloster 歴史的な都市の断面と修道院の歴史を展示。
芝居家 Schauspiel Haus (1775)侯爵アドルフ・フリードリッヒ4世は夏の館を建て、1780に
劇場を構築した。1792侯爵の死後、経済状況から劇場は解散された。1825改修され公園が
再開された。1848病院となり、1894医師が買って運動治療機関とした。2次大戦では病院と
なり、奇跡的に戦禍を免れ1945から放置され、1994に180人の劇場として復活した。
市庁舎 | マルクト広場 |
教会 |
13c中 城と共に独人入植地が設立された、1260市庁舎のあるマルクト広場と4門のある市壁が成立、
1304 水車小屋の設置、 1326 教会と牧師館の設置、 1549 宗教改革後最初の牧師の任命、
14c メクレンブルクの田舎町で1918までその地区にいた。1945赤軍が占領、住民はヴィスマール造船所で働く。
町は、1260に4市門のある要塞都市として設立され、東北部に市壁の残骸がある。
門・塔は見当たらない。
市庁舎 Rathaus (13c) 13cの市庁舎は、1788にマンサード屋根と中央切妻のある2階建漆喰の
簡素なバロックの市庁舎として再建された。
市教会 Ev.Stadt Kirche (13c) ゴシックの3通路の教区教会に始まり、15cには高さ52mの塔が付
けられた。17c説教壇が置かれ、1859と1950に改修された。
水車小屋 Wasser Muehle (1304) 町の水車は粉挽のために貸し出されていた。1905に65馬力
のタービンが設置され、1960には製粉所は国有化されて325Kwhの発電をしている。現在、製粉シス
テムは保管されて博物館となっている。
ハインリッヒ・シュリーマン記念館 Heinlich Schliemann () トロイの遺跡を発見したハインリッヒ・シュリーマンの生活
と科学について展示している。
ナアング風車 Holloender WindMuehle (1910) 町の北西に立ち、翼幅24mの小麦の製粉所。
1991に操業を停止した。
市庁舎 | 市教会 |
市壁 |
1278 村として言及された。 、 1382 ブランデンブルク辺境伯は城を建設、
1349 フェルステンブルク伯爵は町に昇格し都市権を付与、 1575.1619.1633大火災で町は破壊された、
1621 町のために新市民法を作成、 1695 グストロー侯爵家が断絶して継承紛争、
1701 侯爵フリードリッヒ2世はメルレスブルク・ストレリック公国を受け取り、町を首都とし城は王宮に拡大、
1712 城は火災を受け、家族は一時他の町に住んだ、 1736 新ストレリッツに町は移転した、
1775 マルクトの民家を購入し市庁舎と裁判所とした 1815 両メクレンブルクは大公国となった、
1918 ドイツ帝国の終焉、 1934 町は郡庁となった、1945 赤軍が侵攻し戦闘で町の8割を破壊。
町の東南の市壁と門の代わりに象徴的に存続する。
塔は見当たらない。動物園の入口には1824-26建のHirschTorがある。
湖の東に位置し、町の中心の丘の上にある広いマルクト広場から、8本の街路が各方面い伸
珍しい都市計画となっている。町の南側には城のアンサンブルと広い城庭園がある。
市庁舎 Rathaus (1841-43) 3階建ての擬古典主義の市庁舎は、アーケードと柱石玄関ホールを持つ。町
の存続100年と18cからの変化を伝える市庁舎は、大公の贈り物であった。市教会とは向かい
合わせで建築的に相応していた。1891大火災で損傷を受けたが直ぐ再建された。
市教会 Stadt Kirche (1877) ヴィルハイム・ビュッテルは1831に高さ45mの塔をトスカーナ様式で建てた。塔の見
晴らし台からは市内の眺望が素晴らしい。
カソリック教会 Katholische Kirche (1875) 前面に使徒ペテロと聖ポニファシウスの像があり、1944に処刑され
た国際社会主義者の記念碑あり、正面にバラ窓があり、レンガ造身廊の建物である。
マルクト広場 Markt platz (1733) 四角の広場から8本の街路が放射状に伸びている。
城山 Schloss Berg (1727-31) 偽古典主義の貴族の家は2次大戦の終期に壊された城のアンサンブルが見
られる。別の対方向の場所には基礎が残っている。城跡のオルオランジェリィの反対側に劇場がある。
青春の女神の神殿には重要なバロクの中心軸がある。19cに庭園の一部は英国式風景公園に改
造された。見所は、1870王宮厩舎・1891ルイゼ王女の記念館である。
城教会 Schloss Kirche (1855-59) 十字型の単廊バジリカで建てられヴュテルの作品である。明るい煉瓦
で造られ多くのゴッシク装飾がある。中央正門には4人の福音史家の層がある。
最古の家 Altesten Haeyser (1732) ここに最初の市長が住んだ。1820ガストハウスとなり、ここ100年
はカフェとして有名である。
穀物倉 Kornspeicher (11852-53) 港の拡充と運河開通の後にヴュテルは港近くに穀物倉庫を建てた。
建物の明るい黄色の煉瓦は既存の倉庫と区別している。
市庁舎 | 東壁 |
南壁 | 聖マリア教会 |
1170 皇帝フリーヂリッヒ1世の文書に初言及 1225 ハインリッヒ・ヴェルピン2世は都市権を授与、
1226 市場を開設した、 1238-48パーヒム公国の居城であった、
1240 侯爵プリビスロウ1世は町に新市街を設置、 1282 新旧両市街は統合された、
1286-1310 長さ2.7km高さ5.5m厚さ0.9mの市壁を構築、 1377 町は侯爵の城を買収、
1384 町は貨幣鋳造都市となった、 1586 大火災で町の半分が焼失、
1604.1626 ペスト流行、1612 大火災発生 1636-39 30年戦争で人口は1/4に、
1667-88 町はプロイセンに担保占領された、 1806 ネポレオン軍占領で町は最後の大挫折、
1818-40 町は立ち直り上級裁判所開設、 1832 町は民主的な憲章を授与された、
1863 市壁の外に工場建設が始まる、 1867 竜騎兵連隊の駐屯、
1945 町は殆ど生き残った。
1296-1310に新旧市街を含めて2.7kmの市壁が構築されたが、殆ど残っていない。市壁外の
Maltke広場に1863WallHotelが建てられ、今はSporkasseになっている。市壁が残っているの
は、新市街の西に40m、旧市街の東に25m、旧市街の南に25m、合わせて90m。北の城壁は
スラブ砦の名残である。
見当たらない。中世の3市門は1797西のNeuTor、1833.38kreuzTor、1847-48WockerTorそ
れぞれ取り壊されて残っていない。
新旧二つの市街を市壁で囲む町で、それぞれにマルクト広場に教会・市庁舎が立っている。東
にある旧市街の方に雰囲気のある街並みが多い。
市庁舎 Rathaus (1226) 市場を設けると同時に取引の場所を兼ねて煉瓦造2階建ての市庁舎を建て
た。1282新旧市街の統合の後に、旧市街の市庁舎で議会が開かれた。市庁舎広間では、理事
会・市民の会議・高等裁判所の審議・祝賀会・結婚式などが行われ、地下にはワインセラーを持ってい
た。1667地方裁判所と土地高等裁判所が収容され、1669理事会の建物が新築された。1818上
級控訴裁判所が設置されて市庁舎が改築されたが、1840ロストックに移管され市庁舎に戻った。
1993-98に完全に改築された。
聖ゲオルク教会 St.Georgen Kirche (1289) 後期ロマネスクの塔とバジリカがあった旧市街の場所にゴシック
煉瓦造の単塔の教区教会が建てられた。内部には、中世の壁画・1421祭壇・1580説教壇・15c木
彫・19cネオゴシック祭壇画がある。48mの塔には登れる。
聖マリア教会 St.Mrien Kirche (1278) 新市街の中心に立つ、煉瓦造教区ハレン教会である。1310の西塔
はリューベックの聖マリア教会がモデルである。中には1365ブロンズの洗礼盤・1500聖マリア祭壇・15142つ
の鐘と説教壇・1601オルガン・1908後陣の絵画がある。塔には登れる。
モルトケ記念館 Moltke Gedaechtnisstaetz (19c) 元帥モルトケは1800この町で生まれ、1891ベルリンで死
亡した。2階建ての建物にモルトケの故郷と科学的・軍事的な成果を展示する。
錫の家 Zinn Haus (1612) ランゲ通にある古い世俗的な建物で、一時市内巡査の家として使われた。
今は町の芸術と文化の中心として改修された。
靴市場 Schuh markt (1833) 旧帝国郵便局の煉瓦造2階建の建物は1900靴市場になった。
木組みの家 中心部には木組みの家が多く残されている。
1618AlterMarkt2、1612LangeStr.24、1585LindenStr.3、1604LindenStr.6、
1691MuehleStr.38、1588MittelStr.12、1612SchuhMarkt7、1703ApothekenStr.1
町博物館 Stadt Museum (1448) 2階建ての建物に、町の歴史と文化を、雑多な視点か
ら表現している。
粉挽門 | プリンツラウアー門 |
火薬塔 | Kiek in de Mark |
南壁 | 西壁 |
西壁 | 聖マーチン教会 |
1240 ポメラニア侯爵とブrンデンブルク辺境伯との領土紛争、1250ランディン条約でブランデンブルク統治下へ
1354 町はポメラニアが取り戻した、 14c 町は防衛施設を整備した、
14c ウッカーマルクで唯一の町として一時ハンザ同盟に加入、 1535 宗教改革の導入、
1630 帝国軍の占領で略奪され破壊された、 1648 ヴェストファリア条約でスエーデン領へ、
1720 北方戦争の後にプロイセン領ポメルン州となった、 1720 仏ユグノー移民がタバコ産業を興した、
1721 連隊の駐屯地となった、 1945 赤軍の攻撃で町の中心は破壊。
14cの市壁は2.488kmあったが、1945の戦災で壊され4割しか残っていない。
主として北西・南・東に点々と野石の市壁が見られる。
プレンツラーファー門 Prenzlaver Tor (15c) 南、ゴシック煉瓦造3階建てアーチ通路のある門で、
野石の土台の上に建てられた。正方形の塔で高さ25.6m内外側の正面に 縦長のパネルがある。
19cの初めに昔の破風を壊し勾配屋根に置き換えた。門と付属建物は階段で接続される。
1996からは、市立博物館になっている。
粉挽門 Muehlen Tor (15c) 西、ゴシック2階建て煉瓦造の門は野石の土台の上に立つ。
9m*8.5mの土台の上に高さ25.1mの塔が立つ。方形の2階の上に8角形レンガの塔と尖塔がある。
アンクラム門 Anklamer Tor (15c) 北、門跡が残っている。
火薬門 Pulver Tor (15c) 円形煉瓦造の塔で1.8mの胸壁や8角尖塔に多くの抜け穴が
装備されている。高さ27.4mで直径8.0m壁厚さ1085-4.0mあり、火薬庫として使われた。
見張塔 Kiek in de Mark (1445c) 南、下部は石造の四角、上部は煉瓦造円型の塔で
頂上には煉瓦の胸壁と八角形の尖塔がある。下部は4.0mの正方形、全高は20.2mである
壁間小屋 Wiekhaeuser (15c) 最後の Wiekhaeuserは1898に取り壊され復元されてない。
楕円形の街路が旧市街地を囲む2.488km市壁の位置を示し、点々と市壁も残されれている。
町の750年歴史は、大きな建物や門・塔に残されている。
市庁舎 Rathaus (21c) 市壁外に近代的な市庁舎がある。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1176) 町で最古の十字形の教会は、破壊後に花崗岩
の基礎の上にゴシック煉瓦造の破風付翼廊を加えて修復された。1945戦災で塔頂部が壊され
シンプルな勾配屋根が置き替えられた。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (13c) 3身廊の美しいハレン教会で、1984に部分的な破壊が
あり、簡素化された尖塔でコンクリートを使って1989-94に再建された。
聖オットー教会 St.Otto Kirche(1885)カトリックの塔のないネオゴシックの教会。
聖スピルタス病院 Hospital St,Spirtus(1300)古くに設立され、16cに建物は再建された。
今は、老人ホームとなっている。
貧困の家 Elonden Haus(14c)病院としては1563に廃止され、無一文の見知らぬ人へ
の短期滞在や食事を提供していた。
町図書館 Stadt Bibliothek 2階建木組の建物に町と地域の文学と住民にメデイアを収容。
歴史U Historisches U (18c) 文化フォーラムは、元の胸甲騎兵隊の厩舎に収容された。
町博物館 Stadt Museum(15c)元プレツラーウアー塔とその付属建物に、1996に町と地域の
文化と歴史・駐屯地の250年・プロイセン竜騎兵等が展示されている。
地方裁判所 Amts Gericht(19c)正面と側面に破風のある2階建て煉瓦造の建物で、
1905から地方裁判所として使われた。
旧城 | 聖マリア教会 |
南壁 | 北東壁 |
北西壁 |
10c 町はスラブ入植地から生じた、 10-13c スラブの要塞が市湖に見える、
1170 ブローダ修道院の文書に初言及、 1263 最終的に町は今の名前となった、
1263 侯爵ニコライ1世は町の特権を承認、 1274 町には領主の代官が居た、
1291 侯爵ニコライ2世は町に定住した、 1316 ヴァーレ・ギュストローの領土となった、
1414 領主は町をマルツアーン領主に質入、 1414 500年間マルツアンの家系が城に居住、
1560 城に魔女の地下室を設け魔女狩、1558.1725 大火災が発生した、
1826 古い市壁・藪土堤・荒廃した城の記述、1833 大火災で町は焼失、
1945 2次大戦で赤軍が戦わず占領。
中世の市壁は、南側の斜面に400mと北側の旧城北に270mが残っている。
見当たらない。
市湖の北西に位置し、丘に古い木組の建物が立つ小さな町で、北に城があり南に
市壁が残っている。
旧市庁舎 Alte Rathaus 2階建ての旧市庁舎は今は町文化センターになっている。
旧城 Alte Burg (13c) ヴァーレ家の城であったが、1414からはマルツアーンの家族が住
んだ。1560魔女の牢獄を地下に設け、魔女狩りが行われた。18cには荒廃して
住めなくなった。1941には町の所有となり、今は博物館となった。
新城 Neue Schloss (1793) 旧城のすぐ北側に、マルツアーン家が建てた。
聖マリア教区教会 PfarrKirche St.Marien(1273) ゴシックの南礼拝堂から始まり、
3身廊煉瓦造ノホール教会でポーチ・4礼拝室・角石塔がある。1725大火災で被害を受け、塔
は高さを身廊の高さに下げられた。1731再建され、1877-78に修復された。
町博物館 Stadt Museum (13c)旧城の中に、町の歴史・魔女の歴史・中世の城祭
・ヴァルブルギスの夜等の展示や催物がある。
スラブ要塞 Slawen Feste(10-12c)スラブ人は、大きな城塞で集落を守った。
市湖近くに楕円形70mの痕跡と北に160mの円型石壁が今も残る。
市庁舎 | マルクト |
ロストック門 | 聖マリエン教会 |
北西壁 |
1200 ピンプニッツ川を渡る拠点にメクレンブルクの王子は城を築き、メクレンブルク公国の支配下にあった、
1233 文書で初言及、 1322 クラリス修道院をメクレンブルクのハインリッヒ2世が設立、
1815 スエーデン領に属した、 1950 ダムガルテンの町と合併、 1994 北フォアポンメルン地区に組込、
1290の市壁の痕跡は、ロストック門の南側に20m、Am Kroster Teich Str.の南側に40m、
東北のMauerStr.の東側に110mある。
ロストック門 Rostok Tor (1290) 最上階が八角形のレンガ造の4階建の西門は、西
門の跡地に15cに再建された。まず北側の建物が取り除かれ、1930に南側の門屋が取り壊されて、
西門は孤立した。側面にはかってあった建物の跡が付いている。
市庁舎 Rathaus (13c) 始めの市庁舎は1384の火事で壊れ、2番目の市庁舎も
1455に、3番目の市庁舎も1539に、4番目の市庁舎も759の火事で壊れた。その後民家を借りてい
たが1795に土地と建物を買収して改修してその後40年間使われた。1834に古典主義2階建レンガ
造の11窓列の市庁舎が新築された。1912火災に遭い壊されたが、修復して1952にソ連地区評議
会が使用し、1960に中央前面に3角形の切妻が置かれたが、1993-94に元の姿に復元された。
マリエン教会 Maruen Kirche (13c) 後期ロマネスクの3身廊ホール教会が、レンガ造で建てら
れた。14cには東に延伸され、1455の火災で壊され、大規模に改造されて南北に広い門と後陣が付
けられた。巨大な西塔は1455の火事の後に、身廊上のマンサード屋根は1759の火事の後に付けられた。
リーブニーツ修道院 St.Klaren Kloster Ribnitz (1325-29) メクレンブルク・ハインリッヒ
2世の寄付で建設が始まり最初の尼僧は、1329に入居した。カトリックの修道院として1599まで残りプ
ロテスタントの修道院となった。ドイツ琥珀博物館は、修道院と修道女の歴史と北ドイツ彫刻などが展示さ
れている。17c取り除かれ、女性アパートが建てられた。
市庁舎・新マルクト | 裁判所 |
石門 | 療養門 |
門 | 南壁 |
東南壁 | ニコライ教会 |
12c ワルノー川右岸の低地入植地に、スラブ領主の城が建てられた。
1160 サクソン侯爵ハインリッヒは侯爵ニクロードに勝つ、 1167 ハインリッヒは西メクレンブルクを支配、
1218 ハインリッヒ・ボアピン1世は都市権を確認、 1254 西に4番目の独立入植地を建設、
1262-65 町は要塞で統一され庁舎・議場建設、1283 ハンザ同盟の設立、
1325 町はハインリッヒ2世の貨幣鋳造権を授与、 1358 全管轄権を獲得して自由都市へ
15-16c 町議会への反乱が繰り返された、 16c 切妻の家800と醸造所300で繁栄、
1618-48 30年戦争の被害は少なかった、 1688 大火災で町の1/3は焼失、
1700-21 北方戦争でデンマーク・スエーデンが略奪、 1758-62 7年戦争でブランデンブルクが占領
1806-13 ナポレオン軍が占領、 1813 メクレンブルク公国に戻った、
1866 メクレンブルク公国は北独関税同盟に参加、 1940+42 空爆で町の48%破壊。
町は、13cに高さ7m面積1km2厚さ1mの市壁を築き、必要に応じ幅3mの木製歩道が
付けられ、22門の内半分ドックに繋がった。1830中世の市壁の外へ初めて市街を拡張
し、町の防衛施設は大部分取り払われた。堀は17cに埋め立てられ土手道が残った。
市壁にはWiekhaeuserがはめ込まれ、一部には木製の壁上通路がある。1218都市
権確認の銘板が市壁に埋め込まれている。17cにも補強が行われた市壁は、主とし
て爆撃で破壊された。1930石門と雄牛門の間の市壁は、復元された。
クレッペリン門 Kroepeliner Tor (1265) 西、レンガ造の角塔で、内には市立
歴史博物館であったが、考古クラブが入っている。
石門 Stein Tor (1456) 南、今は道路の中央に立ち、町側には紋章と銘板
があり、3階建ての角塔に大きな尖塔が付いている。前門は1949に除却された。
僧門 Moenchen Tor (1316) 北、ゴシックの沿岸門は16cにルネッサンスで再建され
1806に古典的様式2階建て各塔に置き換えられた。上階は住居で使われ、1990-92
に改修された。
雄牛門 Kuh Tor (1262) 南東、ゴシックの4階建て幅8.9m厚2mの角塔で、16c
一次破壊されたが、石門で再建され、1621に住居となり1942爆撃で破壊され、
1984にレンガで復元された。1985からクラブが収容された。
ラーゲブッシュ塔 Lagebusch Turm (1456) 市壁で唯一残った6角塔である。
ランゲン塔とも言われ、今の塔は1577オランダ・ルネッサンスの防御塔で、19c迄刑務所とし
て使われた。
恵まれた地形に早くから港が置かれ、13cハンザ同盟加入しメクレンブルクの領主から
の独立を試みた。その繁栄の地位から、30年戦争や北方戦争では北欧に、その後
ナポレオンにも占領された。町には有名な市庁舎・教会・博物館・切妻の家並みが美し
いクレーペリン通等がある。
市庁舎 Rathaus (1270-90) アーチ天井の2階建ての建物で、地階は商取引に使
われ、2階は宴会場・議会場があった。1484に7つの小塔を屋根に付けた3階建の建
物が新築された。1727バロックのアーケードや前面や祝祭会場が付けられた。2002改修。
聖マリア教会 St.Mrien Kirche (13c) 最初の完成直前の建物は1398に倒壊し
15cに西側に壁塔のある十字型バジリカが建てられた。中には、1290青銅の洗礼盤・
1472天文時計・1720高い祭壇・1577説教壇・1791オルガンがあり、1992-2008大改修。
聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1252) 3廊石造の建物に塔は二重であった
が、14cには煉瓦造3廊バジリカとなり、1500に123mの高塔を付けたが1543落雷で
破損し高さ117mで再建され船の目標となった。1942の空襲で大損害を受け、暫定
改修で礼拝は行われた。1991塔が再建され45mまで登れる。
聖ニコライ教会 St.Nikolai Kirche (1257-1312) 初め野石基礎上にレンガで3身
廊の教会が建てられたが、15c大きな正方形の塔と石の身廊を伸ばした。1945の
空襲で塔と身廊が破壊され、1948仮に後陣が献堂された。1996に再建が始まり、
1971にオルガンが置かれた。今は宗教や文化の集会や演奏会に使われている。
聖十字架修道院 Kloster Heiliges Kreuz (1270) デンマークのシトー会によって
設立された修道院で、宗教改革を1584まで生き延びたが、その後女性修道院に変
換した。今は文化史博物館となり、教会は大学に属し演奏会に使われている。
カソリック修道会 Kathorien Stift (1223) フランシスコ会修道士はここに落着いた。
教育と工業学校として、後に孤児院として使われ、1807-08は仏軍病院となり、
1920からキャサリン修道会や介護ホームとなった。2001再開され地方音楽と演劇大学に。
州会館 Staende Haus (1893) メクレンブルク公国の州事務所として建てた。
歴史主義の赤レンガの3階建ての建物で、中庭・階段・会議室など一見の価値はある。
今は、州の上訴裁判所の本部である。
樹木の家 Haus Baumhaus 残り少ない後期ゴシックの樹木状の家で、1階は柱間
隔の広い樹木状の木組構造で、この通りは特に美しい切妻建築が並んでいる。
大学広場 Universitaets Plstz (1419) 3角形の広場には1419から大学が
置かれ、1870には大学本館が建てられた。この広場には1742にこの町で生まれた
ナポレオン戦争の英雄ゲブハルト・レバーエヒラトの記念碑がある。バロックの旧大公宮殿1750は
ハンザ都市へのメクレンブルク侯爵の滞在を思い起こさせる。反対側の5切妻の建物1986
は調和をとって建てられた。
文化歴史博物館 Kultur Histrische Museum (1270) 聖十字架修道院の歴史
的な建物に、1859に収容された。オランダ絵画・セラミック・工芸品・貨幣・玩具・軍用品等
文化と芸術の収集物と伝統的なハンザ同盟都市の歴史と文化の展示がある。
BSTU記念所 Gedenk Staette des BSTU (1960) オフィスビルに囲まれた家の中
庭にスタージの刑務所1958があり、110人が投獄された。1998州の犠牲者のための
資料センターとなった。
海事博物館 Societaet Rostock Maritin e.V. (1857) ハンザ同盟時代の港
湾施設・多種船模型・造船を展示し、屋上には再軍の潜水艦・魚雷・掃海艇を展示、
地下にはヘルメット・ダイバーがある。
市庁舎 | 聖パウルス教会 |
600 スラブ人が定住、 1160 ザクセン公ハインリッヒ3世はスラブ支配を終わらせた、
1190 スラブの城の周辺にドイツ人の入植地、1232教会の設立、 1300 代官管轄区の中心に、
16c 町は市壁と堀と3門で守られた、 1717 城は取壊された。 1765 大火災でほぼ全焼、
1925 一次大戦後の建築活動活発、 1945 赤軍が占領、2次大戦での破壊はまぬがれた。
16cの市壁は、今のWall Str.で示されている。北側と北東側に僅か市壁の痕跡が残る。
今は見当たらない。Letschower TorとBrueck Torは、18c終わりに取壊された。
水車小屋のMuehle Torは1830に取壊された。
旧市庁舎 Alte Rathaus (13c) 古い市庁舎は、1756の大火事で壊されるま
では、旧郵便局の向かいに立っていた。1780に教会の後ろに建てられた。Raths Session Haus
は、市庁舎として使われ、1865にゴシックに改装されて、今日の外観となった。2007に赤く塗られた。
聖パウロ教会 St.Paulo Kirche (1232)最初からレンガ造の教会としてロマネスクで計
画され、その後ゴシックに移行した。内陣の屋根は1254,身廊の屋根は1260に施工され、塔の中の
木造建築は1459のものである。1840に塔は更新され42mの高い塔となった。塔の鐘は16cと1956
の二つある。1828-9に教会は大規模に改修され、祭壇を含む内装はこの時代のものである。
1589の六面洗礼盤と1560のマドンナ像は有名である。オルガンは1860に造られた。
水車小屋 Wasser Muehle (13c) 13cから水車は稼働していた。1603に2階建木
造の水車小屋は建設され、1763の大火事からは逃れられた。1950まで水車で稼働し、水が不足す
るとディーゼルエンジンを使用した。1950に施設は閉鎖され、水車は取り外され、池は埋められた。
2002建物を改造して美術館が開館し、地元芸術家の作品が展示されている。
庁舎 Amthaus (18c) メクレンブルク侯爵時代の2階建の庁舎は、1945まで地方裁判所
1950-91は図書館となり、今は個人所有である。
古い校舎 Ossenschaeuler (1832) 市内に現存する最古の校舎で牛学校と呼ばれ
裕福な市民が建築資材を調達して建てられた。2003建物は大改修を行って市政の一部を収容した。
薬局博物館 De Olle Apoteik () 小さな薬局博物館は、古典的なドイツの薬局の
起源を示している。古い薬局の家具・道具・薬瓶・秤・薬のコレクションなどが展示されている。
市庁舎 | 市教会 |
市壁・ミューレン門 | 郷土博物館 |
1248 スラブ王フェルストプリビスロー3世が街を設立、 1261 メクレンブルク公国へ組込まれた、
1308.1309 大火災で町は大被害、 1310 ヘンリー2世ライオン・メクレンブルクの居住地、
1450 ペスト流行、1471 町はシュベリーンへ、 1549 メクレンブルクはプレタシュタット公国へ、
1621-1815 メクレンブルク・シュベリーンに属した、 1645.1741 町は大火災で壊滅、
17c 北方戦争でスエーデンとロシアが占領、 1733 帝国軍が町を占領、
1839 現在形で城壁の整備、 1945 赤軍が占領。
14cの市壁は、丘の斜面に立ち、1839に部分的に復元された。北部と東北部に市
壁は残されている。
粉引門 Muehlen Tor (14c) 東の坂の上にあり、30年戦争の1629に壊さ
れ、1839に再建された。市門のアーチは1988に改築された。
パスチナー門 Pastiner Tor (1444) 部分的に市壁が保存されていた。
復元された市壁と格子状の道路網と建物は、1741の大火災の後に美しい色合
の木組の家が建てられ修復されている。市場は2009に改修され周囲は中世の街並
みが囲んでいる。
市庁舎 Rathaus (13c) 古い市庁舎は、1659と1803に改修された。漆喰塗の3階建
チューダー様式で1845に新築され1993に改修された。1575-1913の会議場もまた
1628からは住宅になった。
市教会 Stadt Kirche (1309-22)ゴシックの以前の教会はレンガ造3廊のホール教会で、
14cに北の聖具室を更新した。1746マンサード屋根、1896内部改造、1322の西塔
は1750塔上部のバロックランタン、1810-95落雷でヘルメット更新。
牧師館 Pfarrhaus (18c) 2階建の木組の家で前面の木組装飾は復元された。
住居 Wohnhaus (18c) 石基礎上の2階建の木組の家で、道路側の装飾
的な前面は復元された。
郷土博物館 Heimart Museum () 町で最古の切妻のある平屋の木組の家が、
改修されて博物館となった。14の展示室があり、先史時代と町の初期の歴史
を展示している。地質学のスターンベルクケーキ・過去の生活と台所・元理髪店・古い衣装。
古い時代の博物館 Oldteimar Museum GrossRaden (1999) 450m2の展示場
に自動車やバイクを展示している。地階には自動車や固定式エンジン、2階には
オートバイ生産・原付自動車・スクーターを展示。
考古学屋外博物館 Museum (1893) スラブ遺跡の出土品からスラブの生産や生
活を説明している。衣装・手工芸・宝飾品・宗教・貿易について説明し、ガイドツアーで
も知識が深められる。
市庁舎 | ヴルフラムハウス |
クニーパー門 | 北西壁 |
北西壁 | 西壁 |
1234 独の北方拡大の入植地、 1234 侯爵ヴィツラウ1世の都市権を得て市壁を築く、
1325 リューゲン公国の消滅後にローメルン・ヴォルガストに属す、14c ハンザ同盟の重要な港、
1370 デンマークとの紛争は頂点に、 15c ハンザの衰退後も貿易と造船で生き伸びた、
1525 宗教改革の導入、 1618-48 30年戦争で町はスエーデンの助けで対抗、
17c 200年間スエーデン王国に属す、 1815 プロイセンに属し県庁所在地となった、
1945 空爆を受け赤軍に占領された。
1256に3.1kmの土堤の上に柵を設けた。1320WiekhaeserとFaehrwallのある石
造市壁が完成した。1648スエーデンが市壁の強化を図った。1808-1809ナポレオン軍は市
壁を破壊した。1815プロイセンは市壁や要塞を強化した。1873都市の拡大と交通量の
増で、要塞の解体が始まり1887には殆ど解体が終わった。今でも市壁の一部が住
宅や修道院の外壁を構成し残っている。1980-90市壁の一部を復元した。
13cに10門あったが、今は2門が残っている。
クニーパー Knieper Tor (1304) 最北の門で、南側に道路などが設けれれた。
15c尖頭アーチ門の上に窓のある2階建ての低塔で構成された長方形の建物
であり、内部扉を持っている。名前は13cの住民から来ている。
キューター門 Kueter Tor (1446) 西側の門で、両側は建物で塞がれている。
小さな開口部に2階建ての塔が乗っている。ランタンと急なヘルメットが付いている。
海峡と湖に取り囲まれた良港の交易で繁栄した。ゴシックの煉瓦建築はリューベック
に習った。今は造船と漁業を営む北の寂しい港であるが、ハンザの遺産は多い。
市庁舎 Rathaus (1784) ゴシックの大きく美しい煉瓦造の建物で、地階に
商業活動の場所があり、上階には評議会場がある。6身廊の地下広間は町市場
として使われ、屋台も置かれた。何世紀にわたって複数回の変更が行われ、
1579の火災の後は管理事務所となり、1680瓦屋根に置き替えられた。市庁舎
の中にはライオンホールと客室は一見の価値がある。
カサリン修道院 Katharinen Kloster (13c) ドミニコ会のゴシックの修道院で、ほぼ昔のまま
残された。1317に教会は長さ70m3身廊のホール教会で、14cに拡張再構築され、
15cには天井画が描かれた。1525宗教改革で解散され、建物は町が所有し
て学校・孤児院となり、1924から美術館・博物館になった。今は、文化
歴史博物館と海洋水産博物館となっている。
ヨハネ修道院 St.Johannis Kloster (1254) フラシスコ会の大修道院で、1525襲撃され宗教
改革で町の所有となり救貧院となった。1624火事に遭い1651聖ヨハネ教会
が献堂された。1625東棟は視聴障害者の施設に、1827西棟は貧民の子供の
施設に、身廊は埋葬地になった。1944の爆撃で破壊された。
精霊修道院 Heilgaist Kloster (15c) 東の市壁外に在る1256精霊修道院
の隣りに、ゴシックの教会が建てられた。
聖ヤコブ文化教会 Kultur Kirche St.Jakobi (1303) 初めの教会に1380礼拝堂の
身廊を付け、14c控え壁、1680塔、塔と屋根を補修した。1856-68内外壁の
補修、レンガや石の交換が行われた。1944爆撃で塔と屋根が破壊され1949-89
に全体的に復元され、文化行事に使われる。
聖マリア教区教会 Ev.PfarrKirche St.Marien (13c) 今の教会は1384の尖塔の崩壊
から始まり、1418-73身廊に今の塔が建てられ、その後身廊・翼廊・内陣を改修
し、1478塔は150mになった。この間94年を要して今の姿になった。1651落
雷で塔と屋根が消失し補修したが、1805.1810仏軍占領で内部は荒廃した。
1840-56初期のゴシックリバイバルで再建された。
聖ニコライ教会 St.Nikolei Stralsund (1240) 今の後陣の建設は1330-37の年号が
礼拝堂にある。1447南内陣礼拝堂を追加、1314-18西翼の建設、1366片塔は
完成、1607火災で中世の尖塔は破壊後補修された。1891-1910内装改修。
シーレの家 Scheel Haus (1350) 化学者と薬剤師から名付けられた。切妻付
煉瓦造の2階建ての建物で、酸素の発見者は1742にこの家で生まれた。
司令フスの家 Comandanter Hus (1749) 1815まで町を支配したスエーデン王国の本部
としてバロック3階建で建てられた。所有者が変って今はカフェ・ギャレリィ・レストランである。
ヴェルフラムの家 Wulflam Haus (1350) 中世の大切妻のある煉瓦造の建物で、市会
議員ヴェルフラムが建てた。広間・倉庫・廊下があり、中庭には古くからビール醸造
所があった。1991に復元が行われ、食堂・小劇場・貿易事務所を収容している。
広間家 Dielem Haus (15c) 商人の荷物取扱いのゴシック切妻付2階建て広間で、
1977-79に再建され、今は市民の結構式場である。
船乗会社 Schiffer Compagnie (1488) 町の船乗り50人によって寄贈された切妻
のある建物で、今は博物館として船乗りの写真・船の模型・お土産がある。
独海洋博物館 Deutsche Meeres Museum (1951) 海洋博物館・海洋水産博物館・
水族館から成る自然史博物館は1972カサリン修道院に開設され、海水30万リッター魅
力ある博物館である。
独海洋博物館 Deutsches Meeres Museum Ozeaneum (2008) 港に独最大の展示場
を建てた。バルト海はロックと40の水槽で、水中の旅を表現し、水族館は北海と北
極海の生息物を示し、大プールで熱帯や寒帯を表現し、世界の海・生命に多様性・
海の開発を展示し、レプリカでは26mのシロナガスクジラやマッコウクジラが見られる。
文化歴史博物館 Kultur Historisches Museum (1858) 美術協会が開設し、スエーデン
総督アクレル・ルバン侯爵の寄贈品が基礎となり、1924に旧ドミニコ修道院に収容さ
れ拡張された。
記憶博物館 Museum Speicher (19c) 文化史博物館の分館で6階建ての建物に収容
されている。地域民族の伝統的実用的な家具・家庭用品・おもちゃを展示。
市庁舎 | アンクラム門 |
東壁 | 北東壁 |
13C メクレンブルク・ポネラニア公バルニム1世が町を設立、 1267 初文書言及、楕円形の街路計画、
1322-73 ヴィテルス・バルリ家が支配した、 1433 町はストラスブルク唯一の鋳造権都市であった、
1479 プレンツラウ条約によりボランデンブルクに属しした、 1538 町はアルニム家の領地となった、
1546 町は都市火災に遭った、 1599 新市庁舎の建設、 1602 再度の都市火災に遭った、
16-17c ギルドと貿易の発展で最盛期に、 17c 戦争と1628.1639.1642.1653.1681の火災、
1691 ユグノー教徒が仏から移住、 1945 二次大戦で町に55%は破壊された。
中世のの市壁は、高さ8mまでであり、町の北に250mと東に9mと西南に120mと部分的に残る。
旧給水塔 Ehem.Wasser Turm (1968) 東北の郊外に、高さ36mの給水塔が建
てられた。今はホテルレストランに囲まれている。
町庁舎 Rathaus(1599)1837に建てられたクラシックな市庁舎も1999に改装された。
聖マリエン市教会 Stadt Kirche St.Marien (1250-80) 町の設立時に木製ゴシックの3
通路のホール教会を建てた。聖歌隊と塔の地下室には野石造の古い部分が見られる。1450元の身廊は取
壊され、後期ゴシックのレンガ造の3通路ホール教会が作られ、長さよりも幅の広い珍しい形状となった。1865に
教会多修復され、後陣はアーチ型となり、聖具室が組み込まれた。1935と1990に修復が行われた。
塔は1602に取壊され、1617に再建され、1865に木造の鐘楼と尖った尖塔に更新された。1845にオ
ルガンが設置され、内装は1865にバロックからネオゴシックへ改装された。
郷土博物館 Heimart Museum (1760) 孤児院や学校で使われた建物に、 郷土博物
館が開館した。
市庁舎 | マルチナー門 |
ロストック門 | クラロウ教会 |
6-7c スラブ族が定住、 9c 湖の島に城が築かれ崇拝の場となり、西岸に市場があった、
11-12C 城は何度かデンマークカが支配した後にスラブのヴェルレ家が支配し、入植者を集めた、
1230 ドイツ入植者とヴェンド人の町にヴェルレ家は市憲章を与えた、 1230-50 教会を建設した、
1272 町として認められた、 14c 2市門は前門と本門で構成された市壁が築かれた。
1340 ペスト流行で人口は3割に減った、 1436 メクレンブルクの田舎町となった、
1530 宗教改革後両派の争いでマリエン教会は破壊、 1632 30年戦争で町は壊滅し市壁は破壊、
17c 町は回復し市壁とマルチナ外門を修理、 1700 2回目の大火災で町はほぼ壊滅、
1722 3回目の大火災後に市壁の大分部分は破壊、 1793 4回目の大火災で町の西部は焼失、
1880-1908 市長フランツは経済的文化的発展、 1945 赤軍は無血占領、1990 東西合併。
14Cの市壁は、30年戦争で多くが破壊され、17cの修復されたが、1722に3回目の大火事
で市壁の大部は取払れわれ、建築資材として活用されためほとんど残っていない。旧市壁の内壁の
住宅部分と門の前面は残されている。
14cには、ローストツ門とマルキナ門2門があり、ゴシック正方形レンガ造の外門と正門とで構成されてい
た。17cにはロストック外門はとりこわされ、マルキナ外門は再建された。19cにマルキナ門は刑務所となり19
90には市博物館を収容し町の歴史を展示している。
その他にワレナー通の小さなレンガ造のゲンセ門があったが、19cに取壊された。
町庁舎 Rathaus (13c)1708の町庁舎が老朽化して、1908に取壊され3階
建鐘楼付きマンサード屋根の今の建物が1910にネオバロックで開設された。
聖ペーターとパウル市教会 Stadt Kirche St.Peterund Paul (1270) 北側
の後陣と聖具室のある部分が、教会最古の後期ロマネスクである。15cの塔の高さは38mである。
市庁舎 | 市教会 |
文化財保管庫 | 城 |
1178 漁師の集落が初文書言及、 1243 グローブ修道院に属していた。
1260 侯爵バーニム1世は修道院を設立し交易地には都市権を付与した、 1284 ポラニア公城を建設、
13c 市壁と2門で守られた、 1473 大火事で多くの家屋が焼失、 1540-46 城を4翼に拡大、
1551 厩舎・農場・礼拝堂を含む複合体の完成、 17c 30年戦争で1600人が15人へ、
1648 ヴェストファーレン条約でスエーデン領に、 1720 プロイセンが2百万タラーで買い戻した、
1761 スエーデン軍が占領、 1806 仏軍の占領、 1945 米軍無血占領、 1970 MV州へ。
中世の市壁の痕跡楕円形で示され、残るのはGeoMack-Toefer Str.21と23に僅かである。
身当たらない。
町庁舎 Rathaus(1599)1837に建てられた木骨造クラシックな市庁舎も1992に改装された。
聖マリエン教会 St.Marien Kirche (1473) 始めゴシックの教会は、1766にバロックの平らな
屋根の身廊と、1775のロココの内装、1863のネオゴシックの八角形の西塔がある。
郷土博物館 Heimart Museum (1178) ポラニア侯爵は、 ドーム屋根の丸い天守閣のある
城を拡張し、1546にはルネッサンス4翼の城となった。その後郷土博物館と市政を収容した。
新防波堤倉庫 Neues Bollwerk Speicher()4層寄棟屋根の長方形漆喰の建物。
市庁舎 | アンクラム門 |
東壁 | 北東壁 |
10C 今の城山にスラブの城集落があった、 1115-19 デンマーク王ニールスは城を破壊、
1128 ヴェンド族の侯爵は武力で城を取った、 1140 ポメルン司教文書に城を言及、
1159 城の再構築と町の市場都市計画、 1177.78 デンマーク王パルデマーが侵略、
13c ポメルン侯爵は町に住居を持つ、 13c 独の東方拡大で植民地化された
1240 村として、1267町として言及、 1298 侯爵ボギュラヴ4世はリューベック法を授与、
1475.1688 町は大火で焼払れわれた 1648 条約でスエーデン・ポメルンに所属、
1720 北方戦争で町はプロイセンに落ちた。
15Cの市壁は、町の北東に80mと西のアンクラム塔の南に5mが見られる。
アンクラム門 Anklamer Tor (1450) 西門、4階建てレンガ造の角塔でアーチ門があり、寄棟
屋根が付いている。正面は石膏パネルで飾られ、外側には落し格子の溝がある。
塔には、初期の生活展示・地元画家と写真家の展示がある。
北西のポーランド国境の島にある小さな町で、13cのアンカム門・旧市庁舎・マリア
教会が残るしい町である。
町庁舎 Rathaus マルクトに簡素な2階建ての建物がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1337) 第3の教会として建てられ、唯一現存する教会
である。1475大火災で破壊され、15cの本堂北壁・塔の基部・身廊の窓は残されて
いる。3廊煉瓦造ホール教会で、塔と東側に階段切妻付けられ、身廊は水平木製天
井である。塔は八角形のピラミットヘルメットは1673に付けられ、1699煉瓦の横アーチが崩
壊した。大規模改修は1726-43に行われ、1891-93に今の形への修復が行われた。
4つの鐘は1639に、オルガンは1904に付けられた。
元司教館 Ehme.Pfarr Haus 木組みの家で、教会西入口の向かいに立つ。
新市庁舎 | 来客の宿 |
南壁 | 北壁 |
北壁 | 聖ゲオルク教会 |
1260 入植者の村を今のAltenMarktに設立、 1273 ゲオルグ教会と旧市庁舎の言及、
1292 町は都市権を授与され1331小都市に 1325 新マルクトで町は拡大し市壁建設、
1366 町はミューリッツの漁業権を獲得、 1347-1425ヴァール家の傍系の宮殿建設、
1568.1637.1671.1673.1699 町の火災と30年戦争で、町は大打撃を受けた、
1791-97 新マルクトの市庁舎は今の姿になる、 1806 仏軍との戦いに負けた。
1798-1803.1831-37 エルデ運河開設、 1831-37 ボルダー運河開設で町は栄えた、
14cの市壁は、北GrosseMauer Str.に105mと南Kl.Mauer Str.に70mが、一部更新
れて見られる。
見当たらない。
湖の北岸丘の上に旧市街がひろがる中都市である。坂の道に古い建物が並び
マルクトは賑やかである。復元された木組の家もあり北側の公園には市壁も残る。
旧市庁舎 ALtes Rathaus (13c) 旧マルクトの北東の角にあり、14cの2階建て煉瓦造の璧
厚1.0mの建物が今に残る。
新市庁舎 Neues Rathaus (1797) 今はチューダーゴシックの3階建ての建物で、市立博物館
として使われている。1988に改築されて石膏ランプが提供された。建物の南側
には1920一揆の銃弾穴が残る。今は登記所・市立博物館・展示会場・美術協会画
廊がある。市博物館の上階には、町と市民の歴史と生活の常設展示がある。
2012の初夏には姉妹都市「佐賀」の習字・版画・絵画が展示された。
客の家 Haus des Gastes (18c) 古い木組みの大きな建物で、著名な市民が住ん
でいた。1866-99市長・薬剤師が住み、今は市の観光案内所を収容し宿泊施設も
持っている。
聖ゲオルグ教会 St.Georgen Kirche (13c) 商人や職人のための古い煉瓦造バジリカの教
会で、何度も改造され19cネオゴシックの内装となった。1699の火災で大被害となり、
身廊は再建され窓は興味深い。1857オルガン設置。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (14c) 野石造りの身廊と後陣で構成され、野石の後陣
にはロマネスクの窓スリットが1225の礼拝堂の跡を示している。ゴシック3身廊煉瓦造の身
廊は長方形である。塔は高さ54mで176段の階段で登れる。1790-92火災後再建
された。中には、1530キリスト十字架絵画・1820オルガンがある。
ミュリツオイム Mueritzeun ユニークな外観と形状の水族館で、独最大の淡水魚を収容する。
HerrenSeeのほとりに古代の現代の自然史を展示し、魚のコレクションは美しさと自
然の驚異を示す。
海軍軍事史博物館 Militaerhistorisches Mrine Museum 古い制服・メタル・文書・海軍
の名誉等1千点の展示があり、1860-1945の様々な物件もある。
市庁舎 | 旧醸造所 |
市門・水門 | マルクト広場の噴水 |
博物館 | 税関 |
1229 初文書言及、 1257 メクレンブルク侯爵ヨハンは住居移転、
1259 貿易ルート確保のためハンザ同盟加入、1276 5門・36ヴィークハウスの市壁を建設、
1358 ヴィスマールは宮廷都市となった、 1380 海賊クラウスの裁判記録、
1524-25 宗教改革の導入 1553-55 ルネッサンスの王子裁判所を建設、
1632 スエーデン軍の侵攻、 1648 オスナブリュック和平でスエーデン領へ、
1653 スエーデンは王立最高裁判所を設立 1672-00 ヨーロッパ最大の要塞へ拡張、
1700 火薬塔の爆発後に武器庫を建設、 1717 デンマークは要塞・砦を全壊した、
1757 プロイセン軍が町を征服、 1803 メクレンブルク大公国へ、
1903 スエーデン王国は100年質権を返還し退出、1945 二次大戦の空爆で被害。
1276の市壁は、5門・36Wiekhaeuserを装備した。ヴィークハウスとは、市壁の内側
から壁上に木製の構築物を乗せて、居住させながら見張り・防備を行わせた。
今残されているのは、WasserTor付近に僅か0.23kmである。1869市壁の撤去。
市壁の外側には堀を巡らせていたので、市壁門から堀を渡る橋の外側に
前門が置かれ、側面も壁で守られていた。
水門 WasserTor (1450) 5市門の内、港の門として唯一残った。アーチ門
上に屋根付の正方形の塔が乗っている。1600に改造された3つの床には、狭
い明り取りの開口部がある。前面には階段切妻に白い6本の帯が見られる。
古水塔 AlterWasserTurm (1685) 防衛塔を改造して給水塔に転用し、
馬力駆動のプラントとして圧送した。1715に包囲され、木管を結び付けて送水
した。1897からネオゴシック四角塔になった。
ハンザ同盟都市として繁栄したが、30年戦争で衰退し、1648-1803和平後
スエーデンの支配下に置かれた。19c末にようやく貿易や工業化が進められ、
復興期迎えた。旧市街の至る所に修復されて人目を引く建物があるが、修
復を待つ建物もある。2002ユネスコの世界遺産に登録された。
市庁舎 Rathaus (1817日-19) 古いゴシックの建物の左翼が崩壊し、新古典
様式で長い2階建の白い庁舎が建設された。
市庁舎地下 RathausKeller (19c) 市庁舎の地下に、市の歴史の常設展示
がある。
マルクト広場 Markt Platz () 北ドイツ最大規模100×180mの大広場で、オランダ
ルネッサンス1602の噴水が見られる。広場を取り巻く切妻の家々の建築年次
・様式は様々である。
カールシュタット本部 Karstadt (1811) 市庁舎の裏にデパート・カールシュタットの本部が設立
され、今の建物は1908に建てられ、1931に再建られた。歴史的階段と
小博物館は一見の価値がある。
老スエーデン Alter Schwere (1890) 最も古い市民の家で、ゴシック赤レンガ
の建物で、今はレストラン。
聖母マリア教会の塔 Marien Kirche Turm (19c) 巨大な3身廊の教会は、二次
大戦で損傷し、本堂は1960に爆破され、高さ80mの西塔1450のみ残され
た。仕掛け時計は、12.15.18.時に鳴らされる。
聖ゲオルク教会 St.Georgen Kirche (1290-15c) 旧市街地の南西部に後期ゴシック
のドイツ北部レンガ造の巨大な身廊と翼廊の教区教会であった。二次大戦の
空爆で大破し、再建は東西ドイツ統一後になり2010に予備的完成した。
西塔の展望所には、リフトで登れる。
聖ニコラウス教会 St.Nikolai Kirche (1381-1487) 船員と漁師のバジカとして人工
水路に3連の大聖堂を建てた。レンガゴシックの中央身廊は37mと高い。
破壊された2つの教会から調度が集められ、バロックの内装に13c洗礼室、
16c祭壇がある。今はプロテスタントの教区が使用している。
聖霊教会 Heilige Geist Kirche (14c) ゴシックの長方形ホール教会。古い部分
も含め15cに今の姿になった。天井は木製で1687バロックの天井画が旧約
聖書から描かれた。病院と老人ホームを併設した。
助祭の家 Archidiaknat (1450) レンガゴシックの建物は、二次大戦で壊され北
側切妻と豊かな構造で再構築された。
領主の居城 Fuerstenhof (16c) メクレンブルク侯爵家の居城で、二つの直交した翼
で構成されている。古い西翼は1512-13にゴシックで建てられ、1553-55に
新翼はイタリアルネッサンスで豊かな石灰彫刻やテラコッタで飾られた。1648スエーデン領と
なり、裁判所が置かれた。1653-1802はスエーデン北ドイツ最高裁判所であり、
今は地方裁判所になっている。
武器庫 Zeughaus (1700) 古い武器庫が落雷で爆発した後に、スエーデンは新しい
武器庫をバロックで建てた。二重支持材構造で60×15mの床は支持された。
ワイン園 Zum Weinberg (1575) ワイン商人が1648以降使用した、塗装天井の梁に
1648の年号がある。ブドウ園ホールは面白い。
市庁舎 | 門塔 |
空腹塔 | 塔 |
西壁 | 西壁 |
北東壁 | 聖バートロメ教会 |
1150 ザクセン貴族は城を築いて入植者を守った、1201 ヴィッテンブルクが戦勝した、
1226 皇帝フリードリッヒ2世は取引を自由化、 1230都市権を与えられた、
1282 ヴィッテンブルク郡庁となり、侯爵の下に70年間貿易の全盛期となり要塞も構築、
1319 自治体憲章を制定。 1358 メクレンブルク侯爵に町は買収された、
16c 鉄の精錬と加工の産業を興した、 1629-30 疾病の蔓延と30年戦争の略奪、
1642 クロアチア人が来襲し定住した、 1657.1679.1726 町を大火災が襲った、
1735 町はブラウンシュバイク公国リューネブルクと誓約し、リューネブルク占領軍は33年間留った、
1768 こ町の部分は百万ターラで買い戻された、1806ナポレオンの占領で苦しんだ、
19c 町は技術の進歩で産業を振興、、 1945 米英軍に降伏後 赤軍が占領。
13-14cの市壁と城壁は一部に残り、土堤はしっかり残っている。
北側に40+20m、南東に110m、役所山の下に70m、合計260mが残る。
門塔跡 TorTurm Ruine (14c) Amtsbergの四角い門塔は、1998に野石
の上にレンガ造で復元された。見張り階の上には平屋根がある。
空腹塔 Hunger Turm (13c) 西南、煉瓦造の円塔で監獄として使われた。
塔 Turm 南 4階建て煉瓦造角塔。
塔 Turm 北東隅、3階建て煉瓦造角塔。
広大な緑の中の旧農業の小さな町で、マルクトは異なる世紀の建物で囲まれ
チューダーゴシックの市庁舎がある。南にはオランダ風車が復元木骨納屋(レストラン)
と共にある。
市庁舎 Rathaus (1852-53) 両側に角塔のある3階建ての表階段のある建
物で、1996に改修された。
聖バーシロミュー教会 Kirche St.Baetholomuehle (1240) 初期ゴシックの煉瓦造
3廊ホール教会で、後陣は一つである。1909に67mの塔が西正面に置かれた。
中には、1342青銅の洗礼盤・1666木製説教壇と墓銘板がある。
オランダ風水車 Erdhollander Windmuekle (1890) 焼けた工場の基礎の上に
再建された水車である。隣に復元された木骨納屋はレストランになっている。
役所山博物館 Museum auf den Amtsberg (1848) ヴィッテンブルク役所の位置
に、新古典の建物に小麦粉の袋博物館がある。110か国1600年からの
小麦粉の袋が提供され、1990から展示されている。隣にはヴィッテンブルク
博物館があり、町の歴史・古い習慣や伝統を展示している。
聖ペトリ教会 | 北西壁 |
北壁 | 東南壁 |
南壁 |
1236-50 入植地の基盤が置かれた、1271 町の紋章にブランデンブルクが付く、
1292 結婚でメクレンブルク領になった、 1298 町は市民権を与えられた、
14c 楕円形の町は3二重門・壁塔・Wiekhaeuseren・土堤・堀のある市壁を野石で築く、
1587 風車を製粉のため設置、1635に4基、1745に追加して7基、1859-93置換か除去、
1701 町はメクレンブルク・シュトレリッツ公国に帰属、 1763 正方形中央に市庁舎は在った、
1945 2次大戦で町の70%が破壊された。 1952 メクレンブルク・フォアポンメルン州に属した。
1260-70 市壁は、1305石壁に置換えた、1761七年戦争で一部破損、
1830-50市壁1.442kmの再建、1990-95市壁の体系的補修、約710mは改修されている。
14cには3二重門と多くのウィークハウスがあったが、今は見当たらない。
市内には、6風車があり、内3基はカフェや博物館となって見学できる。
ブッデシェ風車 Buddesch Muehle (1883) 博物館、内部はほぼ完全に保存1993改修。
エーレッチェ風車 Ehletsch Muehle (1886) 観覧風車、内部は完全に保存。
ウィンデ風車 Wind Muehle (1859) カフェとして使われている。
ゴットフンスカッフ風車 Gotthunskap Muhle (1895) 家屋に改造され陶器工場。
クライエンブリングシュ風車 kreianbringsche Mukle () 壊滅。
フレールケシュ風車 Froehlckesche Muehle () 海風車。部分的に機材が残る。
市庁舎 Rathaus (1378) 最初の市庁舎は、1547の火事で全焼し、1763からの2番目
のバロックの市庁舎は中央市場の真ん中にあったが、2次大戦で壊された。
聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1250) 北独風の野面石のゴシック教会であり、
本堂北の塔基礎・聖歌隊・花崗岩の入口は石造で現存する。1442には煉瓦造3身廊
ホール教会で再建された。1901-02徹底的に改修だれた。1945戦災で破壊され、1954
簡素化された天井と塔で礼拝に使われた。2006-07に床・天井・塔が改修され、塔
頂は銅版で覆われた。
元税関 Zollhaus Goehron (1866) ブランデンブルクとメクレンブルクの国境に税関と
して構築された。1945住宅・事務所・郵便局として使われ、1980保育所になった。
2006町が購入し改装して、展示場と記念館となった。
市庁舎 | 歴史博物館 |
聖ペトリ教会 | 新市庁舎 |
市壁 |
1200 修道院が入植者を呼び込んだ、 1250-59 最初の都市権が付与された、
1295 ポメラニア公国の本拠地として侯爵の城を建設、 1512-1605 ポメラニア公国ヲルガスト家の本拠地、
1648 和平条約でスエーデン王国へ割当、 1675 ブランデンブルクの侵攻、1713 北欧戦争で町は全焼、
1718-24 町は後期バロックの建物で再建、 1815 200年のスエーデン支配が終わりプロイセンへ、
19c 倉庫と商社が建てられ20隻以上の商船を保有、 1945 2次大戦は無傷で終わり米軍が占領、
14cのレンガ造市壁の残骸は、①Ander Stadtmauer 66m、②Am Lastwall 80m、
③OberWallStr 70m復元、④Am Fischmarkt 20m。
火薬塔 Purver Turm (14c) 南東角に市壁と共に八角形の火薬塔が2013に復
元されて立っている。
町は、1718-24に多くの後期バロックの建物で再建されている。
歴史的市庁舎 Histrische Rathaus (14c) ゴシックの2階建レンガ造の市庁舎は1718
-24にバロックの漆喰の建物となり、1780には3軸の切妻とランタン搭のある前面となった。
2000に改修。
屋根裏部屋のある新市庁舎 Neues Rathaus mit Speicher (1713) 4階建漆喰の
マンサード屋根の建物。1998に都市開発資金による改修。
聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1280-1350) 始めゴシックのレンガ造で建てられ、15c初
1727の八角形めに3通路4湾の大聖堂となった。1716-27に火災後に復元された。
ゴシックの残る南壁、の頂上と1920のテント屋根のあるゴシックの塔が残る。地下室には
ポメラニア侯爵の1560-78の墓がある。
郵便局 Postel (1855) 2階建レンガ造の階段破風が4隅建物。今はホステル。
住居 Wohnhaus (16c) ブルク通9にある古い住宅。
住居と博物館 Wohnhaus und Museum (1660) 3階建木骨造ダッチゲーブル構造の
漆喰仕上げの建物で、1840にレストランの改築られ、1955に郷土館、1982に市歴史博物館
となった。1995に改修され外観からコーヒーミルと呼ばれた。
風車 Windmuhle (18c) 町の北西にオランダ式水車が残っている。
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
市庁舎 | フィラー市壁塔 |
南壁 | 東壁 |
1214 ヒルデスハイム司教の文書に初言及、 1220-58 皇帝フリードリッヒ2世は都市権授与、
1258 町としての文書言及、市壁開始、 1315 都市権はダッセルの町に授与、
1358 アルフェルト司教の城が言及、 1426 ハンザ同盟に加入して町は繁栄、
1519-23 ヒルデスハイム紛争の後ボツフェンビュッテル公国の支配下に、1624 30年戦争で疲弊、
1643 ゴスラー単独和平後ヒルデスハイム司教区に回帰、1803 プロイセン、ヴェストファーレン王国へ、
1815 ウイーン会議でハノーハー王国へ、 1846 大火で町の半分は焼失、
1945 1945 2次大戦の被害は無かった。
13cの市壁は、1770に解体が始まり、18cの終わりには大部分が壊され、19c後
半には殆ど無くなった。
当初の市壁には4門あったが、今では残っていない。
フィラー塔Filler Turm (14c) 石灰岩と砂岩で造られた3階建ての四角塔で、高さ22.32m、
7.10mの正方形である。蔦は1907に植えられた。名前は近所に住んでいた人の名
前である。今は1995博物館となり、地域の歴史と文化を展示。
堀に囲まれ、木組みの家が多い中都市で、3階建ルネッサンスの近代工場1911の
「ブナ工場」は世界遺産に認定されている。ヴェーザールネッサンスの市庁舎・ルネッサンスの
木組みの市博物館(旧ラテン学校)等の建物は美しい。
市庁舎 Rathaus (14C) 元のゴシックの建物は、1584-86にヴェーザールネッサンスの3階建に改修
された。印象深い前面には八角階段塔と装飾出窓があり、西面にはゴシック階段
状の切妻がある。
聖ニコラス教会 St.Nicolaus Kirche (1205) 外陣と2身廊はゴシックであるが、残りの部分
は元からのロマネスクの建物である。西塔は1488に付けられた。13c勝利の十字架
があり、1542新教の教会になった。
木組みの家(FachwerkHaus)
旧ラテン学校 Alte Latein Schule (1610) 印象的なルネッサンスの建物は、多くの絵画で飾ら
れている。文法・弁証法・音楽・数学・天文学の表示がある。今は地方歴史博物館
として町の発展の歴史についての展示がる。また外来動物博物館もあり。1930
年代の収集物を展示している、
惑星の家 Planet Haus (1608) 3階建ての木組みの建物の前面に建築年号・7つの惑星・
五感の絵が見られる。薬剤師の象徴的なユニコーンの絵もあるが、薬局の存在証拠は
ない。
市民の飲屋Buergerlich Kneipe (1554-56) 木組みの2階建ての建物で、靴屋のギルド
の家と宿泊所であった。
市庁舎 | 北壁 |
南壁 | 僧院 |
修道院聖堂 |
852 ザクセン侯爵ルドルフは修道院を設立、9c ゲオルグ教会の場所に商人が定住、
990 オットー3世は市場・舗装・関税権を授与、1300 ブラウンシュバイク侯爵は城を建てた、
1329 市民は修道院から権利を買取った、1568 ブラウンシュバイク侯爵は宗教改革導入、
1570 予備段階の大学はヘルムシュタットに移転、1713-66 修道院はバロック化された、
1803 修道院の独立性は失われた、 1810 修道院長の死後に財産は王国に、
1833 グランダースハイム郡を設置し郡庁に、 1878 温泉が開発され温泉治療開始。
南に15m+60m、北に80mの市壁が残っている。
見当たらない。
昔は修道院の町として発展し、歴史的な木骨造の建物が残り、マルクトは木
骨造の建物で囲まれている。近年温泉の町となった。
市庁舎 Schross Ahaus (1584-86) 1580の火事の後に旧モーリッツ教会の塔や元計
量所と階段を含んでルネッサンスで建て直された。1952市博物館が置かれ、町
の歴史的文書や記念物を展示している。
大聖堂 StiftsKirche Dom (856-881) 早期ロマネスクの東に翼廊のあるバジリカで、
西面はどっしりした2塔式の壁がある。最初からのオットー王家の地下聖堂に
15c側面礼拝堂がある。中にはザクセン侯爵ルドルフの墓標・ザクセン.マイニンゲンの女
子修道院長エリザベスの大理石の石棺・青銅浮彫の扉・ロスヴィッタ窓がある。
大修道院 Abtei (1597) 旧大修道院は、ヴェーザールネッサンスの美しい建物で、大火
災の後に1713-66女子修道院長エリザベスによって再度バロックで新設された。
皇帝広間は設立者エリザベスの領主宮廷の証明である。バロックホールの飾りとし
て35皇子の肖像画が描かれている。修道院は1810に溶解した。
城 Burg (13c) ブラウンシュバイク侯爵の一時的な居城として建てられ、1530改造さ
れた。今は地方裁判所と刑務所である。
選別 Bracken (1690) 最も古いニーダーザクセン風の豊かな装飾の木組みの家でマルクト
広場にあり、今はブラウンシュバイク地方銀行の営業所になっている。
修道院教会クルス KlosterKirche Clus (1123) 旧ベネディクト会修道院の敷地に在る
聖堂であり、1487のゴシックの彫刻祭壇がある。1977からオルガン演奏会開催。
修道院ブランスハウゼン Kloster Branshausen (852) 783の町が誕生した場所に立ち、
最初の修道院会議の場所。色々と使われた後に 1989文化センターになった。
聖ゲオルク教会 St.Georgs Kirche (12c) 最も古い木組みの教区教会で、木製農
家風の後陣がある。1676内部の整備がなされた。
旧市庁舎 | マルクト |
農家兄弟の城 | 市教会 |
切株搭 | カッツェン搭 |
新市庁舎 | 市壁 |
1036-51 パーダーポルン司教はアブディンホフ修道院にウフロン集落の塩鉱を贈呈した、
13c 集落のザルツホフに製塩所が建設され、利益の多い塩の生産で町に発展した、
1488 リッペのベルンハルト7世は都市の権利を授与、白い黄金として塩を貿易して繁栄、
15c シュテンベルク伯の塩交易で町は発展し、4門の市壁や装飾豊かな民家を建設、
1545-47 豪華な石造旧市庁舎を建設、中世に資金難にならなかった都市の一つ、
1817 医療顧問のハッセ博士が浴場を開設し、スパタウンへの転換が始まった、
19c 3飲泉・3温泉スパ・3塩泉源のリッペ侯爵温泉都市へ、枝状架装置の呼吸器治療、
1914 ザルリュフレンはバートの称号を遅れて得た、20c 大戦を些少な被害で切り抜けた、
1934 市はレムゴ郡に編入、1969 州再編で統合されバート・ザルツウフレン市へ。
15cの市壁は、4門と3見張塔があり、西は壁通り東は塔通りの位置に、僅かに
残されている。
4市門は、北にシュリーブシュタイナー門・北東にヘスカンバー門・南東にオスター門・西にヘルフォルダー
門・があったが現存しない。3見張塔の内 東側の猫塔は現存する。
猫塔 Katze turm (1300) 大口径の石造円塔で、円錐屋根に見張窓が付いている。
中世に繁栄した魅力的な中心部には新旧が調和し、広い歩行者ゾーンには古い旧市
庁舎・市教会・美しい木組の家と新しい店舗・レストラン・カフェが融合している。街の中央には緑の
サルゼ川が流れ、パーラー・ザルツホフでは、塩の歴史を説明したいる。
旧市庁舎 Alte Rathaus (1545-47) 行政と町の権威を、示すため、階段切妻2階建の豪華なルネッサンス
の強大な石造建築である。酒場・宴会場・舞踏会場・裁判室・協議室・消防器具庫・消防用爆薬庫
・十分の一税庫などが、一つ屋根の下に詰まっている。前面の3装飾石(市章・バラ・星)は、
その後掲げられた。正面入口の階段は、1853に付けられた。
改革派市教会 Ev.Refermierte Stadt Kirche (15c) 旧市街地の高台に建てられた中世後期の教会
は、火事で身廊が焼失して、1762再建され、1892には大規模な改修と増築が行われた。身廊
の前にある単塔は後期ゴシックで、1782ボンネット屋根は付けられた。1765説教壇が有名である。
市教会の近くに、1928階段破風の漆喰塗りの集会場が建てられた。
ルター派救世教会 Ev.Luth.Erloeser Kirche (1891-92) 歴史主義的なネオロマネスクで建てられ、1908-09
に塔を含む西側の拡張が行われ、1939にも更に拡張された。
カトリック聖母教会 Kath.Frauen Kirche (1956-59) 平和の女王聖母マリアに捧げられ、山形屋根の長方形
にの塔に特徴のある大教会である。
シュティーテェンクロン城館 (18c)南のシェトマール・ミッテの城館庭園内に、2階建の貴族の館として築かれ、今は音
楽学校として利用されている。
木組の家 Fachwerkhaus(16-17c)
ラング通り1-5 切妻2-3階建の木組建物群。年号の銘がある:1番地1625、3番地1590、5番地1650。
ラング通り33 大切妻3階建の建物で、豊かな彫刻や出窓の張出がある。1612の銘がある。
ラング通り37 張出窓のある木組切妻建築で、1623の銘がある。
ラング通り41 1618建造のオーパーマイヤーの館。豊かな彫刻を持つ前面は19cに改装。土間にはルネッサンスの暖炉。
アム・マルクト17 完全な3階建の木造建築で、1658の銘がある。
オーペレ・ミューレン1 切妻木造2階建のバックス邸は、町で最も豪華な木組の建物。
オスター通り40 1571の銘のある3階建の切妻建物で、1747に改築された。
リッター通り6 16c後半の3階建木組の建物、今はホテル:アルミニエス。
ヴェンケン通り8 持出し3階建切妻の建物で、1631の銘がある。
石造建築 Steinhaus(16-17c)
アム・マルクト5 旧市長邸、市庁舎と向かい合い1564建造され、1580切妻に改築された。
アム・マルクト36 1600頃に建てられた石造建物の前面は1860/70に改築されバルコニィーが設けれれた。
リッター通り8 16cに建てられた建物は、1900年頃に改築されて恰好が悪くなった。
シューテーグ2-4 1604に建てられ、地階だけが石造で上階は彫刻豊かな木組である。
ヴェンケン通り10 1520建造の地階石造の建物で、レンガ埋込の格子状の装飾がある。
市庁舎 | 博物館・市壁 |
ヴェルダー男爵像 | 聖ニコライ教会 |
960 ケムナーデ修道院が島に設立、 1245 ハインリッヒ2世は修道院から集落を買った、
1284 町として初言及、 1287 都市圏を授与、 1289 ヴェーザー川に橋を架けた、
1340 ホンブルク・ボードン家の荘園成立、 1340 市壁と塔による防御施設を建設、
1409 ホンブルクの絶滅後ブランズウイック・リューネブルク公国に属した、 1418広い森林を取得、
1521 カレンバック公国エーリッヒ1世支配下に、 16c末ミュールハウゼンのスタティカスは領主の館建立、
1750 ミュンヒハウゼン・ヴェルダー男爵は軍を退役して町に住み、軍事冒険談を語った、
1814 ハノハー公国に属した、 1866 ハノーハー王国の併合によりプロイセンとなった。
1340の市壁は。殆ど残っていない。Corvinus Gasse の西側にU字型の砦が
あり、13cの防衛施設の残りである。
粉挽き門 Muehlen Torturm (1300) 北のMuehlenTorに中世の門塔が在
る。1948までここに旧市街への二つの通路があった。
塔 turm (1300) Im Hagenの東側に塔が残るが、何かわからない。
ほら吹き男爵ミュンヒハウセンの町として有名で、木組みの家が残されている。
生家の前の公園には男爵が上半身のみの馬にまたがった像がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (16c) 1797に故人となったミュンヒハウセン男爵の領主の館を、
1938に買収して市庁舎として使った。今はミュンヒハウセン博物館である。
聖ニコライ市教会 StadtKirche St.Nikolai () 。
聖ゲトルーディス礼拝堂 Kapelle St.Getrudis (1407) 1410礼拝堂は奉献され精霊病院の
ために使われた。今は古い建物に市の芸術家のアトリエ・展示場である。
ケムナーデ修道院 Kloster Kemnade (960) 村の名前の修道院がヴェザーの2人の娘によって
建立された。1140コルベイ修道院に管理権が移され1168所有となった。1146ロマネスク
の3廊柱バジリカの聖マリア教会が献堂された。30年戦争で双塔と一部身廊は壊された。
木組みの家 Fachwerk Haeusen 旧市街には多くの木組みの家が残り、Homberger通
りの木組みの家は特に美しい。
ミュンヒハウセン博物館 Muenchhauzen Museum ミュンヒハウゼン男爵の住んだ館は、今はミュンヒハウセン
博物館となり、男爵の歴史や持ち物の他、700年間の本がある。この館は1603-09
領主の館として建てられ、1720-97ミュンヒハウセン男爵が住み、1938町が買収して市庁
舎として使った。その他NebenGebaeudeとSchulenburgにも博物館。
市庁舎 | エヒテル通り |
ダンクヴァルデローデ城 | ブルク広場 |
大聖堂 | ティルの仕掛け時計 |
1031 ハルバーシュタット司教の奉献帳に初言及、1144ザクセン侯爵ヘンリー・ライオンは居城 建設、
1160-75 王宮・市場の建設.市壁と堀の補強、1245 ハンザ同盟加入、ギルドの伸長、
1380 貴族支配で除外されたハンザに再加入、 1386 憲法改正でギルドの支配確立、
1493 侯爵の征服は市の財政支出で回避、 1531 宗教改革でシュマルカルド同盟に、
1564-13 市の補償金と帝国法人税の抗争、 1666-04 市内を包囲して占領、
1669 ハンザ同盟の最後の会議に出席、 1731 ブランズウイック大公は王宮・道の建設、
1806 イエナの戦いでザクセン軍の敗北、 1813まで 仏軍の占領、
1830-84 侯爵ビルヘルムは砂糖・缶詰工場振興、 1885 プロイセン公アルバートは摂政に、
1918 ブランズウイック社会主義共和国に宣言、 1930 ナチスの時代、
1940-45 40回空襲で旧市街の90%破壊。
1195町は大方形成されたが、南西部は市壁外であり、ハーゲンは別の市壁を持
っていた。13c前半に北西の入植地を含めて一つの円型の市壁と8門になった。
オットー4世は市壁を拡張強化し12門とした。18cから市壁は取り除けられ、今
は、北西100m、西南端20mの二重壁しか見られない。
中世には強い防御施設で守られ、幾つかの包囲に耐えた。例えば西のHohes
Torは、1255に造られた二重門で落とし格子と跳ね橋を備えていた。その後刑
務所を務め、老朽化で1788に取払れたが、路面には門の位置が示されている。
Echtern Str.の西に、StadtmauerTurmとWehrTurmの基礎が残っている。
ハインリッヒ・ライオン公の居住地となったこの町は、ハンザ同盟に加入して繁栄し、2次
大戦で多くは破壊したが、歴史的建造物の多くを再建修復して美しく雄大な景
観を見せている。金持ちは13cから石造の建物を建てたが、木組みの家も早くか
ら石の地階の上に枠組みを置く工法で耐久性を増し、14-15cの木組みの家も相
当存在している。
旧市街市庁舎 AlteStadt Rathaus (15C) 中世2階建ての旧市庁舎は直交する二
つの棟で構成されたゴシックの建物である。地階は開かれたアーチであり、その上
に15cの煉瓦のキャレクターのあるバルコニーが乗っている。今は町の歴史の展示や展
覧会などの催し物が行われている。
市庁舎 Rathaus (1894-1900) ネオゴシック3階建ての大きな建物で、窓の形が各階
で異なり、南西の角には高さ61mの塔があり、161の階段で登れる。市庁舎
の前に、統一記念日の2010年10月に、ベルリンの壁の1ブロックが置かれた。
ダンクヴァルダーローデ城 Burg Dankwarderode (1175) 侯爵ハインリッヒ・ライオンの居城であ
った。今の建物は1887に考古学的調査に基づいて再建された物である。
ライオン城 Burg Gloewe (1166) 城の前の高い台座の上にロマネスク彫刻の大きなライオン
が乗っている。かっては金色の青銅鋳物は、ハインリッヒ・ライオンの力と統治の象徴
として建てられた。このオリジナルは城の中に在る。
王宮宮殿 Residenz Schloss (18C) 2次大戦で大被害を受け、1960に除去され
た。2007古地図と写真から600以上のパーツを組み合わせて元の大きさで復元
された。今は市立文書館・市図書館・文化研究所として使われている。
聖ブラジウム大聖堂 Dom St.Blasii (1173-95) 聖ブラジウス元参事会教会は、今は
新教ルーテル教会になった。初め3身廊のバジリカとしてパレスチナ帰りのベリー司教に
よって建てられ、その後何回か拡張・再建された。大聖堂には、ハインリッヒ・ライオン、
ドイツ皇帝オットー4世の墓がある。中には、1188聖母の祭壇・1170七分岐燭台・12c
ハインリッヒ・ライオンとマチルダの墓の木彫十字架等が在る。
聖マティーニ St.Martini (1198) 旧市街庁舎マルクトに貴族と商人のためのロマネスク3身
廊柱バジリカの教会を建てた。1250-1400ゴシックのホール教会となり、1400内陣と
アンネ礼拝堂が建てられた。その後ロナネスクの鐘楼と通路側の入口が付けられ、
西棟が建設された。中には、15c洗礼盤・17c説教壇などがある。
聖マグニ St.Magni (1031) 古いマグニ荘園の小さな教会であった。1252教会ホールの
再構築が始まり、1447改修され、1945空爆で内陣と西棟を残して壊され、
1956再建された。
聖アエギディーン St.Aegidien (1115) 旧ベネディクト会修道院教会は、今はカトリック教区
ノートルダム大聖堂聖アエギディーンとなっている。元のロマネスクの建物は1278に焼失し
初期ゴシックの大聖堂となった。宗教改革後1542地区のルーテル教会となり、1811
倉庫・会議場・博物館などに使用だれ、1945にカトリックの教区教会となり、修道
院の客室は郡刑務所となった。
聖ミカエル St.Michaelis (1157) 旧市街南西部の低階級居住地に、住民により単
身廊の教会が建てられ、貧者や外部者の埋葬場所となった。14cゴシックのホール
教会を建設した。
聖アンドレアス教会 St.Andreas Kirche (1230) 初めロマネスクの柱バジリカの教会は13c
ゴシックのホール教会になった。15c北と南側に切妻が付けられ、1528ルーテル教会と
なり、1544南塔は122mになった。1680火事の後に塔頂はタマネギ頭となり、
1944の空爆被害で壊れた尖塔は復元され内装は一新された。
ハンザの家 Haus zur Hanse (1567) 商館や住居として議員によって建てられた
美しい木組の家。梁には波の彫刻があり、1869前面はルネッサンス初期の様式
に変更された。
Fachwerk Haeuser 木組みの家
古い木骨造家通り Alte Knochen Hauser Strasse 2-3階建木組の家並
No.11 (1470):持ち送り梁・階段ゴシッくの窓飾り。
No.12 (1490):ゴシックの階段装飾帯・1740の扉。
No.19 (1489):模様で飾られた持ち送り梁・ゴシックの階段装飾帯、垂木の頭模様。
本物通り Echtern Strasse 古い2-3階建ての木組みの家
No.14 (1559) 説教師未亡人の家、碑文に建設年次、地階は傾きがある。
No.16 (18c) 18cの漆器工場、今は市博物館として漆器Stobeasserのコレクション。
マグニ教会の背後通り Hinter der Magni Kirche 移設された木組の民家
No.1 (1500) 1916ここに移築された、1645に3階部分と屋根は付けられた。
No.4 (1559) ゴシックの垂木の頭、側面持ち送り、銘帯角材、コーンマルクトから移設。
マグニ地区 Magni Viertel 歴史的な木組みの家が多く美しく保たれた。
Herrendorftwete am magnitor No.1 (1490):ゴシック階段帯状装飾、引止め梁。
ヘルタイムの家 Veltheimsche Haus (1573) 城広場の北に美しい3階建て木組の家
があり、市民の経済力を表す2番目に大きな建物で、元の家の木材を使っ
て1901に建て直され、1902商工会議所のギルドハウスである。
旧計量所 Alte Waage (1534) 独立した木組みの建物で、地階の上に中2階と
2上階が張出し、3つの屋根核のある屋根がその上に乗っている。1854-62
放置された建物が復元された。1937-39前面の改装工事が行われた。1944
空爆で破壊され、その後成人教育のための施設として再建された。
ゲバントハウス Gewand Haus (1303) 旧仕立て屋の保管・流通の拠点として建てら
れたルネッサンスの建物で、東階段切妻外装飾りは見事である。今は商工会議
所が管理している。
ステッヒネリの家 Stechinelli Haus (1690) ツェレのステッヒネリ家の建物で、1944に大き
く壊れ、その後大きなルネッサンスのアーチが再統合された。
市博物館 Stadt Museum (19024-06) 町の芸術や文化に関する広範な収集物
があり、絵画・グラフィックアート・工芸品・楽器・民間伝承・武器・硬貨を展示。
州博物館 Landes Museum 町の先史と初期の歴史・民間伝承の展示。
愛国博物館・ユダヤ博物館もある。
侯爵アントウルリッヒ博物館 Herzog Anton Ulrich Museum ヴェルフェン家の美術品や
中世の聖遺物・オリジナルのライオン像等が在る。
市庁舎 | 博物館 |
宮殿 | 木組の家 |
1279 ヒルデスハイム司教は援助文書で初言及、 13c ヒルデスハイム教区の小さな集落であった、
1433 オットーハイデ侯爵は城を拡張して壁・堀・門を設けた、 16c 町は2樹ライオンの紋章導入、
17c 30年戦争で町は荒廃、1633 町は課徴金の反乱、 1658.1809 火災発生、
1802 初期市壁の取払いによる市域拡大、 1945 戦後労働者導入で人口増、
1945 郡庁として、裁判所と税務署を設置、 1974 近隣の町と新地区を形成、
2004 行政区ハノーハーに帰属。
15cの市壁は、1802から取払われた。Am Wallの内側に20mの壁がある。
見当たらない。
小規模の歴史的な旧市街地には、歴史的建造の木組の建物があり、20c後半から
復元されている。
歴史的市庁舎 Histrische Rathaus () かって住宅兼商店として建てられた切妻のあ
る2階建の木組の建物。
市庁舎 Rathaus (1811) ユダヤ人は木組2階建の建物で旧シナゴークを建てた。1929町に
売却され、1941からヒットラーユースの事務所となる、後に図書館となった。2008に
KulturWerkStadt として文化集会所となった。
市会館2 LandratsVilla 2 () 大きな複合建物で各事務所と広間がある。
住居 Wohnhaus (1809) 2階建の木組の家でツヴァルハウスがある。
市教会聖パンクラティス StadtKirche St.Pankratius (1809) 同年に焼失した前の建物の跡
に新古典の新しいが建てられ、1859尖塔付きの四角の西塔が付けられた。
市博物館 Stadt Museum (1658) 元は古典的な町役場であった。1950にサドルバックの
屋根を、1988グロッケンユピールが付けられた。
聖ニコラウス教会 St.Nikolaus Kirche (1935) 旧市街の東に、カトリックの教会が建てられ、
1972に大幅に拡張され近代化された。
ブルクドルフ宮殿 Schloss Burgdorf (1643)2階建2翼の大きな木組の建物が残り、今は
市が行政本部と演奏会場として使われている。Amtshausには1714-1881郡の
長官が居た。1979-81バロックに改装された。
市庁舎 | 郷土博物館 |
西市壁 | マーム門 |
959 オットー1世からモーリシャス修道院への寄付文書に記載、 1197集落は拡大しベネディクト会修道院を含む、
1280-85 ブレーメン大司教は北に要塞都市を建設しBuxtehudeを名乗る、 1556 5犬舎を追加した、
1285 町と呼ばれた、 1328 ボーチャード大司教は都市権を授与、 1363 ハンザ同盟に加わり全盛期に、
1541 宗教改革の導入、 1627 テェリー将軍が占領、 1632 スエーデン軍の占領、 1676 北方戦争で奪還、
1679-1712 ナイメーヘン和平でスエーデン領へ、 1792 仏画支配、 1805 プロイセンへ割当。
1285の市壁と堀を巡らせた要塞都市を設立し、1556に5つの犬小屋で強化したが、30年戦争で壊れ市
壁は失われた。今残るのは、MarschTorZwingerが1984-86に復元され、美術展や演奏会に使われてい
る。また、スターヘン地区では、16c旧市街の北東の角にある狭い2階建の木骨造の密集が、外壁に旧市壁を使て
いる。
リナーツインガー Linah Zwinger (1552-53) 旧市壁地の北東の角に丸い塔が造られ、今
は、丸塔の基礎の石材が幅1.85m残されている。
市庁舎 Rathaus (1418) 中世の市庁舎は、1911に火事で焼失し、新しい建物は多角形
角搭を有する3階建レンガ造の建物で、16cの古い家具も転用している。
聖ペトリ教会 Ev.St.Petri Kirche (13c) 3通路アーチ型の3通路大聖堂で、1853落雷で
塔が壊れて補修された。
旧醸造所 Ehem.Brauhaus (1912-13) ロマネスクの市場会館として建てられ、醸造部ではピルスナー
とデュンケルの2種のビールが醸造された。2011に閉鎖され、再開発されてショッピングモールとなった。
博物館 Museum (1880) 精巧な切妻付きの前面のある美術館は、博物館協会の専用博物館と
して、石鹸会社によって1911に建てられ、1913に開館した。1992に正面切妻も移転されて新しい広い建物とな
った。
修道院長の家 Ahthaus (15c) ハルウフット大修道院長もタウンハウスで、1618-28に木造で再建された。
1977に郷土協会によって完全に復元された。
市庁舎 | 木組み家 |
ツエルナー通り | 城 |
馬の蹄鉄 | 市壁と射撃博物館 |
993 アラー川の交易拠点の初言及、 1292侯爵オットー今の町を造り西の水城に住んだ、
1301 都市権を授与 1378 ザクセン・ヴッテンベルク侯爵アルブレヒトはリューネブルクから町へきた、
1433 侯爵が定住して宮殿を建てた、 1452 侯爵フリードリッヒは市壁に修道院を建てた、
1527 侯爵エルンストは要塞を拡張、 1665 侯爵ゲオルグ・ウイルヘルムはバロック宮殿拡張、
1705 ハノーハー公国となり300年の侯爵宮殿は終わった、 1757 仏軍は占領、
1772 デンマーク王女キャロラインはツェレに追放、 1810 町はファーレン王国に属し仏軍が支配、
1837 ハノーハー王エルンスト・オーグストは町を第2住居へ、 1866 露墺戦争でプロイセン領となる。
1945 4月連合軍占領その後英軍管理。
1292の町の始まりは、WeisserWall・NordWall・Stechbahn・ZoellnerStrasseの
範囲であった。1530侯爵エルンストの拡張で、AlteBlunenLageを壁内に取り込んだ。
30年戦争の間は、3門で堡塁は強化された。18c中世の要塞は重要性が失われ、事
代の経過と共に前面の土堤は下げられ堀は埋められ、19cの終わりには土堤は無く
なった。今は、SchuetzMuseumの1階部分に約10mの市壁が見られるだけである。
見当たらない。
1378-1705リューネブルクを追われたヴェルフェン家侯爵の居所であった。ツェレの3人の
偉大な女性が足跡を残し、多くの木組みの家屋は復元され、16-18c木骨造の家
が立ち並ぶ旧市街が保たれている。旧市街の南の歩道上にはうまの蹄鉄が埋め
られており、これを踏むと再びツェレに帰って来れるとの言い伝えがある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1292) 侯爵オットーは1292に町を造り2階建ての市庁舎を建て、
1378に拡張した。1561円天井の北翼をたて、北切妻にヴェーザールネッサンスの彫刻を
行った。1580-81南翼の拡張、1600-03古典様式での南翼再建。1938南へ拡張。
2008-09前面を1697の形に調査復元した。
新市庁舎 Neues Rathaus (1873) ゴシックリバイバルの建物は歩兵連隊77大隊の兵舎とし
て建てられ、後にドイツ帝国の軍事施設となった。長さ181m高さ25mの4-5階建
300室がある。兵士は9.5*6mの部屋に24人収容されていた。2次大戦後に英軍
が使用し、その後1999大改修されて新市庁舎となった。
ツェレ宮殿 Celle Schloss (13c) 14cに王宮となり、1530ルネッサンスの宮殿に変換された。
18cバロックで拡大・再構築が行われた。1772-75デンマーク王女キャロラインが住んだ。1485
礼拝堂が奉献され、宗教改革後にルネッサンスに改造され現存する。住家は18cの豪壮
な家具や絵画で飾られている。東翼はハノーハー王国のボーマン博物館の一部となって
いる。王宮博物館は、2005城の歴史をバロックの部屋に展示。
高等裁判所 Oberlandes Gericht (1711) 3階建ての控訴裁判所は、初めハノーハー・ツェレ
によって設置され、後にブラウンヴィック・リューネブルクに移った。上訴は殆どなく終審裁
判所であった。1810ヴェストファーレン王国に、1866プロイセンになった。今は、ニーダーザクセン
州の裁判所である。
旧乗馬学校 Altes Reithaus (1664) 初め乗馬学校として建てられ、1700侯爵の厩舎、
1774一時農場の納屋、1806仏軍の厩舎、1833竜騎兵の馬小屋、1848城の厩舎、
1866プロイセン駐屯地の厩舎、1922町が所有、1951商業事務所。
聖マリア市教会 StadtKirch St.Marien (1308) 町の創設と共に3身廊ホール教会は設立
され、ヒルデスハイム司教によって献堂された。後にバロックの漆喰仕上げとなりオルガ
ンが置かれた。侯爵の墓が置かれ、74.5mの高い塔が在り、塔上の吹奏者がい
る。
木組みの家並 Fachwerk Haeuser (16-18c) 切妻は15-18cの建物に付けられ、16
cの前半から階段状の飾りが付けられ、16C中から葉や蔦の彫刻で飾り、17cから
帯模様が付けられ碑文が梁に付けられた。建物の特徴としては出窓のある張出
と側面が段状に上に行くほど前面にせり出している切妻がある。
ツェレ・グロッケンシュピール Celle Glockenspiel (1937) マルクトには、1842の宝石・時計店にカリ
オンが置かれ、その閉店後に町が引き継ぎ、1日に3回、チャイムが鳴り人形の像が現
れる。
最も日付の古い家 Aeltest Datiertes Haus Celle (1526) ゴシック文様と階段切妻屋
根の木組みの家で、1962の火事で1973通りに中庭を開いて、大きな空間領域
を全面改修した。1987家具店、1999本屋、2005若者ファッション店。
ホッペナーの家 Hoppenerhaus (1532) 二階と三階が前面に張出し、切妻が二段に張り
出している。前面全てに模様が描かれている。描かれているのは神話上の生物
と昆虫等である。
シュッテヒネリの家 Stechinellihaus (1672) 侯爵の宮廷エージュエントのフランチェスコ・ステッヒネリの住居
であった。1668火事に遭い1675再建された。1795新古典主義の建物になり、
1820ホフメディクス博士が購入、1836銀行家が購入、1875彼の孫がスクリーン制作所に
した。
ボーマン博物館 Bomann Museum (1892) 城の前に州で最大の美術館が設立され、ヴィ
ルヘルム・ボーマンの名前が付けられた。ニーダーザクセンの民話やツェレ文化史の現代美術
の展示がある。
ツェレ美術館 Kunstmuseum Celle ロバート・シモンのコレクションで、24時間営業の近代コレクションと
現代美術館である。
ツェレ駐屯地博物館 Celler Garnison Museum (20c) 駐屯地385年の歴史を武器・通信機
と共に展示している。
ドイツ刺繍模様博物館 Deutsche Stickmuster Museum (1770) エルフィトコメマンのコレクションを、
1770に建てられたロココの宮殿に、刺繍の嫁入り道具・手彩色刺繍パターン・1600から
の刺繍貴重品を展示している。
射手博物館 Schuetzen Museum (1901) Alten CellerTor Strasseの市壁の上に建
てられた木組みの家を改修して、射手博物がある。
市庁舎 | ラッツケラー |
旧バルダー塔 | 南西壁 |
南東壁 | 聖ローレンス教会 |
826 コルフェィ修道院文書にザクセンの農場で初言及、 10c 聖ローレンス教会設立、
1022 皇帝ヘンリー2世はマイセン大司教区からヒルデスハイム教区へ、1113ダッセル伯は市場町へ、
13c ヒルデスハイム教区に売却され町は低迷、 1310 ヒルデスハイム司教が支配し兵調達、
1315 都市権を授与され市壁・堀を建設、 1447 焼失した聖ローレンス教会を再建、
1521 ヘンリー・ヴォルヘンビュッテルに征服された、 1625 30年戦争テリー軍が町を破壊、
1643 ヒルデスハイム教区となった、 1811.1848.1850 大火災で町は焼失、
1802 プロイセン軍が町を占領しハノーファー王国、 1866 ハノーハー王国をプロイセンが併合、
1945 2次大戦の被害はなかった、ニーダーザクセン州へ。
14cの市壁は、北側と南側に幾らか残されている。市壁に直接建てられた装飾
のないシンプルな木組の家が見られる。
見当たらない。
多くの保存された19cからの木組の家が、NeuStrasseやOberStresseにある。
旧市庁舎 AltesRathaus (1674) この場所の旧市庁舎が壊され、1817に屋外階段の
ある木組の庁舎となり、上階の歴史的な大広間では祝宴が開かれた。今では催
し会場や市図書館となっている。
市庁舎 Rathaus (1970) 旧市街に接して 西南の外に新築された。
聖ローレンス教会 St.Laurentius Kirche (1447) 3身廊ゴシックのハレン教会で、壁が厚く古い
要塞のような塔が在る。南ニーダーザクセンと東ヴェストファーレンの他の教会のように、中
世には市民の為の避難場所であった。教会内部の身廊と南通路にルネッサンスの壁が
あり、南入口には銘板がある。18cには焼失して切妻屋根と塔頂は置替えられ
た。1966までは町の所有であった。
聖ミカエル教会 St.Michael kirche (1847) 古典主義で建てられたカトリックの教会で、中央
に座った屋根タレットは砂岩の屋根を乗せている。内部にはバロックの祭壇と1700か
らの洗礼盤がある。
町粉挽場 Stadtmuehle (16c) 最古の赤砂岩造の建物で、1568には営業しており1969
まで稼働していた。
旧醸造所 Ehem.Brauhaus (19c) 角にある木組の建物は、旧ビール醸造所であった。西
側には旧湯屋と商館が並んでいる。
城代の館 BurgmannsHof (1454) 大きな木組の2階建ての建物は、1732に建てられ、
1834までは貴族ラウエンプラットの所有であった。周囲に古い建物の一群が1972までは
残っていた。敷地の市壁側には石造のアーチ門が残っている。
最も幅狭の家 Schmalste Haus (1791) 独特な幅の狭い3戸繋ぎの木組の家が記念物と
して残されて居る。郡で最も幅の狭い家は3.59mしかない。3戸の床面積は30m2
しかなく、昔はブリキ屋の作業場であった。
旧簡素な塔 Ehem.Balderturm (14c) 二つの可愛い入れ込み式の木組の建物が市壁の
背面にある。これは簡単な市壁の防御塔も兼ねた。今は別荘に改造され、何日か
過ごすことが出来る。
旧羊飼の家 Ehem.Schaeferhaus (14c) 防御施設として形成された塔の跡に銘板があ
る。そこに19c初めに再建された羊飼の家が見られる。
技術博物館 Technikmuseum Blankschmiede Neimke (1735) この建物に1900から
技術博物館が収容され、シュバンツハンマーの原動力や手工業の砥石がある。
伯爵領ダッセル博物館 明るい木組の建物に、町の歴史・中世のダッセル伯爵によるダッセル伯
爵領の存在を展示で証明している。
ヴィルヘルム通 WilhelmStrasse 市壁に沿って曲がった通りで、今は再開発でで密に木組
の建物が並んでいる。昔はユダヤ通りと呼ばれ、19cにはユダヤの礼拝堂があった。
地下には水車水路の流れが埋設してあり、流れの水音が聞こえる。昔は、通り
の出口に搾油場Oelmuehleがあった。
市庁舎 | 西塔 |
西壁 | 北壁 |
北東壁 | 東壁 |
南壁 | 聖ツリアクス教会 |
聖セルバチィウス教会 |
この町は、Coesfeldの市内にある。
929 初文書言及、 974 クヴェトリンブルク修道院が来て262年管理、
1237 町は封土としてチュービンゲン・ラスペ方伯へ、 1250 ブラウンシュバイク侯爵が振興、
1366 マインツ大司教はヴェルフ家の侯爵から譲渡され、防御円を築いて450年間統治、
15c初 土堤と生垣を築いて守った、 1423 町は大火により340戸を失った、
1618-48.1756-63 30年・北方戦争で大被害、1802 プロイセンはマインツ大司教領を取得、
1807-13 ナポレオンは町をヘルツ王国とした、 1816-66 ハノーハーとプロイセンの新境界に、
1852.1911.1915 大火災になった、 1885 プロイセン領となった。
13c高い1.7kmの市壁と堤防施設の要塞を構成した。3.3kmの町の土堤には、
300年間古いシナの木と栗の木が茂っていた。南の部分は慎重に復元されて、
再構築された防衛通路で覆われた。
西塔 Wester Turm (1424) 最後に残った4階建ての市門は、1424に大火
で壊れたが直ちに再建された。
ゲオルク小塔 Georgs Tuermchen (15c) 西塔の西に復元された小塔が在る。
その他、名もない半円形の壁塔が3基ある。
ゴシック・ルネッサンス・バロックの多くの飾られた2-3階の木組みの家並みが見られる。
マルクトの雰囲気は良い。
市庁舎 Rathaus (1800) 石造2階建ての上に美しい木組み2階建ての建物で最初は
百貨店として建てられ、前面に切妻と3張出塔が立っている。1432南に拡
張され、1532東棟と3塔のある骨格構造を構築した。1674バロックの階段を付
けて完成した。
聖キュリアクス教会 St.Cyriakus Kirche (1240-90) 強力な2塔の前面のある3身廊の
ホール教会で、美しい祭壇があり、右側の2番目の戸は通常開けられている。
聖セルバンテス教会 St.Servantius kirche (927) 14cには後期ゴシックのホール教会とな
った。内装はアールヌーボーになっている。
聖母教会 Frauen Kirche (1424) 初めマリア信仰の礼拝堂から1700ウルズーリネ修道院
の教会として拡張された。1889ロマネスクの聖マリア教会となった。2身廊のバジリカ
で、東を向いて先の尖った細い2塔が付けられた。
樅の木ホテル Hotel zur Tanne (1777) 印象的な木組みの建物で、ゲーテが宿泊し
た。野菜や動物の彫刻で飾られた美しいバロックの建物。
石の館 Steineres Haus (1751-52) 町で重要な石造の建物で、バロック砂岩造の
市庁舎として建てられ、旧シトー会修道院に使われた。
郷土博物館 Heimat Museum 市民と農民の住居・手工業と経済の歴史等を展示。
市庁舎 | コウノトリ塔 |
骨塔 | 死塔 |
西壁 | 北東壁 |
西壁 | 西南壁 |
南西壁 | ティデッカー通 |
木組み家 | 聖ヤコビ教会 |
1158 教会を中心に市場を形成初言及、 1252 都市権が授与され、周壁を構築、
1368 ハンザ同盟に加入しビール貿易、 1479 タックマンの戦で大敗北、
1540 町は大火で古い景観はなくなった、 1549 再建された建物の7割が焼失、
1620 30年戦争で人口半減し市場は停止、 1761 7年戦争で仏軍は防備を強化、
19C 紡績・醸造・絨毯・製糖工場で繁栄。
13cの市壁は町の周囲に点々と残っている。北10+30+70m、東南10m、
西200m、西南320+70m、南80m。
骨塔 Knecken Turm 北、旧火薬庫は、納骨堂として使われたための名前。
死塔 Toten Turm 北、要塞の残りのコの字型の塔壁は家屋に取り込まれた。
チーデックス門の上砲台OberKatze im TiedexerTor 西、町の防衛施設で曲射砲台。
コウノトリ塔 Storchen Turm 西南、市壁の角の半円形の塔。
壁の前の稜堡 Bastion am Wall 南西、市壁の前の円型稜堡、戦略的に重要。
ディーク塔 Diek Turm 南、町の水道供給の強力な防波堤を確保。
火薬塔 Purver Turm 南東、市壁中の円型防御塔、火薬庫としても使用。
華やかに復元された400を超す16cからの木組みの家は色とりどりで実に
美しい。市庁舎や教会も特徴があり、市壁や塔も残っている。中世の1600年
には700の醸造所が存在した。ポックビールの試飲や醸造所めぐりに参加できる。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1549-56) 特徴のある円錐屋根の出窓で飾られた重厚
な3階建ての建物で、旧市庁舎の正面前にはオイレンシュピーゲルの泉1941がある。
聖ヤコビ市場教会 MarktKirche St.Jacobi (13c) 65mの高塔はロットから外1.5m
に立っている。
聖アレキサンドリ参事会教会 StiftsKirche St.AlexanderKirche (1280) 大聖堂教
会として建てられ1506まで使われた。1735バロックの帽子の塔が付けられた。
木組みの家 FachwerkHaeser
パンの家Brod haus (1552)3階建て出窓付の木組みの建物は、パン屋のギルド
の会館である。
参事会計量所 Ratswaage (1565) 町の計量所で、2階建ての木組みに建物。
ティーデックス通り Tiedexer Strasse (1541) 250mの通りには、1541からの美し
い3階建ての古い木組みの街並みで統一されている。
参事会薬局 Rats Apotheke (1590) 3階建て木組みの建物の高いアーチの入口を
入ると、昔の町醸造所の醸造鍋が見える。
町の小屋 Stadt Bude (1565) 2階建て醸造権なしの家。
エップレヒトの家 Eickesches Haus (1612-14) 芸術的な彫刻がある木組みの家で
今は観光案内所である。
クラウス・エブレヒトの家 Haus von Claus Ebbrecht (1571)パン屋エブレヒトの木組の家。
市博物館 Haus von Claus Ebbrecht (1548) 貴族の家に今は博物館があり、
自転車の展示とビールの陳列がある。
市庁舎 | 港門 |
地方博物館 |
800 エムス川の河口にフリジアの貿易集落を設立、 14-15c 海賊に対抗してハンブルクが1447に占領、
1495 皇帝マクシミリアン1世はエムデンに紋章を与えた、 1494 皇帝はエムデンに都市権を付与、
1509 洪水で港が埋まった、 16c オランダ独立戦争後にオランダ人が定住して町が発展、
1606-16 市壁が建設された、 1635 港の門の建設、 1640 要塞北部の拡張、
1643 プロテスタントの新教会建設、 1648 30年戦争終結でオランダ人帰国して停滞、
1683 ブランデンブルク選帝候が支配、 1744 プロセン王国が買収、 1800 仏帝国に属した、
1812 ハノーハー王国に割当られた、 1885 港湾・運河・埋立地の整備、 1945 空爆で80%が破壊。
17cの市壁は、五角形の要塞で守られたが、地上の壁は残っていない。19cには風車が建てられ、今
も3基は残っている。東側の市壁の基礎部の跡が200mある。
港門 Hafen Tor (1635) 4市門の内唯一残った南市門である。何世紀に渡って修復
が行われ、形状は元の形ではあるが材料は違ってしまっている。
第2次大戦の空爆で大被害を受けているため、歴史的な建物はほとんど残っていない。
珍しく残っているのは、2階建切妻の木組の家(1813)KromStr.63と木組みの家(16c)Muehlen
Str.45である。
プロテスタント新教会 Ev.Kirche (1643-48) ドイツ北部で最古の改革派プロテスタント教会で
ある。1818にオルガンが置かれ、1944の空爆で大破し1947-80に再建された。
東フリジア州立博物館 Ost Friesisches Landes Musium (1344-45) 市庁舎に、
この地方の芸術と文化の歴史について展示している。16-17cの武器・コイン・絵画などが見られる。
風車 (17c) 17cに要塞に建てられた大風車の一つである。
市庁舎 | 市公会堂 |
マルクト広場 |
800 貿易の中継市場として設立、 1427-30 ウイペットは町の南東に市場を建てた、
1490 市壁・堀・4市門で町の守りは強化、 1524 バ゙ルタザールは町の要塞を強化、
16c初 町は反ハンザの商人が支配、 1537-40 バルタザールは都市権を与えた、 1540 東コリースラントへ、
1744 東フリジアの消滅でプロイセンが支配、町は拡張、 1806 ナポレオン支配の仏領化、
1815 ハノーハー王国に属した、 1866 プロイセン王国へ、北区事務所の町に、主産業は農業、
1943 空爆による損害があった、 1965-84 旧市街地全体を再開発区域として近代化を行った。
SuedWallの西側の林の中に、旧市壁が残っている。
見当たらない。
市庁舎 Altes Rathaus (16c) 旧ワンゲリンの未亡人の修道院の大きな2階建レンガ造軒
構造の建物で、18cに道路側はバロックの前面となり、19cに石膏仕上となり、1943に市庁舎になった。
旧町役場 Rathaus (18c初) 独立した構造であったが、隣の建物と調整された。
聖マグナス教会 St.Magnasu Kirche (1100) 初めの木造教会は1100頃に建てられ、
13cに3通路の凝灰岩の教会に置き換えられた。1442後期ゴシックの高後陣が追加された。その後西正
面にあった搭は南西に移され、独立した鐘楼に置き換えられた。1540にハンザ同盟軍砲撃で壊され、再
建された。1847老朽化で取り壊され、1842-54に今の姿で建てられた。3廊・レンガ造・西塔・東翼廊・
半円型後陣のネオゴシックのホール教会であり、中には古くからの備品が引き継がれている。
地方裁判所 Amt Gericht (1827) 2階建寄棟屋根の軒先造レンガ造の建物である。
ベッカーの家 Becker Haus (1862) 大きな2階建軒レンガ造の建物で、上部アーチ型窓が5
列並んでいる。
エドザルドの家 Haus Edzard (16c) 2階建渦巻切妻のレンガ造のルネッサンスの建物で、
1788に前面はスライド・ウインドウに改造された。
旅館 Gasthaus (1830)2階建寄棟屋根軒レンガ造の建物。
聖ゲオルグ教会 | 宮殿 |
高い塔 |
1344 Vorstenoweとして初言及、 14c オスナブリュック王子司教は城を建てた、
15c 城は次第に拡張され、周囲に都市農民が定住した、
1642 都市権を授与された、 1647 30年戦争で10日間包囲された、
1938 水晶の夜にユダヤ人は襲撃された。
HohesTorの位置に構造物が在ったと思われるが見当たらない。
高門 Hohes Tor (1556) 東にオスナブリュックへの門で、装飾的なアーチ通路と鐘楼付きの2
階建の塔は1774に付けられた高門の脇は市壁で守れれ、前には堀があり跳ね
橋で通行していた。高門の前にはツインガー壁のある前門が置かれた。刑務所を収
容したが、30年戦争後に壊された。
北東砦 Nord-ost Bastion (1527) 城島から堀へ張出した砲塔で、1630には、要塞
の延長線上にあった。直径25m元の高さは水面上8m・壁厚は6mあった。
堀に囲まれた城が、町の中央にあり、市庁舎・教区教会を中心とした旧市街地は
広くはない。中心街には美しく修復された切妻のある木組の街並がある。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1814) 2階建5窓列・屋外階段のある建物で、1945終戦後
に古い様式で再建され、1976まで市庁舎として使われた。1991改修されて、上
階は展覧会場となっている。
城複合体 Rathaus (1344-45) オスナブリュック王子司教ゴットフリートが、居住棟のある建設し
た。当初は要塞塔と小別館のみであった。1600までに残りの建物が出現した。最
初に南翼(今はカトリック教会)、次に北翼、最後に中間翼が造られ、1974に西翼
が加えられた。城は王子司教の行政と司法の場であった。
聖ゲオルグ教会 St.Georg Kirche (14c) 市場教会として、今の1/3の規模で設立され、
次第に拡張された。1606火災で損傷して再建され、1894に今の塔が付けられ、
それに伴って内装も改修された。1695の祭壇と祭壇画がある。
聖カタリナ教会 St.Katharine kirche (1817) 城の南棟にカトリックの教会が礼拝堂と集会所
で設立された。1924礼拝堂の拡張、1988改修が行われた。
年金受給高齢者の家 RentMeister Haus (1541) 全ての都市火災を生き延びた。16
-17cはガストハウスとして、1647スエーデンとの和平交渉が行わえた。30年戦争後の2代
目の建物は、横2階建のポーチのある切妻の建物で、1728には最初の郵便局とな
った。
市長の家 Buergermeisterhaus (1697) 裕福な家族が所有し、16cと17cに市長を務め
た。19c終わりから銅細工師ハーバーカンプの本拠地になった。
商人の家 Kramer Haus (16c) 旧市庁舎の向いに立ち、16-19cギルドハウス、その後商人
によって所有され、1929に2階建の旅館になった。
旧市庁舎 | ガチョウ娘の噴水 |
壁上通路 | 壁塔 |
旧南市壁 | 南壁 |
南西壁 |
953 皇帝オットー1世の文書に初言及、1200 ザクセン・バイエルン侯爵ハインリッヒが町を建設、
1201-08 ライン伯ハインリッヒ5世が領主に、 1250 都市防衛施設が造られ 北西に城、
1360 町の環状市壁を拡大して構築、 14-15c 経済的最盛期でゴシックの建物が建つ、
1387 市民軍はリューネブルク公軍を破って自由特権を獲得、1426-1572 ハンザ同盟に加入、
1504 エーリッヒ1世の統治、 1597.1611.1626 ペストの流行、
1623 30年戦争で何度も占領された、 1734 ハノーハー選帝侯ゲオルク2世は大学を設置、
1757-62 7年戦争で仏軍占領 防塁撤去、1803 ナポレオン軍の占領、1805 プロイセン領に、
1807 ナポレオンによるベストファーレン王国へ、 1813 ハノーハー公国に属した、
1866 プロイセンが侵攻して併合、 1945 空爆の被害は少なかった。
初め土堤が築かれ、13Cには市壁が造られ600*600mの25haを守った。1360拡大され
75haを新しい市壁が築かれ、門は外側に移された。1762から防塁は除かれ遊歩道とな
った。今でも、ドウルム通りに市壁とマウアトルムが120mと、南西210m、西50mが見られる。
少なくとも30の塔と広い堀と外部壁を備え、4門は外門と呼ばれていた。
残るのは、Turn通りの半円塔と西南のBismarckHoeuschen。
中世の大学町は緑の公園で囲まれ、旧市街の中心にはゴシックの教会と新古典の大
学の建物が立つ。マルクトの4方向に4教会があり、東に木組みの家も残る。
旧町庁舎 Altes Rathaus (1270) 市場として建てられ、1369-1443ほぼ現在の形に拡
大された。その後も商人のギルドハウスを務めた。19cゴシックの市庁舎となり、広間
には壁画も描かれ、ハンザ同盟の歴史と紋章が示されている。1979-81改修され、
今は、催物会場・観光案内所となり、西の評議会室は登記所・結婚式に使われる。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1300-44) ロマネスクの北前面とゴシックの大聖堂を繋い
だ形である。二つの異なる形の塔のうち、北塔は町の夜警が住み、後には学生
が入った。今は、教会の塔室は祈りの場所として使われている。
聖パウロ教会 St.Paulus Kirche (1331) ドミニコ会修道院の教会で、以前は聖トマス・アグナス
教会と呼ばれた。今は、1812聖パウロ教会図書館はニーダーザクセン州の催物と展示
の場所となっている。
聖ヤコブ教会 St.Jacobi Kirche (1361-1459) ゴシックの教会に72mの南塔があったが
1989-98ルネッサンスに改装された。中には、1402の二重祭壇がある。
リヒテンベルクの家 Lichthtenberg Haus 有名な物理学者の家で今は美術館である。
パウリナー通り6. Pauliner Strasse 6. (1495) 町で最も古い碑文のある木組3階建て
の建物で、1970に修復された。
ボルネマンの家 Bornemann haus (1536) ゴシックの要素と初期ルネッサンスの1階出窓のある木骨
造りの3階建ての建物で飾りが多い。
市立博物館 Staedtsches Museum 地域の芸術・文化の歴史を展示している。中世の
台所・昔の薬局・バロックの室内が再現されている。教会美術のコレクションがある。
ガチョウ番娘の泉 Gaenselieselburnen 旧市庁舎の前のマルクトに立ち、試験に合格した
学生はここをめがけて行進しガチョウ番の娘にキスをする習慣がある。
マルクト広場 | ブライス門 |
カイザーボルト | 皇帝宮殿 |
鉱夫の仕掛時計 |
979 オットー2世の文書に城の初言及、 10c 銅・銀の鉱山を開発、
1009 ヘンリー2世の神聖ローマ帝国皇室会議、 1025 コンラット2世は皇居建設と貿易権確認、
1045 ヘンリー3世ゴスラー大聖堂と協同教会建設、1075要塞・5教区7教会・大学のある都市、
1219 フリードリッヒ2世は最後に帝国会議、 1219 町は権利拡大し1330都市法成文化、
1290 自由帝国都市となる、 1267-1566 ハンザ同盟に加入して交易、
1460 ランメルスベルク鉱山の収入で建物のゴシック化と要塞の構築が行われた、
1519 強盗の横行に備え要塞の完成、 1552 鉱山収入はボルヘンヴュッテル公国へ、
1632-35 スエーデン軍が占領し略奪と徴発、 1728.80 大都市火災、
1802 プロイセンが占領し512年間の自由都市は終了、1806 ヴェストファーレン王国へ併合、
1816 プロイセンに帰属、 1945 第2次大戦の空爆を受けた。
16cに旧市街地を土堤と堀と市壁が取り巻いていた。火薬の発達で有効性を失い
殆ど18-19cに取り壊されて、緑地になっている。
今は、東から南にかけてと北に、僅かに残されている。
バラ門 Rosen Tor 北、
蜂の巣塔 Waber Turm 北、薄い壁のような6階建ての塔で、3階部分に木製
の防御通路が付いている。
悪魔塔 Teufels Turm 北、
広い門 Breites Tor (15c) 東、二重門の構造で、16cに拡大強されて、前
門の円塔と門の家・門衛所のある市門が残されている。
下水穴 UntersWasserloch 東南、
円錐塔 Kegelworth Turm 東南、
ツインガー Zinger (1517) 東南、外側市壁を守るため直径26m高さ20m璧厚6.5m
の大きな円形要塞であり、攻撃された場合には4階に1千人収容した。
Museum im Zingerには、中世後期の武器・包囲道具・武具甲冑・拷問道具等が展示
され、塔頂からの眺めは良い。
仕立て屋塔 Schneider Turm 南西、
守備隊長塔 Wochtmeister Turm 北西、
美しい木組みの家と文化財としての貴重な建物が多くあり、ラメルスベルク鉱山の
富で15-16cに町は最盛期を迎え、16C中に鉱山の権利をボルフェンビュッテル公国に取ら
れて衰退したため、古い物が残されている。
市庁舎 Rathaus (15c) 東翼は市場に開いたアーチのアーケード広間があり、南側
の墺が居階段を上がると2階に大広間「栄誉の間」がある。屋根の下端に小さな
飾り切妻が付けられている。今でも市長室があり、「忠節の間」1505-20が後期
ゴシックの参事室として建てられ、天井と壁に絵画がある。500年前の自由帝国都市
の豪華な参事室には入室できる。扉の後ろの小礼拝堂にはキリスト受難の壁画がある。
皇帝ヴォース Kaiser Worth (1494)市庁舎の隣に、張出小塔のある後期ゴシック
の仕立屋ギルドの会館がある。その前面は何世紀にもわたって建設された。外壁
の狭い凹みにはバロックの諸皇帝の像が立っているため名付けられた。今はホテル。
靴の館 Schu Hof (16C) 広場を風格のある木組みの家と靴屋ギルドのアーケード
が取り巻いている。
パン屋ギルドハウス Baecker Gildehaus (1501) 古い石積の地階の上に1557張り
出した木組みの上階と大屋根を乗せた。無冠のゴスラー鷲とパン屋の紋章が飾られて
いる。美しい出窓と屋根は市民階級の向上と繁栄を示している。
ブルストタッヘ Brusttuch (1521) ゴスラーでも美しい邸宅で、石造の地階の上に木
組の2階と大屋根が乗っている。前面に古代神話の動物や模様が掘込まれている。
今はホテルやレストランとして使われている。
鞣し革水車 Lohmuehle (16c) 昔は40以上の水車があったが、今は唯一復元
された100年来の水車が廻っている。昔は鞣すための樹皮酸を生産していた。
大聖十字架 Grosses Heiliges Kurz (1254) 町の貧困者救済と巡礼者の宿泊
のために設立された。小さな庭の付いたゴシックの切妻のある建物で、今は高齢者の
住宅と職人の製造販売店がある。
小聖十字架 Kleines Heiliges kurz 木組み3階建ての町の貧困者の救済のた
めに設けられ、今は市の所有となり老人ホームの他日曜礼拝と小集会にも使われる。
皇居 Kaiser Pfalz (1040-50) 神聖ローマ皇帝ハインリッヒ3世によって建てられ、そ
の後荒廃したが、1868-79今の建物が再建された。2階にある巨大な「帝国の間」
の歴史画は、ゴスラーに皇居が置かれた時代の歴史的事件が描かれている。南に聖
ウルリッヒ宮中礼拝堂12cがあり、下の階はギリシャ十字・上階は八角形で、中にはハインリッヒ
3世の横臥像があり、その台座に皇帝の心臓が納められている。
ジーメンスの家 Siemens Haus (1693) 有名なベルリンの会社創設者ジーメンスの先祖が
建てた。この町で最大で保存状態の良い、堂々として美しい木組の家であり、美し
いタイル張りの入口の間と中庭が見事である。住居に加えて家族の商用スペースもある。
レーバーの東屋 Kemenate Roever (1500) 都市農民が建てた木組みの2階建ての
建物で、作家ハンス・ヨアヒム・ローバーが買収した。今美術展示場として使われる催物会場。
ノイベルク修道院教会 KlosterKirche Neuwerk (12-13c) 元シトー派女子修道院の教
会で庭に立ち、多角形の正面の塔はロマネスクの優美な形であり、中央後陣の外装は手が
込んでいる。パイプオルガンのある2階の欄干には6つの漆喰レリーフがある。
ペーターとパウロ教会 PfarrKirche Peter und Paul (12c) 鉱夫が住んでいた町の
西外れに在る教会であり、何回も改築されバロックの塔は18cのものである。中は、西
側の尼僧の桟敷席が見所で,アーケードはアカンサス葉飾りの頭柱と網縄模様の小柱の上に乗
っている。北壁と南壁には13cの大壁画が残っている。
ドーム入口の間 Dom Vorhalle (11c) ロマネスクの礼拝堂は、皇帝ハインリッヒ3世によって
建てられ、1822取壊された大聖堂から、唯一残された部分である。内部には11cの皇
帝の椅子がある。
僧侶の家博物館 Moenche Haus (1523) 古い木組みの家の中には、モダンアート美
術館があり、庭には彫刻が並んでいる。
ゴスラー博物館 Goslarer Museum (1514) 残された大邸宅に、町と技術の歴史と
地域の地質・鉱物学の展示がある。17-18c住まいの文化・美術工芸品・ドームに在った
12c祭壇・13cゴスラー福音書・1477水差し・16cキリスト磔像・中世からの貨幣などの展示。
ラメルスベルク鉱山博物館 Rammelsberger Bergbau Museum 町の南西の鉱山の跡に
1千年にわたって鉛・錫・銅・銀を採掘した歴史を展示。坑道も見学できる。
市庁舎 | 城 |
高い門 | 市博物館 |
南市壁 | 斜搭 |
1298 ヒルデスハイム司教によって町は設立、 南東にエンブネ城があった、
1427 ハンザ同盟の町となった、 1703 町は火災に遭った、 1885グローナウ事務所の廷史の席、
1941 二次大戦の空爆を受けた、 1977 ヒルデスハイム地区に割り当てられた。
旧市街地の周辺には、城壁と市壁で囲まれていた。北側の西に260mと西門の北に30mと東
門の東に30mが見られる。
東南にMauer turmとして、3階建4角錐屋根の正方形の塔が立っている。
町庁舎 Rathaus () 2階建切妻家根漆喰塗り建物。
地方官庁Gemeinde amt () 2階建マンサード屋根の木骨造の建物。
聖マタイ教会 St.Mathai Kirche (1309)聖マタイに捧げられた教会は1309に言及
された。今のEv.ルーテル聖マタイ教会は、1457に建設されたが何回もの火事で壊され、再建されてい
る。 1856-59にゴシックのホール教会として現在の外観となった。
領主の館 Bock Schenhof (1706) 2階建8窓列の大きなHerrenhausは保全
されている。
市博物館 Stadt Museum (1590) 1982からの展示として地域の歴史、写真技術
と芸術作品などえある。
市庁舎 | 木組の家 |
テンプターハウス | ネズミ取り博物館 |
結婚式の家 | 北壁 |
北壁塔 |
812 ザクセン伯ベルンハルトは町に教会を持った、 851 フルダ修道院は町に修道院を設立、
1200 町は成長し市場が置かれた、 1206 初めて都市と呼ばれた、
1259 フルダのアボットはミンデンの司教に町・修道院を売却、1268ブラズウイック侯爵アルブレヒトが購入、
1426-1572 ハンザ同盟に加入、 1430-50 町の子供たちの流失の記録、
1551 大火災で160戸焼失、疾病で1400人死亡、16-17c富でヴェーザールネッサンスの建物を建築、
1625-33 各国軍占領、1664-68星形要塞完成、1690 仏ユグノー教徒の定住、
1756-63 ハノーハー王ジョージ3世は7年戦争を戦う、1769-84 Kluet山上に要塞設け難攻不落、
1801-13 ナポレオン戦争で外国軍が繰返し占領、 1806 プロイセン降伏で仏が不落要塞を占領、
1808 ナポレオンの命令で要塞の解体、 、1829-32 紙・繊維工場開設1856セメント工場、
1866-67 プロイセンのハノーハー州に、 1945 2次大戦の5月砲撃で町は壊滅。
13Cの市壁は、30年戦争何度も占領され、1664-68星形要塞が築かれた。その後も強
化が図られ、Kluet山上の要塞は1760-63砦フォートⅠ、1774-78砦フォートⅡ、砦フォートⅢが築か
れ、1806フォート・ルイーゼも作られたが、1808ナポレオンの命令で解体された。
市壁は南のユグノーの家の外壁として残っている。北の二つの塔の間の市壁は1990年代に
元の場所に元の高さで復元された。
1333に塔は言及されている。後に22の塔が立っていた。
ハスペルマース塔 Harpelmath turm (1450) 六角の塔で、後に市に購入され博物館協会に引
き渡され、獣医師フリードリッヒ・ハスオエルマースのコレクションを展示して名前が付いた。
1991-92塔は改装され美術グループ「箱舟」が使った。
火薬塔 Pulver turm (15c) 六角の塔は居住されていたが、1995に改修され、ハスペルマース
塔との間の市壁は元の高さで復元された。今は吹きガラス工房が入っている。
クリュット塔 Kluet turm (1763) Kluet山の要塞の砦フォート・ジョージの塔が1843から展望台
となった。
美しく飾られた16-17cのヴェーザールネッサンスの建物が並び、夏の日曜日正午に、婚礼の
家の前で「ネズミ取り男」の演劇が見られる。
旧市庁舎 Rathaus(18C) 2階建の旧市庁舎は婚礼の家の西側に立っていたが、1945
砲撃で破壊され残っていない。
婚礼の家 Hockzeits Haus (1610-17) 市民祝祭と式典のためにヴェーザールネッサンスで建て
られ、19cまで単に「新館」の名前で親しまれた。町の武器を収容するための大
広間と小部屋の他に、町薬局・町計量所・ワイン酒場などの町の施設が収容され、東
の3切妻入口の碑文で使用目的が分かる。
ギャリソン教会 Garnisons Kirche (1713-14) 駐屯地教会の礼拝所として1843まで使わ
れた。八角形屋上小塔には酸化銅の帽子がある。1929からは市貯蓄銀行がある。
聖ニコライ市場教会 MarktKirche St.Nicolai (12c) 中世船乗りの守護聖人であった聖ニコラウス
が、ヴェーザー川の交易安全のため祀られた。12c単廊広間造の教会で基盤は2m下
にあった。12c中にロマネスクのバシリカで、切石の外壁は今も残る。1250-60ハレン教会に
改築し西に登廊を移行。1290-1310東にハレン教会を延伸し内陣と聖具室を増築。1511
塔を伸ばし、尖塔を付けた。1764-68に7年戦争の損傷の回復と中央と南側廊に両切
妻磨屋根を付け、バロックの室内装飾へ。1945砲撃で壊れ、1957-59直線天井の疑似
バジリカと新しい塔で再建。1966新オルガンの設置。1987-85機器や芸術品を含め内装
の更新。
聖ビニファチウス大聖堂 Muenster St.Bonifatius (802-812) 市内で最古の教会でありザクセン伯
爵ベルンハルトとその妻は、財産として自身の教会を所有し墓所ときめた。826伯爵の死
後、フルダ僧院に所有権が移った。851フルダ僧院は今の大聖堂の位置にベネディクト会修
道院を設立し、教会は聖ロナニウスに献堂された。1209ロマネスクの聖堂が破壊され、1230-
40にロマネスク・バジリカが新築された。1241正式に聖ボニフェウスに守護聖人を変え、13-14c
絶えず拡大再構築されゴシックのハレン教会になった。1744中央塔にバロックのドームとタンタンを
置いた。1803ナポレオン軍は修道院の教会を収用して占領して、軍事的に使用した。
1848修道院は廃止されハノーハー商工会議所が所有した。1870-75再構築して再建され、
内部はゴシック・リバイバルに改装され、1980新オルガンが設置だれた。
ネズミ取りの家 Rattenfaenger Haus (1602-03) 家の横梁にある1284の碑文に基づき1900
からその名前が付いた。評議員がヴェーザールネッサンスで3階建て切妻付の建物を建て
た。1917から町が所有した。
ネズミ居酒屋 Ratten Krug (1568) ヴェーザールネッサンスの前面のあるゴシックの石造建物で後面は
ゴシックのままである。1781中庭への通路そして大きな門を横に設けた。1870家は
料理店として使われ、19cにはネズミ居酒屋と呼ばれた。
門工場 Pfortmuehle (1872) 1405に設けられた魚の門に煉瓦造の5階建ての大きな建物
が建てられた。1945破損したが修復された。タービン発電機を保有し、レストランから
見える。1968町は工場を購入し、1988補修して、1990市立図書館とし、2003市
立文書館と市文化局を収容した。
デムプターの家 Dempter Haus (1607) ヴェーザールネッサンスの水平を強調した美しい装飾の前
面の3階建てのたてもので、片側に出窓が2階まである。
ライストの家 Leist Haus (1585-89) ヴェーザールネッサンスの豊かな装飾の切妻のある前面は
オリジナルである。テムプターの家とよく似ている。1912市博物館となった。
古い木組の家 Fachwerk Hoeuser
東通り12の家 Haus Oster Str.12. (1576) 評議員ヨース・トリケヴェーザールネッサンスの切妻の
ある3階建て木骨造の建物を建てた。地階に上階が突出している。
教団参事の家 Stiftsherren Haus (18C) 商人で市長のポッペンヂュークが建てた かな
装飾のルネッサンス木造3階建ての建物である。この建物は橋でLeistHausと接続され
共に市博物館として使われている。
リュッキングの家 Lueckingsches haus (1368) 後期ルネッサンスの切妻のある3階建ての 木組
の家でゴシックと違って上階の張出はない。階の間の木材には天使や樹木の模
様が美しく碑文が書かれいる。1982に復元され塗装が美しい。
市民の家 Buerger Haus (1560) 3階建て切妻付の木組みの家で階間には扇状様が
描かれている。前面上階の張出は弱い。1980完全に改修された。
キュリア・エルサレム Kuria Jerusalem (1500) 修道院の参事が修道院外に住むための建物
で、骨格構造は大型の木材とゴソックの木骨構造である。1976市が復元し若者の
ための施設となった。
市庁舎 | ヘーゲル塔 |
ハンゲン塔 | ロートウンデ |
ランゲ通 | ランゲ通 |
ヴェルヘン城 | ヴェラ橋 |
802 フルダ帝国大修道院に寄付された、 1135 チューリンゲン方伯が町を設立、
1247 ブランデンブルク侯爵オットー1世が総合特権を付与して町は繁栄した、
1488-1585 ブランズウイック・リューネブルク侯爵が居住、1540 侯爵夫人エリザベスは摂政で改革、
1547 フランケンワインの生産、16c ヴェーザー川交易、1626 30年戦争でテイリー将軍が占領、
1727 アイゼンヴァルト博士が町で死亡、 1753-1854 ファイアンス陶器工場設置、
1757-62 7年戦争で仏軍が占領、 1776 ヘッセン軍駐屯、1783アメリカ独立戦争凱旋、
1868 プロイセン王ヴィルヘルムが林業アカデェミー設立、 1885-1972 郡庁であった、
1909 町は洪水で浸水、1934 再び駐屯地、 1945 2次大戦で爆撃2回で被害小。
12C初めの市壁が建てられ、15c大砲に対抗して要塞になり、19c大部分が取除か
れた。1997発掘調査で長さ90m幅1.8m高さ6mの二重市壁が確認された、
ルツウンデ Rutunde (1502) 町の南端にある唯一残った市壁の大きな門塔で、円錐屋根
付・直径18mもある。侯爵エリック1世の下に着手し1579に完成した。2階に入る階段
と市壁が門に付いている。今は世界大戦とナチスの被害者の記念碑となっている。
壁塔1 Mauerturm1 南、幅10mの馬蹄形で、高さは半分に成っている。
雹塔 Hagel Turm (13c) 1383にはフェリー小門とも言われ、フルダ橋の角に立つ幅8m高さ
40mの馬蹄形の市壁塔である。今は仕事の博物館であり、1848からの所有者の
ハーゲル・シュロスの古い機械・中世の町の防御についての展示がある。塔頂に登れる。
壁塔2 Mauerturm2 東、幅8mの馬蹄形の塔が立っている。
捕獲塔 Fangen Turm (13c) 東、バンホフ通りに直径8mの馬蹄形の塔が立つ。
ティリィシャンテェ見張塔 Tillyschanze (1881-85) 30年戦争でテリィー将軍が1626に攻城を建てた
所の西の山に観測塔として、2階建ての家屋と高さ25mの塔が建てられた。
129段の階段を登ると展望台がある。
旧市街の殆どが木組みの家574戸で占められ、美しい景観が保持されている。
町には鉄ひげ博士の話が残り、大きな注射器を飾った鉄ひげ博士薬局もある。
市庁舎 Rathaus (14c) ゴシックの市庁舎は1603-18ヴェーザールネッサンスに改築され、ピラミット
状の装飾と彫像で飾られた切妻がある。北側前面のカリヨンは12.15.17時に演奏
され、鉄ひげ博士のカラクリ時計が動く。マルクトでは鉄ひげ博士の寸劇も見れれる。
広間には町の歴史が描かれ、2階の祝宴会場は催物会場に使われる。
ヴェルフェ宮殿 Welfen Schloss (1501) 侯爵エーリッヒ1世はゴシックの宮殿を建てた。1560
大火で焼け、エーリヒ2世がヴェーザールネッサンスで再建した。その後重要性を失い、1849
火災で焼けた南棟は再建されなかった。宮殿の2棟には壁画が残り、今は市文
書館・市図書館・地方裁判所・市美術館となっている。
歴史的保税倉庫 HIstorischer Packhof (1839-40) 内陸運送の商品を積み替えるた
め、泊地の先端に2つの保税倉庫があった。大きく豊かな装飾の木組みの建
物とシンプルな建物がある。今は展示場である。
聖ブレイズ教会 St.Blasius Kirche (12c) 初めロマネスクのバジリカは、13cにゴシック3身廊の
ホール教会になった。1584単塔が付けられ完成した。発掘調査では2500m2の敷
地には墓地があり、1200には厚さ1.4mの周壁の囲まれていたが、1780取除かれた。
聖アエギディーン教会 St.Aegidien Kirche (1150) 初め礼拝堂と内陣・聖具室があり、そ
の後ゴシックの教会となり、1626隣接する火薬庫の爆発で破壊された。1773塔
が建てられ、再建された。祭壇前の内陣の部屋には1717にアイゲンバルト博士が
埋葬された。教会の北側には、1837にバロックの博士の墓石が置かれた。
古い木組の家 Fachwerk Haeuser 戦災を受けなかったので、ドイツで最も木組の多い
文化財な街である。旧市街地内の木組みの家は574軒在り、古くは13cからの
家もあり、14-15cゴシック21軒、16-17cルネッサンス178軒ある。迫り持ち出し・木組み
の美しさ・梁への碑文・歴史的な庇や入口など見所が多く、よく修復されている。
古い石壁 Alte Mauer (12c) Packhofの南に古い石壁が立っている。
市美術館 Stadt Museum (1898) 彫刻家グスタフ・エバーリエンのコレクションが主体である。
町の文化と歴史・ハンシュタイン家の磁器も展示されている。
市庁舎 | ヘレンハウゼン王宮庭園 |
市壁 | 市壁 |
950 市場町として存在、 12c ハインリッヒ・ライオンが開発し伯爵ローデンに封土、
1241 都市特権が授与された、 1350 市壁H8mと34壁塔、前に既存の堀と土堤、
1371 リューネブルク承継戦争で関税・風車権・防衛権を獲得、14c ハンザ同盟加入、
1426 14都市内陸航運貿易保護協定、1526 ライトビール醸造法発明、1533 宗教改革導入、
1625 テイリーの包囲を市壁で守った、30年戦争中は安全、 1626 ペスト流行で人口半減、
1636 旧新市街を近代新市壁で囲んだ、1692 侯爵エルンスト・オーガストは神聖ローマ皇帝へ、
1714 選帝侯ゲオルグ・ルードビッヒは英国王ジョージとして即位しロンドンへ移った、
1757 7年戦争で仏軍が町を占領、 1780 市壁の解体が始まる、
1803 仏軍はファーレン王国で10年間支配、 1814 ウイーン会議後ハノーハー王国の皇居が置かれた、
1886 プロイセン王国へ併合、1907 飛行場設置、 1945 空爆で町の中心部90%が破壊。
1350高さ8mの市壁と34の壁塔・3市門が造られた。その前面には既存の土堤に柵を
建て堀を設け、30年戦争は守り抜いた。1636旧市街と新市街を合わせて要塞が造ら
新たに市壁が囲んだ。1780要塞の必要性がなくなり取り壊しが進んだ。
歴史博物館と銀行の前に僅かの市壁が見られる。
ペギン塔 Beginen Turm (1357) 中世要塞の最後の部分で、歴史博物館の一部とし
て5万ユーロで元の場所に4階建て馬蹄形の塔が復元された。
ドーレン塔 Doehrener Turm (1382) 市壁から200m外側に約4mの内径で1.3m璧厚の3
階建の円塔の頂上に見張り所が置かれた。1486侯爵ゲルフに襲われ壊されたが、
1488に再建されたが、30年戦争後には軍事的意義を失った。1650までは通行税
を徴収した。1888塔の改修が行われ、住宅や厩舎は1930に解体された。2次大
戦で損傷したが1975市民の寄付で修復された。今は小集会に使われる。
馬塔 Pferde Turum (1373) 市壁から東20m外側に、一辺4mの正方形4階建の望楼があ
る。下から3.8mは小石積それから上は煉瓦造で、1892木材床と失った屋根を付
けて馬宿になった。その後森林盗木監視所になり、1890森林の家は壊された。
リスター塔 Lister Turm (1387) 市壁の東北に元望楼の5階建て円塔がある。木組の林業
家の邸宅と共に塔は音楽と演劇の大学として使われ、今は市のレクレーション
センターと庭園ビール酒場になった。
旧市街の木組みの家と、52の博物館や多くの公園がある。町の西北には広大な王室
のヘレンハウゼン公園があり必見である。
旧市庁舎 Alte Rathaus (1410) 北独煉瓦ゴシックの前面を破風で飾った3階建ての建物。
薬局翼はイタリアロマネスクに置き換えられた。1844取壊しの話があったが1500の
形態で修復された。侯爵の肖像画・紋章・中世民俗ゲームの展示がある。
新市庁舎 Neue Rathaus (1913) 皇帝ヴィルヘルム2世の就任時に、豪壮な新庁舎が市壁外
の南側の池の近くに建てられた。今でも市長の部屋があり、弓の射手像が前
庭に立つ。30mのドームの下にはホールがあり、東翼の斜めに上がるルフトで見張り台
に登れる。南にはガーデンルームがあり、池の美しい景色を楽しめるビストロがある。
マリエンブルク宮殿 Schloss Marienburg (1857-1866) 市外のPattensenにあり、丘の上に
夏の離宮としてハノーハー王国によって建てられたが、プロイセンに敗れたため完成し
なかった。18cからの家具・銀や銅の食器・王の図書・旧厩舎など生活が見られ
る。チャペルでは、結婚式・演奏・演劇等が行われる。
市場教会 Markt Kirche (14c) 北独煉瓦ゴシックの建物で4切妻の塔は計画の半分以下
で、2次大戦の破壊後に1952歴史的様式で再建された。多色の木彫祭壇・14c
内陣のステンドグラス・15c青銅の洗礼盤がある。
十字架教会 Kreuz Kirche (1333) 古いゴシッくの教会内部は1537クラナッハの設計であり
1655塔が再建された。この教会のある黄金の角は家並の美しい地区にある。
旧市街 Alte Stadt (16c) 歴史的な木組みの前面に囲まれた旧市街には、落ち着い
た狭い路地もあるが、戦災で40戸程度しか残られていない。市場教会と旧市
庁舎のある木材市場の周りに復元した切妻の4階建ての木組みの家は美しい。
1566最古の木組みの家は、キャッスル通り12.のKnochenHauerである。木材市場の
ライプニッツに家は、1498に建てられ1652改装されゴルトフリート・ライプニッツが長年住んだ
が戦災で壊され、詳細に復元された。
ライネ宮殿 Leine Schloss (12c) 旧王宮で、ザクセン州議会である。12cフランシスコ会修道院は
1537世俗化され、侯爵カレンベルガーが1636から改修して住んだ。宮殿の北西翼は
1742に改築された。1816-44新古典主義で建物を完全に建て直した。6コリント式
柱列が並び、南側は3部屋とマンサード屋根でむしろバロック調である。2次大戦の戦
災後に1956-62再建され、南翼は近代的な商工会議所になった。
ヘレンハウゼン公園 Herrenhaeusener Garten (17c) 町の北西に王宮の公園がある。性格を
異にする4つの公園で構成されている。GrosserGarten:仏式、BergGarten:稙
物園.霊廟、GeorgenGarten:博物館、WelfenGarten:。
ケストナー博物館 Kestner Museum ゲーテの恋人シャルロッテ・ケストナーの息子によって創立された。
世界の古貨幣・古代ローマ.エジプトの遺物・12c金銀細工・独陶磁器などの展示。
ニーダーザクセン州博物館 Niedersaechsisches Landes Museum 美術館:中世ルネッサンスと独仏
の印象派・19c絵画彫刻、考古学:石器時代から中世の遺物、自然史:化石.古生
類.昆虫、民俗学:中世文化と生活、旧王国:ハノーハー.英国.アイルランド。
シュプレンゲル博物館 Sprengel Museum (1979) 現代美術の展示。独表現主義・20c後半の
絵画.彫刻.写真.グラフィック。
歴史博物館 Historisches Museum (1985) ペギン塔と新設建物に開設された。ハノーハー
市とザクセン州の歴史と文化・ハノーハー王家の文物を展示。
ハノーハー美術協会 Kunst Verin Hannover (1832) 権威ある美術団体であり、現代美術の
支援と展示を行っている。
ケストナー協会 Kestner Gesellschaft Hannorver (1916) ドイツ最大の美術団体で、国際的
な現代美術の展覧会を開催している。演奏会や朗読会も開かれる。
市立美術館ファウスト Kunster Halle Faust (1991) 現代芸術の出会と展示の場。文化
イベントも行われる。
修道院博物館マリエン Kloster Museum Mariensee (1207) シトー派の女子修道院で、作家
エーリッヒ・クラーンのコレクションが見られる。ニーダーザクセン尼僧院の歴史と建物が見られる。
城館博物館 Museum auf den Burghof (1969) 伯爵の城の中に2千m2の展示場があり、
ハンマー・ミル.鍛造.陶器.製靴.室内装飾.石の彫刻の生産展示、地質学.考古学.台
所.洗濯用具.布製品の加工品.農業生産等の展示がある。
航空博物館ラウツエン LuftFart Museum Lautzen Hannover (1995) 35機の飛行機、400
航空模型、20エンジン部品、熱気球、ヘキコプターの展示が73千m2の展示場にある。
テキスタイル美術館 Museum fuer Textile Kunst (2007) 世界の織物と加工品の展示。
現代アート財団 Stiftung Ahlers ProArte (1995) 現代アート財団であり、美術展や航航
などが行われる。
シュタインフーダー Steinhuder Museum 古い工芸品や文化・オモチャの展示。1984まで住んでい
た職人の家がそのまま残され、漁業の歴史や漁船・1860-1960の玩具とオモチャの
文化史が展示されている。
甲虫博物館と蝶々園 Insekton Museum und Schmetterlings Farm (2000) 鳥小屋、
昆虫や蝶の10万以上の標本、熱帯植物園に大小の蝶が舞う。
旧市庁舎 | モミ塔・北壁 |
ハルデック城ムースハウス | ハルデック城東棟 |
ハルデック城西棟 | 聖モーリス教会 |
1266 騎士ロドルフのハーデック城を初言及、1379 城は侯爵オットーの住居と国の事務所、
1383 ブランズウイック侯爵オットーは都市権・市場権・関税権を授与、町は市壁の建設、
1387-1466 ゲッチンゲン公国が支配、 1467 貴族ロストルフが町を支配、
1678 大火災で町は殆ど焼失、 1757 7年戦争で兵士が駐留し疫病流行、
1807 ヴェストファーレン王国の設立、 1814 ハノーハー王国へ、
1866 プロイセン王国へ。
ブラウンシュバイク・ゲッチンゲン侯爵オットーが1383都市権を与えた後に、1390から1440
に市壁は造られた。市壁の高さは6m、幅1.4m、長さ800m楕円形であった。
19cに市壁は武器の発達から存在意義を失い、門や塔は住居や作業場になった。
1842に市壁や塔は採石場となり、1884以降は販売された。1988からは大規模な
塔の改修が始まり、市壁も復元が行われた。
かっては上下の2門が要塞化され、1595までには8塔(南5、西2、北1)が追
加強化された。現存するのは北の1塔である。
見張塔 Wachturm (1400) 石造の円塔は、高さ11m、直径4.1mで、今の頂部は
18cに改修された。塔内は25ステップで11m2の部屋に登り4つの窓から市内が
見張ることができる。19cには市民に住居や作業場として使われ、1884に
は市壁全体が売却された。1912に改修され、1985復元改装して歴史展を開
催した。2004木組の上階部を再構築した。
斜面の町で最も高い所に城があり、東南に向かって下がっている。城と木組
の街並みがある静かな小さな町である。
旧市庁舎 AltesRathaus (1416) 周囲よりもやや大きい2階建ての木組の建物で
あり、1678の大火災で今の姿になった。ラッツケラーは1932私有財産となり1959
に復元され、旧市庁舎も修復された。1952市庁舎はOhlmorscheに移転した。
聖マウリツス教会 St.Mauritus Kirche (1423) ブラウンヴィック侯爵オットーの未亡人が以前
の教会の場所に、11c当時の守護聖人のために教会を建て、そこに埋葬され
た。1579-80に修復が行われ、1765-89屋根や塔の改修、1986-93建物全
体の改装、2005鐘楼と屋根の解体修理が行われた。
ハーデック城 Burg Hardeg (1000) 最初の城は西の岩の台地上に建てられ、Hardech
城と呼ばれ、1266に初文書言及された。14cに騎士コンラッドと貴族ロスドルフが
拡張し、大きなMuthausesの建物や要塞の溝が造られた。16c中から1820ま
で城はヘンデルセンの役所の場所であり、1820からハノーファー王国、1866プロイセン王国
となった。1972城の複合体は町の所有となり、今は展示場・講演会・会議場
として使われている。
木組部屋通 Fachwerk Stube Strasse 旧市街の一番北側の通りで、何度かの火
災で建て直された18-19cの小さく狭い木組の家が坂道に並び、職人や鉱
山労働者などが住んでいた。
エラマイラー博物館 EllermeirsMuseum 代官屋敷は1977に復元され、バイオリンの博物
館になった。
旧市庁舎 | 修道院教会 |
834 皇帝はCorvey修道院に土地を与えた、 11c 町は要塞・交易所を備えた、
1130 裁判所はラーフェンスブルク侯爵が相続、1252 ミュンスター司教はラーフェンスブルクから買収、
1250 都市権を授与された、 1268 町はライン・エルベ川都市連盟に参加、
1351 都市連盟の契約はハンザ同盟に拡張、 14c 町はミュンスター教区に550年間所属、
1733 都市火災で45戸焼失、 1751 都市火災で51戸焼失、
1803 教会の公国が溶解し町はアレッベルク侯爵へ、 1826 主権ははノーハー公国へ、
1849 都市火災で101戸焼失、 1866 ハノーハー王国はプロイセンが併合、
1945 米英軍は町を占領、 1946 町はニーダーザクセン州に帰属。
市壁の位置は判然としないが、西のクライナーハゲン沿いの壁が市壁の跡では。
見当たらない。
旧市庁舎 Altes Rathaus (13c) マルクト広場の旧市庁舎は、火事の後1850に半円アーチ方
式で建てられ、1894に古い様式をレンガ造で複元された。
市庁舎 Rathaus (1652-67) 今の市庁舎は、マルクト広場の南の外れにある2階建の建物
に移っている。
聖ビンコンティス教会 St.Vincontius Kirche (10c) 初めはシンプルな木造であったが、1200
石造で拡張されて建て直された。16cに今の教会はゴッシクの背の高い3廊の建物
となった。西側は墓地で要塞に近接している。
クラリセン修道院 Klarissen Kloster (1668) 町の北東に修道院が建てられ、1812世俗化
で修道院が廃止され、1685献堂の修道院教会が残された。学校開設1833孤児施
設、1972メッペン郡が教会や学校を買収して、体育館施設とした。
三位一体教会 Ev.luth.Dreifaltigkeits Kirche (1901) 初めは小さなフラットと祈りのホー
ルが造られた。二次大戦後多くのルター派難民の急増で、1951教会は拡張され教区
が設立された。1955鐘楼が追加された。
西ホルト・城臣下館 Wester holtsche Burgmannhof (1592-1612) 北のリッター通にBere
ntzen蒸留所があり、古い木組の家が囲んでいる。2階建の塔は14cの古い世俗
的な構造物で、市壁に含まれていた。
醸留所博物館 Breunerei Museum (1984) 元蒸留所の敷地に蒸留所博物館が開設され、
収蔵した古い機器や写真で上流の技術を説明している。
郷土博物館 Heimart Museum () 伝統的な木組の家と中庭に、町の歴史と生活を町の
鍛冶屋・納屋・工芸品・歴史的展示などを展示している。
市庁舎 | 家来塔 |
壁塔 | 東門 |
北壁 | 北東壁 |
東壁 | 南西壁 |
Juleum | |
800 ベノディクト会聖ルトゲリ修道院設立、 952 オットー1世文書に初言及、
1199 マグデブルク大司教が町を破壊、 1230 市壁の建設、
1247 都市権を授与された、 1286 北門として守衛門が建てられた、
1426-1518 ハンザ同盟に加入、 1524 宗教改革の導入、
1576 侯爵ジュリアスはステファン教会に大学設置、1810 ナポレオンは大学を廃止、
1832 ブランズヴィク公国の郡庁所在都市に、1874 ブランズヴィク炭鉱で露天掘り、
1945 空爆の被害、英国管理で国境の町に。
1230から市壁は造られ、北東部と南西部に残っている。
かっては8門あった。唯一北門が残り、まだ4基の残基が見られる。
守衛門塔 Hausmanns TorTurm (1286) 高さ36mの正方形の門塔で、守衛が
この塔に住んで火災の見張りをして市民に知らせた。2002塔は改修
され町の結婚式場が設けられた。
トルコ門 Tuerken Tor (1716) 南東の市壁の外に立ち、オスマントルコ戦勝記念に凱
旋門として建てられたが、1945空爆で破損し、1986に再建された。皇帝
と大修道院長の紋章が飾られている。
東塔 Osten Turm (13c) 東北、3階建ての角塔に平屋根。
長距離通商貿易の主要都市でハンザ同盟にも加入して栄えた。16-17cの木組
家が400以上もあり景観が保全されている。ヴェーザールネッサンスの大学の建物も壮大
に復元され、修道院・市壁・市門なども残されている。東西国境の遺跡もある。
市庁舎 Rathaus (1904-06) ネオゴシックの正面切妻3階建ての簡素な建物。
聖ルトゲリ修道院 St.Ludgeri Kloster (800) マグデブルクの聖Liudgerが交易路に
修道院を設立して町の重要性が増した。16cの宗教改革にも抗して継続し、
1802ナポレオンの世俗化まで修道院は続いた。修道院の資産は公国が所有し、
1980修道院の建物はカトリック教会のために使われた。
マリエンベルク修道院 Kloster Marienberg (1136) マリエンベルクの上にアウグスチィーノ会修
道士が創設し、町を壊滅した1199の戦いでも無傷であった。1279の相続
戦争で略奪に在った。19c中にほぼ完全に修道院は復元された。
ジュロイム Juleum (1592-1612) ヴェーザールネッサンスの建物で、大学の17棟の校舎とし
て建てられた。1765嵐による階段塔の損傷に合わせて補修された。1810
の大学閉鎖後には地元の学校として使われた。1966-71大規模修復と入
口が南に移された。講堂は40*17mで南中央に高い8角の階段塔H50mを持
ち、西側に切妻のある2階建ての赤色の建物である。旧大学ヘルムシュタット図
書館には、1490からの35千冊の図書が保全されている。昔の大学に神学
・法律・医学の学部があった。
市博物館 StadtMuseum (1753) 元裁判所に古家・馬小屋・納屋・庭等が農業や
工芸品を中心に展示している。
市庁舎 | 聖マリエン教会 |
東北土堤 | 北西土堤 |
13c 伯爵ルドルフは要塞化された町を築く、 1552 宗教改革を導入、郡庁となる、
1640 最後の伯爵の死で郡は3分割、 1633 オルデンドルフの戦でスエーデンに勝利、
1756-63 7年戦争で仏軍が勝ち補償金徴収、1807-13 ナポレオンはファーレン王国で支配、
1866 プロイセンによる併合でヘッセン・ナッサウ州へ、 1932 ハノーハー県に含まれた、
、1945 第2次大戦の被害は免れた。
土堤は自然の風景の中に保護されているが、市壁は見当たらない。
3つの切石積の円塔跡が、土堤の南東・南西角と北に、検出可能である。
土堤の北に在る市民強制塔の中で、1886の裁判所・刑務所の建設までは、刑の
執行が行われた。
ヴェーザールネッサンスのミュンヒハウゼン館は堂々たる邸宅である。多くの木組の家が復元
されて美しく見られる。対岸へはフェリーが運行している。
聖マリア教会 St.Maria Kirche (1250) 町で最も古い建物で、教会にはかって鐘楼があっ
た。町の中心の教会広場に位置し、周囲に牧師館や集会所がある。今の建物は14
c末に建てられ1886に改新された。中に1590最後の晩餐と17c磔の絵。
ミュンヒハウゼン館 Muenchhausen Hof (14c) ヴェーザールネッサンス2翼3階建ての邸宅と多角形階段
塔があり、装飾的な帯模様が見られる
木組みの家 Fachwerk Haeser (16c) 多くの木組みの家があり、1945-88に30以上の古
い木組みの家が失われた。今は老朽化した木組の家は修復される。
Langer Strasse47.(1585) 復元された。
48.(1621) 大部分が碑文や帯状模様を残して再建された。
60.(1576) 市会事務室、彫刻飾りの切妻、1709ポーチ付加。
62.(1550) 自立切妻と突出階がある、19cに拡張した。
63.(1563) 2階建ての切妻が扇型の建物。
84.(1746) 半寄棟屋根の2階建。
85.(1500) 木造構成のかっての銀行の建物。
90.(1563) ロゼット模様で飾られている。
MItter Strasse 1.(1543) 町で最古の住宅、ロゼット飾りは1585追加。
Sued Strasse 2.(1550) 復元された板の家。
10.(1607) 職人の古い家。
12.(1608) 職人の古い家。
市庁舎 | ドーム |
ケアヴィーダー塔 | 南門と南壁 |
南東壁 | 西壁 |
聖ゴーデハルト教会 | ギルド会館 |
聖ミカエル教会 | 木組家マルクト |
マルクト広場 |
800 教区への援助記録が初言及、 815 王ルードビッヒが司教区を置いた、
1167 市壁で囲まれた市場町になる、 1196 旧市街の隣に市民の新市街形成、
1300 旧市街に司教が都市権授与、 13-17c ハンザ同盟に加入、
1626.32.34 30年戦争の包囲と通行料支払、1711 ハノーハーの駐屯で自治の終焉、
1803 プロイセンはハノーハーを併合して町を支配、1815 イギリス・ハノーハー家に割り当て、
1824 旧市街と新市街の統合、 1866 プロイセン領となる、
1945 2次大戦の空爆で町の40%破壊、 1948 忠実な復元が教会から始まる、
1990 マルクトは木造の高い建物で美しく復元。
南のKehwiederTurmに50m、SendanStrasseに170m、HangenTorWallに
340m見られる。西から南に4割2.5kmの中世の水堀付の土堤は並木の歩道になった。
ケールヴィーダー塔 Kehrwieder Turm 南の古い市壁に唯一残る塔で、中に暦の
展示がある。
黄色塔 Gelber Turm (1886) 黄色のれんがの展望塔で、1999大学の天文台。
町は中世の美しい建造物を保って来たが、1945の空爆で壊滅し、忠実な復元が
教会やマルクトで行われている。南に戦災を逃れた木組みの街並みがある。
市庁舎 Rathaus (1246-90) 改増築を重ね、1950に単純化されて復元されたゴシック
の建物で、仕掛け時計が12.13.17.時に動く。
大聖堂 Dom (11c) ロマネスクのバジリカを11cの姿に戦後復元。ただし脇祭壇はゴシック、
交差部丸屋根は18cの形に復元されている。1015青銅鋳物の扉は有名。
中庭には樹齢1000年のバラが聖堂後陣の壁に茂っている。中には11cの
シャンデリア・11cの洗礼盤・11cのブロンズ記念柱などがある。
聖ミカエル教会 St.Michaelis Kirche (1033) 二つの内陣を持つバジリカ教会堂は、疎開
された12cの天井画を使って1957に復元された。
聖ゴーデハルト教会 St.Godehard Kirche (1172) 3本の塔を飾る細い尖塔が特徴で、優
雅なシルエットは昔の姿を留める。
聖十字架教会 Heilig Kreuz Kirche (11c) 11cの古い要塞門を改造したもので、
バロックの前面の後ろにロマネスクの教会がある。
神殿の家 TempelHaus (1230-30) マルクトの南にある東洋風の建物で、1591ルネッサンス風
出窓の下には、放蕩息子の物語が描かれている。階段切妻と2小円塔は、
おそらく16cに付けられたものであろう。
屠殺業会館 Knochenhaueramts Haus (1529) ゴシック9階建ての木骨組の堂々たる
建物で肉屋のギルドの誇りが示され、1990までに忠実に復元された。
木組の家 Fachwerk Haeuser WedekindHaus1598:木彫装飾に飾られたルネッサンスの
木骨組建築。LuentzelHaus1755:バロックの木組の家。BaeckeramtsHaus1451:
パン屋・ギルド会館。Bruehiviertel:南に戦災を免れた木組みの街並みがある。
1606ベルナー家1548ヴァッツフェンシュミーデ家は美しい。
。
レーマーと磁器博物館 Roemer und Polizaesu Musum 古代ローマ・エジプトの遺物と
中国磁器を展示。
市庁舎 | 旅館 |
税関 | 住居・商店 |
1258 交易の場として村が設立され男爵が城を建てた、 1296ブランデンブルク辺境伯は城を破壊、
1248 大火事で村は全焼、 1605-35 ヤンガーは町に法廷を置いた、 1642 スエーデン軍が城を破壊、
1650 町は城を取除いて建物を建てた、 1668 町は大火事で大被害を受けた、
1972 州の改革で周辺の町と大合併、 2002と2006 エルベ川の大洪水で浸水被害。
市壁は存在しないが、洪水対策の堤防が、建設されてエルベ川の洪水から町を守っている。
中島の洪水堤防は珍しいので、市壁の代わりに取り上げる。下流側の閘門で陸側に渡った始点から、
中島のエルベ川沿いに上流に標高の高い地点まで、0.94kmの洪水防止堤防が築かれた。途中の道路
との交差点には、防水柵を差し込んで止水する構造になっている。この洪水防止堤防・水門・ポンプ場は、
2006-08に34万ユーロで完成した。
見当たらない。
17cの木骨造の建物と1589の旧税関のある中島は、全体が歴史的記念物として保護されている。
市庁舎 Rathaus (1589) 装飾用レンガの切妻フレームがある2階建レンガ造の建物。
聖ヨハネ市教会 Stadt Kirche St.Johanis (1824) 長方形の平面で白く塗られている。
切妻屋根には赤いバンタイルの屋根がある。
税関 Zollhaus (1589) 2階建漆喰レンガ造の高い野石の基礎に木造バロックの玄関がある。
税関として建てられ、18cに西に拡張され、1886まで税関として使われた。今は旧税関博物館である。
市庁舎 | 北壁 |
東北壁 | 東南壁 |
木組家 |
1135 ルッターと呼ばれる村として初言及、ヴェネディクト会修道院のロマネスク教会を建立、
1400 ブランズウイック侯爵は町の憲章を授与、 1571 大火災で町の市庁舎を焼失、
17c 醸造権を得て73醸造所が造られ、オランダにデュックシュタインビールを輸出して繁栄、
1796-99 薬剤師が医薬品を発明、
初めはマルクトとマルクト通りを囲むだけの一次市壁であったが、15cに町の膨張に
合わせて拡張された。今は、一時市壁の北東角周辺180mとWallStrasse220mと、
二次市壁の北西Gerichtsweg400mと西Aid.Heidteuchsriede630mに残る。
見当たらない。
16cの美しい木組の建造物がMarktStrasseやMittelgasseなど随所にある。
市庁舎 Rathaus (18c) 全ての管理機能を収容するため二つの建物がある。明るい黄
色の建物は昔の正義の評議会と裁判所から儀式用と布商人の展示スペース<となり、
1831再建され食堂となったが今は市庁舎である。オレンジ色の建物は古い修道院の
物であったが宗教改革で民間所有となった。その後サミエル・ハーン博士が住んでいたが、
町が1905に市庁舎とした。
皇帝大聖堂 KaiserDom (1135) 南に離れてロマネスクの3身廊の教会がある。これはベネディ
クト会聖ペテロとパウロ修道院教会であり、皇帝ロタール3世が創設し、未完成の内に埋葬
された。多くの皇帝ロタールの遺物を備え、中世後期には巡礼の場所になった。大
聖堂の南に在る回廊は北独で最大級である。2002-09オルガンを含めて復元された。
近くには、町博物館(1986)が旧石工学校跡に開設され、石工の伝統工芸と機械
式音楽楽器250が展示されている。
市教会 Stadt Kirche (12c) 聖セバスチャンとファビアン教会と呼ばれ、15cに元の身廊は取り
壊されて新築されたが、ゴシックの塔は今も残っている。1744湾曲した屋根は改築
され、1802身廊の柱とアーチは取り除かれて拡張した。
醸造所 Brauhaus (1624) 醸造所は円アーチのある大きな塔に沿ってあり、戸の上の梁
には特別の文字と飾りがある。
ケーニッヒルッターの城 Burg von Koeniglutter (1200) 水城であり堀に囲まれていた。北に
は沼沢があり側面からは攻められなかった。代官はブラウンシュバイク侯爵の指示を受
け町の管理を行った。その後郵便局・簡易裁判所・住家として使われた。1967大
部分は取り壊され空の門屋と隣棟が僅か残る。今は監獄。
町の図書館 Haus der Stadtbuechrei 梁に格言と文様のある木造2階建の古い醸造所
の建物である。その中には商人オットー・クラーゲルの取集物を収蔵。
十分の一税倉庫 Zehnt Haus 収穫の十分の一を税として収める場所であり、正面は豊か
に飾られ、翼には聖書の格言が書かれた木組の建物である。
木組の家 Fachwerk Haeuser WedekindHaus1598:木彫装飾に飾られたルネッサンスの木
骨組建築。LuentzelHaus1755:バロックの木組の家。BaeckeramtsHaus1451:パン屋ギルド
会館。Bruehiviertel:南に戦災を免れた木組みの街並みがある。1606ベルナー家
1548ヴァッツフェンシュミーデ家は美しい。
レーマーと磁器博物館 Roemer und Polizaesu Musum 古代ローマ・エジプトの遺物と中国磁器を
展示。
市庁舎 | 商工会議所 |
民家 | 聖ヨハネ教会 |
木製クレーン | アムザンデ広場 |
956 王オットー1世の文書に聖ミカエル修道院に税関を与えた、 10c 塩の生産地となる、
13c 欧州最大の塩の生産地になった、1235 リューネブルク公国の王宮となり都市権授与、
1247 町は拡充された、 1356 ハンザ同盟に加入し豊かな町として繁栄、
1371 町は大公マグヌス1世を追放した、 1392 再販権を得て自由帝国都市として繁栄、
1560 町は塩の販売不振で急速に衰退、経済の不振で歴史的な街並が保存された、
17c 30年戦争とペスト流行で衰退加速、1810-13 仏軍が占領、 19c駐屯地の町に、
1945 第2次大戦の被害はない、戦後古い建物の建替が進んだが、1970からは旧市街
の復元が行われている。
15cの市壁は、北部Hinterder Bardowicker Mauerに80mが再建されている。地盤
沈下で市壁に亀裂が発生し、12mの杭を打って基礎を補強して2010に復元された。
給水塔 Wasser Turm (1907) 高さ56mのネオゴシックの給水塔で、展望台からの眺めは良
い。1985に不要となり、1998給水塔教会が塔を買って改修して、文化イベントやお
祝いのために使われている。
16cまでの伝統的な切妻に特徴のある木組や煉瓦造の民家が保存されている。
マルクト広場を取り囲んで市庁舎・教会など煉瓦造の堂々たる建物に圧倒される。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1230) 古い建物はその後拡張され、ゴシックシック期に壁と天井
に絵のある裁判の間・天井画のある王侯の間・古い文書館・事務室・市長室が属す
る。ルネッサンス期の見事な木彫の大評議会場1566-84があり、ゴシック期に忠誠の広間・
マーク・ファサードが生まれた。塔にはマイセン磁器のグロッケンシュピール付の時計がある。この
建物は、今でも市の行政の中心として使われ、美しい部屋をガイドツアーで訪れる
事ができる。
聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (1407) ゴシックの3身廊のバジリカで8つの切り込みのある
恒星ボールトの身廊は贅沢である。水地区に在る小さい船頭の礼拝堂であった。19
cには多くの修復が行われた。尖塔は1587に完成したが、1831に老朽化で解体
され、1895にネオゴシック98mの塔が新築された。中には、美しい中世の特徴的な
ゴシックの絵画と彫刻が所蔵されている。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (927) 洗礼堂として始まり、町で一番古い煉瓦造の建
物で、ほぼ正方形5身廊のホール教会にはかって39の祭壇があった。今の教会14cの
もので、中は広大で、主祭壇は聖人の生涯を描いた木彫祭壇が飾られ、数回修繕
されたオルガンはドイツでも古い16cものである。ここで若いセバスチャン・バッハがオルガンを
学んだ。108mの塔は強い西風に対抗するため頂上で2m西に傾いている。
聖ミカエル教会 St.Michaelis Kirche (1376-1418) 最初の教会は石灰岩の山に建てられた。
14cに関連の修道院と共に新しい教会が町に建てられた。1701-02に修道院学校
の聖歌隊にセバスチャン・バッハが所属していた。
ワカサギ市場 Am Stint Markt 古いクレーンと美しい家並みがある古い港地区で、ここでワカサ
ギが取引された。今はロマンティックな飲み屋街である。
古いクレーン Alter Kean (1346) 木造を鉄で覆われたクレーンは、イメルナウ河畔に立ち19cには
英国からの機関車を最後に荷卸しした。
砂の広場 Platz am Sande 町で最古の市場で、美しい切妻屋根の煉瓦造の建物が並ん
でいる。階段状や蝸牛状の切妻は特殊である。
ハイネの家 Heinrich Heine Haus (1569) 1822-26にハイネの両親が住み、ハイネもよく訪れて
いた。1986-93大規模改修が行われ、今は登記所・文学事務所や催物に使われてい
る。文学事務所ではハインリッヒ・ハイネ文学奨励金を授与を行う。
リュウネ僧院水車 Luener und Abts Muehle (16c) 二つの水車は歴史的な港地区に位置し、
リュウネ水車は修道院のために壊され、修道院は修道院長の水車を参事会の一家に再
び与え、水を町に導き1530の塔を使って貴族に水を供給した。
古い百貨店 Altes Kaufhaus 港に在りダット・ヘリングの家とも呼ばれ、塩とハンザの繁栄の面
影がある。1959に放火で焼け、バロックの前面1530のみが残った。
妊娠の家 Schwangeres haus 家の外壁の石膏が水を含んで膨張したために 湾曲した家
がWaageStrasseにある。
沈下範囲 Senkenges Gebiet (16-17c) 塩水を汲み上げたため、市庁舎の西は明らかに
沈下している。Auf dem Meere には16-17cの美しい住宅・手工業所。
上オーリンク通 Ober Ohringer Strasse 昔は3段登って戸口に着いたが、今はは明らかに部
分的に下に下がらなければ戸口に着かない。典型的な北ドイツの木組の家が密接し
て建てられている。
評議会図書館 Rats Buechrei (1555) 図書館は初めに市庁舎に設立されたが1555に修道
院の図書館に合わせて元フランソスコ会修道院に収容された。地階のゴシック広間には市純文
学、回廊には原稿と古版本、中庭の教区未亡人の家には児童・青年図書、合計で16-
18c:2万冊、19c:1.5万冊もある。
産業と商業会議所 Industrie und Handels Kammmer (1548) 印象的な木組の建物で、今
の商工会議所である。二つの切妻のあるルネッサンスの建物は様々に使われ、二次大戦後は
醸造所・食堂・小売店・銀行等として使われた。
ブロムゼの家 Broemge haus (1406-26) 商人の家として建てられた古い木組の切妻付の家
で、その後製塩所所有者ブレムゼが住んだ。正面にはハンザとブレムゼの紋章が飾られてい
る。1937カール・ミューレン社が建物を借りその後購入して、今はドイツ・バルト文財団と東欧独文
化と歴史研究所所有し、催物に使っている。
ドイツ塩博物館 Deutsches Salz Museum (1980) リューネブルク塩生産は、956-1980に地下から
含塩水を汲み上げ鍋で煮沸して微細な評判の良い食塩を生産した。その製造過程と
歴史、塩味について説明している。
東プロイセン州立博物館 Ost Preusseisches Museum 700年にわたる東ドイツの風景・文化・歴史
を記録し、狩猟と森林の歴史・琥珀・金銀製品なども展示している。
ビール醸造所博物館 Brauerei Museum (1485) 北独で唯一の醸造所博物館で、クラウン醸造の古
い機器・カップなどが展示されている。
リューネブルク博物館 Museum Lueneburg (2016) 公園博物館と自然史博物館と町の古文書など
を含めた大博物館である。
自然博物館 Naturmuseum Lueneburg 森林・湿原・ヒース等の自然の保全の展示。
リューネブルク公国博物館 Museum fuer das Lueneburg 都市と公国の歴史と文化。
市庁舎 | 管理局 |
旧市薬局 | 聖ヴュート大聖堂 |
834 皇帝ルードビッヒはメッペン修道院を言及、 945 鋳造・関税・市場の特権を授与、
1252 公爵夫人はミュンスター司教に町を売却、1360 町は都市権を得て市壁と堀を建設、
1408 市庁舎の建設、 1462 ガシック教会建設、 1532-52 改革の導入、
1614-28 30年戦争で新旧が交互に占領、 1660 司教は町の要塞を拡充、
1762 7年戦争が終わり要塞は取壊された、1803 アレンベルク公はライン右岸を取得し公国、
1810 町は仏王国に併合、 1814 アレンベルク公国はハノーファー公国に割当、
1866 ハノーファー公国はプロイセンに併合。
1360に壁と堀の権利を付与され、要塞は数回の再構築を繰返し、最後の星型の要
塞は今も旧市街の周辺に見受けられる。防衛土塁は1762に土地壊されたが、元の洪
水防止用の土堤が何世紀にもわたって並木道として存在している。市壁はない。
見当たらない。
オランダ国境にある古い要塞の町で、エムス川とハーゼ川合流点にあり、地域の政治・文化
・経済の中心地として賑わっている。
市庁舎 Rathaus (1408) 塔のある古い後方庁舎の前に、1605地下室のある3アーチの2階建
の上に5列の切妻が乘っている。中世のハンザ同盟を示す塔がある。今はカフェとして使
われ、歴史的な議会室はレセプションや市民の儀式が行われている。
主席司祭教会聖フィタス Propstei Kirche St.Vittus (780) 小さなパプテェスト教会が、後にバジリ
カになった。建替えや改築が1225.1463.1870に行われ、ネオゴシック3廊西ポータル教会の内
陣は延長した。古いロマネスクの玄関は花嫁の門と言われ1980に再設計された。には偉
大なゴシックの祭壇画がある。
ボッケロッホ教会 Kirche Bokeloh (918) 948にはエムスラント最古のキリスト教会の一つであった。現在
まで中央部に中世の建物の一部が保存されている。1462内陣が成長し窓が新しいゴ
シックとなった。1512に塔が付けられ、1903-10内装はネオゴシック化された。1990大規模
な改修の後に魅力的な外観となった。
市公会堂 Stadt Haus (1816) 医師によってレンガ造で建てられ、1936市の行政が移転して、
後と両側を拡張した。階段では展覧会が定期的に行われている。
武器庫 Zeug Haus (1752) 選帝侯クレメンスは城の跡に武器庫を建てて、要塞の武器・弾薬・軍
事時備品を保管した。19cには石鹸工場が設立され、その後住宅として使われた。
ヘイルの家 Hexl'sches Haus (1809) 仏の支配下に議員のために建てられた。1810にはメッペ
ンの知事事務室となった。新古典主義漆喰の内装となっている。今は地方銀行が使
っている。
蹄鉄 Hufeisen (1960) 1374の門衛がこの位置に在ったことから、歩道の舗装埋め込まれ
おまじないとなっている。
市博物館 Stadt Museum (1805) 古典的なレンガ造の2階建の世俗の建物は商人フェルナンドが建
てた。侯爵アレン・バークが1835に購入し廷史の事務室・住宅として使った。1990市立博
物館として、市の歴史と文化を展示している。
考古学博物館 Archaelogisches Museum 石器時代からの歴史的・文化的な発展の様子を
展示し、現代美術館でもある。の事務所である。
市庁舎 | 監督官の家 |
ランデストロスト城 | 歩行者ゾーン |
1200 ヴェルペ伯ベルンハルト2世が新しい町を建設、 15c 銀貨の鋳造、 1543 宗教改革導入、
1505 クレンバルク公は政府の議場を置いた、 1563 城は火事に、 1573 ランデストロスト城の建設、
16c 町を堀と要塞1.8kmの市壁で囲む、 1626 30年戦争の15日間の包囲の後占領、9年間駐屯、
1632 占領を開放、 1727 大火事で100/108戸焼失、 1730 現在のレイアウトで再建、
1730 再建にゲオルグ2世は10万タラーを寄付、 1855 ガラス工場の開業、 1857 製鉄所の開業、
1913 高さ260m電波塔の建設、 1945 戦災は殆ど免れ、赤軍が占領。
ランデストロスト城の建設に合わせて、北に1.80kmの、高さ9.0m厚さ2.3mの市壁が建設され、1948
まではほぼ保存されたが、旧市街地が10haと狭いため、市壁は取壊された。
1986-87の発掘調査で、古い要塞の遺跡と100mのケースメートが発見された。
見当たらない。
切妻付き木骨造の建物は、数回の火事と、戦後の取り壊しで僅しか残っていない。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1728-29) 砂岩高基礎の上に寄棟屋根平屋の建物であり、
大火事の後1728-29に再建され、1830に古典主義で再設計された。漆喰の正面には二重の階段が入
口に繋がっている。
聖母教会 LiebFrauen Kirche (13c) 教区教会として建てられ聖ペテロに捧げられた、1500
-02にゴシックで大規模な改修が行われ、1727の火事の後に、ジョージ2世の修復資金で再建された。
1787以降何度か修復され、屋根の勾配がたいらになり後期バロックで装飾された。
監視所 Vache Haus (19c) 夜警の家として建てられ、消防署としても使われた。
市庁舎 | 聖マリエン教会 |
薬局 | 博物館 |
中世 ニーンブルク要塞は壁・堀・柵で建てられたが遺跡はない、 1225 ホヤ伯爵から都市権を授与、
1345 ホヤ伯爵が分割後も死亡までは住んだ、 1582 ブラウンシュバイク・リューネブルク公が所有し要塞建設、
1625 テリー将軍の包囲を守った、 1627 帝国軍が占領し略奪した、 1635 ゲオルグ公が町を奪還、
1657 要塞・城門・町のを復興に時間を要した、 1715-23 最初の石橋がヴェーサ-川に架けられた、
1714 ハノーハー選帝侯がイギリス王ジェームス1世となった、 1757-58 7年戦争で仏軍が占領、
1803 仏軍が再占領、 1810-13 仏帝国に属した、市壁を撤去、 1936 プロイセン新市庁舎建設、
1945 英軍が進駐。
1212に要塞化され、30年戦争で破壊され、1736に再建されたが、1807-08に仏軍に破壊さ
れ撤去された。今はヴェーザー川沿いに、わずか痕跡がる。
棒塔 Stock turm (1700) ホヤ侯爵の旧水城の宮殿塔で、この町で最古の構造物の
一つである。30年戦争後に宮殿は壊され、塔は仏軍の監獄として残された。
市庁舎 Rathaus (15c) 建物の中心は今も後期ゴシックで、中庭側には修道院様式
の大きなレンガが露出している。1582にヴェーザールネッサンス様式に再設計され、砂岩で造られた西入口と切
妻があった。バロック時代には、砂岩アーケード上のマルクト側に木骨造で拡張された。1778に鐘と時計があった
塔が付けられた。2011にはこの塔が複製に置き換えられた。
聖マーチン教区教会 Stift Kirche St.Martins (12c) 初めの12c後半のロマネスクの建物
は南側の台座通路と北壁に囲まれたロマネスクの門に残されてぃる。1345と15cに搭を除いて現在の外観とな
った。 塔の基盤は13cであるが30年戦争で大破し、その後は高さ72mの非常用の塔が置かれた。
聖ブラジーン教会 Blsien Kirche (10c) 修道院聖ブラジーンは、ベエディクト修道士によって
千年前に設立され、ミュンスター・プラッツは町の格の一つとなった。11cバイエルン
侯爵の墓所となり、今でも地下に墓があり、ガイドツアーで訪れる事が出来る。
修道院の複合体としてゴシックの古いラテン語学校(1474)や聖ブレイズ礼拝堂
旧役所 AltesAmtsHaus (18c) ホヤ伯爵の下に統一された行政の役所が置かれ、維持され
た。今の建物は18cに2階建木骨造ので建てられた。
警察学校 Polizei Akademie Niedersacksen (1853) この建物は、始め北ドイツ建築
技師学校として建てられ、700人の学生が学んだ。2007からは警察大学生の幹部候補生が学なんっだ。
市商館 Stadt Kontor (18c) 2階建木骨造の建物は、住居・学校・市庁舎と変化の多い用
途に使われた。1999からは改修を行って、市民事務局となった。
市博物館 StadtMuseum (1935) この博物館は3つの歴史的な建物で構成される。16cの
古い民家、1485の農場の建物などが使われている。中に、アスパラガス博物館もある。
市庁舎 | 西北壁 |
西壁 | 南壁 |
ブラジ教会 |
910 王は城を築く、929 クヴェトリンブルク王ヘンリー1世は妻マチルダに町の収益を与えた、
961 女王マチルダは未亡人の修道院を設立、 962 オットー3世は市場権・鋳造権を授与、
1158 皇帝フリードリッヒは財産を女性修道院に、1180 皇帝フリードリッヒとザクセン公の戦争、
1220 町は自由帝国都市に、女子修道院は大聖堂に、1290ハプスブルク王ルドルフ権利確認、
14c 自由帝国都市の全盛期、 1430-32 ハンザ同盟に加入、
1524 町に宗教改革を導入、 1612 町は大火災、1630 30年戦争で衰退、
1703 ブランデンブルク・プロイセン軍が占領、 1757 7年戦争で仏軍が占領、
1802 プロイセン王国に併合、 1807-13 ヴェストファーレン王国へ、仏軍占領、
1816 プロイセン州のエアフルトの地区へ、 1943 ロケットV1とV2を製造、
1945 第2次大戦の爆撃で建物の74%破壊し人口の21%が死亡。
半分以上の市壁が丘の斜面に残っている。老朽化した石積は更新されている。
ペトリ塔 Petri Turm (1362) ペトリ教会の一部として62mの高塔が建てられ、
1731塔の下の部分に警備員を置いた。1945教会は破壊され、1987新しい帽子を付
け、見張り塔として使われている。
市庁舎にはローラント像がある。ブラジウス教会の尖塔は1634の火災で壊れ左右不均等
に修復された。木組みの家・市壁がよく保存されている。
市庁舎 Rathaus (1360) 3階建ての市庁舎は1945爆撃で焼失し、1952に再建
された。中央にゴシックの鐘楼が立ち、5アーケードの窓が前面に目立つ。東部の入口の
上に紋章と碑文が置かれている。碑文には「410年ローマ皇帝による都市の創設」。
谷間の聖マリア教会 AltenDorfer Kirche St.Maria in Tale (1294) 元は3身廊
ゴシックの尖塔付の教会で、修道院教会として建てられた。1639西側廊が除かれ、
後に塔と北通路が造られ1697に再奉納された。この時から西壁に木製ギャラリーや
オルガンのロフトが置かれた。18c半ばから北の祭壇や説教壇が付けられた。
ブラジウス教会 Blssii Kirche (1234) 市内で最大の新教教会で、1350改修が
行われ、1634に南棟に落雷があった。1945爆撃で壊れ、1970年代に修復された。
2002抜本的な改修がなされた。中には、1592説教壇がある。
キュリアシ礼拝堂と施療院 Cyriaci Kapelle und SiechenHof (13c) 1284礼拝堂
は病院に建てられた。1788病院は老人ホームに拡張され、1815まで使用された。一時
刑務所にもなり、1823礼拝堂は老朽化して取り壊された。1845-46漆喰2階建木造
の広間が古い基礎の上に造られて老人施設で使われ、1991音楽学校になった。
聖十字架大聖堂 Dom zum Heiligen Kreuz (961) 旧城の敷地内に、ゴシック3身廊
ハレン教会が建てられ、13cシトー派女子修道院となった。1813-44身廊と塔は
大規模補修が行われた。1945歴史的な屋根が焼失し、1964ゴシックの急勾配の屋根
が修復された。
山の上の聖マリア教会 Frauenberg Kirche St.Maria auf dem Berg (1200) ロマネスク
3身廊の十字型柱バジリカで古い教会である。1536改革後に学校となり、1557
修道院の廃止の後に市立女子学校になった。1945身廊が壊され、翼廊と聖歌隊の
みの今の姿になった。
聖ブラジ牧師館市庁舎 PfarrHaus St.Blasii (1544) 美しく芸術的な木組の
建物であり、1713に2階建て長方形の木組の家として屋根からの装飾で飾られ建替
られた。1706-26牧師が住んでいた。
真の北の家 Echter Nordhaeuser (1360) 伝統的な蒸留所が設立され、1907-08
今の場所に蒸留所を設けた。リキュールは試飲も購入もできる。
IFAモーター博物館 IFA Motorenwerke 2011にIFAの製品を実演・展示した産業
博物館を設立した。ディゼルエンジン・トラクターなどが展示されている。
ヴァルケンリーダー館 Walkanrieder (1292) 初め穀物倉庫として建てられ、修道院
に買収された。1345拡張され何回か火事に遭ったが外壁は維持された。1540.1712
の火事の際に窓の形状が変化した。19c税関・税務署・市図書館として使われ、今は
博物館の保管・修理場所。
ノミ城博物館 Museum Flohburg (1330) ローマ時代の地下室を持つゴシック3階建木組
の建物は、元は騎士団の家であった。1789-1815町の劇場を収容し、1905避難所と
なり、1968改装して子供の図書館「ノミの城」となり、2000古い町の博物館となった。
タバコ店博物館 Museum Tabakspeicher (18c) 2階建ての木組の家は、20c葉巻・
タバコの倉庫となり、1994「煙草の家」は工芸・商業・産業・考古学の博物館となった。
フィンケ博物館 Finkenburg (1444) ゴシック2階建木組みの家はギルドハウスとして建て
られ、1993放火で焼失し、1997復元された。今は郡手工業組合の事務所である。
旧守衛所 | 北東壁 |
南東壁 | 南中壁 |
西壁 | レッダーセンの家 |
1002 ノルトハイムのジークフリートはマイセン辺境伯を殺害、1100 修道院聖ブラジーンの設立、
1252 町が誕生し都市権を得て市壁建設、 14c 町は市場・鋳造の特権を得た、
1384 ハンザ同盟に加入して町は繁栄、 1539 新教となり聖システーナ教会が中心、
17c 経済は衰退し30年戦争で略奪された、 1702 政府による自治体憲法の制定、
1807-19 ヴェストファーレン王国へ、 1892 タバコと砂糖加工で工業化、
1945 旧市街の大半で戦災は免れたが、周辺は空爆された。4月米軍占領。
市壁は都市権を授与された後1252-1305に建設された。新たに現れた銃撃に
対抗して、15cに高い壁と堀を設けた。1627テリー将軍と戦って破壊された。
1982-88に3か所を復元した。全長1.75kmの内約半分が残っている。
旧市街の市門は1773に道路拡張に伴い新しく広い門に置き換えた。1848
市門は意義を失い排除された。
醸造所塔 Brauereiturm (1468) 上門は二重門で造られ、1739-78に塔には
醸造所が収容された。
草取塔 WeiterTurm (1442) 望楼は山の上に築かれ、1883に土台の上に3階建
の塔が完成した。
この町は主として16-18cの木組の家で構成し、旧市街は各年代毎の木造建築
の特徴を良く保存している。教会・旧修道院を含む宗教建築も多く見られる。
旧市庁舎 Ehem.Rathaus (1324) マルクト広場に在ったが、1832の火事で焼失して市
庁舎は移転し、1895その場所に民家が建てられた。
聖システーナ教会 St.Sixti KIrche (13c初) 中世のホール教会からの塔や地下室が残さ
れ、1425の祭壇廊や1734のオルガンを収容している。1469-1519後期ゴシック3身
廊で63mの塔のある教会になった。
聖ブラジーン教会 Blsien Kirche (10c) 修道院聖ブラジーンは、ベエディクト修道士によ
って千年前に設立され、ミュンスター・プラッツは町の格の一つとなった。11cバイエルン
侯爵の墓所となり、今でも地下に墓があり、ガイドツアーで訪れる事が出来る。
修道院の複合体としてゴシックの古いラテン語学校(1474)や聖ブレイズ礼拝堂
(1515)もある。今は登記所・催物会場として使われている。
病院聖スピリッツ Spital St.Spiritus (1500) 修道院の巡礼者用病院が拡張された
印象的な木組の建物に、町の博物館が設置され、薬局も併設されている。
ファビアンス・セバスチャン礼拝堂と旧守衛所 Fabians Sebastians Kapelle und AlteWache
(1349) ペストの終わりを感謝して建てられ、1738小さな塔が付足された。
旧守衛所は1734に礼拝堂に接して木組で建てられ、今は高齢者の集い
の場と催物に使われている。
市民の家 BuergerHaus (19c) 町には市民の家が調和のとれた都市景観を生して
いる。1832の大火災の後に3階建の木組の家が一斉に建てられ、1892の火事
被災後にも東部で印象的な煉瓦造の民家が建てられている。
レーダーゼンの家博物館 RedsersenHaus und Museum (1420) ゴシックの古い木組の建物
であり、1986マリー・レーダーセンの死後レーダーゼン財団が管理し、1997に修復して今は
観光案内所と博物館の展示場となっている。
アヒル広場 Enten Platz 旧市街地の北西に在るアヒル広場の周囲を華麗な木組の民家
が復元され、壁にはバラと蔦が植えられている。
広幅街路 BreiteStrasse(16c)大聖堂広場とマルクト広場を繋ぐ街路で、今は歩行者
専用道路の中心にある。ここには16cからの木組の街並が残されている。
最も美しい家として、後期ゴシックのKasse Boersche Haus(1566)があり、
3階建の前面には豊かな装飾が見られる。
旧市庁舎 | 北壁 |
北東壁 | 西南隅壁 |
9c ルードヴィッヒ2世は修道院を設立、 1181 皇帝バルバロッサは市場権を付与、
1498 砂岩・無煙炭の採掘、 1565 村はオットー4世から小さな村の特権:住民農奴解放を付与、
1571 印章の使用権を付与された、 1615 ショームブルク伯爵エルンストは町の権利を付与した、
17c 町はヘッセン・カッセルに属した、 1799 ガラス工場の設立、 1805 ナポレオン軍が町を占領、
1813 ヴェストファーレン王国の一部へ、 1960無煙炭の採掘は終了、
Hinter den Graben沿いに点々旧市壁の残骸がある。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus 3階建の新しい市庁舎が建っている。
聖マリア修道院聖堂 Stiftkirche St.Marien(1167)アウグスチーノ修道院は1167に古い
修道院の代わりに、2重尖塔のあるロマネスクの建物として設立された。火事の後1355にゴシックのホール教会とな
り、1565の宗教改革後はプロテスタントの市教会として使われた。
オーベルンキルヘン修道院 Stift Obernkirchen (11c) 11cにアウグスチヌス修道院として設立さ
れ、宗教改革後はプロテスタント貴族尼僧院として再建され、ナポレオン支配下で解散したが、ヘッセンの支持を得
て1814に女子修道院として使われた。
ラッツケラー Ratskeller (16c) 市庁舎の向かいにある旧評議会のケラーは、1555の火事の後
に建てられ、地階は荒石積み上階は木造漆喰仕上で、2本の砂岩の柱の上に美しい出窓がある。
エトカーの家 Stadthaus der Familie Oetker () エトカー家の本部として使われ、1993に
復元されて、2階建木枠に赤レンガを詰めた構造である。
鉱業管理局 Vermaltungs Gebaeude (1865) 鉱業管理局の建物として建てられ、
1960に無煙炭の採掘が終わるまで使われた。今は高齢者施設である。
工業検査官の家 Berinspekteren Haus (1890) 家の隅に八角塔のある2階建の建物
で、工業局長が住んでいた。後には石炭の管理者が住んだ。
鉱業と市の歴史博物館 Museum fuerBergbau und Stadt Geschtde (18442) 2
階建9窓列の校舎の建物で、1870-1960にカトリックの学校であった。
市庁舎 | 火薬塔 |
市街地 | 宮殿 |
8c フンデ川の渡河容易な浅瀬に集落が発生した、 1032-42 ハイデンウオールが東に建設された、
12c オルデンブルク伯は堀のある城を建設して通行料を徴収した、 1292 ブランケンブルク修道院の建設、
1345 ブレーメン伯コンラート1世は市場権を付与、市壁と堀と5門の要塞、 1418 2円塔・跳橋の二重門、
1448 オルデンブルク伯クリスチャンがデンマーク王へ、 1457 スエーデン王にも選出、 1460 ホルスタイン伯にも、
1603 ギュンター伯はバロック宮殿に改装し、30年戦争の被害から町を守った、 1661 ペスト流行、
1632 ブランケンブルク修道院は世俗化で解体され、財団として救貧院・孤児院を継続、 1676 大火災、
17c 町は要塞化されデンマークの前哨基地であった、 1777 オルデンブルク公国へ、公国管理者が支配、
1811-13 ナポレオンによる仏への併合、 1818 都市へ、 1849州憲法制定、 1867北ドイツ連邦へ、
1919 ワイマール共和国へ、 1945 空爆被害は軽微、英軍が占領。
西南のエバーステン門(1529)の前のツインガーに火薬庫があり、市壁に最後の部分として生き残っている。
レンガ造の3階建で、当初は丸天井の上の平らな砲塔で構成され、17cに要塞の拡張に伴いツインガー搭
の上に円錐屋根の塔が付けられた。デンマーク要塞時代(1730-65)に火薬塔として使用された。
火薬庫が放棄された後1842に二重アーチ門は取払われ、1964に旧火薬庫は市へ移管され、1966に
歴史的建造物として登録された。1995-96に発掘調査が行われ一部接続壁の修復再建が行われた。
見当たらない。
旧市庁舎 Rathaus(1888)ネオゴシックとネオルネッサンスの様式が混じっている。
聖ペーター教会 Roemisch Kath.Kirche St.Peter(1876)ネオゴシックの赤レンガ造3通路
ホール教会。西塔は入口のある巨大な4階建75mの塔門である。2次大戦は生き延びたが、1972の嵐で
尖塔が落ち1973に14m短くなって再建された。
オルデンブルク宮殿 Schloss Oldenburug (1562) 最古の町家で、指定建築物。倒壊の危
険性があり、2010-12に修復された。地階に観光案内所、上階には文化的施設がある。
ラッパン Rappan (1467) 3階建の四角搭でフードと尖塔が付いている。かっての石造ハインリッヒ・
ガイスト教会の鐘楼で、1日に3回礼拝時に鐘を鳴らした。その後は後続の建物に接続された。宗教改革
で鐘楼と礼拝堂は世俗化された。ラパンは現在居住な望楼である。
デコデの家 Degode Haus (1502) 中世の貴族の家として建てられ、1617に今の形になり、
結婚祝いとして贈られた。1860からはデコデ家が所有した。 1645の木製天井画は1790に漆喰で覆
われ、1997に再発見された。
ペーター・フリーデリッヒ・ルードビッヒ病院 Peter Friedrich Ludwigs Hospital (1838-41)
病院基金に基づき貧しい人のための病院として、新古典の前面で建てられ、1841に138ベットで開業し
た。1992市立図書館や音楽学校として使われた。
市庁舎 | 東壁 |
東土堤 | 東壁塔 |
ペアニッケル塔 | バーレン門 |
ブルゲンゲホルザム | ブックス塔 |
西壁 | 宮殿 |
780 カール大帝が町の基礎を築いた、 800 シャルマーニュ朝の下に教区で初の司教設置、
851 オスナブリュック教区文書に記述、 1002 ハインリッヒ2世は市場・鋳造・関税権を授与、
1171 皇帝フリードリッヒは裁判・都市権授与、1246 貿易保護のためミュンスター・ミンデンと提携、
1307 旧市街と新市街は合併した、 1348 共通の憲章を定めた、1350疫病流行、
1430.88 暴動が発生、1530 大火災、 1575.97.99 ペスト流行で町は衰退、
1613 大火災、1633 スエーデン軍占領、 1641 市庁舎の平和の間で30年戦争の協議、
1648 ウエストファリア条約を市庁舎で公布、 1803 仏軍占領、1813 ハノーハー王国に属す、
1843 要塞入札で1553からの市壁外建設禁止は廃止、 1866 プロイセンに併合された、
1945 町の94%が破壊され、115万m3の瓦礫が発生した。
12-13Cの市壁は、独立して新旧市街に設けられたが、1307に合併された。
HellingsMauer(1180-1250)二つの円塔が今も残る。18-19c構造上の変更がなされ、
20cに南の半円塔にはコンクリートのフード付けられた。1980-81大規模補修がなされた。
HoheMauer(1280)町を囲んだ市壁ではないが、Stadthausの構内に高い壁の残りが
ある。16cには部分的に壊され、19c初に基礎壁の上に二つの庭小屋の塔が建て
られ、1978-80修復され市壁の残りが確認された。
Herrenteichswall(16c)この土堤はHase川を越えて東側に築かれ、二重の防衛線は
高さ7mの土堤であった。1830に失業労働者の雇用のために壊されそうになった
が、堤頂幅2mに削られて残った。北の部分は1853鉄道建設のため失われた。
ヘーグ門 Heger Tor (13c) 北西、二重門としての塔・門・要塞・ツインガー・通路から
成る防衛施設は、1815全て取り払われた。1817ワーテルローの戦いでのオスナブリュック
の健闘を称えて両側に2本柱のある凱旋門が建てられた。
本塔 Bucks Turm (13c) 西北、城壁内の望楼として28mの塔であったが、1805荒廃
のため10mが壊され新しい円錐屋根となった。銃眼で壁厚を見ると大砲を乗せ
る想定であった。中世には町の監獄として使われ、1305リッペ伯爵サイモンはここ
に6年間投獄された。16-17cには魔女が捕えられ、今は拷問道具が置かれている。
市民従順塔 Buergergehorsam (1517-19) 北西、市壁に最後に付けられた円塔で、
1542アーチ屋根に改修された。全ての階に銃眼があり、璧厚は最大3.5mと厚い。
町を守るほかに反抗的な市民の拘束のためにも使われた。
熊塔 Baren Turm (1200) 北端、石壁に沿ってHasetor wallがまず在り、14cに1.5
mの厚い上流壁となり、その後3mの厚い壁と円形要塞が建てられた。1471今の
2階建ての塔が構築され、上層部に多くの銃眼が付けられた。30年戦争でスエーデン
軍は3年間の包囲の後に1633に占領し、この塔の後ろに3階建てのVitischanzeを
築いた。19c上部3階にレストランが開業した。
パーニケル塔 Parnikel Turm (13c) Hase川対岸のHerrenTeichWallに堰や水車を守る
ために建てられた。1891に川岸は壊されたが再建され、19c塔も再構築され家
具付きアパートになった。
封鎖塔 Gesperrter Turm (15c) 南の新市街の4階建て角塔で沼地を守った。過去
2世紀で塔は数回建て直され、2次大戦中は避難所として使われ、1980-84に
改装がなされた。
プリューマー塔 Pluemers Turm (14c) 南西、新市街の4階建て5.3m正方形の塔は、城の
近くの丘に立つ要塞の一つであった。19c住居として使われ、小さな窓やレンガ
抜け穴が地上階にはあり、2階には正方形の開口部がある。
司教区の中心都市で1802まで何世紀にもわたって首都であった。大きな町で古
い建物や木組みの家や市壁などが復元されている。
市庁舎 Rathaus (1244) 旧市庁舎は使用可能であったが、なぜか1487新市庁舎の
建設に着手され、1505棟上げされ1512建築は完成した。平和の広間の入り口
には、まだ完成していない1505の碑文がある。内装は平和の広間に座席を1575
に運び込んでほぼ完成した。高寄棟屋根は18mの高さがあり、入口の木製階段は、
1846説教壇付の石階段に置き変えられた。市庁舎の正面には、歴代の王の大きな
像が飾られている。1944爆撃で焼失し、ウエストファリア条約300周年を記念して1948に
新しい市庁舎を構築した。平和の広間には、当時の欧州の代表者42人の肖像画
があり、小会議室には1648ウエストファリア条約のレプリカが見られる。
宮殿 Schloss (1675-67) 司教の住居として、新市街の旧市街寄りに建てられた。
宮殿の複合体は、最初に1673庭園とアナトリウムのある本館が建てられ、後で翼が続
いた。1803から管理棟と内部が改修され、様々に使われた。1944爆撃で外壁が
壊れ1974から大学として修復された。
マリア教会 Marien Kirche (800) 初め木製の礼拝堂があり、11cに石造の単身廊ホール
教会となり、14cに3身廊ゴシックの教会となり、内陣とアーチは15cに追加された。
中には、1560砂岩の洗礼盤・13c内陣十字架・16c主祭壇がある。
聖ペテロ大聖堂 Dom St.Peter (785) 初めは後期ロマネスクの市教区教会として建てられ
たが、1100大火災の後に、壁に残りの上に強大な八角形の交差塔のあるドーム
が構築された。1218-77に今の形になり、15c北西の双塔は後期ゴシックの塔に
置換えられた。中は一松模様で、1225青銅洗礼盤・1230大十字架・16c八大使徒
は柱を飾る。
カトリック教会 Katharinen Kirche (12c) 後期ゴシックのハレン教会で始まり、1278教区は
大聖堂から独立した。塔は1420に建設が始まり1493に火災時には完成していた
が壊れ1511再建された。今塔の高さは103mとなっている。1945の爆撃で塔と身
廊が破壊され1946-50に再建された。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1256) 聖ヨハネ元修道院は1011新市街の中心に設置
され、初期ゴシックの教会は1256-92に建設された。14cの回廊・1440砂岩の聖餐
式の家と宝物殿は見所である。強力な西正面には両側に角塔が立ち、1996-97
大規模改修が行われた。宝物殿は第1日日曜日の11時に訪問可能である。
ルッター教会 Luther Kirche (1907-09) 人口増加による新教会の建設が行われ、塔の
高さ37mと50mに展望室を設けた。2次大戦の被害は少なく、内装はアールヌーボーの
塗装で、1985の修復で元の壁画を取り戻せた。
レーデン館 Reden Hof (1588) バロックの宮殿で着色された装飾で際立っている。16-19c
は貴族の邸宅であった。ハインリッヒ・レーデンは着色したルネッサンスの新館を建て、吹き
抜けには北独で最初の螺旋階段が設けられた。今は平和研究のための財団が
置かれ広間は催物に使われている。
町計量所 Stadt Waage (1531) 元ギルドの計量試験場で、今は結婚室と都市行政の
役所がある。
フォリックス・ヌスバウム美術館 Felix Nussbaum Haus/Kultur Geschichtliches Museum (20c)
前者はアウシェビッツで殺害された芸術家の作品を展示し、後者は地域文化の歴史
を展示している。
オスナブリュック博物館 Osnabrueck Museum トイブルクの戦いのジオラマがある。
ドミニコ修道院美術館 Kunsthalle Dominikanner KIrche (1971) 13c旧ドミニコ修道院の
ゴシックのハレン教会に、ニーダーザクセンの現代美術を展示。
1025 ミンデン司教の文書で城砦を堀・堤・柵を言及、1215 ホヤ家は町を設立し所有、
1225 都市権を授与されて防衛・市場・鋳造の事業を実施した、
1582 ホヤ家の断絶でブラウンズウイック・リューネブルク侯爵に落ち、 1866まで支配した。
16c中-17c初 町の全盛期であった、 17c 30年戦争で破壊と略奪、
1715-23 王ジョージ3世は最初の石橋を贈った、 1736 町の再建と要塞の修復、
1807-08 ナポレオンは市壁を破壊、、 1945 英軍が進駐。
30年戦争で壊れた市壁は、1730にヴェーザー川沿い市壁で、町の北東側と南東側
には星型要塞が設けられた。1807-08仏軍によって市壁は取り除かれた。
杖塔 Stock Turm () かっての係留場の遺跡で、レンガ造最上階は木造で
あった。4階建の四角錐屋根の角塔で、南東の端で階段塔が付いている。
木組の家や市庁舎・教会などの建物も中世の雰囲気が残っている。
市庁舎 Rathaus (15c) 1533建て替えられた市庁舎は、建物の中心にまだゴシックのレンガ
部分が中庭に露出している。1582西側の切妻と砂岩の入口はヴェーザールネッサンスで改
装された。バロック時代には市場側の鐘楼が付けられた。
市庁舎の周辺には2-3階建の美しい木組の建物が多く立ち並んでいる。
教区教会聖マーチン PfarrKirche St.Martin () 高い72mの塔のある教会。
パトリシアの家 Patrician Haus () 市内でも美しい木組の家。
フレーゼンホフ博物館 Museum Fresenhof (20c) 1985まで伯爵名残の騎士が住んでいた大
きな館は、今は博物館・美術館として使われている。
農業博物館 Museum Quaet-Faslem () 2階建の邸宅に農業博物館がある。
市庁舎 | マルクト |
ルーテル教会 |