ファイル | 州名 | 州数 | 小計 | 市壁無 | ||
bd1 | GS | 大都市 | g1-5 | +1 | ||
BR | ブランデンブルク | b1-42 | +4 | |||
BW | バーデン・ビュルテンブルク | v1-50 | 97 | +14 | ||
bd2 | BW | バーデン・ビュルテンブルク | v51-w67 | 116 | ||
bd3 | BY | バイエルン | x1-99 | 99 | ||
bd4 | BY | バイエルン | y1-z17 | 116 | +14 | |
bd5 | HE | ヘッセン | h1-i12 | 111 | +10 | |
bd6 | MV | メルケンブルクVP | m1-32 | |||
NS | ニーダーザクセン | n1-49 | 81 | +5 | ||
bd7 | NW | ノルトライン・ヴェストファーレン | o1-101 | 101 | +25 | |
bd8 | RP | ラインラント・プファルツ | r1-76 | +3 | ||
SL | ザールラント | l1-4 | 80 | +2 | ||
bd9 | S | ザクセン | s1-54 | +9 | ||
SA | ザクセン・アンファルト | a1-62 | 116 | +2 | ||
bd10 | SH | シュレスヴィヒ・ホルシュタイン | k1-4 | +7 | ||
TH | チュービンゲン | t1-60 | 64 | +8 | ||
合計 | 981 | +104 |
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
市庁舎 | ノルダー通 |
聖ニコライ教会 | ノルダーマルクト |
グロス通 |
12c デンマークの小さな町に騎士フレノは城を構築、 1232 町はハンザ同盟の影響下に、
1243 最初の文書言及、 1284 侯爵バルデモア3世は町に都市権を授与した、
1345 町の周囲に門塔のある市壁を築いた、1412 紛争後シュレスヴィッヒ公国はデンマーク領、
1435 ホルスタイン侯爵アドルフ8世は 世襲領土としてシュレスヴィッヒ公国を授与された、
1460 リューベックの繁栄と共に 町はデンマークで最重要な商業都市となった、
1618-48 30年戦争 と1713-21 北方戦争で15回も占領・略奪された、
1796 町の拡大による新市街と新北門の建設、 1848-51 独・デンマーク戦争で独領に、
1863 デンマーク王国へ、1864 プロイセンの進駐でプロイセン支配下に、1871 ドイツ帝国に、
1920 この町は国民投票で独に帰属、1945 最後の独帝国政府だったが被害は免れた。
城を守る都市要塞と市壁に囲まれた中心街区と、柵に囲まれたラムスハルド・聖教会が
あったが、19cに取り壊された。城の東側に300mとニコライ教会西側に60mが残っている。
外への道には全て門があり、大門の隣には野原や港湾へも小門も付けられ、城を
守る都市要塞も築かれた。主門は南の幹線道路へのRote門、東への大通にマリジア門、
東の町の境界にヨハネ門があった。1872Rote門が壊され、多くの門も消え、北門とその
外側の組合門のみ残された。
北門 Norder Tor (1345) 古い門から北へ100m移して1595-96に赤レンガの今
の門が階段切妻に紋章を飾って建てられた。ここが町の建物の北限であったが、1796
からは北へ建物が建てらる様になった。
組合門 Kompagenie Tor (1602) 船乗りの会議室として2階建てで建てられた
古い建物。中には、オランダタイルで飾られタイル樽広間があり見事である。中央入口上の切妻
には町の紋章と碑文がある。今は欧州少数民族問題センタとなっている。
細長いフィヨルドの奥にある港町で、港の遊歩道や町中のホルム通りは多くの人がいる。
旧市庁舎 AltesRathaus (15c) 旧市庁舎は今の町劇場の隣にあったが、1883
に取り壊された。後に昔の議会棟が市庁舎として使われ、1850-64にはシュレスヴィッヒ公国
の政治の中心であったが、1964この建物は壊され大きな百貨店が建っている。
市庁舎 Rathaus (1964) 南に立方体16階建ての市庁舎がたてられ、1997に全
面改修された。
デュー城 Duburg (1411) デンマーク女王マーガレット1世が建て、その後拡充され城壁と
堀で囲まれ守りも強化された。15cに何回か包囲され1431には降伏した。1645-48は王
宮として住居となり、1655スエーデン王グスタフに占領された。1723-25城は放棄され、孤児
院の建築資材として崩された。
聖ニコライ教会 St.NIkolei Kirche (1332) ゴシックの堅固煉瓦造りの教会で、中には
17cルネッサンスのオルガンがある。長さ52m幅21mの大建築物で高さ90mの単塔がある。1878の
落雷を受け塔頂はナオゴシックで修復された。1871に3鐘付替え、190917鐘カリオン追加。
マリエン教会 Marien Kirche (12c) 初めのロマネスク教会の基礎の上に1284ゴシックのホール
教会が建てられ、ナザレのマリアに奉献された。繰返し変換され1788身廊は大入母屋屋根と
なり、1878-80ネオゴシックの塔はバロックの帽子にされた。
聖ヨハネ教会 St.Johanis Kirche (1128) 教区には漁民や職人が多く郊外に位置し
石造教会が建てられた。中心はロマネスクであるが、内陣はゴシック煉瓦造で拡張され、フレスコ画
は19cに再発見された。木製の塔はバロックになった。中には1587説教壇がる。
旧フランシスコ会修道院 Ehem.Fransiskaner Kloster (1232) フランシスコ托鉢修道院の廃
墟の上に、1263シトー派修道院と精霊病院が建てられた。
精霊教会 Heiliggeist kirche (16c) 旧メアリ教区にデンマークの枝教会として建てられ
1588から教会となった。中世のフレスコ画・バロックの祭壇・幾つかの奉納船がある。
ドイツの家 Deusches Haus (1920) 帰属の国民投票を記念して文化的催場として2-3
階建て煉瓦造で建てた。音楽祭・短編映画祭が行われ、2007にはメディアセンターも収容した。
海洋博物館 schiffahrt Museum 旧関税を拡大・再設計して、西インドの旅・造船所・
蒸気機関・船乗り・マストの森などがある。
市立博物館 Staedtisches Museum デンマーク領を含むシュレスヴィッヒ・ホルスタイン地方の芸術・
文化史上の価値の高い歴史的家具や調度品を展示。
商人屋敷と貿易倉庫 KaufmannsHoefe und SpeicherHaeuser 海上貿易による町の
繁栄の様子が伺える。商人の館HandelsHoefe 芸術家の家KunstHaus 西インド倉庫など。
フレンスブルクの家 FrensburgHaus Museum (1725) 町の孤児院が建てられ建材はDubrug
から来た。後年兵舎となり、今はシュレスヴィッヒ文化を展示している。
フローマルクト左市庁舎 | 聖キコラス教会 |
1233-42 ホルシュタイン伯アドルフ4世は18haの半島に町を設立、1242、本土への接続部を守るため城を建設、
15c デンマーク王フリ-ドリッヒ1世は城を宮殿に拡張、1283 ハンザ同盟加入 1329 町は9門の石の市壁を建設、
1469-96 自由ハンザ同盟、1544 シュレスヴィッヒホルスタインゴットルン家が支配、1554 海賊としてハンザ同盟を追放、
1806 デンマークの一部となった、1815 ドイツ連邦に一部となった、1867 プロイセンはキールを海軍基地に、
1939-45 空爆で港湾・造船所・350隻の船・町の8割を破壊された。 1950 廃墟の旧市街地に新建築、
1329の9門ののある市壁と堀で守られた町は、2次大戦の爆撃と戦後の再建の際に取壊され、
今は北西のAlteFeuerwacke通りに、市壁の跡を舗装の色を変えて示している。GoogleMapでも、
その確認ができる。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus (19c) 赤い塔のある大きな5階建の建物で、旧市街地の西の外れに広
い市庁舎広場に立っている。
聖ニコライ教会 St.Nikcolai Kirche (1244) 市の設立と共にアドルフ4世によってゴシックのホール教会
としてレンガ造で建てられ、3身廊単後陣であったが、1486の落雷で全焼した。その後再建され、
16c塔とランツア礼拝堂が追加された。1877-84にゴシックに再設計され、新しい前面が付けられた。
1944の空爆で大被害を受け1948に補強された。1344の洗礼盤、1705のバロック木製説教壇がある。
キール宮殿 Kieler Schloss (1242) 北東部の守りとして、城が建設され、15cにデンマーク王フリー
ドリッヒ1世が宮殿に拡張した。1558-08にルネッサンスに建て替えた。1695-97に荒廃して再建された。
北方戦争後にシュレスヴィッヒ公国が支配し、ゴットルフ侯爵が住んだ。ロシア皇帝となるピヨトル3世の発
祥の地となり、皇帝の死後女王エカテリーナ2世が引き継いで、ルネッサンスの宮殿は大きなバロックの宮殿に
拡張された。1789ホルシュタイン公国はデンマーク王が支配した。独デンマーク戦争中は軍司令部と病院として
使われた。一次大戦後は州立図書館となり、1944に焼失した。
1960新設の東棟は州立図書館に、西塔は成人教育センター、南翼は歴史州庁舎となった。
ボートハーバー Boots hafen (19c) 商船の船着き場であったが、周囲が埋め立てられて公共広
場となった。
海運物館 Schff Farts Elbschffahrt Museum (1978) 旧魚市場にキール海運博物館が開設され
た。キールの漁業・運河・多数の船模型・小潜水艦などを展示。
市博物館 Stadt Museum (1993) 侯爵フリードリッヒ3世の書記官のために建てられ。現在の建物
は1765に再建された。1839にキール大学に売却され解剖学科が使った。2次大戦の空爆は生き延び
1967の大規模改修後に1970市の博物館となり歴史を展示している。
市庁舎 | 歩行者道 |
ホルステン門 | 聖ペテロ教会 |
ブルク塔 | 精霊病院 |
1143 侯爵アドルフ・シャウエンブルクはキリスト教商人の新集落を設けた、旧集落は数km先、
1157 火災の後に侯爵ヘンリーは今日の町と水路を建設、1160 侯爵はリュウベック法を授与、
1181 皇帝フリードリッヒは町を攻め取り特権を与えた、 1201 デンマーク王が25年間支配、
1226 フレデリック2世は帝国自由都市へ昇格、 1282 ハンザ同盟は軍船を持ち強力化、
1370 デンマークに勝ちバルト海の覇権を固めた、 1531 町は新教となり修道院は閉鎖、
1613 要塞で守り30年戦争は遠ざけた、 1669 インド航路でハンザ同盟最後の会議、
1806 中立を目指したが仏軍に占領された、 1815 ウイーン会議で再び独立国となった、
1871 リュベックの北ドイツ連邦はドイツ帝国へ、 1942 英空軍の爆撃で町の1/3が被害、
1945 2次大戦は英軍の無血進駐で終わった。
13cの市壁は、16-17cには星形要塞西側の港の対岸から南西にかけて設けられ、
前面には堀が置かれた。東側には昔は幅の広い川があったが、今は運河である。
市壁らしきものが残っているのは、北西城門に140m、ヴァケニッツ壁に110+20m、An
der Mauerに70mである。
4市門うち2門が残っている。
城門 Burg Tor (1227) 北門、昔は前面に市庁舎と同じ切妻のある2連外城
門、中城門は角塔で木製の落とし柵が付いていた。6階建ての後期ゴシックの角塔には
各階に多くな窓が付いている。1806仏軍占領の記録が東通路にある。1850西側通路
が付けられた。塔には青少年センターや住居として使われた。
ホルステン門 Holsten Tor (1469-1478) 市壁から西に突出した所に、大きな2円
塔に切妻付の堂々たる門がある。3層のアーケードと陶器製のフリーズが飾られた町側の装
飾が外側よりも美しい。この塔の中には市歴史博物館がある。
水車門 Muehren Tor (1242) 現存しないが、南門として4連続の門に守衛詰
所があった。1399にゴシックの大角塔と切妻付2門塔となり、16c要塞の拡大に伴いルネ
ッサンスのホルステン門風の外観となった。1798市壁の取除き、1809中塔1861内塔が取壊。
フュクスター門 Huexer Tor (13c) 現存しないが、東門はフュクスター土手に市壁と共
に正方形の門塔であった。1531の暴動で壊されたが再建され、1822に取壊された。
水に囲まれた島に、鐘楼が際立つ古いハンザ同盟の盟主の大きな町で、多くの記念
建造物が残っている。
市庁舎 Rathaus (1250) 市庁舎と通風孔のある高い盾形の壁は上質の黒煉瓦
で建てられ、重厚な圧迫感がある。北翼の前には砂岩造りのルネッサンスの突出し棟が付加
された。東翼の端には1440新居間の小窓が飾られている。全体として見事。
聖ペトリ教会 St.Petri Kirche (1240) 古いロマネスク3身廊の教会は、14cにゴシックに
改装され、15cに南側に4つ目の側廊、16cに北側に5つ目の側廊が加えられた。
塔上にはリフトで登られ眺望はよい。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1250-1350) ゴシック煉瓦造教会のドイツの典型で美
しい。飛び控え壁のある高さ38.5mの中央身廊の大教会に1350に高さ125mの塔が付け
られた。1942の爆撃で落ちた2つの鐘は床にめり込んだままに残されている。
聖ヤコブ教会 St.Jacob kirche 船員のためのゴシックホール式教会で、16cと17cの
二つのオルガンがある。南祭壇には細かい浅い浮彫がある。
聖カタリーナ教会 St.Katharinen Kirche(14c)入口上部の外壁にはバーラッハの彫刻
のある美しい教会で、中には宗教美術博物館がある。
大聖堂 Dom (1230) 古いロマネスクの教会は、13cに十字交差北側に美しいポーチが付
けられ、中には1477十字架上のキリスト像 1432商人たちの祭壇画がある。
聖霊病院 Heiligen Geist Hospital(13c)小塔付3切妻の建物で、礼拝堂には
13-14cの絵画が飾られ、施貧院の大広間に通じている。
聖アンナ博物館 St.Anna Museum 昔の修道院に博物館が開設され、町の古文化を
収集・展示している。宗教彫刻が多い。
ブッテン・ブロークの家 Budden Brook Haus (1758) バロックの前面の美しい家は1841
ブッテン・ブローク家が購入し1914まで所有し、トーマスマンの小説の舞台になった。今はハインリッヒ
とトーマスマンのセンターが置かれ、作家の生涯と作品を展示している。
海員ギルド館 Haus der SifferGesellschaft ルネッサンス階段切妻付の建物で、船乗
居酒屋の室内装飾をそのまま残して、今はレストランたなっている。
ベーン家とドレッガー家 BehnHaus und Draeger (1780-1810) 擬古主義の前面と美
しい内装のベーン家には、ロマン派から現代までの絵画・彫刻・美術工芸品を展示。
商人ドレッガーの家には、歴史的な家具や調度のある広間や居間があり、リューベックの画家
の絵が展示されている。
市庁舎 | クレンパー門 |
マルクト | 港 |
1244 シャウエンブルク伯アドルフ4世は21haの新都市を建設、 町は市壁と要塞に囲まれていた、
1350.1623 疫病が大流行、1391.1399.1419.1425大火事、1420 海賊は町を基地に略奪、
1638 造船所でデンマークの軍艦を建造、 1644 スエーデンが町を占領して造船所を破壊、
1711 疫病流行、 1806 デンマークの一部となった、 1815 ドイツ連邦に一部となった、
1867 プロイセンはキールを海軍基地とした、1750.1817 大火事発生。
13cの市壁は、1644にスエーデン軍が侵攻して破壊した、1907のクレムパー門の改修時に門の
北と南の市壁の位置に8mと10mの建物が建てられた。
クレムパー門 Kremper Tor (13c) 1907にレンガで建て直されて、階段切妻が追加さ
れた。アーチ門の上に上層の切妻がある。2007にZeit tor Museum が置かれ、中石器時
代から12cまでの考古学と地質学の展示と、子供のための「過去の生活」が見られる。
市庁舎 Rathaus (1818-20) 古典主義の平屋の市庁舎。
市教会 Stadt Kirche (1238) レンガ造ゴシックの建物、ゴシックの祭壇は、シュレスヴィッヒ大聖
堂から受け取った。3身廊正面の搭室をエントランスホールとしている。1238-44にごシックで飾ら
れた内陣。1334にホール教会からバジリカに改築された。1571ルネサンスの説教壇、オルガンは17c
鐘は14c。
港にある穀物蔵 hafen Speicher (1824) 港にある骨組の大きな2階建の倉庫。
今はレストラン。
7c スラブ族の集落があった。 12c ハインリッヒ獅子王はアドルフ2世に封土として授与、
1156-57 領主の条件として市壁の建設、 1257 司教ヨハンはリューベック都市権を付与、
1260 リュベック司教は評議会との争いに敗れ、オイテンに亡命し、大学を開設した、
1586 聖堂参事会は侯爵ヨハン・アドルフを領主司教とした。 1689 火災後城は拡充・新築、
1770 オイテンの最盛期で多くの有名人が町を訪問、 侯爵司教領リューベックは周辺含め公国に、
1800 町は侯爵家の夏の離宮となった、 1803 オルテンブルク大公国に含められた、
1945 第2次大戦の空襲からは免れた。
13cに市壁建設の記録があるが、今は見当たらない。
給水塔 Wasser Turm (1909) ネオゴシック煉瓦造の上部水槽部分が円塔から張出し
銅葺き円錐屋根の給水塔である。高さ38m容量250m3の大きさで、3階に今はギャラリィが
あり、現代美術の展覧会が開催される。
マルクトを中心とした旧市街地があり、木組みの家と新古典の建築物が並んでいる。
市庁舎 Rathaus (1789-91) 3階建て町で最初の漆喰仕上げの建物で、新古典主
義の前面を有し、多くの木組みの家の模範となった。次の時代の町には、前面漆喰仕
上げの建物が通りに並ぶことになった。
宮殿 Schloss (1160) リューベック侯爵司教は中世の市壁外に居住宮殿を建てた。
1260-75に今の東棟を石造りで拡張した。1293最初の礼拝堂が建てられた。1277から
宮殿には砦が築かれ、1350には強化拡大された。1439-86多くに建物が追加されルネッサ
ンスの姿になった。1689の火災と1705デンマークによる破壊があり、バロックで再建された。
18cが最盛期で70m×80m4翼の建物になり、バロック庭園が造られた。1918侯爵の退
位後、宮殿は博物館となった。
侯爵未亡人の館 Herzoglisches Witwen Palais (1786-87) ヘッセン・カッセル侯爵
未亡人のために新古典主義の建物を建てたが、未亡人は死亡して入居できなかっ
た。2000-03民間によって改修された。
聖ミカエル教会 St。Michaelis Kirche (1155-63) 初め木製の教会が建てられ、
1309石造の聖堂の長さは40mとなり、内陣と後陣は現存している。1594高さ67mの
塔が付けられ、1309大学が創立された。中には、13c木製十字架・1444銅の燭台・
1511青銅のフォント・16c墓碑銘燭台がある。
東ホルスタイン博物館 Ostholstain Museum (1869) 元の王宮厩舎に博物館が造られ、
1934東ホルスタイン州立博物館となった。リューベック公国の歴史・町を訪れた人物の生涯と作
品・オイティンの生活と仕事等を展示。1948旧聖ジョージ病院に新館開館。
州立図書館 Landes Bibrliothek (1736-38) 中世以来の旧侯爵裁判所書庫に19c
初めに6千冊の図書があった。1837市民の蔵書1万冊を含め大公公共図書館が設立さ
1れ、918君主制の崩壊後州立図書館となった。1994宮殿広場に改装され設立され、
移転した。
市庁舎 | 広場 |
ライオン像・聖ミシャエル教会 | 水城 |
11181-82 バーナードが獅子飼育場開設、 1209商業の町として言及、
13c初 ザクセン・ラウエンブルク侯爵家が1689まで支配 1209-46 マグダラのマリア教会の創設、
1350-1725 ペストの流行、 1398 リューベックの塩とライム船舶の寄港、
1417 侯爵エーリッヒ5世は船事務所権限を付与、 1618-88 数々の戦争で町は衰退、
1658 6時間の砲撃で城は破壊占領された、 1813 町で仏軍とコサック・チロル軍の戦闘、
1817 デンマーク王フレデリックは新橋に着手、 1850 工業化による産業開発、
1900 エルベ・リューベック運河の開通で町は寂れた、1945 最後の戦場となり砲撃された。
市壁は見当らない。
城塔 Schloss Turm (1477) 塔頂に見張り小塔のある3階建の大円塔で、塔
外に木製の階段があり上階へ登れる。今は時計塔である。
木枠の中に煉瓦を詰めた壁のある1513からの古い木組みの家並みが見られる。
城 Schloss (1182) ザクセン・ラウエンブルク侯爵の大きな城で、1616の火災と1656の
さ砲撃で残れたのは塔と2階建ての一翼のみで、今は市政を収容している。
侯爵庭園 Fuersten Garten und Grotte (1590) 銀杏の木のある植物園から
1656に侯爵
ユリアス・ハインリッヒによるボヘミアンバロック庭園の改装された。近年オリジナルに復元された。園内に
は洞窟もある。
古い家 Sltes Haus (1577) 町で最も古い家で、戸口の上の梁には1513の年号が
誤って表示されている。
古い商人の家 AlteKaufmanns Haus (1652) アリジナルに復元された家具調度の整っ
た町屋である。初めルネッサンスで建てられ、1769に織物商人はバロックに改造した。
エルベ通り Elbe Strasse 旧市街の中心にエルベ川の北岸沿う最古の通りである。
16cからの美しい木組みの2-3階建ての古い家並みが両側に残っている。
マクダレンマリア教会 Maria Magdalenen Kirche(1227)初めに礼拝堂として建てら数
回拡張再建され煉瓦造の教会である。1902尖ったゴシックの塔が付けられた。2次大戦の
損傷は1993に復元された。中には15-17cの芸術品が納められている。
エルベ舟運博物館 Elbschffahrt Museum エルベ川舟運の歴史と技術について、船の模
型・ナビゲーション・蒸気エンジンなどを展示。
外輪船 Raddampfer KaiserWikhelm 外輪船「ヴィルヘルム皇帝」歴史的な最後の石炭火
力外輪船で、よく保存され係留展示されている。
芸術の家 Kunst Haus 旧市街の中心にある木組の家で、国際的なシュレスヴィッヒホルスタイン
州の芸術と文学の奨学生の場所である。
木組煉瓦積家 | 木組家 |
エルベ川航行博物館 | マグダナのマリア教会 |
1188 皇帝フリードリッヒ・バルバロッサはリューベックの文書でこの町の権利を確保、
13c 教会の丘の入植地に都市権授与、1359 ラウレンブルク侯爵は町を帝国都市リューベックへ入質、
1391.1409 第火災で町は壊滅、 1600 リューベックは塩の道を守るため門塔・市壁を建設、
1700 ラウエンブルク公国へ、 1714 ハノーハー選帝侯の領地となり1803まで続いた、
1810-13 仏帝国の支配下に、 1813 仏からの解放戦争が行われた、
1816 デンマーク支配下のラウレンブルク公国へ、 1864 プロイセンはデンマクとの戦争に勝つ、
1865 プロイセンのシュレスヴィッヒ・ホルスタイン州へ、 1945 町は破壊を免れた。
17cに市壁は築かれ、19cに取り壊された。今も僅か残っているらしい。
配水塔 Wasser Turm (1911) 高さ30mの円塔の上に水槽の乗った機能的な配
水塔として建てられた技術遺産で、今は見張塔と自然博物館的な展示がある。
町の名前は、スラブ語で「濁った水」から来ている。塩の道に位置して栄え、
AmMarkt
には木組みの建物が取り巻いている。旧市街の北側は湖を見下ろす眺めが良い。
市庁舎 HistorischenRathaus (1373) ゴシック煉瓦造の珍しい新時代様式の建物
クで、ゴシッ階段切妻が南北にあり、北側が豪華で黒柚煉瓦が使われた。1896にネオゴシックリ
バイバルに改装された。1993から町の郷土博物館となり、歴史的な収集物を展示し、
ケラーは食堂になっている。
聖ニコライ教会 St.Nicokai Kirche (1250) 町教会は商人と船乗りの守護聖人聖
ニコライに捧げられた。15c拡張され礼拝堂には壮観な宝物・天井画・勝利の十字架がある。
町の隊長の館 Stadt Hauptmanns Hof (1359) ルネッサンス・レンガ造2階建ての建物で
町の隊長とその家族が住んだ。入口の上には2紋章と銘板が付けられている。20cに
はペスタロッチ学校として使われ、今は建築記念物として観光と自然の案内所となった。
町製粉所 StadtMuehle (1278) 3階建ての建物は、製粉工場で町の有力な財
源であった。1864今の3階建ての建物が新築され、1957に製粉所は廃業となった。
古い薬局 Alte Apotheke (18c) 切妻のある木組みの家にある薬局で、有名な
メルンの薬が調合された。1800この家にサミエル・ハーネマンの家族が住んだ。
オイレンシュピーゲル博物館 Eulenspiegel Museum (1889) 市庁舎の向かいの1582建
の市民の木組の家に、民間のクラブが博物館を設立した。1996に市の博物館として小
さな土産物屋の歴史とオイレンシュピーゲルの生涯や出版物の資料が展示されている。
1350にこの町でオイレンシュピーゲルが亡くなったと言われている。
オイレンシュピーゲルの泉 Eulenspiegel Burunen 足組をした道化師の像が泉に立つ。
市庁舎 | マルクト広場 |
木組家 | オイレンシュピーゲル像 |
1075 最初の文書言及、 1139 ホルスタイン伯爵アドルス2世はスラブ砦を破壊して支配、
1160 アドルス2世は城を中島から移した、 1236 町はリューベック法の都市権を授与、
15c 町はデンマーク王家に支配された、 1561-1761 町はゾンダーブルク・プレン王国の王宮へ、
1622 相続でデンマーク王国の中の公国に、 1633-36 新宮殿の建設で小独立公国の首都に、
1685 侯爵は町の北西の新市街地に手工業を集め公国の経済力を高めた、 西門の設置、
1761 公国はデンマーク王家に戻り夏の離宮に、 1864 ドイツ・デンマーク戦争で町はドイツに帰った、
1867 町はプロイセンの郡庁となった、 1945 5月英国軍に新帝国政府は逃亡。
見当たらない。
パルナス見張り塔 Parnass Aussichts Turm (1888) 高さ20m鋼製格子状の塔で町の美化協会
が建てた見張塔で、1985改装して展望台として開放された。
給水塔 Wasser Turm (1913) schsrwegの山の上に、42.5mのアールヌーボー煉瓦造の給水塔を
建てた。水槽は150m3スレート屋根で、今は家具付き休日の家となっている。
大きな湖のほとりの小さな町で、城のテラスから周辺の湖を一望に収める眺めはよい。
旧市街地には、木組の家が残る。
市庁舎 Rathaus (13c) 初めの市庁舎の上に1746再建された。今の建物は1816-18に有名建
築家ハンセンの設計で建てられた。1979-81に拡張・近代化された。前には石灰 岩のガチョウ姫
の泉がある。
宮殿 Schloss (1683-36) プレン公爵は古代の城の上に後期ルネッサンス煉瓦造3翼の宮殿を建てた。
地階には管理・料理・居間があり、2階には侯爵・夫人・王子・王女の翼があり、3階には公
務員を住まわせた。白色の塗装は、デンマーク王の下で18cに行われた。19cプロイセン軍将校団
の陸軍士官学校となり、その後国家政治教育研究支所となった。1975占領英軍の撤退後
2001まで学校が収容された。2002大改修され独眼科光学教育機関が入居した。再構築さ
れた礼拝堂は大ホールとなった。
皇太子の館 Prinzen Haus (1744-51) 侯爵カール・フリードリッヒは、ロココの館を南に建て、美しい
楕円形の広間は見事に装飾された。今は講演会・会議・結婚式場等に使用。
守衛詰所 Pfoerter Haus (1894-95) 城の経路を守るため陸軍士官学校の使用人住居として建
てられた。2階は士官候補生の禁固室であった。今はFielmannAkademie。
水泳場 KulturForum Schwimmhalle (1751-53) アールヌーボーの皇太子のための建物に、水泳場
が建てられ、学生の水泳授業が行われた。今は改修後催物場と食堂・プール。
ヨハネ教会 Johannis kirche (1685) 工芸職人のための新市街に侯爵がネオゴシックの木制の教会を建
てた。19cにバロックのシンプルな教会となった
ニコライ教会 Nikolei Kirche (1866-68) 。雷で焼失後60mの高塔のある巨大な煉瓦造の教会に
置き換えられた。音楽祭では演奏会場となる。
聖アントニウス教会 St.Antonius Kirche (1904) 侯爵は1903の競馬で自分の馬が勝てば礼拝堂を
建てると誓い、勝ってポーランド農業労働者にカトリック木製礼拝堂を贈った。1966に煉瓦造の
外壁と塔を拡大して再構築した。
プレーン郡博物館 Museum des Kreises Ploen (1981-55) 旧薬局に設立され、北ドイツ最大の
ガラスコレクション・町の工芸品・宮廷薬局の錫と銀の機器・先史時代や初期の歴史にも焦点を当
てている。
市庁舎 | 湖の小道 |
宮殿 |
11c スラブ族が城を建て周壁で囲った、 1062 ハインリッヒ4世は侯爵オルヅルフに城を与えた、
1154 ハインリッヒ・ライオンはキリスト教集落・都市の創立・教区の設置の3つを行った。
1648 ベストファーレン和平の後にラッツブルク公国とした、1692 侯爵ヴィルヘルムによる要塞の強化は、
1693 デンマーク王の不興を買い 町は完全に壊されたが、バロック様式で再建がなされた、
1816 最後の要塞はデンマークに排除された。
11cにはスラブ族の円型防護壁が在った。1692侯爵ジョージ・ヴィルヘルムの要塞強化は、1693
にはデンマーィ王が破壊し、また再建され1816デンマークによって最終的に削除された。
見当たらない。
ラウエンブルク湖自然公園の中の小島にAm Marktを中心とした小さな町で、ドームは北の丘
にある。かっての塩の道沿いの町で栄えたが、今は静かな湖岸の保養地となっている。
旧市庁舎 Ehem.Rathaus 2階建て一部3階建ての石造建物、今は銀行。
大聖堂 Ratzeburger Dom (11c) ラウエンブルク公国で最古の教会はゲオルクの丘に建てられた。
1066の反乱で壊され、大きな長方形の内陣で再建された。12c石造の教会は13cに野石基
礎の上に煉瓦造で更新された。後期バロックの祭壇はリューベックのマリエン教会に似ている。1170
ロマネスクの大聖堂は聖遺物を収容して完成した。ハインリッヒ・ライオンによってドームは贈呈された。
教会は回廊と墓地を持っている。
古い守衛所 AlteWache () 旧中央守衛所。
町教会聖ペトリ Stadtkirche St.Petri(1789-91)古典主義の純粋な伝道教会として建てられた。
珍しい十字型翼廊教会堂の広間教会の例である。祭壇の机・説教壇・オルガン全景で床から
天井を構成するルイ16世様4世のための後期ゴシック。
領主の館 Herren Haus(1660)初めクリスチャン・ルードビッヒの夏の離宮であったが、取壊して侯爵
アドルフ・フリードリッヒ。領主の館は、中庭のある2階建て煉瓦造で建てられ1815ま使われた。今
はラウエンブルク公国の県博物館を収容している。ロココ広間では演奏会。
火薬地下室 Pulver Keller(1691)防火・防弾の爆薬工場で、地下には爆発材料が保存されて
いた。地下にはヴュルフ家の武器・導火線・軍需品が置かれていた。今アーチ天井の地下室には
レストランがある。
県博物館 Kreis Museum (1973) 侯爵領主の館に、ラウエンブルク公国や町の歴史と文化・バロックの
インテリアを展示している。
ポールウエーバー博物館 A.Paul Weber MUseum (1973) リトグラフ・製図・風刺画家のポールウエーバーの作
品とその生涯が展示されている。
エルンスト・バルラッハ博物館 Ernst Barlach Museum (1956) 幼児期を過ごした家を購入して、バルラ
ッハの生涯・陶器・リトグラフ・木版画・ブロンズ彫像の作品を展示している。
市庁舎 | 大聖堂 |
駅前 |
1199 リューベックのアーノルド文書に記載、 13c 町はホルスタイン領として都市権を授与された、
1339 ゲルハルト3世は町の権利を確認、 1460 デンマーク王クリスチャン1世の支配下に、
1536-40 クリスチャン3世は周構を建設、 1627-29 30年戦争中に独帝国の支配下に、
1644-45 スエーデン軍が占領、 1665 町は恒久的な軍事駐屯都市となった、
1669-73 デンマーク軍による1次要塞建設、 1690 デンマーク軍による2次要塞の建設、
1777-84 シュレスヴィッヒ・ホルスタイン運河構築、 1813-14 町はナポレオン戦争でスエーデン・ロシアが包囲、
1848 町はデンマークに蜂起しプロイセンが進攻、 1852 町は再度デンマーク領となり要塞は破壊、
1864-67 墺プロイセン戦争でホルスタイン公国はプロイセンへ、 1895 皇帝ヴィルヘルム運河は開通した、
1913 2.5kmの高い鉄道高架を建設、 1939-45 戦災は軽微、1955まで英軍が占領。
1852-1922に要塞は取壊され、石材は売られ土砂は埋め立てに使われた。
要塞跡地は道路や荷揚場になった。
市門は要塞の出入り口に設けられ、可動橋が夜間は引き揚げられた。1853北西門・
1855北門・1856東門・1881南西門はそれぞれ取払われれた。東門の遺構は見える。
旧市街地は中州に市庁舎と聖マリア教会を中心に木組みの家が残り、南の新市街は
放射状の整然とした区画に公共建物や要塞の残りが残っている。
市庁舎 Alten Rathaus (1566) 正門上に1609市章を飾り、市長室はパネルと絵で飾られ
公開されている。10グロッケンシュピールは2時間毎に鳴らされる。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (12c) 1286の火事の後、1278ゴシックで再建。1454ゴシック
の西塔を付けた。中には、1621説教壇、1648美しい祭壇・17c碑銘板や絵画美術品が
ある。
キリスト教会 Christ Kirche (1694) 駐屯部隊教会で赤レンガ壁に木材の天井で建てられ、
中には、デンマーク国王礼拝椅子・説教壇があり、西塔は低い。
船橋広場 Schiffsbruecken platz 200年前からの港。
宮殿広場 Schloss platz 1199 Reinoldes Burg, 1718 宮殿は現在病院。
行進広場 Parade Platz (1690) 新市街要塞拡張の中心で要塞の建物が残る。
文化センター Kultur Zentrum 南火薬庫と兵器庫跡に歴史博物館・印刷博物案・図書館がある。
ベルガー家 Dr.Bammberuger Haus 南1844シマゴーク跡に建てられたユダヤ博物館。
キール運河 (1913) 運河を跨ぐ高さ42mの大鉄道橋(長さ2.5km)が完成した。キールトンネルの車用
は長さ640m、歩行者用は1278mのエスガレータがある。
市庁舎 | クライスト教会 |
804 小さな入植として言及、 808 市場は拡大したがスラブ人が破壊、
900 バイキングが征服し防護施設を築く、 947 皇帝オットー1世はシュレスヴィッヒ教区を設立、
1000 新しい入植地を設立、 1134 シュレスヴィッヒ大聖堂の建設、
1161 司教の城は島へ移された。 1544 侯爵の住居はゴットルフ宮殿であった、
1711 町には最初の市長を選出、 1700-21ノーマン戦争でデンマークが勝ち王宮消失、
1834 政府は裁判所を町に再設置、 1851 デンマーク王国の勝利、
1864 独デンマーク戦争でデンマークが破れ町はプロイセンに併合、 1866 連帯本部の駐屯地、
1879-1945 町は州都だった、 1945 2次大戦の戦災は免れたが金属は供出。
見当たらない。
見当たらない。
入り江の奥の寂しい港町に宮殿と大聖堂がある。長さ23mの4c木造船を展示。
ゴッドルフ宮殿 Schloss Gottorp (1161) 司教により水城が築かれ、砦も兼ねた。
1459遺産として、デンマーク王の所有となり、1492に改修された。1530フレデリック1世は近代
化を図り北欧ルネッサンスの西翼を増築した。1564火災を受け4翼の建物になった。
爵の政府の場となり、裁判所・芸術室・図書館・科学実験室を設け400人が住んだ。17-
18シュレスビッヒ侯cにも改造と拡張が行われたが、北方戦争で破壊され、バロックの邸宅へ
の変換が計画された。1848デンマーク王は兵舎や軍病院を加えて要塞としたが、1867シュレス
ヴィッヒ戦争で敗れプロイセンとなった。今は国立美術歴史博物館として、絵画・彫刻・工芸
品を展示している。
聖ペトロ大聖堂 St.Petri Dom (850) 初めミッション教会があったが、947シュレスヴィッヒ教
区に石とレンガ造のロマネスク3廊の大聖堂が建てられた。1275-1300ハイゴシックのホール教会となる、
更に拡張され16cには完成した。1894煉瓦造ゴシック大聖堂は今の姿になった。皇帝ヴィ
ル2世は州都となったため長さ120m幅45mのゴシックドーム・25mの内陣・高さ112mの西塔
を造った。中には1300三王の祭壇・1480銅洗礼盤がある。
聖ヨハネ修道院 St.Johanis Kloster (1251) 旧市街地の東の漁村に修道院が在った。
14cにはベネディクト会修道院となり、1299と1487の火災に遭ったが再興された。1536-42
は貴族の未婚の娘のための女子修道院となった。17-18cにも建物が補充され、州で
最も保存状態の良い中世修道院複合体で、内部は見学できる。
ニーダム船 Nydam Boot 宮殿の西の州立考古学博物館に泥炭層から1863発掘の
14cオーク材の古船:長さ23m幅3mの木造船が同時代の品物と共に見学できる。
バイキング砦 Wikinger Haithabu (10c) スエーデンからのバイキングが旧市街東に周囲に
堀と土堤で守って住んだ。今でも半月形の堀が残っている。海賊には絶えず襲われ
11cより守り易い西へ移った。考古学博物館の別館としてバイキング博物館がある。
ホルム Holm 旧市街地のすぐ東に墓地広場を中心に家々が取り巻き、漁師と船乗
の住む古い地区である。
市庁舎 | ゴットロフ城 |
聖ペテロ大聖堂 |
表中の各町について、その町の歴史・市壁・塔・見所を説明します。
市庁舎 | マルクト広場 |
修道士教会 |
976 王オットー2世の文書に言及、 1060 シュタウヘン王朝の皇帝の居城に、
1163-88 王フリードリッヒ1世は6回滞在、 1192 新しいマルクトが造られ今に残る、
1204 市壁は言及されニコライ塔が建つ、 1256 ハインリッヒによる都市権の確認、
1356 王フリードリッヒ3世による都市権の更新、1430 大火災で町はほぼ焼失、
1485 ライプチィヒ分割で城はエアフルトに、 1632-34 30年戦争・ペストで大部分死亡、
1725 地方裁判所をバロックで建てた、 1810-18トランプの遊び方SkatSpiel発明、
1832 ベヒシュタイン兄弟のトランプ工場設立、 1945 戦災を免れ、米軍戦利品搬出。
12cの市壁は、東南のHussitenturmに僅か残っている。
フッシテン塔 Hussiten Turm (12c) 南、多数の市壁塔の一つで、3階建て四角
塔は、帝国都市としての中世の壁を形成した。
ニコライ塔 NIcolei Turm (1223) 南、16cに廃止された聖ニコラス教会の名残で1609
火災で被害を受け、その後塔守の住居と回廊のある8角形塔となった。
マントル塔 Mantel Turm (11c) 宮殿複合体の最古の部分の外装塔は形からビン
とも呼ばれる。塔はロマネスクの住宅円塔の異形である。
守衛塔 Hausmsnns Turm (12c) 宮殿の高さ32mの見張り塔で、螺旋階段で登
れば眺めは良い。
給水塔 Kunst Turm (1844) イタリア鐘楼風の7階建ての角塔で、古い給水塔に代
わって噴水の塔として構築された。
宮殿門 Schloss Tor (1744) 宮殿の外城門は、凱旋門の形でアーチ門を飾った壁
が囲む。
戦災を免れたが、その後きわめて多くの建物が老朽化して、昔の家並みは失
われていった。町は丘の斜面に在り坂道が多い。旧マルクトは北東にありブリュールと
呼ばれ、旧市庁舎・バートロメーウス教会・ゼッケンドルフ宮殿に囲まれる。新マルクトは、広大
で美しい家並みと、南に市庁舎・西に修道士教会が囲む見事な景観を呈する。
市庁舎 Rathaus (1562-64) ルネッサンス二重丸屋根の八角形の階段状の塔が在り正面
入り口は立体的な装飾が見られる。中には、建築当時の市参事会員の肖像
画が並んでいる。
修道士教会 Burder Kirshe (1905) マルクトの西側一番高い所に、中央前面のユーゲント
シュティールのモザイクで飾られた教会が、古いフランシスコ教会が壊された後に建
てられた。中は、ゴシックで装飾され、多くのフレスコ画がある。
聖バトロメウス教会 St.Batholomaeus Kirche (12c) ブリュールの上に、町で最古の教会
として建てられた。後期ゴシックの南側廊の下に、ロマネスクノクリプトがある。バロック
の塔は塔守の部屋であり、塔頂からの眺めは良い。
侯爵夫人アグネス記念教会 Herzogin Agnes Gedsechtnis Kirch (12c) 宮殿の庭の
最高点に位置し、侯爵エルンスト1世は亡き妻のために教会を建立した。
赤い尖塔 RoteSpitzen (1618) 煉瓦造の塔は皇帝フリードリッヒ1世のアウスティーノ会修道院
教会の名残であり、1618バロックのドームとなった。
アルテンブルク宮殿 Schloss Altenburg (1000) 町を見下ろす北東の丘の上に、9世紀
にわたって建てられた建物は、半円形で大きな中庭を取り巻いている。初
め皇居、次にザクセン選帝侯の一次的な住居、1603-73と1826-1818はザクセン・
アルテンブルク侯爵の邸宅として使われた。1706-30に現在のバロックの宮殿となった。
宮殿教会 Schloss Kirche (1444) 後期ゴシックの宮廷教会で豪華なバロックの内装
と1738パイプオルガンがある。
ツインガーと後門衛詰所 Zwinger und HinteresTorhaus (14-15c) 宮殿から南に、
ツイガーと後門詰所を通じて外へ出られる。
侯爵厩舎 Herzoglicher Marstall (1851) 宮殿には、50頭厩舎・乗馬トラック・宿舎
などが在った。
地区事務所 Landratsamt (1895) イタリア・ルネッサンス様式のザクセン・アルテンブルク公国の政
庁として建てられた。今は地区の出先事務所になっている。
ゼッケンドルフ宮殿 Seckendorftsches Palais (1724) ブリュールに元帥フリードリッヒ・
ハインリッヒ・フォン・ゼッケンブルクが建てた宮殿で、今は劇場に所属している。
地方裁判所 Amtsgericht (1725) Wall strasseの内側に、バロック3階建ての
建物が建てられた。
フリーメイソン支部 Freimauren Loge (1802-04) 古典主義の建物で、ドイツで最古の
フリーメイソンの支部である。ナチスによって1935に禁止され、東ドイツでも禁止さ
れていた。65年後にバー・ホールとして再開された。
リンデナウ博物館 Lindenau Museum (1873-75) 3階建ての博物館で、ザクセンの政治家
・天文学者・美術収集家のベルンハルト・アウグスト・フォン・リンデナウのコレクションを収容するた
めに建てられた。初期イタリアノ絵画・古代の陶磁器・16-18cの欧州絵画等を展示。
マウリチアムス Mauritianum (1907-08) 宮廷公園の東に在りアールヌーボーの2階建で、地質
学・鉱物学・古生物学・動物学の収集物のある自然史博物館である。
宮殿とトランプ博物館 Schloss und Spielkarten Museum 宮殿の建設と様式の歴史
・1455皇太子の誘拐・兵器庫・時計・家具・5世紀のトランプ等の展示。
宮殿絵画展示館 Schloss Bilder Galerie 宮殿所蔵の絵画を展示。
市庁舎 | ナイデック城址 |
葦門 | 壁塔 |
東壁 | 南壁 |
新門塔 | 葦門 |
門バッハ教会 | マルクト広場 |
702 チューリンゲン侯爵の教会贈与文書に言及、726 エヒターナッハ僧院はフェスフェルド僧院に、
925 ハインリッヒ1世はハンガリーに対抗して防波堤、954 皇帝オットー1世は町で帝国議会開催、
1108 ドイツ王にシュバーベンのフイリップ選出、1266フェスフェルド僧院の大修道院長が都市権授与、
1306 シュバルツブルク侯爵が町を入手、 1330-32 市壁が町を囲んだ、
1496 シュバルツブルク領有は町の統治とソンダーアウセン支配に分けた、1515 農民戦争の処刑、
1538 ベネディクト会カルメン修道院の世俗化、 1581.1607 大火災、1582.1625ペスト流行、
1618-48 30年戦争の破壊と略奪、 1703-07 ヨハン・セバスチャン・バッハが市教会に勤務、
1945 空爆と砲撃による深刻な被害。
1330-32に市壁は築かれ、1458シュバルツブルク侯爵によって会口調された。ツインガーと
呼ばれる二重壁で囲まれ、1342エアフルトとマイセンの同盟軍に包囲されたが持ちこたえた。
15cには周壁と市門を補強した。1817都市の膨張と交通障害から、市壁の一部は取
り払われた。その後も市民から取り壊し許可の申請が多く、市議会で採決される事
になった。例えば、1861宮廷左官屋神聖は許可され、リート門から羊飼いの家までの
旧内壁が取り壊された。その他、1837人が住んだ南側のガチョウ塔や魔女塔も取り壊
された。今も残るのは、西南RiedMauerに50mと南MarlittSteasseに二重壁160m。
1小門を含め6市門があったが、2門が残る。
葦門 Ried Tor (1369) 南東、四角い6階建ての門で、1895に「小さい中国人」
のあだなが付けられ、交通障害のため壊されそうになった。1897に4階まで4角で5階
部分は八角形でその上に帽子を付けて再建され、新しい時計が付けられた。
新門 Neues Tor (1431) 南、この位置にはまだ2重壁が残り、外門は市壁門の
単純な形であったが、1448に八角形の上階と塔頂が付けられた。1787金色に塗られ
他避雷針を付けた。この塔には火の番が20cまで配置された。1942塔の鐘は戦時に
供出された。1980に塔の複元が行われ、後に風見のある塔頂となった。
鞘塔 Schaln Turm (1430) Ried Mauerにある。
壁塔 Mauer Turm (1429) 1676火薬庫として使われ、1912-13住宅に改造、
今も住宅で使用。
町の中心となる市庁舎前広場は、小高くなっており、何本もの商店の並ぶ道が
坂を下っている。ここに1703-07に住んだバッハの名前の付いた教会・博物館・像・ハウス・
ケラー・一族の墓などがある。
城遺跡 Ruine Neideck (1535-60) 町の北東にルネッサンスの水城が宮廷都市の栄光
を失って衰退した。1998残った65mの塔に銅のヘルメットが付けられた。
市庁舎 Rathaus (1582-86) 2階建てルネッサンスの建物で、切妻と多くの装飾のあ
る前面は見事である。
ボニファチウス教会 Bonifatius Kirche (1333) 1581の大火で焼け、1676までに取り
壊され、聖ジェームス教会の資材を再利用して新教会が再建された。1703-07バッハがこの
教会のオルガン奏者となったため、バッハ教会とも呼ばれる。
聖母教会 Lieb Frauen Kirche (1360) シュバルツブルク伯の墓礼拝堂で、1590
ルネッサンスの教会が建設され、1890一部が壊れた。
バッハの家 Bach Haus (1581) 1687からバッハ一族の音楽家の住居であった。1998
と2004に復元され、バッハ一族の歴史が展示されている。
宮殿博物館 Schloss Museum (1729-31) バロックの宮殿は1931から博物館となり、
町の歴史・人形・中国.日本.マイセンの磁器が展示されている。
ドイツ・ソーセージ博物館 Deutsch Wurst Museum (2006) 世界最古のブラート・ヴュルストの
情報・製造機械・記録文書などを展示している。
鉄道博物館 Depot Arnstadt (1867) 8蒸気機関と8軌道ディーゼルが保存され
ている。
聖母教会 | 下門 |
837 フルダ修道院の文書に初言及、 12c 山の上にヴィッテン家の大きな城が築かれた、
1317 ヘンネブルク侯爵の子に移った、 1374 ヴィッテン家のニュルンベルクに落ちた、
1394 都市権を得て 1396低裁判所保持、 16c 城は拡張され要塞化された、
1522-1700 魔女狩りで5人を処刑、、 17c 30年戦争の略奪と破壊で衰退、
1833 住民は1185人居たが多くが北米へ移住した。
市壁は1402から建設され、北東・北西・南西の角に僅か残っている。
15cの市壁には、4市門と14壁塔があったが、残るのは下門と5壁塔のみ。
下門 Unter Tor (16c) 3階建上階木組の鐘楼付きの門で、アーチ門は狭い。
旧市街地は600mの市壁で囲まれたライムの並木のある狭い町である。1537石造聖母
教会と多くの趣のある修復された木組の建物が見所である。熱気球の町でもある。
市庁舎 Rathaus (16c) 地階石積上階美しい木組の建物。
聖母市教会 Unser Lieben Frauen Stadt Kirche (1502-37) 教会塔は1614完成、地下
室には前の建物の跡が残る。1819-28構造と内装を再設計した。1848落雷で木造の
塔が壊れ、1849高さ45mで再建された。1978-81大規模な内装改修が行われた。
城砦ヘルドブルク Veste Heldburg (12c) 北東1kmの山頂にヴィッテンのアーネステン家が、深さ110
mの井戸を掘って城を建てた。16cにフレデリックス2世が、拡張強化して要塞化した。
30年戦争で破壊され、1874に侯爵ゲオルク2世が城を修復した。1954-82子供の家と
して使われたが火災で放置された。1994東西統一後に、チューリンゲン州が取得して宮
殿と庭園を修復してドイツ城博物館を設置し、城の歴史と構造を40室で展示している。
古い鍛冶屋 Alte Schmide (1816) 下門の外に平屋の馬と馬車のための鍛冶屋があり、
農機具も生産した。
営林署 Forsthaus () 2階建木組の前面に六角形の4階建の塔を持つ珍しい建物。
市庁舎 | 地域博物館 |
西北壁 | 北壁 |
東壁 | 西壁 |
9C フルダ修道院文書に初言及、 998 オットー3世文書に修道院へ寄付の記述、
1215 フリードリッヒ・ベイリンゲンはシトー会修道院を寄贈、 1219 バイヒリンゲン伯は町へ昇格、
1282 フランケンハウゼンの名前で町と言及、 1339 バイヒリンゲン伯はシュバルツブルクに町を売却、
1525 農民戦争で農民軍の敗退、 1689 大火事で町はほぼ焼失、
1701 最初のボタン工場が開業、 1818 最初のスパの建設と温泉治療、
1927 町の名前にBadを冠することが認められた。
市庁舎を囲む市壁と、クアパークを囲む市壁が残されているが、何れも南側の部
部分が判然としない。
守衛塔 Hausmanns Turm (1380) 6cに簡単な木造小屋で塩泉を守った。
1210厚さ3.5mの壁の刑務所が、小さな丘の上に新設され、深い堀と市壁で守りを
固めた。1380シュバルツエンブルク伯のOberBurugが建てられ、直径9mの円塔と南西部の
外壁が残されている。1560軍事的な価値を失い、火の見や見張の住居となり、こ
の名前が付いた。1700市に引き継がれ、1998の外観は町の特殊切手に使われ、指
定建造物として管理されている。
傾いた塔 Schiefe Turm (1382) ロマネスクの教会の跡にゴシックの教会が建てられ
高さ56mの塔が付けられた。1640塔の傾きが記録され、30年戦争の被害もあって、
1724に回復した。1759都市火災の被害があり、1761バロックの建物の上に塔の建設が
行われた。1908教会の傾斜が起こり、1911最初の傾斜措置が行われたが逆効果と
なり、1926に閉鎖された。1935鉄リングで塔を引張った。1993安全対策で再使用し
たが、2011に4.76度の傾斜に達し、教会の下にコンクリートを注入して安定させた。
今でも3.97度の塔の傾斜があり、ドイツで最大に傾いた塔として有名である。
シュバルツブルク・ル-ドシュタット公国の居所として栄えた。
市庁舎 Rathaus () 2階建石造の四角い建物で、屋根の中央には太い時計塔が
立ちその上に鐘楼がある。
パノラマ博物館 Panorama Museum (1983-87) 北側の山頂にあり、最上階が大
きな円形の建物である。1525農民戦争の最後の決戦の場面を123m×360mのパノラマで再
現している。ベルリン国立美術館にも縮尺1/10に模型がある。その他16cドイツ初期の市民
革命の多様なシーンが表示されている。
フランケンハウゼン宮殿 Schloss Frankenhausen (14c) 南側の市壁の水門のあった中世
の小さな要塞は下部城と呼ばれた。14c末に城と町はシュバルツブルク伯・後にシュバルツブルク・
ル-ドシュタット公国となって宮殿を建てた。1525農民戦争で城が壊され、1533-36に再建し
たが、1689の火災で部分破壊された。1920から図書館と地方博物館が置かれ、町の歴
史・地質・生理食塩水・真珠ボタン・スパの進展などを展示している。宮殿は、石造ルネッサンス3
階建の白く塗られた建物であり、1973-75に改修された。
上教会 Ober kirche (1382) ロマネスクの前の基盤の上にゴシックの聖堂が建てられた。
最も古い古い部分は、身廊でゴシクの窓と扉が建物を飾っている。1525農民戦争で略奪
された。1692に30年戦争後教会は荒廃したが、資金不足で1727に着工した。1759火災
2007基礎強化で傾斜進行は止まったが、今の傾斜は5.42度であり、ピサの斜塔の3.97
度よりも傾いている。
下教会 Unter Kirche (1215) 南にシトー会修道院として建てられた。1536修道院
の世俗化で教会は1689まで地区教会を務めた。1691-1702後陣と北側の下部を使って
低い教会を再建した。上の教会の閉鎖時に、ゴシックの木製十字架・16cの葬儀具を収蔵。
聖ペテロ教会 St.Petri Kirche (10c) 南のアルトシュタットのロマネスク石造旧村教会が1890
に併合された。半円形の後陣・高い身廊・塔の下部は10cからの物で、30年戦争後に変換
が行われた。19c終わりに向けて教会は修復され、1890に再開された。再度1993保全が
行われ2002に完成した。
製塩観察所 Schausiede Haus (16c) 白い金と言われる塩の生産は、16cには117
箇所の沸騰所で毎日500タルントの塩を生産した。古い技術と30年戦争で、塩生産は崩壊し
1793には塩精製も終わった。19cには医師が温泉療法を行い、1818スパが開業、1927Bad-
が認められた。沸騰所が再建され、蒸発式濃縮装置と沸騰皿で中世の製塩の過程を示し
実演が見られる。
市庁舎 | クラーゲ門 |
東壁 | 西壁 |
東壁 | 西壁 |
932 初文書言及 1212 皇帝オットー1世から都市権授与、 1268 町と呼ばれる、
1300 市壁と4門の防御施設完成、 1346 チューリンゲン方伯とマインツ大司教の争い、
1365 新旧市街地を含む市壁7門27壁塔建設、 1578 町は今の名前となった、
1632 30年戦争の被害、 1704町は包囲された、 1711 壊滅的な大火災、
1756-63 7年戦争で破壊された、 1866 ランゲンザアルツァの戦い、
1990 旧市街地の大部分を回復。
1300に旧市街地の一次市壁が完成し、1365に新旧市街地を含む二次市壁に拡
張された。今は各所で市壁跡は公園や遊歩道になっている。
残るのは2門16塔であり、内4塔は一次市壁の壁塔である。
クラーゲ門 Klage Tor (1382) 東市門で近くに日本庭園・バラ園・モクレン園・植物園。
年市場門 Jahrmarkter Tor 南門。
円塔 Rund Turm 北東。
城塔 Burg Turm 北東。
火薬庫塔 Pulver Turm 北東。
助祭塔 Turm am Diakonat 東、第一次市壁の塔。
負け塔 Wichihaus Turm 東、第一次市壁の塔。
飾り塔 Zier Turm 東南角、第一次市壁の塔。
バター塔 Butter Turm 南中。
飢餓塔 Hunger Turm 南中。
シナノ木塔 Lindenbuehl Turm 南。
白塔 Weisser Turm 南。
土塁塔 Schanz Turm 西。
北塔 Nord Turm 北西。
火薬塔 Purver Turm 北西。
壁塔 Mauer Turm 北西。
鋳物塔 Giess Turm 北。
コウノトリ巣塔 Storokennet Turm (1212) 昔の「新市門」と言われた一次市壁の門
塔で、1593に壁塔となった。
市庁舎 Rathaus (13c) 1346と1711に火事に会い、その土地固有の建物であ
ったが、1752今の形で3階建で建てられた。元の13cの木組の建物から塔が残された。
入口の玄関の上に正義と平和の天使の女神があり、南側にはプロイセンの紋章がある。
市庁舎の地階には肉屋が40件あった。正面には32鐘のグロッケンシュピールと14人の回り舞台
があり、12.18時に実演がある。
市場教会聖ボニファライ MarktKirch St.Bonifacii (13-16c) ルネッサンスとゴシックの様式が
見られる。チューリンゲンで最高の73.6mの双塔と一本針の時計1612がある。内部には14c初
期ゴシック広間・1734六角形の説教壇・19c祭壇・1430キリスト磔像の絵画がある。
水の流路 Wasser Lauf () 水動力で多くの工場が動いていたが、今は動力が変
化し街中の自然水路として名を残している。
フリーデニケン小宮殿 Schlosschen Friedeniken (1748-51) ザクセン・ヴァイセンフェルス侯爵未
亡人が市壁の外にロココで建てた。建物には、マナーハウス・結婚式場・演奏会場・ダイエット指導台
所・会議場がある。
アウグスティーノ修道院 Augustiner Kloster (1280) 旧市街地の外に、ギュンターが寄贈
した。1539カトリック教会が閉鎖され、修道院が町を去った。世俗化後町の教会として18
年間使われ、1774修道院の塔が火災で壊され、ゴシックの回廊と聖具室が残された。
今は改修され、改修されて市博物館となり、鐘楼には登れる。
ドリ城 Dryburg (12c) 領主の最古の城で何回も拡充された。昔北東の角に立っ
た塔は、1899火災にい会い、1927市の所有となった。1949市の図書館になった。
市壁の上に4階建で再改修され、今は商店や住居として使われている。
墓地教会 Gottesacken kirche St.Trinitatis (1733-39) 葬儀の説教が行われ
1741説教壇が寄付され、1869オルガンが置かれ、キリストの生涯の絵画が描かれた。
市庁舎 | クラーゲ門 |
東壁 | 西壁 |
1250 ロープテ城の領主を初言及、 1278 領主はロイスの王子に城を遺贈、
1309 自由都市となる、 1327 トーリアの所有となる、
1543 宗教改革の導入、1550 ニュルンベルクが買収、 1620 ライプチッヒに、
1632 30年戦争の略奪と疫病の猛威で人口減、1647-1824 小公国ロイスの首都、
1714.1800.1862 町は大火で荒廃、 18c 鉱石の採掘と布の生産で繁栄、
1839 温泉治療の振興、 1868 鉄泥風呂の開発。
Graben通り沿いに120m+15mが建物の基礎として残る。
市壁の門は残っていない。古い塔(Alten Turm)が旧城の高さ35mの円塔が残
されている。
丘の上に旧城の円塔が残り、池との間に新宮殿と旧市街が広がり、池の対岸
にクア施設がある。
新宮殿 neues Schloss (1714-18) 16cからの古い宮殿は1711に火災で損傷し、
市壁の外にバロックの複雑な宮殿を建て、1647-1824王子の住居であった。
1746-48パビリオンが建てられた。1732.1800.1862.の火災で損傷し補修された。
1996-97宮殿と公園は改修され、今は結婚式場・演奏会場・展示会場などに使われ
ている。
聖ミカエル教会> St.Michaelis Kirche () 焼け付け技法による祭壇と壁がある。
地域博物館 Regional Museum (18c) 1714火災後に、3階建てのストリート屋根と
漆喰の建物が建てられ、1985林業事務所と住居として使われた。今は地域の博物館。
ローベンシュタイン城 Burg Lobenstein (950-1150) 城と防衛塔が建てられ、1601領主
は宮殿を改修した。
市庁舎 | シュネプフ城 |
市教会 |
4C ラインの谷道のローマの砦、 643 最初の記述として宮廷の設置、
1309 自由都市となる、 1327 トーリアの所有となる、
1497 町は包囲された、 1632 30年戦争スエーデン軍占領、
1689.1735 仏軍の侵攻、 1735 仏革命軍の占領、
1815 プロイセン領となる。
LindenTor通りの南側に古い石積があり、市壁ではなかろうか。
南の湖側には、城壁が見られる。
見当たらない。
旧市街は、マルクトを中心として狭い所に市庁舎・教会・城がある。
市庁舎 Rathaus(1289)最初の建物が着工された。1583拡張され新評議室
とラッツケラーを備えた。1640最初の建物が焼失し、段階的に建設されて1790地下
保管庫付3階建マンサード屋根で完成した。
町教会 Stadt Kirche(1112) 聖シンプリシウス教会は、宗教改革で新教教会と
なり、1786の火事に遭い、単純化されたバロックで再建された。
シュネップ城 schnepf Burg (1160) ケルト人は生理食塩水の源を発見し要塞化
した。その後フルダ修道院が1160に城を築き守った。城は町の要塞に組み込ま
れ南西の砦を形成した。ナッソー家のアドルフ王により攻め取られ、裁判所と刑務
所も置かれた。1786の火災で一部焼け、地方裁判所が建てられた。
市博物館・砲塔 Stadt Museum Tallet (16c) 駅の東北の広い緑地に、
多くの木組の家による宗教改革時代のリゾートが復元されている。中央にはの
1499チャペルがあり後に羊飼いの住居となっていた。修道院は1528に世俗化さ
れ後に市庁舎としても使われ、1900時計塔となった。1935以来遺産博物館
として木骨造の家並みは1320の温泉町の状況を復元した。
市庁舎 | 東中門 |
火薬塔 | 牢獄塔 |
フロンフェステ | 市壁 |
市壁 | 市壁 |
772 フルダ修道院の遺贈文書で初言及、13c町の憲章を持ち1419郊外のオストホーヘンを得た、
1448-83 市壁と4門を建設. 17c 染料の藍を生産、
1756-63 7年戦争の占領で疲弊、 1811 硫黄温泉の発見、1812公園とスパの開業、
1816 医療施設や文化施設が多く建てられ、KurStrassaeに残っている。
市壁の構築のために、テンスタット城の石が使われた。構築促進のため住民の軽犯罪には、
一定区間の市壁造りが課せられ処罰とされた。1448-87の市壁完成時には、軍事
的には時代遅れになったいた。残っているのは、東OsthoferTorから南に70m、
西南山上ForveStrasse60m、西GothaerStrasse120mである。
壁には4市門と家畜放牧用の2小門があったが、今は2門の全部と一部が残る。
東中門 Oesthoefer Tor (1448) 17cに建築上の変化はなかった。1991抜本的に
健全化が図られた。
橋門 Buchen Turm (1483) 砂岩の塔頂はゴシックだった。1850門は壊されて横門
付門柱に置き換えられた。
殻塔 SChalen Turm (15c) 異端者塔の近くにあり、外観から名前が付けられた。
塔は外皮の様に造られた。
牢獄塔 Fronvest (1465) 市壁の見張り塔であった。後に監獄となり、1993抜根
的に改修された後に、今は町の博物館として町の発展の歴史を展示している。
異端者塔 Ketzer Turm (1476) 円型の防衛塔で、異端者訴追の時代に使われ、
1986改修された。
火薬塔 Pulver Turm (1455) 円塔は南西の角にあった。見張りと火薬庫として
建てられ、1992健全化され、展望塔と博物館になった。
木の塔 Holtz Turm 木製の3階建ての塔が在る。
15cの市壁ヤや6cの街並みが見られ、教会・市庁舎・市壁・門などの塔が多く
目立つ。町の北東にクア施設がある。
市庁舎 Rathaus (14c) 古い建築集団の内、17c塔・19c東側が建てられた。1992まで
は町の行政集合体であった。
聖三位一体教会 Trinitatis Kirche (1418) 新教の先駆者であり、17c大火の後に
大改造が行われ、内外ともバロックとなった。
墓地ニコライ教会 GottesackerKirche St.Nicolai (1689) まず礼拝堂が立ち、1641鐘を
つけ、大火の後に大建築作業が行われ、価値の高い子屋根となった。1993改修。
パン屋 Backhaus (1836) パン屋は1966迄開業していた。1998忠実に復元され、定期
的にパンやケーキが焼かれている。
円蓋 Gewoelbe マルクトにあり、殆ど四角の部屋の残りに、16cには壁画で覆われていた。
今、フレスコ画は復元されている。
市庁舎 | 風呂屋塔 |
南壁 | 東壁 |
1133 初文書言及、1234 正方形のマルクトを中心に町として言及、
1283 城と修道院が築かれ都市権が与えられた、15-17c 青と白の陶器産業で栄えた、
1677 動物園の開設。
旧市街の南Unter dem BaderTorに265m、東南An der Stadtmauerに35mの市壁。
薬師塔 Bader Tor 南西、市壁に繋がる石積の下り坂小門の上に木組の
薬師の家がある。
小さな町で、ゴシックの教会とセラミック博物館以外は、特に何も見当たらない。
17cからの青と白の陶器の歴史があり、毎年6月に陶器市が開かれる。
市庁舎 Rathaus ()3階建て四角い石造の時計塔付の建物。
修道院教会 Kloster Kirche (1133) ロマネスクのどっしりした単塔の聖堂で、ベェネ
修道院付の教会であった。1978から毎年演奏会が開かれている。
陶器博物館 Keramic Museum (18c) 古い学校の跡に17cからの町で生産した。陶
器が2002から展示されている。毎年、陶器市が開かれ、博物館には:皿.カップ.ポット.ボ
ール.水差.鉢などが展示されている。
年貢倉庫博物館 Zins Speicher Museum 博物館には工芸品が展示され、パン窯
もある。
市庁舎 | 聖ミシャエル教会 |
西壁 | 南壁 |
780 ハスフェルト修道院の文書に初言及、 988 町の設立、
1331 最初に町として言及、 1335 町は大火災、 1408 代官権による町の管理、
1433 方伯フリードリヒは町に赦免状を実行、 1450 町は全焼した、
1513 皇帝マクシミリアンは牛市場の建設を許可、 1529 市壁の建設開始、
1596.1684.1685.1826.1827 町の火災、1597.1633.34.81.83.85.90 疫病の流行、
1637 30年戦争の略奪。
16cの市壁は南東に少し残る。
見当たらない。
町の中央のマルクト広場に、ゴシックの教会とルネッサンスの市庁舎があり、大通りには大
きな建物が並んでいる。
市庁舎 Rathaus (1501-1606)ルネッサンス2階建の建物で裏にコの字型の建物が付いて
いる。
聖ミシャエル教会 St.MichaelieKirche (1501-51) 南には大きな塔、北と西の入口には
装飾がある。身廊の中央部と内陣には1720木製パネルに聖書の絵がスコッタで描かれた。
古い墓地 Campo Santo (16c) バロックとロココの古い160基の墓標がある。
旧ゲライツの家 Ehem.Geleits Haus () 宿屋「Zum Golden Hufeisen」である。
市庁舎 | 市壁 |
906 文書初言及、 1282 都市権を授与され、二つの教会の周りのつの集落成長、
13c ホーエンシュタインの王子は城を建て執行人を置き支配、 1356 シュバルツブルクの伯爵が所有、
1576 シュバルツブルクの城を再建、 1918まで シュバルツブルク・ソンダースハウゼン公国に属した。
今は町の北東に市壁は残る。
見当たらない。
グロイセン市の西側のチューリンゲン盆地にある小さな町で、古い木組の家が多く修復さ
れている。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1856) 2階建中央突出の簡素な建物で、「ラッツケラー」と
呼ばれ、旅館を営業している。大広間などは催物で使われる。
聖グンバティ教会 Kirche St.Gumberti (1207) 広い西塔と多角形の後陣のある3身
廊の教会で、ヘルメットの塔頂は1840に再建された。
木組の家 Fachwerk Haus 多くの古い木組の家は補修されて各所に見られる。
プラン学校 Plan Schule (1900) 2階建と屋根裏部屋のある美しいレンガ造の建物
に四つの教室がある。
ドーメネ Domaene (1576) 城の本館で、上階の木組は美しく再建されている。
もう一つの翼は幼稚園として使われていろ。
市庁舎 | 東土堤門 |
西南壁 | 西壁 |
市教会 |
508 古代の交易・軍事の要点でフランク族が定住、 724聖ボニファチウスは城丘に十字架建立、
745 山上にベネディクト会修道院が落成、 973 オットー2世の文書に町を言及、
1170 チューリンゲンのルードヴィッヒ2世は修道院を軍事施設、1213ヘルマン2世は防備された町を建て
1213 都市権を授与した、 1222-27 宮殿が建てられ方伯夫人優先滞在地、
1241 ヘルマン2世は地域の役所を置き町は特権保有、1247-64 チューリンゲン承継戦争で困窮、
1347 ペスト、1620 ペスト、1813チフス流行、 1452 ヴィルヘルム3世は製塩所を設置、
1765.1782.1869.1884 町を大火が襲う、 1815 塔と市壁の一部が壊された、
1843 製塩所の廃止、1912 機械工場の設置、 1945 2次大戦の空爆で町の85%破壊、
1849 東独の領土に、1962 幅5km立入禁止地帯、1972 町は禁止地帯を除くと70%減。
町の東の平野には立派な土堤が残っている。市壁は、城を囲む300m、北東の
平地に60m、西北の山中に140m、南西の城へ130mが見られる。
橋門 Bruecker Tor 東中央部の土堤に、門としては貧弱だが、小さな橋門が
がある。
小さくて静かな町に、城だけが目立つ。
クロイツブルク城 Burg Creuzburg (1170) チューリンゲンのルードビッヒ3世は340mの城壁上に2階
建てを築き、城と居住棟を建てた。元宮殿の一部は1740バロックの侯爵の家に変え
られ、今はホテルとなっている。方伯夫人エリザベスはこの城に住み・娘を出産しその
後マールブルクに移り病院を設立した。1898城は売却され、1945国有化され学校や宿
泊施設になり、今は博物館として、都市と城の歴史・エリザベスとうについて展示。
聖ニコライ教会 St.Nicolai Kirche (1080) ロマネスクの教会は1215に古い聖アンドリュー教会
の代わりに建てられ、塔は1428に付けられた。1786火災で塔と5鐘が壊され、
1786に再建された。2次大戦でも被害を受け再建されている。
旧市庁舎 Heimat Stuben 1898に設立された郷土博物館である。
土堤門 Wall Tor 土堤を切り開いて手摺の付いた橋が架かっている。
市庁舎 | 旧宮殿 |
城壁 | 南東壁 |
南西壁 |
937 プファルツ皇帝オットー1世は町を3回訪問と言及、 1354ヴィッテン家ドルンブルク役所設置、
1485-1512 戦争で廃墟の城跡に旧宮殿建設、1589 旧宮殿礼拝堂跡に聖ヤコブ教会を、
1603 ザクセン・アルテンブルクの支配、1673ザクセン・イエナへ、 1690 ザクセン・アイゼナッハへ、
1717 大火災で町の中心部はほぼ壊滅、 1736-67 ロココ宮殿の建設、
1828 ゲーテはルネッサンス宮殿に滞在。
北側のAltesSchlossの周辺に180m、南側のStadtGraben沿いに140m残る。
見当たらない。
小山の上の小さな古い町であるが、宮殿には見所がある。
市庁舎 Rathaus (1360) 2階建ての今の姿は、1728に時計塔・参事会・厩舎が建て
られた。ラッツケラーもある。
旧宮殿 Altes Schloss (937) 皇帝オットー1世の皇居の古い城は、1451の内戦で大砲
によって壊された。1485-1522旧宮殿は再建された。90mを見下ろす眺めは
良い。
ルネッサンス宮殿 Reneissance Schloss (1539-42) 塔は2階建ての宮殿で、今は、ゲーテ
記念館となり、イングリッシュガーデンやカフェもある。
ロココ宮殿 Rokoko Schloss (1736-47) 居住宮殿でバロックの庭園がある。
教区司教館 Pfarrhaus (18c) 2階建て、1717大火後に教会と共に再建され、1978
まで福音派の牧師が住んでいた。
聖ヤコブ市教会 StadtKirche St.Jacobus (1589) 古い宮殿礼拝堂は基礎しか残っ
ていない。1717大火災で被害を受け、1718から後期バロックで再建され、1820西の
側廊とオルガンが付加された。1987-89改修され、今も後期バロックの説教壇や洗礼
盤が見られる。
聖ペーター教会 St.Patori Kirche () 1725の火災で壊され、1727から新教の教会と
して守護聖人ペトリの名前で再建された。元々は見張り塔であった中世の基礎の上に鐘
楼は立つ。16cバロックの説教壇や木の洗礼盤があり、1817にオルガンが付けられた。
1969-72天井画の修復、1997-98屋根材の更新、内装とステンドグラスの修復が行
われた。
車軸博物館 Oldtimer Hof 元の豚飼育所にヴァルトブルクの2輪車からスポーツカーまでの、
1950-90の珍しい車軸が展示されている。
市庁舎 | ニコライ門・ニコライ教会 |
ストルヘン塔 | 聖ゲオルク教会 |
バッハハウス | 宮殿 |
ヴァルトブルク城 |
1080 城の最初の言及、 12c 三つの市場集落に職人が流入、
1180-89 チューリンゲン方伯ルードヴィッヒ1世が町を築く、1211ハンガリー王女エリザベスが花嫁、
1226 エリザベスは貧しい人の病院を建てた。 1227 エリザベスは夫の死後マールブルクに、
1247-64 承継戦争で町はヴィッテン家へ分割、 14c 火災や洪水で経済低下、
1525 農民戦争で町は損傷、 1596 侯爵ヨハン。エルンスト・アイザナハは独立公国に、
1751 侯爵の死後断絶しザクセン・ワイマールへ、 1810 仏軍輸送の爆発で被害、
1816 ザクセン・ワイマールは公国に昇格、 20c スパを中心に多数のホテル建設、
1944-45 2次大戦の爆撃で被害。
12cには市壁が造られ、門塔・堀・土堤を備え、市壁の高さ8m・幅1.2-2.5m・
長さ2.84kmであり、1832までは門の夜間閉門は維持された。19c市壁は取壊
され、道路・工場・住居等が造られた。1970から市街は文化財として整備さ
れた。残った市壁も徐々に修復された。
12cの市壁には、10登塔・7見張塔・5門塔があった。
ニコライ門 Nikolai Tor (12c) 東門、ニコライ教会の塔に接して、唯一残った4階建
の四角門塔が残っている。主塔を中心に両側に車道門と歩道門と3門が
並んでいる。
コウノトリ塔 Storchn TUrm (12c) 西、古い見張り塔で監獄としても使われた。
今はレストランとユースホステルとして使われている。
鐘楼 Grocken Turm (12c) 西南、ドーム通りに立つ。
上昇塔 Aufsteiges Turm <12c> ゲーテ公園にある3階建て四角殻塔。
チューリンゲンの森の北西にあり、山上のヴァルトブルク城と平地の旧市街と中間の斜
面に見所がある。
市庁舎 Rathaus (1484) 旧市庁舎は聖ヨハネ教会の北側のマルクトに立っていたが1596
侯爵ヨハン・エルンストは旧市庁舎の右に2番目の市庁舎が建てられ、1636の大火で
焼け1641に再建された。1812には隣のRatWaageと接続し、1945の爆撃で損
傷を受け、1978に再建された。1993-96修復されたが、塔はやや傾いている。
ヴァルトブルク城 Wartburg (1067) 旧市街の南西の山上にバロックの城が建てられ騎士
の歌合などのエピソードが語られている。中には、ロココの宴会場・ルターの部屋・
チューリンゲン美術の陶磁器がある。城博物館にはクラナッハ父の絵画が数点ある。
町宮殿 Stadt Schloss (1742) 侯爵エルンストは、多額の債務があったが、王宮が古く
なったため、3階建の町宮殿を建てざるを得なかった。1931チューリンゲン博物館
となっている。
グロイツナッハの家 Creutznacher Haus (1539) マルクトにある美しい木組みの家で、よく
修復された複合建物は、今住居として使われている。
狭い家 Schwaler Haus (18c) ドイツでも狭い有人の木組の2階屋である。幅2.05m
・床面積20m2・高さ8.5mの寸法。1974今の所有者は宿泊に使ったが、2000復
元して家の絵画・小さな彫刻・陶磁器・歴史的な家具などの展示を行っている。
ルターの家 Luther haus (14c) マルチンルターは市場の近くの木組みの家に住み学校に通
った。今はルターハウスとしての展示がある。
バッハの家 Bach Haus (16c) 1685大バッハはこの町で生まれ、10歳まで学校に通っ
た。生家をバッハハウスとしてバッハの生涯と作品を展示している。
ヘレグレベン館 Hellgreven Hof (15c) 東のジョージ門の南西に、市壁に接して封建農
園として石造の建物が建てられた。その後議会・旅館・住宅・裁判所などと
して使われ、2002市立図書館となった。
聖ニコライ教会 St.Nikorai Kirche (1180) 塔の高さは36mで、最後のロマネスクの教会で
あった。1525旧ベネディクト会修道院の教区教会として3身廊の大聖堂になった。
1525農民戦争でひどく壊され、1555福音礼拝で再開された。今の姿は1886
-87の大改修の結果である。1898オルガンが構築された。
ゲオルグ教会 Georgen Kirche (1180) 1221ここでチューリンゲン方伯ルードヴィッヒ1世とハンガリー
王女エリザベス4歳は婚礼を上げた。1498-1501マルチン・ルターが居り、1685ヨハン・
セバスチャン・バッハが洗礼を受けた。1898-1902今の高い塔を持った外観となった。
アン教会 Annen Kirche (15c) 聖エリザベス・アンによって、設立された病院の教会と言
われ、何回も作り直された。古いのは、ロマネスクの洗礼盤と後期ゴシックの十字架。
伝道者教会 Prediger Kirche (1216) ドミニコ会修道院として設立されたゴシックの教会
は、16cに世俗化された。1899元食堂に博物館を設立し、チューリンゲン中世彫刻を
多く収集している。修道院は1544ラテン語学校、今ではマーチンルーサー高等学校である。
歩行広間 Wandel Halle (1906) 英国風の庭園とホワイエ・野外ステージの観光施設。
ロイター・ヴァグナー博物館 Reuter Wagner Museum (1866-68) 作家フリック・ローターは、ネオ・
ルネッサンスのローマ時代のヴィラを模した建物を建て、1877まで暮らして低ドイツ語の
作品を書いた。その暮らしと作品を展示している。
ヴァーグナー博物館は、1987から開かれ作曲家の生涯と作品をたどっている。
市庁舎 | 市壁 |
802-817 アルホ伯爵からフルダ修道院の寄付調書で初言及、1316 バ-トホ-ルド伯7世は、町を取得した、
1323バートホ-ルト伯は町の権利授与、1352 町はヴュエッテン家の支配下に、1485 町はザクセン選帝侯に属した、
17c 30年戦争で2回破壊され、人口は1/5に、1680-1826 町はザクセンに属しシュネッターチェストの家具で栄えた、
1920 チューリンゲン州に編入。
13cの町の最高点の古い要塞の壁にアイスヘルト城が建てられ、北側と北西側に250mの市壁が残る。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus () マルクト広場の南西に建つ、3階建の建物。
アイスフェルト城 Eisfeld Schloss (13c) 古い要塞の壁に馬蹄形の平面の北東にドーム付きの円塔の
ある3階建の宮殿が建てられた。1728にザクセン・ヒルトブルクハウゼン侯爵夫人の住居となった。その後地方
裁判所と刑務所が収容された。1948文化的な用途に使用され、博物館として絵画・磁器・手工業
品が展示されている。
トリニティ教会 Ev.DreiFaltigkeits Kirche (1488) ヴェルフブルク大聖堂がゴシックの3通路の身廊を
建設した事から始まり、1530に四角い塔が付けられた。 1565に落雷で塔が壊れ、1601に町の
大火で身廊は全焼し、1632に30年戦争で焼き払われた。再建はルネッサンスの挌間天井となり、1651
に三位一体教会として再奉献された。1945に2次大戦の砲撃で壊され、塔は再建された。1902.
1988に改修された。
市庁舎 | バートロメス塔 |
ドーム広場 | マルクト通 |
魚市場 | クレーマー橋 |
742 交易の中心の入植地初言及、 9c 初期の町になり東フランク王も滞在、
1000 マインツ大司教の支配下に、 1066 最初の1次市壁が築かれた、
1168-96 市域133haを囲む8kmの2次市壁、12c 皇帝フリードリッヒが訪問、多くの教会建設、
13c 大規模な大学の町となり自由獲得、 1306 町の慣習法を文書化、
15c ハンザ同盟に加入し経済的に頂点、 1618-48 30年戦争被害、スエーデンが15年占領、
18c マインツ選帝侯の努力するも町は困窮、、1802-06 プロイセンに帰属、
1806 仏軍の占領で経済困窮、 1814 プロイセンに再び統合された、
1851 市壁は町の拡大を阻害し排除された、1945 空爆で深刻な被害。
1066に1次市壁、1162連続市壁の建設を開始したが、チューリンゲン方伯が破壊、1168
1168-96に2次市壁、約8kmを建設。西北にあるペーターズベルク要塞は復元された。
残っているのは、西南のブリュール公園に130mと北のヨハネスに50mである。
市壁の8市門と多くの壁塔は全く残っていない。中世には、21教区教会.15修道士
礼拝堂.11修道院.4大学塔があったが、今は24が残っている。
パウロ塔 Pauauls Turm (1216) 旧聖パウロ教会はほほ焼失し、1736-37塔は再建
された。
ニコライ塔 Nicolai Turm (1200) 旧ニコライ教会の塔である。
ヨハネ塔 Johannes Turm (12c) ローマ教会として設立された。
ゲオルク塔 Georgs Turm (1132) 聖ミカエル教会の塔で最古の鐘1380がある。
バーソロミュー塔 Bartholomaeus Turm (1182) 聖バーソロミュー教会の塔で、60個
の鐘がある。
大きな町であり、ペーター山上の星形要塞は良く保存されている。旧市街も広く
古くからの大聖堂・教会が残り、15-16cの商家や古い町並みクレーマー橋も残っている。
市庁舎 Rathaus (13c) 魚市場にネオゴシック旧市庁舎の建物複合体で何世紀にわ
たって成長した。1865-66大広間を含む建物は塔を含めて建てられ、残りは1870に
加えられた。1904-05には東翼が延長され、第2段階の市議会議室も建てられた。
1934-35南棟に貯蓄銀行が建てられ複合体が整った。市庁舎の廊下や階段の絵は
チューリンゲン首都の歴史をめぐる逸話を示す。
ペーター山 Petersberg (1823) サンピエトロ大聖堂1103-47の遺跡のある丘に、1665
-1707要塞が建設され、1868まで段階的に再構築されていた。1990には埋もれた壁
や低くなった壁が小さなブドウ園を含め復元され、1999には情報センターが置かれた。
キュリアス城 Criaksburg (1480-82) 1123に丘の上のベネディクト会修道院は市外の
丘の上に移され、聖キュリアクの名前が与えられた。1478この修道院は解散され、代わ
りに城が建てられた。19cには一部解体され、1995園芸博物館となり、一部再建と
拡張が行われ、塔からの展望は良い。
クレーマー橋 Kraemer Bruecke (1113) 1323石の橋となり、幅広い長さ79mの橋に
32人が住み17-19cの店舗が並んでいる。
聖マリア大聖堂 Dom St.Marien (725) 宿屋の主人が丘に邸宅を建てた。1154
バジリカの建設が始まり、後期ロマネスクの教会は東に三身廊・翼廊と二つの塔から成っ
ていた。1349東への拡長が始まり、1372に後期ゴシックの窓のあるホールに3身廊で完成
した。1350には大聖堂学校があった。北平面玄関は彫像で飾られている。
セベーリ教会 Severi Kirche (836) 大聖堂の丘の上の隣接した教会であり、
ドイツでも数少ない5身廊のゴシック・ホール教会である。初めベネディクト修道院として建て
られ、935参事会の聖セベーリ教会となった。1080に焼け1142再建された。14cの祭
壇画・1467洗礼盤・1472塔が付けられた。
アウグスティーノ会修道院 Augastiner Kloster (1277) 修道院教会は聖アウグスティネス
の生涯のステンドグラス1340があり、ゴシックの回廊を通って1505-11マルチン・ルターが生活し
た修道院へ行ける。
商人教会 Kaufmanns Kirche (11c) 1291火事でロマネスクの教会が壊れ、1368
ゴシックの新教会が奉献された。1521に新教教会となり、1522にはルターが説教した。
1636-50スエーデン駐屯地の教会となった。1855-59と1863-65に大規模な改修が行わ
れ、1945爆撃で壊れ、1955祭壇・1987-92説教壇・1994南塔・2001北塔・2008外装。
ペーター教会 Peters Kirche (12c) ペータース山のベディクト会修道院の南東部に3身
廊のロマネスク柱バジリカがある。1803修道院は世俗化され、1813プロイセンが砦を占領し
た。仏軍の攻撃で修道院と教会は燃え、1993ロマネスクの修道院教会はコンクリート・アーチの
芸術家博物館となった。
アエギディン教会 Aegidien Kirche (1110) 橋教会ででクレーマー橋に接続している。
東前面が美しい出窓で飾られ、町のパノラマカが塔から見られる。1293焼失し1324に
は石造の教会となった。1472再び焼失し1582新築された。1827民間所有となり、
1958-59復元されて再び教会となった。
聖アンドリュー教会 St.Andreas Kirche (1216) 教区教会で1325に改修が行われ、
1416一部焼失した。1484修道女のために聖別され1522ルター派教会となった。1633
スエーデンはヘルメットを改造した1679-88説教壇と祭壇が造られた。1806仏軍キャンプの爆発
で被害を受け1813武器庫となった。1836大修理で外部階段は外され塔に時計が付
けられた。1945爆撃で屋根が壊れ1982-93と1998-2003大規模な改装が行われた。
全聖人教会 Aller Heijigen Kirche (1125) 修道院の教会として設立され、
1222焼失後に教区教会となった。13c末-14cゴシックの復興が行われ西塔は53mの高さ
である。1487改修が行われた。
アンガー美術館 Auger Museum (1706) バロックの建物に中世チューリンゲン美術を中心に
祭壇衝立や石棺・18.19cのドイツ風景画・チューリンゲンの磁器などの展示がある。
市庁舎 | 宮殿 |
地方裁判所 | 聖プイリップス・ヤコブス教会 |
13c ヴュルツブルク教区に属し16cまで教会が行政執行、1265 町は市壁と塔で守りを強化、
1340 公爵アボットハインリッヒ6世は町に自治特権を与えた、 1524-25 農民戦争で町は守られた、
17c 30年戦争で苦難と疫病に襲われた、1769-71 飢餓で移民が発生、1806 仏軍が支配、
1815 フルダの支配を逃れてザクセン公国へ、1829 ワイマール共和国政府の承認を得てフルダ司教区へ、
1858.1883 大火災で上部の町は焼失、 1945 空爆は免れ米軍無血占領、7月赤軍占領。
1265の市壁は1595に再建され、1858の火事で南の市壁が破壊された。東側の市壁
は控え壁と銃眼を備えて高い壁が残っている。西側は部分的に家屋が建てられている。
北と南の市門は、1832に取壊された。南西角の円塔に切株と、城内南東角の3階建
円塔に八角錐屋根の泥棒塔と、北西部の半円切株がある。
市庁舎 Rathaus (1540)半木造の旧市庁舎は、1858の火事で焼け、1859-61に元
の場所にネオゴシックで再建された。
ガイザ宮殿 Schloss Geisa (1540) フルダ王子アダルベルトは2-3階建の新宮殿を建てた。
1806に林業事務所・放課後ケアセンター・小学校などに使われた。
カトリック市教区教会 Kath.Stadt Pfarr Kirch St.Philippus und Jakobus (1489-1504)
尖塔との入り口は、教会の最古の後期ゴシックの部分である。16cに身廊と内陣の窓が広
くなった。西塔の高さは、38mであり、カリオンカが1530に四角い塔が付けられ、1日に3回
鳴らされる。
福音教区教会 Ev.Pfsrr Kirche (1540)ザクセン・ワイマール・アイゼナッハの一部となって、
プロテスタントが移り住み、王室厩舎をプロテスタント教会に改造した。それは1858に火事で焼失し
1860後期古典主義で再建された。1892に搭が、1888ステンドグラスが追加された。
旧地方裁判所 Ehem.Amtgericht (1540)初めワイナリィと穀物倉庫として建てられた。
1700地方裁判所として1949まで使われた。その後住宅や事務所として使われ、今は会
議室や宿泊施設になっている。
市庁舎 | ザルバトア教会 |
歩道の絵 |
995 皇帝オットー3世はナウブルク司教に町の北部を与えた、
999 皇帝オットー3世は妹でクエトリンブルク女子修道院長に町を与えた。
1209 女子修道院長はヴァイグ知事に統治委託、 1237 町として指定いされた、
14c 5市門と辺長350mの正方形市壁で防備、 1306女子修道院長は領主統治権を売る、
1329 バイエル王ルードヴィッヒは知事に課税権貸与、 1358 町はマイセン辺境伯に所属、
1450 ザクセン兄弟戦争で荒廃も早期回復、 1550領主絶滅、1560 プラウエンのロイス家に、
1639 スエーデン軍の略奪と破壊、 1686 町の2/3焼失、1780町全体が灰、
1806 ナポレオンが町に滞在、、 1918 ロイス侯爵が退位し人民共和国に、
1920 新設チューリンゲン公国の一部に、 1945 2次大戦の空爆で町は大破壊。
14cに350m四角の市壁が築かれたが、残るのは南StadtGrabenに高さ8m長さ40m。
フェーバー塔 Feber Turm (1874-75) 高さ21mの見張塔で町の南東からの眺めを提供し、
商工会顧問で地質学者のFeber博士が構築し、市に寄贈した。
町の中心には、市庁舎・町薬局・教会などがあり、1780の火災や1945爆撃で壊さ
れ、1990から歴史的建造物と周辺地区は復元された。
市庁舎 Rathaus (1254) 最初の市庁舎は1450ザクセン兄弟戦争で壊され再建され1573-75
現在の市庁舎はルネッサンスで建てられ、高さ53.6m八角塔や装飾された正門がる。高さ
33.6mの展望デッキは見晴らしがよい。
東石宮殿 Schloss Osterstein (12c) 昔からの砦の跡に、領主が石造の城を建てたが、14
50のザクセン兄弟戦争で壊され、知事が修復し住んだ。1560ロイス家がルネッサンスの堂々たる
宮殿を建て1802まで住んだ。1863からロイス公国の王宮であったが、1945空爆で破壊
された。残った部分はレストランやカフェと観測塔として使われている。
聖ヨハネス教会 St.Johannis Kirche (1881-84) 1780の大火で壊れ、ネオゴシック・リバイバル様式で
町で最大の教会として再建された。1945空爆で損傷し、1972-75に改修された。中
には1650の十字架が祭壇にある。
聖マリア教会 St.marien Kirche (1193) この地区で最古の教会で、1440後期ゴシックの今の教
会が建てられた。中には、貴重な後期ゴシックの祭壇には華やかな十字架や祭壇画があ
る。
聖ザルバトール教会 St.Salvator Kirche (1717-20) バロックの聖救世主教会で1725の新しいオル
ガンは、ヨハンセバスチャン・バッハが検収した。塔は火災で2年後に焼失したが、1778忠実に
復元された。1903内装はアールヌーボーで改装された。
トリニティ教会 Torinitatis Kirche (1611) 聖三位一体教会はルネッサンスの埋葬教会として建てら
れ、1868-69ゴシックに改装され、1899塔が付けられた。中には、1630最後の晩餐、
1500後期ゴシックの外部説教壇がある。
ウルスラ教会 Ursula Kirche (1200) 後期ロマネスクの教会で、1473の古い鐘もある。
町薬局 Stadt Apotheke (1592) マルクトの角に3階建てルネッサンスの建物に1606の出窓が目立ち
ロイスの紋章がある。1603-1847薬局は営業し、1998-2001建物は拡張された。
町博物館 Stadt Museum (11724-39) 旧訓育孤児院として建てられ、1911-13市立博物館
となった。2005大規模修復を経て再オープンした。チューリンゲンの文化的・歴史的な収集物が
あり、ロイス国・ゲラの繊維・錫や磁器などの展示がある。
自然史博物館 Natyr Kunde Museum (1686) 旧市街でも古い民家で、1716-1847シュライバー
家が住んだ。その後裁判所や学校として使用され、1947からは博物館となり、1951-
56改修された。景観生態学的な常設展示の他、果樹園・森林・平原・湿地・岩場などを鑑
賞できる。美術館にはチューリンゲンの美術品・生物・地質学などを展示。
美術館 Kunst Galeria (1748-49) 半円形のバロックの複合体は、ロイス王族の庭園にある2階
建てのオランジェリィで、1957美術館となり、美術収集物を収容・展示した。
オットーディックスの家 St.Johannis Kirche (1881-84) 3階建の建物は、美術館の第2展示場と
して、オットーディックスの生活と作品を展示している。
注目芸術博物館 Otto-Dix Museum (1760) 1765商人ヨハン・ゴルトフリート・ステンデルが、1844モーリ
ッツ・ルドツフ・ファーバーが住んだ家に、1984現代の美術・工芸・写真・デザインを収めた美術館が
開設された。
市庁舎 | 宮殿 |
宮殿 | マルガレータ教会 |
775 初文書言及、12c 都市権を獲得し貨幣を鋳造、12c 町は市壁と周堀で守られた、
14c 遠くから水を導水、1442 都市の住民の武装化、 16c 布・革・武器・錠前の製造、
1545 大火災で町の半分を焼失、 1567 市域を拡大し防御壁と稜堡を築いた、
1800 要塞の補強を行い外側に堀を強化した、1833 堀は埋められ稜堡と市壁は除かれた、
1944 空爆で旧市街は被害を受けた。
文化財リストによれば、Myconjus Platz.1に家と壁があり、市壁の一部であろう。ここは
かっての旧市街地から西へアイゼナハ方向へのSund Haeuser Tor があった場所である。
見当たらない。
平地に市庁舎と復元された旧市街が広がり、その南の丘に平和宮などのバロックの
大きな建物には多くの博物館が置かれ、広い公園には池やオランジェリィがある。
市庁舎 Rathas (1567) 中央マルクトに立つルネッサンス風の建物で、高さ35mの塔に高さ12mの展
望台がある。
平和宮殿 Schloss Friedenstein (1682) 丘の上に大きなバロック宮殿が公園にさ12mの展
囲まれて立ち、今は博物館である。
エクホフ劇場 Ekhof Theater (1687) バロック劇場で宮殿の舞踏会場。
噴水 Wasser Kunst (1369) 広場の南、ポンプ付階段噴水、1995改修された。
フリードリッヒスタール宮殿 Schloss Friedrichsthal (1711) 東に夏の離宮、1918州大臣館、今
運輸専門学校。
自然博物館 Museum der Natur (1879) 南、ルネッサンスの建物で、自然博物館設立後300年
の収集物がある。昆虫・オオトカゲ・などを展示。
温室 Orangerie (1742) 公園の東に温室を建てた。北館はハイネ図書館せある。
城博物館 Schloss Museum 16c芸術として、絵画・銅版画・彫像・磁器・硬貨・ガラス・扇子
とうの展示。
市庁舎 | |
北壁 | 南壁 |
市壁 |
500 最初の入植地の遺跡を発見、 900 フルダ修道院の支配下で集落建設、
1212 方伯は市場団地を建設、 1353 自治・市壁設置・市場・鋳造の特権を得た
14c 通商路にあり手工業者が集る、 1620 30年戦争の略奪、1625 ペスト流行、
1689 町は火災で深刻な損害、 1807-13 ナポレオン戦争で被害、
1834 町のほぼ全体を焼失、市壁上部を再構築、 1871 再興して急速に工業化、
1945 2次大戦の空爆で被災した。
市壁の高さは9mあり、前面にツインガー壁1.5mが付いていた。部分的には低い
物もあったが二重壁や犬小屋も残っている。堀は緑地になっているが、部分的に
は小さな庭が並んでいる。1687の火災後市壁は資金不足で放置された。1834の火
災の後に石は取り外されて建物に再利用された。今残るのは、南と東である。
中央門(上門)は、交通障害で1820に取り壊された。古い3市門は全部失わ
れた。1834の火災後に次第に市壁の中の小塔も壊された。
田舎の小さな町であり、市壁がよく残っているが保存状態は良くない。
市庁舎 Rathas (14c) 1491.1687.1834.の大火で焼けそれぞれ再建された。
2006までに大規模な改修が終わった。
聖マルチン教会 Ev.Kirche St.Marrtini (1279) 1687の大火の後にナイジン・塔・基
礎部分を除いて今の姿になった。1894内陣外側の階段が内側に移された。
2008数年かけた改修が終わった。
聖ペトリ教会 DorfKirche St.Petri 1782の墓標が教会の壁にある。
郷土博物館 Heimat Museum (2008) 市庁舎に開設され、ポールラーマンンのコレクション
を基本に補完・拡充された。
歴史的市場の建物 Histrische Markt Gebaeude
1601 旅館「黒熊」1988まで旅館「金の錨」として営業された。
1777 旅館「緑ライオン」後に「金ライオン」と呼ばれた。
市庁舎 | 北壁 |
北壁 | 北東壁 |
東壁 | 南東壁 |
南壁 | 聖マリア教会 |
973 皇帝オットー2世の文書で最言及、10c マインツ大司教の支配下で集落建設、
1000 市場の町だった、1227 マインツ大司教ジークフリート2世は憲章を授与し市壁を築く
1333 大火事で町は荒廃、 1335 包括的な自治体の法制を採択、
1525 宗教改革の導入、 1575 イエズス会の反宗教改革、
1611.1626.1682 ペスト流行で人口減、 1618-48 30年戦争で数回略奪された
1739 2回目の大火事で深刻な損害、 1736 マインツ選帝侯が宮殿を置く、
1802 プロイセン領となる、 1803-13 ナポレオンの占領、 1815再びプロイセンへ、
1858 最初の葉巻工場設置、 1873 針工場の建設、1945 4月米軍7月赤軍占領、
1945 チューリンゲン州となる、 1950 スパ開設、 1994 郡庁所在地となる。
13cの市壁は、初め高さ4mで造られ、今も8割が残されている。市壁は、
住宅用の基礎壁や側壁あるいは地下室としても残っている。
門や塔は見当たらない。小さな壁塔が、北に2角塔 西に1円塔 南に
2円塔 合わせて5壁塔が残されている。
今も市壁に囲まれたマインツ大司教の町で、1739の大火事以降の建物が殆どで
ある。旧市街の北東にクア・パークがある。
マルクト | ヘルトブルク館 |
聖母教会 | 聖カタリーナ教会 |
507 コーディックスEberhadiにアシス伯の遺譲としてヘルブルクの 商品はフルダ修道院に移された、
1317 ヘルネブルク伯は要塞建設を開始、 1353 ニュールンベルク伯へ、 1374 ヴェッテエン家に移り、
1394 町の憲章を受け取り、1396 評議会設立・下級裁判所開設、 16c 要塞の強化、
1557-1700 魔女狩りにより8人処刑、 19c中 農業と手工業で困窮し北米に多数移住、
1945 東西ドイツの国境に位置した、 1993 周辺の町と合併してBadColberg-Heldburg。
14cにヘルネブルク伯が建設し、16cに大幅に強化拡張されて、今も点々と残る。
16cの市壁には、4市門と17壁塔があったが、1門4塔が残されている。
下門 Unter Tor (16c) アーチ門に3階建の角搭があり、最上階に三角屋根の建物
と時計が付けられている。
隅搭 Ecke Turm (16c) 市壁の四隅に円錐屋根の円塔が立っている。
市庁舎 Rathas () マルクトに2階建長方形の建物で、1833の木彫りの紋章が吊るさ
れている。
聖母市教会 StadtKirche Unserer lieben Frauen (1502) 1522 に最初のプ
ロテスタントの礼拝が始まった。1554にギャラリィ付きの身廊が追加された。サイドギャラリィは
1970に削除された。コンパクトな塔は1614に付けられた。1819-28に内部は再切開され
修復された。1848に木製の搭頂は焼けて、1849にたかさ45mで改築された。
1978-81に大規模な内部修復が行われ、元の塗装が露出した。3通路の身廊は6本
の柱で支えられ、1879に格間天井に代わって木製の丸天井となった。
聖レオンハルト教会 Gottesacker Kirche St.Leonhard (1497) 墓地が郊外に移され
た後の墓地礼拝堂であり、中には祭壇・演台・ベンチのみである。
ヘルトブルク館 Vest Heldburg (14c) 中世の丘の砦を16cにルネッサンスで再建された
宮殿。14cにヘンネベルク・シュロイジンゲン伯が所有し、後に裁判所として使用された。1374
にヴィッテン家が30年戦争で何回か略奪された後に、1712-20に再度要塞化を始めた。
1717に永久守備隊が置かれた。1826にマイニンゲン公夫人が所有し、1874-98はゲオルク2世
公が所有し、改装した。1945ソ連軍を収容し1982大火事で壊れた。1990修復が始まり
1994財団が引き継いで修復が行われ、2016にドイツ城情報館が開館した。
森林会館 Forest Haus () 4階建八角塔が中央にあり、2階建の美しい模様の
ある木骨造の建物。
ハッパクの家 Happach Haus () 2階建の美しい木組模様の上階木骨造の美しい建物。
市庁舎 | ゴルガーテ教会 |
要塞入口 | 西壁 |
424 チューリンゲン王は集落を設立してゲアバタスを派遣しRoteHofにログハウスを建てた、
777 Charlemagneの王冠領域として言及、 874 ヘルスフェルトのTitheリストに記載、
1004 ホーエンシュタイン伯は町に昇格した、 1217 ハルトマンは石造の城を建てた、
1512 マンスフェルト伯エルンスト2世は要塞を建てた、 1525 トーマス・ミュンツァーは要塞に投獄、
1530 皇帝チャールス5世は都市権を授与、 1664.73.1723 都市権を再確認、
1632.38.40.41.45 町を各軍が占領、 1664-68 ザクセン伯アウグストは城を再建、
1688 クヴェアフュート公国へ、 1746.53.56.59.1846 干ばつで飢餓、
18c 仏軍占領で要塞建設、 1815 プロイセンに落ちた、 1819 大火災。
北と西側に市壁の痕跡があるが、道路からの確認は困難。
見当たらない。
市庁舎 Rathas (1565) マルクト広場は無く、旧市庁舎は簡素な2階建の7窓
列の四角い建物であった。1900-02に2階建レンガ造鐘楼付きスレート屋根で交差点に
建てられた。塔には時計があり、中には有名な階段・大会議室・ラッツケラーがある。
聖ヴィグバート市教会 StadtKirche St.Wigbert (1680-96) 福音ルター派の低い
単塔の小さな教会。30年戦争で荒廃し古い教会の石材を使って、北に町教会を
建てた。移転前の場所には、今はEv.Pfarramtが立っている。
要塞 Wasserburg (1217) 砦は1217に始まり、城は1512-19にルネッサンスの水城を
ゴシックの4翼の建物を二重堀で囲んで建てた。1525農民戦争の指導者トーマス・ミュンツァー
が幽閉された。1664-68に破壊され、18cに仏軍が要塞を建設し、これはドイツで
唯一保存された仏要塞である。1970-1997に城壁の一部が復元された。
2010には130ベットのユースホステルに改築された。
市庁舎 | ヘリンゲン宮殿 |
宮殿広場 | リンデン門 |
南西壁 | 西南隅壁 |
北塔壁 | 北壁 |
東南壁 |
1155 フルダ修道院の文書で初言及 1172 川の交点に騎士団が水城を建てた、
11260-1300 ホーエンシュタイン伯はバイヒンゲンの城を購入、1318-27 伯爵は町の防御強化、
1327 町の憲章を授与された、 1406.1407 帝国軍が町を包囲したが失敗、
1417 ホーエンシュタイン伯の死後相続を争った、 1539 シュバルツベルク伯が町を支配、
1590 町は大火災でほぼ全焼、 1597-1658 シュバルツベルク伯未亡人が保有、
1626 ペスト流行、 1730 横方向にバロックの大宮殿へ拡張、
1815 ウイーン会議でプロイセン王国に落ちた。
14cの市壁は多くの部分に残り、外壁と内壁が二重に残る所もある。
チュウリンゲンでも最長の市壁が、北から東と南に残る。
見当たらない。東西の上門・下門には跳ね橋あったが、今はない。
南のリンデン門は、1590に追加され、簡素に復元されている。
歴史的建造物としては、宮殿・教会・大邸宅がある。
市庁舎 Rathas () 2階建の簡素な建物で、屋根の中央に鐘楼がある。
聖ミカエル教会 St.Michael Kirche () キルヒ広場に位置し、屋根部分は木造。
ヘリンゲン宮殿 Schloss herimgen (1172) 騎士団が来て城を建てた。
1260-1300にホーエンシュタイン伯はバイヒンゲン伯からは城を買収し、1318-37城を拡張
強化した。1539 シュバルツベルク伯が町を相続し、1730バロックの大宮殿に拡張
した。1815プロイセン王国が所有し、1945には国有化された。1949学校となり、
1960一部解体されたが、2003-14外側市壁を含め改修され、2015図書館・
博物館・人形館・等に使われている。
市庁舎 | 市教会 |
市壁 | マルクト |
1234 ヘンネブルク・ボテンローベン伯に属し初言及、13c ヴィルトベルク領主が支配、
1316 ヘンネブルク伯が買収、1324 町は要塞建設の権利を得た、
1325 石の家を入手し町庁舎へ、 1352 継承でニュルンベルク城伯が所有、
1388 大火事で旧市街は全焼、 1412 最初の税目録を作成、
1532-1693 魔女狩りで30名を裁判に、1572 ザクセン・コーブルク公国となった、
1572 風雨とペストで大打撃を受けたが、ザクセン・コーブルクの治世下で繁栄、
17c 30年戦争で人口は1/4に、1640 ザクセン・ゴーザ・アルテンブルクへ、
1779 大火事の後に多数の新建築、 1945 空爆・4月砲撃後米軍占領・7月赤軍移管。
14cの市壁は、二次大戦の砲撃で壊され、1949に大部分が解体された。
市壁が残っているのは、北西の市立博物館の北壁に30m、北東のシルクと広告博物館
の北壁と、Bortholds Torの15m、南東に壁塔の残る160mで、合わせ0.21kmである。
Berthol Tor市壁にアーチ門を開けた通路であり、1924に設けられて、
今も残されている。
市庁舎 Rathaus (1325)13cに貴族が建てた石造の礼拝堂を町が1325に
取得して市庁舎として使った。1833に全焼し1395-1414にマルクトに新築された。
1594に古い建物を外壁に使って、ルネッサンス3階建てで新築された。
1862までにパンと肉の屋台が地階にあったため、入口は4か所あった。
19-20cに地階の改修が行われ、1995には1595のレイアウトに復元された。
4階建の階段塔には時計があり、ドームとランタンが乗せられた。
ヒルトブルクハウゼン宮殿 Schloss Hirdburughausen (1683-95) 町の南西端に、
ヴェルサイユ宮殿をモデルに、2つの側翼のある本館を、切妻屋根でシンプルな石壁の
建物が建てられ、南に大きな庭園をがあった。1945の砲撃
クリスツス教会 Ev.Christus Kirche (1286) 古い教会は1779の大火事でこわされ
1781-85バロックで再建された。1921に新しい鐘が付けられ、1970.1993に改修が行われた。
使徒教会 Apostel Kirch (1721) 1711エルンスト公は仏からのユグノー教徒を市内に
定住させ福音ルター派の教会を建てた。1820-1910は墓地教会となり、城教会から
ヨハネの彫像が贈られた。1834に教会塔は34mに嵩上げされた。
聖レオポルド教会 St.Leopold Kirche (1721) 仏改革派教徒のための教会は、
市門の北に建てられた。
1824に教徒減少でカトリック教区に売却された。
市立博物館 Stadt Museum (1993)
①16cの町家と14cの市壁の搭に展示
1234からの工芸品・学校・町家の展示。
②Alte Postは1809-1849ツルン-タクシスの郵便局の建物を1889-1993に改修開館した。
市の歴史・中世の町・30年戦争・絵画彫刻・アルテポストの歴史などを展示。
ミルクと広告の博物館 Truetescher’s Mirch und Peklame Museru
古いミルク加工のチーズやバターをを作るための機器と乳製品の包装・表示の展示がある。
市庁舎 | 市博物館 |
アナテェミー塔 | 円塔 |
ヨハニス塔 | 火薬塔 |
北西角壁 | 市庁舎 |
ヨハン・フレデリック像(マルクト) |
1182 最初の文書言及、 1230 ローテンンブルク領主は市壁を設けた、
1275 参事会の下で自治を確立、 1332 シュバルツ伯の所有となり都市権を授与、
1365 下級裁判所の設置、ワインの生産、 1523-24 宗教改革の中心地となった、
1547 ザクセン公国となった、 1548 高等学校が設立され10年後には大学、
17c ドイツ最大の大学となり有名な教授が教えた 1806 ナポレオン軍による戦災、
1846 カールツアイスの光学機器の発展、 1945 空爆と砲撃で被災、
1969-70 旧市街の古い建物の解体。
14cの市壁の残りは、PulverTurmの北側に20+15m、LutherPlatzに10m、
JohannisTorとPulverTurmの間に40mである。
ヨハネ塔 Johannis Tor ヨハネス広場に建つ3階建ての角塔に小尖塔を乗せる。
火薬塔 Pulver Turm 北西の角に立つ。3階建ての円塔で大丈夫に王冠。
解剖塔 Anatomie Turm 南、歩道に2.5-3.0mの円塔の1階部分のみが残る。
円塔 Rund Turm 北、歩道に1.5mの円塔。
旧市街は意外と狭いが博物館は多い。
市庁舎 Rathaus 地階はオープンのアーチがあり、茶色石造の2階建ての建物で
三角屋根に白色時計塔がある。
聖ミカエル教会( StadtKirche St.Michaelis (13c) 旧シトー派女子修道院付属教
会は15cに大規模改修工事が行われゴシック様式になった。
光学博物館 Optisches Museum (19c) カール・ツアイス500年の眼鏡・望遠鏡・顕微鏡
レンズなどの展示。1866のツアイス工場の再現。眼鏡のコレクションは欧州最大。
ゲーテ記念館 Goeth Gedenkstaette ゲーテの1817-2 2の記録と遺品を展示。
シラーの家 Schillers Garten Haus シラーは10年間この町に住んだ。1797-99
には家族と共にここで過ごした。シラーの使った品を展示している。
ロマン主義館 Romantiker Haus 昔の哲学者の家はイエナ文学博物館であり、
初期ロマン主義1785-1800の風土を表す。
<em>町博物館 stadt Museum (15c) 町でも古く美しい建物に、5回丹羽
たって創設以来の町の歴史を示している。町の文化と美術の展示もある。
町の七不思議がある 1.聖ミカエル教会の祭壇の下、2.ハンスの頭(市博物館)、
3.七首の竜、4.モンスの山(北の石灰岩の山)、5.古い石造のアーチ橋15c、6.キツネ塔、
7.Weigeischeの家(1898取壊)。
市庁舎 | 広間塔 |
拷問塔 | 東南壁 |
876 最初の文書言及、 1140 ワイン製造、
1283-1333 都市権を授与、 1345 戦争の火災で町は殆ど焼失、
14c 敵に備え市壁の強化、 1347.1566 ペスト流行、
1410 町は大火災で損傷、 1487 上級裁判所の開設、1613大洪水、
1625 農民戦争勃発、 1632 30年戦争で略奪、その後要塞強化、
1806-13 ナポレオン軍が占領、 1843 大きな二つの磁器工場が開設、
1945 2次大戦による被害はなかった。
1345領主は戦いの後に町の要塞を強化した。殆ど残っているが建物の陰で
見えない部分もある。
1345には3門6塔で市壁は構成された。
ザール門 Saal Tor (14c) 中世要塞の唯一残る門であり、丘の上から下の道
へは、地下道となっている。門にある町の紋章は女性の竜退治である。
拷問塔 Marter Turm (1345) 戦いの後の要塞強化のために設けられた3門
6塔の内の一つで、ほぼ完全に市壁と共に復元されている。
麦芽塔と乾燥窯 Malz Turm und Darre (1345) 復元保存された二つ目の
塔である。壁を越えて窯があり乾いたビール麦芽を棚に置いた。
丘の上に市壁で囲まれた中世の町がよく再構築され、中世の雰囲気を取り戻
している。丘の下からの塔や壁を見上げる景観も良いが、広いマルクトは大きな建
で囲まれ重々しい。
市庁舎 Rathaus (1325)中世には狭い建物で地階のゴシックオープンアーチにパン屋
と肉屋の屋台があり、2階には市長と町の事務所があった。1879-82大幅に建物
が拡張されて3階建てとなった。珍しく時計は前面の壁に付けられた。
角の家 Eckhaus (13c)旧市街でも古い木骨造の建物で復元されている。
昔のヨハネス門の近くにあり、今はホテルとなっている。
市場の門 Markt Pforte 生産市場の門は、川と道を基盤として新形成され
た地区と歴史的地区を繋いだ。昔は食堂の建物を通って王子の地下室に繋いだ。
旧地方裁判所 Historisches Amtgerichit (1898-99)旧地方裁判所の正方
形の錬鉄製の門があり、その後、警察署・図書館・音楽学校として使われ、2010
改修された。
市民の家 BUrger hseuser (16c)ロス通り32番は馬車宿、6.7番は最古の石造
の家であり中庭にアーケードがある。
市教会聖マルガレータ StadtKirche St.Margarethen (1411-95) かっての城礼拝
堂は、1791-93身廊を増して今の外形になった。1524ここでルターが説教している。
聖ニコラス教会 Kirche St.Nikolaus (1486) かっての墓地礼拝堂は、1486に再
建されたことは、病院の碑文に記述がある。1550から改築や修繕が行われ、1950
カトリックの教会となった。
市博物館 Stadt Museum (16c) 二つの家は大改修が行われ、16c集会所、
1620-80は工芸と商人の家族が使った。最後の商人家族の名前は建物に付けられ
MetzerneschesHausと呼ばれた。今はPorzel an werkesの収蔵所と町博物館。
市庁舎 | 聖ウルリッヒ教会 |
西小門 | 北東 |
南東壁 | 南西壁 |
西北壁 | 北壁 |
9c初 ハースフェルト修道院リストに初言及、1291 アルブレヒト2世は村にヴァイセン湖の権利、
1372 毎日曜日に市場開催、 1426 市長と市庁舎の初言及、
1508-38 市壁の建設、 1508-15 聖イグゲンの墓地と周壁に建設、
1528 上町は大火災で60戸焼失、 1575:340人、1577:129人、1579:211人コレラ死亡、
1585 大火事で117戸(3/4)焼失、 1597:124人、1610:502人、1638:半数死亡、
1648 106戸、1761 全焼、 1815 ウイーン会議でプロイセン王国へ、
1816 ヴァイセンゼー教区はサクセン州へ、 1945 4月米軍占領、7月赤軍占領。
他の町よりも市壁の建設は後回しにされ、1508に始まった。まず聖イグゲン
教会と墓地の周囲から始まり、その後町全体の長さ800×600mの長方形を囲んだ。
今も多くの部分で無傷で残っている。
16cの市壁には、4門と多数の塔があった。4市門には、それぞれ衛兵詰所
として門塔上部が使われ、夜には閉じられた。今は西に市壁に開けられたアーチ門
がある。塔としては、北西角に半円塔・南西角に大円塔に六角形の塔・南西に半
円殻塔の3塔がある。
1761の大火事の後の建物が殆どである。
市庁舎 Rathaus (1426)1761の火事で壊れた上階の床と前面が改修され、
入口には後で階段が付けられた。基礎と地階の床は1501の物である。
高基礎の上の2階建マンサード屋根のの建物で西に鐘楼のある簡素な建物。
聖ウルリッヒ教会 Ev.Kirche St.Ulrich (1440)幾つかの段階を経て拡張され
た。多角形の内陣が最古の部分であり、1501北側に特徴的な塔が付けられた。
1761の火事の後に1784まで再建は遅れた。
グリュンデル穴 Gruendeels Rock 1611) 町の西に、鍾乳洞から流出した水を
貯めた22mの池がある。10度cで15600リットル/分の高石灰含有湧水は天然記念物で
ある。
郷土博物館 Heimart Museum () 町の歴史の証言を取集して展示している。
市庁舎 | 市教会 |
北東壁 | 東壁 |
南東壁 | 西南壁 |
786 ハースフェルト修道院リストに初言及、802 ハースフェルト修道院は村を受け取り支配、
1265 バイヒリンゲン伯はシスタシアン修道院を新設、 1271 バイヒリンゲン伯は硬貨鋳造、
1392 バイヒリンゲン伯は都市権を授与、 1482-1815 チューリンゲン方伯の死後ザクセンへ、
1518 ペスト流行で500人死亡、1519 ヴァートハイムのハンスはバイヒリンゲン伯から町を取得、
1525 農民戦争で修道院を略奪、 1536 大火災で126戸が焼失、
1542 ヴァートハイムの領主は改革導入、 1547 シュマルカルデン戦争後ザクセン選帝侯が所有、
1556 修道院の世俗化、 1626 疫病で1000人死亡、 1634 30年戦争の略奪、
1665 ザクセン・ヴァイセンフェルスの支配、 1706 スエーデン軍占領1年間で人口1/4、
1735 火事で58戸焼失、 1746 ザクセン・ヴァイセンフェルスからザクセンへ、 1795 大火災、
1806 ザクセン王国へ、 1815 ウイーン会議でプロイセン王国へ、 1824 地区の町へ、
1875 大火災、 1944 空爆で建物破壊。
14cの市壁は北東と南西に残されている。
バックレーバー門 Backleber Tor (1553)町の西北に位置し、2階建長方形の建
物の中央にアーチ門がある。今は空軍とクレダ空軍基地の歴史を400枚の写真
で時系列で展示している。空軍省の基地設立の決定から建設、1936軍隊
投入1944大空襲、1946-47解体へと続いている。航空機の部品・工具・備品
・1944の飛行場・設備モデルなどがある。
市庁舎 Rathaus (1702)3番目の市庁舎は、3階建四角の建物の中央に太い
六角形の塔がある。1538.1735の火災で壊され再建されている。
市教会聖ヴィッパートウス StadtKirche St.Wippertus (1440)単塔ゴシックの教会
で、旧聖具室の戸の上に1496と1542の碑文があり、1538の火事の後に
再建されている。
聖ヨハネ教会 St.Johannis Kirche (1266)ピーター・ポール教会が小さかったため、
新しい修道院教会がヨハネに聖別された。1462教会の南の独立塔が建て
られたが、1825新しく今の塔が付けられた。1393の記念碑はバイヒリンゲン
伯夫人と2人の子供に捧げられた。
古い守衛所 Alte Wache ()古い平屋の守衛所は1698の大火事を生き抜いた
珍しい建物である。その後食べ物の屋台として使われ、1701市が購入し
て秤を設置した。1792-1835はフス派の警備と拘留の場となり、その後は
夜警の詰所に使われた。今は市の書庫。
役所 Amtshaus ()3階建石造の四角い建物で、新教牧師補が住んだ。1540
民間の所有となり、1698焼失し翌年に再建され、1795また焼け再建。
郷土博物館 Heimart Museum (1797) 集会所として建てられた3階建の大きな
建物で、1866-75詩人で公証人が住んでいた。1904ベーメ家の所有となり
印刷所の改造された。1977市に寄付され、1990まで公文書館、1994に
は歴史博物館となった。
無線通信博物館 Funkwerk Museum (2003)元の校舎の長い2階建の建物で1735
火災の後1743に再建され、1818時計工場となり、1947職業学校、1985大
規模改修され、2003無線通信博物館となった。
穀倉 Speicher (1266)初め修道院の司祭が所有したが、1566世俗化で市の所
有となった。1641略奪と破壊に会い、1645-1945ヴィアートホルン所有となった。
図書館と古文書館 StadtBibliotheke und Archiv (1913)元3階建ての浴場で、
後に住宅として使われた。1992市の図書館と古文書館となった。
ケレダ小学校 Grund Schule Koelleda (1879)旧郡庁舎の2階建中央に円塔のあ
る建物で、その後貯蓄銀行として使われ、今は小学校である。
射撃場 Schuetzen Haus (1800) 射撃クラブの建物で1837に建て直された。
西壁 | 西壁 |
劇場門 | 宮殿 |
ゲオルク通 | マルクト広場 |
市教会 |
982 王オットー2世はアレキサンダー教団に町を、1008 王ハインリッヒは司教区に町使用権を、
1230 町としての最初の文書言及、1344 バイエルン皇帝ルードヴィッヒは帝国都市権を授与、
1478 市民反乱でヴュルツブルク司教は町の権利制限、 1509-11司教ロレンツは城を再建、
1525 農民戦争で町は農民側で敗戦、1542 ヘンネブルク伯爵はヴュルツブルク司教と町交換、
1583 ヘンエブルク侯爵系統絶滅でヴィッテン家へ、1632 30年戦争の略奪とペストで人口半減、
1660 町はザクセン・アルテンブルク公国へ、 1672 町はザクセン・ゴーダ公国へ、
1680 ザクセン・ゴーダ公国の分割でザクセン・マイニンゲン公国へ、1866 摂政権はゲオルク2世へ、
1874 旧市街の大部分を焼失、1880再建、1845 爆撃で一部破壊、4月米軍・7月赤軍、
市壁は、東のBleich grabenと、西のMauer Gasse沿いに残っている。
見当たらない。
かっての居城都市で文化史と調和のとれた街並みがあり、歴史主義時代の広い
並木道と広々とした庭園や大建築物と中世後期の華やかな木組みの家がある中都市。
市教会聖マリア Stadtkirche St.Marien (1000) 聖マリアに捧げられた当社のロマネスクの
教会は、北塔の基部とドアノッカーのみが残され、1443-45再建され今に姿を留めている。
高さ50mのロマネスクの双塔とゴシックの長方形の身廊に堂々とした方形の西前面のある
ホール教会となった。1594階段塔のある北尖塔が建てられ、19cに南塔が追加され
た。中には15c子を持つメアリ砂岩像・雪の聖母の絵画がある。1884-89改修時に身
廊は今の姿に更新された。1945の空襲で全ての窓は破壊され、1962黙示録から
のステンドブラスが付けられた。
石造の家 Steineres Haus (13c) 13cからの木組みの家は、石の台座の上に
当時貴重であった石造の建物とした。1571の年号が記されている。ローテンブルクの
建築士が住んでいた。
喉の家 Schlundhaus (1906) 16cからの宿屋ZumStaanの跡地に、古い家の出
窓を印象的に利用し、黄金のユニコーンがある宿屋を建て、1989に改装された。
古い郵便駅宿 AltePosthalterei (17c) 17cの木組みの家は1905-26に旧郵便
局を務めていた。18c後半に漆喰塗となったが1909再び美しい木組の家に改修さ
れた。2005クンストハウスとなり展示・講演・朗読会・演奏会がおkなわれている。
バウム・バッハの家 BaumBach haus (18c) 詩人ルドルフ・バウムが伊から帰国して亡く
なる迄1885-1905に住んだ木組みの家であり、今は文学館で美術館である。
宮殿エリザベス城 Schloss Elisabethenburg (1682-92) ザクセン・マイニンゲン侯爵の
居城として侯爵ベルンハルトにより建てられ、1920まで住んだ。1509-11に建てられ
たヴュルツブルク司教の城の跡に壮大なバロックの宮殿が建てられ、北翼には古い建物
が組込まれている。
今は市の行政・州立公文書館などで使われている。17cの宮殿教会は古い説教
壇を有し1982本来の色が復元され、今は演奏会場として使われている。
演劇博物館 Theater Museum (1797) 石積の大きな建物は、かってマイニンゲン
侯爵の乗馬学校で、1998-99演劇博物館として変換され「風景の魔法の世界」
が見られる。
ヘンネベルガーの家 Hennenberger haus (1895) 中世の北門の場所に木骨様式
で3階建の大きな建物が建てられ、今はゲストハウス・レストランとして使われ、地下の
ビヤガーデンも盛況。
ザクセンの館 Saechsischer Hof (1798-1802) 元々は兵舎として建てられた
が、著名来客の宿泊施設として使用され、1826.1900に増築され、今もロマンティック
ホテル「ザクセンの館」として、レストランも併設している。
ハルツングの家 Hartungsches Haus (1603) 力強いチューリンゲントラスによる木骨造の
建物で町でも古く美しい家。1986-88に広範囲に改修され、今は事務所として
使われている。
ビュッヒャーの家 Buechsches haus (1596) 布貿易で稼いだ富豪の町でも古い
3階建ての木組みの家が中庭の奥に建てられ、1874旧市街の旧市街を殆ど焼失
した火事にも生き延びた。
小邸宅 Klein Palais (1821-23) マイニンゲン侯爵の王子のために古典様式の
前面のに4本のイオニア柱廊のある2階建ての建物で、1945まで侯爵家が所有し、
ブラームスも住んだ。
1992-93包括的な補修が行われ、今は商業銀行が使っている。
大又は皇太子邸宅 Gross oder Erbprinzliches Palais (1821) マイニンゲン侯
爵家の皇太子のために古典様式の住宅として建てられた。1863今のゴシックの
建物に拡張され、2009改修され、今は医療センターとなっている。
マイニンゲン劇場 Meininger theater (1831) 南チューリンゲン州立劇場として、古
い建物が1908に焼失した跡に、1909古典的な劇場が建てられた。前面に6本
のコリント柱廊がある。
蒸気機関工場 Dampflokwerk (1914) ドイツ鉄道の蒸気機関車製作所で、
1998から歴史的な蒸気機関車の保安修理工場公開された。
司教館 | 女門 |
病院塔 | 塔 |
西壁 | 壁 |
マリエン教会 |
967 オットー2世の文書に帝国農園として初言及、 11c 旧市街の成立、
12c 旧市街の西にフリードリッヒ1世の新市街、1180 王ハインリッヒは町を帝国自由都市へ、
1200 町49haを囲んだ市壁は2.7kmあった、 1220 最古の独語の都市権の記録、
1241 町は関税権と鋳造権を得た、 1251 市参事会が自治、城との間に隔壁を、
1418 ハンザ同盟に加入し海外へ交易、1422.1487 大火災、1438.52.85 ペスト流行、
1524-25 農民戦争後はザクセンとヘッセンが保護、 1618-48 30年戦争で町は荒廃、
1682-83 ペストで4617人死亡、1689 大火で568戸焼失、1756-63 7年戦争の宿営地、
1803 プロイセン王国に帰属、 1807-16 仏ベストファーレン公国に組み入れ、
1816-1944 再びプロイセンに属しザクセン県、 1944 チューリンゲン州に属す、
1939-45 2次大戦を著しい損傷なく過ごした。
13cの市壁は、大部分が残り、壁上通路を通行できる。
13cの市壁には、7つの二重門と38の防衛と回転砲台があった。
1.Freuen Tor(1655)西角門、2.Kirstan Tor Heimatmeseum西の出入り口。
1.西北部5塔:RabenTurm(1350)円塔、HospitalTurm(14c)角殻塔、角壁塔3。
2.北部5塔:角殻塔3、角壁塔2。 3.東北部1塔:HexenTurm角塔。
4.南部3塔:角塔1、円壁塔2。
13cの市壁が珍しく無傷で大部分が残り壁上に登れる。町は1698の大火災後に
再建された古い街並みは、ヘレン通り・ホルツ通り・シュタイン路地に残る。
市庁舎 Rathaus (14c-20c) 長期間にいくつもの建物の集合体である。16cの
メインの3階建ての建物に大会議室がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (1050-1900) 上の町の親教会で、14cの建物が
今も残り、チューリンゲンで2番目に大きな教会(2番はエアフルト大聖堂)で、塔の高さは86m
もある。外部には装飾が多く、切妻・軒蛇腹・吐水孔などが精巧に作られている。
5廊式身廊の内側には、1530の祭壇画・十字交差西の大柱には16cの東方3博士礼拝
の絵画がある。
聖ブラジウス教会 St.Blasius Kirche (1235-60) 下の町の親教会で、14cに3身
廊ゴシックのハレン教会に改造された。1707-08はバッハがオルガン奏者であった。内陣の14c
ステンドグラスと後期ゴシックの中央祭壇が見所である。
万聖節教会 Aller Heiligen Kirche (1287) 18cに改修され、絵画とグラフィック
の展示がある。
郷土博物館 Heimat Museum (1868-71) 旧小学校の建物に郷土博物館を開設。
市庁舎 | 市壁 |
1000 アルンスハウス城が建てられた、 1120 ウイッチマン伯爵のカルボーデン修道院寄付証書に言及、
1150-1250 ロブデブルク領主が町を設立、 1325 町には市壁があった、
1485 ノイシュタット地区が設立された、 1471-90 新アウグスチーノ修道院を設立、
1621-22 ティリッパ-コインを鋳造した、 1674 ザクセン・ザイツ侯爵が宮殿をたてた、
1815 ウイーン会議でザクセン・ワイマール・アイザナッハ大公国へ帰属 1945 空爆を受けた、
1945 4月米軍占領、7月赤軍に移管。
3市門と4塔の市壁が 1325には存在した。今残っているのは、北東のバラ公園に円形壁塔の
切株と市壁30mとその南に20m、西北のヨハネ教会の前庭にコの字型の市壁が10mである。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus (1364)バルタガール方伯は、市庁舎として普通の家を与えた。
これは今の市庁舎の東部分に当たる。それに市庁舎礼拝堂と呼ばれる西部分が組み合わされた。
その装飾性が加わり3階建て後期ゴシックの景観となっている。
中世の肉屋台 Mittelalterlich Fleisch Banke(1475) 屋台は市庁舎内にあったが、
強い匂いとスペースの理由でマルクト広場の西に移された。屋台は木造平屋の細長い建物で17の屋台が
あったが、2002に今や屋台が珍しいため、8の屋台が完全に更新されて残された。
修道院教会 Klosterkirche (1294) アウグスチーノ修道院は30年戦争で壊され、宗教改革で
解散した。1674ザクセン・ノイシュタット侯爵が南側に宮殿を建設した。宮殿は18c以来何度も改築
され、今はAWO全日制学校となり、修道院教会はアウグスチノ会館として催物会場になっている。
聖ヨハネ市教会 Stadtkirche St.Johannis (1471-1538) 三身廊のホール教会で建てられ、1479大
な祭壇画、1494後期ゴシックの洗礼盤、1513祭壇画、1544オルガン設置が行われた。
ルターハウス Luther Haus (1450) 切妻が前面にある中央窓のある3階建の建物で、ルター
滞在したと伝設のある建物で、中には壁画・板張りの部屋、16cの写真がある。
市歴史博物館 Museum fuer Stadtgeschichte (1709) 元印刷所の建物に13の展示室があり、
町の歴史、歴史的地元印刷所、なめし革の交易、古地図の収集、の展示がある。1956に建物を
取得し1992に郷土博物館として開館された。
市庁舎 | ブラジウス教会 |
聖十字架大聖堂 | 北東小門 |
東壁 | 北東壁 |
北壁 | 北西階段 |
西南壁 | 南壁 |
927 王ヘンリー1世の文書に初言及、 929 王ヘンリー1世は王妃マチルダにノルトハウゼンを与えた、
961 王妃マチルダは女性修道院を創設、 962 オットー2世は市場・鋳造・税関の権利を与えた、
1170 硬貨の鋳造、 1180 ヘンリー・ライオンによる攻撃で町は燃え尽きた、 1212皇帝オットー4世と婚姻、
1220 女性修道院を大聖堂参事会教会へ権利変換して自由帝国都市へ、 1277 市民は城を破壊、
1290 帝国から全権限を授与して町を保護した、 1349 王チャールズ4世は帝国都市の特権を確認、
1365 新しい町の設立、 1430-32 ハンザ同盟への加入、 1524 評議会による宗教革命の導入、
1703 ブランデンブルク・プロイセンが占領、 1717 ローラントの更新、 1802 帝国の自由が終りプロセンへ、
1806-13 仏のヴェストファーレン王国に属す、 1882-1945 ノルトハウセンは独自のサークルを形成、
1945 空襲による建物の破壊、郡庁所在地。
町の北側から北東と西側の山腹と、南西の丘の上に、市壁が残っている。
ツインガー塔 Zwinger turm (12c) 直径19mの塔で壁厚2.5mで、敵を打つため内部
の兵を置いた。1994に発見された地下室への螺旋階段が付けられた。
ペトリ搭 Petr turm (1362) ペトリ教会の塔として62mの高さで角塔が建てられ、中世には
あったが1731には住宅搭として使われた。2次大戦で教会は破壊されたが、1987に新しい
尖塔が付けられ、1994からは監視塔となった。
小門 Nachtiger Pforte (14c) 北東部の旧市壁に残された森の中の小門。
小門 Pforteh (14c) 南西部の山腹の下に降りる階段のある小門。
自由帝国都市として栄えた広大な旧市街から、さらに拡張されている。大きな公共的な
建物から古い木骨造の民家まで散在する。町の財力を表す美しい装飾の建物が多い。
市庁舎 Rathaus (1360) 1608-10にルネッサンスの建物となった。オープンアーケードには1883に
窓が付けられて仕切られた。1945の戦災で町の大部分が燃え、市庁舎は1952に美しく
再建された。鐘楼・5アーケードの窓、町の紋章に特徴がある。入口の上の石板は、元は
ツインガー門に付いていたもので、ラテン文字でローマ帝国テオドシュウス2世によって410年に
町が創設された伝説を伝えている。
ローラント像 Roland (1411) 中世から市庁舎に自由と力の象徴としてローラント像が立って
いた。1710に大火事で顔が損傷して、2年後に取り払われ、1717には今の像が建てられた。
二次大戦は生き延びたが、修復が必要となり1993にエアフルト修復されて、新市庁舎に収容さ
れている。今、市庁舎の南西に立つローラント像は、木材とエポキシ樹脂で造られ、屋根が付け
られている。
地方事務所 Landrarsamt (867-68) 郡庁舎として独立したヴィラのような2階建で建て
られた。その後金融機関としても使われ、多数の塔がある特徴的な建物となり、1945年
4月からは米軍司令部に、7月からは赤軍司令部になった。1956に2階建で建て直され郡議
会となった。1997-2001に再度改修されて、地区管理者が入っている。
ブラジウス教会 Blasius Kirche (1234) 町で最大のプロテスタント教会で、1350には建替え
が行われ、1634に落雷で塔はフード付きランタンで修復された。1945に空爆で被害を受け、
絶えず修復された。2001に安全性から閉鎖されて、修復が行われた。中には1592の説
教壇・1591の洗礼盤がある。
フラウエン教会峠の聖マリア Frauen Kirche St.Maria dem Berg (1200) 古いロマネスク十字型
聖堂である。シトー派修道院が勢力を失い、1536ウングフラウ学校となった。1523に宗教改革
で尼寺になった。1945の空爆で身廊は被害を受けて、唯一の翼廊と後陣の形で教会は
存続している。
聖十字架大聖堂 Dom Zum Heiligen Kreuz (961) 女王マチルダが女修道院の教会に始
まり、ロマネスクの回廊の残り・地下聖堂・塔の下部と早期ゴシックの後陣がある。後陣には
貴重な絵画がある。2017-18に教会は広範囲に改修され、夜間照明されている。
シリアシ礼拝堂とシンケンホフ Gyriasci Kapelle und Sieckenhof (13c) シリアシ礼拝堂は、か
っての病院と擁護施設にあった。1284に礼拝堂は市立病院に建てられた。1788に病院
は退職者の家を拡張した。1806-15に軍病院として使用され、その後警察拘置所にも
なった。1823に老朽化で礼拝堂は壊され、その基礎の上に2階建新ゴシックの町老人ホーム
が建てられ、1991に地区音楽学校となった。今でもシリアミ礼拝堂ではコンサートが開
催される。
聖ブラッシ司教館 Pfarrhaus St.Blasii (1513) 町の入り口にあり、昔の建物の基
礎の上に、1713屋根から地下室まで美しく装飾された2階建の木骨造の司教館が建
てられた。
ヴァルケンリード館 WalkenriederHof (1292) この倉庫の建物はヴァルケンリード修道院が買収し
て1345に拡張した。火災にかかわらず、外壁は常に保持された。1802町の賃貸事務所と
して使用され、19c中には関税事務所・税務署・町文書館として使われ、今は博物館管
理事務所である。
スペンデ墓地の門屋 TorHaus Spremdekirchhof (1667) 門は2階建ての木骨造の建物
で1882まではアパートとして使われ、2000年の建て替え後は芸術的ワークショップに使われた。
2005に住居。
赤粘土工場 Rothleim Muehle (14c) 旧市街地の外に木造で建てられ、1326襲撃・
1641放火に逢ったが工場では20cまで粉や油を挽いた。1989-90に青年文化の中心とな
り、1998にユースホステルとなった。
劇場 Therter (1917) 新古典主義の大きな建物で、かわいらしい前面を持っている。
1945に戦災に遭ったが1949には再開された。
孤児院 Weissenn haus (1717) レンガライニングの3階建の木組の家で、1808にフリースクールと
孤児院となり、1928に市議会として使われている。
市博物館 Nordhausen Museum (1708-14) マルクトのFlohburgの古い建物に大きな新し
い建物部分を追加して、広い展示面積に町の歴史・鉱物・コイン等を展示している。
フインケンブルク Finkenburg (14c) ゴシック2階建の大きな建物は、ギルド会館で、1993に火
事に逢ったが、1997に復元された。
タバコ店博物館 Museum Tabak Speicher (18c) 19-20cにタバコ倉庫として使われた。
改修後に手工業・貿易・産業・考古学の博物館で、二つの木組みの建物に1千m2の展
示がある。
市庁舎 | 宮殿 |
ユーゲントツェン塔 | 西南壁 |
西北壁 | 北西壁 |
6c フランクの水城が建ち周囲に集落、 724-25 チューリンゲン最初の修道院設立、
10c 皇帝オットー1世はペトリ修道院に滞在、 980 聖ペテロ教会を建設、1184焼失、
1342 シュバルツブルク伯爵からベライヘン伯爵が所有、 1348 都市権を授与された、
1550-90 エーレンシュタイン城を旧ペトリ修道院跡に建設、町は市壁で囲まれ、学校を開設、
1631 ベライヘン家の絶滅後ホーエンローエ家の侯爵へ、1611.1625.1635 ペスト流行と略奪、
1510.1753.1808 大火災で建物焼失、1945 爆弾で66人死亡。
1574建設の市壁は、半分以上が残っている。
市壁には、6門と5弦堰があったが、19cの前半に取り壊された。
ヨハン・セバスチャン・バッハは、10歳~15歳まで聖ミカエル教会のオルガニストであった兄の家に
住み、聖歌隊で歌っていた。そのためこの小さな町には、バッハ広場・バッハ通り・
バッハ記念碑・バッハ記念室などがある。しかしバッハの住んだ住居跡は定かでない。
市庁舎 Rathaus (14c) 3階建て時計塔付の市庁舎は、1808の火事で焼けた後に
再建された。
エーレンシュタイン城 Schloss Ehrenstein (1550) 当初のルネッサンスの建物に1631から一時
的にホーエンローエ家が住んだ。その後1870にゴーザ州に売られ、1957-72は学校、
1973から老朽化の補修が2013までなされたが、2013の大火で焼けた。2015
に外形の修復が行われ、今は博物館・バッハ室と図書館として使われている。
聖ミカエル教会 St.Michael Kirche (8c) 1753と1808の大火事で焼け、1945の爆撃
でも壊された。1998-99に高さ54mの塔がまず再構築された。
聖トリニティ教会 St. Trinitatis Kirche (1708-14) バロック内装の教会が、南の城門
の外に在る。1945の聖ミカエル教会の爆撃後、ここで演奏会が行われている。
古い鞣し皮工場 Alte Gerberei (16c) 古い鞣し皮工場が残されている。
市庁舎 | 市壁 |
1252 ザールフェルト修道院文書に初言及、 1324 町と呼ばれシュバルツブルク伯へ与えられた、
1348 カルナル会修道院の設立、 1424 ヴィッテン家に戻った、 1474 裁判の判例を収集、
1572-1640 ザクセン・アルテンブルクに属す、 1625戦争と疫病、1672-82 ザクセン・コーブルクに属す、
17-18c 繊維産業で栄えた、 1826 ザクセン・マイニンゲン侯爵夫人所有、 磁器工場の設立、
1920 チューリンゲン州の設立、 1945 空爆で被害。
1300に町の市壁があり、15cに近代化された。市壁の残骸は各所に残っている。Strasse
des Friedehs,Unttere Johanes Gasse,Ober Graben,Gerber Strasse.等にある。
市壁の四隅には塔があったが、3隅塔が残されれている。市門は残っていない。
白塔 Weissen Turm (1453) 南西にあり、旧市街地の四隅の内最も若く、唯一保
存されている。 高さ30.3m、直径7.0m、で3階の下には死刑執行前の死刑犯が留置された。
白い石灰石膏が塗られて、白塔と呼ばれた。1894からは展望台として使われている。
鐘塔 Grocken Turm (13c) 北西の角の市壁塔で、高さは市壁の2倍の15mであり、
高くて細い塔から鐘の音が聞こえた。1800に老朽化で塔は取壊された。草の取引店は
1850に尖った屋根の塔を建てた。塔に鐘はなかったが以前の鐘塔と呼ばれた。
円塔 Rund Turm () 南東の隅に円錐屋根の丸塔が復元されている。
市庁舎 Rathaus (1478-85) 美しい3階建の後期ゴシックの市庁舎は、南の階段
切妻は1491に、北の切妻は1498-99に追加され、1531に屋外階段が付けられた。
1998-2014はミュンヘン博物館として使われた。
市教会聖バルトロマウス教会 Ev.Stadt Kirche Bartholomseus (1349) 1390に塔
が南側に追加され1400にロマネスク彼ゴシックに変わった。1474-76に星窓の新しい内陣とな
った。州で最大のパイプオルガンは1896に設置され、1926にさらに76レジスターニ拡張された。
旧カルメル会修道院 Ehem.Karumoniter Kloster (1315) カルメル会修道院の旧
修道院教会は、1400に建てられ塔の無いシンプルな教会であった。1525改革で修道院が
解散後は穀物倉庫として使われた。1871に学校となり、2006には市立図書館たなった。
修道院広場にある中世の家々は、修復されて2015に市の博物館として、市の歴史や
美術品の展示に使われている。
市庁舎 | 市壁 |
1070-78 城は交易路の近くの山頂に建てられた。 城には大尼僧院が置かれた、
1313 泥棒男爵城と言われた、1321フリードリッヒ1世は城を破壊、1378方伯は町に都市権を授与、
1464 ザクセン選帝侯が支配した、1646 温泉水の吸飲と入浴、1696-1700 スパビジネスの発展、
1711 城壁の更新と建物や塔の建設。1868 スパパークと銭湯の建設、 1925温泉水の枯渇、
1936 健康リゾートとして認定された、 1970 カリの採掘。
14cの木製鉄片屋根の粘土ブロックの尾根が、1711に巨大な石の壁に置き換えられた。
主として市壁は
町の南側と西側を保護して、敵の侵入を防いだ。市壁が残っているのはシュタットバルトに沿って
西側に150mと南側に二つの塔を含めて180mである。
市壁には、上・下の2門があったが、下門の痕跡ははない。
上門 Ober Tor (14c) 上門の建物には、地域の使用人のアパートを収容し、小さ
な中庭には噴水があり現存する。1824の大火事で市門は破壊され再建されなかった。門
の下には拘置室があったが、1801に削除された。1970には2つの門柱があったが1本は道
路拡幅で失われた。上門には記念の石版が壁に埋め込まれ。
防衛塔2 南側に二つの抜け穴を持つ防衛塔が残されている。壁の南には堀があっ
たが、1842に埋められ栗の木が植えられた。
市庁舎 Rathaus (1565) 美しい切妻付き中央突起のある3階建の建物で、内部に
は芸術的な壁画がある。2002に市庁舎の改修時に再現されて、町の歴史を物語っている。
地元歴史博物館 Heimart Museum () 地元の1900年代の生活状況を展示している。
広場 | 教会 |
市壁 | 円塔 |
8c 古いスラブの集落がフルダトヘルフヘルトの修道院財産登記簿から判明、
12-13c シュバルツブルク伯は3つのレムダの村の中央に城と市壁で囲まれた町を建設、
1286 住民の学校を開設、1319 城 1367要塞を言及、1362 二つの見本市開催権獲得、
1398 毎週の市場の開催権獲得、1433 城・町・治世はグレイチェン伯が所有、
1625 シュバルツブルク伯は市壁と塔等で町を囲んだ、1633-1848 イエーナ大学のための農園設置、
1741 ザクセン・ワイマール・アイゼナッハ公国となった、586人、1744 町は大火災にあった、
1945 米軍の大砲と戦車で市庁舎と19戸を破壊。
14cの市壁は300m×300mの旧市街を高さ4m厚さ1.35mの壁で囲み、壁の前には
堀と柵を備えていた。市壁が残っているのは町の西・北西・西南に残り修復もされた。
市壁には、堀と跳ね橋傭兵小屋のある3門があったが、今は残っていない。また、
市壁の4隅には防衛塔があったが、今は北西隅に1搭が残っている。
防衛塔 高さ9mの円塔が現存し1976に新しい円錐屋根が付けられた。
1945二次大戦終戦時の米軍の砲撃で、市庁舎と19戸の民家が破壊され、市庁舎は
残っていない。
市教会レムダ Stadt Kirche Remda (12c) 1744に大火事で教会は全焼し、現在の形
で再建された。1888身廊の部屋にキリストの3連の祭壇が置かれた。
1846-67にオルガンが構築されたが、戦災に遭い2009-13に復元された。
2011から記念碑保護財団により修復された。
ブリュックスブルク市搭 | 市庁舎 | |
ブリュックスブルク | 参事会教会 |
800 フルダ修道院のミルツアー女子修道院長寄付目録に初言及、 ヘンブルク公が支配、
1300 ヘンネブルクのハインリッヒ4世は古い集落の南1kmに今の町を建設、 1317 都市権を授与、
1465-91 ヘンネブルクは堀城Hartenburgを強化、 1488 市壁の完成、
1498 年次と月3回の市場開催権.自治権の確認、 1539-46.1555.1585-1633 火災、
1676-80 宮殿の改築、 1572 ザクセン.コーブルクに属した、 1672 ザクセン・ゴーダに属した、
1614-81 魔女裁判が行われた、 1680-1710 ザクセン公国の本拠地になった、
1826 ザクセン・コーブルク・ザールフェルトへ、 1891 市の火災で32戸焼失、
1991 都市開発補助金で市庁舎・教会などを修復した。
1488の市壁は、主として北から東側に残されている。
市塔 Stadt Turm (15c) 南西の市塔は、3階建ての正方形の塔にはフードが
付いている。
チューリンゲンとバイエルンの州境にある人口6.7千人の小さな町である。
市庁舎 Rathaus () 町の中央の通りが広がった地点の北側に、2階建鐘楼付きの
市庁舎がある。
要塞教会 Wehr Kirche Milz (784) フランク帝国がミルツ尼僧院を設立し、799に
尼僧院院長と複数の修道女が住み、フルダ修道院に寄付された。805スラブ人に尼僧院は破
壊された。1290かっての尼僧院の財産はヘンネブルク・ハルランベルク伯の所有となって、市場・
郵便の場所として栄えた。1520マリア・マクダネラ教会を建設し、1845には後陣は再建された。
教会墓地は16cに要塞化され、壁と堀が周囲を囲み、3門があった。
墓地教会 Gottesaker Kirche (1708-12) 宮殿の石材を使った後期ルネッサンス
の教会である。1885内部を修復して塗装をした。1952-2007大規模改修されて構造的
に安定した。
修道院教会 Ev.Stifts Kirche (1341) 1400ヘンネブルク伯は独立した教区教会
とした。1450-70に今の教会が再建され聖母マリアと洗礼者ヨハネに奉献された。
1548からはプロテスタントの教会となり、1555-1918はザクセンの支配下に置かれた。
グリュックスブルグ城 Schloss Gluecksburg (1465) ヘンネブルク・アーシャッハ家のフリード
リッヒ2世伯が後期ゴシックノ宮殿を建てた。1539の火事の後に1540-56に再建され、1626-38に
バロックで拡張された。1680-1710ザクセン公国の住居となった。1945-48戦後に孤児を収容し、
1961に青少年センターとなった。今は市の行政機関と博物館として使われている。
スタインブルク博物館 Steinburg Museum () 町の東3kmにある2階建ての城に、先史
時代と早期歴史時代の発掘物が年代別に展示されている。
市庁舎 | 市壁 |
市教会 | 広場 |
800 ソルブの定住地が市街の西端にあった、 1209 ヴァイダの代官初文書言及、
1244 その後プラウエンの代官が支配、 1304 都市権の授与があった、
1327 プラウエンのハインリッヒ・ロイスは騎士の館を城に置く、1517 町をヴィルデンフェルスが支配、
1529 マルクトの主要構築物の再建、 1548 ザクセン侯爵家が町を所有、
1611 ペスト流行で人口半減、 1618-48 30年戦争の軍の略奪、
1665 大火災で214家屋・市庁舎・教会を焼失、 1666 最初の鉱泉発見、
1672 ザクセン・ゴーダへ、1680ザクセン・アイゼナッハへ、 1707 ザクセン・ゴーダ・アルテンブルクへ、
1766 痛風・リュウマチ・動脈硬化の温泉治療開始 1826 ザクセン・アルテンブルク公国へ、
1829 大火災で231家屋と32納屋を焼失、 1920 チュウリンゲン州に、
1953 ウラン採鉱始まる。
中世の市壁は、積層された瓦礫が用いられ、一部では市壁の上に建物が建て
られた。北東のハインリッヒ・ハイネ通りとレーダー路地の建物は市壁の上に立つ。
北東のレーダー路地には市壁が見られる。
市壁には、2門があったが、18cの後半に取り壊された。南小門がバッハ路地
の突き当りにある。
高台の楕円形の市壁跡に囲まれた旧市街には、中世の住宅や商人の家が殆ど
で、部分的に華やかな建物も建つ小さな町。
市庁舎 Rathaus (1476) 初め南の部分に参事会の家があり、建物は購入や
増築により1529に今の姿になった。1665に火事で焼失し1674にやっと再建された。
市庁舎の他に、FischerschHausを敷地を購入して1921に建て、長年存在した。
1928-29市庁舎は改修され、2階建建物の地上階では1923迄町のワイン・ビール・食品を
販売し、ラッツケラーもあった。
宮殿 Schloss (900) 初め町の西南に小さな砦があり、1200頃拡張された
城の複合体にヴァイダの代官が住み1209初言及された。騎士の間は最も古い部分
であり、1327ここで「ロンネブルクの守備と攻撃的な同盟」が合意された。1772に
騎士の間の除いて取り壊された。1896新しい宮殿の再建が行われ代官の住居
となり、宮殿の複合体に地方裁判所が建てられた。1945学校を一時収容し、
今は博物館・図書館・催し場として使われ、1995に復旧・復興がなされた。
マリエン教会 St.Marien Kirche (1237) 初めの建物は1665の火事で焼失し、
1666に大部分が建てられた。1987-89教会上部が壊れ八角形の上塔が復旧した。
後期ゴシックの鐘楼は町のランドマークである。1992-93貴重な1879のラーデガストは復元
された。1999に身廊・屋根・内装改修更新された。
司教館 Pfarrhaus (1167) 古い建物の壁は古い市壁の一部であり、1665の
大火で焼けた後に司教の公邸として、美しいフランコニア様式の木組建物で再建した。
貴族の館 Patrizierhaus (1737) 上マルクトの市庁舎の向かいに3階建の特徴あ
る外観の建物で、用途も所有者も変遷し、今はヘアサロンとなっている。
ガンプリヌスGanbrinus (1603) 2階建の建物はまず旅館として1662まで使われ、
その後ブラックベアとして鉱泉浴場となり1665の大火で焼けた。すぐに再建され
ガストホフ「ブラックベア」として営業した。1870に経営者が変わり食堂カンプリヌヌとなり、
1936に改修して営業を継続している。
旧市街商店街 AltstadtPassage (1996) イレン路地が再開発で住宅商業ビルが
併設され、古い木組の構造を維持強調して旧市街と一体となった。
市民学校 Buerger Schule (1529) 初めは教会広場に立つ建物に男子校が創
設され、1665に大火で焼失後は別の建物で学校は継続した。1890公立学校がレンガ
造の建物で新設され、小学校・高校・高度工科学校などが置かれた。
市博物館 Stadt Museum 城複合体の建物の中の塔に博物館が置かれ、農民
の家・税関・標準民家・町の変遷などの展示がある。
市庁舎 | ルードビッヒスブルク |
市庁舎 | ルードビッヒスブルク |
776 ハースフェルト修道院へ寄付で初文書言及、 13c オアルシューデ伯爵が所有、
1300.1334 シュバルツブルク公国の郡となる、 1264-1330 上の城と下の城の建設、
14c 町は拡大しマルクト・旧門・市庁舎を建設、 1326 町の憲法を制定、
1354 チューリンゲン戦争で被災、 1437 町は拡大し囲む市壁も拡張、
17c 30年戦争後に新市街地を建設、 18-19c 文化が開花しシラー・ゲーテ・フィヒテ・フンボルト、
1918 チューリンゲン州となり、磁器・合成繊維工場、 1945 2次大戦の空爆で165戸被災。
建物の西と南の外壁が、中世の市壁の残りとして確認した。
見当たらない。
大きな町であるが、宮殿とマルクトの他には賑やかな所は少ない。
<em>旧市庁舎 Altes Rathaus (1524) 後期ゴシックの建物で塔は1603に補充。18cに
数回補修された。
新市庁舎 Neues Rathaus (1912) マルクトの北側に、飾りのない17c事務所ビル
にルネッサンスの出窓と印象的な塔が付けられた。1992に再建された。
市立図書館 Stadt Bibliothek (1609) 元学校に1896から図書が格納され、
神学的作品を寄付金で集めた。1920州立図書館に蔵書が移管され、1996歴史的
な建物を包括的に再建された。
手工業館 Handwerker Hof (1513) 主な建物は、1759高貴な女性を入居させ
た女修道院であった。1991-92火事で焼け、商工会の支援で拡張再建されクラフトセンター
が追加された。工房・手工芸品販売所・展示場・中庭食堂などがある。
シラーの家 Schilar haus シラーが1787に会ったシャーロットとキャロラインの家族の家で、2次
大戦で壊され2005-09に18cの姿に復元された。 漆喰を取り除いて確認した。
ハイデックスブルク宮殿 Schloss Heidecksburg (1330) 丘の上の城は1439-48に3翼
に拡張され、1573ルネッサンスの城が建てられた。1735今の大規模3翼バロックの宮殿が建
てられた。この宮殿と庭園はシュバルツブルク・ルードシュタット家の居城として1918まで使わ
れた。今は博物館として、宮殿・磁器・絵画・武器庫・町の歴史・自然史等を展示。
市教会聖センドリュー StadtKirche St.Andolui (12c) 1463-75後期ゴシックのホール教
会が建てられ、1634-36今の姿になり初期バロックに内装が変えられた。上部の鐘
楼には1499の鐘が置かれている。
チューリンゲン農民の家 Thueringener Bauern Haeuser ドイツ最古の野外博物館で
あり、1667の農家と1700の木組みの平屋を周辺から移設した。オリジナルの家具・
機械・農民工芸・古い村の薬局などが置かれている。
磁器製作所 Porzellen Manifakturen Alteste Volksfedter(1762)は近く
の村から移され、18cには貴族のための高品質な装飾的な時期と市民の食器
を生産した。20cには特別なモデルも開発し今も生産している。
チューリンゲン磁器の道の会員が2社ある。
市庁舎 | 教会/td> |
旧高校(図書館) | |
1216 交易路を守る城を建てた、 1222 チューリンゲン方伯によって町は設立された、
1313 ロブジバーガーは城を建て都市権が与えられた、 1317 ゲラの廷氏の所有となった、
1647-66 町はロイス・ザールバーグ郡都になった、 1806 プロイセンとナポレオンの戦闘が行われた、
1888 大理石の採掘と加工工場の設立、 2003 ザールブルク市はエバースドルフ市と合併。
湖に突出したハントの先端に城と市街地があり、市壁と防水堤で囲まれていた。
見当たらない。
市庁舎 Rathaus () 2大アーチの地階に7窓列の上階のある簡素な2階建の建物
で階段切妻に鐘楼と時計付きの庁舎。
町教会 Fv.Stadt Kirche St.Marien (1206-23) シトー愛修道院の主教会としてロマネスク
で建てられ、30年戦争で壊された後に、プロイセンによって修復され、1847-56に近代
化された。中には、1655の高祭壇、1660の洗礼盤、1920には3つの鐘が付けられた。
古いザールブルクの城跡 Alten Bughof Saalburg () 旧城跡に円形の天守閣の切株
が残り再建された2階建の建物ががある。
観光案内所 Tourist Infomation () 市庁舎の東側にある2階建ての建物。
市庁舎 | 乾燥門 |
ブランケンブルク門 | 上門 |
南壁 | 南東壁 |
宮廷市場薬局 | |
899 初文書言及、 1012 皇帝ヘンリー2世はパラティーノ侯爵に町を与えた、
1071 ケルン大司教はベネディクト会修道院を創設、1180 皇帝フリードリッヒ1世は薬局を建設、
1208 シュバルツブルク侯爵は都市憲章を授与、 1250 フランシスコ会修道院の廃止、
1517 大火災で町の半分を焼失、 1680-1745 侯爵の住居と地区事務所本部、
1806 ナポレオン軍にプロイセン王子は殺された、 1920 チューリンゲン州に包含された、
1845 2次大戦の空爆で重大な被害。
12cに町が成立し要塞で守られた。その後、南と東に拡大し
シュタウヘン期の北への拡張があり、14Cに北と西を南に拡張され、市壁が設けられた。
現存する市壁は、14-15cのものであり、町側には木製の通路が設けられた。
ザール門 Saal Tor (1365) 東、ザーレ川に通じた貿易の門で、二重門の外側は
やや低い守衛詰所があった。主塔は4階建て角塔に下がギザギザのある胸壁
の下に寄棟屋根があり、側壁には攻撃に備えて小屋があった。1517大火災の
後に復元された二つの7段破風の切妻屋根見らせる。
上門 Ober Tor (1429) 南、4階建の細長い角塔で、寄棟屋根を付けた。前面
の堀には橋があり、内側の胸壁や脇壁によって守られている。
フランケンブルク門 Blankenburg Tor (1372) 北、古い貿易路の4階建て角塔門で前に
礼拝堂とホスピス病院の支援があった。
ダール門 Darr Tor (10C) 北東、旧マルクト門で、4階建角塔に胸壁の帽子が付られた。
1484TahrGasseと呼ばれマルクト門に歩行者専用の側門が設けられている。
王宮や教会等の大建築物が林立し、木組みの家も多く見所もある。
市庁舎 Rathaus (10c) 今の市庁舎は大火の後1529-37に後期ゴシックとルネッサンスを交
えて建てられ、突出した階段塔を持つ3階建ての建物で、左右に対照的な窓
を有し、前面と側面に破風がある。1998インテリアの改装と大広間の改修が行われた。
聖ヨハネ教会 St.Johaneis Kirche (1380-1514) 新教のゴシック3身廊ホール教会で、二つ
の塔は1889-93に今の姿になった。南西の角には屋外説教壇がある。中は、
大きな柱が強調され、聖歌隊の広間には元日の草原が表されている。教会
内の墓碑には1556の市長もあり、ステンドグラスはキリストの生涯を伝えている。
旧聖ニコラス教会 Ehem.St.Nikolas Kirche (12c) 教区教会としてロマネスクで建てられ
たが、15cには倉庫になり、その後町の穀物倉にもなり、倉庫に改造されて
古い建物で今残っているのは、外壁の部分のみである。
旧フランシクコ会修道院 Ehem.Franziskanner Kloster (1250) シュバルツブルク侯爵によって
建てられ、1534宗教改革で解散した。1534ラテン学校・文法学校・訓練学校として
使われ、1814町が買収した。1904町博物館となり、初めは東回廊80mに収容
されたが、次第に広がり今は2、790m2全体で、町の歴史と文化・美術品を展示。
旧市薬局 Ehem.Stadt Apotheke (1617-20) 後期ルネッサンスの公邸として建てられ、
薬局として1747-1969に使われた。前面は帯模様のの飾りポータルや豊かな
ZwerchHauser構造で飾られている。邸宅の中庭にはアーケードと補助的な建物
で囲まれている。
バスロッホ食堂 Gaststaette Bas Loch (1485) 古い市民の住居・パン屋の家であった。
1830公共住宅と食堂になった。今は食堂で無くなり、前面のフレスコ画は今の
所有者により1930に改修された。
王宮 Residenz Schloss (1677) ゴーダの侯爵は旧ベネディクト会修道院を破棄しペーター
宮殿を、対照的な仏様式で庭園の南に建てた。マナーハウス・オランジェリィなどを含め
て保有されている。バロックの宮殿礼拝堂は、豊かな彫刻や絵画で飾られている。
旧鋳造所 Alte Muenze (1602) 旅館として建てられ、1660-1735侯爵の宮殿として
使われ、その後1845まで鋳造所となり、今は市庁舎博物館の一部として、
硬貨の展示を独自に行っている。
館と市場薬局 Hof oder Markt Apotheke (1180) ロマネスクの塔の家で、1681から代官
が住んだ。1880に火事で焼け、1882通りの前面はロマネスクで再構築され薬局とし
て開業した。
ヘーンの家 Hoehnsches Haus (1609) ルネッサンスの前面を持つ3階建ての建物で、1911の火
事で被災したが、再構築された。
城跡 Burg Ruine Hoher Schwarm (1208) 1300には居住のための城が築かれたが、
今は廃墟となり演奏・演劇に使われている。
マルクト広場 | 北壁 |
城北入口 | 聖ヨハネ教会 |
ベアトルト城 |
1226-32 伯爵ポッポ7世にヨルベルトルト城の建設、1274 ヘネブルク家の領土分割で王宮に、
1353 シュイジンガー家は堀を設けた後に火災、 1412 町は都市権を授与された、
1533 町は市場権を受取った、 1583 伯爵家は断絶し町はザクセンへ、
1634 元帥はクロアチア人が壊した町を救う、1660 ザクセン分割でザクセン・ナウムブルク・ザイツへ、
1679 マルクトの南の大火災発生、1718 ザクセン・ナウムブルク・ザイツの絶滅でザクセン選帝侯へ、
1765 マルクトの南と北の火災、 1815 プロイセンが所有、
1816-1946 郡庁所在地であった、1830 プロイセンの町市法により上と下の町は統合、
1848 市民革命で人民会議を開催、 1866 普墺戦争の結果プロイセンに帰属、
1945 4月米軍。7月ソ連軍が占領。
西側の北と南の斜面に市壁の基礎が見受けられる。
ヘッケン塔 Hecken Turm 北側の斜面にある古い居酒屋の円塔。
町は山頂に在り、大きく堂々とした城と古い学校がある。
市庁舎 Rathaus 中央突出塔付の切妻のある2階建ての建物。
宮殿ベルソルト城 Schloss Bertheldsburg (1226-32) ヘネベルクのポッポ7世が西端に城
を建て、1500今のルネッサンスの外観となり、1583ヘネブルク伯爵家の断絶でザクセンに、
1657ザクセン・ザイツとなりザクセンの役所が1816まで置かれた。今はチューリンゲン財団
が管理して、1934歴史博物館と1988自然史博物館として公開されている。
城は4翼で中庭を囲み、中庭の南東隅にある天守閣1597は高さ38mで登れる。
北側には城壁門1631-32がある。
聖ゲオルク市教会 PfarrKirche St.Johannis (1235) かっての城教会は、1498新しい
3身廊ゴシックホール教会が献堂された。1566ヘネベルク侯爵家の墓所が置かれ、1608
塔は高さ44mに嵩上げされ、1725-29新しい身廊が建てられ内陣には古い教会
の名残があり、1726オルガンが設置された。1989-91内装が2028塔が補修された。
ヘネベルク高等学校 Hennenberugisches Gymnasium (1577) 寄宿舎学校ゲオルグ・エルンスト
をラテン語高等学校として設立した。ドイツ最古の継続的運営の学校である。
19cの建物は、1928本館南西翼を拡張した。
ドイツ学校 Teutsche Schule (1681) ヘンネベルク・フランケン風の木骨造2階建て四方
屋根の家。
市庁舎 | ヴィルヘルムブルク宮殿 |
火薬塔 | 宮殿北壁 |
南壁 | 西南壁 |
北内壁 | 聖ゲオルク市教会 |
874 別荘として初文書言及、 1180 チューリンゲン方伯は都市権を授与、
1203 シュバーベン家とヴェルフ家の戦で町は破壊、1247 ヘンネフルクの伯爵が引き受けた
1319 大学とアウグスチン修道院の設立、 1322 製鉄と鉄鋼製品の生産開始、
1360 ヘンネフルク伯爵とヘッセン方伯で統治分割、 1419 旧マルクトの市庁舎で最初の議会、
1546-47 シュマルカルデン戦争でハプスブルクのカール5世勝利、1583 ヘッセン方伯の単独所有、
1585-90 ヘッセン方伯は夏と狩の館の宮殿建設、1618-48 30年戦争で鉄鋼生産衰退、
1806 仏軍への抵抗運動で町は守られた、 1866 普墺戦争の結果プロイセンに帰属、
1944-45 2度の空爆で大被害、 1945 チューリンゲン州に編入。
14cの市壁が残っているのは、Weidebrunner Gasseに壁上通路と共に75m、
Hinter der Stadt沿いに45m、その西に点々と低い壁が70mがある。別にヴィルヘルム
城周辺に650mの城壁がある。
柳泉門 Weidebrunner Tor (14c) 北側のツインガーに立つ、塔で補強され
た強力な市門施設がある。
火薬塔 Pulver Turm (1335) 王宮厩舎の南角の、昔の内側市壁と城壁が交
差する位置に立ち、昔の4階建ての防衛施設はその後火薬庫として使われた。
2町裏塔 2Tuerme am Hinter der Stadt (14c) 通の左右に1塔づつ立つ。
城塔 Schloss Turm (19c) 城の背後に立つ。
丘の上に宮殿があり、古いマルクトには,市庁舎・教会に加えて2-3階の木組みの家
が並び見事な景観である。
市庁舎 Rathaus (1419) 緑・白・黄の3つの3階建ての昔の富を思わせる建物の
複合体である。平らな湾曲窓の後ろに1472の市庁舎ホールが隠されている。1530-43
は連盟の審議場所であった。入口の戸の上の銘板には1525の農民を示している。
中には、シュマルカルデン連盟に加入した国の紋章が飾られている。
ヴィルヘルムブルク宮殿 Schloss Wilhelumsburg (1585-90) ヘッセン方伯ヴィルヘルム4世の
別邸として丘の上に城と教会を含めドイツ・ルネッサンスで建ってられ、周囲は城壁で囲
まれた。1820の屋根の全面的な改修で重要な建築様式の飾りは失われた。宮殿
教会は1584-89のオルガンが垂直方向に配置されている。252本の木製パイプの個性的
な音色は珍しい。今は博物館として、16cの町と宮廷文化と生活を展示している。
聖ゲオルク市教会 StadtKirche St.Georg (1437-1509) ゴシックのハレン教会で古い
ロマネスクの部分を含んでいる。時計のある2つの異なる塔を有する。
元の法衣室はルターの部屋になっている。
ルターの家 Luther Kirche (1525) 道側の美しい3階建ての建物は、建築様式上
の特徴があったが、17cには変更された。裏の家は1370に建てられ16cに改装され
た。樋の上の頭部コンソールには2ライオン・男女の頭部が残っている。マルチン・ルターはこの建物
に1537に19日間滞在した。
塩橋 Salz Bruecke (14c) 多くの3階建ての木組みの建物が立て込んでいる。
活気のある6路地の交点であり、ここには古い製鉄所があり、鋼の鍛造で18cまで
町を支えた。この平面の大部分は炉の燃えカスを満たしたものである。1番の建物
は14cの風呂場の跡であり、広場の西側には12cの骨彫刻師の工房があった。19c迄
ここに肉屋の屋台があった。
旧市場の木組みの家 Fachwerk am Altmarkt
改革派学校Reformierte Schule(1658-59)東、新教監督館Ev.Dekanat (1549)東、
芸術館Kunst haus am Markt(1440)西南、 島 Insel(15c)西。
市庁舎 | マルクト広場・聖ニコライ教会 |
600 移動したスラブ族の集落、 1060 ベネディクト修道院の市場として初言及、
1127 シトー派修道院の建立、ザクセン・アルテンブルクへ、13c 元修道院敷地内にマリエン教会、
1324-29 ヘンリー2世の都市権を受け市壁を築く、 1398 ヴェッツディンが管理、
1485 ライプチィッヒ条約でアーネスティン公国へ、 1525 農民戦争で修僧院の破壊、
1528 舟教改革の導入、1603 ザクセン・アルテンブルクへ、 1618-48 軍隊が何度も通過、
1672 ザクセン・ゴーダへ、 1680 ザクセン・ゴーダ・アルtンブククへ、 1633 ペストの流行、
1772 大火災で市庁舎を含む228戸と70納屋焼失、 1861 ボタン産業開設と発展、
1893 高さ30mの鋼鉄製観測塔設置、 1945 5月米軍、7月赤軍が占領。
14cプラウエンのハインリッヒ・ロイスは修道院の土地と建物を高さ8m迄の市壁と高さ10m
の木製の櫓で囲った。要塞の遺跡は復元され、今でもSchulStrasseで見られる。
見当たらない。
小さな町ではあるが広いマルクトが整備され、古い木組の家が多い。
市庁舎 Rathaus (14c) 3階建の前面中央鐘楼付の市庁舎は、前片階段と
3側窓がある。正面には剣が付けられ法的管轄権を示している。内部には小
ギャラリーがある。ラッツケラーは2000に大規模修復がなされた。
町教会 Stadt Kirche (15c) 市教会の聖ニコライは、1772の火災の犠牲とな
り塔の4大鐘も溶けた。1773から再建を始め、変更された塔のある後期ゴシック
3身廊のホール教会となり、現存している。一次大戦の後1933に第3の鐘が鋳造
された。
地域博物館 Land museum (1997) ボタン産業が1861に始まるなど波乱に満
ち町の歴史が展示されている。ボタン産業の機器や象牙・椰子の実・貝などの
ボタンも見られる。
市庁舎 | エアフルト門 |
北壁 | 北東壁 |
東壁 | 東南壁 |
876 フルダ修道院の十分の一税紛争で言及、918 王コンラッドは村をフルダ修道院へ、
1369 チューリンゲンで最古の村、 14c ホーエンシュタイン家のハインリッヒ伯は都市権授与、
1389 ヴェニンゲンゾマー門と塔の建設、商業と貿易で繁栄、1395 エアフルト門と6壁塔の建設、
1533 4市門は強化された、 、 1589-97 市壁の拡大と1門6塔の追加、
1621-31 30年戦争の略奪と火災で衰退、1684 サード市場の特権を取得、
1737 大火災で下の町は大部分焼失、 1802 プロイセンが支配、その後ナポレオンが管理、
1813-14 ナポレオンは破れ再びプロイセン領、1945 2次大戦の戦災は軽微、チューリンゲン州へ。
14cに市壁が造られ、16c末に市壁は拡大された。4mの高さと0.95の厚さで1.3km
の延長があった。主として国道沿いに市壁は見事に残る。
1kmに及ぶ細長い町であり、市壁は良く保たれているが見所は少ない。
市庁舎 Rathaus (1539) 前面に階段塔のある2階建てルネッサンスの建物。
聖ボニファティウス教会 Ev.Kirche St.Bonifatius (1464-1562) 1149の高い塔の
ある教会で、今の外観は1567ゴシックへの改装による。内陣の下には市長や司祭
を埋葬した地下室がある。金箔や彫刻に飾られた祭壇やバロックオルガンもある。
聖ペトロ教会 Ev.St.Petri Kirche (1308) 聖ペテロとパウロ教会の敷地内に、
1682-85聖ペテロ教会が建てられた。外観は単純なバロックの教会で、1716にバロック
の塔が付けられた。身廊の天井には塗装格間であり八角形の洗礼盤もある。
聖フランシス教会 KatholischeKirche St.Franziskus (1860) 宗教改革で既存
の二つの教会は新教となり16c中頃にカトリックの教会はエアフルトに行った。
1860小さなカソリックの木の教会が造られ、1893赤レンガの教会が建てられた。
教区司教館 Pfarrhaus (1589) 初め地階石造で上階木組みの事務所が建て
られ、1792新教によって買収され、1993に改修された。
市庁舎 | 宮殿 |
トリニティ教会 | クルシス教会 |
北壁 | 北東壁 |
南西壁 | 南壁 |
8c フランク族の集落が置かれた、 1125 マインツ大司教の家臣が集落管理、
1263 ホーエンシュタイン家が支配、 1356 ホーエンシュタイン家の断絶、
14c 旧市街地は東へ拡張、 1300-49 ヨダヤ人の定住はペストで消滅、
1539 改革導入で教会資産の販売、 1639 スエーデン軍の占領、1621 大洪水、
15898.1611.26 疫病流行で人口半減、 1621 大火災で壊滅、 1691まで再建、
1697 ゾンダーハウゼン公国を帝国王子格に、17c 町にバロックの建造物が建てられた、
1814 硫黄泉が発見されスパを建設、 1840 旧市街地の西にカールシュタットを新設、
1918 シュバルツブルク・ソンダースハウゼン公国の首都を終わり、チューリンゲン州へ、
1920 プロイセンに帰属、 1945 終戦、チューリンゲン州に編入。
13cの市壁の旧市街地は狭く、14cに東に、19cに西に拡張された。市壁は
高さ5.5m厚さ1.5mで造られ、半円形の塔で守られていた。
見当たらない。
帝国王子階級シュバルツブルク・ソンダースハウゼン公国の首都として、長く文化・経済的
に栄え、1621の大火災は受けたが、歴史的石造の建物がバロック時代に建てられた。
市庁舎 Rathaus (14c) 1366-70に2階建の市庁舎か建てられ、1525に修復
された。1621の火災で焼失し簡素な建物で再建されたが、1658の火災で東側が
焼けた。1744マルクト側の一部はラッツケラー入口が再設計され、1848上階木組は完全に
建て替えられた。1856古典主義の前面となった。2017-19広く復元と近代化が
行われた。
宮殿 Schloss Sondarshausen (13c) シュバルツブルク・ソンダースハウゼン公国の数世
紀にわたる居住地であった。丘の上の城から始まり、ルネッサンスの城となり不規則
な4翼の建物に拡張された。1764-71の西翼は19cに古典主義にかいされ、中庭
側はロココ装飾となった。庭園のオランジェリィは1945の爆撃で失われた。1925に宮殿
博物館が開設され、先祖の肖像の間・音楽史・公国の歴史・自然史収集物・1710の
ドイツ唯一の黄金の馬車等が見られる。宮殿食堂・宮殿塔・ブルーホールも見学できる。
古い守衛所 Alte Wache (1836) 宮殿の東側の斜面に、ローマ要塞風な王の守
衛所を建て、1836-39に使われた。1990旧警備隊が復活した。今は観光案内所。
王子宮殿 Ehem.PrinzenPalais (1721-25) バロックの宮殿で、1835-51城の再
建中には王子の居所として使われた。現在は地区事務所。
ゴットシャルクの家 Gottschelcksch Haus (14c) 貴族の家として建てられた町
でも古い建物である。1377シュバンチェンベルク侯爵が裁判所とした。1484農場は賃貸
された。1621.1640火事に会い壊された。1654公国のヴィルヘルムによってバロック宮殿
として再建された。1729ゴットシャルク家が所有してこの名前となった。1773解体と
新築が行われ、ロココの建物となった。1945爆撃されたが、難民収容所となった。
1979老朽化に王宮の屋根を付けて倉庫として使われた。2002マンサード屋根の元の
姿で復元された。
クルシス教会 Crucis Kirche (14c) 聖十字架教会は町でも古い建物で、基石に
1392の年号がある。ゴシック砂岩の教会で、北にホスピスの建物が付いている。1463
の大火事で焼け、ピウス2世は再建費用提供者には10年間無税とした。1570ホスピス
もさいけんされた。1621の火事で聖トリニティ教会は大破したため、クルシス教会は屋根
とバロック内装更新のみで再開された。1691までは主要教会として主要人物が埋葬
された。1729孤児院が再建され後に刑務所となったため教会機能を失い、1884に
プロテスタントの資産から外され、1886一部改修後カトリックの教会に使われた。1932教会
としての使用が終り、町が倉庫で使った。2000塔展望台と遺跡墓地となった。
トリニティ教会 Trinitatis kirche (1174) 初め礼拝堂があり、今の場所に
アンドレアス教会が建てられたが1608には壊された。1620ニトリニティ教会が新設されたが
1621の火事で壊され再建は17c後半となった。1870-91新ゴシック宮殿墓地礼拝堂が
追加された。1890.1931.1987-97に改修が行われた。中には1620「マルティン・ルターは
死のベットに」の祭壇画がある。
八角形の家 Achteck Haus (1709) 貴族社会の娯楽のために建てられ、地下
から直径14mの回転床が持ち上がる。壁と天井には金星の勝利の絵画がある。
1950-57倉庫となったが、1960改修されコンサートホールとなった。
市庁舎 | エバースドルフ城 |
1114 ラインハルトブルン修道院の文書に初言及、1235 村の教会を奉献、
1268 町として都市権を保有、13c 上流シュバルツエンブルク下流ビルトルバーガーが支配、
1388 シュバルツエンブルクが伯爵未亡人から町を購入して統合支配、
1447-51 ザクセンが町を包囲した、 1525 町では農民軍の戦闘はなかった、
1571 シュバルツエンブルク家は4分割、 1519 シュバルツエンブルク・ルードシュタット公国が支配、
1618-48 30年戦争で何回も略奪、 1675 火災で23戸26倉庫が焼けた、
1780 大火災で全公共物と172/322戸が焼けた、1945 4月米軍、7月赤軍が占領。
1362に、五角形380×500mの旧市街地を囲んで、高さ4-6m平均厚1.7m延長
1.56kmの市壁が造られた。1991-93に家屋解体時に発見された市壁の一部が、
B37沿いに再建されている。
大きなマルクト広場と珍しく修道院から宮殿を経た市庁舎がある。1780の火災
後の建物が殆どである小さな町。
市庁舎 Rathaus (1275) 今の市庁舎には長い歴史がある。最初の建物は
ザールフェルト修道院がこの町に移転した時に建てられた物である。1287に修道院
は、聖マリア・聖ニコラス・聖ベネディクトに奉献された。修道院はその後250年間存在し
宗教改革で1533に溶解してシュバルツエンブルク公爵の所有となった。1628建物は城
に改築され、1780には火事で損傷し直ぐ修復された。1897の火事で大部分が
破損し、侯爵はSchloss Guthofとして再建した。1918市が購入して1920市庁
舎として改修した。2階建西側に塔があり6破風を並べた特異な前面である。
今は市歴史博物館でもあり、建物の最も古い部分は修道院教会の桟敷の下の
暗部であり、そこにラッツケラーが置かれている。
賃貸倉庫 Zinsboden (14c) 市庁舎の背後に修道院の3階建の大きな倉庫
があったが、1350租税倉庫に変換され、その後一時チューリンゲン豚舎として豚を
収容した。1890には刑務所になり、1989まで小麦倉庫でもあった。構造的な
補強が行われ、今でも賃貸倉庫として使われている。
マルクト広場 Markt Platz (1539) チューリンゲン最大の10,170m2、長辺204mの
マルクト広場である。1834に舗装整備され、1885のオベリスクは市民歌手の記念碑。
市教会聖マリア Stadt Kirche St.Marien (12c) 1235の塔のフレスコ画は注目
である。1780の火事で損傷した双塔アーチの修復に1789迄要しバロック化された。
教会の鐘とオルガンは、二つの大戦中にそれぞれ供出された。
最高水位のアヒル Hochest Wasser Stand Ente (17c) 1613が最高洪水水位
であり、その高さにアヒルが置かれていた。その建物が解体され、アヒルは1908から
向かい側の熊の店に移された。この建物も1968に壊され、アヒルは郷土博物館へ
納められた。
市庁舎 | レンゲンフェルド城 |
1125 リースフェルト修道院は地所を守るため城を建設、 フルダ修道院長は城を拡充した、
1260 町は市壁で強化された、 1326フランケンシュタイン家は町の権利をフルダ修道院に売却、
1359 チャールズ4世は毎週の市場権を与えた、 1444 ヘルダ家のフイリップは城・土地を取得、
1548 ボインブルク家は町を所有した、 1734 ボインブルク家は町をザクセン公に売却、
17c 30年戦争後各職種のギルド成立、 1525 農民戦争敗北、1663-1720魔女裁判
1807 ヴェストファーレン王国へ属した、 1816 ザクセン・ワイマール・アイゼナッハ大公国へ編入、
1878 大火災で多くが焼けた、 1945 4月米軍が占領。
1260の市壁は、城の東側にまだ残る。
1878の大火災で町は全焼したため、それ以降の建物が殆どである。
大きな建物は、城広場にある2階建の旧シナゴ-クと、旧学校が残っている。
市庁舎 | ニコラウス塔 |
736 宣教師ボニファチウスによる教会設立、 932 ハースフェルト修道院長商品交換文書に記載、
1149 マイアンのルードビッヒは城を建てた、 1206 方伯ヘルマン1世の寄付文書に町として記載、
1212 皇帝オットー4世は町に憲章を授与、 1490 ランゲンザルザ方伯の事務所を城に設置、
1632 30年戦争で帝国軍が占領、 1711 大火災で市庁舎も焼失、 1792 砲兵の駐屯
1815-20 プロイセンの支配下に、 1868 城は壊されて庭園になった、 1944 空爆被害、
1945 米軍の占領、 1950ミュールハウゼンとランゲンザルザの合併、 1994バートランゲンザルツアに併合、
1206の市壁は3門であったが、1300には4市門の市壁が完成した。東南部に僅か残る。
市庁舎 Rathaus (1756-63) 1771の火災で焼失し1756-63に建て替えられた。
聖ゲオルグ教会 St.Georg Kirche (14c) 1669に身廊と切妻部分は更新された。
1873と1980に改装された。ゴシックの後陣塔は尖った8面のスレートのヘルメットと小型砲塔が四隅に
立つ。説教壇は1669,オルガンは1824に付けられた。
市庁舎 | ヴァッラ川壁 |
火薬塔 | 壁塔・南壁 |
魔女塔・北壁 | ベラバイセン塔 |
役所 |
796 フルダ修道院の贈り物文書に初言及、1200 ヘネベルク家は交易路の交点を整備、
1268 代官居住地となり、1341に役所を言及、1303 町と呼ばれ裁判所が置かれた、
1359 市場が置かれ、市場町として知られた、1439 ヘネベルク家が初要塞を柵で築いた
1457 市壁を建設 、 1624 30年戦争で9回占領1634全壊、
18-19c 農業の町から工業都市、 1583 ヘッセン方伯の単独所有、
1585-90 ヘッセン方伯は夏と狩の館の宮殿建設、1618-48 30年戦争で鉄鋼生産衰退、
1806 仏軍への抵抗運動で町は守られた、 1866 普墺戦争の結果プロイセンに帰属、
1944-45 2度の空爆で大被害、 1945 チューリンゲン州に編入。
15cの市壁は切れぎれに残っている、
かって、市壁には7塔と3円部があった。
上町門 Oberstadt Tor
魔女塔 Hexen Turm (1603) 17cに魔女の監獄に使われた。
ベラバイセン塔 Werra weisen Turm
草原門塔 Torwiesen Turm
火薬塔 Pulver Turm
城塔 Schloss Turm
小さな田舎町で、多くの塔と美しい木組みの家がある。
市庁舎 Rathaus (1711) 石造3階建ての両切妻鐘楼付の堂々たる建物。
役所の建物 Amtshaus ヘネベルクの記念額のある木組みの家で、美しい切妻付の2
階建ての家。
聖バーソロミュー市教区教会 StadtPfarrKirche St.Bartholomaeus (996) 町で最初の
ロマネスクの教会は聖具室と塔の下から2階がまだ残され、ヘネベルク家は1488-1505
後期ゴシックのホール教会を建設した。1544宗教改革で他の教会から彫像・祭壇を
得た。その後何回も再建された。中には、1510祭壇・1629オルガンがある。
1488の鐘がある塔には1950まで夜警の家族が住んだ。
聖ヨハネ教会 Kirche St.Johannes (1492) 1588墓地教会となった。ゴシックの石積に
シンプルな切妻屋根の古い教会。中には16cの祭壇があり葬儀が行われた。
魔女塔の側の展示室 Ausstellungsraum am Hexenturm 塔に近接した塔見張人の
部屋に展示室があり、色々な芸術様式の絵画・彫刻から特別な機械が展示して
いる。
市庁舎 | 監獄 |
768 シャルルマーニュはホンブルク修道院の建設で言及、1104 マインツ大司教文書に言及、
11c ノルマンシュタイン城は交易路保全で建設された、 1333 都市権の授与、
1336 共同遺産相続人が数世紀所有し、マインツ選帝侯とヘッセン・カッセルが支配した、
1532 チャールス皇帝は毎週土曜日の市場開催権を与え、St.Georgi・St.Simonに
2見本市の権利を付与した、 1585-87 魔女狩が行われた、
18c マインツ選帝侯一人が引き継いだ、 1807 仏ヴェストファーレン王国に属した、
1815 プロイセのミュールハウゼン地区に属した、 1945チューリンゲン州となった、
1990 ドイツ統一後に観光と産業が始まった。
13cからの市壁は、いくつかの場所に残る。
市門は、見当たらない、Trottsch Hof の入口門は車道と歩道の二つの
アーチ門が設けられている。
ザクセン行政館は町の北西角にあり、市壁の防衛塔WehrTurmが残っている。
チューリンゲンとヘッセンの文化が入り混じる小さな中世の町であり木組の町とし
て有名である。美しく修復された多くの木組の家を楽しむ事ができる。
また山頂には12cからのノルマンシュタイン城があり、丸や四角の3つの塔などよく
保存され、レストランもあり、眺めがよい。
市庁舎 Rathaus (16-17c) ルネッサンスの美しい木組の庁舎である。階段入口の上
に5階建ての四角塔が前面突出で立ち、2階建の庁舎の上に塔がそびえる、
珍しい形の建物である。屋外階段の角柱には、紋章と彫刻がある。
聖ボニアチウス教会 St.Bonifatous Kirche (13c) その平面は元の十字架のまま
の後期ロマネスクであり、14cには上部木製の塔が付けられた。19cに西正面
に塔と入口のある今の姿になった。中にゴシック両開き祭壇・碑銘・墓標がある。
聖マリア教会 St.Marien Kirche (19c) 旧カトリック司教館が転出しため、カトリック教
会として成立した。
旧ザクセン行政館 Ehem.Saechsischer Amtshaus (1550) 市壁の所にザクセン行政
館が木組で建てられた。北西には市壁の防衛塔が残っている。
19cには、カトリックの司教館が転入した。
市民の家 Buerger Haus (1880) 初め会社として建てられ、町の葉巻煙草の
伝統を伝える。今は市民の家であり、観光案内所・自然公園の展示もある。
トロットの館 Trottscher Hof () トロット家の中世の城の場所に、華やかな木組の
複合施設が旧市壁に建てられた。今は児童館と郷土博物館を収容している。
郷土博物館 Heimart Museum in Burgsteig () 旧市壁の上の木組の建物に
町の歴史として、伝統的なパーラ陶器・名高いタバコ生産などの展示がある。
オアーハイゲン邸 Ohrfeigen Haus (17c) 上階木組の建物は、1608の事件から名前
が付いた。建築主のヘッセン代官ブレイがハデ好みの罰として平手打を課された。
マインツ館 Mainzer Hof (1550) イルトマンスタイン泉の近くに建てられ、最初のミュールハウゼン
郡庁に選ばれた。1816-39役所の東に公園を設けた。
ファルケンシュタイン館 Flankenstein (1618) 代官フイリップ・ファルクは、市刑務所として2-3
階建の印象的な木組の建物を建てた。地下室の厚い壁の向うに独房がある。
プロテスタント司教館 Ev.Pfarr Haeuser (1566) 古い司教館は、町で2番目に古い
建物であった。地階の一部はまだオリジナルで保たれている。1944新しい司教
館が建てられ多くが移ったが、ここもまだ使われている。
教会通31番の家 Haus KircheStrasse31 (1546) この町で最古の住宅で、部分的
には健全化され、木組の装飾も再現した。地下室は早期のワイン酒場であった。
聖ボニアチウス教会 Burg Normannstein (11c) 主としてロマネスクの城で、交易路を守るた
めに建てられた。1337から3人の役人がここで働いた。町に役所が建てられ
た後は、丸い塔が一時刑務所で使われた後は、使用されず衰退した。1894
レストランを開業したが1971には閉鎖され、食堂付き青少年クラブとなった。1996
大規模改修が行われ展望台が付けられた。2005外側円塔壁の保全が行われ、
円塔城壁の中に、展示室・礼拝室・守衛室などが見学できる。
市庁舎 | 旧市街 |
1140 フルダ修道院コーデックス文書に初言及、 1223 ヴュルテンブルク文書に言及、
1394 ベルゲルン憲章を保持、 14c 町と呼ばれ都市権を所有、
14c 聖アンドレアス教会のあるキルヒベルクは要塞化され、 堀・市壁・門塔が造られた、
1632.43 大火で町の大部分を焼失、 18c 小さな町は陶器で繁栄、
1952 GDRの国境に位置し人口減少、 1980 人口最小の町になった、
1992 住民投票でこの町の独立に賛成 2016 人口474人で独で人口最小の町。
旧市街地周辺には見当たらないが、聖アンドレアス教会に荒石の壁がある。
聖アンドレアス教会の南に荒石造の門と2階建の塔がある。
ドイツで最小人口474人の小さな町であるが、旧市街地には多くの美しい
木組の家が修復されている。
市庁舎 Rathaus (1559) マルクト広場の北側に、大きくて堂々とした木組の
建物がある。1929に表面の漆喰を除いて、450年前の装飾された梁が現れた。
市庁舎西角の基礎壁には、1559の年号が切り込まれている。30年戦争の1632
には町の主要建物は焼失した。1682市議会は新市庁舎再建を決めた。階段登
り口の左右に二つの同業組合の銘板が1727に付けられ、高い地位を示した。
1793大修復が行われた。
聖アンドレアス教会 St.Andreas Kirche (890) この町の古い教会で、すでに8c
には当時のフランク族支配の領域にアンドレアスの名前が付いた礼拝堂があった。何時
この教会がここに移されたかは明らかでないが、この地域で最初の教会であ
り、初めは単塔要塞教会として設計され、墓地・農地を含めて門と塔のある壁
と土堤で囲まれていた。
聖バーソロミュー教区教会 Ev.PfarrKirche St.Bartholomaus () プロテスタントの単塔
の石造教会。
市醸造所 Stadt Brau haus () 町の南に、2階建のし醸造所がある。
市庁舎 | 旧鋳造所 |
コウノトリ塔 | 城門 |
北城壁 | 西壁 |
8c ケルトの丘に786ハースフェルト修道院の村があった、フルダ修道院に代わった、
1186 ルードヴィッヒ3世は爵間取引で取得し都市権を授与、12c 城と市壁の建設、
1400 修道院教会と農場の建設、 1455 アボット・ヘルマン2世は鋳造所を設置、
1463 町は大火事でほぼ全焼、 1525 ヘッセ方伯フイリップは修道院財産を売却、
17c 30年戦争で占領、 1648 ヘッセ方伯に町のシェアを売却、7年戦争で砲撃、
1807 ナポレオンはヴェストファーレン王国で支配、1816洪水被害、1878 放火による火災、
1945ソ連占領地に含まれ国境となる。
12cの市壁は前面に堀を有し、市街地の周囲に構築された。市壁は北・西・東
南に点々と残る。
コウノトリ塔 Storchen turm (12c) 東南にある4階建の円塔で小さな帽子
が付いている。
円門 Rund Turm (12c) 西南にある3階建の円塔で帽子はない。
天守閣 Turm Aufsteig (12c) 北東にあるヴュルデルシュタイン城の天守閣。
南の古い建物で囲まれたカルクト広場と北東の城が見所の小さな町。
市庁舎 Rathaus (1613) ヘッセ様式の4階建鐘楼付き上階木組の堂々たる建物
はハンス・ウエーバー方伯の廷史の館として建てられ、1911から市庁舎と
ラッツケラーとして使われている。1923美しく修復された。
マルクト広場 Markt Platz () 南に向かって広がった広場には、ヘッセ様式の切妻
のある木組の建物が並んでいる。Widmarckt家、旧鋳造所(1780)
15cまで硬貨鋳造、ユニコーン薬局(1600)など。
聖ヨハネ教会 St.Johane Kirche (1365) 1365の後陣に1467の身廊が繋がり、
新古典のホール教会とロマネスクの西角塔は1822-24に再建された。
ヴュルデルシュタイン城 Burg Werdelstein (12c) 旧市街の北端にあり、Werra橋の
保護のために建てられた。今は博物館として、町に歴史と人形の収集品
を展示している。
市庁舎 | クラウス塔 |
市教会 |
9c フランク時代の集落、 1176 チューリンゲン・テネンブルク方伯の砦、
1326 市壁のある安全な町として言及、 14c 自治による市場の開催、
15c アーネス・ザクセン州に属す、 16c 醸造特権を得てビールの町に、
17c 大火で町の大部分を焼失、 18c 亜麻布織工・石工・仕立工ギルド、
19c 工業都市で消防ホース・ソーセージ・玩具制作。
クラウス門の北側の家屋の中に市壁が曲線を描いて含まれる。
クラウス門 Klaus Tor (1390) 唯一残る市門で、初めNiederTorがあり、そ
の外に1434KlausTorが建てられ、門衛が住んでいた。
1818からの人形の小さな町で、旧市街の外の山頂のテンエベルク城に人形博
物館があり、町の人形の歴史が見られる。
市庁舎 Rathaus (1441) 今の建物は1554の建られ1993-96の修復された。
地階は石造の半地下でその上に後期ゴシック2階建ての木組みが乗る構造である。
急勾配の切妻屋根と時計塔がある。地下室は柱列のあるアーチ天井があり、石の
壁は1434から今も使われている。
ルーテル市教会 StadtKirche Luther (1326) 中世に建てられた聖母教会はさ
さやかな後期ゴシックのハレン教会であり、塔は1458に付けられた。1719-23に今の
バロック円型教会となり、塔はそのまま残された。塔の帽子は数回壊れ、1865に
今の形になった。身廊の天井にはフレスコ画があり、石柱で支えられている。
1992-96に大改修が行われた。
テンネベルク城 Burg Tenneberg (1176) 旧市街の南西外の山上に在り、1929市
立博物館となり、町の歴史・民族工芸・人形玩具などが展示されている。1390礼
拝堂が設立され、1391に馬蹄形平面の旧城が建てられた。1542-71に補修が行
われ、1612-22ルネッサンスに1721バロックに変換された。
市庁舎 | 旧女修道院 |
ユダヤ塔 | 西壁 |
南壁 | 木組家北 |
木組内東 | 木組内東 |
872 フルダ修道院の文書に初言及、 12c 市場の町となる、
13c ヘンネベルクの郡となる、最初の教会、 1266 ウイルヘルム修道院の設立、
1308 帝国自由都市となり城と町の拡張、1325 市壁で囲まれた町となった、
16-17c 繊維・金属加工で経済・文化の繁栄、 1616-46 30年戦争で人口半減、
18c 金属・革・紙・煙草の加工と貿易で栄えた。
14cに市壁は170m×350mを囲み、2市門と10壁塔と住居内塔で守った。
残っているのは西側で、北の修道院から8m、GrabenStrasse15m+5m、
MuhlGasse75mである。
ユダヤ塔 Juden Tor (13c) 3階建て長方形の建物で角が石積の煉瓦造。
小さな町だが、16cからの歴史的な木組みの家が保存されている。マルクトは
主要通路が広がった所にあり、木組みの建物で囲まれている。
市庁舎 Rathaus (1532-34) 後期ゴシックの3階建ての建物で1998-2003に美
しく改修された。建物の上部に非対称に配置された出窓は木造の床の両側
に広がっている。中には、16cの羽目板と歴史的な議会の席がある。
教区司教城 Pfarffenburg (1382) 1974に再構築。
聖トリニティ教会> Kirche St.Trinitatis (13c) ロマネスクの建物に、1584身廊
1596-1708塔、1680内陣、17c説教壇の内側。
旧女子修道院 Ehem.Damen Stift (1596) 旧女子修道院は2階建で建て
られ、建設主の紋章と華やかな漆喰の天井のある精巧なルネッサンスの木造ポータル
に注目。今は市博物館とカーニバル博物館となっている。
出先の役所 Amts Hof (1606-07) ルネッサンスの2階建て役所の館で、一部木
造の地階の上に木造の上階が乗っている。木骨造の最盛期に建てられ、華
やかな天井と壁の絵画がある。歩行者門は1611のルネッサンスポーチである。
旧ヴェエンの館 Ehem.Wasungen Haus (1630-32) 貴族の館は大規模な切妻
壁と巧妙な木材加工の木組の家。内装はルネッサンスで天井は漆喰。2000-02に改修。
マイン館 Main Hof (1576) 中世の守備を担った貴族の建てた邸宅であり、
トラス構造の湾曲した珍しい形。
町博物館 Stadt Museum (1596) 旧女子修道院の中に在り、1965町博物
館として、町の文化と歴史・女子修道院の歴史・町の経済史などを展示。
オスター城 | 市壁搭 |
1122 入植地管理のため皇帝は廷史を任命、1163-93 Osterburgを建設して廷史の本部に、
1209 市場の集落は町として認定、 1621-22 町でコインが鋳造された、
17c ザクセン王国に属した、1815 ザクセン・ワイマール・アイゼナッハ大公国となった、
1920-23 チューリンゲン州の設立。
1120にOsterburgの南に入植地が成立し、1130-80にその西側と北側の街道沿いに街並が
広がった。1180には北のノンネン修道院と南のフランシスコ会修道院がされ、これらの街並みを囲っ
て13cに市壁が築かれた。残っているのは東側に、わずかである。
角塔 Ecke Turm (13c) 川沿いの林の中に4階建の白い木骨造の建物の隣に、レンガ造4
階建の屋根のない塔がある。
゙
角塔 Eche Turm (13c) ヴィデン教会の尖塔が見える場所に4階建4階建てレンガ造の腰折れ
四角錐屋根の塔がある。
市庁舎 Rathaus (1587-89) ルネッサンスで建てられ、元は今よりはるかに壮大で、高い
切妻・多数のドーマーと豪華な装飾で飾られていた。1663に壊され1667に簡素に再建された。
1687に再び焼失して、別の形で再建された。高さ50mの市塔で特徴的な外観となった。
1991に改修され新しい金色のボタンが付けられた。
ウィーデン教会 Widen Kirche (12c中)聖女マリアの小さな礼拝堂が旧市街地に建てられた。
1527までは礼拝が行われたが、30年戦争で壊され1633には廃墟となり、南塔が老朽化して
取壊された。1996-97外壁を残してに修復され、搭には鐘楼がある。
市教会聖マリエン Stadt Kirche St.Marienn (1267) フランシスコ会修道院の小さな礼拝堂とし
て建てられ、1350に初期ゴシックの教会建設が始まり、改革後町で唯一の教区教会となった。
1633の火事で焼失しスエーデン軍の寄付もあり、1644には再建された。1833に改修が行われ、
1990に屋根トラスの構造が一新された。鐘のない教会である。
オスター城 Oster Burg (1163) 皇帝ハインリッヒは廷史の居所として、ロマネスクの城を建てた。
13-14cには地域行政の中心であった。裁判所も置かれ、今は美術館・博物館・レストラン・
庭園として使われている。
旧鞣し皮工場 Lohgerberei (1844) 1581に靴職人と皮鞣し職人が分離してそれぞれ
ギルドを設立した。19cには革生産加工の中心地となった。4階建の工場で1844-1992に生
産が継続され、古い加工機械や作業台などがある。
マルクト広場 | 国民劇場 |
ヴィルヘルム城 | 黄城 |
リストの家 | ホテル・エレファント |
899 最古の記録、946-1346ワイマール郡があった、1002 オットー3世はワイマールを包囲、
1173-74 ルードヴィッヒ3世は町を破壊、 1212 早期に再建され防備を固めた、
1245-49 市庁舎建設、1254教会の奉献、 1247 ルードヴィッヒ家の断絶、
1365 ヴィッテン家に譲渡、 1410 やっと都市権を得た、
1424 大火災で殆ど焼失、 1552 侯爵ヨハンフリードリッヒはワイマール公国の首都に、
1775 ゲーテが宰相として赴任、 18-19cワイマールの全盛期で文化が栄えた、
1817 王カールは国の憲法を与えた、 1918 首都と王宮を失った、
1919 ワイマール憲法を制定して共和国に、 1933 ヒットラー帝国に併合
1945 2次大戦の空爆で大被害。
15c二つの輪の形の二重の市壁として、8-10mの高さで築かれ、10塔と多く
の防衛塔施設で成立した。
会計塔 Kasse Turm (15c) 北西のゲーテ広場に残る角塔が残る。今はカフェと
なっている。
16cにザクセン・wヴァイマール公国の首都として文化の中心地となり、クラナッハ・バッハ・
シラー・リスト・ギェーテ・ヘルダー・ベックリン・クロゼウスなどが活躍した跡を辿ることができる。
旧市街には昔の建物が見られ、博物館や美術館も多い。
市庁舎 Rathaus (1500) 3階建で、玄関柱廊と鐘楼を持つ四角い木骨造の建
物で、1895の全面改修された。
城館 Stadt Schloss (15-20c) 何度も拡張されて4翼の大きな建物になり、
東部分には古典様式の柱廊が付加され、西南部にはバロックの塔1729-32が
立つ。城内には、1900国立美術館が置かれ、クラナッハなど中世からの作品
が展示されている。
寡婦宮殿 Wittums Palais (1767) 夫の死後アンナ・マアマーリア皇妃は、この2翼バ
ロック宮殿に住み文化人のサロンとなった。今は啓蒙時代の思想家ヴィーラント
の記念館として業績を展示している。
クラナッハの家 Lucas cranach Haus (1549) マルクトにある渦巻き模様装飾の切妻
のあるルネッサンスの建物で、クラナッハは晩年ここに住み4階にアトリエを置いた。
今は、円天井の劇場となっている。
候爵夫人図書館 Herzogin Anna Amalia Bibliothek (16-18c) 南のデモクラシー
広場の緑の館は、本・アート・建築要素を収集したロココのホールである。
旧王宮 Fuersten Haus (1770-1774) 今は、フランツ・リスト高等音楽学校の校舎と
として使われている。
シュタイン夫人の家Haus der Frau von Stein (18c) ゲーテは、1735皇妃の女官長
シャルロッテ・フォン・スタィンに会って好意を持ち、この家は1776にゲーテの設計
によって改造された。
ゲーテの家 Goethe Haus (18c) 1809-32ゲーテは死亡するまで、このバロックの
家に住み、内部はそのまま保存されている。居室・仕事部屋・図書室
も見学できる。1913-35に別館はゲーテ資料館として宰相・詩人・科学者
としての人物像が展示されている。
シラーの家 Schiller Haus (18c) シラーは、1802にここに転居して来た。ヴィルヘルム
・テルはここで書かれた。シラー博物館はその北側にあり、3つの大展示
場でシラーの人生と作品について展示している。
ドイツ国立劇場 Deutsches national Theater (1779) バロックの劇場でシラーの戯
曲やヴァーグナーの歌曲などが公演され、1907今の建物が再建された。
ゲーテ園亭 Goethes Gartenhaus (18c) アウグスト大公が、ゲーテにこの園亭を贈
り、1776-82執筆や休養のために使われた。
リストの家 Franz List Haus (19c) 公園入口の管理人の家に、1869-89の夏に
リストは住んでピアノのレッスンをした。地上階には常設展示があり、上階に
はリストが住んだ居間・寝室・食堂・使用人室がある。
ゲーテ・シラー公文書館 Goethe und Schiller Archv ゲーテとシラーを含め作家・学者
・哲学者・作曲家などの130以上の論文も含む作品の文書館である。
聖ペータートとパウロ市教会 StadtKirche St.Peter und Paul (1254) 今は後期
ゴシックのホール教会で、2次大戦でひどく損傷し1953に再献堂された。
中には、1552クロナッハの3翼祭壇・王家の青銅や石の墓標がある。
聖ヤコブ教会 St.Jakobs Kirche (1713) 老朽した建物の解体に続いて、単廊
バロック教会が建てられた。1728城守教会となり、城の火事の後には城教
会となった。ナポレオン軍は占領時に病院として使った。
1806ゲーテの結婚式はここで行われた。
バウハウス博物館 Bauhaus Museum 1919にヴァイマール・バウハウスは設立され、ここで
初期の作品を紹介している。
新ヴァイマール博物館 Neu Museum Weimar 旧大公博物館のネオルネッサンスの建物で、
現代美術の展示とバウハウス大学のギャラリィでもある。
市博物館 Stadt Museum Weimar 1990ヴァイマール共和国が開設した。町の歴史
を展示。
ヴァイマール芸術館 KunsutHalle Weimar 芸術と工芸のための旧大公博物館に、
今は文化庁と市博物館が一緒に展示している。
大古と先史博物館 Museum fuer Ur-und Fruehgeschicte 40万年前から
チュービンゲンの古代生物の画像を人類の発展を中心に展示。
ドイツ蜂博物館 Deutsches Bienen Museum 蜂の生態・文化・歴史・の展示と芸
術的な蜂の巣が展示されている。
公園横穴 Parkhoehle 侯爵カール・アウグストは、18cの末に公園内に地下ビール貯蔵
装置を掘った。
キルムス・クラッコウの家 Kirms-Krackow Haus 中庭に隣接するアーケードを持つ2つ建物
から成る。400年以上の伝統的な都市農民の館である。
銀杏博物館 Ginkgo Museum イチョウ博物館は、地上でもっとも古い木の魅力を
体験できる。
市庁舎 | ルンネ城 |
城壁 | 北壁 |
北壁 |
1168 チューリンゲン方伯が城を所有 1174 ヴァイセンゼーとして初言及、
1198.1265 町の市場権が付与、 1440 チューリンゲン方伯の死でザクセン侯爵領に、
1446 憲法上の創立議会を招集、 1525 農民戦争は町の入口で防がれた、
1656-1746 ザクセン公国に属した、 1709 侯爵は上部池を築ぎ耕地を開発、
1815 ウイーン会議でプロイセン領となる。
城の周囲を含めて、殆ど全周に保存状況は良くないが市壁が見られる。
見当たらない。
1434ビールの製造法を規定したヴァイセンゼー純度法が定められた文書があり、
その後のドイツビール純粋法の先駆けとなった。小さな町はマルクトが北東にある。
市庁舎 Rathaus (1200) チューリンゲンでも古い代表的なロマネスクの3階建て石
造の建物で、小さな私的な醸造所があり、1434ビール純粋令の文書が発見され
今でも醸造している。市庁舎の前面にはザクセン公国の紋章が飾られ、ここで
Weissenseer Beer Festが開催される。
ルンネ城 RunneBurg (1168) チューリンゲン方伯は、ロマネスク2階建ての宮殿に、
5階建ての住居塔・城門・城壁を拡張した。1580-81新住居、1600門の家、
1738キャッリジハウスを建設。1750ロマネスクの天守閣を除去、1820城は管理目的で
再建され、1890プロイセンの事務所を建設、1952-95学校として使用され、今
は、博物館やレストラン「方伯の居酒屋」がある。
聖ペテロとパウロ教会 StadtKirche St.Peter und Paul (13c) ロマネスクの
ハレン教会には1230聖ヨハネ騎士団が定住し、1300教会は修道院教会となった。
2階建てゴシックの長方形のホールは、高い急勾配の巨大な屋根が西側にある。
1673北側の内陣は改築され、仕切り席が取り付けられた。中の、14c祭壇
1621説教壇・1584オルガンなどがある。
市庁舎 | 聖バルトロミュー教会 |
南東塔 | 給水塔 |
西壁 | 北東隅壁 |
東壁 | 南西壁 |
786 ハーフフェルト修道院のリストに初言及、 933 王ヘンリー1世は土地を得て城を建築、
998 オットー3世は修道院にブドウ園を寄付、1045 チューリンゲンのケパンブルク侯爵が支配、
1227-1312 ラーベンスバルト・ヴィーエ侯爵が支配、 1231-1629 騎士団が占有、
1320 都市法と市場法を有した、 14c 中世に発展した町は3門の市壁を築いた、
1461 ウエルテル・ヴィーエ公爵に所有が定着、1659 大火災後に主要建物は再建された、
1815 ウイーン会議でプロイセン領となる。
14cの市壁は、南東のAn der Stadmauerにいくらか残っている。
門や塔は残っていない。
水道塔 Wasser Turm () 町の南の外れに、機械室と共に立つ、2階建石造の
建物。
円塔 Rund Turm () 町の南の外れに三角屋根の3階建石造の円塔があり、
今は建物に組込まれている。
工場角塔 Vier Eecke Turm im Brauerei() 町の西南の角にある工場の中に
立つ4階建の木組の建物があるが、用途は不明。
市庁舎 Rathaus () 基礎の高い3階建の四角い建物で、中央に鐘楼が立
っている。入口は、両側外階段から入る。
プロテスタント市教会聖バルトロミュー Ev.StadtKirche St.Bartholomaeus (933) 現在の
教会は4番目で1670の物である。最初の教会の銘板や1500キリスト像がある。市場側
の記念銘板には、両世界大戦の行方不明兵士を記載している。
聖ウワスラ教会 St.Uresula Kirche (1250) 前の建物は1659の大火事で全焼し
1742-50に今の建物が建てられた。1996-2003内外装を全改修した。1659から墓
地教会として使われている。
ヴィーエ城 Schloss Wiehe (1015) ヘンリー2世は、ヴィーエを帝国の所属に戻し
ヘンリー3世は1045にヴィーエ城を置き、1233-37アルベルト1世はラーベンスバルト城を建てヴィーエ
城は部下に管理させた。1345チューリンゲン戦争の後にチューリンゲン方伯に所有権が移り
1453-1945は家族が住んだ。1659大火事で焼失し、1664-66に今の城を建てた。
1945城は接収されて、難民を収容した。2016一時学校となった。
模型列車 ModellBahn Wiehe (1997) 世界最大の模型鉄道施設で12,000m2
あり、年間20万人の来場者がある。①HOシステムチューリンギア、②LGB庭園鉄道ハルツ、
③TTシステム・ヴュルツブルク-ハンブルク、④兵馬俑、⑤お金の旅、⑥LGB-庭園鉄道アメリカ、
⑦イースター島。
風車 Wind Muehle (1732) ランゲンローダに建設され、2001記念物として復旧
され、使用可能である。
郷土博物館 Heimart Museum () 2階建の古い学校の建物に、靴・仕立屋・
農家・学校などの古い物を展示。
ランケ博物館 Ranke Museum (1994)町役場の小さな博物館を、ウイーン生ま
れの歴史家ランケの贈り物として、開館した。
1119 初文書言及:ウイッヒマン伯はエアフルトのマリア教会に寄付、 1260 鋳造を行った、
1289 城下町として町の憲章を作成、 1440 教会の憲法が作成された、
1593 靴下を5本の針で編むラビット編みを開発、 1714 市民権を掲載、
1722 鐘鋳造工場を建て鐘を生産、1945 爆撃1回、4月米軍、7月赤軍占領。
城壁は有るが市壁は見当たらない。
見当たらない。
町は広いが旧市街は意外に狭い。旧市街には2-3階の急勾配屋根の木組みの家が
残されている。鐘が有名で、町公会堂のカリオン・鐘の館のカリオン・鐘と町博物館のチャイム・ルー
テル教会のカリオンが見られる。
市庁舎 Rathaus (12c) 取引の中心のマルクトに建てられた。1558市場の中央の旧市庁舎は
解体され、最上部により大きな市庁舎が新築された。1669時計塔と鐘が付けられ
た。1673大火災で被害を受け、翌年ルネッサンスの22.7m*14.2mで地下室付き建物に、
31mの塔と17.2mの高い屋根がついた。1890ラッツケラーの閉鎖。1895時計の更新、19
17鐘楼の交換。
宮殿 Schloss (12c) 丘の上に城壁に囲まれて立ち、16cと17c構造的な変更が行われた。
17c音楽学校が開かれ、19cに2階には演奏会や結婚式場用のホールがある南翼が建て
られ、20cには改装された。北翼は2008までに改修された。
ルーテル教会> Luther Kirche (1890) 新教のネオゴシックの煉瓦造の教会で、カラフルなステンドグラス
の窓がある。
聖マーチン教会 St.Martins Kirche (12c) ロマネスクの古い教会であったが、17cに再建されバロ
ックの塔が付いた。
聖ボニファティウス教会 St.Bonifatius Kirche (1894) コトリックのゴシック教会。
町公会堂 Stadthaus 1887に40のカリオンの鐘楼の鐘が、1897裏の18鐘のチャイムが付けられ、毎
日3回鳴らされている。
鐘と市博物館 Glocken und Stadt Museum (1854) 1924建物を市が買収し、1951市博物
館として、町の歴史と文化・鐘の文化史・織りと編みの文化史などを展示。8鐘のカリオン
があり鳴らすことができる。
鐘の館 Glocken Hof 北アポルダのショッピングセンターには、20-30cmの13鐘のカリオンがある。1時間
ごとに40曲を聴かせる。
ルター教会 Luther Kirche 教会に7鐘のカリオンが置かれ、音を試す事ができる。
市庁舎 | 市公会堂 |
城壁 |
1353 城が初言及、集落形成、 1610 ミネラル温泉治療の効用公表、
1710 ザクセン・マイニンゲン侯爵家は夏の離宮を、1800 クアハウスを建て演劇が行われ保養地に、
1913 クアパークは拡大整備され、ホワイエが造られた。
見当たらない。
見当たらない。
伝統温泉保養地で、胃腸機能効果が認められている。城公園と温泉施設が中心。
パレ・ワイマール Palais Weimar (1804-06) マイニゲン侯爵家の夏の離宮であり、婚姻によりザクセン・ヴ
ァイマール公国に移った。1837侯爵未亡人の死後、娘が承継した。1907ベルリンの商人が買い
取ってスパとした。1914に眼科医の博士の所有となった。1945温泉リゾートとなり、Kur
Bibbliothek・音楽堂・ドーム結婚ホール等が在る。
リーベンシュタイン城 Burg Liebenstein (1360) 1567クルムバッハのヘンデルに城は壊された。17cから荒
れて今は廃墟である。ここには、ゴシックの本丸の跡と防御壁の残りがある。1930展望塔
の建立、1944心臓科・整形外科・神経科の温泉病院が置かれた。
クア施設 Klassizistischen Kuranlange (1816) 擬古典主義のクア施設には、クアハウス・回廊・劇場
・温泉病院などが在る。1895フランケン木組様式の郵便局を建てた。1982この郵便局は東ド
イツの切手になった。
ヴァイマール館 | クアハウス |
旧郵便局 |
786 ハースヘルト修道院の文書に初言及、 1016 狩猟と林業の権利が皇帝ハインリッヒ3世から修道院へ寄贈、
1112 ベルカの町は好立地で年4回の市場と経済の発展、 小さな堀のあるしろがブライデンバッタにより建てられた、
12c ベルカの町は独自の要塞と要塞教会で守られた、 1283 方伯税関法と方伯裁判所の議席、
14c ヴィッテン家は帝国の許可を得た町の地位を得た、 1330 ヘンネブルク公に財産を売却、 1354 チューリンゲン
方伯はハースフェルト修道院長と町を共同管理、 15c町はヘッセン方伯が支配、 17c町は高い岸と3門で確保、
17c 30年戦争で全焼し過疎化、 18c 町はザクセン・ワイマール・アイゼナッハ公国へ、 1806-13 仏ナポレオンの支配、
1816 町は全ての地方自治の権利を備えた市場の町となった、 1830 経済は悪化して住民は米国へ移民、
1847 ベルカの町は待望の都市権証と町の紋章を受け取った。
ベルカの町には3市門はあったが、市壁はなく棘イバラの生垣で守った。
下門 UnterTor (17c) 3市門の内北東の下門のみが残された。2階建の建物でアーチ門があり、
歩道門は脇に後から開けられた。
田舎の古い木骨造の建物が残る静かな街。
旧市庁舎 Altes Rathaus (1667) 十字路の南東の角に高基礎木骨造2階建の鐘楼付きの建
物が残っている。
聖ラウレンチウス教会 St.Laurentius Kirche (1403) 要塞化された要塞であり、聖ローレンスに奉献
された。1439に建てられた7月の塔と四隅に砲塔が供えられた八角形のドームと、1616に建てら
れたルネサンスの身廊で構成されている。バロックの説教壇と塗装された木製の樽天井がある。
この要塞化された教会は、19cの道路建設で要塞部分が撤去されている。
古い旅館「ポスト」 Gasutihaus Zur Post (14c) 旧市庁舎の隣に木造2階建の旅館があり、
古くは「Zur Swarzen Adler」として知られていた。
旅館「古い星」 Alter Stern (1500) ゴシックの木骨造の2階建の旅館で30年戦争を生き抜いた。
1521にルターが泊っている。
コウノトリ・ベーカリー () 3階建木骨造の豪華な建物で、元は町の管理と貿易に使われた。
1354-1742はヘッセンの1648からはザクセンと共同で管理していた。その後薬局となった。
市庁舎 | 武器庫 |
933 王ヘンリーの文書に初言及、 1049 フルダ修道院へ土地を寄付、
1112 プファルツ伯は王宮と砦を所有、 1114 皇帝ヘンリー5世は町に都市権を授与、
1150 ハースヘルトノヘンリーアボットは修道院を構成、 1494 亜麻の栽培による衣服の製造、
1525 農民戦争で修道院は破壊、 1613 魔女裁判の始まり、
1634-40 30年戦争と大火災で町は衰退、 1654 手工業:仕立.製粉.織.肉.鍛冶.車、
1757 ジャガイモの栽培始まる、 1756-63 7年戦争で略奪や占領、
1866 オーストリアに勝ったプロイセンの領地に、 、 1945 4月米軍、7月赤軍の占領。
城丘には発掘された壁の残存物があるが、市壁は見当たらない。
見当たらない。
ロマンネスクの大聖堂とルネッサンスの宮殿が北東にあり、17cからの木組みの家がマルクトに
見られる。
宮殿 Schloss (16c) 城丘の上の中世のベネディクト会修道院の遺跡の上にポーポ公爵が住居宮
殿を建てた。30年戦争の損傷とその後100年間衰退を重ねた。空居の後にライプチッヒの
家族が2007に居住宮殿・穀物倉庫・家族棟・倉庫を含めた土地と建物を取得して改修
した。所有者は美術商を営み、定期的に演奏会・展示会などを開催した。地下には
地方農村の伝統活動の博物館、上階にも博物館の領域がある。
ロマネスク・バジリカ Romanisch Basilika (1112) ベニディクト会修道院の教会として奉献され、長方
形の身廊に木製の平らな天井があった。その後古い鐘の塔が付けられた。1640の大火
で、翼廊・コワヤ・中央後陣・2横アプシスが残った。17cには本堂の側壁が修復された。1955
改修工事が行われ、演奏・展示・結婚の会場として使われている。
マリア教会 Marien Kirche (8c) マルクトのマリア教会は8cに今の礼拝堂配置になり、今の外観は16
08-16にロマネスクの塔(1220)を取り込んで建てられた。
市庁舎 | 聖マリア教会 |
1171 砦がありシトー派修道院の設立、 1274 町となりマイセン辺境伯が城を築く、
1485 ザクセン選帝侯領となる、 1524 宗教改革を導入、
1618-1707 ザクセン・アイゼンベルク公国の領地、 1686 魔女狩りの裁判、
1919まで 郡庁であった、 1945 2-4月米軍機・4月米軍・7月赤軍、
1989 東西独統一。
市壁は1650の絵図にはあるが、今は見当たらない。
見当たらない。
市庁舎と城が見所である。
市庁舎 Rathaus (1576) 広場の西南に立つルネッサンスの建物で、16cに再構築され、1702-03には塔
と出窓を改修した。1997の美しい市庁舎賞を授与された。
クリスチャン城 Christians burg (1274) 1680-1707ザクセン・アイセンベルク公国の王都としてバロック3翼の宮殿
が再設計された。今は地区事務所が入っている。城教会の聖トリニタティスは、東側に1680-92に
チューリンゲン最大の規模のバロックで建てた。
聖ペーター教会 St. Peter Kirche (1219) 広場の北に立つ修道院の礼拝堂を1494後期ゴシックの内陣と
し、1585廊と鐘楼が建てられた。
グロイツナッハの家 Creutznacher Haus (1539) マルクトにある美しい木組みの家で、よく修復された複合
建物は、今住居として使われている。
市博物館 Stadt Museum 実業家カール・フリードリッヒ・クレナーが建てた邸宅が1911に市の所有となり、1984
に博物館となった。
市庁舎 | 聖ペーター教会 |
石臼 | 市博物館 |
795 フルダ帝国修道院の所有として初言及、 東フランシア帝国の国境に位置し城が築かれた、
1145 市場の開催権を授与された、 13c ニヘルディッシュン家は絶滅してヘネベルク家が所有、
14c ヘネベルク家はいくつかの伯爵家に分裂、 1350 フルダ修道院へ所有権は移された、
1419-75 カルテンノルトハイム家が支配した、 1525 農民戦争でセラ修道院が略奪された、
1562 ヴィルヘルム・ヘネベルク伯は都市権を授与、 1585 ヘネベルク伯の死後にザクセン公国へ、
1622 30年戦争の略奪・疫病で住民は逃亡、 1660 ヘネベルク郡は分裂してザクセン・ワイマール公国へ、
1719 大火災後に1754新城が建てられ地区を管理、 1780 ヴァイマール公は褐炭の採掘を開始、
1806-13 仏の支配下に腸チフス流行、 1813 ウイーン会議でザクセン州へ、 1858 大都市火災、
1866 プロイセンとバイエルンの戦闘、 1870 米国へ多数移民。
城の東側に古い石積があるが、市壁としての確証がない。
かっては4市門あったが、今は見当たらない。
宮殿門 Schlosstor () 広場から宮殿中庭に入る場所に、時計塔のある2階建の宮殿
門がある。
市庁舎 Rathaus (18c) 中央切妻の2階建の建物があり、南はGasthaus zum
Hirschに繋がっている。
宮殿 Schloss Kalten hord hein (13c) ヘンネベルク家が建て、裁判所として使われ
てきたが、1634に帝国軍に破壊された。ザクセン・アイゼナッハ公は1752-54に管理事務所として建て、
今は、市立図書館・歴史博物館・レストランSchlossCafe収容している。宮殿の複合体は長方形の
Amthausと入り口門両側の2階建の建物で構成されている。中庭には1956天然記念物指定の樹
齢500年のSommerLindeが茂っている。
プロテスタント・キリアン教会 Ev.Kilian Kirche () 丘の上の墓地に木造で造られた教
会は 14cに石造で作り直された。1568に構造変更が行われたが、1634に帝国軍に破壊された。
1719に都市火災で損傷し、1727にバロックで再建されたが、1884に崩壊して作り直された。オルガン
は1890に付けられ1992には改修された。
ニコライ教会 Ev.nikolai kirche (1597) 丘の上のキリアン教会が遠いため後期ゴシックで
で建てられ、1634に三十年戦争で壊され1666に再建が始まり、1683にはオルガンが設置されたが、
1858の火災で焼失し1865-67に再建された。1964には屋根と塔が改修された。
宮殿 | キリアン教会 |
5-6c チューリンゲンの古い村として独立、 16c自治体はシャーヘンシュタイン事務所の一部、
1221 ビューレン修道院の文書で初言及、 1525 農民蜂起の出発点となった、
1563 裁判所設置、1802 世俗化後プロイセンに属す、マインツ選帝侯の領地契約終了、
1807 仏ヴェストファーレン州に属した、1813 ウイーン会議でプロイセン王国ザクセン州となった、
1847 4月米軍無血占領、7月赤軍占領地。
市壁が建設されたとの記述はない。また地図上に市壁・堤・堀などの地名も
残っていない。市壁らしき古い石積が、南東と南西に20mあるが確証がない。
見当たらない。
マルクト広場には、18cの木組の家が立ち並んでいる。
市庁舎 Rathaus (1905) バロック2階建の美しい木組の建物。
教区教会聖マリア Pfarr Kirche St.Marien (1685) イタリア建築家が建てた。
カトリック教会事務所 Kath.Pfarramt (1694-96) フランコニア風木組の建物。
郷土館 Heimartstube () マルクト広場にあり、町の歴史を展示。
礼拝堂 kapelle () マルクト広場にある。
市庁舎 | 聖マリエン教会 |
郷土館 | 南西壁 |
旧市街 |
1000 ヘネベルク侯爵が支配し鉱石の採掘加工、 1318 最初の文書言及、
1425 12人の参事会、 1447町の紋章、 1470 山の裁判所設置、武器・防具生産、
1527 侯爵ヴィルヘルム4世は既存憲章を適用、 1583 ヘネベルクの断絶でザクセン・ヴィッテンへ、
1636 30年戦争で鉄や武器の生産困難、 1553-1699 魔女狩116裁判.74人処刑、
1660 ザクセンの分割でザクセン・ザイツ公国に、 1690 ザクセン・ザイツの鉱山開発・高炉建設、
1713 ヨハン・バッハは聖マリア教会のオルガン選考、1718 ザクセン・ザイツ絶滅でザクセン選帝侯へ、
1753 大火災で町は殆ど焼失、 1815 プロイセンに帰属、
1861 磁器生産開始 1930まで、 1945 終戦、チューリンゲン州に編入。
市壁に関する記述は見当たらない。
見当たらない。
細長い谷間に位置し、かっての鉱業と武器の町は、静かにたたずんでいる。
ショッピングやコングレスセンターの近代的な大きな建物があり、中に日本料理店もある。
市庁舎 Rathaus (1920) マルクト広場の新古典主義前面の時計付の四角い建物。
中央教会聖マリア Hauptkirche St.Marien (1487-91) 市内で最初の教会で、
ドイツのプロテスタント教会のユニークな記念建物である。
聖十字架教会 Kreuz Kirche (1731-39) この建物はドレスデンの宮廷教会の手本
となった。
乗り物博物館 Fahrzeug Museum (1896) 1100m2の空間に180の乗り物の展示が
あり、車両工学の歴史が分かる。
武器博物館 Waffen Museum 7世紀からの武器の歴史が展示され、欧州でも有
名な内容である。
ハーバート・ロス展示場 Herbert Roth Ausstellung 木組みの長い建物に技術的な銃
の展示。
星の喜び Stern Freude 天文台やプロラネタリュウムがあり、星空を楽しめる。
旧市庁舎 | 聖マリア教会 |
歩道 |